「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(5) / 卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四 / 二~了
[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は五年前に、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で、全文を電子化し、簡単な語注を本文内に挟んである(今回、その部分のみを、再度校訂し、正字不全や、語注を追加しておいた)にので、まず、それを読まれたい。また、その宵曲の当該作自体が、恐らくは本論に対して有益な情報をも与えてくれる内容でもあろうからして、全文を読まれんことを強くお勧めする。参考底本ではここから。なお、本パートはやや長いので、「選集」の段落分けに従って四段落とし、以下に全部を示した。各段落の後に注を附し、その後は一行空けた。]
〇通二四國邊地一僧行二不ㇾ知所一、被二打成一ㇾ馬語《四國の邊地を通りし僧、知らぬ所に行きて、馬に打ち成さるる語(こと)》(卷卅一、第十四、本誌一卷五〇頁參照)人を馬にする談は諸國に多く、一八八七年板「クラウストン」の俗話小說之移化卷一の四一三至四六〇頁に夥しく亞細亞歐羅巴の諸傳を列ね居るが、亞非利加にも其例有るは、一八五三年板「パーキンス」の亞比西尼亞住記卷二、章三三に其證いづ。亞比西尼亞では、「ブーダ」と呼で、鍛工が自分をも他人をも獸に化する力有りとす、著者が遇た人々親しく、片足は人、片足は驢蹄の婦人を觀たと云ふ。此婦死して埋めた墓邊へ一人來たり、僧を語ひ其屍を購ひ、掘出し持去た、將來死人の家の門を過て市へ往く鍛工が、此頃から驢に乘て往く事と成たが、其驢が此家を過り、又家の子供を見ると高聲を發し近づき來らんとする、子なる一人何と無く、此は自分の母だらうと思付き、人をも驢をも執へると、驢、淚を流し、子に鼻を擦付る。色々鞫問すると鍛工終に白狀したは、此婦を魔法で死人同樣にし、扨[やぶちゃん注:「さて」。]埋後購ひ去て驢に化したと、其なら本へ復したら罪を赦すと約して、魔法で漸々本へ復し、片足丈驢蹄だつた時、鬱憤爆發して其子が鍛工を槍き殺したので、その母一生一足驢蹄で終つたと云ふ。
[やぶちゃん注:「本誌一卷五〇頁」初出誌である『鄕土硏究』の論文収載部の指示。「選集」に編者による『前出赤峯論文』という割注があるが、ここを指す。
『一八八七年板「クラウストン」の俗話小說之移化卷一の四一三至四六〇頁』「選集」には書名に『ポピユラル・テイルス・エンド・フイクシヨンズ』というルビが振られてある。これはイギリスの民俗学者ウィリアム・アレキサンダー・クラウストン(William Alexander Clouston 一八四三年~一八九六年)の“Popular Tales and Fictions” (「人気の高い譚と通俗小説」)。「Internet archive」のここから原本当該部が視認出来る(パート標題は“MAGICAL TRANSFORMATIONS”(「魔術的変容」)。
『一八五三年板「パーキンス」の亞比西尼亞住記』「選集」には同前で『ライフ・イン・アビシニア』というルビが振られてある。「アビシニア」はエチオピアの別名。これはイギリスの上流階級の出身で旅行家であったマンスフィールド・ハリー・イシャム・パーキンス(Mansfield Harry Isham Parkyns 一八二三年~一八九四年)が書いた最も知られたエチオピア紀行(一八四三年から一八四六年まで滞在)“Life in Abyssinia”の初版。「Internet archive」のこちらからが当該部。ど真ん中に「ブーダ」(Bouda)と出る。
「鍛工」「かぢや」。
「驢蹄」「ろてい」。驢馬(ロバ)の蹄(ひづめ)。
「購ひ」「あがなひ」。「選集」は『購(か)い』と訓じている。
「將來」ここは「選集」に従い、「これまで」と訓じておく。
「過り」「よぎり」。
「驢」「ろば」。
「人をも驢をも執」(とら)「へる」「人」は乗っていた鍛冶屋。
「鞫問」「きくもん」と読む。厳しく問い糺すこと。「詰問」に同じ。
「終に」「つひに」。
「埋後」「まいご」と読んでおくが、あまり聴かないな。
「漸々」「やうやう」
