曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その2)
元吉原の事を書きたるもの、是より外にまさしく據(よりどころ)とすべきは、なし。おもふに、當時坊間の繪草紙などもありつらんを、みな、明曆の火にうせて、今は一枚(ひとひら)も傳はらぬなるべし。しかれども、萬治・寬文よりこなた、貞享・元祿中、刊行の草紙によりて考ふるに、最初、妓院(ぎゐん)の光景をも、想像するよし、なきにあらず。就ㇾ中(なかんづく)、「江戶名所記」は、寬文二年の印本なれば、その書の刊行、元吉原の、新吉原へ移されしより、纔かに六箇年の程也ければ、「名所記」に寫し出せし吉原の圖說を見て、元吉原に在りし程の形勢(ありさま)も、かくこそありつらめと、思ひ合はするに足れり。又、寬永・明曆の「江戶繪圖」は、なほ、彼(か)の妓院どもの元吉原に在りし時也。廓中(くわくちう)のありさまを、しるにしも足るよしなけれど、その地と巷路(こふぢ)の方位においては、明證とすべきもの也。この他、吉原の草紙【予が見つるは缺本の多ければ、書名も卷數も定かならず。友人松蘿館の藏書なりき。】天和三年の印本にて、明曆三年、新吉原へうつされしより、纔かに十七年後の物なり。此書には、直之(なほゆき)といふ幇間(たいこ)の事を㫖(むね)と綴りなしたり。そのさし繪を見るに、かの直之がありさま、鬢(びん)薄くして、卷立(まきたて)の茶筅髮(ちやせんかみ)也。[やぶちゃん注:以下の図は参考にしている一冊である国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」巻第二の下のここの本文中にある挿絵を、トリミング補正した。この図は底本や吉川弘文館随筆大成版には載っていない。]
【かくの如し。】黑羽二重(くろはぶたえ)とおぼしき小袖を着て羽折(はをり)を着ず。其の紋(もん)は、丸の中に、四ツ目結(むすび)をつけたり。[やぶちゃん注:以下の図は所持する吉川弘文館随筆大成版の本文に挿入された図をトリミング補正した。底本ではここの右ページ上段にある。これは逆に「曲亭雜記」には載らない。]
【かくの如し。】此の直之が揚屋與五兵衞へ遣はす狀、同書にあり。こは揚屋さし紙の格(かく)にて書たり。この直之は、なきぶしやうの小歌(こうた)に、妙(めう)なるものにやありけん。むかしある人の藏書に、直之直傳(ぢきでん)としるせし、「土手節(どてぶし)」の本を見たり。この二書は、只今、唯一本なるべきものにして、尤、珍書とするに足れり。おもふに、直之は、元吉原より、新吉原へ、移り來(き)にたる、全盛の幇間(たいこ)にて有けんかし。これらを見ても、吉原の體(てい)たらくをおもひ合はすること、多かり。又、由之軒政房(ゆうしけんまさふさ)といふものゝ著はせし、「誰(た)が袖の海」【全本五卷歟。是も予が見たりしは缺本也き。】は、元祿十七年甲申春正月の印本也【この年、寶永と改元。】。明曆三年より既に四十七年後の物なれば、元吉原を距(さ)ること、いよいよ遠けれ共、猶、をかしき事あり。此二書【卷二。】に、「吉原詞」といふものを載せたるを、今、略抄すること、如ㇾ左。
[やぶちゃん注:「由之軒政房」「誰が袖の海」全六巻合綴二冊。元禄一七(一七〇四)年板行。長編の好色物。作者の事績は私にはよく判らない。「霞亭文庫」のこちらで原本をダウン・ロード出来る。
「直之」こてちゃい氏のブログ『「幇間、ほうかん、たいこもち、たいこ持ち、太鼓持ち」関連資料』のこちらで、山根秋伴著「日本花柳史」(大正二(一九一三)年山陽堂刊)の一部電子化がなされており、そこに「幇間」の条を引き(一部の正字不全・仮名遣の誤りを訂した)、『藝者の出現と同じ理由で男藝人卽ち男藝者なるものが出來た、幇間の始祖は織田信長の臣似家興左衞門、太鼓持伊太夫の二人と云ふ說もあるが、元より取るに足らぬ訛傳(くわでん)で、何時(いつ)の程にか大盡の相伴(しやうばん)を事とする遊郞(いうやらう)が轉じて之を常業とするやうに成つたので江戶も上方(かみがた)も其起源は殆ど同時代である、卽ち吉原では元吉原時代直之(なほゆき)と云ふ男黑羽織に立四つ目の紋羽織を着、土手節を唄つて座興を添へたのが始まりで、萬治年間には沓(くつは)の二郎左衞門と云ふ者出で更らに元祿に入つて一時に多數の取卷きを生じた、卽ち當時の畫家英(はなぶさ)一蝶、俳人寶井其角(たからゐきかく)、稻津敬雨(いなづまけいう)、畫家佐文山、髪結長七なんどがそれで髭の意休(いきう)も又仲間であった』。