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2022/05/31

1,740,000ブログ・アクセス突破記念 泉鏡花「春晝」(正規表現版・PDF縦書ルビ版・オリジナル注附)公開

泉鏡花「春晝」(正規表現版・PDF縦書ルビ版・オリジナル注附)を満を持して「心朽窩旧館」に公開した。現在、ネット上に存在する最も原作に忠実な本文電子化であると自負するものである。作中のロケーション考証や、李賀の詩「宮娃歌」(きゆうあいか)の詳細注も附けてある。

  なお、これを作成するのに集中しており、ブログのアクセスを一週間以上、確認するのを忘れていた。理由は判らぬが、五月二十一日から、連日、900から1000アクセスを超えており、現在、百七十四万四千アクセスを超えていた。遅蒔き乍ら、私の自信作である、これを、その記念とすることにした(後出し)。

 因みに、一応、校正をしたが、或いは、ミスが残っているかも知れないので、疑問を感じられた方は、御指摘下さると、恩幸これに過ぎたるはない。よろしくお願い申し上げる。

【2022年6月4日追記】満を持して「春晝」+「春晝後刻」(正規表現カップリング版・オリジナル注附・PDF縦書版・3.04MB)完全版を公開した。結局、気になって仕方がなくなった結果、この三、四日で「春晝後刻」を仕上げた。前回の「春晝」単独公開の際、ツイッターやフェイスブックでも公開しており、二篇を別々にテクストとして置くことに何の意味も感じないので、ファイル名を同じにして、二篇のカップリング版として作成したので、冒頭リンクはカップリング版になっている。一度、「春晝」と合わせて通して、斜め読みでの校正をしたが、特にルビに不全がないとは言えない。もし、不審な箇所があれば、ご連絡頂ければ、恩幸、これに過ぎたるはないという点も同様である。

2022/05/30

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鼈と雷」(全)

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が大正三(一九一四)年四月発行の『人類學雜誌』二十九巻四号に、「二」が同雑誌の大正三年八月発行の二十九巻八号に、「三」が同誌の大正三年十二月発行の二十九巻十二号に、「追加」が同誌の大正四年四月発行の三十巻四号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に総てがセットで収録された。標題は「すつぽんとかみなり」。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、底本はこの篇、誤字が著しく多いので、平凡社「選集」で訂した。但し、それをいちいち断ってはいない。底本と私の電子化を比較されれば、自ずとお判り戴ける。]

 

 

 

    鼈 と 雷 

 

 本邦の俗說に鼈が人に咋付くと雷鳴ねば放さぬと云ふ。二世一九の奧羽道中膝栗毛四編中卷に、婬婦お蛸「妾が吸付たが最期、雷樣が鳴しやつても離れるこつちやござりましない」と云るも是に基くか。熊野の山中に「かみなりびる」有り一たび吮付ば雷鳴る迄離れずと云ふ。予或夏那智の山奧にて之を見しに蛭にあらずして一種のプラナリアン長さ六寸斗り田邊抔の人家、朽木に多き「かうがいびる」(長さ二三寸)に似たれども細長く瑇瑁色、背に黑條有り美麗なれど氣味惡く徐かに蠕動す、空試驗管に入れ十町斗り走り見れば、早や半溶け居たり。因て考るに、暑き日强いて人體に附すれば粘着して溶け了る事は有なん、更に蛭如く血を得んとて吸付く者に非ず。重訂本草啓蒙三十八に、度古「かうがいびる」北江州方言「かみなりびる」長五七寸夏月雷雨の際樹より落る由を言り。是は田邊々で所謂「かうがいびる」に非ずして、那智で見し「かみなりびる」と同物ならん。雷雨の節落る故斯く名しを鼈の例を追ひ、吸付ば雷鳴る迄離れずと附會せしなるべし。支那には淵鑑類函に、養魚經曰、魚滿三百六十、則龍爲之長而引飛出、水内有鼈則魚不復去、故鼈名神守など鼈の神異を說く例は有れど、其雷と關係あるを言ふ事無きが如し。Wowitt, ‘The Native Tribes of South-East Australia,’ 1904, p.769 にヲチヨパルク族の男子四十歲ならずして淡水產の鼈を食へば雷に殺さる。鼈と雷と緣有りて落雷の跡鼈に似たる臭ありと謂ふと出づ。又グベルナチスは言く、梵語で龜をカシヤパスと言ひ(佛書に摩訶迦葉波を大龜氏と譯せり)、雷神サラスワチーの騷ぐ音乃ち雷鳴をカシヤピートと呼び、又龜をクールマス、屁をもクールマスと名く、孰れも古え龜甲を楯とし用ひしより、楯擊つ音に雷聲を比せしに因ると(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ 1872, vol.ii, p.366)。此他に龜・鼈と雷と相關する說有ば報知を吝まれざらん事を冀ふ。   (大正三年四月人類二九卷)

[やぶちゃん注:「咋付く」「くひつく」。

「二世一九」戯作者十字亭三九(じゅうじていさんく 生没年未詳)。為永春水・十返舎一九に学び、天保四(一八三三)年に第二代「一九」を名乗った。後、仙石騒動を題材としたことへの咎めを懼れて、失踪した。上野(こうずけ)出身。姓は糸井。名は武。人情本「谷中の月」、合巻本「本朝武王軍談」などが知られる。

「奧羽道中膝栗毛」二世一九によって書かれた、師の「膝栗毛」シリーズの続編。享和二(一八〇二)年板行か。

「かみなりびる」不詳。以下の熊楠の観察に従うなら、形状や体色の細部に至るまでが、まさに扁形動物門有棒状体(渦虫・ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目陸生三岐腸(コウガイビル)亜目 Terricola 或いは同亜目のコウガイビル科コウガイビル属  Bipalium に属するコウガイビル(笄蛭)類の一種或いはその幼体(成体の多くは驚くほど長い種(一メートルを有に超える)がいることが知られている)としか思われない。私は嘗つて山岳部の顧問をしていたが、各地の山中で、しばしば見かけた。コウガイビルが真正の巨大な山蛭(環形動物門ヒル綱顎ヒル目ヒルド科 Haemadipsa 属亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica)に食われる場面に遭遇したこともある。「かみなりびる」という和名や異名は、調べた限りでは見当たらない。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 度古(こうがいびる)」の本文・絵・私の注を参照されたい。

「吮付ば」「すひつけば」。

「プラナリアン」コウガイビルは、生物学の再生実験でよく知られるプラナリア(Planarian Flatworm)、則ち、三岐腸目 Tricladidaに属する陸生プラナリアの一分類群である。

「瑇瑁色」「タイマイいろ」。嘗つての本邦に伝統工芸である鼈甲細工で知られる爬虫綱カメ目ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata の背甲の色。背甲の色彩は黄色で、黒褐色の斑紋が入る。私が何度も見たコウガイビルは、まさにそうした色彩であった。

「徐かに」「しづかに」。

「蠕動」「ぜんどう」。

「空試驗管」「からしけんくわん」。

「十町」一キロメートル強。

「半溶け居たり」「なかばとけをつたり」。

「溶け了る事は有なん」「とけをはることはありなん」。コウガイビルの溶解現象は実際にあることがある教育番組での映像で見たことがある。

「重訂本草啓蒙三十八に、度古」(どこ)『「かうがいびる」北江州方言「かみなりびる」長五七寸夏月雷雨の際樹より落る由を言り』同書はお馴染みの小野蘭山述の本草書。国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四 (一八四七)年版本を視認して電子化する。まず、「巻三十六」「蟲之二」「卵生類」の中の「水蛭」の項を見よう(但し、こう書いているものの、事実上は環形動物門ヒル綱 Hirudinea 及び縁もゆかりもないコウガイビルまで含んでしまっている)。当該箇所は左丁の後ろから二行目末から次の丁にかけてである。読み易さを考え、カタカナの一部をひらがなに代え、句読点や記号も使用し、一部に推定で読みを歴史的仮名遣で添えた。

   *

「カウガヒビル」、あり。馬蜞(うまびる)[やぶちゃん注:同丁八行目を見よ。]に似て、頭の形、「丁」の字の如し。故に名(なづ)く。又、「カツタイビル」[やぶちゃん注:「かつたい」は本邦でのハンセン病の古い差別異名。]【伯州[やぶちゃん注:伯耆国。]。】・「アマビル」【播州。】・「カミナリビル」【江州。】の名あり。漢名は「土蠱(ドコ)」なり。濕生類「馬陸」の下に出(いづ)。

   *

この最後のそれはここだが、「馬陸」(ばりく)は長いニョロニョロという点でしか共通性のないヤスデ(節足動物門多足亜門ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱Diplopoda に属するヤスデ類)の漢名である。そしてその「馬陸」の最後の「正誤」の注記で、

   *

度古 「カウガヒビル」・「ミヽカキビル」・「カミナリビル」【北江州。】・「アマビル」【播州。】・「カッタイビル」【伯州。】。馬蛭(ウマビル)[やぶちゃん注:底本のルビ。]に似て、頭、廣く、扁(ひらた)く「かうがひ」の形の如く、又は「銀杏(イチヨウ)葉[やぶちゃん注:底本のルビ。]」の如し。身は長さ、五、七寸、夏月、雷雨の時、地に落(おつ)。

   *

とあることから、熊楠は正規の前者からではなく、この「巻之三十八蟲部」の「蟲之四」の「濕生類」の「馬陸」の「正誤」から引いていることが判る。一見、ちょっと変則的な感じがするが、実はこれは「本草綱目」の記載を基本としているからなのである。同書ではコウガイビル相当の立項がなされていないが、その代わり、「本草綱目」の巻四十二「蟲之四」の濕生類」に「馬陸」の項があり、そのまさに「正誤」の条で(「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[100-15b] 以下を参照)、例の国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年版の当該部を参考に訓読してみる。

   *

正誤 藏器曰はく、「按ずるに、土蟲(どちゆう)、足、無く、一條の衣帶のごとし。長さ、四、五寸。身、扁(へん)にして、韭(にら)の葉のごとし。背の上、黃・黒の襇(まじれ)る有り。頭、鏟子(さんす)[やぶちゃん注:鋤(すき)の意か。]行く處、白き涎(よだれ)有り。濕地に生(しやう)ず。雞、嗅(か)げば、卽ち、死す。陶が云はく、『土蟲、蜈蚣(むかで)に似たる者の、乃(すなは)ち、蚰蜒(げじけじ)、土蟲に非ず。亦、馬陸に非ず。』と。蘓が云はく、『馬陸、蚰蜒のごとし。』も亦、誤れり。按ずるに、蚰蜒、色、黃にして、斑(まだら)ならず。其の足、數ふる無し。」と。時珍曰はく、「按ずるに、叚成式(だんせいしき)が「酉陽雜俎」に云はく、『「度古」、俗に「土蠱」と呼ぶ。身・形、衣帶に似て、色、蚯蚓(みみず)に類す。長さ一尺餘。首、鏟(さん)のごとく、背の上に黃・黒の橺れる有り。梢(すこ)し觸るれば、卽ち、斷(たちき)るる。常に蚓(みみず)を趂(の)む[やぶちゃん注:事実、コウガイビルはミミズを体液で麻痺させて捕食する。]。之れを掩(おほ)へば、則ち、蚓、化して水と爲(な)る。毒、有り。雞、之れを食へば、輒(すなは)ち、死す。此れに據(よ)るときは、則ち、陳藏器が所謂「土蟲」は、蓋(けだ)し、「土蠱(どこ)」なり。陶氏、誤りて、蚰蜒を以つて馬陸と爲(な)す。陳氏も亦、誤りて、「土蠱」を以つて「土蟲」と爲す。』と。

   *

これに従えば、時珍は本当のコウガイビルを指す漢語を「土古」とし、民間の通称が「土蠱」、「土蟲」は誤りだと言っている。しかし、この「土蠱」はどうもピンとこない。何故かと言うと、この「蠱」は「蠱毒」(こどく)のそれで、古代中国において用いられた呪術であり、獣や有毒な動物やを使って共食い等をさせ、最強毒を濃縮する、華南の少数民族の間で今も受け継がれているとされる妖術に絡むから、非常にダークな感じのするものだからである。しかし、実は一部のコウガイビルの体液からは、かの猛毒テトロドトキシンが発見されているから、その種は「蠱毒」に入る資格があろうし、あの信じられないほど異様に長いグニャグニャの体とドギツい色は、不気味と言やぁ、言えるわけだ。なお、「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 度古(こうがいびる)」でリンクさせたサイト「Gen-yu's Files」のDr. Masaharu Kawakatsu 氏の「本草書の中のコウガイビル」の考証は必見である。是非、読まれたい。

「田邊々」「たなべへん」。熊楠の本拠である田辺周辺の意。こういう所に「々」記号を使用するのは、個人的にはちょっと嫌)(いや)だな。

『所謂「かうがいびる」に非ずして、那智で見し「かみなりびる」と同物ならん』こう熊楠先生が断定的に言われてしまうと、「カミナリビル」という「コウガイビル」でない別種が存在するとしか思われないだが、う~ん、困った。

「落る故斯く名しを」「おつるゆゑ、かくなづけしを」。

「淵鑑類函に、養魚經曰、魚滿三百六十、……」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」のこちらで、「欽定四庫全書」所収のものが電子化されており、影印本も見られる。四百四十一巻冒頭の「鱗介部五」の「鼈一」である。ガイド・ナンバー[446-2a]を参照されたい。以下、訓読を試みる。

   *

「養魚經」に曰はく、『魚は三百六十に滿つれば、則ち、龍、之れが長(ちやう)と爲(な)りて、引(ひき)いて、飛び出づ。水の内(うち)に鼈(べつ)有れば、則ち、魚、又、去らず。故に鼈は「神守(しんしゆ)」と名づく。』と。

   *

Wowitt, ‘The Native Tribes of South-East Australia,’ 1904, p.769」オーストラリアの人類学者・探検家・博物学者で、オーストラリア先住民の文化や社会を研究したアルフレッド・ウィリアム・ハウイット(Alfred William Howitt 一八三〇年~一九〇八年)の「オーストラリア南東部の先住民族」。

「ヲチヨパルク族」不詳。

「グベルナチス」「Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ 1872, vol.ii, p.366」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。この「動物に関する神話学」は「Internet archive」のこちらで当該原本が見られ、ここが当該部。]

 

 

    鼈 と 雷 

 

 人類學雜誌廿九卷四號一六〇頁の拙文を英譯してノーツ、エンド、キーリスへ出した處ろ、今年四月廿五日の同誌三三五頁にノルウヰツチのヒブゲームなる人對えて曰く、米國ヴワージニア州の黑人及び多少の白人も、鼈が物に咋付くと雷が鳴らねば放さぬと信ず、又龜も左樣だと聞たが龜が咋付いた例を知らぬ。老たる獵師の話に、雷雨中蛇が毒を出し得ぬと聞いた事もある、斯樣の動物は空中の電氣狀況で大分平日と變つて來るらしいと。熊楠曰く、廿四五年前予ミシガン州アナボアの郊外林間の池で、甲の長さ七吋斗りの龜を捕るとて食指を咬れた事がある、又日本の龜に餌を遣るとて誤つて咬まれた事もある、無何れも手を引て忽ち離し得た。

       (大正三年八月人類第二九卷)

[やぶちゃん注:雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。「Internet archive」で視認でき、熊楠の投稿が「268」ページにあり(左の段の最後)、それへの「ヒブゲームなる人」(Frederick T. Hibgame)の応答は「335」ページの右最後から次のページかけてにある。

「ノルウヰツチ」イングランド東部ノーフォークの州都ノリッジ(Norwich)であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。同地は、「ノーウィッチ」とも呼ばれるからである。

「ヴワージニア州」ここ

「ミシガン州アナボア」アナーバー(Ann Arbor)。ここ。]

 

 

    鼈 と 雷 三 附たり誓言に就て

 

 本と南濠州アデレード大學古文學敎授だつたベンスリー氏より敎示に、米國のルイサ、メイ、オールコツト女史の一著(多分一八七一年に出たリツル、メン)に、誓言を好む童子自ら惡詞を用るを止めんとて、其代りに雷鼈《サンダータートルス》という語を用ひ出す事有り、由來詳かならねど或は雷が鼈の稟質に關係有りとする俗傳に基き此語を案出せしに非るかと。此序でに未だ海外に蹈出した事無き讀者に告置くは、歐米人が神の名を援て誓言するはキリスト敎の尤も制戒するところなるに拘らず、無學の輩は固より敎育多く受けた人士小兒迄も、情感興奮の際種々不穩の詞を發して誓言する夥しさ、聞くに堪ぬ事多し。西班牙人抔は些かの事に人を罵るとて、「上帝の頭に糞し掛けよ」抔言ふ。又南支那人も「母を犯す奴」「後庭を犯さるゝ男」抔口癖に言ふ者多く、其他獨逸人が「魔王に就け」英人が「鷄姦々々」と連呼する等、その麁獷穢褻吾邦の最惡詞と雖も以て其十分一に比す可らざる事多し。扨故サーエドヰン、アーノールドの說に日本には人を罵る時「此の奴」と呼ぶ位い[やぶちゃん注:ママ。]が惡言で、誓言と云ふ事一切無しと有た。誠に歐米又はお隣りの支那に比して吾邦に重惡な誓言現存せぬは實に誇とすべき事だが、サー―エドウヰンが古今を混同して、昔から日本人は一切誓言を吐ぬと思ふたは間違て居る。何か物言ふ、每に「神以て」とか「八幡々々」とか「愛宕神も照覽あれ」抔と言ふ人多かつたは德川幕府中葉以前の書籍を見れば分り、男のみかは女も時として斯る語を發したと見える。去り迚當時の人之を善い事とはせず、一話一言卷八に、慶安三年刊行の或書を引て「人と雜談し侍る時、假初事にも佛祖、天道神、八幡氏神照覽、愛宕白山、ゐずくみ、見しやり、此火に荼毘せられうぞ抔と、怖しき誓言する事甚だ良らぬ事と云へり」、折たく柴の記にも白石其父が或老人言ふ每に誓言するを非難せし由を載す。慶長見聞集二、平五三郞という織物賣り田舍客相手に營業するさまを記すに、自分を堅固の法華信者と見せ掛け「御經御本尊御題曼陀羅此の數珠ぞ此の數珠ぞ」と誓言吐て賣ると有る。嬉遊笑覽十一に、昔は常の人雜談中にも八幡白癩抔誓言を云り、商人は殊更也、人情不直なるよりの事乍ら猶ほ質朴と云可しと評し居る。京阪で誓文祓ひとて十月廿日商賣の神に詣づるは、本と祇園の官者殿(素盞嗚尊の荒魂を祭ると云)が僞誓の罪を免がれしむるとて此日羣集して年中欺賣誓言の罪を祓ふたが起りだと云ふ(倭漢三才圖會七二、麓の花下卷、守貞漫稿二四參取)。然るに今となつては人が惡く成て、誓言抔吐ても信ずる者も無れば、誓文祓は名のみで專ら營業祝ひと賣出しの日と成て仕舞たらしい。又吾輩十二三の頃(明治十三四年)迄兒童の契約に「親の頭に松三本」抔言ふが和歌山で一汎の風だつた。約を背かば親が死んで其墓上に松が生るてふ意味で斯く誓言すると父母に嚴しく叱られた。憂しと見し世ぞ目今のごとく子供まで根性が黠しく成ては、早や其樣な事で、中々食はぬ風と成た。但し「鄕土硏究」二卷六號三六六頁に、佐渡の一村で子供同士の約束に鬢切り髮切りと言ひ、又僞言吐ば山の井戶落ると言ふとあるから、今も誓言の遺風を存する地方も有ると知らる。支那にも古來誓言は有たが、近代益す盛んで、予二年斗り其博徒間に起臥したが誓言の詞の鄙猥極まるは上述の如く、甚しきは生きた鷄の頭を斷て他に抛付けて誓言する抔有る。在英の際孫逸仙の話に只今支那人が用る下劣な誓言は悉く歐人に倣ふた者で歐人と交通盛んならぬ世には一切無つたと言れたが果して然りや。終りに述置くは、吾邦で昔し用ひた誓言で最も聞苦しいのは「白癩」だらう。西鶴の武道傳來記七、武士の爭鬪に「白癩是はと拔合せ」、又近松の淨瑠璃にも、放蕩息子が金を獲て悅ぶ辭に「てんと白癩」と有たと臆ふ。是は嚴重な誓文の詞で佛典から出たらしい。乃ち唐天竺波羅頗密多羅譯寶星陀羅尼經八、護正法品十一に諸天龍夜叉等正法を護らんと佛前に誓ふ、詞が長いから略抄すると、已來若法師、若比丘比丘尼優婆塞優婆夷、復有諸信心善男子善女人、施設妙好、廣爲他人分別、開示此經、及讀誦時、我等一々、與無量百千眷屬圍繞、往彼聽法、爲擁護故、成熟衆故、我等若不往彼城邑乃至庶民家、及以眷屬不受敎勅、不成熟衆生、不令衆生財穀豐饒倉庫盈滿、又復一切鬪諍飢饉疾病、他方怨敵、非時風雨、極寒極熱諸災難等、若不遮斷我等則爲欺誑過去未來現在諸佛世尊、違本誓願、空無得、得白癩病、退失神通、身體爛壞云々と有る。   (大正三年十二月『人類學雜誌』二九卷一二號)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「本と南濠州アデレード大學古文學敎授だつたベンスリー氏」不詳。

「ルイサ、メイ、オールコツト女史」「若草物語」(Little Women)で知られるアメリカの小説家ルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott 一八三二年~一八八八年)。

「一八七一年に出たリツル、メン」同年刊行の‘Little Men’(「小さな紳士たち」或いは「第三若草物語」とも呼ばれる)。

「雷鼈」「選集」では『サンダータートルス』というルビが振られてある。

「稟質」(ひんしつ)は「天賦の性質・生まれつきの性質」の意。

「蹈出した」「ふみだした」。

「告置く」「つげおく」。

「援て」「ひいて」。

「西班牙」「スペイン」。

「後庭」肛門。「後庭華」は男色の隠語である。

「鷄姦」同じく男色の隠語。

「麁獷穢褻」「そかうわいせつ」。「麁」は雑なこと。「獷」は粗暴で悪いこと。

「サーエドヰン、アーノールド」エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 一八三二年~ 一九〇四年)はイギリス出身の新聞記者・紀行文作家・随筆家にして、東洋学者・日本研究家・仏教学者で詩人。ヴィクトリア朝に於ける最高の教研究者・東洋学者とされる。慶應義塾客員講師となり、本邦に滞在したこともある。日本を「地上で天国或いは極楽に尤も近づいている国だ」と言ったことは有名。当該ウィキを読まれたい。

「此の奴」「このやつ」。「こいつ」のこと。

「有た」「あつた」。

「吐ぬ」「はかぬ」。

「間違て居る」「まちがつてをる」。

「去り迚」「さりとて」。

「一話一言」大田南畝著の江戸後期の随筆。五十六巻(内、六巻は欠)。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書かれた。歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの「蜀山人全集. 巻4」のここの「○或書の中に」がそれ。

「慶安三年」一六五〇年。徳川家光が没する前年。

「假初事」「かりそめごと」。

「ゐずくみ」「居竦」。座ったまま、体が竦(すく)んで動けなくなること。誓言に用い、「もし、この言葉が偽りであったならば、神仏の冥罰(みょうばつ)を蒙って、座ったままで永遠に動けなくなってもよい。」の意。以下の注も参照。

「見しやり」「身晒」で現代仮名遣「みしゃり」。「もし、約束を違(たが)えたならば、神仏の罰を受けて、この身は髑髏(しゃれこうべ)となってもよい。」又は、「身が腐ってもよい」という意の自誓の言葉。「誓文みしゃり」「みしゃれ」「みしゃりびゃくらい」「みしゃれかったい」とも言った。「びゃくらい」は以下の本文にも出る「白癩」で、本来はハンセン病の病態型の一つを指す古い差別名。特に、皮膚が広く白く変質するタイプへのそれを指し、別に「白肌(しらはだ)」「白山瘡(はくさんそう)」などとも呼んだ。而して、ここは誓言をする際に「もし、この誓いを破れば、その業病(ごうびょう:生きながら地獄に落とされた病いとしてハンセン病は不当に差別されたのである)になってもよい」という意味で自ら誓って言った台詞であり、既にして、副詞的に変化し、「断じて」或いは「必ず」という強い決意を表わす語として使用されたのである。「かったい」も「かったいぼ」で、やはり非常に古くからあったハンセン病の差別名で、同様に用いられた。

「折たく柴の記」新井白石の自叙伝。全三巻。享保年間(一七一六年~一七三六年)に書き上げた。祖父母の時代から始め、父の生涯や自身の経歴を記し、将軍徳川家宣の補佐として幕政に尽力した「正徳(しょうとく)の治」のことや、家宣を継いだ幼将軍徳川家継の下で側用人間部詮房(まなべあきふさ)とともに幕府の改善に苦闘したことが叙述される。和文で綴られており、文学的にも優れている。家継死後、退職の時点で擱筆してある(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。以下の話は、国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。右丁の「朝比奈といひし老人の、……」がそれ。明治二七(一八九四)年の和本だが、非常に読み易い。

「慶長見聞集」「けいちやうけんもんしふ」と読む。江戸初期の見聞記。三浦浄心作。(慶長一九(一六一四)年刊。全十巻。浄心は後北条氏に仕えた遺臣であったが、江戸に出て、商人となった。北条氏のこと、合戦のこと、江戸の風俗、諸国一見のことなどを書き、後にこれを分冊して「北條五代記」・「見聞軍抄」・「そぞろ物語」・「順禮物語」として刊行した。江戸初期の貴重な記録とされ、特に「そぞろ物語」には慶長期の江戸の歌舞伎や吉原のことが書かれており、風俗資料としての価値が高い。以下の部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの明三九(一九〇五)年富山房袖珍名著文庫刊ここから読める。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊(上下二冊の「下」)の当該部で当該部が読める。「卷十一(商賈)」の「江戶の町みせ棚のさま」(「棚」は「たな」で「店」に同じ)の末尾(右ページ三行目の丸括弧内の補記の冒頭に出る)。熊楠は珍しくほぼちゃんと引用している。

   *

むかしは常の人雜談の中にも八幡白癩など誓(チカ)ことをいへり商人は殊更なり人情不直なるよりのことながら猶ほ質朴といふべし

   *

「京阪で誓文祓ひ」(せいもんばらひ)「とて十月廿日商賣の神に詣づるは、本と祇園の官者殿(素盞嗚尊」(すさのをのみこと)「の荒魂」(あらみたま)「を祭ると云)が僞誓の罪を免がれしむるとて此日羣集して年中欺賣誓言」(ねんちゆうだましうりちかごと)「の罪を祓ふたが起りだと云ふ」「誓文祓ひ」「誓文拂ひ」「誓文晴らし」とも書く。近世以来、この十月二十日に、京の商人や色町の人々が四条寺町東入ルの冠者殿社(かんじゃでんしゃ)に参詣し、平素客をだました罪を免れるよう祈る行事。また、その頃、京坂の商店で、「その罪滅ぼしのため」と称して安売りをする行事をも指す。近隣の市町村には月遅れで行なうものもある。

「倭漢三才圖會七二」中近堂版で当該部を示すと、「卷第七十二の本」の「山城」の「祇園社」野中の、「宦者殿」。所持する原本の訓点を参考に訓読する。

   *

宦者殿(かんじやでん)【御旅所(おたびしよ)の向ひに在り。素戔嗚尊(すさのをのみこと)の荒魂(あらみたま)なり。每十月廿日、群集(ぐんじゆ)して、誓文の罰を免かるることを請(こ)ふなり。辨慶、正尊(しやうぞん)を卒(ひきい)て、此に於いて誓紙(せいし)を書けり。】

   *

「正尊」は「謡曲」として知られる観世彌次郎長俊の作。土佐坊正尊は京都堀河御所の義経を討つ計画を、弁慶や義経に気づかれ、詰問され、偽りの起請文を書いて逃れ、やがて夜討ちをするものの、迎え討たれて、捕らえられるというストーリー。元は「平家物語」に基づく。

「麓の花」かの山崎美成の随筆。『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「通り魔の俗說」』の私の彼の注を参照。