「槍き」「つき」。]
嬉遊笑覽十二に、「四國を巡りて猿と成ると云ふ諺は、風來が放屁論に、今童謠に、一つ長屋の佐次兵衞殿、四國を廻りて猿と成るんの、二人の伴衆は歸れども、お猿の身なれば置て來たんのと云り、其頃云初しには有可らず。諺は本より有しにや。扨此諺は誤ならむ、四國猿と云事より移りしか、舊本今昔物語に、通二四國邊地一僧行二不ㇾ知所一、被二打成一ㇾ馬語有り、奇異雜談に、丹波奧郡に人を馬に成て[やぶちゃん注:「なして」。]賣し事、又越中にて人馬に成たるに、尊勝陀羅尼の奇特にて助かりし事抔見ゆ、皆昔物語よりいひ出し事なり。されば此諺久しき事と知らる。後人、これを猿といひかへたりと思はる。又按るに搜神記に、蜀中西南高山之上、有物與猴相類。長七尺、能作人行、善走。名猴、猳。一名馬化、或曰玃、伺道人、有後者、輙盜取以去云々。取ㇾ女去而共爲室家、其無子者終身不得還、十年之後形皆類之《蜀中の西南、高山の上に、物、有り、「猴」と相ひ類(るゐ)す。長(た)け七尺、能く、人の行(おこなひ)を作(つくりな)し、善く、走る。「猳(か)」と名づけ、一つ、「馬化(ばくわ)」とも名づく。或いは「玃猨(かくえん)」とも曰ふ云々。女を取り去つて、共に室家を爲(な)す。其の子無きは、終身、還るを得ず、十年の後、形、皆、之れに類す。》と有り、是抔より出たる事か知るべからず。猴に類すと云へば、猴の形に似つかはしく、又馬化ともいふ名をひがめて[やぶちゃん注:底本(左ページ六行目)は「曲めては」。変更理由は次の注を参照。]は、馬ともいふべくや」と有る。
[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。岩波文庫版(筆者自筆本底本)で全巻を所持するが、漢字が新字なので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊(上下二冊の「下」)の当該部を比較視認して校訂し、さらに、「捜神記」は上記二册の孰れもが複数個所で不審があるため(私は高校生の時以来、同書を偏愛している愛読者である)、「中國哲學書電子化計劃」の影印本(ここの最終行から次のページにかけて)で一部(異名の漢字が二冊とも受け入れ難いおかしなもであった)表記を正した。熊楠の引用も表記が熊楠の好みで書き換えられている箇所が多いため、結果して、南方熊楠の引用表現の一部を改めることとなったが、これは正規の正当な表現に限りなく近づけるための仕儀であり、批判される筋合いは全くないと信ずるものである。なお、ここで喜多村が引いている、「奇異雜談集」(これが正しい書名。「きいぞうだんしゅう」(現代仮名遣)と読む)のそれ、「丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事」は、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で電子化してある。
「風來が放屁論」これは風来山人(かの平賀源内の号の一つ)の書いた戯文。江戸両国橋で人気のあった昔語花咲男という曲屁芸人を論評するという形をとって、当時の閉塞した身分制社会を批判したもの。安永三(一七七四)年刊。
「猴」「玃」などは、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」を参照されたい。]
諸國の人を馬や驢と作た[やぶちゃん注:「なした」。]話に就て、此方法を按ずるに、或は魔力有る藥料を身に塗付たり、(アプレユス金驢篇、西曆二世紀作、卷三)、或は魔力有る飮食を與へたり、(奇異雜談上、一八章、コラン、ド、プランシー妖怪事彙一八四五年板二八頁クラウストン上出)或は手綱や轡を加へるのだ(クラウストン同上、グベルナチス動物譚原一八七二年板卷一、三四二頁)。就れも[やぶちゃん注:「孰れも」の誤字か。]斯くして畜と成れた後で、鞭笞苦困[やぶちゃん注:「べんちくこん」。鞭打たれて苦役されること。]さるるが、此今昔物語の一條のみ、笞を以て打ち据て、引起こすと馬に成て居と[やぶちゃん注:「をると」。]有るは、此物語の特色と見える。但し高木君は幻異志の板橋三娘子の譚が此語の本源たる事疑ひ無しと言れたが、それに果たして笞で打て驢と作すと有りや、予も幻異志を見た事が有るが、十九年前の事故、一向記憶せぬ、如し[やぶちゃん注:「もし」。]笞で打て驢と作すと有らば、此話の本源たる事疑ひ無きも、其事無くば、單に類話と云ふべきのみ。高木君は本文を出さぬ故詳を知る能はざるも、其叙する所を見ると、件の幻異志中の譚は、「クラウストン」一卷九七頁に引た羅馬の俗話と同源の物に非ざるか。
