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2022/04/15

「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「三」・「附言」・「後記」・「龍燈補遺」 /「龍燈に就て」~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇の特別な仕儀については、「一」の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 

 諸國里人談三や倭漢三才圖會四一に、鵁鶄〔ごいさぎ[やぶちゃん注:ママ。]〕夜飛べば火の如く光ると有り、大和本草には蒼鷺〔みどさぎ〕を妖怪とするは夜光るからと云ふ。七、八年前田邊近所岩城山稻荷の神林から、夏の夜粗(ほぼ)定(きま)つた時刻に光り物低く飛下(とびくだ)るを、數夜予も橋上の納凉衆(すずみしゆ)と俱(とも)に見た。狩獵に年を積んだ人が彼(あれ)は蒼鷺が田に餌を求め下るんぢやと言うた。林羅山の說に、夜中に小兒の啼聲の樣なる怪を「うぶめ」と名くるを、ひそかに伺ふと靑鷺だったと或人語つたとある(梅村載筆天卷)。倭漢三才圖會には、九州海濱に多い鷗の樣で夜光る特種の鳥だと有る。伊太利人は鬼火を山のと平野のと二種に分(わか)ち、何れも腹部等が螢の如く光る鳥だと信ず。プリニウスの博物志十卷六七章に、獨逸のヘルキニアの林中にその羽夜火の如く光る鳥住むと云ひ、一八八五年板ベントの希臘諸島住記〔ゼ・シクラデス〕四八頁には、希臘の舟人今もエルモ尊者の火を惡兆を示す鳥が來て檣頭(しやうとう)に止る者と做(みな)すを以て考ふれば、ユリツセスが航海中ハルピースなる怪鳥に惱(なやま)されたと傳ふるも、同じくこの火を鳥と見立てたのだらうと述べて居る。ペンナントが十八世紀に出した動物學には、冬鷗〔ウインター・ガル〕、冬中海を去(さり)て遠く英國内地の濕原に食を覓(もと)む。星彈〔スター・シヨツト〕又は星膠〔スター・ジエリー〕とて膠樣(にかはやう)の光り物は、其實此鳥等が食つて消化不十分な蚯蚓を吐出(はきだ)したのだと有るが(ハズリツト諸信及俚傳二・六三六頁)、其が本當なら樹梢に吐懸けて光らすこともあらう。

[やぶちゃん注:「諸國里人談三」既出。私の「諸國里人談卷之三 焚火(たくひ)」を参照されたい。

「倭漢三才圖會四一」私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を見られたい。

「大和本草には蒼鷺〔みどさぎ〕を妖怪とするは夜光るからと云ふ」不審。何故なら、「大和本草」にはそんな記載はないからである。国立国会図書館デジタルコレクションの原本で示すと、同書のこちらが「鷺」(総論)の項で、こちらには「五位鷺」の項があるが、孰れにもこれに類する記載はなく、「蒼鷺」の独立項もない(図品部も確認した)。私は思うに、これは直前で述べた和漢三才圖會第四十一 水禽類  鵁鶄(ごいさぎ)を熊楠は誤認したのではないかと思う。そこで寺島良安は、

   *

凡そ、五位鷺、夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし。月夜、最も明なり。其の大なる者、岸邊に立ちては、猶ほ、人の停立するがごとく、之れに遇ふ者、驚きて、妖怪と爲す。

   *

と記しているからである。但し、一点、気になることはある。そこで良安は「五位鷺」とし、「蒼鷺」とはなっていないことである。しかも「和漢三才圖會」では独立して「第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を立項しているが、熊楠の言うような記載は全くないのである。なお且つ、それぞれの私の注を見るまでもなく、ゴイサギとアオサギは別種である。無論、同じサギ亜科 Ardeinae で背が青いところは似てはいる。私が気になるのは、熊楠直前で「鵁鶄〔ごいさぎ〕」(正しくは「ごゐさぎ」)と書いて、すぐ、ここでは「蒼鷺」と明記している点である。この錯誤は何に拠ったのか? 気になり出すと、放ってはおけないのが私の性分である。一つ、「これでは?」と思うものを見つけた。人見必大の「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。)の「〈五 水禽〉」にある「五位鷺」の記載である。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で訓読する(同書は訓点附き漢文。読みは大幅に私が補った)。その「集解」である。下線は私が引いた。

   *

五位鷺

釋名[やぶちゃん注:略す。]

集解 狀(かた)ち、蒼鷺(あをさぎ)に似て、小さし。灰白色にして、碧光(へきくわう)、有り。頂きに、紅、有りて、毛、冠(かんむり)のごとし。翠(みどり)の鬣(たてがみ)、碧(あを)の斑(まだら)、丹(に)の觜(はし)、靑き脛(はぎ)、高き樹(き)に巢くひ、樹の杪(こぬれ)に宿(やど)し、水中に飮む。能く魚(うを)・鰕(えび)を捕ふ。其の味、甘鹹(かんしん)と雖も、夏は、味はひ、蒼鷺に似て、稍(やゝ)佳(か)なり。冬は、臊氣(さうき)[やぶちゃん注:腥い臭い。]有りて佳ならず。凡そ、五位、夜、飛ぶときは、則ち、光り有りて、火のごとく、月夜、最も明(あきらか)なり。或いは、大なる者、岸邊に立てば、巨人のごとし。若(も)し、人、識らずして之れに遇へば、驚惧(きやうく)し、「妖怪」と爲(な)して、斃(たふ)る。此れ、妖(えう)と爲(す)るに非(あら)ず、人、驚きて妖と爲るなり。或るひとの謂はく、「若し悞(あやま)りて、夜、小兒の衣服を暴(さら)して[やぶちゃん注:取り入れずに干し続けて。]、五位、其の衣の上に糞(くそ)して、人、之れを知(しら)ずして、小兒に著せしめば、則ち、驚啼して止まず、竟(つひ)に奇病を發す。」と。是れ、未だ其の證を詳らかにせず。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

私が何故、これを挙げるかというと、「蒼鷺」「五位鷺」「光」「妖怪」の四五が完全に総て含まれており、後半は更なる「妖怪」性の具体例が語られているからである。但し、ご覧の通り、これは「五位鷺」であって「蒼鷺」ではない。しかし、アオサギの方がゴイサギより大きく、私は見かけるたびに、「妖怪」どころか、何時も「沈思黙考に耽る哲学者」のように感ぜられて、大好きな鳥なのである。なお、サイト「tenki.jp」の『光る鷺「青鷺火」の真相とは?田園の守り神・鷺のミステリー』の前編がよく書けており、なお、そこにも書かれてある通り、サギ類が発光する理由として発光バクテリアが附着しているからだとする説がまことしやかに語られているのであるが、そのような標本を採取し、示したデータは未だに皆無であり、信ずるに足らない。寧ろ、私は腹部の白さが、僅かな月などの自然光や、遠い街頭・人家の燈火などの人工光を反射させているものと考えている。

