多滿寸太禮巻㐧二 四花の爭論 / 多滿寸太禮巻㐧二~了
[やぶちゃん注:詩歌本文にはベタで入っているが、改行して独立させ、和歌は上・下句を分離し、漢詩は句で改行した。漢詩の一部は白文を示した後に、( )で訓点に従った訓読を示し、一部に字空けを施した。但し、一部は読み下しと訓点が混入しているため、そこは臨機応変の処置をとった。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版のそれをトリミングした。]
四花(しくわ)の爭論
住古(そのかみ)、出雲の國に、一人の聖(ひじり)あり。名を連藏といへり。常に深山幽谷を栖(すみか)とし、法華を讀誦し、ながく人倫を離れ、二十余年のとし月を送り給ひける。あやしき柴の庵(いほり)をむすび、嵐にむせぶ軒の松風、夢を破り、深洞(しんとう)に月をうけて、夜すがら、讀經(どくきやう)おこたらず。衣(ころも)、つきては、木葉(このは)を重ね、苦修練行(くしゆれんぎやう)に身をやつし給ひしが、壯年のころより、四季の草花を愛し、庵の四面、岩のはざまに、色々の花をやしなひ、すべて、春より、冬の雪間(ゆきま)にも、花なき事をいとひて、明暮、これをもてたのしみ給ひけるに、いつのほどよりか、四人の從者(ずさ)、日にかはり夜に代り、水を汲み、薪(たきゞ)をこり、菓物そのほか、無數(むしゆ)の供物を捧げて、隨從給仕しける。
その一人は、白髮の翁(おきな)、常に靑き衣を着たり。
一人は、容貌、いつくしくみえし童(わらは)の、かみをみだして有《あり》。
又一人は、よはひ、さかむに[やぶちゃん注:「かさむに」の錯字か。]、美麗の女性(によしやう)、髮をからわにゆひあげ、常に紫の衣をきたり。
今一人は、紅衣(こうゑ)を身にまとひたる小法師にてぞ有ける。
かれら、明暮、一人、二人づゝ、日がわりに、かしづきて、御經(おんきやう)、聽聞(ちやうもん)しけり。かくする事、年、久し。
聖も、誰(たれ)ととがむる事なく、或る時、四人(よつたり)ひとつに出來(いでき)て聽聞しけるが、女性(によしやう)、すゝみ出《いで》て云ひけるは、
「各(をのをの)、としごろ、師につかへて私(わたくし)、なし。此の御經の功力(くりき)にひかれて、佛果菩提に至らむ事、誠に有り難からずや。我等、たまたま生(しやう)をうくるといへども、一朝の間(あひだ)に、如幻(によげん)[やぶちゃん注:「無常」に同じ。]のかたちを、なす。然りといへども、我れ、百花の長(ちやう)とし、人の心を、なぐさむ。いかに、かく、禮をみだして、吾を、かく下座に、をくや。されば、歐陽永叔(おうやうえいしゆく)も、牡丹を「花の王」とす、とこそ見へたり。又、家隆卿(かりうきやう)の歌にも、
紫の露さへ野邊のふかみ草
たが住(すみ)捨(すて)し庭のまがきぞ
和漢の才人、詩歌によせ、わが名を尊(たつと)ぶ。いかでか、凡草(ぼんさう)の及ぶ事、あらむ。」
[やぶちゃん注:「歐陽永叔」唐宋八大家の一人、北宋の政治家にして詩人・学者として知られる欧陽修(おうようしゅう 一〇〇七年~一〇七二年)。永叔は字(あざな)。彼は「洛陽牡丹記」という文で、「洛陽地脈花最宜、牡丹猶爲天下奇」(洛陽の地脈は花に最も宜しく、牡丹は猶ほ天下の奇とす。)と呼び、中国に於ける「花の王」牡丹の美しさを讃え、これを以って牡丹は中華のまさに第一の花とする習慣が定着した。
「家隆卿」音読みは有職読みで尊敬を示す。鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆の「壬二集」(みにしゅう)の「建保四年百首」(一二一六年)の「夏」に載るもの。]
中にも、小法師の云ふやうは、