「守貞漫稿」江戸後期の風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?:大坂生まれ。本姓は石原。江戸深川の砂糖商北川家を継いだ)が天保八(一八三七)年から嘉永六(一八五三)年にかけての、江戸風俗や民間雑事を筆録し、上方と比較して考証、「守貞漫稿」として纏めた。この書は明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された。但し、以前にも本書引用で誤っているのであるが、またしても熊楠の巻数二十四は誤りで、「卷之二十七【夏冬】」であった。その冬の行事を記述した中に、「十月二十日 今日、京坂ニテ誓文拂(せいもんばらひ)ト云。江戶ニテ比惠寿講と云ふ」(「比惠寿講」はママ。錯字)として出る。私は岩波文庫版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部を示す。御覧の通り、熊楠も嘆いているように、これ、名ばかりで、内実の反省意識は既に失われた感じであることが判る。

「成て仕舞たらしい」「なつてしまふたらしい」。

「目今」「もつこん(もっこん)」。目下。只今。

「黠しく成ては」「こざかしくなつては」。

「僞言吐ば山の井戶落る」「ぎげんはけば、やまのゐど」(に)「おちる」。

「益す」「ますます」。

「鄙猥」「ひわい」。「卑猥」に同じ。

「斷て」「たちて」或いは「たつて」。

「抛付けて」「なげつけて」。

「孫逸仙」南方熊楠が親交があった孫文の字(あざな)。

「用る」「もちひる」。

「倣ふた」「ならふた」。

「西鶴の武道傳來記」井原西鶴による武家仇討物の浮世草子。貞享四(一六八七)年刊。全八巻。全三十二話。

「唐天竺波羅頗密多羅譯寶星陀羅尼經八、護正法品十一に諸天龍夜叉等正法を護らんと佛前に誓ふ、詞が長いから略抄すると、已來若法師、……」以上の「寶星陀羅尼經」の引用は熊楠も言っている通り、かなり手を加えて略縮しており、「大蔵経データベース」で調べても一致しない箇所が多々ある。ちょっと困ったが、それと、「選集」の書き下し(白文はない)を参考に一部に手を加えて以下に推定訓読を示す。

   *

已來、若(も)しくは法師、若しくは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、復(ま)た、諸(もろもろ)の信心ある善男子・善女人は、妙好に施設(せせつ)して、廣く他人の爲めに分別し、此の經を開示し、讀誦の時に及べば、我等は一々(いちいち)、無量百千の眷屬と圍繞(ゐねう)し、彼(そこ)に往き、法を聽く。擁護せんが爲めの故に、衆生を成熟せしめんが故なり。我等、若し、彼(か)の城邑(じやういふ)乃至(ないし)庶民の家に往かず、及び眷屬を以つて敎-勅(をしへ)を受けしめず、衆生を成熟せしめず、衆生をして財穀豐饒・倉庫盈滿(えいまん)ならしめず、又、復た、一切の鬪諍・飢饉・疾病、他方の怨敵、非時の風雨、極寒、極熱、諸災難等を、若し、遮斷せずんば、我等は、則ち、過去未來現在の諸佛世尊を欺誑(ぎわう)せるものと爲(な)す。本誓願に違(たが)ひ、空しくして得るところ無し。白癩の病ひを得て、神通を退-失(うしな)ひ、身體、爛壞せん云々。

   *]

 

 

追 加

 鼈と雷(人類二九卷十二號四九五頁)に關してノーツ、エンド、キーリスに出した予の疑問に對し、一月十六日の彼誌五二頁にエチ、ジヨンソン氏答へて言く、波斯語で龜をサング、プツシユ(石の背)と言ふ。諸國に石や燧石や石鏃を雷の記標とする民族が多い。因て是等の意味が雷と龜鼈と密に相係はるてふ信念を生ぜしめたのだらうと。(大正四年四月人類第三〇卷)

[やぶちゃん注:「波斯語」「ペルシアご」。

「燧石」「ひうちいし」。

「雷の記標」雷(かみなり)が人にその存在をシンボルとして示し掲げたもの。

「密に」「みつに」と訓じておく。]

2022/05/29

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「アイヌの珍譚」

 

[やぶちゃん注:本論考は初回本篇が大正三(一九一四)年九月発行の『人類學雜誌』二十九巻九号に初出され、「追記」が大正五年二月の同誌(三十一巻二号)、「補遺」が大正六年十月発行の同誌(三十二巻十号)に追加されたもので、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に三篇全部が収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は本篇は所持する平凡社「選集」版のそれを二〇一三年にブログ電子化注して公開している。今回は底本が異なるので、全く零から電子化し、注もそれを全く参考にせず、独自に附した(というより、恥ずかしいことだが、最後の最後になって、電子化注をしていることを思い出したからに過ぎないのであった)。本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

    アイヌの珍譚

 

 人類學雜誌二九卷五號一九六頁に吉田君言く、沙流アイヌの老人常に語るらくメノコ、コタン島、女子のみ住で男無し云々、「最上德内この島に入って怪を探る、女陰に齒有り秋葉凋落と共に脫つ、斯くして年々生ず、試に短刀の鞘を以てす、鞘疵つくを見るに人齒の痕に異ならず」、斯る話、蝦夷近き奧州にも行はれたは、根岸守信の耳袋卷一に出たので知れる、云く、「津輕の家土語りけるは、右道中にカナマラ大明神迚黑鐵の輪伽を崇敬し、神體と崇めける所有り、古へ此所に一人の長有しが夫婦の中に獨りの娘を持ち、成長に從ひ風姿類なし。外に男子もなければ聟を撰んで入れけるに、如何なる事にや、婚姻整へ侍る夜卽死しけり、其より彼是と聟を入れけるに、或は卽死し或は逃げ歸りて閨房空しくのみ成りし故、父母娘に譯を尋ぬれば、交りの節或は卽死し又は怖れて迯歸りぬ、我も其譯知ずと答へければ、父母も歎き暮しけるが、迯歸りし男に聞し者の語りけるは、右女の與仁に鬼牙有て或は食切或は疵を蒙りしと云、此事追々沙汰有りければ、或男此事を聞て我聟に成らん迚、黑鐵にて輪伽を拵へ、婚姻の夜交りの折柄右の物を入れしに、右黑鐵の輪伽に食付しに牙悉く碎け散て殘らず碎ける故、其後は尋常の女と成し由、右黑鐵の陽物を神と祝ひ今に崇敬せしと語りし」是等孰れも誇大に過た話だが、發達不完全等で多少本話類似の障礙ある女體世に少なからず、本邦にも現に往々其例有るは屢ば醫師より聞く所ろだから、アイヌ譚も津輕の傳說も全く根據なきには非じ。凡そ民族人種の異なるに隨ひ彼處の相好結構亦差異有り、例せばハーンの目擊談に、北米のデネ隂甸の或族人が他族人を殺して其屍を扱ふの法猥にして語るに堪ず、殺されし者女人なる時殊に甚し、是れ他族の女根全く自族の者と異樣なりとて之を評論審査するに因ると(Morice, “La Femme chez les Dénés,”  Transactions du Congrés internationale des Americanistes, Québec, 1907, p.374)。曾て信ずべき人より、日本女と支那女は單に與仁を見たのみで識別し得と聞た、又佛經に五不女を說く中に角者有物如角、一名陰梃、是は Otto Stoll, ‘Das Geschlechtsleben in der Volkerpsychologie, ’Leipzi, 1908, S.546 に、南非加北米南洋等の或民族に普通だと見えた、陰唇の異常に挺出した者だらう。其最も著名なは南非のホツテントツトの婦人の特徵たる肥臀に伴う前垂(タブリエー)だ(‘Encyclopaedia Britannica,’ 11th, ed., vol.xiii, p.805)。一六七三年筆荷蘭東印度會社の醫士の經驗譚に曰く、ホツテントツト婦人の陰唇懸下して陰囊のごとし。本人之を美として誇る事甚しく、外人其廬に來れば皮裳を披いて自ら其陰相を示すと(William Ten Rhyme, An Account of the Cape of Good Hope and the Hottentotes,in Churchill, A Collection of Voyages and Travels,vol.vi, p.768, 1752)。一八〇四年龍動板 Sir John Barrow, ‘Travels in Southern Africa,’ vol.ii, pp.278-279 に言く、ホツテントツト婦人に名高き陰相はブシユメンにも有り、予輩甞てブシユメンの一群に遭ひしに此相無き婦人一人も無く、少しも風儀を害せず容易に之を觀察し得たり、此諸女の小陰唇延長する事年齡と習慣とに隨ひて差あり、此相、嬰兒に於て纔か之を認むるが、年長ずるに隨て著しく中年の婦人其長さ五吋なるを見たり、然るに實は之よりも長き者多しと云ふ、其色黝靑にして帶赤恰も七面鳥の冠の如く、形及大きさ亦之に類し、外見輪伽の萎垂せるに似たり、歐州婦人の此部は皺摺せるに此土人のは全く平滑なり。隨て其刺激機能を失へる者らしきも、又男子の强凌を捍ぐの利有りて、斯る畸態の機關有る婦女は男子其同意又協力を得るに非んば和合の理無しと。Cornelius de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americains,’ Cleves, 1772, tom.ii, pp.135-136 に、亞非利加の諸國の女子の小陰唇を切除く俗行るゝは、もとこの畸形を除いて婚姻に便を與ふる爲だつたらうと論じ居る。其作法の詳細は Dr.Ernest Godard, ‘Egypte et Palestine,’ 1867, p58 已下に出居り、埃及のカイロ府では十二三歲の女子此方を受け、又田舍では七八歲の時施術するに多くは產婆之を行ふと有る。吾邦にも茄子陰と稱して陰唇挺出せる女がある。吉田君が一九五頁に述られた大酋長の美娘の與仁靈異有て、眠中人來り逼る時聲を放つて之を警戒す。然も娘自身は知らずてふアイヌ譚の根本は、上述の陰梃あるブシユメン婦女は、本人の同意又協力を得ずして、之と會する事を得ずと云ると類似の、或る畸態を具せる娘が實在せしに在たので無からう歟。

      (大正三年九月人類二九卷九號)

[やぶちゃん注:最後の書誌は底本では最終行の下方インデント。本篇は底本では伏字箇所が二ヶ所あるが、「選集」で復元した。但し、一部の生殖器部位の呼称が「選集」とは異なっており、そこは底本に従い、以下で読みその他を注した。また、本題材についての素晴らしい論文を見つけた。『千葉大学ユーラシア言語文化論集』(二〇一八年十二月発行)に収載された、阪口諒氏とウジーニン・エフゲーニー氏の共同論文「陰部に歯のある女性の伝承:サハリンの伝承を中心に」The storis of "Women with teeth in their vagina" in Sakhalin)である(PDF)。是非、一読を強くお薦めする。熊楠の引用や、本篇にも一寸だけ触れられてある。

『人類學雜誌二九卷五號一九六頁に吉田君言く、沙流アイヌの老人常に語るらくメノコ、コタン島、女子のみ住で男無し云々、「最上德内この島に入って怪を探る、女陰に齒有り秋葉凋落と共に脫つ、斯くして年々生ず、試に短刀の鞘を以てす、鞘疵つくを見るに人齒の痕に異ならず」』これは幸い、「j-stage」のこちらで、初出全文PDF)が視認出来る。標題は「アイヌの命名につきて(續)」で、そのPDFの「8」コマ目上段から始まる、「四、陰部に因めるアイヌの說話」中の、下段末尾から次のページにかけての以下の一節である。ソリッドに引く。一部に句読点や記号を入れた。なお、「沙流」(さる)「アイヌ」というのは、北海道南部の日高西端を北東から南西に流れる沙流川(さるがわ)の流域地方(サイト「川の名前を調べる地図」のこちらで流域が確認出来る)のアイヌ民族及び彼らの使うアイヌ方言を指す。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。

   *

ホ、女陰(ぢよいん)を口に見立てたる說 膽振(いぶり)元室蘭フラバナ老爺曰ふ。昔、アイヌの大酋長に一美娘ありき。「オキ・クル・ミ」、夜、密かにこれを挑む。オキ・クル・ミ、戶を排して入らむとすれば、「イツコ・ラム。イツコ・ラム。」と連呼するものあり。「イッコ・ラム。」とは「人の入り來たり。」との意なり。「オキ・クル・ミ」、怪しみ怖れて、『四邊に、人や、ある。』と心を配れど、させるけはひ、なし。更に進み入らむとするに、また、はじめの如し。「オキ・クル・ミ」、空しく歸る。こは、件(くだん)の娘、陰部に一種の靈異ありて、睡眠中といへど、人の危害を加へむとするあれば、かかる警語の、陰部より、自づと發したるものなり。而かも、娘自身には、知らざりき、と。

 沙流アイヌの老爺某々、老嫗某々、常に語るを聞く。曰く、蝦夷島より海を隔てて「メノコ・コタン」と稱する島あり。一島、悉く、女子(をなご)のみ。かつて、男子(をとこ)、棲まず。偶(たまたま)、男子の至るあれば、歡待、いたらざるなし。有名なる殿(との)、最上德内が、アイヌ名の古老に語り傳へし實話に、德内、「メノコ・コタン」に入りて、怪を探る。女陰に齒あり。秋、葉、凋落と共に脫(ぬけ)つ、かくして、年々、生(しやう)ず。試(こころみ)に、短刀の鞘を以つて、す。鞘、疵(きずつ)くを見るに、人齒(ひとのは)の痕(あと)に異らず。女子、戰(いくさ)を好む。銷[やぶちゃん注:意味不明。鎗の誤字か?]の端に鎌をつけて德内を挑む。德内、身を以つて僅かに脫するを得たり。「彼(か)の當時の鎌の疵なり。」とて、親しく肩を脫(ぬ)き[やぶちゃん注:ママ。]露はして、撫(なで)しつつ、アイヌ某々に語りき、と。德内の外にも、彼處(かのところ)に至れるもの、その怪を見る。また、同じ。沙流海岸、今に、往々、シコロの皮、波に打揚げらる。アイヌはこれを「メノコ・コタンのアンバ(浮)」と稱す。この傳說は、石狩アイヌ間にもあり、とか。怪、益(ますます)、怪を產み、兦、愈よ、兦に底止(そこどまり)するなきは、蓋(けだし)、アイヌ說話の常習なりかし。

   *

この「最上德内」(もがみとくない 宝暦四(一七五四)年或は同五年~天保七(一八三六)年)は江戸中・後期にかけての探検家で江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身で、元の姓は高宮(「たかみや」。略して「高(こう)」とも)。諱は常矩(つねのり)。当該ウィキによれば、『実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志し』、『長男であるにも』拘わらず、『家を弟たちに任せて』、『奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後』、『師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として入牢しながら』も、『後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした』『人物でもある。シーボルトが最も信頼を寄せていたといわれる』とある。「シコロ」アイヌ語でムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense のこと。アイヌ料理にはこの実が欠かせないという。「浮」「浮き」か。意味不明。なお、ここに出る「メノコ・コタン島」は所謂、伝承上の架空の「女護が島」・「アマゾネス国」の類いと思われる。「兦」何んと読んでいるか不詳。「にげること」と私は仮に訓じた。

「斯る話、蝦夷近き奧州にも行はれたは、根岸守信の耳袋卷一に出たので知れる、云く、「津輕の家土語りけるは、……」私の根岸鎮衛の同書の完全電子化・訳注附きの内、「耳嚢 金精神の事 / 陽物を祭り富を得る事」がそれ。十三年前の古い作業なので、漢字表記が正字不全だったが、特別にこの記事のみ補正を加えた。「守信」は彼の別名の一つ。

「迚」「とて」。

「黑鐵の輪伽」「くろがねのリンガ」と読んでおく。「リンガ」は「印・記号・標識」を意味するサンスクリット語で、インド思想史上では、様々な意味で用いられるものの、民俗学では、ヒンドゥー教のそれ、「シバ神」の象徴としての男性生殖器に対する崇拝、及び、それを象った神聖像=「陽石」の意で用いられる。アーリア人以外の先住民族の間で、地母神崇拝と合体して広く行われていた比較的原始的な信仰形態・宗教である。リンガ像は通常は女性生殖器をシンボライズした皿のような台の上に、その女性陰部と思しい部分を貫く形で立っているが、後世のような即物的な形象をあまり持ってはいない。見るからに如何にもリアルなそれは、寧ろ、その対象像が比較的新しい時代に作られたものだと考えた方がよいと私は思っている。

「長」「をさ」。

「類なし」「たぐひなし」。

「迯歸りぬ」「にげかへりぬ」。

「知ず」「しらず」。

「與仁」「ヨニ」。「リンガ」の対語。同じくサンスクリット語の漢音写。外部女性生殖器或いは子宮を指すこともある。

「鬼牙」「きが」。尖った牙。

「食切」「きひきり」。

「婚姻の夜交りの折柄右の物を」「婚姻の夜」(よ)、「交」(まじは)「りの折柄」(をりから)、「右の物を」。

「散て」「ちりて」。

「過た」「すぎた」。

「發達不完全等で多少本話類似の障礙ある女體世に少なからず、本邦にも現に往々其例有るは屢ば醫師より聞く所ろだから、アイヌ譚も津輕の傳說も全く根據なきには非じ」私の知る限りでは、処女膜が非常に肥厚して通常の性交では破瓜出来ないケースがあるということを、医学専門雑誌で見たが、その場合、閉鎖性が半端ないため、結婚よりずっと以前に、生理の経血の鬱滞による症状が出て、発覚するとも読んだ。また、所謂、性交中に女性が「膣痙攣」を起こすと、男根は締め付けられ、外す事も出来ずなり、コイツスした状態で、救急搬送されたという事実も雑誌記事で見かけたから、こうしたものが、実体としての「刃のあるヴァギナ」であろうかと私は推察する。一方で、これはエディプス・コンプレクスの一変形であり、男子が自分の母によって男根を嚙み切られるというグレート・マザー由来の神経症的深層心理に発するものとも思われる。これは、私が高校教師になった当時、都市伝説として勤務校でも半数を超える生徒が実在するとして恐れていた「口裂け女」のその裂けた口と尖った牙列を縦にしてみれば、「牙を有したヴァギナ」であることは容易に想起出来るからである。私は当初からそう考えていたが、風評が社会現象となるに及んで精神科医が、私のそれと同じことを言っていた。因みに、私は独自に考え、「ポマード」という言葉を嫌う性格、「鼈甲飴(後に一般に入手し易い「ペロペロ・キャンディー」に変化する)を投げると、大好物なので、追うのをやめて食べだし、彼女から逃げられる」とい二点から、一九七九年の末には、これは「ポマード」と「鼈甲」から「髪」に関わり、また、好物を食べる内に彼女から逃げ切れるという構造が「呪的逃走」譚の定番であることから、私は生徒たちに「『口裂け女』の民俗学的ルーツは、「古事記」にある、黄泉の国に行って「よもつへぐい」をして暗黒神となってしまった伊耶那美が、醜い姿を夫伊耶那岐に見られたことから、殺害せんとする復讐神に転じ、遁走する伊耶那岐を「よもつしこめ」らとともに追いかけたあのエピソードが元である。」と説明した。皆、せせら笑っていた。しかし、後に、殆んどそれと同じことを著名な若手民俗学者が論文を書いて発表されるや、世間はそれを指示した。私が「論文で書いて、雑誌に投稿していたらなぁ!」と悔しがったことは言うまでもない。

「彼處」「かしこ」。

「ハーンの目擊談に、北米のデネ隂甸」(インヂアン)「の或族人が他族人を殺して其屍を扱ふの法」、「猥」(みだら)「にして語るに堪」(たへ)「ず、殺されし者女人なる時殊に甚し、是れ他族の女根」(ぢよこん=会陰部)「全く自族の者と異樣」(ことやう)「なりとて之を評論審査するに因ると(Morice, “La Femme chez les Dénés,”  Transactions du Congrés internationale des Americanistes, Québec, 1907, p.374)」「デネ」「ディネ」(英語:Dene)はナ・ディネ語族の南北アサバスカ語族を話す先住民族の自称。「北部アサバスカ諸語」(カナダのインディアン部族の言語)を話す「ヘアー・インディアン(hare indan)」及び「アラスカとカナダのディネ(先住するインディアン諸部族)」と、「南部アサバスカ諸語」(アメリカのインディアン部族の言語)の「ナバホ族(Diné, Navajo)」及び「アパッチ族(Indé, Apache)」のことを指す(当該ウィキに拠った)。提示された引用書はカナダの宣教師エドリアン・ガブリエル・モリス(Adrien-Gabriel Morice 一八五九年~一九三九年)の「ディネ族の女たち」「Internet archive」のフランス語原本ではここ。「ハーン」なる人物は不詳。

「五不女」「女性たる者としては深刻な先天的欠陥五つ」の意か。

「角者有物如角、一名陰梃」『角(かく)』とは、物、有りて、角(つの)のごとし。一名、「陰梃(いんてい)」。皓星社「隠語大辞典」によれば「陰梃」は「陰挺」に同じで、俗に「茄子(なすび)」と隠語し、婦人の陰部に生ずる異状の肉様の隆起を指すとし、次に「陰庭」「前庭」とも称し、女陰の一部である尿道と腟口との間の、小陰唇に囲まれた部分を言う(ここは正常な部位の名)とあった。ここは無論、第一義のそれを指す。

は、明治以降の隠語解説文献や辞典、関係記事などをオリジナルのまま収録し

Otto Stoll, ‘Das Geschlechtsleben in der Volkerpsychologie, ’Leipzi, 1908, S.546」スイスの言語学者で民族学者オットー・ストール(Otto Stoll 一八四九年~一九二二年)が一九〇八年に書いた「民族心理学に於ける性生活」。「Internet archive」で原本が見られるが(当該ページ)、ドイツ語で書かれており、私には全く読めない。

「南非加」南アフリカ。以下の「南非」も同じ。

「ホツテントツトの婦人の特徵たる肥臀に伴う前垂(タブリエー)」「ホツテントツト」(Hottentot)現在でも私より上の人々はかく呼んでいるが、差別用語であるので、厳に慎むべきである。現在は「コイコイ人」と呼ばれる。南アフリカ共和国からナミビアの海岸線から高原地帯及びカラハリ砂漠などに居住している民族。詳しくは当該ウィキを参照されたいが、そこに以下の概ね人口形成になる「伸張陰唇」の他に、『臀部が極端に突出している特徴があり、これは脂臀と呼ばれる。また、男性は睾丸の片方を除去する半去勢と呼ばれる通過儀礼を行っていた』とある。熊楠の言う「肥臀」(ひでん:steatopygia。「殿部脂肪蓄積」。スティアトウピジア)である。これは当該ウィキによれば、『脂臀(しでん)とは、臀部と大腿における組織の相当なあるいは大した水準を有する状態である。この造りは 臀部の範囲に限らず、 大腿の外側と前方に広がり、そして膝に向かって先細りになる』。『臀部領域での脂肪組織の蓄積の増大を引き起こす遺伝的特性である脂臀は、南アフリカ出身の一部の幾らかの女性に見られる。最も多い(しかしこれに限らない)のは、南アフリカのコイサン族と中央アフリカのピグミー族で』、『アンダマン諸島のオンゲ族のようなアンダマン人の間にも観察される。この遺伝的特性は女性の間で広く見られるが、しかし男性でも低い度合いで生じる』。『脂臀は、かつてアデン湾から喜望峰までに広がる人々の特性としてみられてきた』ようで、『それらの人々はコイサン族とピグミー族の名残かもしれない』。『コイサン族では、それは子供の時からあり、最初の妊娠のときに完全に発達する』。『この特徴は、かつてもっと広がっていた事を示唆されてきた。ヨーロッパからアジアまで発見される、しばしば「脂臀的ビーナス」の姿として表現される、旧石器時代のビーナス豆像は、顕著な大腿の発達と、そしてまさに陰唇の延長(英語: elongated labia)を示す。この事は学説の裏づけに用いられてきた。これらは写実、誇張、もしくは理想としての表現を意図したいずれのものであるのかは明らかでない。しかしながら、脂臀は現代の医学的標準により背中と尻との角度がほぼ』九十『度しかない特徴を示すのに対して、おおよそ』百二十度もの『角度を示すこれらの豆像は、脂臀とは見做されないかもしれない』。『ビクトリア朝のイギリスで、見世物小屋は』、『しばしば脂臀の女を食い物にした。最もよく知られた例はサラ・バートマンという名の南アフリカのコイコイ族』『の女だった彼女は脂肪性浮腫(英語: lipedema)に罹っていると思われ』ていたとある。彼女は以下の伸張陰唇の紹介にも関わる女性である。さて、「伸張陰唇(しんちょういんしん)」であるが、「Elongated labia」「Sinus pudoris」「macronympha」などと学術的には呼ばれ、通称では「コイコイ・エプロン」(khoikhoi apron)あるいはかつては「ホテントットのエプロン」とも呼ばれて知られる。これは、当該ウィキによれば、『特定のコイコイ人の特徴であり、その女性のメンバーらは比較的細長い小陰唇を発達させ、直立した姿勢で立っているとき』、『外陰部の外に最大』で十・一六センチメートル『ぶら下がっている』。『陰唇は意図的な陰唇拡張によって形作られることもあり、これは通例、女の子に対して年上の叔母によって行われ』、五『歳から始まり、これは以前はタイプIV 女性性器切除(Type IV female genital mutilation)のカテゴリーに分類されていた慣行である』二〇〇八年に、『世界保健機関は、危害の認識された欠如と、それを実践する人々による、女性のセクシュアリティの報告されたよりポジティブな認識のために、この慣行を身体改造(body modification)として再分類し』直している、とある。

「廬に來れば」「いへにきたれば」。

「皮裳」「かはもすそ」と訓じておく。

William Ten Rhyme, An Account of the Cape of Good Hope and the Hottentotes, in Churchill, A Collection of Voyages and Travels, vol.vi, p.768, 1752」一六七三年にオランダ東インド会社に雇われたオランダの医師で植物学者のウィレム・テン・ライネ(Willem ten Rhijne 一六四七年~一七〇〇年)はオランダ人が定住した初期のコイコイ人の生活と、アジアのハンセン病に関する先駆的な本の他、茶や日本の鍼灸の研究でも知られる。当該書は「希望峰とホッテントットの解説」。

「一八〇四年龍動」(ロンドン)「板 Sir John Barrow, ‘Travels in Southern Africa,’ vol.ii, pp.278-279」イギリスの東洋学者で官僚のジョン・バロー(John Barrow 一七六四年~一八四八年1123日)の著。

「陰相」「いんさう」。陰部の外的形態。

「五吋」「ごインチ」。十二・七センチメートル。

「黝靑」「うすぐろあを」と訓じておく。

「帶赤」「おびるあか」と訓じておく。

「類し」「るゐし」。

「萎垂」「いすい」。縮んで垂下すること。

「皺摺」「しうしふ」(しゅうしゅう)。皺(襞)が寄ること。

「强凌」「がうりやう」。強姦。

「捍ぐ」「ふせぐ」。

「非んば」「あらずんば」。

「理」「ことわり」。

Cornelius de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americains,’ Cleves, 1772, tom.ii, pp.135-136」オランダの哲学者・地理学者にして外交官であったコーネリアス・フランシスカス・デ・ポゥ(Cornelius Franciscus de PauwCornelis de Pauw  一七三九年~一七九九年)の「アメリカ人に関する哲学的研究」。