「岩城山稻荷」伊作田稲荷(いさいだいなり)神社(グーグル・マップ・データ)。

『「うぶめ」と名くるを、ひそかに伺ふと靑鷺だったと或人語つたとある(梅村載筆天卷)』三種の写本を縦覧したが、発見出来なかった。

「倭漢三才圖會には、九州海濱に多い鷗の樣で夜光る特種の鳥だと有る」「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」を参照。そこで妖怪としての「うぶめ」についての私の複数の電子化物へリンクもさせてある。

「プリニウスの博物志十卷六七章に、獨逸のヘルキニアの林中にその羽夜火の如く光る鳥住むと云ひ」所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く。『われわれはゲルマニアのヘルキニアの森に、夜になると火のように輝く翼をもつ不思議な種類の鳥がいると聞かされている。しかし他の森ではそれが遠いというので評判が悪いこと以上に別に変ったことは起こらない。』。ヘルキニアの森は、現在のドイツ南部からチェコにかけての山岳地帯、特に現在のチューリンゲン・ボヘミア・モラヴィアの辺りを指すと考えられているらしい(ブログ「地球と気象・地震を考える」の『地球環境の主役 植物の世界を理解する22 森の民ゲルマーニー人を「ガリア戦記」より読み解く』に拠った)。この中央附近に当たる(グーグル・マップ・データ)。

「一八八五年板ベントの希臘諸島住記〔ゼ・シクラデス〕四八頁」イギリスの探検家・考古学者で作家でもあったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の“The Cyckades”(「キクラデス諸島」:エーゲ海中部に点在するギリシア領の二百二十以上の島から成る諸島。位置は当該ウィキの地図を参照されたい)。当該箇所は「Internet archive」のこちら

「ユリツセス」ホメロスの「オデュッセイア」の主人公でギリシャ神話の英雄オデュッセウス。彼の英名「Ulysses」(ユリシーズ)の音写。

「ハルピースなる怪鳥」オデュッセウスが海上で誘惑された海の怪物セイレーンは、当初は上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされたが、ロケーションから後世には魚の姿と変化してしまった。熊楠の音写もの元はよく判らぬが、古代ギリシャ語の異名の一つに「パルテノペー」「テレース」辺りを混同したものか。

「ペンナントが十八世紀に出した動物學」ウェールズ出身の博物学者トーマス・ペナント(Thomas Pennant 一七二六 年~一七九八年)動物学を冠した書は複数あるが、以下の記載からは、一七六六年に刊行した最初の“The British Zoology, Class 1, Quadrupeds. 2, Birds.” の「第二部 鳥」か。

「冬鷗〔ウインター・ガル〕」winter gull。チドリ目カモメ科カモメ属セグロカモメ Larus argentatus の後頭部から頸にかけて褐色の小斑が現われる冬羽のそれか。

「星彈〔スター・シヨツト〕」star shot。

「星膠〔スター・ジエリー〕」star jerry。

「蚯蚓」発光するミミズは、北半球の温帯地域(ヨーロッパ・南北アメリカ及び日本)に広く分布する環形動物門貧毛綱ナガミミズ目ムカシフトミミズ科 Microscolex 属ホタルミミズ Microscolex phosphoreus 等(同種については当該ウィキを参照されたい)が知られており、腑に落ちる。

「ハズリツト諸信及俚傳二・六三六頁」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著“Faiths and Folklore”(「信仰と民俗学」)。Internet archive」のここだが、六三七ページにかかっている。]

 

 本篇の首に引いた夏竦(かしよう)上元應制詩に龍燈に對して用いた鶴燄も、或は鶴に似た鳥の羽が火の如く夜光るを指した物か。新井白石が室鳩巢に話せし其頃、常陸の鹿島の社への鳳凰來義と云ふ事、「一夕(いつせき)夜深(ふけ)てサワサワと社も鳴動仕り候て、暫く有之(これあり)何かは不分明に候へども廣庭の中ひしと寶珠の如く成(なる)もの敷(しき)候、光輝申候。稍(やや)有(あり)てのし申(まうす)と見え、又最前の如く鳴動有之。右の珠一所により候樣に見え候て飛去り申候。怪異の義と社人ども駭(おどろ)き候て鳳凰抔(など)と申す義は存(おもひ)も寄(よら)ず、翌日託宣を上(たてまつ)候處、神託に夜前鳳凰來賓嬉しく被思召(おぼしめしなさる)との義候云々」とあって、白石鳩巢共に之を眞實と心得たらしい書振(かきぶり)だ(鳩巢小說下)。是は何か光り物を見た者が、朧げに孔雀が尾を開き又摺〔たゝ〕む事などに思ひ合せて言出(いひだ)した事らしく、託宣を聞いて始めて分かる樣では餘り宛に成らぬが、鳥が夜光る例の序に書いておく。一九〇五年板フレザーの王職古史〔アーリー・ヒストリー・オヴ・キングシプ〕に、インド洋マルヂヴ島において、每年定期にマレちふ所に鬼を乘せた光る船が夜來るに一室女(ひとりのむすめ)を供へた事を述べて、カイウス大學のガージナー氏親しく彼(かの)島に遊び著者に報ぜしは、今も其潟(かた)共の淺瀨に時々光り物を見るに、磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火のごとしとあるを、老友ジキンス是は未だ學者に精査せられざる動物が一疋每に斯(かか)る無類の大きな光を出すのだらうと說いた(一九〇六年板上古・中古の日本文〔プリミチヴ・エンド・メジエヴアル・ジヤパニース・テキスツ〕飜譯之卷、八八頁)。吾邦なども古(いにしへ)諸處に森林有り、煙突鐵砲は愚か竈の煙や弓矢さえ知らぬ樣な人少ない地多かつた世には、今日既に蹟を絕つた生物も多かつた筈で、鵁鶄〔ごいさぎ〕蒼鷺〔みどさぎ〕斑蜘蛛〔ぢよらうぐも〕螢等現存する僅々諸種の外に、夜光る動物も數有つたなるべく、其光を目擊する機會は今より迥(はる)かに多かるたゞらう。此等生物が光を出すは雨夜とか月夜とかそれぞれ得意の時有り、螢は初夏と云ふ風に、季節の定つた者も多かうつたらう。されば其最も盛(さかん)な夜を多年の經驗で心得置いて、當夜を待ち設けて眺めて其靈異を讃歎し、種々の迷說を附會したのが龍燈崇拜の起りだらう。

[やぶちゃん注:「鳩巢小說下」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧第六冊」の画像のここから次のページにかけてで視認出来る。活字がすっきりとしていて読み易い。

「一九〇五年板フレザーの王職古史〔アーリー・ヒストリー・オヴ・キングシプ〕」イギリスの社会人類学者で「金枝篇」で知られるジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一九〇五年刊行した“Lectures on the early history of the kingship”(「王権の初期の歴史に関する講義」)。

「今も其潟(かた)共の淺瀨に時々光り物を見るに、磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火のごとし」これは一読、発光性ゴカイではないかと私は確信した。無論、ウミホタルやヤコウチュウでもよいのだが、この潟が本当に潟ならば、この二種よりもゴカイである可能性が有意に高くなる。例えば、本邦では環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目シリス科Odontosyllis属クロエリシリス Odontosyllis undecimdonta が知られる。グーグル画像検索「Odontosyllis undecimdonta fire wormをリンクさせておく。この発光は、まさに「磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火」と形容するに相応しいではないか!