「仰せはさる事に候へども、千草萬木(せんさうばんぼく)、何れを尊とし、何れを卑しとせん。 仰(そもそも)、荷葉(かよう)は花の君子として、周茂蓮符(しうもれんふ)の樂(がく)となる。それのみならず、諸佛諸菩薩も、蓮花に坐せしめ、一切の經王(きやうわう)にも、妙法蓮華を以つて題號(だいがう)とす。されば、
點溪(てんけい)に 荷葉は 疊む靑錢(せいせん)
とは、杜甫が句なり。
荷花(かくわ) 嬌(けう)として 欲ㇾ語(かたらんとほつす)
とは、李白が詩なり。退之は、
太華峯頭 玉井《ぎよくせゐ》の蓮(れん)
と、いへり。又、歌にも、
浪に入《いる》海より西の夕日こそ
蓮(はちす)の花の姿なりけり
其の外、世々(よゝ)の詩人・歌人、もて遊ばずといふ事、なし。いかに、我等こそ、人々に、おとらめや。」
[やぶちゃん注:「點溪に 荷葉は 疊む靑錢」杜甫の七絶「絕句漫興 九首 其七」の起・承句。杜甫草堂での吟。紀頌之氏の「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」がよい。
「荷花 嬌として 欲ㇾ語」李白の五絶「淥水曲」(りょくすきょく)」の起・承句。やはり同じ方の別ブログ「漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩・唐詩・詩詞 解釈」のこちらがよい。
「太華峯頭 玉井の蓮」韓愈の七律「古意」。邦文では適切なものがない。全詩を中文繁体字のこちらでリンクさせて示しておく。
「浪に入海より西の夕日こそ蓮の花の姿なりけり」藤原為家の一首で「夫木和歌抄」に載る。「日文研」の「和歌データベース」で確認(03523番)。
*
なみにいる うみよりにしの ゆふひこそ はちすのはなの すかたなりけれ
*]
と、なごやかに申せば、童子(どうじ)の云《いふ》、
「各、其の威をまして、我身の德を述べ給ふ。誰(たれ)とても、いはれなき身は、あらじ。屈原が、秋菊(しうきく)の落英(らくえい)をくらひ、淵明が、東籬の下(もと)に菊を愛す。自然の醇精(ふせい)、たれか、もてあそんで、看執(かんしう)せざらん。それのみならず、荊州(けいしう)の菊潭水(きくたんすい)、三十余家(《さんじふ》よか)の長壽をたもち、慈童、八百歲の齡(よわひ)を、ふる。王荊公(わうけいこう)が詩(し)に、
千花萬草凋零後 始見閑人把一枝
(千花(せんくわ)萬草(ばんさう) 凋零(しうれい)の後(のち)
始めて見る 閑人(かんじん) 一枝を把(と)る)
されば、定家卿の歌に、
此里の老(おひ)せぬ千世(ちよ)はみなせ川
せき入《いる》る庭の菊の下水
又、
白かねと金のいろに咲(さき)まがふ
玉のうてなの花にぞ有ける
其外、古人、これを愛し、家々(いへいへ)の詩歌、かぞへがたし。かゝる聖花(せいくわ)を下に置かむはいかに。恐れ、なからんや。」
[やぶちゃん注:「屈原が、秋菊の落英をくらひ」「楚辭」の知られた、屈原の「離騷」の一節。「夕餐秋菊之落英」(夕(ゆふべ)には秋菊の落英を餐す)。サイト「碇豊長の詩詞」のこちらがよい。
「淵明が、東籬の下に菊を愛す」授業でも盛んにやった、陶淵明の詩篇では最も知られる五言古詩「飮酒」二十首の「 其五」の一節。全体は古くからお世話になっている「WEB漢文大系」のこちらをリンクさせておく。
「醇精(ふせい)」読みはママ。「じゆんせい」が正しい。混じり物のない純粋なエッセンス。
「荊州の菊潭水」荊州は現在の湖北省一帯。そこにあるとされる「菊潭」の水は不老長寿の妙薬とする伝承があり、恐らくはこの不老水、本家より本邦の方が人気があって、和歌や能の「菊慈童」の素材となっている。