「亞非利加の諸國の女子の小陰唇を切除く俗行るゝ」風俗習慣としての女性生殖器の一部切除を指す。サイト「MSDマニュアル」の「小児科 」/「小児虐待 」/「女性性器切除」によれば(コンマを読点に代えた)、『女性性器切除はアフリカの一部(通常北または中央アフリカ)において日常的に行われており、地域によっては文化の一環として深く根づいている。中東での一部でも行われている。性の喜びを経験した女性は制御できないとみなされ、敬遠されて結婚できないために行われるとされている』。『切除を受ける女児の平均年齢は』七『歳であり、切除は麻酔なしで行われる。WHOが定義した女性性器切除には主に以下の』四『種類がある』。『I型:陰核切除―陰核の一部または全切除、まれに陰核周囲の皮膚ひだ(包皮)のみ切除』。『II型:切除―陰核および小陰唇の一部または全切除、大陰唇の切除を伴う場合と伴わない場合がある』。『III型:陰部閉鎖―月経と排尿のための小開口を残して陰唇の切開と再建により』、『封鎖を形成し』、『腟開口部を狭小化する』。『IV型:その他―医療以外の目的で女性性器に行われるあらゆるその他の有害な処置(陰部の穿刺、ピアス、彫り物[切開]、擦過、焼灼)』。『性器切除の後遺症として、術中または術後の出血、感染症(破傷風を含む)などがありうる。陰部封鎖された女性には、反復性の尿路および』、『または』、『婦人科系感染症および瘢痕化の可能性がある。女性性器切除後に妊娠した女性は、分娩時に重大な出血を来す可能性がある。精神的な後遺症が重症となりうる』。『女性性器切除は、この慣習に反対してきた宗教指導者の影響や、一部地域社会において高まりつつある抵抗により、減少しているものと考えられる』とある。また、一見、広義の「割礼」と同じような仕儀ではあるが、現行、存在する如何なる宗教の起源による儀式でもない。「日本ユニセフ協会」公式サイト内の「世界の子どもたち」のこちら二〇一三年の記事では、『ギニアでは、15歳から49歳の女性の96%が女性性器切除を受けています。そのうち22%は4歳になる前、60%は9歳の誕生日を迎える前に施術が行われています』。『女性性器切除はイスラム教の宗教的慣習だと、多くのギニア人が信じています。しかし、宗教指導者はその事実を否定し、ユニセフの調査においても、宗教とこの慣習との関連が認められないことが分かっています。女性性器切除はイスラム教やキリスト教の成立よりも前から存在しており、どの宗教の教典にも、この慣習の実施を求める記述はありません。それにもかかわらず、宗教上必要な儀式であると、多くの人が信じていることも、この慣習が依然として広く行われている理由のひとつです』。『ギニアでは1965年から女性性器切除が違法になっています。そして2000年の法改正の際に、更に強化されました。ユニセフ・ギニア事務所は先日、首都のコナクリで、子どもへの暴力に関する法律施行の講習会を開催し、法律があるにもかかわらず適用が難しい現状を、課題に挙げました』。『「女性性器切除は伝統的な慣習です。地域の人々の信仰に奥深く根付いているものなのです」と、ラマ司法補佐官が語ります』。『ギニアには女性性器切除を禁止する法律があるにもかかわらず、この慣習の根絶に向けた取り組みは進んでいません。警察官や司法当局が子どもの権利や、女性性器切除が女の子や女性に与える甚大な危害を理解していたとしても、実際に法律を行使することは極めて難しいものです』。『「たとえば、祖母が娘を女性性器切除に連れて行こうとしていると正式な訴えが父親からあった場合、私たちが間に入り、祖母を説得します。ギニアでは、父親が祖母の意見に反対すると、家庭が崩壊してしまうということがよくありますから」(ラマ司法補佐官)』。『農村部のコミュニティでは、家族という単位がとても大切にされており、家族がいなくては生活をすることができません。ですから、女の子を家族から引き離して保護することは、とても難しいのです』とある。私は二十六歳の時に世界的な民俗学書を乱読し、その時に、この事実を知った。それから四半世紀、未だにこの忌まわしい儀式は現に生きているのである。

「もとこの畸形を除いて婚姻に便を與ふる爲だつたらうと論じ居る」意味不明。破瓜の痛みを比較的に感じさせないことを言うか。

Dr.Ernest Godard, ‘Egypte et Palestine,’ 1867, p58」フランスの医師・人類学者で旅行家でもあったエルネスト・ゴダール(Ernest Godard 一八二六年~一八六二年)の著作。

「茄子陰」「なすいん」。既出だが、特にそれが生まれつき肥厚しているものを指す。]

 

 

追 記

 人類學雜誌二九卷九號三七二頁に、予ホツテントツト人等の婦女の畸態陰相タブリエーを「前垂れ」と譯し置た。頃日當田邊町の川端榮長てふ老人若き時大阪堂島で相場を事とし、其間博く松島の遊廓を見た懷舊譚をするを聞く中「又前垂れ陰と名づくるを僅々數囘見た」てふ冒頭で說く樣子、バローが「斯る畸態の機關ある婦女は男子其同意又協力を得るに非んば和合の望無し」と言るに符合したので、吾邦人にも此畸態あるを知り、併せて予の譯語の偶中を悅んだ。扨根本說一切有部毘奈耶雜事十三、又大寶積經の入胎藏會十四之一に或產門如駝口と有るは此前垂陰であらう。三七三頁に書た茄子陰は、善見毘婆娑律十三に根長崛出兩邊者で、女根中肉長出有毛又角者如物角、一名陰梃は吉舌特に長き者であらう。L. Martineau, ‘Lecons Sur les Deformations Vulvaires et Anales,’Paris,1886)に六つ迄其圖を出し有る。

      (大正五年二月人類三十一卷)

補 遺

 (人類二九卷九條三七一頁以下、三十一卷二號六五頁)

 人類學雜誌二九卷九號に沙流アイヌと奧州津輕に行はれた女陰に齒有る譚を吉田巖君の記と耳袋から引いたが、その後能登國名跡志坤の卷を見るに、入左近の子太郞なる者、唐土の王女斯る畸態有る者に會ひ、津輕の傳說同樣の妙計もて常態とならしめ其婿と成た次第を載せ有る。委細は大正六年四月發行大日本地誌大系諸國叢書北陸の壹の三三九頁に就て見るべし。

      (大正六年十月人類第三十二卷)

[やぶちゃん注:以上の「追記」と「補遺」は底本では本文がポイント落ちである。前者には伏字があるが、「選集」で復元した。

「置た」「おいた」。

「頃日」「このごろ」。

「川端榮長」不詳。

「大阪堂島」江戸時代から昭和初期まで米市が置かれ、世界的にも最初の商品先物取引が行われ、それに付随して幕府公認の茶屋の設営が許可され、大坂市街(大坂三郷)の北に位置していため、「北の遊里」「北の色里」などと呼ばれる繁華街として栄えた。ここ

「松島の遊廓」この附近にあった。

「或產門如駝口」「或る產門は駝の口のごとし」。「駝」はラクダであろう。

「根長崛出兩邊者」「根の、長く崛(そばだ)ちて、兩邊に出づる者。」。

「女根中肉長出有毛又角者如物角、一名陰梃」「女根の中(うち)、肉、長く出でて、毛、有り、又、角(かど)あるは、物ありて、角(つの)のごとく、一(いつ)に『陰梃』と名づく。」。

「吉舌」陰唇。

L. Martineau, ‘Lecons Sur les Deformations Vulvaires et Anales,’Paris,1886)」「外陰部と肛門の変形に関する講義」。ルイス・マルティーヌ(Louis Martineau)とM . Lormandなる人物の共著のようである。

「能登國名跡志坤の卷を見るに、入左近の子太郞なる者、……」幸いにして熊楠の指示する「大正六年四月發行大日本地誌大系諸國叢書北陸の壹の三三九頁」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該箇所を発見出来た。左ページ上段の中央よりやや後ろからの記事がそれである。]

2022/05/28

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「桃太郞傳說」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正三(一九一四)年九月発行の『鄕土硏究』二巻七号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

    桃太郞傳說

 

 犬を伴れて島を伐つた話は南洋にもある。ワイツ及ゲルラントの未開民史(一八七二年板卷六の二九〇頁)に云く、「タヒチ島のヒロは鹽の神で、好んで硬い石に穴を掘る。甞て禁界の制標たる樹木を引拔いて守衞二人を殺し、巨鬼に囚へられたる一素女を救ひ、又多くの犬と勇士を率ゐて一船に乘り、虹神の赤帶を求めて島々を尋ね、每夜海底の怪物鬼魅と鬪ふ。或時窟中に眠れるに乘じ闇の神來りて彼を滅さんとするを見、一忠犬吠えてヒロを寤し、ヒロ起きて衆敵を平ぐ。ヒロの舟と柁竝に彼犬化して山及び石と爲れるが其島に現存す云々」。桃太郞が犬つれて鬼が島を攻めた話にも、諸國に多い、忠犬主を寤して殺された話にも、似た所が有る。タヒチ島は日本とは餘程隔たり居るが、神話や舊儀に日本上古の事物と似たことが多い。然し予は此故に、直ちに桃太郞の鬼が島攻はタヒチから日本へ移つたとも、日本から彼地へ傳へたとも速斷する者でない。篤と調べたら他の諸國にも多く似た譚があるのであらう。又以前有つて今絕えたのもあらう。

        (大正三年鄕硏第二卷七號)

[やぶちゃん注:最後の初出書誌注記は底本では、最終行の下方インデント。

「ワイツ及ゲルラントの未開民史」は平凡社「選集」では、『ヴァイツ及ゲルラントの『未開民史(ゲシヒテ・デル・ナチユルフオルケル)』とあるが、これはドイツの心理学者・人類学者テオドール・ヴァイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)及びその死後に著作を補巻したドイツの人類学者・地球物理学者ゲオルク・コーネリアス・カール・ガーランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)によるの共著‘Anthropologie Der Naturvolker’(「原始人の人類学史」)のことであろう。なお、知られた南方熊楠のシリーズ「十二支考」の「犬に關する民俗と伝說」のコーダにも(当該部最終章「四」の初出は、大正一一(一九二二)年十二月博文館発行の『太陽』十四号。所持する「選集」から引用した)、

   *

 桃太郎の話は、主として支那で鬼が桃を怖るるという信念、それから「神代巻」の弉尊が桃実を投げて醜女を却(しりぞ)けた譚などによる由は古人も言い、また『民俗』一年一報、柴田常恵君の説に、田中善立氏は福建にあったうち、支那にも非凡の男児が桃から生まれる話あるを聞いた由で、その話を出しおる。それらは別件として、ここにはただ桃太郎が鬼が島を伐つに犬を伴れ行ったという類話が南洋にもある事を述べよう。タヒチ島のヒロは塩の神で、好んで硬い石に穴を掘る。かつて禁界を標示せる樹木を引き抜いて守衛二人を殺し、巨鬼に囚われた一素女を救い、また多くの犬と勇士を率いて一船に打ち乗り、虹の神の赤帯を求めて島々を尋ね、毎夜海底の妖怪鬼魅と闘う。ある時、ヒロ窟中に眠れるに乗じ、闇の神来って彼を滅ぼさんとす。一犬たちまち吠えて主人を寤(さま)し、ヒロ起きて衆敵を平らぐ。ヒロの舟と柁(かじ)、並びにかの犬化して山と石になり、その島に現存すというのだ(一八七二年ライプチヒ版ワイツおよびゲルラントの『未開民史(ゲシヒテ・デル・ナチユルフオルケル)』六巻二九〇頁)。

   *

とある。

「伐つた」「うつた」。

「素女」「そぢよ」。仙女。

「平ぐ」「たひらぐ」。

「柁」「かじ」。

「篤と」「とくと」。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「女の本名を知らば其女を婚し得る事」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正三(一九一四)年四月発行の『鄕土硏究』二巻二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     女の本名を知らば其女を婚し得る事 (鄕硏一ノ四二五頁參照)

 

 一八九八年板、デンネツトのフヰオート(佛領コンゴ國)民俗註第四章に、貴人ンサツシ、忠犬を伴れネンペトロの二女を娶んと望む、ネンペトロ、富たる故幣餽を望まず、二女の名を言中てたら妻に與ふべしと答ふ。ンサツシ失望して去る、犬留つてネンペトロが二女を呼ぶを窃み聞き、走り歸る途中飢渴して飮食し、忽ち忘るゝ事二囘なりしも屈せず復往って聞覺え、歸りて其主に告げ、ンサツシ終に二女の名を其父に告て婚し得る譚有り。又菅丞相貴女の繪に筆を落し流されし話と同趣向の者、西鶴の新可笑記卷二「官女に人の知ぬ灸所の條」有り、佛師が皇后の木像胸邊に墨落せりとし、唐土にも吳道子宮女の寫生繪に筆落として疑はれし例有りと述べたり。

       (大正三年鄕硏第二卷二號)

[やぶちゃん注:平凡社「選集」では、添え辞は三行書きのポイント落ち下方インデントで、

   *

南方「呼名の霊」参照

(『郷土研究』一巻七号四二五頁)

本書「郷土研究一至三号を読む」所収

   *

とある。これは大正一五(一九二六)年岡書院発行の「續南方随筆」に纏めて載る、その内の「鄕土硏究一至三號を讀む」の中の一節、「○呼名の靈」の記事(大正年二年九月発行の『郷土研究』初出)指す。ここからであるが、フライングして電子化するつもりは全くないので、以上の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認されたい。

「デンネツトのフヰオート(佛領コンゴ國)民俗註」「選集」では『『フィオノート(仏領コンゴ國』民俗註(ノーツ・オン・フオクロール)』とある。これは、二十世紀初頭、現在のコンゴ共和国を拠点として活動したイギリスの商人で、西アフリカの文化についての社会学的・人類学的・民俗学的研究に影響を与えた本を数多く執筆したリチャード・エドワルド・デンネット(Richard Edward Dennett 一八五七年~一九二一年)の一八九八年の著作‘Notes on the Folklore of the Fjort (French Congo)’のこと。ここで原文が全部読め、その‘IV. How Nsassi (Gazelle) Got Married.’がそれである。

「娶ん」「めとらん」。

「幣餽」「へいき」。謝礼として夫へ渡す贈り物。本邦で言う結納。

「言中てたら」「いひあてたら。」。

「窃み聞き」「ぬすみきき」。

「復往て」「またいつて」。

「聞覺え」「ききおぼえ」。

「終に」「つひに」。

「菅丞相貴女の繪に筆を落し流されし話」不詳。識者の御教授を乞う。

『西鶴の新可笑記卷二「官女に人の知ぬ灸所の條」』国立国会図書館デジタルコレクションで昭和四(一九二九)年日本古典全集刊行会刊の「西鶴全集」のこちらから、活字本でと読める。

「吳道子宮女の寫生繪に筆落として疑はれし例有り」盛唐の、玄宗に仕えた著名な画家呉道玄(生没年不詳)の逸話で前の「新可笑記」の末に「「斯かる例(ためし)は唐土(もろこし)にも吳道子と云へ畫師の官女の寫し繪に、こぼれ墨其儘に痣子(ほくろ)と疑はれしも、佛師木眼(もくげん)が身の上に同じ」とも出るが、詳細不詳。識者の御教授を乞う。]

2022/05/26

柳田國男「水の神としての田螺」

[やぶちゃん注:本篇は『人類學雜誌』第二十九巻第一号に初出された論考(掲載誌では「雑録」パートに入っている)である。私は本日、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「水の神としての田螺」(全二回)』を注するまで、柳田のこの論考を全く知らなかった。それは、所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」に載らず、親本である同社の「定本柳田國男全集」(数冊所持する)も調べたが、やはり載っていなかったからである。調べたところ、現行の新たな一九九九年刊の同社の「柳田國男全集」二十九巻に収録されていることが判明したが、試みに調べたところが、「j-stage」のこちらで初出を見出せたPDF)ので、ここに電子化することとする。]

 

    ○ 水の神としての田螺

            柳 田 國 男

 淵沼池のヌシに鯉、鯰、鰻などを說くは屢々聽くところなれども、或は又田螺を水のヌシと崇むる地方あり。日本の水神信仰の變遷を硏究するものにとりては、頗る注意すべき手掛りならんと考へ、先づ其の數例を集錄して、諸家の考證を待つべし。栗太志卷十二に依れば、物部鄕玉岡庄出庭村卽ち今の滋賀縣栗太郡葉山村大字出庭(デバ)に、出庭大明神二座います。神事は四月十日也。此神田螺を以て使令(ツカハシメ)とす。氏子等田螺を畏れ敬すること神の如し。他村に往き田螺を烹たる火を知らずして煙草など薰らすれば、忽ち戰慄を生じ、病みて數日に至る。况や之に觸れ又は食ふ者をや。耕作の時田に此物あれば、斷りをして社地に移したる後に非ざれば耕作せず。此村へ緣附きたる者、此相火の物を食ひて永病したる實例ある也(以上)。田螺を食はぬと云ふ點は鷄精進(トリシヤウジン)の類なるが如きも、神地に移すとあるを見れば、神前の池などに此物多く棲息せしなるべし。此と同じ地なりや否を知らざるも、觀惠交話卷下には左の記事あり。曰く江州に淡婦(マ﹅)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]大明神の社あり。其の前の池に大さ二三尺まはりの雌雄の田螺あり。旱[やぶちゃん注:「ひでり」。]に池をかへほし捕れば其まゝ雨降る。後又もとの如く池に放つ。其近邊の者には大に祟るなり(以上)[やぶちゃん注:原本は「崇る」であるが誤字と断じて訂した。後も一ヶ所、同じ処理をした。]。右二つの記事同じ社のことなりとすれば、二書の記述には七八十年の時代の差あれば、口碑變化の興味ある一例なるべし。雨乞の行事には神を怒らしむる目的のもの多く、地元の人民は槪して之れを好まず。從つて觸るれば祟ると云ふ俗信は常に八釜しく傳へられてある也。

 越後には白田螺の話甚だ乏しからず。例へば越後野志卷十四に、蒲原郡彌彥庄丸山村の御洗水池、此池の鮒は皆一目眇[やぶちゃん注:「すがめ」。]なり、又白田羸(シロタニシ)を出すとあり。尙同郡下田鄕蘆ケ平村の磨於比池(マオヒイケ)は深山中の靈湫[やぶちゃん注:「れいしう」。神聖な水域。]なり。土人漫に[やぶちゃん注:「みだりに」。]人の到ることを禁止す。白田蠃を產す。天旱するとき雨を乞ひ、祈るに驗あり。土人神とし祭り畏敬す云々とも見えたり。越後名寄卷二十には、之を古志郡蘆ケ平村と云ひ、稍詳細の記事あり。尤も此村の所在、前者には五十嵐川の上流と云ひ、後者には、諏門嶽(スモンダケ)の北麓八十里越の谷なりと云へり。同じ池の噂なることは疑なし。名寄の說にては、蘆ケ平の山中には三つの池あり。底知れず。爰に田螺あり、色白く美なり。岸に浸りし篠竹、柴などに附き居れり。大旱に雩[やぶちゃん注:「あまひき」。雨乞い。]をするとき、彼池に行き隨分音せぬやうにして取るなり。少しにても物音をすれば、水底に轉び入りて取ること難し。是を取得て大旱の雨を望む村里へ持ち來るに、降らずと云ふことなし。雨を得れば本の池に返し放つなり。自然過ちて殺すか又は失ひなどして返さゞれば、彼池大に荒れて洪水し、麓なる蘆ケ平村甚だ艱難[やぶちゃん注:「かんなん」。難儀でつらい目に遭うこと。]に及ぶ。故に村にては一向取らせじとするとぞ。深山なれば不知案内にては行く事成り難く、密かに村の者をすかし忍びてすること也。晴れたる日にも對岸には雲の懸りてある怖しき池なり。寬政六年の旱には村松藩の使捕りに往きしが得ず。只池の岸にて山伏に祈らしめしが雨降らず。それより六十年前には、池の底に潜り入り、方二丈ばかりの淵より白蟹(シロカニ)を得て返りしに、雨降りしことありと云ふ(以上。深山の池に棲み蝸牛などの如く、岸の竹樹に遊ぶと云ふ貝をタニシと斷定したるは何故なりしか。單に動物學上の問題としては、此ほど難儀なる問題はなかるべし)。白井眞澄の遊覽記卷三十二下、羽後北秋田郡の打戶(ウツト)と云ふ地の記事に、沼平(ヌマダイ)とて大なる沼あり。此沼の田螺(ツブ)は皆左り卷きにして、大なるは石碓[やぶちゃん注:「いしうす」。]ほどなるがあり。これを親ツブとて沼の主とす。されど水深ければ(著者は)淺岸にて拳ほどなるを見たるのみとあり。關東には田ニシを田ツブ又は單にツブと謂ふ地方多し。思ふにニシもツブも共に海に住む大形の貝なるを、比較に粗なる農人等、之と稍似たる一物の水田に居るを以て、直に其同類なりとし、此の如き名を下せしなるべし。彼の土中にホラと云ふ貝棲むと傳へ、亦は谿谷の崩壞するを、ホラ※[やぶちゃん注:「米」=「秡」の異体字。「グリフウィキ」のこれ。しかし、これは「拔」の誤字ではあるまいか?]と名づけ、此物時ありて逸出するが爲なりと稱するが如きは、一つには法螺を貝の名なりと誤りしこと、二つには洞又は狹き谷をボラと呼ぶ日本語あるより、二者の關係あるが如く考へたる結果の俗說ならんも、更に又地中より色々の貝殼現はれ、池沼の淺き處又は水田に、妙な貝の生息する事實も、幾分か斯る誤謬を助長せしこと[やぶちゃん注:約物であるが、ひらがなにした。]なるべし、結局するところ田ニシは微物なれども、田舍人は之を深海靈物の先陣の雜兵ぐらゐに考へて、畏れ且つ敬せしものならんか。新編武藏風土記稿を見るに、武藏橘樹郡田島村大字中島、即ち今の川崎大師堂の附近にも一箇田螺石と云ふ靈石あり。昔弘法大師筑波へ修行の途次、此邊に田螺多くして水田の障[やぶちゃん注:「さはり」。]となるを見て、法力を以て田螺の王を此石の中に封じ籠め、それより二鄕其の災を免かれたりと傳ふ(以上)。此田螺の親玉も例のホラなるべしと認む。

[やぶちゃん注:「栗太志」明治一六(一八八三)年に田中適齋貞昭によって書かれた滋賀県栗太郡の地誌であるようだが、原本はネットでは閲覧出来なかった。しかし、それを受け継いで新たに滋賀県栗太郡役所編で大正一五(一九二六)年に刊行された「近江栗太郡志」の巻四を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したところ、その「神社志」の「第七節 葉山村」の出庭(でば)神社の項のここに、以下の記載を見出すことが出来た。前の文章の最後に、『田中適齋の栗田當社の條中に』とあって、

   *

 三  ツ  石

  正殿ノ側ニ在リ往古ヨリ埓シテ之ヲ崇ムルヿ[やぶちゃん注:「事」の約物。]神ノ如シ、村人ニ其故ヲ尋ヌレトモ知ルモノナシ、

と見ゆるは古墳の石※[やぶちゃん注:「※」=「土」+「廓」。]の一部ならん、社前に石の大賓塔一基あり總長一丈にも達すべし、此石も亦石*[やぶちゃん注:前の「※」の(つくり)を「廊」としたもの。]の石を用ひて鎌倉若くは足利時代に製作せしにやに想はる、當社に一の奇傳說あ今り栗太志に左の如く記す、

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ]

此神ニ一ノ奇異アリ田螺ヲ以テ使令トス、氏子等田螺ヲ恐レ敬スルヿ神ヲ敬スルガ如シ、若シ他村ニ行キ田螺ヲ烹タル火ヲ不知シテ誤テタバコナド薫スレバ忽戰慄ヲ生シ病テ數日ニ至ル、况ヤ田螺ニ觸或ハ食フ者ヲヤ、故ニ耕作ノ時田中ニ田螺アレバ拜シテ其故ヲコトハリ[やぶちゃん注:ママ。]社地ニ移シテ後耕作スルナリ、余也[やぶちゃん注:「よや」。私は。]奇ヲ好マズ故ニ謂ラク田螺ニ靈アルニ非ズ氏子ヨリ靈トスルガ故ニ如斯奇異アルナルベシト云キ、然ルニ余ガ緣者矢島村某ノ女此村某ニ嫁ス翌年春ノ頃ヨリ病テ勞症ノ如シ、諸醫萬方ニスレトモ不癒、因テ此神ニ禱卜[やぶちゃん注:

たいぼく」。]ス、巫祝[やぶちゃん注:「ふしゆく」。]曰、田螺ノ相火ナリト【此村ノ方言ニ田螺ヲ烹ル家ニ入ルヿヲ相火ト云フ】此婦嫁シテ幾年モアラザレバ田螺ノ靈威ナルヿヲコトヲ不知、又田螺烹ル家ニ行キタルヿヲ覺ヘズ[やぶちゃん注:ママ。]ト云、然レトモ猶深ク穿鑿シレバ歸省ノ日下部[やぶちゃん注:「ひ、しもべ」。]ノ者共烹テ之ヲ食フ、其火ヲ以テ飯ヲ炊キ及ヒ茶ヲ煎シタリコレヲ食スルニ依テナルベシト、直ニ此事ヲ罪トシテ此神ニ祈リケレバ次第ニ全快ス、嗚呼奇中ノ奇ナルカナ、

   *

とあった。柳田國男が見たのは、まさにこの引用部分であることが判る。サイト「JAPAN GEOGRAPHIC」の中山辰夫氏による同神社のページがあるが、真新しい田螺の奉納石碑が確認出来るので、この信仰や禁忌は守られているものと考えてよい。また、そこに、『田螺について』とあって、『出庭神社の氏子は田螺を食わない。いやそれどころか田螺を恐れ且つ敬うさまは神様のそれと変わらない程という奇伝説がある。それについては色々の話がある』。『さる百姓が他村に出かけて行って煙草の火を借りて一服喫った所が俄かに寒気がしてならない。大病となったが、それは田螺を煮た火で煙草をつけたことによる。他に、この村へ嫁いできた丈夫な女が、突然』、『病に侵され、病名が分からないうちに衰弱が激しくなり、卜ってもらうと「これは田螺を煮ている家の門口をまたいだに違いない。そのおタタリだ』……『」とのこと。調べてみると、里帰りの途中で立ち寄った親戚が、田螺を煮て食ったばかりで、勧められたお茶もその田螺を煮た火で煎じたものと分かり、神様にお詫びして全快したという』。『里人は野良仕事の時など田螺が一つでもいたら田螺に礼拝し、訳を断りお宮の境内に移してから耕作したという』とあり、前者はこの柳田の話と一致し、後者の話は以上の記載と合致する。

「物部鄕玉岡庄出庭村卽ち今の滋賀縣栗太郡葉山村大字出庭(デバ)に、出庭大明神二座います」現在の出庭神社は滋賀県栗東市出庭のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

「鷄精進(トリシヤウジン)」知られたものでは、「河津の鳥精進酒精進」がある。当該ウィキを参照。一定期間、鶏肉・鶏卵・酒を禁忌とするもので、『いまでも、給食のメニューから鶏肉・卵が外されるなど風習が守られている』とさえある。

「觀惠交話」「落穂余談」とも呼ぶようだが、書誌不詳。ネット上では視認出来ない。柳田國男は若い頃、これの旧内閣文庫蔵本を自由に閲覧していたらしい。

「江州に淡婦(マ﹅)大明神の社あり」不詳。似た名前なら、滋賀県高島市新旭町饗庭の波爾布(はにふ)神社があるが、田螺との関連はネット上では見出せない。因みに、先の出庭神社の北西直近の滋賀県守山市笠原町に、ズバり、田螺を神使とする蜊江(つぶえ)神社(中央下方に出庭神社を配した)があることが判明した。「守山市観光物産協会」公式サイト内の同神社の解説に、『蜊江神社では「オツブさん」、つまりタニシ(蜊)を神の使いとして祀っています』。『この地は、古くから大雨のたびに、野洲川の氾濫による水害を被ってきました。江戸時代の』享保六(一七二一)『年にも堤防が破れ、社殿が流されてしまうという大規模な洪水が起こりました。しかし、タニシの付着した神輿が社殿の前で止まったため、幸いにも祭神は流されることはありませんでした。以来、タニシに感謝した人々は、御蜊様(おつぶさま)と呼び、神の使いとして大切にするようになったといわれています』。『境内の大きな池は「御蜊様池」といい、もとはタニシを保護するための人工池でした』。『現在池は枯れてしまいましたが、その後植えられたショウブは初夏になると鮮やかな花を咲かせます』。『神仏習合当時の地蔵院を残す珍しい神社』とある。

「かへほし」「返へ干し」。水を汲み上げて池を干上げ。

「白田螺」「しろつぶ」と訓じておく。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」「白田螺  シロツブ」を参照されたい。

「越後野志」水原(現阿賀野市)の書籍商小田島允武(のぶたけ)が文化一二(一八一五)年に書いた地誌。「新潟県立図書館/新潟県立文書館」の「越後佐渡デジタルライブラリー」の当該巻の「17」コマ目の右丁の最後の項である。

「蒲原郡彌彥庄丸山村の御洗水池」位置が同定出来ない。

「此池の鮒は皆一目眇なり」これは柳田國男が後に「一目小僧その他」でディグすることとなる。私はブログで同書の全電子化注を終えている

「同郡下田鄕蘆ケ平村の磨於比池(マオヒイケ)」同じく同定不能。

「越後名寄」同前の「越後佐渡デジタルライブラリー」で総て見られるのだが、「卷二十」は縦覧したが、植物の名寄部分で不審。巻数の誤りかと思ってほかの目ぼしい部分を探したが、膨大過ぎ、諦めた。悪しからず。