「一九〇六年板上古・中古の日本文〔プリミチヴ・エンド・メジエヴアル・ジヤパニース・テキスツ〕飜譯之卷、八八頁」“Primitive and Mediaeval Japanese Texts” はイギリスの日本文学研究者・翻訳家でフレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins、一八三八年~一九一五年)の著。「Internet archive」で原本の当該部が読める。面白いところに挿入されている。前のページのある通り、「万葉集」の山上憶良の「日本挽歌一首」(七九四番)だ! しかし、ここから前の記載を「不知火」の光学現象とする訳には、私は、絶対に「ノー!」だね!

 

 似た譚は、巖谷(いはや)君の東洋口碑大全に、本朝怪談雜事から、出雲佐田(さだ)の社に每年十月初卯の日、龍宮から牲(いけにへ)として龍子(たつのこ)一疋上(のぼ)る由引き居るが、懷橘談には、「十月十一日より十七日までを齋(さい)と云ふ、其間に風波烈しく寄來る波に、化度草(けどさう)と云ふ藻に乘れる龍蛇、龍宮より貢ぐ云々」と有る。予彼(かの)邊(あたり)に每々航せし船頭に聞きしは、何の日と定らず、其頃風波烈しく成つて多少の海蛇打上(うちあが)るを、初めて見出したるを吉兆とする例と云うた。故に天然の龍燈乃(すなは)ちエルモ尊者の火、又鳥蟲朽木から起る光も、必しも年中一日を限らず、唯季節が向いて來ると每夜現はるゝを、その月の滿月又は十六夜とか齋日の夜とか、神佛に緣ある夜を人が特定して、その夜尤も見るに都合よきを、其夜しか出ぬ樣に言ひ傳へたに外ならじ。特定の木の上に龍燈が懸かるも、天然を人爲で抂(まぐ)れば成る事で、古(いにしへ)地峽有つて今海と成了(なりをは)つたに渡鳥が依然地峽の蹟の海を後生大事と守つて飛ぶと云ふ話も多く、兎や猪(ゐのしし)鹿や鴨などの路が定まり居るは狩人の熟知する所で、比年(としごろ)予自宅の庭園へ夕に天蛾〔ゆふがおべつたう〕など來て花を吸ふを視るに、その行路から花を尋ぬる順序迄一定せる者の如く、又自宅の近街何れも陰囊の影を火玉と間違へ怖るゝ程淋しい處へ、電線の柱が多く立竝び居る、其頂へ夏の夜每に角鴟〔みゝづく〕が來り鳴くを見聞するに、其行路と順序がちやんと定り有る。先(まづ)は不景氣ゆゑ方法を立替へるなどいふ考(かんがへ)の出ぬ所が畜生で、古く慣習附(づ)いたことを出來得る限り改變せぬ。

[やぶちゃん注:「東洋口碑大全」作家・児童文学者の巖谷小波(いわやさざなみ 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年)が編したもの(大正二(一九一三)博文館刊・上巻のみ出版か)。国立国会図書館デジタルコレクションのここから次のページにかけてで視認出来る。

「本朝怪談雜事」上記の引用元では「本朝怪談祕事」とあるが、恐らくは孰れも誤りで「本朝怪談故事」ではないかと思われる。それなら、厚誉春鶯廓玄の著。江戸中期の刊のようである。

「出雲佐田の社」佐太(さだ)神社が正しい。「東洋口碑大全」自体が誤っているので、熊楠のミスではない。

「龍子」実在する海蛇(うみへび)の爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科(ウミヘビ科とする説もある)セグロウミヘビ属セグロウミヘビ Pelamis platura である。この龍神祭は古くから有名で、私も幾つかの記事で注してきたが、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)』にとどめを刺すであろう。

「懷橘談」藩儒であった黒沢石斎による出雲地誌。但し、熊楠が引用している部分は、「佐太」のパートではなく、「杵築」の出雲大社の解説の中に現われる。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここである(左ページ二行目)。「佐太」神社はこちらになる。

化度草((けどさう))」かく名づける以上は藻体が特徴的でなくてはならないだろう。私は真っ先に気泡体を持つホンダワラであろうと踏んだ。如何にもそれらしいと感じたからである。種や博物誌は「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラの仲間)」の私の注を参照されたいが、さて、「佐太神社」公式サイトを見たところ、ここに、まさにホンダワラが供物や神からの縁起物とされている記載があった。自信を固くした次第である。

天蛾(ゆふがおべつたう)」これは「夕顏別當」で、広義には鱗翅目カイコガ上科スズメガ科 Sphingidaeの仲間を指すが、狭義には、特にスズメガ科スズメガ亜科 AcherontiiniAgrius 属エビガラスズメ Agrius convolvuli を指す。南方熊楠が言う以上、私はここでは同種ととっておく。]

 

 エルモ尊者の火も又電氣の作用と云ふから、適當した駐(とま)り木は粗(ほぼ)定つて居るだらう。されば他へ飛反(とびそ)れぬ樣に此等の光に尤も適した高木を保存して徐々(そろそろ)其傍(かたはら)の高木を伐り去るとか何とか、龍燈を一定の木に懸くる方法は追々案出實行されたゞらう。斯て其後世中も事繁く人煙も濃くなり、天然の龍燈閉口して跡を絕つに及び、種々の祕計もて人爲の電燈を點すと成るとサア旨い物で、雨が降らうが鎗が飛ばうが興業主の決心次第で、何月何日何時何分と期しても確かに龍燈を一つでも五つでも出し得る筈で、尾芝君が想ふ程の人間界の不思議では決してなく、たゞ吾輩如き何樣な妙案でも腹藏なく自ら言散(いひちら)し書散して一文にも成らぬに紙や暇を潰す者共と異なり、昔の坊主などが祕事妙訣ちふ事を首が飛んでも世間へ洩(もら)さなんだから、億萬の生靈が龍燈如き手近い神變で感化せられて、佛敎や天主敎を根限り信仰歸依した一件は、今の人の大いに留意して勇猛に反省すべき所と、此二、三日飮まぬを幸ひ、柄にも無い事を演(の)べて置く。

