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2022/04/30

譚海 卷之四 同所小山驛天王寺古跡幷大谷の觀音・ゆづる觀音・岩船地藏尊の事 / 譚海 卷之四~了

 

○同所小山(おやま)驛に天王寺といふ有、小山判官の菩提寺也。驛より東の方ヘ松杉茂(しげ)たる道を四五町行(ゆく)所に有。則小山判官の系圖同じく鎧かぶとなど什物に傳(つたへ)て有。又此寺四五町脇に小山氏の古城の跡有、澤をわたりて山をこえて至る、荊棘(けいきよく)道をふさぐ。大(おほき)なる銀杏樹(いちやう)のもとに古井(ふるゐ)有、其かたわらに七つ石とて、殊に大なる石七つ有、はまぐりの如く、半月の形ちの如く、龜の甲の如く、ひきかへるの如く、皆一丈餘なる物也。此城の堀は昔龜の字の畫(ゑ)にほるといへり。めぐりめぐりて半(なかば)は草に沒し、人跡(じんせき)まれなる所とぞ。又ゆづる・岩船(いはふね)・大谷とて參詣する所は、日光山の西に付(つき)てあり。ゆづるの觀世昔は山谷(さんこく)の間にして岩を切(きり)うがち、洞(ほら)の中に丈六の觀音を同じ岩に鑱付(ほりつけ)て有。其洞の入口の上のかたに大蓮花をえり付(つけ)たる。わたり一丈餘有、山水(やまみづ)此蓮花をつたひてしたゝるゝ面白き事也。山上に胎内くゞりなどとて深き洞穴(ほらあな)有、甚(はなはだ)せばくして漸(やうやう)ぬけらるゝ所ありとぞ。又岩船地藏尊は山の高き所に、船のかたちにて大なる一枚の岩(いは)深谷(ふかきたに)にさし出(いで)てあり。其へさきに石體(せきたい)の地藏ぼさつ、谷のかたへむいて立(たち)ておはす、夫(それ)を正面より拜み奉らんとて、此岩船をめぐりて、谷をうしろにして地藏尊をおがむ事也、足うごもちて甚おそろしき所也。其岩の上より遠望すれば、村落所々に有(あり)て甚(はなはだ)佳景なりとぞ。又大谷の觀音は同じく深山中にあり、谷にのぞきて、大なるいはほかさなり出たるうヘに、本堂をつくりかけて、其堂なかばは岩石をつくり足したるもの也。山を洞の如くきりひらきて、奥に丈六の觀音をほりうがちたり、此邊すべて大石のみ多し、別當の庭池をうがち、山水を引(ひき)佳景也。

[やぶちゃん注:「同所」前の「下野國萱橋白蛇の異病はじまる事」を受けたもの。

「小小山驛に天王寺といふ有、山判官の菩提寺也」この寺は栃木県小山市本郷町にある曹洞宗の天翁院(てんのういん)の誤りであろう。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『小山氏の菩提寺として知られ』久寿二(一一五五)年、『小山政光の開基といわれる。当初は北山(小山市中久喜地内)に創建されたが』、文明四(一四七二)年、『小山持政が培芝正悦(ばいし しょうえつ)を中興開山の師として招聘し、現在地に移建した。とくに』十八『代小山高朝に崇敬され、この頃に小山市の菩提寺として発展した』。『院号の天翁院は、小山高朝の法名「天翁考運」にちなむ』とある。但し、ここに出る三人の当主は孰れも「判官」を名乗ったことはない。官位で判官を名乗ったのは小山氏第八代当主小山秀朝や、一族の一人である小山隆政がいるが、彼らを上の三名を差し置いて示すのはおかしい。よく判らぬ。以下の城の謂いから、津村は鎌倉初期の小山家の祖である政光を指してこう言っているものと断ずる。

「小山氏の古城の跡有」小山城。別名は「祇園城」。当該ウィキによれば、久安四(一一四八)年に『小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し』、『藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った』。『小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった』。康暦二(一三八〇)年から永徳二(一三八三)年に『かけて起こった』「小山義政の乱」(室町前期に下野守護であった小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して起こした反乱)『では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は』この『乱で鎌倉府により追討され』、『断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した』。『その後は、代々小山氏の居城であったが』、天正四(一五七六)年に『小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点と』なった。『小田原征伐ののち』、慶長一二(一六〇二)年『頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は』元和五(一六一九)年、『宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった』とあり、さらに過去に『発掘調査で礎石と思われるものが確認され』、『小山城のあった場所は、現在、城山公園となっている。すぐ近くにある小山市役所の正面入り口前の駐車場に「小山評定跡」石碑と由来碑が設置されている。各曲輪はいずれも空堀によって隔てられており、土塁、空堀、馬出しなどの遺構が明瞭に残っている。また遺構は隣接する天翁院(小山氏の菩提寺)にも残っており、空堀や土塁が確認できる。城山公園の南側には小山御殿跡』(元和八年)があるとあり、また、『城跡内には実無しイチョウという古木があり、小山市の天然記念物』『に指定されている』とある。「龜」の字型の堀というのは異様に複雑で、そんな痕跡があるのであれば、これは見て見たいものだ。城跡はここ

「ゆづる・岩船・大谷」底本の竹内利美氏の注に、以上は、『いずる観音・岩舟地蔵・大谷観音』を指し、『栃木県の出流(いづる)山の観音、石灰洞の奇勝に仏を奉安する満願寺がある。大谷観音は多気山の洞窟に石仏を奉置してある、大谷寺。大谷石の産地でもある。岩舟山は都賀郡にあり、山上に地蔵尊を祭る高勝寺がある。同じく岩山の奇勝で、石材の産出もおこなわれている。』とある。一番目は栃木県栃木市出流町にある真言宗出流山(いずるさん)満願寺。本尊は伝空海作の千手観世音菩薩。二番目は。栃木県宇都宮市大谷町にある天台宗天開山浄土院大谷寺(おおやじ)。三番目は栃木県栃木市岩舟町静にある天台宗岩船山高勝寺の岩船地蔵尊

「うごもちて」どうもぴんとこない。この語はモグラの古名「うごろもち」で判る通り、「土などが高く盛り上がる」の意である。怖くなって足がむくんで思うように動かなくなるということか。]

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