「古志郡蘆ケ平村」不詳。

「五十嵐川の上流」同河川の流路はサイト「川の名前を調べる地図」のここで確認されたい。

「諏門嶽(スモンダケ)の北麓八十里越の谷」現在の新潟県三条市吉ケ平(よしがひら)にある守門岳(すもんだけ)。距離はぶっ飛んでいるので信じないとして、その北麓には気になる池がある。雨生ヶ池(まごいがいけ)である。池の主(但し、大蛇)と名主の娘の悲恋の伝説が伝わるとある。

「寬政六年」一七九四年。

「村松藩」越後国蒲原郡の内、村松・下田・七谷・見附地方を支配した。藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。されば、この範囲内にその田螺の池はなくてはならぬ。

「白蟹」先の「白田螺」や、神使として知られる「白蛇」「白猿」「白鹿」など、アルビノはその希少性から得な役回りとなるのは言うまでもない。

「深山の池に棲み蝸牛などの如く、岸の竹樹に遊ぶと云ふ貝をタニシと斷定したるは何故なりしか。單に動物學上の問題としては、此ほど難儀なる問題はなかるべし」民俗学上から見れば、少しもおかしくない。「蠃」「螺」は中国でも本邦でも生息域を限らず、これらの漢字に当てる「つび」「つぶ」「にし」という和語も、これまた、あらゆる巻貝状の水棲・陸産貝全部を古くから指し、「田」は田圃に限らず、広義の「田圃」「人が入って耕作するに適した場所」や、さらには、単に「自然状態の多く残る田舎」の意にも用いるからである。

「白井眞澄の遊覽記」国学者で紀行家として知られる菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の本姓は白井。三河出身。国学・本草学を学び、天明三(一七八三)年より、信濃・奥羽・蝦夷地などを大いに踏破・遍歴し、享和元(一八〇一)年からは、主に出羽久保田藩領内に居住した。「遊覽記」は旅先での地理・風俗を挿絵入りで記録した日記である。多くの貴重な地誌や随筆を残した。私も非常に興味を持っている人物である。

「羽後北秋田郡の打戶(ウツト)と云ふ地の記事に、沼平(ヌマダイ)とて大なる沼あり」「Yahoo!地図」の大湯温泉の大湯川上流に「沼平発電所」が見出せる。同名の沼は見えないが、それらしい感じの池沼或いは細流れが左岸に複数ある。

「彼の土中にホラと云ふ貝棲むと傳へ、亦は谿谷の崩壞するを、ホラ※[やぶちゃん注:「米」=「秡」の異体字。「グリフウィキ」のこれ。しかし、これは「拔」の誤字ではあるまいか?]と名づけ、此物時ありて逸出するが爲なりと稱するが如きは、一つには法螺を貝の名なりと誤りしこと、二つには洞又は狹き谷をボラと呼ぶ日本語あるより、二者の關係あるが如く考へたる結果の俗說ならん」山中や田圃にホラガイが棲息するというトンデモ話は、実は非常に広く伝承されている。地震の発信源の正体を鯰ではなく、法螺貝とするものもあるようである。私は複数の例を知っているが、例えば、「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」を挙げておこう。山中の洞窟に棲息するというのは、山伏のアイテムとして必須の鳴器であるそれを、垣間見て誤認したものであろう。

「新編武藏風土記稿」文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)に編まれた御府内を除いた武蔵国地誌。昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信らの指揮に拠る)で編纂された。全二百六十五巻。柳田の指す巻数は違う。やっと見つけた。巻之七十一のここの左ページ下段の「田螺石」である。]

2022/05/25

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「水の神としての田螺」(全二回)

 

[やぶちゃん注:本論考は大正三(一九一四)年四月発行の『人類學雜誌』二十九巻四号及び、「追記」が同年八月の同誌(二十九巻八号)に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した(「一」「二」の後に纏めて注した)。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

    水の神としての田螺 

          (人類二九一號三四一頁三二一號二四頁參照)

 

 紀州諸處に田螺を「たにし」で無く「たぬし」と呼ぶ人が有る。田主の意に聞える。田邊の近村丘陵間の草叢中何の譯と知れず田螺の殼を積上げ置るあり、野中近露等の深山にも有り、大蛇の所爲と言ふ人が有る。又鳥類の所行とも言ふ。予一向見し事無いから薩張り判斷が付かぬ。淵鑑類函四四三に捜神記曰謝端侯、官人少孤貧、至年十七八、恭謹自守、後于邑下、得一大螺如許、(尋常の物の十倍大)取貯甕中、每早至野、還見有飮飯湯火、端疑之、於籬外窺見、一少女從、甕中出、至竈下燃火、便入問之、女答曰、妾天漢中白螺素女、天帝哀卿少孤、使我權相爲守舍炊煮、待卿取婦當還、今無故相伺、不宜復留、今留此殼貯米穀、可得不乏、忽有風雨而去。又夷堅志曰、吳湛居臨荆溪、有一泉極淸澈、市人賴之、湛爲竹籬遮護、不令汚入、一日吳于泉側得一白螺、歸置甕中、後每自外歸、則厨中飮食已辦、心大驚異、一日潜窺、乃一女子自螺中而出、手能操刀、吳急趨之、女子大窘、不容歸殼、乃實告曰、吾乃泉神、以君敬護泉源、且知君鰥居、上帝命吾爲君操饌、君食吾饌、得道矣、言訖不見。兩つ乍ら御伽草子の蛤機織姬に似た話だ。白き淡水生の螺を神物とする事支那にも有る證據だ。日本紀に葛城の圓大臣あり圓を「つぶら」と訓ず、田螺をツブといふから見ると此名も田螺を人名としたので、吾邦に古く田螺をトテムとし崇めたのであるまいか。北凉譯大般涅槃經十二に、復次迦葉、如轉輪王、主兵大臣、常在前導、王隨後行、亦如魚王蟻王牛王、商主在前行時、如是諸衆悉皆隨從、無捨離者、と有れば、梵土にも古く螺の王有ると信じたのだ。又奇異雜談下に祖庭事苑から引いた、閩州の任氏の子螺を得しに、其中から女が出來て龍鬚布を織り、任氏を富した譚は尤も蛤機織姬に似て居るが是は龍女が螺中に寓し居たのだ。

       (大正三年四月人類第二九卷)

 

 

    水の神としての田螺  (人類學雜誌廿九卷四號一五九頁に追加す)

 

 甲子夜話續篇卷十五に「信州に不動堂あり、須賀の不動と稱して靈像なりとぞ、眼を患ふる者祈誓して田螺を食せざれば必ず驗ありて平癒す。遠方にても須賀の不動と寶號を唱へて立願するに必ず應驗あり。啻に田螺を食するを止るのみならず、之を殺す事をも慮りて礫を田中に投ずるを爲ざる程なれば、効驗彌々速かにして眼疾平快すと。昔し此堂火災有し時寺僧像を擔ひ出し其邊の田中に投じて急を免れたり、火鎭て其像を取上ぐれば、田螺夥しく衆まり像を圍んで有りしと云々」。本草綱目四六に、田螺、目の熱、赤痛を治すと有て處方を詳載し居る。實際藥功有るのか知れぬが、多分は例の似たものが似た場所の病を治すてふ理屈で、田螺も眼も圓いから割出した藥方だらう。

       (大正三年八月人類二十九卷)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。最後の初出記は、最終行下方インデントであるが、改行して引き上げた。なお、平凡社「選集」では、添え辞は次行下方インデントポイント落ち三行で、『南方「本邦における動物崇拜」(『東京人類学会雑誌』二五巻二九一号三四一頁)、柳田国男「水の神としての田螺」(『人類學雜誌』二九巻一号二四頁)参照』とある。前者は狭義には、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(27:田螺)」に相当する。後者では、所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」に載らず、親本である同社の「定本柳田國男全集」も調べたが、やはり載らず、現行の新たな一九九九年刊の同社の「柳田國男全集」二十九巻に収録されていることが判った。但し、「j-stage」のこちらPDF)で初出を見出せたので、本電子化注を終えた後、電子化する【二〇二二年五月二十六日に電子化注を公開した。】。ここに見られるそれは、本邦の民話「田螺長者」の原形である。当該ウィキをリンクさせておく。

「野中」和歌山県田辺市中辺路町(なかのべちょう)野中(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「近露」中辺路町近露(ちかつゆ)。野中の西に接する。

「薩張り」「さつぱり」。

「淵鑑類函四四三に捜神記曰謝端侯、……」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」のこちらで、「欽定四庫全書」所収のものが電子化されており、影印本も見られる。同巻の「鱗介部七」の「螺二」である。ガイド・ナンバー[448-22a]を参照されたい。但し、これ、干宝の「捜神記」ではなく、陶淵明著の同書に倣った「捜神後記」のもので、「淵鑑類函」の誤記である。以下に訓読を試みる。巻五で、原題は「白水素女」(はくすいそじょ)。但し、「淵鑑類函」は抄録でカットが甚だ多い。前者の注の参考にした二〇〇六年明治書院刊「中国古典小説選」第二巻によれば、時代設定は晋の安帝の治世(三九七年~四一二年)である。後者の「夷堅志」は宋の説話集。南宋の洪邁 の著。元は四百二十巻であったが、現存本は二百巻ほど。一一九八年頃成立で、著者が各地に任官又は旅行の間に見聞した宋初からの民間に伝わる珍談・奇談・怪談の類を記録風に綴ったもの。「小説の淵海」とも称せられ、正式の史書には見られない宋代の社会や民衆の生活・風俗などを窺うことの出来る貴重な史料である。以下、訓読する。

   *

「搜神記」[やぶちゃん注:以上の通り、「搜神後記」の誤記。]に曰はく、

『謝端は侯官[やぶちゃん注:福建省侯官県。現在の福建省福州市中心部及び閩侯県の一部に相当する。]の人、少(わか)くして孤貧たり。年十七、八に至り、恭謹にして、自(みずか)ら守り、後、邑(いう)の下(もと)[やぶちゃん注:村の外れ。]にて、一つの大螺(だいら)の、斗(と)[やぶちゃん注:「捜神後記」原本では「三升の壺のごとし」とする。「一斗」ならば当時のそれは二リットルであるが、「三升」ならば約六十ミリリットルとなる。]許りのごときを得(え)、取りて甕の中(うち)に貯(か)ふ。每早(まいあさ)、野に至りて[やぶちゃん注:野良仕事に行って。]還るに、飮飯(いんはん)の湯火(たうくわ)の有るを見る。端、之れを疑ひ、籬(まがき)の外に於いて窺ひ見るに、一少女の、甕の中より出でて、竈(かまど)の下(もと)に至りて火を燃やす。便(すなは)ち入りて之れに問ふ。女、答へて曰はく、

「妾(わらは)は天漢[やぶちゃん注:天の川。]中の白螺(はくら)の素女(そぢよ)なり。天帝、卿(なんぢ)が少(わか)くして孤なるを哀れみ、我をして、權(かり)に[やぶちゃん注:暫くの間。]、相ひ爲めに、舍(しや)を守り、炊煮(すいはう)せしめ、『卿が婦(よめ)を取るを待ちて、當(まさ)に還るべし。』とす。今、故なくして相ひ伺(うかが)へば、復(ま)た留まるべからず。今、此の殼を留む。米穀を貯ふれば、乏しからざるを得べし。」

と。

 忽(たちま)ち、風雨有りて去る。』と。

 又、「夷堅志」に曰はく、

「吳湛(ごかん)の居(きよ)は荊溪に臨めり。一泉有り、極めて淸澈(せいてつ)たり[やぶちゃん注:清らかで澄み渡っている。]。市人(いちびと)、之れを賴りとす。湛、竹の籬(まがき)を爲(つく)りて遮護し、汚きものをして、入れざらしむ。一日(いちじつ)、吳、泉の側(かたはら)にて、一つの白螺を得たり。歸りて甕の中に置く。後、外より歸る每に、則ち、厨中(はうちゆう)の飮食、已に辨(そなは)れり。心(こころ)、大きに驚異し、一日、潜かに窺ふ。乃(すなは)ち一女子、螺中より出でて、手(てぎは)よく刀(はうちやう)を操(つか)へり。吳、急に之れに趨(おもむ)くに、女子、大きに窘(くるし)めり。殼に歸るを容(ゆる)さず、乃(すなは)ち實(まこと)を告げて曰はく、

「吾は、乃ち、泉の神なり。君が泉の源を敬ひ護るを以つて、且つ、君が鰥居(やもめぐらし)なるを知りて、上帝、吾に命じて、君がために饌(さん)[やぶちゃん注:食事。]を操(つく)らしむ。君、吾が饌を食らはば、道を得ん。」

と。

 言ひ訖(をは)りて、見えず』と。

   *

『日本紀に葛城の圓大臣あり圓を「つぶら」と訓ず』「日本書紀」の巻第十四「大泊瀨幼武天皇(おほはつせわかたけのすめらみこと) 雄略天皇」に二ヶ所出る。「圓大臣(つぶらのおほまへつぎみ)」。

「北凉譯大般涅槃經十二に、復次迦葉、……」「大蔵経データベース」を見たが、若干、引用に疑問があったが、取り敢えず、熊楠の引用そのままに訓読を試みる。

   *

又、次いで、「迦葉よ、轉輪王の、主兵・大臣、常に前導に在りて、王は後(うしろ)に隨ひて行くがごとく、亦、魚王・蟻王・螺王・牛王、商主[やぶちゃん注:仏語。人々を安穏に目的地に導く隊商の長のような方。]の前に在りて行く時のごとく、是(かく)のごとく、諸衆、悉-皆(ことごと)く隨從し、捨離する者、無し。」と。

   *

「奇異雜談下に祖庭事苑から引いた、閩州の任氏の子」(こ)「螺」(にな)「を得しに、其中から女が出來て龍鬚布」(りゆうしゆふ)「を織り、任氏を富」(とま)「した譚」「奇異雜談」は著者不詳で貞享四(一六八七)年板行の怪談集「奇異雑談(ぞうたん)集」。但し、それよりもずっと以前から写本が残されており、実際の編著は明暦・万治・寛文(一六五八年~一六七三年)期とされている。但し、熊楠の言っている話が判らない。「祖庭事苑」は宋の睦庵善卿撰の字典。全八巻。一〇九八年から一一一〇年にかけて刊行された。「雲門録」などの禅宗関係の図書から熟語二千四百余語を採録し、その典拠を示し、注釈を加えたもの。

「蛤機織姬」「はまぐりはたをりひめ」は「御伽草子」の中の一つ「蛤の草紙」のヒロイン(舞台はインドの魔迦多(まかだ)国で、現在のインド北東部ビハール州の州都パトナの南約百キロメートルのところにあるガヤー県(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の県都ガヤーに相当する。主人公の青年の名は「しじら」)。原話は大正一五(一九二六)年有朋堂文庫版「御伽草紙」のここから読める。古文が苦手という方は、個人サイト「お話歳時記」の「蛤の草紙。」の訳がよい。

『甲子夜話續篇卷十五に「信州に不動堂あり、……』事前にこちらで当該部総てを電子化したので、比較して読まれたい。

「本草綱目四六に、田螺、目の熱、赤痛を治すと有て處方を詳載し居る」「漢籍リポジトリ」の『欽定四庫全書』版の「本草綱目」の巻四十六の「介之二」の「蛤蚌類」にある「田蠃」(ガイド・ナンバー[108-29a]以下)の「主治」と「附方」を見られたい。かなりの分量がある。なお、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「田螺」も参考にされたい。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」もあるが、記載が痩せている。一番のお薦めは、「本朝食鑑 鱗介部之三 田螺」である。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷之十五 10 信州須賀ノ不動

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「水の神としての田螺 二」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点を変更・追加し、段落も成形した。]

 

15―10

 又、曰《いはく》、

「信州に不動堂あり、『須賀の不動』と稱して靈像なり。」

とぞ。

 眼を患《わづらふ》る者、祈誓して、田螺《たにし》を食せざれば、必《かならず》、驗《しるし》ありて、平癒す。遠方にても、「須賀の不動」と寶號を唱《となへ》て立願《りふぐわん》するに、必ず、應驗あり。啻《ただ》に田螺を食するを止《やむ》るのみならず、これを殺す事をも慮《おもんぱか》りて、礫《つぶて》を田中《でんちゆう》に投ずるをせざるほどなれば、効驗、彌々《いよいよ》速《すみやか》にして、眼疾、平快す、と。

 昔、此《この》堂、火災ありし時、寺僧、像を擔《にな》ひ出《いだ》し、その邊《あたり》の田中に投じて、急を免《まぬか》れたり、火、鎭《しづまり》て、その像を取り上ぐれば、田螺、夥《おびただし》く衆《あつ》まり、像を圍《かこみ》てありし、と。

 この須賀と云へるは、彼《かの》國の何れの處にや。

 賀茂眞淵の歌に、

 信濃なる須賀の荒野にとぶ鷲の

      翅《つばさ》もたわにふく嵐かな

■やぶちゃんの呟き

「又、曰」は前の〈15―9〉「加賀ノ俱梨伽羅不動」の不動繋がりで、かく言ったもの。

「信州に不動堂あり」「須賀の不動」不詳。識者の御教授を乞う。

萩原朔太郎「小泉八雲の家庭生活」(正字正仮名版)に小泉八雲の玄孫の方の御協力により注を追加した

萩原朔太郎「小泉八雲の家庭生活」(正字正仮名版)に、小泉八雲の玄孫の方の御協力により、注を追加した。萩原朔太郎の誤りを指摘してあるので、再度、読まれたい。なお、それに際し、私のタイプ・ミスや正字不全も同時に訂した。

2022/05/24

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「田螺を神物とする事」

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年十一月発行の『人類學雜誌』二十七巻八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     田螺を神物とする事 (人類二八八號二二一頁、二九一號三四一頁參照)

 

 保科正之撰會津風土記に、會津郡二間在家端村九々生、有若宮八幡祠、祠外有二沼、名田蠃沼人有取此田蠃、則及夜寢而呼曰、返之、不返則付止矣、患瘧疾者取之、祈而曰、疾愈則倍以返之、則有驗焉、八幡神田螺を愛すと見えたり。但し、今も此土俗有りや否を知らず。

   (明治四十四年十一月人類第二十七卷)

[やぶちゃん注:平凡社「選集」では、添え辞が次行で下方インデントのポイント落ちで三行に及び、

   *

山中笑「本邦における動物崇拝」(『東京人類学会雑誌』二五巻二八八号二二一頁)、南方「本邦における動物崇拝」(同誌二五巻二九一号三四一頁)参照

   *

とある。この『山中笑「本邦における動物崇拝」(『東京人類学会雑誌』二五巻二八八号二二一頁)』は、既に『山中笑「本邦に於ける動物崇拜」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」の執筆動機となった論文)』として電子化済みであり(但し、山中に指摘は、『田螺 藥師佛に眼病を祈る者、食せず。』とあるのみである)、南方「本邦における動物崇拝」の方は、狭義には、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(27:田螺)」に相当する。後者で私が注したことは繰り返さないので、まずは、そちらを読まれたい。

「保科正之撰會津風土記」「保科正之」(慶長一六(一六一一)年~寛文一二(一六七三)年)は第二代将軍徳川秀忠の子で、徳川家光の異母弟。保科正光の養子となり、寛永八(一六三一)年に信濃高遠藩主保科家第二代となった。後、出羽山形藩を経て、陸奥会津藩藩主保科家初代となった(二十三万石)。第四代将軍家綱を補佐し、幕政を主導、「会津家訓十五箇条」を作るなど、藩政の基礎も固めている。「會津風土記」は彼が儒者で神道家としてとみに知られる山崎闇斎(播磨生まれ)に命じて編集させた会津藩内四郡の地誌。寛文六(一六六六)年成立。近世に於ける地誌編纂の嚆矢。以上の田蠃沼の話は、探すのにかなり苦労したが、発見した。ここである。「和泉組」の「二件在家(にけんざいけ)村 橋村 九九生」で本文では「九九生」に「ククリフ」の読みが振られてある。その後に、「若宮八幡宮」の解説に出る。二つの沼の名が「雌沼」と「雄沼」であることも判明する(逆に「田蠃沼」の名は見えない)。なお、そこには、界村の「鹿島神社」への「見よ割注」があるが、ここであるが、特に田螺の話は載らず、雨乞いの一致を両社に見られるからであろう。

「會津郡二間在家端村九々生」福島県南会津郡只見町(ただみまち)二軒在家九々生(くぐりゅう)(グーグル・マップ・データ)。画面では外だが、同地所地名で若宮八幡神社がある。但し、沼らしいものは残念ながら見えない。但し、ごく小さなものとして残っているのかも知れない。以下、上記原本を参考に推定訓読文を示す。

   *

 會津郡二間在家(にけんざいけ)端村(はしむら)九々生(くぐりふ)、に、若宮八幡の祠(ほこら)あり。祠の外(ほか)に、二つの沼あり。「田蠃沼(たにしぬま)」と名づく。人、此の田蠃を取る有らば、則ち、夜、寢るに及びて、呼びて曰はく、「之れを返せ。」と。返さざれば、則ち、止まず。瘧疾(おこり)[やぶちゃん注:マラリア。]を患ふ者、之れを取り、祈りて曰く、「疾ひ、愈ゆれば、則ち、倍にして、以て、之れを返さん。」と。則ち、驗(しるし)有りと。

   *

或いは、漢文書きの原「會津風土記」が別に有るのかも知れない。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鹽に關する迷信」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正元(一九一二)年八月発行の『人類學雜誌』二十八巻八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。] 

 

    鹽に關する迷信

 

 佛領西亞非利加の「ロアンゴ」の民以前信ぜしは、其地の術士、人を殺し咒して其魂を使ふに、日々鹽入れず調へたる食を供ふ、魂に鹽を近くれば、忽ち其形を現じて其仇に追隨すれば也と(Ogilby, ‘Africa,’op.Astle, ‘Voyages and Travels,’ 1846, vol.iii, p.230)。本邦にも、何の譯と知らぬが、命日に死者に供ふる飯を、鹽氣なき土鍋もて炊ぐ。和國小姓氣質卷五、庄野佐左衞門、父の看病に歸省の間だに、親交ある少年吉崎鹿之助憂死したるを知ず、父の葬り終て、忙ぎ還り鹿之助を訪しに、「手づから拵へ膳すゆれば、精進飯の水臭く、半ば殘してさし措き」宅へ歸り、明朝鹿之助の死を聞知り、其室を檢するに、佛前の靈供の飯半ば食ひさし有しと出たり。荊妻(田邊生れ)の語るは、旨からぬ米に鹽入れ炊ぎて旨くする方有り、赤飯炊ぐには必ず鹽入る。凡て佛や死者に供えし飯は旨からず。抹香等の氣に燻べらるれば也、小兒食へば記憶力を損ずとて、老人のみ食ふ、物忘れするも拘はぬを以て也。又食時に鹽と味噌を膳上に並べ置ず、其譯を知らず、但し、刀豆の味噌漬を刑死人に三片食はせたれば、今も三片食はず、三片食はんとする時、一囘多く取るまねして、第四囘めに實に之を取る事あれば、刑死人にも鹽と味噌を膳に並べて、食はせしに因て之を忌むかと。熊楠謂ふに、葬送の還りに門に鹽を撒くは不淨を掃ふといへど、實は鬼が隨ひ來るを拒ぐ者歟、靈飯に鹽を避け、土鍋を用て炊ぐも、本と亡靈が鹽と鐵を忌むとせしに出ずるならん。日本紀卷廿五、大化五年、倉山田大臣譖せられて自殺せる首を、物部二田造鹽斬てければ、皇太子(天智帝)の妃造媛、父の仇とて鹽の名を聞くを惡み、其近侍の者、諱稱鹽名改目堅鹽、媛遂因傷心而致死焉、是は上方の茶屋に、猴を去るの意有ればとて、必ず左呼ばず、野猿と稱ふるに似た事で、其家限り行なはるゝ禁忌(タプー)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]也。又歐州一汎に鹽をこぼすを凶兆とし、之を厭せんとて、鹽扱ふに必ず先づ左肩上に少許の鹽を撒過す(M. R. Cox, ‘An Introduction to Folk-lore,’ 1895, p.10)。

      (大正元年八月人類第二八卷)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。底本では一部の「日本書紀」の引用表記に致命的な誤りがあるので訂した。具体的には「名稱盬名改目堅盬」で、頭の「名」は「諱」の誤りである。

『佛領西亞非利加の「ロアンゴ」』ロアンゴ(フランス語: Loango)は現在のコンゴ人民共和国の町(グーグル・マップ・データ)で、クイル県県都。古くはロアンゴ王国の首都だった。コンゴ川(ザイール川)右岸の大西洋沿岸部に位置する。口頭伝承などの資料によれば、十四世紀には一群の鍛冶師と戦士たちによって、王国の基礎が築かれたとされている。より北部のティヨ王国及びコンゴ川対岸に栄えたコンゴ王国とも密接な関係があり、各王朝の始祖を同一の神に帰す神話もある。王及び王権(「ルワーング」と呼ばれた)は、祖霊・地霊の崇拝と結び付き、国の繁栄を保証すべき〈神なる王〉の例として、フレーザーの「金枝篇」にも言及されている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「近くれば」「ちかづくれば」。

Ogilby, ‘Africa,’op.Astle, ‘Voyages and Travels,’ 1846, vol.iii『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(7)』に同書第一巻が引用されているが、第三巻は見出せなかった。

「炊ぐ」「ひさぐ」。

「和國小姓氣質卷五、庄野佐左衞門、……」京都の九二軒鱗長なる人物の享保五(一七二〇)年刊の「男色子鑑」(なんしょくこかがみ)の増補改題本)。国立国会図書館デジタルコレクションの明治二九(一八九六)年博文館刊「校訂續氣質全集」の五巻の冒頭にある「㊀ 戀にはかゆきのする亡者のめし」がそれ。熊楠の引用はここの右ページ後ろから三行目以降。

「憂死」原本本文内容に合わせて「うれひじに」と訓じておく。

「知ず」「しらず」。

「葬り終て」「はふりをはりて」

精進飯の水臭く」「しやうじんめしのみづくさく」。

「其室を檢するに」「そのへやをけみするに」。

「靈供」「れうぐ」。

「荊妻」「愚妻」に同じ。

「旨からぬ」「うまからぬ」。

「燻べらる」「ふすべらる」。

「拘はぬ」「かまはぬ」。

「置ず」「おかず」。

「刀豆」「なたまめ」(鉈豆)。マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiata 。現行では福神漬に用いられることで知られる。

「本と」「もと」。

「日本紀卷廿五、大化五年、倉山田大臣譖せられて自殺せる首を、……」「日本書紀」第二十五の「天萬豐日天皇 孝德天皇」の五年三月の一節だが、かなり長いので、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編の訓読本(昭和七(一九三二)年岩波書店刊)の当該部をリンクさせるに留める。その左ページ二行目の、「戊辰、蘇我臣日向(そがのおみひむか)〔日向、字(ざな)は身刺(みさし)〕倉山田大臣(くらやまだののをほまちをみ)を皇太子(ひつぎのみこ)に譖(しこ)ちて曰く、」以下で、遂には造媛(みやつこひめ)が心痛によって亡くなったのを、皇太子が傷んで詠む歌まで続く。

「物部二田造鹽」「もののべのふつたみやつこしほ」。

「諱稱鹽名改目堅鹽、媛遂因傷心而致死焉」「『鹽(しほ)』の名を稱(い)ふを諱(い)みて、改めて『堅盬(きたし)』と曰ふ。造媛(みやつこひめ)遂に心を傷(いたむ)るに因りて死ぬる致(いた)る。」。

「猴」「さる」。

「左呼ばず」「さよばず」。

「野猿」「やゑん」。この忌み言葉は辞書にも載る。

M.R.Cox, ‘An Introduction to Folk-lore,’ 1895, p.10」イギリスの民俗学者で「シンデレラ型」譚の研究者として知られるマリアン・ロアルフ・コックス(Marian Roalfe Cox 一八六〇年~一九一六年:女性)の「民俗学入門」。「Internet archive」の当該原本のここ。]

2022/05/23

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「親が子を殺して身を全うせしこと」

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四五(一九一二)年二月発行の『人類學雜誌』二十八巻二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     親が子を殺して身を全うせしこと