結論 佛敎は――實は其他多くの宗敎も――光を以て佛德の表識とし、從つて佛菩薩に光を名とせるが多い。佛說大阿彌陀經に、彌陀の十三異號を說く(鄕硏究三卷三號一七〇頁參照)。其號孰れも光の字有り。言(いは)く、此佛の光、勝於日月之明千萬億倍、而爲諸佛光明之王、故號無量壽佛、亦號無量光佛、無邊光佛、無礙光佛、無對光佛、炎王光佛、清淨光佛、歡喜光佛、智慧光佛、不斷光佛、難思光佛、難稱光佛、超日月光佛《日月の明るさに勝ること、千萬億倍にして、諸佛光明の王たり。故に無量壽佛と號(なづ)け、亦、無量光佛、無邊光佛、無礙光(むげくわう)佛、無對光佛、炎王光佛、淸淨光佛、歡喜光佛、智慧光佛、不斷光佛、難思光佛、難稱光佛、超日月光佛とも號く。》。起世因本經には、人間の營火(いとなみのひ)、燈焰(ともしび)、炬火(たいまつ)、火聚(くわしゆ)[やぶちゃん注:激しく燃える猛火。仏教では地獄の業火も指す。]、星宿、月宮(つきのみや)、日宮(ひのみや)、四天王天と次第して、長たらしく諸天光明の甲乙を述べ、世間所有光明よりも如來の光が最も勝妙と有る。扨(さて)最も手近く光明を標示する者は燈火だから、維摩經の佛國品の執寶炬菩薩などよりは、寶燈世界(大寶廣博祕密陀羅尼經)須彌燈佛(阿闍世王決疑經)燃燈佛など、燈を名とした佛士佛菩薩の名が多い。斯(かく)て佛の勢力が光明で顯はれる。其光明に滋養分を加へ奉る考(かんがへ)で佛に燈を獻ずるを大功德としたので、言はゞ竈に薪を添えるやうぢや。

 されば涅槃經には、若於佛法僧、供養一香燈、乃至獻一花、則生不動國云々、此卽淨土常嚴、不爲三災所動也。《若(も)し佛法僧に於いて、一(いつ)の香燈を供養し、乃至(ないし)は一花を獻ずれば、則ち、不動國に生まる云々。此(ここ)は、卽ち、淨土常嚴(じやうごん)にして、三災の動かす所と爲らざるなり。》。東晉譯大方廣華嚴經一五に、諸光明の由來と功德を說いた中に、有勝三昧、名安樂、又放光明、名照耀、映蔽一切諸天光、所有闇障靡不除、普爲衆生作饒益、此光覺悟一切衆、令執燈明供養佛、以燈供養諸佛故得成世中無上燈、然諸油燈及酥燈、亦然種種諸明炬、衆香妙藥上寶燭、以是供佛獲此光[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。なお、「大蔵経データベース」で確認したところ、この引用は一部に省略があるので、それが判るように二十鍵括弧を入れてある。]《『勝(しよう)に三昧有り、安樂と名づく』。『又、光明を放ち、昭曜と名づく。一切の諸天の光を映(つつ)み蔽ひ、所有(あらゆ)る暗障(あんしやう)を除(のぞ)かざるなく、普(あまね)く衆生の爲に饒益(ねうやく)[やぶちゃん注:慈悲の心を持って有情に利益を与えること。]を作(な)す。この光は一切の衆(しゆ)を覺-悟(めざ)めしめ、燈明を執(と)つて佛を供養せしむ。燈を以つて諸佛を供養する故に世上の無上の燈となるを得(う)。諸(もろもろ)の油燈及び酥燈(そとう)[やぶちゃん注:牛乳から製したバターに似た油。密教で護摩の修法で用いる。食用にもなる。]を然(も)やし、また種種諸(もろもろ)の明炬、衆は香妙藥上の寶燭を然やし、是れを以つて佛に供へ、此の光を獲(う)。』》と說かれ、超日月三昧經には[やぶちゃん注:以下の一文は底本では甚だ読み難いので、一部に読点や記号を挿入した。]、日天、前生、施を好み、行を愼み、戒を奉じ、佛寺に燃燈し、月天、前生、貧に施し、戒を持し、三尊に事(つか)へ、君・父・師等に燈を設けたから、今生(こんじやう)、日天・月天と成るつたと有り。悲華經には轉輪王頂戴一燈、肩有二燈、左右手中執持四燈、其二膝上、各置一燈、兩足以亦各一燈、竟夜供養如來《轉輪王は頂きに一燈を戴(いただ)き、肩に二燈有り、左右の手中、四燈を執り持ち、其の二つの膝は上、各(おのおの)一燈を置き、兩足の上に亦各一燈を以つてし、夜の竟(をは)るまで、如來を供養す。》とは、寄席の落語家が頭と口と兩手足に扇一つ宛(づつ)持つて、「チツ、一本めーには」と松盡しを碁盤の上で舞ふより以上の珍藝だ。

 月燈三昧經こそ大法螺吹きなれ。云く、聲德(しやうとく)如來涅槃に入りしを德音王供養すとて、八十四千萬億の塔を起こし、一々塔前に百千萬那由他(なゆた)[やぶちゃん注:一那由他は一千億。]の燈明を燃す。安穩德比丘負嫌ひで自ら臂(ひぢ)を斷つて燈を燃して獻ぜしに、今まで烱然(くゑいぜん)たる[やぶちゃん注:光り輝くさま。]紅燄四方に遍照せし王の無量百千の燈一時に光を奪はれ、王を始め後宮眷屬妃后采女、總て八萬の別嬪急いで彼(かの)比丘に見(まみ)えんとて、千肘(せんちう)の高殿より飛下(とびおり)るを、天龍夜叉乾闥婆(けんだつば)等の鬼神護持して落ちざらしめた。島田の宿の朝顏盲女の川留の場の如しと有る。扨兎角女ならでは夜が曉(あ)けぬから、彼(かの)比丘を貧女と作り換へて、阿闍世王決疑經や今昔物語十五の貧女の一燈の譚を作つたのだ(芳賀博士の攷證本には、本邦の類話を擧居(あげを)るが、決疑經等を引いて居無い)。例の法華經の藥王菩薩本事品は菩薩が燈供養の爲に身を燒いた話で、臂ばかり燒いた所の騷ぎに非ず。これに傚(なろ)うて頭燈臂燈(ひとう)等の外に全身を燒失(やきうしな)ふ者も有つたのだ。今昔物語に天智帝が志賀寺の燈を揭げた指を切(きつ)て、燈と共に佛に供へ玉ふと有るも、指を燃す御心で行ひ玉ひし事と知らる。

