多滿寸太禮巻㐧二 芦名式部が妻鬼女と成事
芦名(あしな)式部(しきぶ)が妻(つま)鬼女(きぢよ)と成事
むかし、遠江國に、芦名式部大輔(しきぶのたゆふ)と聞えし人は、家、とみ、榮へ、郡(こほり)、あまた領して、妻は、四とせ以前に、同じ國、池田の邊(へん)より迎へて、寵愛しけるが、或る時、都にのぼり、大番(おほばん)つとめて歸るさに、忍びて契りける女を具して、古鄕(ふるさと)に歸り、本妻に深くかくして、片里(かたさと)なる所をしつらひ置《おき》て、忍びに通ひける。
[やぶちゃん注:「芦名式部大輔」不詳。同名通称で鎌倉末期から南北朝初期の武将で蘆名式部太輔高盛(蘆名遠江守盛員の嫡男)がいるが、彼は文保二(一三一八)年生まれで、建武二(一三三五)年、相州藤沢の片瀬川で父とともに十八歳で討死しており、違う。]
いつとなく、此女、懷姙して、月、みち、既に產むとせし比、此の事を、本妻、聞き傳へて、大きに妬(ねた)みいかり思ひけれども、さすが、夫に向ひ、うらむべきよすがもなく、心にとめて、ねたみ思ひける。
後(のち)は、あからさまに、人も、のゝしり、
「若子(わこ)なんど出來(でき)させ給はゞ、めでたき事、なんめり。」
と、聞つたへければ、いよいよ、いかり、つよく、
『いかなる事をもして、此の『目かけ』を、殺さばや。』
と思ひけれども、家人(けにん)どもゝ、懷姙の後(のち)は、ふかく、彼方(かのかた)をのみ、慕ひければ、折りもあらで、思ひ煩ひけるが、あまりの妬さに、衣(ころも)、ひきかづきて、臥しける。
かくて、
『やみやみと死なむも口惜し。』
と思ひめぐらし、或る夜(よ)、打ちふけて、貌(かほ)にも身にも、「べに」といふものをつけて、白き絹をうちかづきて、髮をみだし、をそろしくつくりなし、ひそかに忍び行《ゆき》、庭の草村に伏しかくれて、人の靜まるをまちて、かの女の寢屋(ねや)に忍びいりて、枕もとに立ちよりて、おどろかし、
「ぢやう」
と、にらまへたりければ、
「わつ。」
と、さけびて、息、たえぬ。
『しすましたり。』
と思ひ、いそぎ、我もとにかへり、しらず貌(かほ)にて、ふしぬ。
[やぶちゃん注:「ぢやう」は「定(ぢやう)」で「真っ向から確かに睨み据えた」ことの様態をさすものかとは思うが、ここはそうした強烈な目つきの特異なオノマトペイアとして、かく表記した。
「息、たえぬ」「気絶した」の意。]
隙(ひま)をうかゞひ、かくする事、たびたび、なれば、女の方(かた)にも守りを付けて、宿居(とのゐ)させければ、忍ぶべき便りもなくて、日數(ひかず)、經(へ)ければ、遂に男子(なんし)をうみ出しけるに、父、大きに悅び、あまたの人を付けて養育しける。
かくて、三七夜(さんしちや)[やぶちゃん注:出産から二十一日目に行う祝いの夜。]も過ぎんとしけるに、宿(との)ゐの者も、あまりに草臥(くたびれ)て打《うち》ふし、つぎつぎの者も、いつとなく、おこたりければ、
「よき隙(ひま)ぞ」
と、例のごとく、出立て、忍び行き、枕によりて、にらまへければ、つぎつぎの女ばらを始めて、二目(ふため)とも見ず、
「わつ。」
と、さけびて、息、たえぬ。
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]
則ち、喉(のんど)の下(した)に喰ひ付き、胸のあたりまで、くひちらして、歸りぬ。
かくて、時うつりて、女(め)の童(わらは)ども、やうやう、人心ちつきてみれば、むなしき形(かたち)は、朱(あけ)の千入(ちしほ)に、そみてあり。
とのゐの者ども、おどろき、あはて、いそぎ、式部に、
「かく。」
と申ければ、
「これはいかなる事やらむ」
と、おどろき、さはぎあへり。
歎きて叶はぬ事なれば、なくなくも葬(ほうむり)てげり。
されども、子息(しそく)は、つゝがなふして、養育す。
かゝる程に、女房は、人しれず本望(ほんまう)を達し、胸の熖(ほのほ)も晴れて、心よく思ひ、口に付きたる血を、洗へども、更に落ちず。貌につけたる紅も、はげず、皮のごとくにとぢ付《つき》、喉(のんど)をくらひける時、口も、さけて、大になり、肌(はだへ)は、血、
「ひし」
と、つきたり。にらみたる眼(まなこ)も、ふたゝび、歸らず。
「いかゞせん。」
と、心も空(そら)になりて、洗へども、猶、赤く、とかくする程に、額(ひたい)に、角(つの)、生ひ出でて、さながら、夜叉のごとくに、なれり。
我が身ながら、せんかたなく、夜の物、打かぶりて、二、三日は、