 人類學會雜誌二七八號三一二頁に、予は螢蠅抄より、元寇侵來の際、壹岐對馬の民、敵軍が兒啼きを聞付けて押し寄るを避んとて、嬰兒を殺して逃げ匿れし由の記文を引たり。三〇八頁に引る伊太利の山賊の外にも、歐州に斯る例有るを近日見出たれば報告す。云く、一二五六年、「モアクス」の戰ひに匈牙利軍土耳其人に全く敗られ、其王「ルイ」二世を喪ふ、是に於て土耳其兵全く匈牙利國に克ち、到る處ろ鹵掠を縱まにし、老幼婦女殺戮殆ど盡く、此時婦女其兒が啼て敵を牽くを虞れ、之を生ながら瘞めし者數多あり(Mouchot, ‘Dictionnaire Contenant les Anecdotes Historiques de l'Amour,’ a Troyes, 1811, tom.ii, p.320)。史記に漢高祖項羽の軍に追るゝ事急にして、二子を棄てゝ走りしてふも足手纏ひを除かんとせる人情、軍制確かならぬ世には何國も同じかりしと見ゆ。

     (明治四五年七月人類第二十八卷)

[やぶちゃん注:「人類學會雜誌二七八號三一二頁に、予は螢蠅抄より、……」これは先行するブログ分割版では「南方熊楠 小兒と魔除 (7)」が相当する。注もしてある。

「三〇八頁に引るイタリアの山賊」これは「南方熊楠 小兒と魔除 (6)」を見よ。

『「モアクス」の戰ひ』一五二六年八月二十九日に、ハンガリーのモハーチ平原で行われた、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦「モハーチの戦い」のこと。

「匈牙利」「ハンガリー」。

「土耳其」「トルコ」。

『其王「ルイ」二世を喪ふ』ハンガリー王にしてボヘミア王であったラヨシュⅡ世(II. Lajos)は二十歳の若さでこの戦いで戦死した。

「鹵掠」「ろりやく」。略奪すること。

「縱まにし」「ほしいままにし」。

「生ながら」「いきながら」。

「瘞めし」「うづめし」。

「數多」「あまた」。

Mouchot, ‘Dictionnaire Contenant les Anecdotes Historiques de l'Amour,’ a Troyes, 1811」この本、フランスの複数の著者による組織著作であるらしい。訳すなら、「愛に関わる歴史的な逸話を含む辞書」である。

「史記に漢高祖項羽の軍に追るゝ事急にして、二子を棄てゝ走りし」紀元前二〇五年、劉邦は項羽の本拠地彭城へ侵攻した。項羽は遠征中で、当初、簡単に攻略出来たが、事態を知った項羽が反撃を開始し、劉邦は敗走、同郷出身の弟分であった夏侯嬰が御す馬車で、幼い息子と娘だけを乗せて逃げたが、追手が迫った時、劉邦は車を軽くするために二人の子どもを突き落とした。これを見た夏侯嬰はその場で車を止め、二人の子を拾い上げた。劉邦と夏侯嬰は、三度、同じことを繰り返し、遂に夏侯嬰が劉邦を怒鳴りつけたことから、劉邦は彼を斬ろうとしたが、馭者失っては元も子もなくなることから、漸く、子供を捨てるのをやめたという(以上はQ&Aサイトのこちらの回答を参考にさせて戴いた)。

「何國」「いづこ」と訓じておく。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「千年以上の火種」

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四五(一九一二)年二月発行の『人類學雜誌』二十八巻二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

    千年以上の火種 (人類二八卷一號五七頁二百年來の火種參照)

 

 支那に祝融を火正黎と號し、又寒食に火を禁ずる事有り、孰れも火を重んずるに基きしと見ゆ。鄴中記に、寒食を介子推焚死の故事より始るとせるは牽强ならん。偖て、紀伊國續風土記第二輯に、日高郡比井崎村大字產湯浦八幡宮の事を述べて云く、比井浦の南四丁に在り、今に應神帝の產湯の井あり(熊楠謂ふ、日本紀に、神功皇后帝と紀州日高郡に會ひ玉ふ事有り)。村中古今難產の憂無しと云ふ。又皇子に產湯を奉りしより、其火を傳へて今に絕えず、故に村中火を打つ事絕て無し。若し偶々火の消し家は、鄰家に傳へしを取て用ゆ。只田畑に出るに、煙草抔を吸ふには、火を打つ事有りと云ふ。又神を祭るに湯立をなす事、當村に無し、是皆古の故事と云ふ。千五六百年を經て火を傳る事、最も珍しき風俗と云ふべしと、頃日予同村人浮津眞海師に聞合せしに、今は其樣な事も無く、其話さえ傳らずとなり。浮津氏は此社の合祀滅却に抗し、一昨年入監迄せし、熱心なる史蹟名勝保存論者なり。

   (明治四十五年三月人類第二十八卷)

[やぶちゃん注:「祝融を火正黎と號し」「祝融」(しゆくゆう)は古代神話に登場する神で、黄帝の孫とされる顓頊(せんぎょく)の子或いは孫と伝えられている。湯王が暴君の悪名高い夏王朝最後の王桀を討ち滅ぼすために軍隊を進めた際、祝融は桀王の守る城に火災を引き起こして湯王を勝利に導いたとされる。このように、祝融は火と関係の深い神であり、同じく火の神である炎帝の配下とされたり、竈(かまど)の神とも考えられた。また、五行説が五つの元素を、それぞれ、中央と四方に当て嵌めた時、火を南方に配当したことから、南方を司る神であるともされた。他方、祝融を一個の神格としてではなく、火を取り扱う官職の名前とする伝承も存在している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「火正黎」は「北正黎」とも称し、祝融の異名であるとともに、前の最後に書かれた通り、漢代以後の官職名でもあるようである。

「寒食」(かんしよく/かんじき)は古く中国で、冬至から百五日目は、風雨の烈しい日として、「火断ち」をして煮焚きせずに食物を食べた風習やその日を指す。

「鄴中記」(げふちゆうき(ごうちゅうき))は五胡十六国時代の後趙(三一九年~三五一年)の第三代天王石虎(在位:三三四年~三四九年)の時代の鄴(石虎が三三五年に遷都した。現在の河北省邯鄲市臨漳県。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の宮殿や風俗等を記した歴史書。

「介子推」(?~紀元前六三六年)は春秋時代の晋の文公(重耳)の臣下。当該ウィキによれば、「十八史略」では、『介子推の具体的な行動として、亡命中』、『飢えた重耳に自分の腿の肉を食べさせた(「割股奉君」)話を書いている。さらに、文公が緜上から介子推を参上させるため』、『一本だけ』、『道をあけて』、彼のいる『山を焼き払ったところ、介子推は現れず』、『古木の中で母と抱き合って死んでいるの』が『発見された、とある。介子推の焼死を悼み、清明節の前日には』、『火を使わず』、『冷たい食事をとる風習が生まれた。これを寒食節といい、その日は家々の戸口に柳の枝をさし、介子推の魂を招いたという。多くの野の祭りなどで「紙銭」を焼く風習も、介子推の霊を慰めるためとも』されるが、『現在の中国で』は、『これらの風習は廃れている』とある。熊楠が牽強付会と一蹴するのは、民俗学者としては如何なものかと私は思う。

「紀伊國續風土記第二輯に、日高郡比井崎村大字產湯浦八幡宮の事を述べて云く、……」国立国会図書館デジタルコレクションのここの「產湯村」。現在の和歌山県日高郡日高町産湯(うぶゆ)。産湯八幡神社として現存する。

「消し」「きえし」。

「湯立」「ゆだて」。湯立て神事。但し、所謂、「盟神探湯」(くがたち)というのではなく、祓いのためのそれであろう。湯であろうが、水は火を消すから、忌むのである。

「古」「いにしへ」。

「頃日」「このごろ」。

「浮津眞海師」ここに書かれた神社合祀の反対者であること以外の事績は不詳。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「神狼の話」

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四五(一九一二)年二月発行の『人類學雜誌』二十八巻二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     神 狼 の 話 (人類二九一號三二八頁參照)

 

 人類學雜誌二七八號三○頁に載たる、大和國玉置山の神狼に酷だ似たる話滕成裕の中陵漫錄卷六に出づ。云く、「備中今津と云ふ處の山中に小社有り、木の山權現と云ふ、此邊に祠司有り、同く又下神代村と云ふ有り、此處より十里許り山の奧なれども、野猪出て田畑の耕作を荒し、秋の作物一粒も無し。之を免れんと思へば、其祠司の靈符並に幣を受來て祈る、卽ち其人に一狼付き來て野猪を防ぐと云ふ。其人歸路に狼の送り來る事を知らざれども、其小路に幾處も踊り渡りの川あり、其中の石の上の乾きたる處へ水はねる也、水のはねるは現に見ゆれども、狼の形は更に見えずと其人余に話せり。其夜野猪出る事無し、每夜奔走して野猪を獵り、終りて自ら歸ると云ふ、余云々、往々に其說を聞正す、實に然りと云ふ」。

     (明治四十五年二月人類二十八卷)

[やぶちゃん注:平凡社「選集」では、添え辞が改行して下インデントで二行あり、『南方「本邦における動物崇拝」参照』『『東京人類学会雑誌』二五巻二九一号三二八頁』とある。これは狭義には私の「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」を指す。

「人類學雜誌二七八號三○頁に載たる」は初出標題が「出口君の『小兒と魔除』を讀む」で、後に既に電子化した南方熊楠の「小兒と魔除」を指し、当該箇所は、ブログ版では、分割の最終回「南方熊楠 小兒と魔除 (7)」が相当する。

「滕成裕の中陵漫錄卷六に出づ」「滕成裕」は水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。その巻之六の「奇狼」。ほぼ、ちゃんと引いている。「余云々」の部分は、『余、此村中の里正に、數日、次宿す。採藥せし時、往々に』と続く(所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に漢字を正字化し、句読点を添えた)。

「備中今津と云ふ處の山中に小社有り、木の山權現と云ふ」現在の岡山県高梁市(たかはし)津川町(つがわちょう)今津にある木野山神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在も疫病退散として狼が祀られてある。

「下神代村」木野山神社の北西直線で二十六キロメートル離れた山間の岡山県新見(しんみ)市神郷下神代(しんごうしもこうじろ)附近と思われる。佐藤は社祠名を出していないので、どこかは不詳。

「踊り渡りの川」意味不詳。橋はなく、川中の石を伝って渡渉する部分を言うか。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鯤鵬の傳說」

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年六月発行の『人類學雜誌』二十七巻三号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は本篇は、本文にも出る「マンモスに関する旧説」とカップリングして、古くに平凡社版「選集」版で電子化しているが、こちらが正規表現版となる。本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     鯤 鵬 の 傳 說   (人類學雜誌』二七卷、壹號、四三頁參照)

 

 永田氏の「オシンタ」旅行記に、「近日某學者の說に、莊子鯤鵬の說は、印度の小說と同じ、莊子はインドの小說を傳へしに非ずやと云る者有れど、「フリ」と名くる大鳥の「アイヌ」譚は、佛說に非ざるが如し」と言はる。G. A. Erman, ‘Reise um die Erde,’ Band I, S, 710Berlin,1833)、西伯利のオブドフ邊の記に、此邊に「マンモス」牙多く、海岸の山腹浪に打るゝ每に露れ出るを、「サモイデス」人心掛け、往き採るにより、彼輩之を海中の原產物と心得たりと云ひたるは鯨屬抔の牙と見なせるなるべし。又云く、北西伯利に巨獸の遺骨多ければ、土人古へ其地に魁偉の動物住せしと固信す、過去世の犀、「リノケロス、チコルヌス」の遺角鈎狀なるを、ゆ往來の露國商人も、土人の言の儘に鳥爪と呼ぶ。土人の或る種族は、此犀の穹窿せる髑髏を大鳥の頭、諸他の厚皮獸の脛骨化石を其大鳥の羽莖と見做し、其の祖先、常に此大鳥と苦戰せる話を傳ふと云ふ。此等の誕を合せ考るに、莊子鯤北冥の魚にて、化して鵬となるの語も、多少の據ろ無きに非じ、委細は動物學雜誌二四九號、三八頁以下、予の「マンモス」に關する舊說に出だせり。大魚大鳥の傳話必ずしも印度に限らざる也。

    (明治四十四年六月人類第二十七卷)

[やぶちゃん注:添え辞は平凡社の「選集」では、改行下方インデント二行で、『永田方正「オシンタ旅行記」参照』『『人類学雑誌』二七巻一号四三頁』とある。指示する当該論文は「j-stage」のこちらPDFで読める。なお、同年の六月発行の二号後の同誌に同氏の「オシンタ旅行記(續)」も載り、やはり同前で読める。著者永田方正(天保一五(一八四四)年~明治四四(一九一一)年)は教育者・歴史家。西条藩士の子として武蔵国南豊島郡青山百人町で生まれ、江戸の昌平黌に学び、函館師範教師を経て、明治一五(一八八二)年に函館県御用掛となり、アイヌ民族の教育に当たった。同二十年、北海道庁に入り、同二十四年には「北海道蝦夷語地名解」を編集、二年後の同二十六年には「あいぬ教育ノ方法」を纏めている。後、遺愛女学校・東京高等女学校で教えた。熊楠の示した部分は四十三頁下段中央で、『近日某學者の說に莊子鯤鵬の說は印度の小說と同じ莊子は印度の小說を傳へしにあらずやといへる者あれども蝦夷の北地には未だ佛法入りしを聞かず但アイヌが佛說を雜へて地獄の談話するは有珠善光寺百萬遍の敎化を受けし餘波なるべしと雖も大鳥は佛說にあらざるが如し』とある。私も大いに同感である。

「莊子鯤鵬」(「こん」・「ほう」で二種は別な想像生物である。以下の私の注を参照されたい)「の說」「荘子」の冒頭「逍遙遊篇 第一」の巻頭を飾る、私が中学二年の時に魅せられたそれである(私は漢籍では、大学時代に、唯一、完全精読をしたのが「荘子」であった。未だに書き込みをした岩波文庫が残っている)。「漢籍リポジトリ」の『欽定四庫全書』の「莊子注巻一」(晉の郭象の注附き)が影印本画像も見られるのでよい。「鯤」は本来は微小な「魚の子」=「はららご」=魚の卵塊を指す語であるが、それを北の果ての海に生息する「幾千里なるかを知らず」(春秋時代の一里は四百五メートル)という超巨大魚の名とするところが、パラドクスの達人荘子の真骨頂である。そ奴がある時、突如、瑞鳥「鵬」に変ずるが、「鵬」は知られた「鳳」の古字である。その「鵬の背は、其れ、幾千里なるかを知らず。怒して、飛べば、其の翼、垂天の雲のごとし」という有様である。後者は「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」で私が詳しく考察しているので見られたい。

G. A. Erman, ‘Reise um die Erde,’ Band I, S, 710Berlin,1833)」ドイツの物理学者・地球科学者ゲオルク・アドルフ・エルマン(Georg Adolf Erman 一八〇六年~一八七七年)。当該ウィキによれば、一八二八年から一八三〇年に『かけて、彼は自ら費用を負担して探検旅行を敢行したが、その主たる目的は、可能な限り詳細な地磁気のメッシュ分布を捉えることにあった。探険の前半には、ノルウェーの天文学者クリストフェル・ハンステーンが同行し、イルクーツクまで到達した。そこから先は、単独でシベリア、北アジアを横断し、オビ川の河口部からカムチャツカ半島に至った。そこから、当時のロシア領アメリカ(後のアラスカ州)へ渡った。彼はさらに、カリフォルニア、タヒチ島、ホーン岬を経て、リオデジャネイロヘ至』り、『そこから、サンクトペテルブルクを経由して、ベルリンに帰還した』。『この遠征旅行を踏まえて、彼は全』七『巻から成る』‘Reise um die Welt durch Nordasien und die beiden Oceane’(「北アジアと二つの大洋を越えた世界旅行」)を『著し、歴史篇』五『巻が』一八三三年から一八四二年に『かけて、物理学篇』二『巻と地図帳が』一八三五年から一八四一年に『かけて、ベルリンで出版された。これによって』、一九四四年にはイギリスの』「王立地理学会」から金メダル(パトロンズ・メダル)を授与された』とある。

「西伯利」「シベリア」。

「オブドフ」不詳。「選集」では「オブドロフ」とするが、これで調べても見当たらない。

「マンモス」アフリカ獣上目ゾウ目ゾウ科ゾウ亜科アジアゾウ族†マンモス属 Mammuthus当該ウィキによれば、『現生のゾウの類縁だが、直接の祖先ではない。約』四百万年前から一万年前頃『(絶滅時期は諸説ある)までの期間に生息していた。巨大な牙が特徴で、種類によっては牙の長さが』五・二『メートルに達することもある。日本では、シベリアと北アメリカ大陸に生息し、太く長い体毛で全身を覆われた中型のケナガマンモス Mammuthus primigenius 有名である。実際にはマンモスは大小』、『数種類あり、シベリア以外のユーラシア大陸はもとより、アフリカ大陸や南アメリカ大陸に広く生息していた。特に南北アメリカ大陸に生息していたコロンビアマンモス』Mammuthus columbi『は、大型・短毛で』、且つ、『最後まで生存していたマンモスとして』知られるとある。

『「サモイデス」人』ロシア北部とシベリアに住むサモエド族。犬種として知られる「サモエド」は彼らが橇の牽引に用いるために飼っていたことによる。

「魁偉」「くわいゐ」と読む。身体が並外れて巨大で厳ついことを言う。

『過去世の犀、「リノケロス、チコルヌス」』私の「選集」版の冒頭注でリンクさせた、イギリスの古生物学者・動物学者ヘンリー・アレイン・ニコルソン(Henry Alleyne Nicholson 一八四四年~一八九九年)の‘Ancient Life-History of the Earth’(「古代の生命――地球の歴史」。一八七七年刊)に載る同種の頭骨(図「263」:キャプション:Skull of the Tichorhine Rhinoceros, the horns being wanting. One-tenth of the natural size. Post-Pliocene deposits of Europe and Asia.:「リノケロス・チコルヌスの頭蓋骨。実物大の十分の一。ヨーロッパとアジアの鮮新世後の堆積物。」)を以下に示す。

 

Fig263

 

「鈎狀」「かぎじやう」。

「鳥爪」「うさう」。(大)鳥の鉤爪。

「髑髏」「どくろ」。

「厚皮獸」「こうひじう」。

「羽莖」「はねくき」。腑に落ちる。

「據ろ」「よりどころ」。

『動物學雜誌二四九號、三八頁以下、予の「マンモス」に關する舊說』既に述べた通り、こちらを参照されたい。これは「續々南方隨筆」に載るが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら原雑誌の初出を入手出来たPDF)。但し、私のポリシーの順番があるので、ここでそれを電子化する気にはちょっとなれない。本「南方隨筆」の電子化注が終わったら、真っ先に電子化するので、お待ちあれ。「選集」版を電子化してあるし、初出のダウン・ロードも出来るし、普通に誰でも見られるのだから、わざわざ、今、他にもいっぱい電子化注を抱えている私がやらねばならないという義務は全く感じない、ということである。悪しからず。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「魂空中に倒懸する事」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正五(一九一六)年一月発行の『人類學雜誌』三十一巻一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「魂空中に倒懸すること」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     魂空中に倒懸する事 (人類三十卷九號三三八貢以下)

 

 罪業深き人の魂其死後空中に倒懸するてふ迷信は蝙蝠を見て言ひ出したのだろと書置たが、丁度其證據たるべき文を見出たから記さう。

 南洋バンクス諸島の男子タマテとスクエてふ二祕密會に屬するを榮とす、タマテ會員は榛中にスクエ會員は村舍に會す。其村舍をガマルと稱へ中を種々に隔てゝ高下級を別ち、下級の者は高級の房に入るを得ず。スクエ會員ならぬ男子はガマルに入て會食するを得ず、自宅で婦女と食を共にせざる可らず、大いに之を恥とす。此會に入るには一豚を殺すを要し、膽試しの、祕法のと六かしき事無く、主として歌舞宴遊を催せばよき也。土人言く、一豚だも殺さぬ男(此會に入ぬ男)は死後其魂大蝙蝠樣に樹枝に倒懸し續けざる可らず。會員の魂は樂土に往き住まると。(Codrington, ‘The Melanesians,’ 1891, p.129)。

   (大正五年一月人類三十一卷)

[やぶちゃん注:標題は「たましひ、くうちゆうに、たうけんすること」と読む。「倒懸」は、「人の手足を縛って逆様に吊るすこと」で、別に「非常な苦しみの喩え」ともする。添え辞は、平凡社「選集」では、二行で『南方「幽霊の手足印」参照』『(『人類学雑誌』三〇巻九号三三八頁以下)』とある。この「幽靈の手足印」の初出は「j-stage」のこちらPDFで全文が読める。冒頭の「罪業深き人の魂其死後空中に倒懸するてふ迷信は蝙蝠を見て言ひ出したのだろと書置た」というのは、その三三九頁下段中央に、『又蝙蝠晝間暗窟中に倒懸し其暗窟に昔し死人を葬つた事夥しい處から耶蘇敎の書に惡鬼に蝙蝠の翼を添える如く印度では昆舍闍』(びしやじや(びしゃじゃ):四天王の配下とされる八部衆の一人で、古代インドの食人鬼「ピシャーチャ」の漢音写)『が墓塚に棲』(すん)『で逆立して步み人の精氣を食ふと云出したのでだろ』と述べているのを指す。

「南洋バンクス諸島」バンクス諸島(英語:Banks Islands/ビスラマ語:BankisBislama語はメラネシア・ピジンに分類される一言語で、バヌアツ共和国の公用語。英語とフランス語が混淆して変化した言語で、正書法は未だ確立していない)は、 バヌアツ共和国の北部にある群島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「榮」「ほまれ」と訓じておく。

「一豚を殺す」イスラム化されていない古い南洋諸島に於いては、豚は一家一族の最大の宝である。何らかの信仰上のパニックが発生すると、彼らの神にそれを生贄として殺すことが知られる。

Codrington, The Melanesians, 1891, p.129」出版年を底本では「1981」と誤っているので訂した。メラネシアの社会と文化の最初の研究を行った英国国教会の司祭兼人類学者であったロバート・ヘンリー・コドリントン(Robert Henry Codrington 一八三〇年~一九二二年)の「The Melanesians : studies in their anthropology and folklore 」(「メラネシア人:人類学と民間伝承の研究」)。「Internet archive」で原本の当該部が読める

「大正五年一月人類三十一卷」底本では「二月」であるが、一応、「選集」の方を採っておいた。初出誌を確認出来ないので正しいかどうかは不明。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡中の人を起す法」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十一月発行の『人類學雜誌』三十巻十一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「睡中の人を起こす法」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     睡中の人を起す法

 

 印度に古く貴人を睡眠より覺起せしむるに音樂を奏して徐々に寤しめし事は、人類學雜誌二七卷五號三一三頁と同誌二八卷八號四四一頁に述置たが、頃ろ日本にも、足利家の公方を睡眠より起すに特別の作法有るを見出た。宗五大艸紙(明治三十五年經濟雜誌社飜刻群書類從卷四一三、頁五八四)に、「每年節分に伊勢守宿所へ御成り候。中略。又同時御成に供御過て、そと御靜り候時、同名備後守方に定りて障子の際へそと參り候て鷄の唱ふまねを三聲仕、雀の鳴きまねを仕り候へば御ひる(起)ならせ給候て還御成候。定りたる事にて候。」と有る。鷄の鳴音が餘り大きく急に聞えぬやう隣室で擬唱し、其でも將軍が眼を覺さぬ虞有る故、雀の鳴聲を隨分長くまねし續けたるなるべし。

       (大正四年十一月人類三〇卷)

[やぶちゃん注:「睡中」「すいちゆう」。

「寤しめし事」「さめしこと」。

「人類學雜誌二七卷五號三一三頁と同誌二八卷八號四四一頁に述置」(のべおい)「た」これは先行する「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」の「一」及び「二」を指す。リンク先は私の同篇(三回分)のPDF一括版。その「一」に、『急に睡人を驚起せしむれば、其魂歸途を誤り、病み出すとの迷信、緬甸[やぶちゃん注:「ビルマ」。]及び印度洋諸島に行はれ、塞爾維[やぶちゃん注:「セルビア」。]人は、妖巫眠中、其魂蝶と成て身を離るゝ間だ、其首足の位置を替て臥せしむれば、魂歸て口より入る能はず、巫爲に死すと傳へ、盂買[やぶちゃん注:「ボンベイ」。]にては、眠れる人の面を彩り、睡れる女に鬚を書けば罪[やぶちゃん注:「つみ」。]殺人に等し、と言り』とあり、また、『印度に古く、突然貴人を寤さず、音樂を奏し徐々[やぶちゃん注:「そろそろと」。]之を起す風有りしを知る』とある。また、「二」にも、『古印度人、睡れる王を急に呼び寤さず、音樂を奏して漸く覺悟せしめたる風習』があることを記す。

「頃ろ」「このごろ」。

「宗五大艸紙」(そうごおほざうし)「(明治三十五年經濟雜誌社飜刻群書類從卷四一三、頁五八四)に、……」「宗五大草紙」は戦国時代の享禄元(一五二八)年に伊勢貞頼によって記された武家故実書。全一巻。「条々聞書」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、『著者は』「応仁の乱」の最中の文明九(一四七七)年に『室町幕府に出仕して足利義政以来の』五代に亙る『将軍に仕えていた。その貞頼が』七十四『歳を迎えた享禄元』(一五二八)『年に一族(一説には子)の伊勢貞重のために武家奉公人としての心得や幕府殿中における諸作法・心がけ、先人の教訓などを』二十五項目二百八十一ヶ条にして『まとめたもの。現在は写本のみが存在するが、武家故実の観点のみならず、室町幕府幕臣としての実体験から書き記された部分も含んでおり、戦国期の室町幕府について知るための史料とされている』とある。熊楠の引用は、国立国会図書館デジタルコレクションの経済雑誌社の明治後期の活字本で見つけた。ここの右ページ現段中央である。この鳴き真似、まっこと、面白かとね!