[やぶちゃん注:「島田の宿の朝顏盲女の川留の場」浄瑠璃「生写朝顔話」(しょううつしあさがおばなし)(通称「朝顔日記」)。講釈師司馬芝叟(しばしそう)の「蕣」(あさがお)を原拠とした浄瑠璃。現行のものは天保三(一八三二)年大坂稲荷文楽芝居で初演。秋月家の娘深雪(みゆき)が、恋人宮城阿曾次郎(あそじろう)を慕って家出し、盲目の門付芸人朝顔となり、恋人の残した歌を唄いながら流浪する哀話。「大井の渡し」で知られる島田の宿で恋人と逢いながら、朝顔が盲目ゆえにそれと判らず、後で知り、半狂乱で彼を追う「島田宿戎屋の段」から「大井川の段」が知られる。

「今昔物語十五の貧女の一燈の譚」これが、一向、判らぬ。「今昔物語集」の「巻第十五 本朝仏法」では、第四十八話から最後の五十四話の七話にのみ女性・童子の往生譚が纏められてあるのだが(それ以外は著名な僧尼のそれである)、そこに「一燈の譚」はないからである。ある種、最も似ていると思われるのは、私も好きな「伊勢國飯高郡老嫗往生語第五十一」(伊勢の國の飯高郡(いひたかのこほり)の老いたる嫗(おうな)往生する語(こと)第五十一)である。「やたがらすナビ」のここで新字であるが原文が読める。しかし、そこで老婆で持つのは「一葉の蓮花」であり、また、彼女は使用人もいるので「貧女」とは言えない。さて?……因みに、芳賀矢一の「攷證本」というのは「攷証今昔物語集」で、国立国会図書館デジタルコレクションの冨山房では私の示した話はここ

「今昔物語に天智帝が志賀寺の燈を揭げた指を切て、燈と共に佛に供へ玉ふと有る」巻第十一「天智天皇建志賀寺語第二十九」(天智天皇志賀寺を建てたる語第二十九)。同前でここ。]

 

 蓋(けだ)し人間のみが燈を佛に奉るを大功德としたので無く、鬼人や龍王も亦爭うて此功德を修めたので、例せば法顯傳(ほふけんでん)に、舍衞域の外道が天神を祀る寺で燈を供ふると、明旦(みやうたん)燈が近處(きんじよ)の佛寺に移る。是れ佛僧の所爲(しはざ)ならんと疑うて夜自ら伺ふと、自分が祀る所の天神其燈を持ち、佛寺を三匝(みめぐり)して佛に供へて消失(きえう)せた。因つて成程佛は天神より勝〔えら〕いと知つて出家入道したと有る。龍が燈を佛に供養した例を只今出し得ぬが、其は例乏しくて引き能はざるに非ず、餘り多いから藏經通覽の際書留めなんだのだ。扨(さて)手近い梵語字彙を二三種見るも、龍燈ちふ意の語を見出でぬが、三國の吳の領内來住の天竺僧康僧會が譯した六度集經五に、槃達〔はんだ〕龍王世を厭ひ陸地に登り、於私黎樹下、隱形變爲蛇身、槃屈而臥、夜則有燈火之明、在彼樹上、數十枚矣、日日雨若干種華、色耀香美、非世所覩、國人有能厭龍者、名陂圖、入山求龍、欲以行乞、覩牧牛兒、問其有無、兒曰、吾見一蛇、蟠屈而臥於斯樹下、夜樹上有數十燈。火光明耀曄、華下若雪、色耀香美、其爲難喩、吾以身附之、亦無賊害之心《私黎樹(ぼだいじゆ)下に於いて、形を隱し、變じて、蛇身となり、蟠屈して臥す。夜は、則ち、燈火の明(めい)有り。彼(か)の樹上[やぶちゃん注:「大蔵経データベース」では「下」であるが、ここは敢えて熊楠の記す「上」で示した。]に在りて、數十枚(すじふばい)たり。日日、若干の種の華を雨(あめふ)らす。色、耀き、香、美にして、世の覩(み)る所に非ず。國人、能(よ)く、龍を厭(まじな)ふ者有り、「陂圖(はと)」と名づく。山に入りて龍を求め、以つて行乞(ぎやうこつ)をせんと欲す。牧牛の兒を覩て、其の有無を問ふに、兒曰はく、「吾、一蛇の蟠屈して、斯(こ)の樹下に臥すを見る。夜、樹上に數十の燈あり。火。明る耀(ひか)り曄(かかや)き、華の下(ふ)ること、雪のごとし。色、耀き、香美なること、其れ、喩へ難しと爲(な)す。吾、身を以つて之れに附(ちかづ)くに、亦、賊害の心無し。」と。》。其(それ)からその龍使ひの見世物師に捉へられて齒を拔かれ、所々へ伴(つれ)行きて舞はさるゝを龍王の母が來て救うたと有る。是れ取りも直さず龍燈で、印度に古く龍の上に燈火が樹に懸るてふ迷信有りしを知るに足る。

[やぶちゃん注:「法顯傳」現行では「ほっけんでん」と読まれる、五世紀初頭に約十七年に亙ってインド求法の大旅行を行った中国僧法顯の記録。中央アジアと南海沿岸を含む紀行ともなっている。「大蔵経データベース」では、熊楠が引いたのはこの前後部分である。

「舎衞城」は古代インドのコーサラ国にあった首都。現在のウッタル・プラデーシュ州北東部のラプティ川の近くに相当する。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

 又大集大雲請雨經に、電光大電光炎光炎肩火光など、光字のついた龍王の名多し。乃(すなは)ち古印度も支那と同じく龍は種々の光を發すると信じたので、支那に佛敎入らぬ時已に龍が光を點すとしたは、楚辭の燭龍何照《燭龍何ぞ照らせる》の語を、王逸注して曰く、大荒西北有山而不合、因名之曰不周山、故有神龍、銜燭而破照之《大荒の西北、山有りて合(がつ)せず、因りて之れを不周山と名づく。故に神龍有りて、燭を銜(くは)へて之れを照らす」(淵鑑類函四三八)。康煕字典に楚辭天問を引いて、日出不到、燭龍何ぞ耀《日出でて到らず、燭龍、何ぞ耀(かがや)ける》。日出(いで)ぬ内に龍が燭を銜(くは)へて光らせ行くと云ふのだから、燭龍乃ち龍燈だ。斯く古來燭龍の話や前述龍火の迷信が有つた支那へ、印度から佛敎と共に龍燈の譚が傳はつたので、諸州の道觀佛精舍や大小名嶽に天然の龍燈多く見出され、追々人造の物も出來た處へ、日本から渡海の僧など、其事を聞き其現象を睹(み)て歸る船中海上の龍燈卽ちエルモ尊者の火に遭ふも少なからず、歸朝して尋ね廻ると自國も隨分龍燈に乏しからず。因つて弘敎(ぐきやう)の方便として種々の傳說を附會して、俗衆をアツと言はせ續くる内、海埋(うづ)まり林伐(き)られて自然の龍燈少なく成り行く。是では成らぬと、困却は發明の母とはよく言つた物で、種々計策して人造の龍燈を出しても、因襲の久しき習慣天性を成して誰も其人造たるに氣付かず、偶(たまた)ま玄奘が菩提寺の舍利光に於ける如く、臭い事と氣が付いても、勝軍居士が玄奘を諭した通り、誰も彼も睹(み)て信ずる上は一人彼是いふは野暮の骨頂といふ論法で差控えた事と見える。