「心ち、例(れい)ならぬ。」
よしして、居たりけれども、しきりに飢(うへ)て、傍らに伏したる女の童に喰ひ付きたりければ、
「わつ。」
と、叫びて、逃げ出でたるを、
「にがさじ。」
と、追ひめぐりける程に、家内(かない)、大きに噪(さは)ぎて、上下、ふしまろび、にげ、ふためき、
「鬼よ。」
「鬼よ。」
と、さけびて、人、ひとりもなく、逃げ失《うせ》たれば、爲方(せんかた)なく走り出《いで》、高師山(たかし《やま》)のおくへ蒐(かけ)入《いり》けり。
[やぶちゃん注:「高師山」(たかしやま)は現在の豊橋市高師町から静岡県湖西市新居町にかけて広がる丘陵地を指していたという。グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、この北部或いは浜名湖西南の丘陵となるか。同前で後者の静岡県湖西市新居町浜名に高師山の地名(交差点)は残る。但し、ここは現在は平地である。さすれば、この北の丘陵か。]
其後《そののち》よりは、
「此《この》山に、鬼の住《すむ》。」
とて、木こり・杣人(そま《びと》)も、入《いる》事なければ、まして、里人は稀れにも麓に立《たち》よらず。
國の守(かみ)も、大勢を催(もよを)して、山をとり卷き、求むれども、出《いで》あはず。
其の後(のち)、年月、重なりて、式部が兒(こ)、成人(せいじん)して、出家となりて、下の醍醐(だいご)に學文して、顯密有驗(けんみつうげん)の僧と成《なり》て、其名を「智見(ちけん)」と云けるが、[やぶちゃん注:「下の醍醐」ウィキの「醍醐寺」によれば、京伏見の真言宗醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を「上醍醐」と呼び、そこを中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜七(九〇七)年には醍醐天皇の御願により、薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長四(九二六)年には、醍醐天皇の御願により、釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立して発展した、とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
「我れ、壯年の昔より、學業におこたらず、三密瑜伽(《さん》みつゆが)の窓(まど)に入《いり》て、いまだ一日も犯戒(ほんかい)せず。つたへ聞《きく》、繼母(けいぼ)、生きながら鬼と成《なり》て、わが實母・けんぞく、あまた、取《とり》くらいて、深山(しんざん)に入たるよし。急ぎ、尋ね下り、敎化(けうけ)をもし、降伏(ごうふく)せばや。」[やぶちゃん注:「三密瑜伽」修行者の「身・口・意」の「三密」が、仏菩薩の「三密」と相応し、融合することを言う。]
と思ひ立《たち》て、人にもしらせず、只一人、都を出《いで》て、やうやう、遠江に下り、昔の父の旧跡を尋《たづね》、なきあとの墓に詣で、なくなく、𢌞向《えかう》し、かの山の麓、あれたる御堂の有けるに、暫く立ちより給ふに、年比、聞ゆる魔所(ま《しよ》)とて、人の往來(ゆきゝ)もたえだえに、煩惱卽(そく)菩提の窓の前には、善惡迷語の雲きえ、生死(しやうじ)卽(そく)涅盤(ねはん)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]の床《ゆか》のうへには、邪正我執(じやしやうがしう)の風、靜かにて、本《もと》より、一心法界の源をさとりたまへば、吹毛(すいもう)の和風(くわふう)、遙かにあふひで、三世不可得(さんぜふかとく)の妙智を顯はし、身に隱形(をんぎやう)の印を結びて、座禪三昧に入《いり》給ひ、寂莫(じやくまく)として、居《ゐ》給ひけるに、さも、はなやかに出立《いでたち》たる小法師原(こぼうしばら)、數百人(すひやくにん)、玉(たま)の輿(こし)を舁きつらね、堂の緣にかきすへければ、輿の内より、淸らかに、色白く、いとけだかき僧の、素絹(そけん)の衣(ころも)に、大口、きて、打刀《うちがたな》、さし、[やぶちゃん注:「打刀」太刀続いて室町後期から武士の主流となった日本刀の一種。太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく「打つ」という機能を持った斬撃主体の刀剣で、主に白兵戦用に作られた刀剣であり、通常は太刀とは逆に、刃を上に向けて帯刀する。室町中期以降に広まり、以降は「刀」というと打刀を指す場合が多い(当該ウィキに拠った)。]