[やぶちゃん注:「アプレユス金驢篇、西曆二世紀作、卷三」「選集」では書名に『デ・アシノ・アウレオ』と振る。北アフリカ・マダウロス出身の帝政ローマの弁論作家ルキウス・アプレイウス(Lucius Apuleius 一二三年頃~?:奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博した)の代表作である「変容、又は『黄金の驢馬(ロバ)』」(Metamorphoses sive Asinus Aureus)は、彼のウィキによれば、『魔術に興味を抱いた主人公ルキウスが誤ってロバに変えられ、数多の不思議な試練に堪えた後、イシスの密儀によって再び人間に復帰するという一種の教養小説』で、ローマ時代の小説のうち、完全に現存する唯一のものである、とある。
「奇異雜談上、一八章」これはその類別から、明らかに先の「喜遊笑覧」のそれを差しているとしか私には思えない。但し、「奇異雑談集」は、上下巻はなく、第一巻の第一話から数えると第三巻のそれは十六話目ではある。
「コラン、ド、プランシー妖怪事彙一八四五年板、二八頁」「選集」には書名に『ジクシヨネール・アンフエルナル』というルビが振られてある。フランスの文筆家コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)が一八一八年に刊行した“The Dictionnaire infernal” (「地獄の辞典」)。
「グベルナチス動物譚原一八七二年板、一卷三四二頁」同前で『ゾーロジカル・ミソロジー』とルビされている。本書電子化で複数回既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)が書いた“Zoological Mythology”(「動物に関する神話学」)。「Internet archive」の第一巻同年版原本の当該部はここ。
「高木君」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、本篇の初出する『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。ここで言う論文の収載書誌は不詳(『鄕土硏究』であろうとは思われる)。私も読みたい。
「幻異志の板橋三娘子の譚」「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」を参照。
「如し笞で打て驢と作すと有らば、此話の本源たる事疑ひ無きも、其事無くば、單に類話と云ふべきのみ」私はてっきりこれが典拠と思っていたが、言われてみると、確かにそんなシーンはないので、類話かなぁ。
『「クラウストン」一卷九七頁に引た羅馬の俗話』先の“Popular Tales and Fictions”の第一巻であるが、「Internet archive」の一八八七年板(先に熊楠が挙げたものと同年)で調べたところ、この長いローマの物語は、熊楠の指示したページよりももっと前の、この「93」ページから「98」ページまでがそれであることが判明した。
なお、以下の梗概は、例の熊楠特有の送り仮名の簡略や、変わった読み連発される。それを注形式で挿入すると、五月蠅くなるばかりで、読みのリズムが崩れてしまう。そこで特異的に「選集」を参考にしつつ、私の判断で独自の読みを( )で添えることとした。「私は読める」と言う御仁は、どうぞ、ご自由に。原本当該部で。]
