曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その4)
[やぶちゃん注:底本のここから。以下の引用の内容を示す「その3」の馬琴の附言の末尾を以下に引用しておく。
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附て云、心牛子の記されし、吉原起立の條々は、「吉原由緖書」の趣を抄錄せし也。又大橋の内柳町の遊女屋は、原三郞右衞門と云ものゝ、取立しといふこと、「吉原由緖書」にも見へたり。
「御高札の事」、「鎭守の札の事」、「惣人別」、「藝者人別」、「『水吐尾』なる火之見やぐらの興廢」、「秋葉の常夜燈」、「吉原數度の火災の年月日時」等は、後の考にもなるべければ、珍とすべきものになん。よりて錄する事、左の如し。
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以下を書いた山口心牛なる人物は既に出た馬琴の年上の友人で「吉原図屛風」を所持していた書家中村仏庵の知人で、最後に「新吉原角町名主」であった「山口庄兵衞」なるものであることが記されてある。]
△山口心牛筆記の内
『大橋之内柳町と申侯者、道三河岸之通之由。是は原三郞右衞門と申者、天正年中に取立、柳町と申候由。其頃、庄司甚右衞門と申者』云々【原三郞右衞門が事は、「吉原由緖書」にあり。「由緖書」のまゝを書れし也。」】『御高札は、奧御祐筆御認之由、御高札は御番所にて、惣代之者並に名主へ御渡し、笠木並に建串は、御作事方より、五十軒道御高札場へ御持參、大工並に人足も御同道にて、笠木・建串・□繼等、補理[やぶちゃん注:「ほりし」。補い修理すること。設け整える。建て増す。]、御建替相濟、以前之御高札は、御作事方被ㇾ成二御持參一候事、鎭守之儀は、元吉原町之古例にて、神田明神より、年々、守札、神主より差越候事。
惣人別は、年々增減有ㇾ之、凡、惣人數八千人程、右之内、遊女・禿とも三千六百人程、其外、遊女や・茶屋・商人屋等、月々にも增減有ㇾ之に付、巨細に記不ㇾ申候。
名主は、江戶町壹丁目竹島仁左衞門、同町貳丁目西村佐兵衞、角町京町貳丁目兩町山口庄兵衞、京町壹丁目駒宮六左衞門、揚や町之儀は、年番名主、順番に支配致候故、名主無ㇾ之。
醫師は、揚屋町に金山運庵、角町金山永示、其外、町每に醫師有ㇾ之候へども、久住之者無ㇾ之に付、記不ㇾ申候。
大門預り會所守四郞兵衞儀は、從前々之通構にて、番人之支配を爲ㇾ致置候。
秋葉常燈、「水吐尻」へ安置之儀は、寬政十二申年二月廿二日、下谷龍泉寺より出火、吉原町、類燒後、初て安置致候事、同所に十四年已前類燒後、補理不ㇾ申候事。
[やぶちゃん注:「秋葉常燈」「秋葉燈」は「秋葉常夜燈」の略。吉原にあった常明灯で、吉原仲の町の突き当たりの「水吐尻」(次注参照)に火除けの神として知られる秋葉山権現を祀る小社があり、その社前にあった高い銅製の灯籠を指す。
「水吐尻」は「すいどじり・すいだうじり」。元は「水道尻」で、「水戶尻」とも書いた。江戸の元吉原及び新吉原遊郭内にあった郭内の上水道の終点周辺の場所の名。]
男女藝者引請人、角町家持庄六儀は、安永八亥年中、五町之惣町人へ及二對談一一己に引受候事。
男藝者 貳拾人程
凡
女藝者 百六拾人程
時々、增減有ㇾ之候得共、當時人數、右之通。
大門、高さ棟迄、貳丈[やぶちゃん注:六メートル六センチ。]、冠木より地幅迄、八尺八寸[やぶちゃん注:二メートル六十六センチ。]、門之明、壹丈貳尺[やぶちゃん注:三メートル六十四センチ弱。]、門柱、壹尺六寸[やぶちゃん注:約四十八センチ半。]に壹尺貳寸に御座候。
右は先日被二仰下一以に付、取調差上申候。色々取込罷在、心外延引御用捨可ㇾ披ㇾ下候。
文政八酉年二月廿日 心 牛
佛 庵 樣
尙々、御座見御無用奉二願上一候、以上。
[やぶちゃん注:以下、標題前までは底本では全体が二字下げ。馬琴の補足。]