「供御」「くご」。朝食の時間。

「過て」「すぎて」。

「そと」しーんとして。

「御靜り」「おしづまり」。

「同名備後守方に定りて」備前守を名乗っておられる方に限って。鳴き真似をする人物の役職が決まっていたのである。謂われは不詳。

「仕」「つかまつり」。

「御ひる(起)」「昼」(この場合は「日の出」のニュアンスであろう)から転じた「起床」の意であろう。

「還御成候」「くわんぎよならせさふらふ」。

「擬唱」「ぎしやう」。

「虞」「おそれ」。]

2022/05/22

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「臨死の病人の魂寺に行く話」(PDF縦書・ルビ版・オリジナル注附)公開

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「臨死の病人の魂寺に行く話」(PDF縦書・ルビ版・オリジナル注附)「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「臨死の病人の魂寺に行く話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正三(一九一四)年十一月発行の『鄕土硏究』二巻九号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「臨死の病人の魂、寺に行く話」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。底本ではベタ一段落であるが、「選集」の段落成形に倣って三段落とし、それぞれの段落末に注を附した。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

    臨死の病人の魂寺に行く話

 

 柳田君の遠野物語八七と八八に、大病人の死に瀕せる者、寺に詣る途上知人に遭ひ、次に寺に入つて僧に面し茶を飮んで去つたが、後に聞合はすと其時步行叶はず外出する筈無く、其日死亡したと知れた話二條を載す。何れも茶を飮んだ跡を改むると、疊の敷合せへこぼしあつたとあり。寬文元年板、鈴木正三の因果物語下に、賀州の牢奉行五郞左衞門、每月親の忌日に寺へ參る。或時融山院へ來たりて、某[やぶちゃん注:「それがし」。]煩[やぶちゃん注:「わづらひ」。]の故御寺へも參らずと云ひて、茶の間で茶二三服呑んで歸る。明日納所行きて、御煩ひを存ぜず無沙汰せり、昨日は能くお出で候と言ふと妻子、五郞左衞門立居叶はず、昨日今日は取分け苦しき故、寺參りも成らずと申されしとある。多分は永からぬうちに死んだのだらう。

[やぶちゃん注:「柳田君の遠野物語八七と八八に、……」私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八六~八八 末期の魂の挨拶』を参照。

「寬文元年板、鈴木正三の因果物語下に、……」「因果物語」は江戸初期の曹洞宗の僧で仮名草子作家、元は徳川家に仕えた旗本であった鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年)が生前に書き留めていた怪異譚の聞き書きを没後に弟子らが寛文元(一六六一)年に板行した仮名草子怪談集。当該部は下巻の「十七 人の魂(たましひ)死人を喰(く)ふ事精魂(せいこん)寺へ來(きた)る事」の「附けたり」中の一話。愛知県図書館「貴重和本ライブラリー」の初版本PDF一括版。状態は非常に良い)の「81」コマ目(左丁二行目以降)を視認して示す。一部の読みを送り出した。また、幾つかの略字や不審な箇所は所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の袖珍名著文庫版の饗庭篁村校訂本で訂した。

   *

 賀州(かしう)[やぶちゃん注:加賀国。]の牢奉行(らうぶぎやう)、五郞左衞門と云ふ者、後生願(ごしやうねがひ)にて、每月(まいげつ)、親の忌日(きにち)に寺え参る也。或る時、融山院[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。]へ來りて、

「某(それが)し、煩(わづら)ひ故(ゆゑ)、御寺(おんてら)へも參らず。」

と云ひて、茶の間で、茶、二、三服、呑みて、歸る。

 明日(あくるひ)、納所(なつしよ)[やぶちゃん注:狭義には禅宗寺院に於いて、金銭などの収支事務を扱う担当僧を指す。]、行きて、

「御煩ひを存ぜず、無沙汰也。扨、昨日は能く御出(おんい)でそろ。」

と、言ふと、妻子、云ひけるは、

「五郞左衞門は以つての外に煩ひて、立居(たちゐ)も叶はず、結句(けつく)、昨日今日は、取り分け、煩ひ、苦しき故、寺參りも成らず。」

と申されしと語る也。

   *]

 熊野では、人死して枕飯を炊ぐ[やぶちゃん注:「かしぐ」。]間に、その魂妙法山へ詣で、途上茶店に憇ひて食事をし、畢りに必ず食椀を伏せ茶を喫まずに去ると言傳へ、隨つて食後椀を伏せたり茶を呑まなんだりするを忌む。因て考ふるに、以前病人死ぬ直前に寺に行つて茶を喫み死後は飮まぬと云ふ說が廣く行はれたのが、分離して後には別々の話と成つたものか。又拙妻の父は鬪鷄神社(縣社、舊稱田邊權現)の神主だったが、この社祭禮の日は近鄕の民にして家内に不淨の女ある者來つて茶を乞ひ飮んだ。其緣[やぶちゃん注:「そのつて」。]の無い者は、田邊町の何れの家にても不淨の女の無い家に來て茶を乞ひ飮んだ。斯くせずに祭禮を觀ると馬に蹴られるなど不慮の難に罹ると話した。是等から見ると、佛敎又は兩部神道盛んな時、茶に滅罪祓除[やぶちゃん注:「ふつじよ」。]の力あると信ぜられたらしい。

[やぶちゃん注:「鬪鷄神社」和歌山県田辺市東陽のここにある。「和歌山県神社庁」の「鬪雞神社」(同庁の正式登録名表記)をリンクさせておく。そこに記されてあるが、熊楠の妻はこの神社宮司であった田村宗造氏の四女松枝さんである。]

 臨死人の魂が寺に往く話は西洋にも多く、マヤースのヒューマン・パーソナリチー(一九〇三年板)卷一、三二三頁以下に、大病で起居も成らぬ父が、階上に眠らずに居た娘を誘ひに來り、見た事なき墓地に伴行き[やぶちゃん注:「つれゆき」。]、ある地點で立止まつたが、二ケ月ばかり經つて其父死し、葬所に往つて見ると果して右の墓地であり、上件の地點に父は埋められたとある。是ばかりでは證據が弱いが、此外に近親の者へも、睡眠中で無く現實に、この死人のさとしが屢々有つたと云ふ記事もある。

    (大正三年十一月鄕硏第二卷九號)

[やぶちゃん注:「マヤースのヒューマン・パーソナリチー」『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」』に既出既注。熊楠の指示する同板の当該ページは、「Internet archive」のこちらから。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡人及死人の魂入替りし譚」(一括PDF版・ルビ化・オリジナル注附)

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡人及死人の魂入替りし譚」(一括PDF版・ルビ化・オリジナル注附)「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡人及死人の魂入替りし譚」の「二」・「三」 / 「睡人及死人の魂入替りし譚」~了

 

[やぶちゃん注:凡例その他は「一」の冒頭注を参照されたい。なお、「二」と「三」は短いので、そのまま電子化した。底本ではここから。]

 

 

     睡人及死人の魂入替りし譚 

               (人類二七卷五號三一三頁と二九巻七號に追加す) 

 押上中將頃ろ[やぶちゃん注:「このごろ」。]聊齋志異十六卷を惠送せられ言く、此中に死人の魂、他の死人の身に入替る話一、二有りしと記憶すと。予多忙中全論を通覽せざれど、其第一卷に次の一條あるを見出し得たれば報告す、云く長淸僧某道行高潔、年八十餘猶健、一日顚仆不起、寺僧奔救、已圓寂矣、僧不知自死、魂飄去至河南界、河南有故紳子率十餘騎、按鷹獵兎、馬逸墮斃、魂適相値、翕然而合、遂漸蘇云々、張目曰、胡至此、衆扶歸入門、則粉白黛綠者、紛集顧問、大駭曰、我僧也、胡至此、家人以爲妄、共提耳悟之、僧亦不自申解云々、酒肉則拒、夜獨宿云々、雜請會計、公子托以病倦、悉謝絕之、惟問、山東長淸縣云々、翌日遂發抵長淸云々、弟子見貴客至云々、答云、吾師曩已物化、問墓所。群導以往、則三尺孤墳荒草猶未合也云々、既而戒馬欲歸、囑曰、汝師戒行之僧、所遺手澤宜恪守云々、既歸云々、灰心木坐、了不勾當家務、居數月、出門自遁直抵舊寺、謂弟子、我卽汝師、衆疑其謬、相視而笑、乃述返魂之由、又言生平所爲悉符、衆乃信、居以故榻、事之如平日、後公子家、屢以輿馬來、哀請之、略不顧瞻、又年餘、夫人遣紀綱至、多所饋遺、金帛皆却之、惟受布袍一襲而已、友人或至其鄕、敬造之見其人默然誠篤、年僅而立、而輒道其八十餘年事《長淸(ちやうせい)の僧某は、道行(だうぎやう)高潔、年八十餘にして、猶ほ、健やかなり。一日、顚(まろ)び仆(たふ)れて起きず、寺僧、奔り救ふも、已(すで)に圓寂(ゑんじやく)せり。僧、自(みづか)ら死せしを知らず、魂(こん)、飄(ひるが)へりて去つて河南の界(さかひ)に至る。河南に故(ふる)き紳子有り、十餘騎を率いて、鷹を按(あん)じて、兎を獵(か)る。馬、逸(はや)りて、墮ちて斃(たふ)る。魂、適(たまた)ま相ひ値(あ)ひ、翕然(きふぜん)として[やぶちゃん注:現代仮名遣「きゅうぜん」。集まるさま。一致するさま。]合(がつ)す。遂に漸(やうや)く蘇(よみが)へる云々。目を張(みは)りて曰はく、「胡(なん)ぞ此こに至るや。」と。衆、扶けて歸りて門に入れば、則ち、粉白黛綠(ふんぱくたいりよく)の者、紛(むらが)りて集まり、顧みて問ふに、大いに駭(おどろ)きて曰はく、「我れは僧なり。胡ぞ此に至れるや。」と。家人、以つて、「妄(まう)」と爲(な)し、共(とも)に耳を提(と)りて、之れを悟(さ)まさんとす。僧も亦、自ら申解(いひわけ)せず云々。酒・肉は、則ち、拒(こば)み、夜は獨り宿(い)ぬ云々。[やぶちゃん注:使用人たちが。]雜(いりまぢ)りて會計を請ふも、公子、病ひに倦(う)むを以つてと托(かこつ)け、悉く、之れを謝絕す。惟(た)だ、山東長淸縣のことを問ふ云々。翌日、遂に發して長淸に抵(いた)る云々。弟子、貴客の至るを見る云々。答へて云はく、「吾が師は曩(さき)に已に物化せり。」と。墓所を問へば、群れ、導きて、以つて往けば、則ち、三尺の孤墳にして、荒草、猶ほ、未だ合(おほ)はざるなり[やぶちゃん注:蔽われてはいない。遷化から未だ時が経っていないことを指す。]云々。既にして馬を戒(そな)へて歸らんと欲し、囑(しよく)して曰はく、「汝らの師は、戒行(かいぎやう)の僧たり。遺(のこ)す所の手澤(しゆたく)、宜しく恪守(かくしゆ)すべし[やぶちゃん注:謹んで守りなさい。]。」と云々、既に歸りて云々。灰心木坐(かいしんもくざ)して[やぶちゃん注:気が抜けたようになるさま。]、了(つひ)に家の務めを勾-當(とりしき)らずなりぬ。居(を)ること數月、門を出でて、自(みづ)から、遁れ、直(す)ぐに舊(もと)の寺に抵(いた)り、弟子に謂はく、「我れ、卽ち、汝らが師なり。」と。衆、其の謬(あやま)れるを疑ひ、相ひ視て笑ふ。乃(すなは)ち、返魂(はんごん)の由(よし)を述べ、又、生平(せいへい)の爲(な)す所を言へば、悉く、符(ふ)せり。衆、乃ち、信じ、故(もと)の榻(とう)[やぶちゃん注:腰掛け。]を以つて居(を)らしめて、之れに事(つか)ふるに、平日のごとし。後、公子の家、屢(しばし)ば、輿(こし)・馬を以つて來たり、之れを哀請(あいせい)するも[やぶちゃん注:帰宅を懇請するも。]、略(いささ)かも顧瞻(こせん)せず[やぶちゃん注:顧みない。無視する。]。又、年餘して、夫人、紀綱(けらい)を遣(つかは)して至り、饋遺(きい)[やぶちゃん注:布施。]する所、多しといへども、金帛は皆、之れを却(しりぞ)け、惟だ、布袍(ぬのこ)一襲(ひとかさね)を受くるのみ。友人、或いは、其の鄕(がう)に至り、敬して之れに造(いた)るに、其の人、默然として誠篤(せいとく)なるを見る。年は僅かに而立(じりつ)[やぶちゃん注:三十歳。]、而れども、輒(すなは)ち、其の八十餘年もの事を道(い)ふ。》。

      (大正三年十月人類第二十九號)

[やぶちゃん注:以上の「聊齋志異」の引用は事前に縦書ルビ附きで柴田天馬氏の素敵な現代語訳を公開してある。そこで「中國哲學書電子化計劃」の同書当該話の影印本をリンクさせてもある。但し、熊楠の引用には、若干、漢字表記に不審があるので(或いは参考底本が私のものと異なるだけなのかも知れないが)、そこは修正し、《 》でオリジナルに訓読を附した。

「人類二七卷五號三一三頁と二九巻七號」前者は『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」』を、後者は『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡人及死人の魂入替りし譚 一」』を指す。

「押上中將」陸軍中将押上森蔵(おしあげもりぞう 安政二(一八五五)年~昭和二(一九二七)年)。岐阜生まれ。台湾守備混成第一旅団参謀長・東京陸軍兵器本廠長・陸軍砲兵大佐・陸軍少将・陸軍兵器本廠長を経て、陸軍中将として旅順要塞司令官を務めた。南方熊楠との交際機縁は不詳。

「聊齋志異」私が小学生高学年より実に五十年も偏愛し続けている清初の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が書いた文語怪奇短編小説集。全約五百話。一六七九年頃に成立し、著者の死後、一七六六年に刊行された。]

 

 

     睡人及死人の魂入替りし譚 

        (二七卷五號三一三頁、二九卷七號二八九頁、十號四一六頁に追加す)

 今昔物語卷二十に讃岐國女行冥途、其魂還付他身語第十八《讃岐の國の女、冥途に行きて其の魂(たましひ)還りて他(ほか)の身に付きける語(こと)第一八》あり。芳賀博士の攷證本に其出處として日本靈異記卷中、閻羅王使鬼受所召人所饗而報恩緣《閻羅王の使ひの鬼、召す所の人の饗(あへ)を受けて恩を報いる緣》を出し、類語として寶物集卷六を引き居る。先づ死人の魂が他の屍體に入替つた譚の本邦で最も古く記されたのは件の靈異記(嵯峨帝の時筆せらる)の文だらう。今昔のも靈異記のも長文故、寶物集の斗り爰に引く云く、

 讃岐國に依女と云者有り、重き病を受て命終ぬ。父母悲みの餘りに祭を爲したりければ、鬼共祭物を納受してけり。鬼神の習ひ祭物を受用しては空くて止む事無きが故に、同名同姓のものに取替てけり。

 故の召人の依女を返し遣はすに、物騷しく葬送を疾く爲したりければ、犬烏食散して跡形無かりければ、今の召人が體に故の召人の依女が魂を入てけり。卽蘇生して物を云に、形は我娘なりと云ども我をも見知らず。物云へるも替れり。故の依女が父母此事を傳聞て、行て見れば、形は我娘に非ずと云ども我等を見知りて泣喜び、物言ふ聲違ふこと無し。此故に四人の父母を持たり。諸法の空寂なること今生すら此如、いはんや流轉生死の空寂推て知り給ふべき也。

     (大正四年一月人類第三十卷)

[やぶちゃん注:一部が不自然なので、一段落を増やした。漢文脈部分は後に《 》で訓読を挿入した。

「二七卷五號三一三頁、二九卷七號二八九頁、十號四一六頁」前二者は「二」の私の注を参照。最後のそれはこの前のその「二」のこと。

『今昔物語卷二十に讃岐國女行冥途、其魂還付他身語第十八あり』これは事前に『「今昔物語集」巻第二十 讃岐國女行冥途其魂還付他身語第十八』として電子化注しておいたので、そちらを読まれたい。また、冒頭注で、原拠の「日本靈異記」も国立国会図書館デジタルコレクションで「群書類従」版の当該部をリンクさせてある。両者は相同性が強いので電子化していない。悪しからず。

「寶物集」(ほうぶつしふ)は鎌倉初期の仏教説話集。平康頼作。治承年間 (一一七七年~一七八一年)の成立か。鬼界ヶ島から赦免されて京に帰った康頼が、嵯峨の釈迦堂(清凉寺)に詣でて、参籠の人々との語らいを記録したという結構を持つ。世の中の真の宝は何かについて語り合われ、まず「隠れ蓑」、次いで「打ち出の小槌」・「金(こがね)」と,順次に、これこそ第一の宝であるとするものがもち出されるものの、最後に、僧によって、仏法が第一の宝であると主張され、その僧が例話を挙げて、そのことを説明する構成となっている。法語的説話集の先駆けとなり、「撰集抄」・「発心集」などに影響を与えた。熊楠の引用は甚だ読み難いので、以下、底本を国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二(一九二七)年富山房刊の当該部を視認しつつ、所持する岩波の「新日本古典文学大系」版も参照して読み易く手を加えて電子化した。所持本では巻第六に載る。但し、これには、話の筋を取り違えた致命的な箇所があり、熊楠はこれを引用すべきではなかった(後述)。

    *

 吾が朝には、讃岐國に依女(いぢよ)といふ者あり。重病を受けて、命、終りぬ。

 父母(ぶも)、悲しみのあまりに、祭(まつり)をなしたりければ、鬼共(おにども)、祭物(さいもつ)を納受(なふじゆ)してげり。[やぶちゃん注:過去の助動詞「けり」に同じ。完了の助動詞「つ」の連用形に、過去の助動詞「けり」が付いた「てけり」が、院政期頃より、撥音が添加されて「てんげり」となったものの、「ん」無表記。軍記物や説話集などに用いられた。「なめり」を「なんめり」と読まねばならぬのなら、これも「てんげり」と読まねばならぬ。]

 鬼神の習ひは、祭物を受用しては、空(むな)しくて止む事(ごと)なきが故に、同名同姓の者に取替(とりか)へてげり。

 故(もと)の召人(めしうど)の依女を歸し遣はすに、物騷がしく、葬送を疾(と)くしたりければ、犬烏(いぬからす)[やぶちゃん注:「南方隨筆」は「犬鳥」と誤字しているので、訂した。]食(く)ひ散らして、跡形(あとかた)もなくなりければ、今の召人の依女が骸(むくろ)に、故の召人の依女が魂(たましひ)を入れてげり。

 則ち、蘇(よみが)へりて、ものを云へば、

「形(かたち)は我が娘なりといへども、我をもみしらず。」

物を云へる聲も替(か)はり、故の召人の依女が父母、この事を傳ヘ聞きて、行きて見れば、

「形は我が娘にあらずといへども、我れを見知りて、なき悅ぶ。もの云ふ聲、違(たが)ふ事なし。」

 此の故(ゆゑ)に、四人の父母を、もちたり。

 諸法の空寂(くうじやく)なる事を。今生(このじやう)すら、此(か)くの如し、況や流轉生死(るてんしやうじ)の空寂、推(お)して、知り給ふべきなり。

   *

「空寂」宇宙の有形無形の一切は、その実体・本性が空であって、思惟分別を超えていること。さて。「今昔物語集」の話と比べて、齟齬を感じ、ごちゃついて、よく判らない展開となっていることに気づく。則ち、入れ替える相手が誤って逆転してしまっているのである。なお、「選集」では「依女」に『よりひめ』のルビを振る。]

2022/05/21

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡人及死人の魂入替りし譚」の「一」

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が大正三(一九一四)年七月発行の『人類學雜誌』二十九巻七号に初出され、「二」が同年十月の同じ『人類學雜誌』二十九巻十号に、「三」が翌大正四年一月の『人類學雜誌』三十巻一号に初出されたもので、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「睡人および死人の魂入れ替わりし譚」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。「一」は例によって、南方熊楠の文章はベタで続くので、「選集」を参考に段落を成形し、そこに注を挟んだ。不審な箇所は引用原本や「選集」で訂したが、それはいちいち注記しなかった。ブログ版では「一」と「二」・「三」を二分割した。]

 

     睡人及死人の魂入替りし譚 

                   (人類二七卷五號三一三頁參照)

 

 倭漢三才圖會卷七一に、伊勢國安濃郡内田村長源寺。相傳曰、昔當地人與日向國旅人、會避暑於堂之檐、互不知熟睡日既暮、有人倉卒呼起之、兩人周章覺、其魂入替而各還家、面貌其人而心志音聲甚異也、家人不敢肯、兩人共然、故再來于此復熟睡、則夢中魂入替如故、諺曰伊勢也日向之物語者是也。或紀曰、推古天皇三十四年三月壬午日五瀨國黃葉縣、佐伯小經來死、三日三夜而蘇、日向國小畠縣謂依狹晴戶者同日死同日蘇、不知妻子及所柄鄕村名、五瀨者語日向、日向者語五瀨、父子鄕村名分明、其子弟互至、相問符合、何以然也、兩人同時死、共至冥府、黃泉大帝議曰、兩人命未、宜還於鄕、冥使率之來誤差其魂尸、兩家子弟深不審之問焉縣社、明神託巫告曰、冥使通明、何有所誤、人不知魂鬼、又多疑冥府、冥帝知之、證之敎之、如此而已、其身雖我等父、心卽非我實父、心非父身無由、父亦以不爲子、願欲替父、朝廷下府任父子願、仍小經來至於日向、晴戶至五瀨如故、而行業 鄕名亦替之。

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の添え辞として、二行で、『南方「睡眠中に靈魂拔け出づとの迷信」一節参照』/『『人類學雜誌』二七巻五号三一三頁』とある。これは、先に電子化注した「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」のことで、本篇の頭の「和漢三才図会」のそれは、そこで、もう既に触れている内容である。『「和漢三才圖會」卷第七十一「伊勢」の内の「當國 神社佛閣各所」内の「長源寺」の記載』として電子化注もしてある。しかも、熊楠の引用にはひどい誤りがあって、そのまま読むと、意味が分からなくなる箇所があるので、そこは、私の所持する原本で修正してある。そんなわけで、訓読文はそちらにあるので、今回は本文挿入していない。]

 此後話の方は死人の魂他人の尸[やぶちゃん注:「しかばね」。]に入替りて蘇生後身邊の事を一切知らず、故鄕の事のみ語りし、と言へるに反し、前話の方は睡中兩人の魂入替り乍ら、その體各[やぶちゃん注:「おのおの」。]異人の魂を具して故鄕へ歸れりとする者なれば、此話を作り又信ぜし人々は、人體自ら特異の方角識を有し、萬一他人の魂本來の魂と入替りて之に寄るとも、其體は在來の方角識の儘に故鄕を指して歸り去る筈と心得たるを證す。事頗る奇怪なる如きも、狂人の精神夢裡の思想全く別人同樣變り果たるも、尙ほ身體の動作は多少本人在來の通りなる例多きを參すれば、此前話は精神變態學上の面由き材料たりと思はる。

[やぶちゃん注:「方角識」「選集」では以上に『センス・オヴ・ジレクシヨンス』のルビを振っている。Sense of Direction。

 次の段の漢文は後に推定訓読を附した。]

 扨此話を英譯して、一九一二年十一月卅日のノーツ、エンド、キーリスに出し西洋にも斯る譚有りやと問ひしも一答文だに出ざりし。但し支那に類話あるを近日自分見出したれば爰に揭ぐ、酉陽雜俎(著者段成式は西曆八六三年死せり)續集三に云く、開元末、蔡州上蔡縣南李村百姓李簡癇疾卒、瘞後十餘日、有汝陽縣百姓張弘義、素不與李簡相識、所居相去十餘舍(一舍は卅五里[やぶちゃん注:唐代の一里は五百六十メートル。二十キロメートル弱。])、亦因病死、經宿却活、不復認父母妻子、且言我是李簡、家在上蔡縣南李村、父名亮、驚問其故、言方病時夢有二人、著黃齎帖、見追行數里至一大城、署曰王城、引入一處、如人間六司院、留居數日、所勘責事悉不能對、忽有一人自外來、稱錯追李簡可即放還、一吏曰李簡身壞、須令別處受生、因請却復本身、少頃見領一人至、通曰追到雜職汝陽張弘義、吏又曰弘義身幸未壞、速令李簡託其身以盡餘年、遂被兩吏扶持却出城、但行甚速、漸無所知、忽若夢覺、見人環泣及屋宇、都不復認、亮訪其親族名氏及平生細事、無不知也、先解竹作、因自入房、索刀具破篾成器、語音舉止信李簡也、竟不返汝陽、(南李村に歸り、父亮と共に棲し也)時成式三從叔父攝蔡州司戶、親驗其事、昔扁鵲易魯公扈趙齊嬰之心、及寤互返其室、二室相諮、以是稽之非寓言矣《開元[やぶちゃん注:盛唐の七一三年から七四一年。]の末、蔡州上蔡縣南李村の百姓李簡、癇疾にて卒す。瘞(うづ)めて後、十餘日、汝陽縣の百姓張弘義、素とより、李簡と相ひ識らず、居(を)る所も、相ひ去ること十餘舍にして、亦、病ひに因つて死し、宿(ひとよ)を經て、却(かへ)りて活(いきか)へる。復(ま)た父母・妻子を認(みし)らず、且つ言ふに、「我れは、是れ、李簡、家は上蔡縣南李村にあり、父の名は亮なり。」と。驚きて、その故を問ふに、言はく、「方(まさ)に病める時、夢に二人有り、黃なるを著け、帖を齎(もたら)す。追(ひつた)てられて行くこと、數里、一(ひとつ)の大城に至る。署して「王城」とあり。引かれて一處に入るれば、人間(じんかん)の六司院のごとし。留(とど)まり居ること、數日(すじつ)、勘責(かんせき)せらるること、悉く對(こた)ふる能はず。忽ち、一人の、外より來たる有り、稱すらく、「錯(あやま)りて李簡を追(ひつた)てり。即(ただち)に放還すべし。」と。一吏曰はく、「李簡の身は壞(こぼ)ちたり。須(すべか)らく別に生(しやう)を託すべし。」と。[やぶちゃん注:ここに引用の省略がある。「選集」ではそこがあり、引用原本では、「時憶念父母親族、不欲別處受生」で、「選集」では訓読されて、「時に父母・親族を憶念し、別處に生を受くるを欲せず。」となっている。]因りて復(ふたた)び本(もと)の身に却(かへ)らんことを請ふ。少頃(しばらく)ありて、一人を領(つ)れて至るを見る。通(まう)して曰はく、「雜職(ざふしき)の汝陽の張弘義を追てて到(いた)れり。」と。吏、又、曰はく、「弘義の身、幸ひに、未だ壞れず。速やかに李簡をして其の身に託して、以つて餘年を盡さしめよ。」と。遂に兩吏に扶持(かか)へられ、城より却(かへ)り出づ。但(ただ)、行くこと、甚だ、速やかにして、漸(やうやう)として知る所無し。忽ち、夢の覺(さ)むるがごとく、人の環(かこ)みて泣くと、屋宇(やう)とを見る。都(すべ)て復(ま)た認(みし)らず。亮、其の親族の名・氏及び平生の細事を訪(と)ふに、知らざる無し[やぶちゃん注:よく知っている人物であったのである。]。先に竹の作(さいく)を解(よ)くせり。因りて、自ら、房に入り、刀具を索(もと)め、篾(べつ)[やぶちゃん注:竹の表面。]を破(わ)りて器を成す。語音も擧止も、信(まこと)に李簡なり。ついに汝陽に返らず。時に、成式(せいしき)[やぶちゃん注:本書に著者段成式。]が三從(さんしやう)[やぶちゃん注:母方の叔父のことか。]の叔父は、蔡州の司戶を攝(か)ね、親しく素の事を驗(みきき)せり。昔、扁鵲(へんじやく)は、魯の公扈(こうこ)と趙の嬰齊(えいせい)との心を易(か)へ、寤(さ)むるに及びて、互ひに其の室に返り、二室、相ひ諮(はか)る、と。是れを以つて之れを稽(かんが)ふるに、寓言には非ざるなり。》。焉に言る[やぶちゃん注:「ここにいへる」。]扁鵲の故事は、現存此類話中最も古き者らしく、列子湯問篇に出たり。

      (大正三年七月人類第二十九卷)

[やぶちゃん注:「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。その投稿原本はは「Internet archive」のこちらで読める。左ページの左の中央から右上にかけてである。

「扁鵲」春秋戦国時代の伝説的な医者で中国医学の祖。インドの耆婆(ジーヴァカ)と並ぶ名医とされる。当該ウィキによれば、『扁鵲の活動の始まりは紀元前』六五五『年の虢』(かく)『という小国の滅亡で、活動の終わりは紀元前』三五〇『年の秦の咸陽への遷都であり』、これは彼が三百『年近く』も『生きていたことになる』とある。

「列子湯問篇に出たり」「列子」は生没年不詳で、中国古代の思想家。道家の代表者、又。その著作とされる書物を指す。名は禦寇(ぎょこう)。鄭(てい)の人で、老子の弟子或いは関尹子(かんいんし)の弟子、又は老商子(ろうしょうし)の弟子などと言われ、荘子の先輩ともされるが、その事績は不明。「列子」や「荘子」(そうじ)の書中に列禦寇の説話が見えるものの、孰れも事実とは認め難く、ために、人物の実在を疑う説もある。当該部は以下。訓読は所持する岩波文庫(一九八七年刊)の小林勝人(かつんど)氏の訳を参考にした。

   *

魯公扈、趙齊嬰二人有疾、同請扁鵲求治。扁鵲治之。既同愈。謂公扈、齊嬰曰、「汝曩之所疾、自外而干府藏者、固藥石之所已。今有偕生之疾、與體偕長、今爲汝攻之、何如。」。二人曰、「願先聞其驗。」。扁鵲謂公扈曰、「汝志彊而氣弱、故足於謀而寡於斷。齊嬰志弱而氣彊、故少於慮而傷於專。若換汝之心、則均於善矣。」。扁鵲遂飮二人毒酒、迷死三日、剖胸探心、易而置之、投以神藥、既悟、如初。二人辭歸。於是公扈反齊嬰之室、而有其妻子、妻子弗識。齊嬰亦反公扈之室、有其妻子、妻子亦弗識。二室因相與訟、求辨於扁鵲。扁鵲辨其所由、訟乃已。