言(いは)く貧人の二子(にし)、林中で大鳥が卵を落したるを拾ふと字を書付有る、庄屋に見せると、「吾頭を食ふ者帝たらん、吾心臟を食ふ者金(かね)常に乏しからじ」と有る。庄屋自身頭も心臟も食(くは)んと思ひ、二人に、是は此鳥を食ふと旨いと書て居(を)る、だから强(したたか)な棒を準備して、彼鳥を俟(まち)受けて殺せと命ず、斯(かく)て翌日二人其鳥を殺し、庄屋を待受(まちうけ)て食はんと炙(あぶ)る内、鳥の頭が火の中へ落(おち)た、焦(こげ)た物を庄屋に呈(おく)るべきで無いと思ひ、弟が拾ふて食ふて了(しま)ふ、次に心臟が火の中へ落て焦たから、兄が食て了ふ、所へ庄屋が來て、大に失望して怒り散(ちら)して去る、父に話すと斯(かか)る上は他國へ出(いで)よと云ふので、二人宛(あて)もなく旅立つ、其から每夜旅舍で睡(ねむ)ると、兄の枕の下に金が出て來る、弟其金を持(もつ)て兄より前に都に入ると、丁度國王が死んで嗣王(つぎのわう)を擁立する所だつたが、金(かね)の光で此弟が忽ち王と立てられた、斯(かく)とも知らず、兄も都に入(はいつ)て、母と娘二人暮しの家に宿ると、例の如く枕の下から金が每夜出る、娘此男を賺(すか)して事實を知り、吐劑(とざい)を酒に入れて飮せて、彼鳥の心臟を吐出さしめ、男を追出す、詮方無くて川畔(かはばた)に歎き居(を)ると、仙女三人現れ愍(あはれ)んで、手を探る每に金を出す袂有る衣を吳(くれ)る、男愚かにも其金で餽(おく)り物を求め、復た彼家へ往く。娘諜(てふ)して[やぶちゃん注:さりげなく探りを入れて。]其出處を知り、僞衣(にせごろも)を作り、男が睡つた間に掏(す)り替へる、明旦起出て其奸(かん)を知れども及ばず、復た河畔に往くと、仙女來て、案(つくえ)を打(うて)ば何でも出る棒を吳る、復た娘の宅へ往き竊まれる、例により例の川邊で、何でも望の叶ふ指環を貰ふ、是が最終だから、取れぬ樣注意せよと言れたが、懲(こり)ずに娘の宅に往き問落(とひおと)される、娘言く、そんなら吾等二人向ふの山へ飛往(とびゆ)き、鱈腹(たらふく)珍味を飮食(のみいくひ)せうと望んで見なさいな、依(よつ)て男其通り、環に向(むかひ)て望むと忽ち望み叶ふ、此時娘、酒に麻藥(しびれぐすり)を入(いれ)て男を昏睡せしめ、指環を盜み、自宅へ還らうと望むと、忽ち還り去る。男眼覺(めざめ)て大に弱り、三日泣き續けて夥しく腹空(すけ)る故、無鐵砲に手近く生た草を食ふと、即座に驢身(ろばのみ)に化し、兩傍に二籃(かご)懸れり、心丈(だけ)は確かで、其草を採(とり)て籃に容れ、麓迄下りて其處(そこ)な草を拔くと、忽ち人身に復(かへ)つた、因(よつ)て其草をも籃に入れ、姿を替(かへ)て彼(かの)娘の宅前に往き、莱を買はぬかと呼ぶ、娘菜は大好(だいすき)で、其草を執(とつ)て嘗みると、便ち驢形(ろばのかたち)に變ず、男之を打ち追(おつ)て街を通る、其打樣(そのうちやう)が餘り酷い故、町人之を捕へ王に訴出(うつたへで)る、男其王を見ると骨肉の弟だから、乞(こひ)て人を退(しりぞ)け事由(ことのよし)を談(かた)る。其處で王命じて驢化(ろばくわ)した女に兄と俱に宅に歸て、從來盜んだ物を悉く返さしめ其後靈草を食せよと本(もと)の人身に復した。(此項つゞく)
(大正二年鄕硏第一卷九號)
[やぶちゃん注:「無鐵砲に手近く生た草を食ふと、即座に驢身(ろばのみ)に化し、兩傍に二籃(かご)懸れり、心丈(だけ)は確かで、其草を採(とり)て籃に容れ」個人的には、自分の背の両側に懸け渡されてしまった二つ籠に、ロバになった彼が、どうやってその籠を外し、草を入れることが出来たのか、そのシーンが私には頭に描けないのだが? まあ、お伽話だから、目をつぶることと致そうか。
「其處で王命じて驢化(ろばか)した女に兄と俱に宅に歸て、從來盜んだ物を悉く返さしめ其後靈草を食せよと」老婆心乍ら、最後の部分は、
*
「其處(そこ)で王」(兄弟の弟の方)]は、「驢」(ろば)と「化」(か)した、その性悪「女」に対して、再び再会できた実の「兄と」「俱に」その驢馬女の前に毅然として立ちはだかって、まず、
――「宅(いへ)」「に歸つて、從來」(今まで)「盜んだ」沢山の「物を」、「悉く」持ち主に「返」すように――
と厳命した上で、加えて、
――「其後(そののち)」に、この「靈草を食せよ」――
と「命じ」た。
*
という謂いである。私が最初に読んだ時、たった一ヶ所にしか読点のないこの文にちょっと躓いたので、一言言い添えた。]
« 「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(4) / 卷第五 王宮燒不歎比丘語第十五 | トップページ | 「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 三 / 「卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」の「出典考」の続き »