『此頃は太鼓持とも太夫衆とも男藝者とも云つてゐたが純然(じゆんぜん)たる常業の純幇間は前に云つた、役者の二朱判吉兵衞、坊主小兵衞などで、お座敷では口拍子(くちびやうし)で間の拔けた音頭を取り、藝渡しと云つて勝手な藝をして次から次へと渡して興を助け、或は踊り或は跳ねて大盡の旨のまゝに働いたものである』。『此初期の幇間中最も傑出したのは二朱判吉兵衛で、大盡舞と稱する座興唄を作つて吉原全般の騷ぎ唄とした』。『明和安永期に一瓢と云ふのが現はれ、從來廓外に居住してゐた幇間が此時から廓内に入つて名主の支配に屬して鑑札を受けるやうに成つた』。『安永七年吉原の幇間二十人、玉代は暮六ツより引け四つまで一兩であつた』とある。引用の元は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらである。]
「吉原言ば」は、
「呼でこい」といふことを「よんできろ」
「急げ」を「はやくうつぱしろ」
「いでくる」を「いつこよ」
「ありく」を「あよびやれ」
「こぼす」を「ぶつこぼす」
「わるい」と云ふことを「けちなこと」
「そうせよ」を「こうしろ」
「あそばるゝ」を「うなさるゝ」
「腹の痛む」を「むしがいたい」
「しやんな」を「よしやれ」【これは「よしにしろ」の言也。】
「こそばい」を「こそつぱい」
「女郞のよこぎる」を「てれんつかふ」[やぶちゃん注:「てれんつかふ」は底本の表記。「曲亭雜記」では「てれんいかふ」。]と云ふ【是は唐音也。】。
「盆の踊歌(をどりうた)」をきくに、
〽ことしの盆はぼんとも思はない
〽かう屋がやけて
〽もかりがぶつこけて
〽ぼん帷子(かたびら)を白で着た[やぶちゃん注:「白で着た」「曲亭雜記」の表記。底本では「付て着た」。なお、庵点は私が附した。]
ひとゝせ、「吉原詞」を、うたに作りて見しに、
おさらばへのしけをさゝりこはしやうしたふさかふさはおつかない哉
[やぶちゃん注:底本の表記。「曲亭雜記」では(左頁中央下方から)、
おさらばへのしけおさたりとはしやうしさふさかふさはおつかないかな
であり、「雜記」には今一首、以下が載る。
さふすべいかうすべい又さつしやれいはてふていことやつちやなりけり
後者は何んとなく判るが、前者は、全然、判らない。識者の御教授を乞う。]
是は明曆・寬文の比より、貞享・元祿に至れる「吉原詞」なるべし。その詞のゐなかびたること、あまりに甚だしければ、わるくちにて作り設(まふけ)けたるにやと思へど、さすがに板(はん)せしものなれば、なきことを書きあらはすべくも、あらず。これを見ても、元吉原に在し程の里詞(さとことば)は、いよいよ、ひなびて、絕倒[やぶちゃん注:「曲亭雜記」に拠った。底本は「强□」だからである。]することの多かりけんとおもふ也。又、「大全」などは、いと後にいで來たるものなれば、疑しきことなきにあらぬを、なかなかに證とは、しがたし。又は、菱川師宣・鳥居淸信、及、予が舊族羽川珍重(はかはちんちやう)等(ら)が畫(ゑが)きしは、みな、今の吉原になりての畫圖なれば、元吉原の考へには、えう、なし。ふるき繪卷の殘缺などにも、元吉原の圖の傳らざりしは、元和・寬永のころまで、江戶は、なほ、しかるべき浮世畫師の、なかりし故也。
予、一日(あるひ)、小梅村なる南無佛菴(なむぶつあん)を訪ひたるに、座邊にふりたる二枚折りの屛風ありけり。そのおしたる畫(ゑ)を見れば、元吉原の圖に似たり。卒爾(あからさま)[やぶちゃん注:「曲亭雜記」に拠った。底本ではカタカナのみで漢字を示さず、「アカラサマ」である。]にして、
