譚海 卷之四 上野國世良田住人隼人の事
○上州世良田(せらだ)に生田(しようだ)[やぶちゃん注:底本のルビ。ママ。]隼人と云もの有、代々生田村の住人也。德川家御由緖のものにて、年始の御禮には每年江戶へ出仕登城し侍る事也。其せつ小判一兩獻上する事舊例にて、今にかくのごとし。此隼人元は一村の領主成しかども、微祿して所領はのこらずその村の百姓のものとなり、只浪人の如くその村に住居し、一村主人の如く崇め居る事也。夫ゆゑ每年始には駕籠のもの、供に具する人まで、一村の百姓これをつとめ、尤進獻の小判も村中にて拵ひ、よろづ介抱して出立する事也。享保年中御禮の節、名を披露するを御聞被レ遊、御旗本に生田(いけた)[やぶちゃん注:同前。]隼人と云人有、文字同じ事なれば、臺命(たいめい)にてそのせつより此世良田の隼人は、正田と姓名を改させ給ふとぞ。
[やぶちゃん注:「世良田」現在の群馬県太田市世良田町(せらだちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ここに世良田東照宮があり、この社殿は、元和三(一六一七)年に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、寛永二一(一六四四)年にここへ移築したものである。ウィキの「世良田東照宮」によれば、『この地は新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされ』、嘗ては三大東照宮を名乗っていたことがあったという。クロ氏のブログ「古今東西 御朱印と散策」の「徳川東照宮 (群馬県太田市)」(ここは世良田東照宮から南東直近(一キロ強)同市徳川町にある。ここ)に書かれてある歴史的解説を読まれたいが、そこに『徳川氏始祖得川義季(世良田義季)公から八代目である親氏公は、南北朝の戦いで室町幕府による新田氏残党追捕の幕命により新田之庄を出国せざるをえなくなり』、『得川郷(徳川郷)の生田隼人は、親氏公の出国時に銭一貫文と品物を餞別とし、郷内の百姓とともに中瀬(現 埼玉県深谷市)までお見送りをし』『た』が、『その時に親氏の領地を預けられたことで、以後』、『生田家が徳川郷主とな』り、『親氏はその後、三河国の松平郷(現愛知県豊田市松平町)に流れ着き、松平親氏として、そこを拠点とし』たとあり、この『松平親氏は八幡神社松平東照宮に徳川家康とともに祀られてい』るとある。さらに、天正一九(一五九一)年、『徳川郷主生田家十六代生田義豊は、武州川越(現埼玉県川越市)で徳川家康に拝謁し、「新田徳川系図」の提出と生田姓から正田姓への改めを命じられ』、『同年十一月には、家康公より徳川郷へ三百石の御朱印を寄進、正田家に徳川遠祖の御館跡を子孫末代まで居屋敷として所持してよいと仰せつけら』れたとある。そして寛永二一年(一六四四)年の先の『世良田東照宮勧請にともない、十八代正田義長は邸内に私的な東照宮を建立し』、『これが徳川東照宮の始まりと』されているとする。『この正田邸内に建立された東照宮への参拝は四月十七日と正月のみ庶民に許可され』、『祭祀は正田家が執り行ってい』たとある。さて、「正田」という姓で気づかれるであろう。サイト「物語を物語る」のこちらを見られたいのだが、『正田家が新田一族の末裔であるという説明は、簡素ではあるが、ちょっと気のきいた本にも書かれている』として、「平成皇室辞典」(主婦の友社)を引き、『「正田家 皇后陛下のご実家は新田義重(源義家の孫)の重臣生田隼人重幸を祖とすると伝えられ、江戸時代に正田姓を名のり……」』と説明され、別に生田氏は『新田氏の家臣、新田一門だったといった記述も見られる』とある通り、現在の上皇后美智子さまが、まさにこの正田家の正統な子孫なのである。]
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