右、山口心牛、應二仲村佛庵之囑一て所ㇾ識也。此記文之中、新吉原御高札御文言、並、元吉原起立之略文等、與二「吉原由緖」所一ㇾ載同。因略二省之一畢。
△新吉原火災之事
明曆二申年十月九日、當所へ替地被二仰付一候處、翌三酉正月十八日、本鄕本妙寺より出火にて、御府内、大槪類燒、吉原町も不ㇾ殘類燒に付、所替之儀、追て可ㇾ被二仰付一、當時、小屋懸を致し、渡世可レ致旨、町奉行所にて被二仰渡一候處、同年六月、被二召出一、代地へ引移候樣被二仰渡一、節其、近邊、今戶村・山谷村・新鳥越邊へ、假に引移、新吉原町惣普請に取懸り、同八月中、當所へ引移り渡世致し候由。其後、吉原町も出火有ㇾ之候得共、二、三軒、或は、五、六軒之類燒にて、一圓之燒失は無ㇾ之候。然處、明和五子年四月五日、江戶町貳丁目四つ目屋喜三郞申遊女屋より出火、五町、不ㇾ殘類燒。
明和以前、吉原町出火之事、下に錄す。倂考べし。
明和八卯年四月廿二日、揚屋町河岸角梅屋と申遊女屋より出火、五町、不ㇾ殘類燒。
明和九辰年二月廿九日、目黑行人坂より出火、五町、不ㇾ殘類燒致候。
天明元丑年九月晦日、伏見町淸七店[やぶちゃん注:「だな」。]宗田屋と申茶屋より出火、江戶町貳丁目計[やぶちゃん注:「ばかり」。]、類燒。[やぶちゃん注:最後のものは改行がないが、改行した。
以下、「いひしことあり。」まで、底本では全体が一字下げ。]
按ずるに、これを「小夜ぎぬ火事」と云。伏見町河岸家田屋のあそび、「さよぎぬ」といふものゝ、つけ火せしよし、その頃、忽に、ことあらはれて、火刑に行れし也。「その怨靈のわざ頃[やぶちゃん注:不審。「歟」か。]、この後、しばしば、吉原町、失火す。」とて、世の風聞あり。文化の中ごろにや。「德本行者の念佛の功力によりて、『さよぎぬ』は成佛せし。」など、世俗のいひしことあり。
[やぶちゃん注:「德本行者」(とくほん 宝暦八(一七五八)年?~文政元(一八一八)年?)は浄土宗の僧。当該ウィキによれば、文化一一(一八一四)年、『江戸増上寺典海の要請により』、『江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた』とある。]
天明四辰年四月十六日、京町壹丁目分水吐尻明家[やぶちゃん注:「あきや」。空家。]より出火、五町、不ㇾ殘類燒。
[やぶちゃん注:以下の段落も同前。]
按ずるに、この年のかり宅は、淺草並木町、兩國尾上町邊、中洲等也ければ、ことの外、繁昌しけり。「凡、假宅の盛なりしこと、これに增ことなし。」といへり。
天明七未年十一月九日、角町分仲の町彥五郞店菊屋五郞兵衞より出火、五町、不ㇾ殘類燒。
寬政六寅年四月二日、江戶町貳丁目丁字屋長兵衞・津の國屋重藏居宅地、境より、出火、五町、不ㇾ殘類燒。
寬政十二申年二月廿三日、下谷龍泉寺町より出火、五町、不ㇾ殘類燒。
文化九申年十一月廿一日、淺草田圃非人頭善七小屋内より、出火、五町、不ㇾ殘類燒。
文化十三子年五月九日、京町壹丁目藤八店明店より出火、五町、不ㇾ殘類燒。
文政七中年四月三日、京町貳丁目助右衞門店遊女屋金兵衞より出火、五町、不ㇾ殘類燒。
右之通に御座候。但し、大門、燒殘、柱、取寄置申候。記事御認に御座候はゞ、兩面にて字數何程と申事、兩面御認之寸法等、御二仰下一候樣奉二願上一候。
正月廿日 心 牛
佛庵樣
文政七甲申年四月三日、京町失火後、
吉原大門左之方燒殘柱圖【圖、省略。】
「此燒殘大門柱、みがきて、如ㇾ此、兩面、窪め、此度、吉原町起立より、廓内、數度、燒等まで、惣記を作り刻候て、小梅精舍前庭へ建候積り。後々、此記文、吉原内へも、建碑可ㇾ致。」との心牛子、相談なり。
但し、心牛とあるは、新吉原角町名主山口庄兵衞也。
五月十三日 南 無 佛
[やぶちゃん注:大門を大事にしたのは、先に見た通り、この特別な限定遊廓施設としての新吉原の、特別な幕府の定めた結界門たる大門の建造費用を幕府が負担したものだからと考えてよい。]
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