「こは、云々(しかじか)ならずや。」
といふに、あるじの翁(おきな)、驚きて、
「われ、未だ、さるよしを、しらず。その說あらば、聞まほし。いかにぞや。」
と問るゝに、已(やむ)ことを得ず、答へて云、
「今、この畫中(ぐわちう)の人物を見るに、遊女と客の風俗と、彼寬文の「江戶名所記」及(また)、天和中の印本なる吉原の草紙に圖したる、妓院の風俗と、よく相ひ似て、それより少々ふるく思わるゝ。むかしの遊女は結髮せず。慶長の頃までも、髮のうらを少しむすびて、うしろざまにこれをさげたり。寬永・明曆に至りても、只、その髮を推(お)し紈(わが)ねて、頂におけるのみ。寬文・延寶の頃と云とも、猶、今の遊女のごとくに、髮に飾りを盡(つく)せしもの、なし。當初は市中に伽羅(きやら)の油(あぶら)なければなり。「吉原大全」に、大橋柳町兵庫屋の家風をまなびて、今も「兵庫屋風(ふう)」といふ髷(わげ)をなすといへるは、疑ふべし。抑(そもそも)、慶長・元和の頃の遊女どもが、何風(なにふう)といはるべき髷をすべきよしは、なし。凡そ遊女の髮の風は、新町(しんちやう)なる山本屋の勝山(かつやま)などよりや始りけん。今も女の髷に「勝山」といふは是也【「兵庫髷」といへるも、これと同時代前後のことなるべし。】。又、當時、遊女の衣裳に、摺箔(すりはく)・縫箔(ぬひはく)をゆるされず【その事、「吉原由緖がき」に見へたり。】。多くは無地の絹紬(きぬつむぎ)、又は縞類(しまるゐ)をのみ着たり。「昔昔物語」に、『むかしは、縞類、はやる。遊女のまね也。昔は、常(つね)の女、縫箔光る小袖を着る故、遊女共は無地物、縞の類を着たり。常の女とかはるべき爲なり、といへるは、是なり。かの物語に、『むかし』といひしは、寬永中のこと也。寬永中は女の帶の幅、凡、一寸五分より二寸までなりし由、「春臺獨語(しゆんだいどくご)」にも、いへり。この時も、遊女の帶は、その幅、ひろかりしよしなれど、猶、三、四寸の上を、出づべからず。この屛風に圖したる遊女も、其全體にくらぶれば、その帶の幅、三、四寸なるべく見ゆ。しかれども、これらは、未だ元吉原の考證とするに足らず。大約(おほよそ)、萬治・寬文以來、元祿に至るまで、かの日本堤の體たらく、及(また)、大門口の光景をゑがきたるには、嫖客(ひようかく)、必ず、馬に乘りて行きかへりする處なきは、なし。當時、「土手馬(どてむま)」といふものゝ流行せしによりてなり【そのゝち、土手馬を禁止せられし後は、二挺立の小船はやりしを、享保の末に至りて、又、これをも禁止せられたり。】。しかるに、この屛風の圖は、いとふるき圖に見へながら、大門口とおぼしき處に、かの土手馬を畫(ゑが)かざりしは、明曆以前の風俗にて、元吉原の圖にやあらん。只、是のみならず、この圖中なる大門口には、外の方に松を畫きたり。予が總角(あげまき)なりし頃、一老人の言(こと)を聞きしに、元吉原の大門口と、南の方なる塹際(ほりきは)に、大きなる松、兩三株(りやうさんかぶ)ありけり。かくて、その松は、明曆の火に、皆、燒けしを、新吉原へ移されては、さるものをも栽(うゑ)ずなりしよし、故老のいわれしこともぞある。彼(か)の舊地のほとりには、松島町(まつしまちやう)といへるあり。思ふに、かの松のなごりにて、さる名も負(おは)したるにや、といへり。予は、尙、總角(あげまき)なるをもて、そのよしをしるしたる書もやあると問ふベかりしを、得(え)敲(たゝ)かざりければ、今に至りて、憾(うらみ)とす。かくて、今、ゆくりなく、この屛風なる畫を見れば、大門口に松をゑがけり。是は昔、予が聞たる老人の言(こと)と吻合(ふがふ)せり。こゝをもて、予は、この畫圖を元吉原にやあらんと思へり。しかはあれども、寬永中の古筆とは、見へず。もし、後に好事(こうず)のもの、元吉原の趣を傳へ聞くよしあるをもて、しかじかとあつらへて、畫工にゑがゝせたるもの歟。さらば、當時(そのかみ)、古圖のありしを、摹(も)[やぶちゃん注:「模」の異体字。]せしものにやあらんずらん。とにもかくにも、此畫をもて、元吉原の圖とするとも、よりどころなきにあらずや。」