「小法師原、罷り出でて、遊び候へ。」
といへば、
「はらはら」
と、堂の大場(おほには)に出《いで》て、踊りあそびけるに、主(しう)の僧、御堂に入《いり》て、智見(ちけん)に向ひ、
「やゝ。御房の隱形の印こそ、わるけれ。敎へ奉らん。」
とて、則ち、傳へ、
「それにてこそ、御姿(おんすがた)も、見えね。『小法師原に見せ奉らじ』と思ひてこそ出《いだ》し侍る。今は、とくとく罷《まかり》歸れ。」[やぶちゃん注:最後の指示は恐らく、首尾よく姿を消す「隱形の印」を習得したので、さてこそ「今は、印を解いて、元の姿に帰って姿を見せなさい。」と言ったものであろう。当初は伴って来た小法師連中への退去命令と読んだが、どうもそれではおかしいと感じた。]
と、御堂の内に呼び入れて、酒飯をちらし、をどりあそびけるが、客僧(きやくそう)、智見にさゝやきけるは、
「君が繼母、鬼と成て、此山の峯の北原《きたはら》に、大《おほき》なる洞(ほら)あり。その内に篭りてあり。行《ゆき》て、敎化(けうげ)し給へ。」
とて、夜も東雲(しのゝめ)になれば、各(をのをの)、堂を出《いで》けるが、行衞しらずに成けり。
かくて、夜も、漸々(やうやう)、明けければ、則ち、峯に至りて、敎へのごとく、大なる洞岩(ほらいわ)あり。
人倫のかよひ、なければ、茅萱(ちがや)、生ひ茂り、諸木、枝をつらねて、分け入いるべき便りもなきに、漸々にして彼(か)の所にゆきて見給ふに、洞(ほら)のあたりは、白骨累々として、鹿(しか)・兎を引き割(さ)き、くらひのこせし有樣は、身の毛もよだち、怖ろしとも云斗《いふばかり》なし。
されども、智見は、暫く穩形の印を結び、うかゞひ寄《より》、見給ふに、風一しきり吹き落ちて、ものすさまじきに、例の鬼、鹿をつかみて、弓手(ゆんで)にさげ、髮はおどろをみだし、兩の眼(まなこ)は、日にかゝやき、二つの角は熖につゝみ、洞の口に鹿をねぢふせ、引き裂き、くらふありさまは、淺ましともいふ斗なし。鬼は、人有ともしらずして、悉く、鹿を食(くらひ)て、洞に入ぬ。[やぶちゃん注:「江戸文庫」版では、何故か、最後の一文が前の段落文の最後に続いている。国立国会図書館デジタルコレクション本・国立国会図書館本・早稲田大学図書館「古典総合データベース」本の他に、富山大学「ヘルン文庫」所蔵本も見たが、三本とも総てがここにある。不審。]
智見、此ありさまを見て淚をながし、則ち、妙典(めうてん)の紐(ひぼ[やぶちゃん注:ママ。])をとき、洞に向ひて尊(たふと)く讀み給へば、鬼は、人音(《ひと》おと)を聞て、洞より飛んで出《いで》、摑まむとするに、五體、すくみて、働らかず。
其時、智見、鬼に向ひて呪文を唱へ、御經を以つて頭(かしら)をなで給へば、ふたつの角(つの)、
「はらはら」
と落ちて、忽ちに、形體、もとのごとくに變じければ、則《すなはち》、本心に歸りて、手を合せ、
「吾れ、一念の嫉妬にしづみ、生きながら、鬼と成《なり》て、多くの者の命を斷ちて、ながく鬼畜の身となる所に、御僧(お《ん》そう)の法力にて、ふたゝび、鬼道をまぬかれ申《まうす》事、生々世々(しやうじやうせせ)の報恩を、いかでか報じ盡くさむ。」
と、淚をながし申せば、智見、
「吾は、是《これ》、君(きみ)が繼兒(けいし)也。かゝる御ありさまと承り、『二度《ひたたび》、もとの姿となし奉らばや。』と、年比の願望(ぐわんまう)にて、死《しし》たる母に、ふたゝび、相ひ見る心ちよ。」
とて、墨染の袖をしぼり給へば、繼母も、もろ共に、恥ぢ嘆き給ひて、夜すがら、昔の事ども、語りつゞけて、明ければ、麓に伴ひ、ゆかりを尋ねて、有《あり》つる父の屋形《やかた》の跡に、一宇の伽監(がらん)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]を建立して、繼母、すなはち、發心(ほつしん)して、此寺を守り、智見は、上京し給ひ、官位に進み、時めき給ひ、後には「醍醐僧正(だいごのそうじやう)」とかや申《まうし》て、聖宝(しやうぼう)の法跡(ほつせき)をつぎ給ひしとかや。
[やぶちゃん注:個人的には、この話、好みである。なお、「醍醐」の「僧正」と呼ばれた「智見」なる僧は、ネットで調べる限りでは見当たらない。]