「千花萬草凋零後 始見閑人把一枝」北宋の政治家で詩人・文学者としても知られた王安石。「荊国公」を贈られたことから「荊公」とも呼ばれる。彼の「菊」の詩として引かれているが、検索しても、中文サイトでも、この二句の部分しか出ない。不審。
「此里の老せぬ千世はみなせ川せき入る庭の菊の下水」「日文研」の「和歌データベース」の定家の「拾遺愚草」では(01931番)、
*
このさとに おいせぬちよは みなせかは せきいるるにはの きくのしたみつ
*
と初句が違う。
「白かねと金のいろに咲まがふ玉のうてなの花にぞ有ける」不詳。]
翁、眉をしはめて、
「何れも、やさしきあらそひ、其人によつて、其人をあひす[やぶちゃん注:「相(あひ)す」か。或いは「愛す」の転訛か。]。いづれを是(ぜ)とし、何れを非とせん。吾は、玄冬(げんとう)の寒きをいとはず、春を逐(おつ)て開く。此の故に、梅(むめ)を兄(あに)とし、山茶(さんさ)をもつて弟(おとゝ)とす。淸香(せいかう)幽美にして、『凌波(れうは)の仙子』ともいはれたり。其の外、貴文(きぶん)が詩にも、
早於桃季晚於梅
氷雪肌膚姑射來
明月寒霜中夜靜
素娥靑女共徘徊
(桃季より早く 梅(むめ)より晚(おそ)し
(氷雪 肌膚(きふ) 姑射(こや)來たる
明月 寒霜 中夜靜なり
素娥(そが) 靑女(せいぢよ) 共に徘徊す)
[やぶちゃん注:転句には原本では「静也」という訓点が打たれてある。]
と、いへり。ある歌に、
白妙に庭のきり芝ふる雪に
しらず貌《かほ》なる水仙のはな
と、よめり。賢聖の、もてあそびと、なれり。
凡そ、花木草花(くわぼくさうくわ)は、たゞ品(しな)を、いはず。時にふれ、興(けう)にめでて、人の氣(き)を、なぐさむ。豈(あに)尊卑高下(かうげ)をあらそはむ。夢の世に、かりなる生(しやう)をうけ、飛花落葉をかなしみ、我れと、吾が身に、着(ぢやく)を、のこす。かの唯摩居士(ゆいまこじ)の「佛道、猶《なほ》捨(すつ)べし。いかにいはんや、非法(ひほう)をや。」と、說き給ふ、むべなるかな、此事。かならずしも、爭ひ給ふべからず。只(たゞ)、「草木國土悉皆成佛(さうもくこくどしつかいじやうぶつ)」の金言をたのみ、かゝる尊(たうと)き聖人(しやうにん)に、ちぐうし、たてまつり、猶《なほ》し、菩提の種(たね)をも、うへ給へ。」
と、念比(ねむごろ)に宥(なだ)め、をのをの、退散しけり。
[やぶちゃん注:「山茶」山茶花。
「凌波の仙子」水仙の美称。波をかきわけて進むような軽やかな美人の仙女の歩みに喩えたもの。
「貴文(きぶん)が詩」「水仙花」という題名で宋代に纂せられた「彭城集」に載るが、この作者は不詳。識者の御教授を乞うものである。
「唯摩居士」普通は「維摩居士」。まあ、漢訳だからどうでもいいが。大乗仏教の一経典「維摩詰所説経」(クマーラジーバ訳・略称「維摩経」)の中で中心となって活躍する居士の名。「維摩」は「維摩詰」の略で、サンスクリットの原名は「ビマラキールティ」。同経の玄奘による別訳が「無垢称」と訳しているように「無垢という評判をとった(人)」という意で、「浄名」とも訳される。古代インドの商人で釈迦の在家の弟子となった。「多滿寸太禮卷㐧一 仁王冠者の叓」で注したので参照されたい。
「草木國土悉皆成佛」「涅槃経」で説かれるかなり知られたフレーズ。草木や国土のような非情なものも、仏性(ぶっしょう)を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく、六世紀頃の中国仏教の中に出現するが、特に本邦でもて囃された。日本では空海が最初とされ、次いで天台宗の円珍や安然らによって説かれた。それが鎌倉新仏教の興隆台頭の中、親鸞・道元・日蓮らによって再び説法の中で主張されるようになった。]