 さてダーウヰンは蘚蟲〔ブリオゾア〕と海龜と鳥が甚だ相異なる動物で何の近緣無きに、三者の喙〔くちばし〕の結構が頗る酷似し居るを指摘し、予も或菌族と男女根の組織と、機械力が全く同一轍なる事を二十五年來硏究して、隨分有益な考案を持つて居るが、斯る外目(よそめ)に詰(つま)らぬことも學術上非常に大切だと云ふ事だけを一昨年不二新聞へ揭げて大枚百圓の科料に處せられ、前に火の玉幻出法の發明に間に合ふた陰囊を大きに縮めた事で有る。先づ千年や二千年で迚も變更の成らぬ動植物の構造や組織にすら、相似た範圍に應じて永久の内には斯く能く似合うた物も出來る。されば風俗作法など變化萬態なる人間界の現象が、因(いん)異(こと)にして偶ま同一又極似の果を生出(せいしゆつ)する有るも、固より怪しむに足らず。例せば、吾邦婦女が齒を染めたのは東南亞細亞の土人が檳榔(びんらう)を咬むに起因したということを森三溪氏など唱へ、故坪井博士も同意の氣味らしかった。然るに二十年程前予大英博物館で色々調ぶると、印度の梵志(ぼんじ)種や柬埔寨(カンボジア)土人の女子が、月經初(はじめ)て到る時、非常に齒に注意する。又中央亞細亞のブハラ人歐州の大露西亞人など、一向檳榔を吃せぬに其妻は齒を涅〔くろ〕くした。其等から攷〔かんが〕へて、廣い世界には南米の或部分の土人の如く、齒の健康を氣遣ふばかりで齒を染めるも有り、馬島〔マダガスカル〕の或種族の如く裝飾をのみ心懸けて齒を染める者、亞細亞東南諸島民の如く檳榔を咀〔か〕むから自然に染まる者、日本や印度ヂーウ邊の婦女の如き成女期や既婚や葬喪を標示する齋忌〔タブー〕の上から涅齒〔はぐろめ〕した者と、同じ涅齒にも種々格別の目的有りて此風が生じたと曉(さと)り、英國科學奬勵會〔ブリチシユ・アツソシエーシヨン〕で論文を讀んだ事が有つた。

[やぶちゃん注:「蘚蟲〔ブリオゾア〕」小さな群体を形成し、サンゴに似た炭酸カルシウムなどの外壁からなる群体を作る動物である外肛動物門 Bryozoaの一般に「コケムシ」(苔蟲)のこと。下位タクソンで狭喉綱 Stenolaemata・裸喉綱 Gymnolaemata・掩喉綱 Phylactolaemataに分けられている。小学館「日本大百科全書」によれば、世界で約四千種が知られている。古い動物で、化石は古生代の末期から出現している。嘗ては、擬軟体動物や触手動物の門に属したこともあるが、現在では外肛動物という独立した門を構成する。海産の種が淡水産よりも多く、潮間帯から深海にまで分布する。微小な個虫が多数集まって樹枝状・鶏冠状・円盤状などの群体を作る。群体は石灰質又はキチン質を含むため、硬く、岩石や他の動植物に付着する。それぞれの個虫は虫室の中に棲み、袋状を成し、口の周りには触手冠がある。消化管はU字状で、肛門は触手冠の外側に開く。血管と排出器がなく、雌雄同体で無性生殖により群体を拡大するとある。当該ウィキには、『裸喉綱では、群体を構成する個虫に多形がみられる例が多い。触手を持ち、えさをとる普通の個虫を常個虫という。これに対して、特殊な形になったものを異形個虫と呼んで』おり、その内の「鳥頭体」(avicularia)と呼称するものがあり、これは『個室の入り口がくちばし状になって突出したもの』で、『外敵の防衛や群体の清掃』を担うとある。探すのに少し苦労したが、英文サイトのこちらのブラジル産のコケムシ当該部分の顕微鏡写真四葉を見ると、それ「嘴」と比喩することが、激しく腑に落ちる。

「檳榔(びんらう)」南方熊楠 小兒と魔除 (5)」の私の当該注を参照されたい。

「森三溪」(元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)は明治三一(一八九八)年民友社刊の「江戸と東京」を書いた人物ではないかと推察する。但し、以上の説はどこから引用したかは不詳。因みに、「江戸と東京」の鉄漿(おはぐろ)の記載はここ

「坪井博士」日本初の人類学者坪井正五郎(文久三(一八六三)年~大正二(一九一三)年)。日本に於ける考古学や人類学の普及と確立に尽力した。]

 

 其から類推すると、尾芝君は盆の燈籠も柱松も龍燈も同一系統、乃(すなは)ち同じ目的を以て一つの起原から生出した樣に云はるゝが、其は形骸を察して神髓を遺(わす)れた見(けん)で無らうか。磁石に鐵を拾ふと北を指すと二つの別の力有る如く――究竟の原因は一に歸すと云はゞ、人が生まるゝも焦死(こげし)ぬも太陽の爲す所と云ふ如くで、其迄ながら――火には熱と光との二つの異なる力有り、吾邦の柱松や歐州の辟牛疫火〔ニード・フアイヤー〕など、主として其火の熱を以て凶災を避け吉利を迎ふるの慾願に創(はじ)まりたるに、盆燈籠や人作の龍燈は、原(も)と其火の光を假りて神佛の勢威を助成し死人の冥福を修する信切(しんせつ)から起つた者で、言はゞ齊(ひと)しく火で有りながら、火鉢の火と行燈の火ほど意味と所用に差別(けじめ)有りと愚存す。加之(しかのみならず)柱松は其式何の祕する事無く初めから仕組を公開するに、龍燈は自然人造共に其事曖昧で、凡衆に解し得ぬ所を妙としたのも大(おほい)に相異なり。(大正四年六月二十三日起稿、多用中に時々書き綴り、三十日夜半終切(をはりきる)。唯一度閱して便ち發送。故に意を盡さぬ所や跡先き揃はぬ言無きを保せず。讀者其大體を了せらるれば幸甚。)