と、まめだちて、そゝのかせば、翁、そゞろに頷(うなづ)きて、歡ぶこと、大かたならず。
「さらば、只今、筆を染めて、この屛風の上のかたに、「元吉原圖」と書きてよ。」
とて、みづから祕藏の硯を出だしつ。墨、すりながして、譴(せ)められけり。いとおぼつかなきわざながら、吾には、齡ひ十あまり、五つ、六つ、兄なる人の、かくねもごろに求らるゝを、猶、いなまんは、さすがにて、あたら屛風を汚(けが)せしに、翁は、かくても、あかずや、ありけん、この後、又、をちこちに、友人つどへるむしろにて、予と、亦、相ひ見つるごとに、
「元吉原の考へを、つまびらかに、書きてたべ。さきの屛風もろともに、後に遣(のこ)さんず。」
と、いはれたり。
予は、この二十年(はたとせ)あまり、こなた、よしや、むかしのことなりとも、遊女・冶郞(やらう)のうへなどは、あなぐり糺(ただ)す事を、たしまず、えうなきわざとは思ふものから、是すら、いなむにいなみかねたる、口(くち)から高野(かうや)の諺(ことわざ)に得(え)もれず。暇(いとま)なき身の、いとまを費し、曲りなりなる墨さへ減らして、さらでも、ちびたる筆を走らし、硯の海の底(そこ)はかとなく、よに淺(あさ)はかなる考へを、綴りて贈りまゐらするになん。
よし原の世をのがれてもいける身のしにかへらねば人につかはる
文政八年正月中澣 著作堂瀧澤解拜具
進 上 神田川信天翁拜具
無佛庵大兄老翁梧下
[やぶちゃん注:「南無佛菴」幕府畳方の棟梁を務める一方で、書家でもあった中村仏庵 (宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)。江戸の人。梵字に優れた。名は蓮・連。通称は弥太夫・吉寛。別号に至観。彼は「耽奇会」の会員で七回参加しており、馬琴とは仲が良かったらしい。葬儀の折りの記録が馬琴の日記にある。]
附て云ふ。予が藏弆(ぞうきよ)に、寬永・明曆の「江戶圖」、二本あり。今、畧抄して、元吉原の舊趾(きうし)を考ふる一端とす。前件の愚說と合はし見給へかし。
「吉原由緖書」に、『元和三年の春、葺屋町の下の方(かた)にて、方(はう)二町の地を下し給はりし。』と見へたれど、當時は、なほ、葺屋町と云ふ町名、なし。抑(そもそも)、彼(か)の「由緖書」は、享保十年の秋七月、庄司甚右衞門が六世の孫、名主又左衞門が家の舊記と、口碑に傳ふる趣きを書きつめて、奉りしものなれば、後世の町名によりて、『云々(しかじか)』としるせしのみ。その書に、いはゆる葺屋町は、禰宜町なること、疑ひなし。
寬文の「江戶圖」には、禰宜町・尾張町ありて、堺町、なし。明曆板の「江戶圖」には、禰宜町・堺町ありて、尾張町、なし。且、寬永板に比すれば、その圖、稍(やや)精細なり。按ずるに、寬永板に、いはゆる、禰宜町は、葺屋町・堺町の舊名なるべし。寬永之後、明曆の前に至て、吉原の西の方を開發せられて、堺町と名づけしころ、勘三郞が芝居は、禰宜町より堺町に移り、又、禰宜町には、市村竹之丞が芝居その他、人形座などの、猶、ありけんかし。かくて明曆大火の後、吉原はさら也、こゝらの寺院を、みな、御曲輪外(おくるわそと)へ移させ給ひて、扨(さて)、寬文中に至り、町割、ことごとく改(あらたま)りし時、中村・市村の兩歌舞伎は、元の禰宜町のあたり、二町の間に推(お)しならびて、勾欄(やぐら)を建てしころ、市村がをれるかたの、禰宜町を改て、葺屋町とし、中村勘三郞がをれるかたをば、元の町名によりて、堺町と唱へしならん。それは今の堺町も、明曆板に見えたる堺町の地所に、あらず。又、今の葺屋町も、昔の禰宜町の地にあらざること、猶、今の大門通りは昔の大門通りと、その道筋、異(こと)なるがごとくなるべし【寬永版、及、明曆版の地圖、省略。】
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