フライング単発 甲子夜話卷之六十 18 金毘羅の靈異邦に及ぶ
[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「龍燈に就て」の注に必要となったため、急遽、ばらばらの三篇を電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も追加し、鍵括弧記号も用いた。
本篇標題は以下の通りであるが、タイトルでは訓読文で示した。]
60-18 金毘羅の靈及二異邦一
去々年か、行智、讚州に往《ゆき》て、金毘羅に詣《まうで》たるに、堂に大なる橫匾《よこがく》に、行書の三大字を揭ぐ。
「降神觀」
前に「乾隆四十三年」云云、後に「仁和弟子劉靈臺敬立」と書せりと。行智、因《より》て里人に聞《きく》に、日《いはく》。「寬政の頃、劉雲臺、長崎に來りしに、洋中にて惡風に遭《あひ》、舶《ふね》、已に傾《かたぶき》覆《ふく》せんとす。時《ときに》、四方、雲、覆ひ、闇夜の如《ごとく》にして、向《むかふ》べき方《かた》を辨ぜず。折ふし、神、有《あり》て、船に現じて曰《いはく》。『洋中、火光《くわくわう》を見る方に向はゞ、免るゝことを得べし。我は日本金毘羅神なり。』と告《つげ》て消《しやう》す。卽《すなはち》火光を尋《たづね》て行き、舶の全きことを得たり。因て、崎に滯留の間、額を造りて、かの祠《し》に奉賽《はうさい》せしとぞ。我神靈、異國に逮《およ》ぶも、亦、奇なり。
又、長崎、立山《たてやま》の後山《うしろやま》にも金昆羅祠あり。この祠にも、唐商《たうしやう》の揚《あげ》たる額、多し。又、年々、渡來の商舶より、銀子等を賽《さい》すること多く、祠、甚《はななだ》、繁昌なり。」とぞ。これ、洋中安穩を祈るためなり。俗、云ふ。「商舶、唐山《たうざん》を發して、その州《くに》の見ゆる迄は『天后聖母』【長崎、これを「ボサ」と謂ふ。】を祈り、日本の地を望む所よりは、『金毘羅』を祈る。」とぞ。さすれば、必ず、靈應ありて、難風を免る、と。因て、願成就の額、其餘《そのよ》にも各種を寄附すること絕《たえ》ずと云《いふ》。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
先年、費晴湖と云《いふ》商も、金毘羅信仰にて、長崎にて金毘羅山の全景を畫《ゑが》きし、となり。晴湖は畫を善くするの名あり。
■やぶちゃんの呟き
「行智」静山の知り合いの修験者の名。
「乾隆四十三年」一七七八年。
「寬政」一七八九年から一八〇一年まで。松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの実に二十年に亙って書き続けられた。作品内にクレジットがあるものは少ない。但し、正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻であるから、二十年を概ね三分した年代でだいたいを推定するのは問題ないであろう。
「劉雲臺」彼の書いた扁額は現在の金比羅宮に現存する。参拝階段の途中にある旭社の楼上に掲げられてあり、「金刀比羅宮 参拝ガイド 御本宮編」のこちらで確認でき、この『「降神觀」の額は、清国の翰林院侍讀探花及第王文治の筆で、同国の劉雲臺の献納』したものであるという記載がある。
「長崎、立山の後山にも金昆羅祠あり」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「唐山」「州」中国本土。
「天后聖母」「長崎、これを「ボサ」と謂ふ。」航海・漁業の守護神として中国沿海部を中心に広い信仰を今も集めている道教の女神媽祖(まそ)の別名。詳しくは当該ウィキを見られたい。「ボサ」というのは、別名の一つである「媽祖菩薩」のそれであろう。
「費晴湖」(生没年不詳)は清の商人で画家。当該ウィキによれば、『江戸時代中期、日本に渡来し』、『南宗画様式の画技を伝え』た。『名は肇陽』(ちょうよう)、『字は得天。晴湖と号し』、『他に耕霞使者と称した。湖州府呉興県の人』。『天明から寛政年間』(一七八一年から一八〇一年)『に船主として来舶した。同じく来舶清人の費漢源の同族とされる。父が長崎に居を構えていたが』、『薩摩沖で遭難して』亡くなり、『その遺骨を引き取ることを長崎奉行所から許され』、寛政七(一七九五)年に『祖国に持ち帰ったという記録がある』。『増山雪斎の名を受けて、長崎に遊歴した画家・春木南湖や十時梅厓が』、『晴湖から画技と書法を伝授されている。背丈は標準で』、『赤黒い顔色、逞しい体格だったと伝えている』。「費氏山水画式」(一七八七年)の『序文には』、明代の文人として知られた董其昌(とうきしょう)と、北宋末の文人で書家として知られる米芾(べいふつ)に『私淑して筆意を得たという。女流俳人・一字庵菊舎に会』い、『その漢詩と七弦琴の才能を喜び、漢詩と序文を贈っている』。また、『晴湖を来舶四大家の一人』『とすることがある』とある。