[やぶちゃん注:「辟牛疫火〔ニード・フアイヤー〕」「Need-fire」或いは「Wild-fire」。スコットランドの古い民間伝承に基づく儀式で、羊飼いたちが、羊の群れの病気を防ぐために火を用いたものを指す。英文のウィキの「Need-fireに拠ったが、そこに牛のことが書かれてあるが、熊楠の漢訳の「辟牛」は、羊とともに飼っている牛も疫病を避けられるということか。よく判らない。「浄火」などと訳されるようである。

 以下、底本では一行空けだが、二行空けた。]

 

 

附 言

 此稿を終る少し前に、湯屋に往(いつ)て和歌山生れの六十ばかりの人に逢うて、七月九日夜紀三井寺に上る龍燈の事を問ふに、八、九歲の時父に負はれて一度往き見た事有り。夜半に喚(よび)起こされて眠たきを忍び待つて居ると、山上に忽然燈(ひ)點(とも)るを見たばかり覺え居ると言うた。其邊に人が忍び居(をつ)て、何かの方法で高い所へ燈を點じ素速く隱れ去つたのらしい。貞享四年の自序ある懷硯(ふところすずり)三の二に、紀三井寺の龍燈を見に夜更くるまで人群集する由を述べて、「昔より所の人の言傳へしは、この光を見ること人の中にも稀なり。隨分の後生願(ごしやうねが)ひ、人事(ひとごと)を言はず、腹立てず、生佛樣と言(いは)るゝ程の者が、仕合せよければちらと拜み奉ると聞きし所に云々」と有つて、十人の内七八人は磯に釣する火を龍燈と心得て拜し、其他は觀音堂に通夜して、夢に龍燈布引の松に上るを見たとあり。布引の松は紀三井寺から大分離れた所で、それを後年山内の千手谷へ龍燈の場所換へをしたらしい。

[やぶちゃん注:「貞享四年」一六八七年。

「懷硯三の二」同書は井原西鶴著の諸国奇談異聞集の体裁を採った浮世草子で外題は「一宿道人 懷硯」で、当該篇の標題は「龍灯は夢のひかり」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF全巻一括PDF版)の51コマ目から原本が視認出来る。

「人事」人の悪口。

「其他は觀音堂に通夜して、夢に龍燈布引の松に上るを見たとあり」とあるが、同篇では、実は、その瑞夢を見るのは、当の無欲な主人公の一宿道人自身である。そこがこの話の面白みともなっているのである。

 以下、底本では一行空け。二行空けた。]

 

 

後 記

 前文記し畢(をは)つて四日後、人類學雜誌昨年十二月號原田淑人君の「新疆發掘壁畫に見えたる燈樹の風俗に就て」を讀み、甚だ益を得た。氏が臚列(ろれつ)[やぶちゃん注:「羅列」に同じ。] せる諸材料に據つて考ふれば、史記樂書、漢家祀太一、以昏時祠到明《漢家、太一を祀る。昏(く)るる時を以つて祠(まつ)り、明くるに至る。》等、古く神を祀るに燈を獻ずる事有りし一方には、印度燃燈供佛の風を傳へ、唐人上元の夜華燈寶炬燈樹火山を設け、宋に至つて上中下元咸張燈し、吾邦之に倣うて又中元燈籠を點ずるに及んだので、先づ盆燈籠は華燈、柱松は寶炬、火山は熊野濱の宮等中元に墓場で野火を盛んにするに相肖(あひに)た物、燈樹は原田君が引いた圖や說に據ると、先づ七夕に俗間竹の枝葉間に多く小挑燈(こちやうちん)を點ずるやうな奴の至つて大層なものだらう。是等何れも設備者其人巧に出(いづ)るを隱さず、寧ろ自慢で作つたので、觀る者も初(はじめ)から其心で見たるに反し、人造電燈は始終設備者之を神異に托し、觀る者亦靈物として之を恭敬禮拜したのである。(七月五日)

 此篇書き畢つて後、七月七日の大阪每日新聞獨石馬(どくせきば)の淸末の祕史を見ると、長髮賊魁洪秀全と楊秀淸を月水に汚れた布の冠で呪うた趙碧孃は、事顯はれて楊の爲に天燈の極刑に處すべく命ぜられた。天燈とは罪人に油を泌ませた單衣を著せ、高き梁上に倒懸(さかさがけ)して下より徐(おもむろ)に肉體を油煎(あぶらいり)にする五右衞門以上の酷刑だが、碧孃は刑前自殺したとある。(七月七日)

     (大正四年十一月鄕硏三卷九號)

 龍燈と云ふもの、始めの程は知らず、後年目擊せられたのはほんの一寸の間の現象で、至極曖昧な物だった(鄕硏三卷九號五三二-三頁參照)。高名なる丹後切戶の龍燈天燈なども亦さうであつたと見えて、寬永十年に成つた犬子集(ゑのこしふ)十七にも、貞德(?)の「有りとは見えて亦無かりけり」、「橋立や龍(たつ)の燈あぐる夜に」と云ふ句がある、此序(ついで)に云ふ。同書十四又貞德の「びやうびやうとせし與謝の海づら」。「龍燈のかげに驚く犬の聲」と云ふ句がある。其頃は犬の鳴聲を邦人がびやうびやうと聞いたので、狂言記にも犬の聲を皆かく記してある。偶ま英語のバウワウ佛語のブーブー(孰れも犬吠(いぬぼえ)の名)に似て居るのが面白い。(四月十一日)

    (大正五年十二月鄕硏究四卷九號)

[やぶちゃん注:『人類學雜誌昨年十二月號原田淑人君の「新疆發掘壁畫に見えたる燈樹の風俗に就て」j-stage」のこちらで原本画像で読める

「熊野濱の宮」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)の境内に浜の宮王子社跡(グーグル・マップ・データ)として残る。

「獨石馬」久木独石馬(ひさきどくせきば 明治一八(一八八五)年~昭和一三(一九三八)年)は評論家。茨城県出身。本名は東海男(とみお)。『常總新聞』の記者などを経て、明治四三(一九一〇)年、大阪毎日新聞社に入った。この後の大正七(一九一八)年に退社し、東京に移って著述に専念した。『雄辯』などに寄稿するとともに、幕末の水戸藩史を研究。野口雨情と親しかった。「淸末の祕史」は不詳。

 以下、底本では一行空け。二行空けた。

「洪秀全」(一八一四年~一八六四年)は清末の「太平天国の乱」を起こした最高指導者。自らを「エホバの子」であると称し、「上帝会」を組織。一八五一年、挙兵して自ら「天王」と称し、国名を「太平天国」とぶち上げた。南京を攻略して都としたが、内紛を起こして清軍に敗れ、南京陥落直前に病死した。