(魯の公扈(こうこ)、趙の齊嬰(さいえい)の二人、疾ひ有り、同じく扁鵲がもとへ請(いた)りて治(ぢ)を求む。扁鵲、之れを治す。既に同(とも)に愈えたり。公扈・齊嬰に謂ひて曰はく、

「汝らが曩(さき)に疾む所は、外よりして府藏(ふざう)を干(おか)す者にして、固(もと)より藥石の已(い)やす所なり。今、偕生(かいせい)の疾ひ[やぶちゃん注:先天的疾患。]有り、體と偕(とも)に長(ちやう)ず。今、汝らが爲めに之れを攻(をさ)めんは、何如(いかん)。」

と。二人、曰はく、

「願はくは、先づ其の驗(しるし)を聞かん。」

と。

 扁鵲、公扈に謂ひて曰はく、

「汝は、志(こころざし)、彊(つよ)くして、氣、弱し。故に謀(はかりごと)に足(た)りるも、斷(だん)に寡(すくな)し。齊嬰は、志、弱きも、氣は彊し。故に慮に少(か)けて、專(せん)に傷(やぶ)る[やぶちゃん注:独断専行して、失敗する。]。若(も)し汝らの心(しんざう)を換へなば、則ち、善(よ)きに均(ひと)しからん。」

と。

 扁鵲、遂に、二人に毒酒を飮ましめ、迷死せしむること[やぶちゃん注:仮死状態にさせること。]、三日、胸を剖(さ)き、心を探(さぐ)り、易(とりか)へて、之れを置き、投ずるに、神藥を以つてす。既に悟(さ)むれば、初めのごとし。二人、辭して歸る。是(ここ)に於いて、公扈は齊嬰の室(いへ)に反(かへ)りて、其の妻子を有せんとせしが、妻子は識(みし)らず。齊嬰も亦、公扈の室に反りて、其の妻子を有せんとせしが、妻子も亦、識らず。二(ふたり)の室(つま)、因りて相ひ與(とも)に訟へて、辨(あかし)を扁鵲に求む。扁鵲、其の由(よ)る所を辨(あきら)かにして、訟へ、乃(すなは)ち、已みぬ。)

   *]

「今昔物語集」巻第二十 讃岐國女行冥途其魂還付他身語第十八

 

[やぶちゃん注:テクストは「やたがらすナビ」のものを加工データとして使用し、正字表記は芳賀矢一編「攷証今昔物語集 中」の当該話で確認した。所持する小学館「日本古典文学全集」(三)を参考にした。読み易さを考えて、読みの一部を送り出したり、漢字をひらがなにしたりし、また、段落等も成形した。なお、本篇には原拠があり、平安初期の仏教説話集「日本靈異記(にほんりやういき)」(正しくは「日本國現報善惡靈異記」。全三巻。薬師寺の僧景戒(きょうかい)の著。弘仁一三(八二二)年頃の成立。雄略天皇から嵯峨天皇までの説話百十六条を年代順に配列する。その多くは善悪の応報を説く因果譚)の中巻の「閻羅王の使(つかひ)の鬼、召す所の饗(あへ)を受けて恩を報いる緣(えん)第二十五」である(同書は私の偏愛する一書である)。国立国会図書館デジタルコレクションの「群書類從」の第拾七輯のこちらで活字で読める(漢文訓点附き)。そちらでは、時代設定を聖武天皇の治世(神亀元(七二四)年~天平感宝元(七四九)年)とする。]

 

  讃岐國(さぬきのくに)の女(をむな)冥途に行きて其の魂(たましひ)(かへ)りて他(ほか)の身に付く語(こと)第十八

 

 今は昔、讃岐の國山田の郡(こほり)に、一人の女(をむな)、有りけり。姓(しやう)は布敷(ぬのしき)の氏(うぢ)。

 此の女、忽ちに身に重き病ひを受けたり。然(しか)れば、直(うるは)しく□味[やぶちゃん注:「百味(ひやくみ)」が擬せられる。いろいろな御馳走の意。]を備へて、門の左右(さう)に祭りて、疫神(やくじん)を賂(まひなひ)て[やぶちゃん注:賄賂を贈って宥めることを指す。]、此れを饗(あるじ)す。

 而(しか)る間、閻魔王の使ひの鬼(おに)、其の家に來りて、此の病ひの女を召す。其の鬼、走り疲れて、此の祭の膳(そなへもの)を見るに、此れに靦(おもね)りて[やぶちゃん注:恵比寿顔になって。]、此の膳を食(く)ひつ。

 鬼、既に女を捕へて將(ゐ)て行く間、鬼、女に語らひて云はく、

「我れ、汝が膳を受けつ。此の恩を報ぜむと思ふ。若(も)し、同じ名・同じ姓なる人、有りや。」

と。女、答へて云はく、

「同じ國の鵜足(うたり)の郡に、同名同姓の女、有り。」

と。[やぶちゃん注:「讃岐の國山田の郡」「同じ國の鵜足の郡」前者は現在の香川県木田郡三木町で、後者は同県の三木町の西方に高松市の一部を挟んである綾歌郡(グーグル・マップ・データ)。]

 鬼、此れを聞きて、此の女を引きて、彼(か)の鵜足の郡の女の家に行きて、親(まのあた)り、其の女に向ひて、緋(あけ)の囊(ふくろ)より、一尺許りの鑿(のみ)を取り出だして、此の家の女の額に打ち立てて、召して將て去りぬ。

 彼の山田の郡の女をば、免(ゆる)しつれば、恐々(おづおづ)、家に返る、と思ふ程に、活(よみが)へりぬ。

 其の時に、閻魔王、此の鵜足の郡の女を召して來たるを見て、宣はく、

「此れ、召す所の女に非ず。汝ぢ、錯(あやま)りて此れを召せり。然(さ)れば、暫く此の女を留(とど)めて、彼(か)の山田の郡の女を召すべし。」

と。鬼、隱す事、能はずして、遂に山田の郡の女を召して、將て來たれり。

 閻魔王、此れを見て、宣はく、

「當(まさ)に此れ、召す女なり。彼の鵜足の郡の女をば、返すべし。」

と。

 然(しか)れば、三日を經て、鵜足の郡の女の身を、燒き失ひつ。

 然れば、女の魂、身、無くして、返り入る事、能はずして、返りて、閻魔王に申さく、

「我れ、返らされたりと云へども、體(むくろ)、失せて、寄り付く所、無し。」

と。

 其の時に、王、使ひに問ひて、宣はく、

「彼(か)の山田の郡の女の體は、未だ有りや。」

と。

 使ひ、答へて云はく、

「未だ、有り。」

王の宣はく、

「然(さ)らば、其の山田の郡の女の身を得て、汝が身と爲すべし。」

と。

 此れに依りて、鵜足の郡の女の魂、山田の郡の女の身に入りぬ。

 活(よみが)へりて云はく、

「此れ、我が家には、非ず。我が家は、鵜足の郡に有り。」

と。

 父母(ぶも)、活へれる事を喜び悲しぶ[やぶちゃん注:泣かんばかり喜んでいる。]間に、此れを聞きて云はく、

「汝は、我が子なり。何の故に、此くは云ふぞ。思ひ忘れたるか。」

と。

 女、更に此れを用ゐずして、獨り、家を出でて、鵜足の郡の家に行きぬ。

 其の家の父母、知らぬ女の來れるを見て、驚き怪しむ間に、女の云はく、

「此れ、我が家なり。」

と。

 父母の云はく、

「汝は、我が子に非ず。我が子は、早う燒き失ひてき。」

と。

 其の時に、女、具さに、冥途にして、閻魔王の宣ひし所の言(こと)を語るに、父母、此れを聞きて、泣き悲みて、生きたりし時の事共(ことども)を問ひ聞くに、答ふる所、一事として、違(たが)ふ事、無し。

 然(しか)れば、體(むくろ)には非ずと云へども、魂、現はに其れなれば、父母、喜びて、此れを哀(あは)れび養ふ事、限り無し。

 又、彼(か)の山田の郡の父母、此れを聞きて、來て見るに、正しく我が子の體(むくろ)なれば、魂、非ずと云へども、形を見て、悲しび愛する事、限り無し。

 然(しか)れば、共に此れを信(むべな)ひて、同じく、養ひ、二つの家の財(たから)を領(れう)じてぞ有りける。此の女、獨りに付囑して、現(うつつ)に四人(よたり)の父母を持ちて、遂に二つの家の財を領じてぞ有ける。

 此れを思ふに、饗(あるじ)[やぶちゃん注:御馳走。]を備へて鬼を賂(まひな)ふ、此れ、空しき功に非ず。其れに依りて、此れ、有る事なり。又、人、死にたりと云ふとも、葬(さう)する事、怱(いそ)ぐべからず。萬が一にも、自然(おのづか)ら此(かか)る事の有ればなりとなむ、語り傳へたるとや。

ブログ・アクセス1,730,000アクセス突破記念 柴田天馬訳・蒲松齢「聊斎志異」中の「長淸僧」を(PDF縦書版・ルビ附)でここで公開した

柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」の「長淸僧」をPDF版でここに公開する。

ダウンロード - tyouseisou.pdf

【午後二時過ぎ追記】先ほど、ブログ・アクセスが1,730,000アクセスを突破したのであるが、記念テクストを作っている暇がない。これを急遽、その代替とする。悪しからず。

南方熊楠「通り魔の傳說」(「南方隨筆」底本正規表現版・オリジナル注附・縦書PDF版) 公開

南方熊楠「通り魔の傳說」(「南方隨筆」底本正規表現版・オリジナル注附・縦書PDF版)「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/20

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「通り魔の俗說」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正元(一九一二)年八月発行の『人類學雜誌』二十八巻八号に初出されて、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「通り魔の俗説」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。漢文脈の箇所は後に《 》で推定訓読を挿入した。なお、平凡社の「南方熊楠選集」では、添え辞が二行分割で、『前田「通り魔の俗説」参照』『(『人類学雑誌』二七巻九号五七三頁)』となっている。なお、この前田氏は不詳。]

 

 

     通り魔の俗說(人類二七卷九號五七三頁參照)

 

 山崎美成の世事百談に此事を記せり、云く、「前略、不圖狂氣するは、何となきに怪しき者目に遮る事有て、其に驚き魂を奪はれ、思はず心の亂るゝ也、俗に通り惡魔に逢ふと云ふ是也」とて、昔し川井某なる士、庭前を眺めたりしに、椽前の手水鉢下の葉蘭叢中より、熖三尺ばかり、その煙盛に上るを不審に思ひ、刀脇指を別室へ運ばしめ、打臥して氣を鎭めて見るに、熖の後方の板塀の上より、亂髮白襦袢着たる男躍降り、鎗打ふり睨む、心を臍下に鎭め、一睡して見れば熖男共に無し、尋で[やぶちゃん注:「ついで」。]隣宅の主人發狂し、刄を揮ひ譫語[やぶちゃん注:「うはごと」。]したり。又四谷邊の人の妻、類燒後留守し居りたるに、燒場の草葉の中を、白髮の老人杖にすがり、蹣跚して[やぶちゃん注:「まんさんして」。よろよろと歩いて。]笑ひながら來る樣、頗る怪し、彼女心得有る者にて、閉眼して普門品を誦し、暫くして見れば既に消失ぬ。扨三四軒隔てたる醫師の妻、暴かに[やぶちゃん注:「にはかに」。]狂氣せりと有り(撮要)。熊楠按ずるに、古事談卷三僧行部に、關東北條の孫なる少女俄に氣絕、忠快僧都に祈らしめしに、少女に天狗付て種々の事共云ければ、忠快云、是は驗者抔にて非可奉加持之儀《加持奉るべきの儀に非ず》、止ん事なきの人、一念の妄心に依て、有らぬ道に墮ち玉ふ事不便なれば、經を誦で[やぶちゃん注:「よんで」。]聞せ奉て、菩薩をも爲奉祈《祈り奉りたるなり》、去るにても誰にて御坐候哉[やぶちゃん注:「ござさふらうかな」。]と云ひければ、耻かしければ言[やぶちゃん注:「ことば」。]にては得申出じ[やぶちゃん注:「えまうしいでじ」。「得」は不可能を表わす呼応の副詞「え」の当て字。]、書き申さむと云ければ、硯紙抔取せければ、墓々しく[やぶちゃん注:「はかばかしく」。当て字。]假名抔だに書ざる少女、權少僧都良實と書たりければ、周防僧都御房御する[やぶちゃん注:「おはする」。]にこそ侍りなんとて、物語り抔しけり、全く害心も侍らず、是罷り通る事侍りつるにて候ひつるに、きと目を見入れて候ひつる也、今は罷り歸り候ひてむとて退散し、少女無爲たり云々と有り(目を合わせば魔の害を受くる事、塵塚物語より人類學會雜誌二八○號四〇六頁に引るを見よ)。通り惡魔の迷信、中古既に本邦に有りしを知るに足れり。

     (大正元年八月人類第二十八卷)

[やぶちゃん注:「山崎美成の世事百談に此事を記せり、云く、……」山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は江戸後期の随筆作家で雑学者。号は好問堂・北峰。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子。家業を継いだが、学問に没頭し、破産した。江戸派国学の小山田与清(ともきよ)に師事した。文政三(一八二〇)年から随筆「海録」(全二十巻。天保八(一八三七)年完成)に着手したが、その間、文政・天保期は、主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢・中村仏庵ら考証収集家と交わって、当時流行の江戸風俗考証に関わった。史料展観合評会の「耽奇会」や「兎園会」の肝煎を勤め、江戸市井では一目置かれた雑学者であった。しかし生計のため、晩年になるに従い、営利目的の、謂わば当たり目当ての企画物の編著が増え、精巧さに欠けるようになった。なお、私は曲亭馬琴の、その「兎園小説」類の完全な電子化注をブログ・カテゴリ「兎園小説」で進行中であり、美成が馬琴から絶交を突きつけられることとなった『「けんどん」爭ひ』も既に公開済みである。未見の方は、是非、読まれたい。「世事百談」は天保一四(一八四三)年板行の四巻からなる随筆。「国文学研究資料館」のデータ・セットを視認して、以下に全文を電子化する。挿絵は所持する吉川弘文館随筆大成版のそれをトリミングして附した。読みは一部に留めた。読み易さを考えて段落を成形し、話法部分も改行した。実は、既に「柴田宵曲 妖異博物館 異形の顏」で電子化しているが、今回は底本を変えたので、零から起こし、画像も再度、新たに作成した。

   *

   通り惡魔の恠異(けい)

 世に狂氣するものを見るに、大かたは無益(むえき)のことに心を苦しめ、一日も安き思ひなくて、はてには、胸にせまり、心みだれて、狂ひさはげるなり。されば、男たるものには、先(まづ)は、なきはづのことにて、婦人には、まゝあることなり。しかれども、男女(なんによ)にかぎらず、何事もなきに、ふと狂氣して、人をも殺し、われも自害などすることあり。そはつねづね心のとりをさめ、よろしからざる人の、我(われ)と、破(やぶ)れを、とるに至るものなり。かゝれば、養生(やうじやう)は藥治によらず、平生(へいぜい)の心がけ、あるべし。こゝろを養ふこと專(もつはら)なるべし。その、ふと、狂氣するは、何となきに恠(あやし)きもの、目にさへぎることありて、それにおどろき、魂をうばはれ、おもはず、心の、みだるゝなり。俗に「通り惡魔にあふ」といふ、これなり。「游䰟(いふこん)變をなす」[やぶちゃん注:「䰟」は「魂」の異体字。]の古語、むなしからず。不正の邪氣に犯さるゝなり。こは、常に心得あるべきことなり。

 むかし、川井某(なにがし)といへる武家、ある時、當番よりかへり、わが居万(ゐま)[やぶちゃん注:「万」はママ。]にて、上下(かみしも)、衣服を着かへて、座につき、庭前をながめゐたりしに、椽(えん)さきなる手水鉢(てうづばち)のもとにある葉蘭(はらん)の生(おひ)しげりたる中(うち)より、熖(ほのほ)、炎々と、もゆる、三尺ばかり、その烟(けふ)り、さかんに立(たち)のぼるをいぶかしく思ひ、心つきて、家來をよび、刀、脇指(わきざし)を次(つぎ)へ取(とり)のけさせ、

「心地、あしき。」

とて、夜着とりよせて打臥、氣を鎭めて見るに、その熖のむかふなる板屛(いたべい)[やぶちゃん注:「屛」はママ。]の上よりひらりと飛(とび)おりるもの、あり。

 目をとめて見るに、髮ふりみだしたる男の、白き襦袢(じゆばん)着て、鋒(ほさき)のきらめく鎗、打(うち)ふり、すつくと立(たち)て、こなたを白眼(にらみ)たる面(おも)ざし、尋常(よのつね)ならざるゆゑ、猶も、心を臍下(さいか)にしづめ、一睡して後(のち)、再び見るに、今まで燃立(もえたて)る熖も、あとかたなく消(きえ)、かの男も、いづち行けん、常にかはらぬ庭のおもなりけり。

 

Tooriakumanokei

 

 かくて、茶などのみて、何心なく居(ゐ)けるに、その隣(となり)の家の騷動、大かたならず、

「何ごとにか。」

と尋ぬるに、

「その家(いへ)あるじ、物にくるひ、白刄(しらは)をふり𢌞(まは)し、あらぬことのみ訇(のゝし)り呌(さけ)びけるなり。」

と、いへるにて、

「さては、先(さ)きの怪異の、しわざにこそ。」

とて、家内のものに、かのあやしきもの語(がたり)して、

「われは、心を納(をさ)めたればこそ、妖孼(わざはひ)、隣家(りんか)へうつりて、その家のあるじ、怪しみ、驚きし心より、邪氣に犯されたると見えたれ。これ、世俗のいはゆる、『通り惡魔』といふもの。」

と、いへり。

 また、これに似たることあり。

 四ツ谷の邊、類燒ありし時、そこにすめる某が妻、あるじの留守にて、時は、はつ秋のあつさも、まだ、つよければ、只ひとり、椽先(えんさ)きにたばこのみつゝ、夕ぐれのけしきをながめゐたるに、燒後(やけご)といひ、はづかのかり住居(ずまゐ)なれば、大かた、礎(いしずゑ)のみにて、草葉(くさば)、生(おひ)しげり、秋風の、さはさはと、おとして、吹來(ふききた)りしが、その草葉の中を、白髮の老人、腰は、ふたへにかゞまりて、杖にすがり、よろぼひつゝ、笑ひながら、こなたに來るやうす、たゞならぬ顏色(がんしよく)にて、そのあやしさ、いはんかた、なし。

 この妻女(さいぢよ)、心得(こゝろえ)あるものにて、兩眼(りやうがん)を閉ぢ、

『こは、わが心の、みだれしならん。』

とて、「普門品」[やぶちゃん注:「法華経」第八巻第二十五品(ほん)の「観世音菩薩普門品」の略称。]を唱へつゝ、心をしづめ、しばしありて、目(め)をひらき見るに、風に草葉のなびくのみ。いさゝかも、目にさへぎるもの、さらになかりしに、三、四軒も、ほどへたる醫師の妻、

「俄(にはか)に狂氣しけり。」

と、いへり。

 これも、おなじ類(たぐ)ひの恠異(けい)なるべし。むかしより、「妖(えう)は人よりおこる」といふこと、亦、うべならずや。鳩巢(きうさう)云(いふ)、

「陰陽五行の氣の、四時(しじ)に流行するは、天地の正理(せいり)にて、不正なけれども、その氣、両間(りやうかん)に游散紛擾(いうさんふんぜう)して、いつとなく、風寒暑濕(ふうかんしよしつ)をなすには、自(おのづから)不正の氣もありて、人に感ずるにて、しるべし。されば、天地の間(あひだ)に、正氣をもて、感ずれば正氣、応じ、邪氣をもて、感ずれば、邪氣、応ず。」

と、いへり。

 色にまよひて、身命(しんめい)を失ふも、おなじことわりと、しるべし。

   *

「鳩巢」は江戸中期の朱子学者室鳩巣(むろきゅうそう 万治元(一六五八)年~享保一九(一七三四)年)。加賀侯に仕え、藩命により、京都の木下順庵に学んだ。程朱の学を信奉し、道義思想を鼓吹し、赤穂義士を賛美、陽明学や古学派を排斥した。後に新井白石の推挙によって幕府儒官となり、将軍吉宗に信任され、清の「六諭衍義」の和訳を命ぜられ、「六諭衍義大意」を刊行した。以上の引用は「駿台雑話」の「妖は人より興る」の一節。九州大学大学院人文科学研究院教授川平敏文氏のサイト「閑山子LAB」「川平研究所」のこちらで電子化(但し、新字)されたものが読める。

「古事談卷三僧行部に、關東北條の孫なる少女俄に氣絕、忠快僧都に祈らしめしに、……」「古事談」は源顕兼の編になる鎌倉初期の説話集。全六巻。建暦二(一二一二)年から建保三(一二一五)年の間に成立した。「王道・后宮」・「臣節」・「僧行」・「勇士」・「神社」・「仏寺」・「亭宅・諸道」の六篇に分類された上代から中古の四百六十一話を収める。文体は和製の漢文体・仮名交り文など、多様で、どの説話も短文であり、資料からの抄出が多い。「続日本紀」・「往生伝」・「扶桑略記」・「江談抄」・「中外抄」などの記録や談話録に取材している。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の刊本を視認(「37」コマ目から)して電子化するが、これ、少しく読み難いので、カタカナをひらがなに代え、岩波の「新日本古典文学大系」版を参考に読みなど添えて、書き換え、前と同じ仕儀を加えた。

   *

 関東北條【時政。】の孫の小女十二才、俄かに絕入(ぜつにふ)したりければ、然(しか)るべき験者などもなくて、折節忠快僧都の鎌倉を經𢌞(へまは)る時なりければ、請ひていのらせむとしけるに、小女に、天狗、付きて、種々の叓(こと)等、云ひければ、忠快、云はく[やぶちゃん注:「叓」は「事」の異体字。]、

「是れは、驗者などにて加持し奉るべき儀に非ず。止むごと無き人、一念の妄心に依りて、あらぬ道に堕ち給ふ事、不便(ふびん)なれば、經を誦してきかせ奉りて、菩薩をも祈り奉らむと為(す)るなり。さるにても、誰(たれ)にて御坐哉(おはしますや)。」

と云ひければ、

「はづかしければ、詞(ことば)にては、え申いでじ。書きて、申さむ。」

と云ひければ、硯・紙など、とらせたりけれ、はかばかしく仮名などだに未だ書かぬ小女、

「權少僧都良實」

と書きたりければ、

「周防僧都御房の御(おは)するにこそ侍るなれ。」

とて、物語など、しけり。

「全く、害心も侍らず。是れを罷り通る叓侍りつるに、縁に立ちて候ひつるに、『き』と、目を見入れて候ひつるなり。今は罷り還り候ひてむ。」

とて退散す。

 小女無為と云々。

    *

「北條【時政。】の孫の小女」時政は鎌倉幕府初代執権だが、その孫の少女というのは不詳。「忠快僧都」(平治元(一一五九)年~安貞元(一二二七)年)は鎌倉前期の天台僧。平教盛(清盛の弟)の子に生まれ、平氏の生き残りとして、「平家物語」の成立に深く関わった。覚快法親王に入室し、慈円の弟子となって律師に任ぜられたが、「平家の都落ち」に同道、壇の浦で捕らえられ、伊豆に配流となった。文治五(一一八九)年に流罪が解け、上洛すると、再び慈円に師事し、建久六(一一九五)年には、上洛した源頼朝に伴われて、関東に下り、鎌倉幕府に仕えた。これは平家一門の僧として、平氏の怨霊を鎮めるために起用されたものであった。その後は京と鎌倉を往復しながら、慈円が仏法興隆のために白河に建てた大懺法院の供僧となり、他方で源実朝の信頼を受けて、祈祷を行い、その活動は弟子の小川僧正承澄の著「阿娑縛抄」(あさばしょう)に詳しく載る。台密小川流の祖。晩年は比叡山の横川の長吏となって、権勢を振るった(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。「權少僧都良實」「新日本古典文学大系」の注によれば、『天承二年(一一三二)正月、権少僧都で崇徳護持僧。同年閏四月に没。仁和寺僧、高野御室覚法(白河皇子)の濯頂弟子(仁和寺相承記)』とある。「周防僧都御房」同前で、『父孝清、あるいは養父(祖父)良綱が周防守であった故の称』とある。「小女無為」「その後は何事もなく無事であった」という意。

「塵塚物語より人類學會雜誌二八○號四〇六頁に引る」サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)・一九七一年刊で新字新仮名)の「邪視のこと」から引用する。一部の不明字を後に示す国立国会図書館デジタルコレクションの画像で補正した。

   *

     邪視のこと

          南方「出口君の『小児と魔除』を読む」参照

         (『東京人類学会雜誌』二四巻二七八号二九六頁)

 

『改定史籍集覧』第一〇冊所収『塵塚物語』(天文二十一年[やぶちゃん注:一五五二年。]著)四三頁に、当時本邦にこの信ありしを徴すべき文あり。いわく、「ある人のいわく、およそ山中広野を過ぐるに、昼夜を分かたず心得あるべし。人気《ひとけ》罕《まれ》なる所にて、天狗魔魅の類、あるいは蝮蛇猛獣を見つけたらば、逃げ隠るる時、必ず目を見合わすべからず。怖ろしき物を見れば、いかなる猛《たけ》き人も、頭髪立ちて、足に力なくふるい出て、暁鐘を鳴らすこと勿論なり。これ一心顚倒するによりてかかることあり。この時|眼《まなこ》を見合わすれば、ことごとくかの物に気を奪われて、即時に死すものなり。外の物は見るとも、かまえて眼ばかりは窺うべからず。これ秘蔵のことなり。たとえば暑きころ、天に向かいて日輪を見ること、しばらく間あれば、たちまち昏盲として目見えず。これ太陽の光明|熾《さかん》なるがゆえに、肉眼の明をもってこれを窺えば、終《つい》に眼根を失うがごとし。万人を降して、平等に愍れみ給う日天さえかくのごとし、いわんや魔魅障礙の物をや。毫髪なりとも便《たより》を得て、その物に化して真気を奪わんと窺う時、目を見るべからすとぞ」。

 また背縫(『東京人類学会雑誌』二七八号三〇〇頁に出ず)は、同冊『老人雑話』五頁、秀頼五歳参内の時、太閤むりょうの闊袖の羽織に、烏を背縫にせし由見えたり。

 (明治四十二年七月『東京人類学会雑誌』二四巻二八〇号)を見よ)。通り惡魔の迷信、中古既に本邦に有りしを知るに足れり。

   *

『南方「出口君の『小児と魔除』を読む」』は、既に電子化注した、南方熊楠の「小兒と魔除」PDF一括版)の初出題名。この「塵塚物語」というのは、室町時代の説話集で、奥書には天文二十一年とあり、藤原某の作とするが、永禄一二(一五六九)年の序文があるので、実際には、その頃の成立と考えられている。上代以降、主に鎌倉・室町時代の重要人物の人格・逸話や、徳政などの歴史的な事柄に関する話六十五編を収録するが、記載内容は厳密性を欠き、近世的な感覚による叙述も見られ、その信憑性は低いが、中世の風俗や慣習を多く伝える(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。以上の引用部が、国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第十冊のここに載っている。非常に読み易いので、一読をお勧めする。]

南方熊楠「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・縦書PDF一括版)公開

「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・縦書PDF「一」・「二」一括版)「心朽窩旧館」に公開した。 

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 二」 / ブログ版「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」~了

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が明治四四(一九一一)年八月発行の『人類學雜誌』二十七巻五号に初出され、「二」が大正元(一九一二)年八月発行の同じ『人類學雜誌』二十八巻八号に初出されて、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。この「二」の初出は「j-stage」でPDF版で見られる。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが「二」の冒頭)で視認して用い、以上の初出画像も参考にした。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。例によって、南方熊楠の文章はダラダラと長いので、「選集」を参考に段落を成形し、そこに注を挟んだ。不審な箇所は「選集」で訂したが、それはいちいち注記しなかった。漢文表記の部分は直後に《 》で推定訓読文を添えた。]

 

    睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 

 

 人類學雜誌二七卷五號三一二頁に拙文出て後ち[やぶちゃん注:本篇の「一」のパートを指す。]、石橋臥波君其著「夢」の一篇を贈らる。其五三、九一、一〇七、二〇〇等諸頁に、本題に關する例多く載たり。今少しく引て管見を添んに、先づ伊勢物語に、情婦の許より、今霄夢になん見え給ひつると云へりければ、男、