聖(ひじり)、つくづくと、是を聞給ひ、
「誠(まこと)に。草木(さうもく)といへども、かりの執心をとゞむるにしたがひて、をのが形(かた)ちを顯はす。此とし月、多くの草花(さうくわ)をやしなひ、愛しける事の、うたてさよ。」
と、日比の心を捨(す)て、此の後(のち)、ながく、愛心(あいしん)をとゞめ給へば、四人の者も、をのづから、來らず。
いよいよ、勤修(きんじゆ)おこたらず。
天(てん)の童子《どうじ》、二人、いつとなく來りて、聖人(しやうにん)に給仕し給ひけれ。
こゝに、妙慶といへる尊(たつ《と》)き僧、一旦、此の山にまよひ入《いり》給ふに、遙かの峯に鐘の音(ね)を聞きて、尋ね行き、見給ふに、柴の庵、あり、獨りの僧、「法花」をよむ。其とし、いまだ三十計り。妙慶をみて、經をとゞめて、内に請じて、やゝ物語りし給ふ。
妙慶、申されけるは、
「幾年(いくとせ)をか、此山に住(ぢう)し給ふ。」
聖、答へて、
「我れ、人倫をはなれてこのかた、麓に下(お)りず。花咲き、雪ふるを、かぞへてみるに、とし、已(すで)に、一百余歲。」
こゝに於《おい》て、唯人(たゞひと)ならぬ事を、しる。
「安樂行品(あんらくぎやうほん)」を、よみ給ふ。
「天乃諸童子以爲給仕(てんのしよどうじいゐきうじ)。」
の句に、二童子、忽ちに顯はれ、一人は供物をさゝげ、一人は蓋(がい)をおゝふ。聖、供物をふたつに分け、一ぶんは、くひ、一分を妙慶に與(あた)ふ。
其の味、甘露のごとく、人中(にんちう)の食(しよく)に非ず。聖、仰せけるは、
「此の地、常の人の來たる所に、あらず。今、ふしぎに對顏(たいがん)して、昔を語る事の嬉しさよ。」
妙慶、三拜して、
「吾れ、不思義に此の所に至る。再會、期(ご)し難し。今、尊前の所行、世に傳へむと思ふに、更に印(しるし)なし。片原(かたはら)に有《あり》ける『木のは衣(ころも)』を、吾れに與へ給へ。」
と、あれば、聖、惜しむ氣色(きそく)あり。忽ちに、十人の童子、顯はれ、此の衣を、守る。
妙慶、本(もと)より、不動尊に歸して、多年、有驗(うげん)ありければ、しばらく觀念ありしに、金伽羅(こんがら)・勢多伽(せいたか)の二童子、形(かた)ちを現じて、衣を、奪ひ取《とり》給ふ。
十童子、これを、つよく引《ひき》て、いかる。
其の衣、半ばより烈(さけ)て、二つ、となる。
一衣(いちゑ)は聖(ひじり)のもとに有《あり》、一衣は妙慶の手に、わたる。
則ち、これをたづさえて、後生(ごしやう)を契り、歸り給ふ。
又の春、かの聖の庵室(あんしつ)を尋ね給ふに、いづちへか、おはしけん、垣(かき)も、とぼそも、苔むして、その行方(ゆきかた)、なし。庵室の窓下(まどのもと)に、
一枕仙遊足自娛
蕭然情思離塵區
(一枕(いつしん)の仙遊 自(おのづか)ら娛(たの)しむに足(た)るを
蕭然(せうぜん)たる情思(せいし) 塵區(ぢんく)を離(はな)る)
此の句、書き付けて有《あり》しを、妙慶、なくなく、是を形見に取りて、歸りたまひ、世に傳へ給ひけるとかや。
[やぶちゃん注:「十童子」不詳。密教に於いて、不動明王の使者である八人の童子がいる(慧光(えこう)・慧喜・阿耨達(あのくだつ)・指徳・烏倶婆迦(うぐばか)・清浄・矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)の八大(金剛)童子)がいるが、これは以下に出る不動のそれと重なっているから、違う。因みに引っ張り合う妙慶方の「金伽羅」と「勢多伽」は不動尊像に脇侍としてよく造形される童子である。]
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