「楊秀淸」(一八二〇年頃~一八五六年)は「太平天国」の最高指導者の一人。一八四八年の弾圧によって、初期の信徒集団に動揺が起こった際、上帝エホバが乗り移った(「天父下風」と称した)として、その意志を伝えて危機を克服、以後、しばしばこの「天父下風」を利用して軍事的指導権を握り、天王洪秀全に次ぐ「東王」に任ぜられ、「太平天国」運動の発展を推進した。南京建都後、その専横に対する天王らの反感が強まり、一族及び部下約二万名とともに殺害された。

「月水」生理の血であろう。

「趙碧孃」不詳。識者の御教授を乞う。

「寬永十年」一六三三年。

「犬子集」俳諧集。全十七巻五冊。松江重頼編。「守武千句」「犬筑波集」以後の発句・付句の秀作集。

「貞德(?)」原本を確認出来ないので、「?」は外せない。

「英語のバウワウ佛語のブーブー(孰れも犬吠(いぬぼえ)の名)」英語では「bow-wow」、フランス語では「ouah-ouah 」(音写は「ウワウワ」が正しい)。因みに、イタリア語では「bau-bau」(バウバウ) 、スペイン語では「jau-jau」(ジャウジャウ)、ドイツ語では「haff-haff」(ハフハフ)とこちらにあった。

 以上の最後の段落は「選集」では『【追記】』と冒頭して、本篇の一番最後に配されてある。なお、以下は底本では一行空けであるが、二行空けた。]

 

 

 椋梨(むくなし)一雪の新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、一心の念佛者となり人多く導いた。自ら死期を知り、三日前から日來(ひごろ)賴んだ寺に往つて、本堂彌陀の前に端坐合掌唱名して眠る如く往生した。信者輩に七日間死骸を拜ませると、「虛空に花ふり夜は龍燈上りて堂内に入りしを拜みし人多かりし」と載す。死んで間も無く龍燈まで上つたのは予に取つて未聞なれば一寸記して補遺とする。(十二月三日)

 松屋筆記卷七十八に佐渡奇談より引いた、寬永の頃鈴木源吾なる浪人が根本寺(こんぽんじ)祖師堂側(そば)の櫻の古木より夏の夜龍燈來ると聞き行きて射たる處、忽ち消え翌日見れば鷺(さぎ)なり、寺僧、電燈の奇瑞を妨げられしを含み、寺内で殺生せし罪を訴へると、龍燈を射たり鷺を射ずと辯じて事解けた由は、尾芝君も短く引かれた。然るに十月十六日のノーツ、エンド、キーリスに、英國のイー、イー、コープ氏が書かれたは、彼方(あちら)でも鷺が夜光ると云ふに付(つい)て、同氏曾て一九〇六年十二月のカナリア及小鳥飼養雜誌に載せ、又バーチングのレクリエイション、オヴ、ア、ナチユラリストてふ書にも出であるとの事だ。(十二月四日)

 又前號四五八乃至九頁に載せた天狗の炬火は不定時に出たものらしいが、龍燈同樣に定日の夜出た天狗火もある。紀伊續風土記卷八十一に、今の東牟婁郡三輪崎村の丑の方十七町、往還の下海邊平らかなる岩の上に、輿(こし)の如く窪みたる所が三つ有るを、三所洗岩と謂ふ。此岩に每月七日二十八日頃天狗來つて身を淸むると言傳へて、天狗の火時に見ゆと云ふてある。(十二月四日)

     (大正五年一月鄕硏究三卷十號)

[やぶちゃん注:「新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、……」「新著聞集」は寛延二(一七四九)年刊の説話集。各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めたもの。当該ウィキによれば、全八冊十八篇三百七十七話。書名は鎌倉時代の説話集「古今著聞集」に倣ったもの。先行する同一作者によると目される説話集「古今犬著聞集」や「続著聞集」との『関連が深い』。『著者名は記されておらず』、『不詳』『とされていたが、森銑三の指摘により紀州藩士の学者』『神谷養勇軒が藩主の命令によって著したことが定説となっている。しかし』、「新著聞集」の内容は俳諧師椋梨一雪による説話集「続著聞集」を再編集したもので、正確には、『神谷養勇軒は編者であると考えられる』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF巻十三と十四の合本・初版の後刷)の20コマ目から視認して電子化しておく。句読点・記号を打った。読みは一部に留めた。なお、本文の「大若黨者」はママ。「選集」もママであるが、以下に見る通り、「大惡黨者」が正しい。

   *

   竜灯(りうとふ)室(しつ)に入り彩花(さいくわ)空に充(みつ)

上總の福津(ふつつ)に、じやじや庄右衞門とて、大惡黨者(あくたうもの)有(あり)しが、いかなる過去の因緣やありけん、一不乱の念仏者(ねんぶつしや)となり、人多くすゝめて、勤(つと)めさせけり。少し違例(いれい)のこゝちなりしが、兼(かね)て、死(し)を、しり、一族朋友の方、悉く、いとまごひに步(あり)き、死の三日まへより、日來(ひごろ)たのみし大樹寺(だいしゆじ)[やぶちゃん注:「し」清音はママ。]にゆきて、本堂の彌陀のまへに端座合掌し、念佛、間(ひま)なく申、眠(ねふる)がごとくに、息たへ侍りしを、年來の信者、「殊に往生のやうす、たゞならず。」とて、七日が間、死骸を拜(をがま)せけるに、虛空(こくう)に五色(ごしき)の花(はな)、ふり、夜(よ)は、龍灯、あがりて、堂内に入りしを拜(をがみ)し人、多かりし。

   *

この「福津」は現在の千葉県富津市(グーグル・マップ・データ)。「大樹寺」は不詳。

「松屋筆記七十八に佐渡奇談より引いた、寬永の頃鈴木源吾なる浪人が……」「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここから。「(十三)龍燈」の末尾(次のページになる)に配された頭書の中に出る。「根本寺」は現存する。日蓮宗で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。

「バーチングのレクリエイション、オヴ、ア、ナチユラリスト」不詳。

「紀伊續風土記卷八十一に、……」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここだが、その標題は「御手洗岩」だ。「今の東牟婁郡三輪崎村」現在の和歌山県新宮市三輪崎附近(グーグル・マップ・データ)。「丑の方十七町」は北北東一キロ八百五十四メートル。「三所洗岩」は読みも位置も不詳だが、現行、「洗岩」(あらいいわ)というのは、干潮時の水面直下に現れる(「洗われる」というのがより正しいか)岩礁を言い、国土地理院図でその辺りを探すと、ここに如何にも怪しげな複雑した岩礁性入り江があり、これをグーグル・マップ・データ航空写真で見ると、いや、これじゃないかい? と言いたくなるもので、しかもその西北直近には「御手洗の念仏碑」というのがあるのである(江戸時代に建てられた碑で熊野古道の休息場所らしい)。実は「三所洗」で「みたらひ」と読ませるのではなかろうか?

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