  思ひ餘り出にし魂の有ならん

    夜深く見えば魂結びせよ

と詠みしと有り。和泉式部が、男の枯れ枯れに成にける頃、貴船に詣でたるに、螢の飛ぶを見て、

  物思へば澤の螢もわが身なり

    あくがれ出づる魂かとぞ見る

と詠めりと古今著聞集に見えたる。(沙石集卷五には、澤の螢を澤邊の螢とせり。彼女の家集には全く載せず)。また拾芥抄に、「玉は見つ主は誰とも知らねども結び留めつ下かへの裙」、見人魂時、吟此歌、可結所著裙(男左女右)《人魂(ひとだま)を見し時、此の歌を吟じ、著(き)る所の衣裙(男は左、女は右)を結ぶべし。》と有る抔と攷合[やぶちゃん注:「かうがふ」。]して、中古本邦に、靈魂夢中、又心勞甚き時、又死亡前に身を離れて他行[やぶちゃん注:「たぎやう」。]するを、他の眼に火の玉と見ゆると信ずる、俗習有りしを知り得。

[やぶちゃん注:「石橋臥波」『其著「夢」』石橋臥波(いしばしがは 生没年未詳)は民俗学者。明治四五(一九一二)年の「日本民俗学会」の創設に携わり、同学会の機関誌『民俗』や、学術雑誌『人性』の編集を務めた。「夢」は明治四〇(一九〇七)年二月宝文館刊。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本が読める(裁定公開であるから、没年は未詳のようである)。その「五三」ページはここ。以下、「九一」はここ「一〇七」はここ「二〇〇」はここである。

「伊勢物語に、情婦の許より、今霄夢になん見え給ひつると云うへりければ、……」第百十段。

   *

 むかし、男、みそかに[やぶちゃん注:秘かに。]通ふ女ありけり。それがもとより、「今宵、夢になむ見えたまひつる。」と言へりければ、男、

  思ひあまりいでにし魂(たま)のあるならむ

   夜深(よぶか)く見えば魂結(たまむす)びせよ

   *

「魂結び」肉体から離れ出た魂をもとに戻すための咒(まじな)い。遠く、しかも、魑魅魍魎の跳梁する夜更け、暁前の完全なる深夜にあくがれ出でてしまった魂は双方にとって危険である。

「和泉式部が、男の枯れ枯れに成にける頃、貴船に詣でたるに、……」「古今著聞集」のそれは巻第五「和歌 第六」の以下(一七四)。

   *

   和泉式部貴布禰(きぶね)に詣でて詠歌の事

 和泉式部、をとこのかれがれになりける比(ころ)、貴布禰にまうでたるに、螢のとぶをみて、

  物思へば澤のほたるも我身よりあくがれ出(いで)る玉かとぞみる

とよめりければ、御社(みやしろ)のうちに忍びたる御聲(おんこゑ)にて、

  おく山にたぎりておつる瀧つ瀨の玉ちるばかりものな思ひそ

其しるしありけるとぞ。

   *

「後拾遺和歌集」巻二十では、この二つ歌の後に、

   *

     この歌は貴舟の明神の御返しなり。

     男の聲にて、和泉式部が耳に聞こえ

     けるとなん、いひ傳へたる。

   *

と記されてある。「其しるしありけるとぞ」という附文からは、明神の慰めは「必ずや、男の訪れは復活するから、そんなにひどく悩んではいけない。」というお告げであったわけである。

「沙石集卷五には、澤の螢を澤邊の螢とせり」同書同巻の「二十 行基菩薩御歌事」の中の作者の評言中の附文の一節。

   *

佛の御敎へのみにあらず、神慮もかくこそ敎へ給ひぬれ。和泉式部、夫(をとこ)とかれがれになりける比、貴船禰に籠りて、螢のとぶをみて、

 物思へばさはべの螢も我身よりあくがれ出づる玉かとぞみる

かくながめければ、御殿の中より忍たる御聲にて、

 奥山にたぎりておつる瀧津瀨の玉ちるばかりものな思ひそ

   *

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は南北朝に成立した類書。「拾芥略要抄」とも呼ぶ。鎌倉時代には原形が出来ていたものを、洞院公賢(きんかた)撰で、その玄孫の実熙(さねひろ)が増補したとされる。歳時・文学・風俗・諸芸・官位・典礼など九十九部に分け、漢文で簡略に記述。全三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長の版本のここが当該部。「上ノ本」の「諸頌」の右丁の六行目。

   *

見人魂時歌

 玉ハミツ主ハタレトモシラ子(ね)トモ結留メツシタガヱノツマ

 誦此歌結二所著衣妻一【男ハ左ノシタガヒノツマ 女ハ同右ノツマヲ結

   *

「衣裙」は「もすそ」。次の次の段落のフライング注になるが、『「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈火(ひとだま)」』に、この咒文が載る。この電子化注は私の好みから昨年の三月に公開したもので、本篇のためのものではない。

 以下の一二つの段落は、底本では二つで一段落を成形しており、しかも全体が一字下げで、熊楠お得意の附記挿入である。長いけれど。]

 式部の歌の外に、苦悶極る時、火の玉外出すと信ぜるを證すべき者、義殘後覺卷三、「人每に人玉と云ふ物の有る由を、歷々の人歷然の樣にの給へども、聢と[やぶちゃん注:「しかと」。]受け難く候ひしが、北國の人申されしは、越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介攻め申さゝ程に、城にも强く禦ぐと雖も、多勢の寄て手痛く攻申さるゝ程に、城中弱りて、既にはや明日は打死せんと、追々暇乞しければ、女童部泣悲む事類ひなし。誠に哀れに見え侍りし。斯る程に、已に早日も暮れ懸りぬれば、城中より、天日程なる光り玉、いくらと云ふ數限りもなく飛出ける程に、寄せ衆之を見て、すはや城中は死に用意しけるぞや、あの人玉の出づる事を見よとて、吾も吾もと見物したりけり。斯るに因て、降參して城を渡し、一命を宥め[やぶちゃん注:「なだめ」。]候樣にと樣々あつかひを入られければ、内藏介此義に同じて事調うたり。扨は迚上下悅ぶ事限り無し。斯て其日も暮ければ、昨日飛し人玉又悉く何處[やぶちゃん注:「いづく」。]よりかは出けん、城中さして飛び戾りけり。之を見る人幾許と云ふ數を知らず、不思議なる事共也」と有り。

[やぶちゃん注:「義残後覚」(ぎざんこうかく)は十六世紀末に成立したとされる世間話集。全七巻八十五話。編者は愚軒(事績不詳であるが、豊臣秀次の側近衆に関わりのあった御伽衆の一人であったとも思われている)。原本の成立は文禄年間(一五九二年~一五九七年)と奥書があるものの、実際の今に伝わるそれは、それよりもやや下るものと見られている。国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧」第七冊のこちらで、原文が読める。また、ずっと昔に、「柴田宵曲 妖異博物館 人魂」で、電子化してあるので、そちらの方が読み易いかも知れぬ。]

 死する前に人玉出る事、倭漢三才圖會卷五八に見ゆ。歐州にも爾く[やぶちゃん注:「しかく」。左様に。そのように。]云ふ由、例せば Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, vol.ii, p580 に見ゆ。丁抹[やぶちゃん注:「デンマーク」。]にて、小兒の人玉は小くて赤く、大人のは大なれど淡赤く、老人のは靑しと云ひ、「ウールス」では、大人のは大にして赤く、小兒のは小さくして淡靑しと云ふ(拙文 “Life-Star Folk-lore,” Notes and Queries, Luly13, 1907, p.34 を見よ)。ギリシア海島には、火の玉を、空中の鬼が、死人の魂天に上るを妨ぐる現象とする民有り(Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.48)。支那の葬法に復の式あり。復は魂を取り戾すの義也。死人の衣を更るに先ち[やぶちゃん注:「かふるにさきだち」。]、淨衣を持て屋棟に上り、北に向て還り玉へと三呼し、斯くて魂を包める衣を持下り、絹紐もて括りて魂去るを防ぎ、飮食を奉ずる事生時の如くし、日數經て尸[やぶちゃん注:「しかばね」。]を葬る。此法今も行はるゝ所有りとぞ。日本紀卷十一、大鷦鷯尊、菟道稚郞子自殺して三日なるに、自ら髮を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果して薨じ玉へる由を載す。但し魂を結び留めし事見えず。「ホス」人、「バンクス」島人、「フジー」島人等も、死人の魂を呼び戾して葬りし由なれど、今も然るや否を知らず(予の “On Chinese Beliefs about the North,” Nature, vol.li, p.32, 1894)。Geo.Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, p.399 に、南洋の「ヨルク」公島人、人玉を幽靈とすと有れど、魂結びなどの事を記せず。本邦に嫉妬酷き妻の生魂、火の玉と成て、夫の亡妾の墓に赴き、その火の玉と鬪ひ勝し談有りしと記憶すれど、出所を忘れたり。又晉書に、東海王越死、帝哀痛、越柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒、中宗以爲非禮、乃下詔曰、夫冢以藏形、廟以安神、今世招魂葬者、是埋神也、其禁之《東海王、越、死す。帝、哀痛す。越の柩は焚かれ、乃(すなは)ち、魂を招きて、越を丹徒(たんと)[やぶちゃん注:現在の江蘇省鎮江市丹徒区。]に葬むる。中宗、以つて「禮に非ず。」と爲(な)し、乃ち、詔を下して曰く、「夫(そ)れ、冢(つか)は以つて形を藏(かく)す。廟は以つて神を安んず。今の世の招魂葬なる者は、是れ、神を埋(うづ)むるなり。其れ、之れを禁ぜよ。」と。》と見ゆ。

[やぶちゃん注:「死する前に人玉出る事、倭漢三才圖會卷五八に見ゆ」既注の『「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈䰟火(ひとだま)」』を参照。

Hazlitt, Faiths and Folklore, 1905, vol.ii, p580」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著「信仰と民俗学」。「Internet archive」のここだが、ちょっと不審な部分がある。即ち、以下のデンマークのそれは、ここではなく、次の注の熊楠の記事で、別の人物からの提供であることを述べているからである。

「“Life-Star Folk-lore,” Notes and Queries, Luly13, 1907, p.34「Internet archive」のここで原本の当該部が読める。「『生きている星の如く光る物(=人魂)』の民間伝承」。

Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.48」イギリスの探検家・考古学者・作家であったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。原本当該部は「Internet archive」のここ

「支那の葬法に復の式あり。復は魂を取り戾すの義也」サイト「EMORIAL CEREMONY SOU・SEN」内の「中国の古代葬儀」のページの「魂呼び」に以下の「復(ふく)の式」記載がある。

   《引用開始》

 人が奥の室で亡くなると、はじめに死者に掛けふとんを掛け、着ていた服を脱がせる。そして小臣が死者の口を開き、歯にさじを噛ませる。またひじかけで両足をはさみ、足が曲がるのを防ぐ。次に干した肉と塩辛と酒を死者の右側に供える。これが終わると堂にカーテンを垂らして室のなかを隠す。

 復者(魂招きをする者)が一人呼ばれ、死者の礼服を左肩にかけて屋根に昇り、屋根の中央に北を向いて立ち、衣服を振りながら死者に呼びかける、「ハーア、某(死者の名)よ、帰り来たれ」

 3度そのようにして招いたあと、庭に向かい衣服を投げ下ろす。それをかごで受けとめ、東の階段から堂に昇って、死者にそれを着せ掛ける。招いた衣服には魂がつつまれており、それを着せれば魂がもとに戻ると考えられていた。この魂呼びの風習はどこにおいても行われたもので、旅館で死ぬと旅館、戦場で死ぬと戦場で矢をもって復を行ったという。

 この招魂の儀式を行なっても死者が生き返らぬことがわかったら、葬送の準備が始められる。

 葬送儀礼の目的は、死者の身体を大切に扱うことと、その魂に仕えることである。歯にさじをかませ足を固定するのは身体を大切に扱うことであり、肉や酒を供えるのは魂に仕えることである。

   《引用終了》

なおここに出る、衣服を死者の屋根の上で振って「魂呼び」をする習俗については、私が大学時代、唯一人、尊敬した吹野安先生の実体験談を忘れない。先生は茨城県西茨城郡大原村(現在の笠間市)の御出身だったが、御母堂の死に際して、講義を終えた後(御母堂との約束で、万一、亡くなっても、仕事を終えてから戻るようにと厳命されておられたのである。「親族からは、死に目に逢わなかったことを非難されたが、俺は、平気だったね。」とおっしゃっておられた。その時、まず、やったのが、実家の屋根の上に登って、母の普段着を、西に向かって、三度、大きく振りながら、「お~い! お~い! お~い!」と、「魂呼び」をした、とお話になられたのを、私は非常に印象深く覚えているのである。

「日本紀卷十一、大鷦鷯尊、菟道稚郞子自殺して三日なるに、自ら髮を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果して薨じ玉へる由を載す」「大鷦鷯尊」は「おほささぎのすめらみこと」で後の仁徳天皇、「菟道稚郞子」は「うぢのわきいらつこ」で第十五代応神天皇皇子(本「日本書紀」では皇太子)にして第十六代仁徳天皇の異母弟で、彼のウィキによれば、『父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊』『に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる』但し、これは「日本書紀」に『のみ記載された説話で』、「古事記」では『単に夭折と記されて』おり、これら記紀の『郎子に関する記載には』、『多くの特異性が指摘されるほか』、「播磨国風土記」には『郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である』とある。原文は以下。訓読は、概ね、昭和六(一九三一)年岩波書店刊の黒板勝美編「日本書紀」に拠った)、

   *

太子曰「我知、不可奪兄王之志。豈久生之、煩天下乎。」乃自死焉。時大鷦鷯尊、聞太子薨以驚之、從難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊、摽擗叨哭、不知所如、乃解髮跨屍、以三乎曰「我弟皇子。」乃應時而活、自起以居。爰大鷦鷯尊、語太子曰「悲兮、惜兮、何所以歟自逝之。若死者有知、先帝何謂我乎。」乃太子啓兄王曰「天命也、誰能留焉。若有向天皇之御所、具奏兄王聖之、且有讓矣。然聖王聞我死、以急馳遠路、豈得無勞乎。」乃進同母妹八田皇女曰「雖不足納采、僅充掖庭之數。」乃且伏棺而薨。於是大鷦鷯尊、素服爲之發哀哭之甚慟。仍葬於菟道山上。

(太子曰はく、

「我れ、兄王(いろねのきみ)の志しを奪ふべからざることを知れり。豈に久しく生きて、天下を煩はしむや。」

と、のたまひて、乃(すなは)ち自ら死(をは)りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、『太子、薨(みまか)れましぬ。』ときこしめして、以つて驚きて、難波(なには)より馳せて、菟道宮(うぢのみや)に到ります。爰(ここ)に太子薨れまして三日に經(な)りぬ。時に大鷦鷯尊、摽(みむね)[やぶちゃん注:「御胸」か。]、擗(う)ち、叨(おら)ひ哭(な)きて、所(せ)む如(すべ)を知らず。乃ち、髮(みくし)を解き、屍(かばね)に跨(またが)り、以つて三たび呼びて曰はく、

「我は弟皇子(いろとのみこ)。」

とのたまふ。乃ち、時に、應(こた)へて活(いきい)でたまひ、自ら起きて以つて居(ゐ)ます。爰に大鷦鷯尊、太子に語りて曰はく、

「悲しきかも、惜しきかも、何の所以(ゆゑ)にか、自ら逝(す)ぎましし。若(も)し、死者、知(さとり)有らば、先帝、我(やつが)れを何(いか)が謂(おは)せむや。」

と。

 乃ち、太子、兄王に啓して曰はく、

「天命(いのちのかどり)なり。誰(たれ)か能く留めむ。若し、天皇(すめらみこと)の御所(おもと)に向(まうでいた)ること有らば、具さに兄王の聖(せい)にして、且つ、讓り有(まし)ますことを奏さむ。然(しか)るに、聖王、我は死を聞こしめし、以つて遠き路より急ぎ馳(い)でませり。豈に勞(いた)はれる無きことを得んや。」

と。

 乃ち、同じ母(はた)の妹(いろと)八田皇女(やたのひめみこ)を進めて曰はく、

「納(め)し采(い)るに足らずと雖も、僅かに掖庭(うちつみや)[やぶちゃん注:後宮。]の數(ひとかず)に充てたまへ。」

と。

 乃ち、且(ま)た棺に伏して薨れましぬ。是に、大鷦鷯尊、素服(あさのみそ)[やぶちゃん注:麻などの加工しない生地のままか白地の布で作った喪服。]たてまつりて、爲めに發哀(かなし)み、哭(みねな)きて甚だ慟(いた)みたまふ。仍(よ)りて、菟道の山の上に葬しまつる。)

   *

『「ホス」人』不詳。

『「バンクス」島人』現行の人口は少ないが(二〇一一年現在百十二人)、カナダ北部の北極諸島にあるバンクス島(Banks Island)か。ノースウエスト準州のイヌヴィック地域(Inuvik Region)に属する。位置などは当該ウィキを参照。

『「フジー」島』ここ(グーグル・マップ・データ)。

「予の “On Chinese Beliefs about the North,” Nature, vol.li, p.32, 1894)」英文サイト『nature』の驚くべきアーカイブズのこちらで(悲しいことに日本はこの手のサイトでは、致命的に後進国である)、当該記事をPDFでダウン・ロード出来る。「『北』に就いての中国の信仰に就いて」。

Geo.Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, p.399」ジョージ・ブラウン(一八三五年~一九一七年)はイギリスのメソジストの宣教師にして民族学者。若い頃は医師の助手などをしていたが、一八五五年三月にニュージーランドに移住し、説教者となり、一八五九年にフィジーへ宣教師として渡って、翌年、シドニーからサモアに向かった。一八六〇年十月三十日に到着してより一八七四年までサモアに住んだ(主にサバイイ島に居住)。布教の傍ら、サモアの言語・文化を学び、シドニーに戻り、その集大成として、後にメラネシア人とポリネシア人の生活史の概説と比較を試みたものが本書であった(英文の当該ウィキに拠った)。「Internet archive」で同原本が読め、当該ページはここ

『「ヨルク」公島人』不詳。マダガスカル諸島の一島の旧名か?

「本邦に嫉妬酷き妻の生魂、火の玉と成て、夫の亡妾の墓に赴き、その火の玉と鬪ひ勝し談有りしと記憶すれど、出所を忘れたり」この話、確かに私の「怪奇談集」の中に確かにある記憶が確かにあるのだが、熊楠よろしく、探し得ない。似たような話なら、私の「耳囊 巻之十 赤坂與力の妻亡靈の事」がそれにかなり近い。別に発見次第、追記する。

「晉書」とする以下の引用は、原本には類似した文字列はあるが、一致するものがない。思うに、「太平御覽」の「禮儀部三十四」の「葬送三」の以下の「晉中興書」(南宋の何法盛撰の史書で、諸史中では評価は高い)のそれが引用元ではないか(文字列がほぼ一致する)と推定する。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で起こす。

   *

「晉中興書」曰、『東海王越妃裴氏、痛越棺柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒。中宗以爲非禮、下詔曰、「夫冢以藏形、廟以安神。今世招魂葬者、是埋神也。其禁之。」』。

   *

【二〇二二年五月五十七日:追記】何時も御指摘を下さるT氏より、『この時期の熊楠の引く漢籍の殆どは、「淵鑑類函」を元にしています。今回の「晋書」以下の文章は、同書の三百二十一巻霊異部二魂魄の魂魄二です』とお知らせがあり、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を添付して下さった(右丁六行目「増」の後の部分が当該部)。「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、一七一〇年成立。確かに、熊楠はよく本書の名を挙げて引用していることは、古くの電子化で気づいていたのだが、これもそうだったことが判明した。以下、当該部を電子化する。

   *

「晉書」云、『東海王越、死。帝、哀痛。越柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒。中宗、以爲「非禮。」、乃下詔曰、「夫冢以藏形、廟以安神、今世招魂葬者、是埋神也。其禁之。」

   *

T氏に感謝申し上げるものである。

 以下は、底本では、本文の行頭に戻る。]

 石橋君、古今集の歌に「思ひやる境遙かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人の無き」と有るを、「是遠ければ夢に入らずとする者にて、近ければ靈魂肉體を離れて、夢に入るとする者也」と評せり。一兩年前歿せし英國稀有の博言家「ゼームス、ブラツト」曰く、支那人は、其幽靈が支那領土と他邦に於ける居留地の外に現ぜずと信ずと、五雜俎卷十五にも云く、江北多狐魅、江南多山魈(人の宅に據り婦女に婬する鬼)、鬼魅之事、不可謂無也、余同年之父、安丘馬大中丞巡按浙、直時、爲狐所惑、萬方禁之、不可得、日就尩瘵、竟謝病歸、魅亦相隨、渡淮而北、則不復至矣《江北には、狐魅(こび)、多く、江南には山魈(さんしやう)多し。鬼魅の事は、無しと謂ふべからざるなり。余の同年の父(ほ)、安丘の馬大(まだい)中丞、浙・直(ちよく)が巡按たりし時、狐の爲めに惑はさる。萬方(ばんぱう)、之れを禁(はらへ)すれども、得べからず。日に尩瘵(わうさい)に就く。竟(つひ)に「病ひ」と謝して歸る。魅も亦、相ひ隨ふ。淮(わい)を渡つて北すれば、則ち、復(ま)た至らざりき。》、是妖怪も自ら繩張り有て、其外に往き得ざる也。日本にも江談抄に、唐人吉備公を密室に幽殺せんとせし時、阿部仲麿の亡魂現はれ、一族子孫が故鄕に於ける近況を聞かん迚、現はるゝ每に、會ふ人驚死すと語り、公より阿部氏七八人、當時の官位形勢を聞知て大悅し、公に祕事を傳へて、其厄を脫せしめし由を筆せるは、幽靈も餘り遠方に到り得ずとせる證にて、石橋君の評說に照らして興味あり。

[やぶちゃん注:『石橋君、古今集の歌に「思ひやる境遙かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人の無き」と有るを、「是遠ければ夢に入らずとする者にて、近ければ靈魂肉體を離れて、夢に入るとする者也」と評せり』前掲書のここ(一〇七ページ)。この歌は「古今和歌集」巻第十一「戀歌一」にある詠み人知らずの〈夢に逢う恋〉四首の第一首(五二四番)。

「ゼームス、ブラツト」不詳。

「五雜俎卷十五にも云く、江北多狐魅、……」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上の熊楠の引用については、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政七(一七九五)年京都板行版の訓点附きのこちらで、当該部と校合し、それを参考にしながら、オリジナルに訓読した。

「山魈」については、「柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童」の私の「山魈」の注を参照されたい。

「父」男性への敬称。

「馬大」姓名で「大」は字(あざな)であろう。

「巡按」監察御史。

「尩瘵」身体が弱って病みつくこと。

「江談抄に、唐人吉備公を密室に幽殺せんとせし時、……」「江談抄」(がうだんせう(ごうだんしょう))は平安後期の説話文学。全六巻。大江匡房(まさふさ)の談話を藤原実兼などが筆録したもの。書名は「江」家の言「談」の「抄」出の意。天永二(一一一一)年頃の成立。公事・摂関事・仏神事・雑事・漢詩文に関わる故事や文学論。説話などを分類して載せる。以下は、「江談抄」第三の冒頭ある「吉備入唐(きびにつたう)の間の事」の一節。所持するが、長いので、調べたところ、サイト「龍神楊貴妃伝」のこちらに、原文と現代語訳が載るので参照されたい。

「阿部仲麿」阿倍仲麻呂(大宝元(七〇一)年~大暦五(七七〇)年)。奈良時代の遣唐留学生。養老元(七一七)年に吉備真備・玄昉(げんぼう)らとともに入唐、玄宗に仕え、李白・王維らの文人と交った。朝衡(ちょうこう)と唐名を称した。天平勝宝五(七五三)年に帰国しようとしたが、海難のため、果たせず、在唐五十余年、七十二歳で客死した。私は敦煌に旅した際、西安で「紀念碑」を詣でた。なお、「江談抄」の上記の記事では、彼が大臣として入唐したとか、吉備が閉じ込められた楼でずっと前に餓死したとか、ないことないことが、いろいろ書かれてあるので、注意されたい。

 歐州にも古へ夢中に魂拔出づるとせる例、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]にて二人暑を避けて小流邊に憩ひ、其一人眠りけるに、口より黑蜂程の物出て、苔を踏で、流れが急下する上に橫はれる枯草莖を步み對岸の廢舍に入るを、今一人覩て驚き搖起せしに、其人寤て[やぶちゃん注:「さめて」。底本は「寢」。「選集」で訂した。]面白き夢を破られつる、我れ眠中沃野を橫ぎ、宏河の邊に出で、瀧の上なる銀の橋を渡り、大宮殿裏金寶堆積せるを取んとせる所を起されきと怨めりてふ譚有り。又六世紀に「バーガンヂー」王たりし「ゴンドラン」、狩に憊れて[やぶちゃん注:「つかれて」。]小流側に睡りしを、一侍臣守りける内、王の口より一小獸出で、河を渡らんとして能はず。侍臣刀を拔いて流に架すれば、小獸輙ち渡て、彼岸の小丘麓の穴に入り、暫くして又出で、刀を踏で還て王の口に入る。是に於て王寤て語るらく、吾れ稀代の夢を見つ。譬へば磨ける鋼の橋を踏で、飛沫四散する急流を渡り、金寶盈足せる地下宮に入りしと覺ゆと。因て衆を集め、其所を掘て夥く[やぶちゃん注:「おびただしく」。]財物を獲、信神慈善の業に施せりと云ふ。(Chambers, The Book of Days,1872, vol.i, p.276)。

[やぶちゃん注:『「バーガンヂー」王たりし「ゴンドラン」』次注の原本には「king of Burgundy」、その前に「Gontran」とある。メロヴィング朝のブルゴーニュ王で、五三二年生まれで、五九二年或いは翌年に没している。英文のサイト「Encyclopædia Britannica」の彼の記載を参照した。

Chambers, ‘The Book of Days,’ 1872, vol.i, p.276」、スコットランドの出版業者にして地質学者・法学博士・進化論者・作家でもあったロバート・チェンバース(Robert Chambers 一八〇二年~一八七一年)の畢生の一作で、本邦では副題(a miscellany of popular antiquities in connection with the calendar, including anecdote, biography & history, curiosities of literature, and oddities of human life and character:逸話、伝記と歴史、文学への好奇心、人間の生活と性格の奇妙さなど、曆に関連する一般的古代遺物の雑記に就いて)の方を縮約して「創造の自然史の痕跡」などと訳されているようである。「Internet archive」の原本の当該部はここ

 以下の段落は、底本では全体が一字下げ。]

 人の魂死して動物と現ずる例、日本紀卷十一、蝦夷、田道を殺して後、其墓を掘りしに、田道大蛇となつて彼等を咋殺す[やぶちゃん注:「くひころす」。]、と載せ、今昔物語等に、女の怨念蛇に現ぜし話多し。新著聞集十一篇に、下女死して貯金に執着し、蠅となつて主人の側を離れざりし談有り。英國に蛾を死人の魂、又魅(フエヤリー)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]とする地有り。希臘語に蛾も魂も同名なるに似通へり(Keightley, ‘The Fairy Mythology,’ ed.Bohn, 1884, p.298, n.)。

[やぶちゃん注:「日本紀卷十一、蝦夷、田道を殺して後、……」「仁德天皇紀」の以下の一節。処理は前に同じ。

   *

五十五年、蝦夷叛之。遣田道令擊、則爲蝦夷所敗、以死于伊峙水門。時有從者、取得田道之手纏、與其妻。乃抱手纏而縊死、時人聞之流涕矣。是後、蝦夷亦襲之略人民、因以、掘田道墓、則有大虵、發瞋目自墓出以咋、蝦夷悉被虵毒而多死亡、唯一二人得免耳。故時人云、「田道雖既亡、遂報讎。何死人之無知耶。」。

(五十五年、蝦夷(えみし)、叛(そむ)きぬ。田道(たぢ)を遣はして、擊たしめたまふ。則ち、蝦夷の爲めに敗られて、以つて、伊峙(いし)の水門(みなと)に死(まか)りぬ。時に從者(つかひびと)有りて、田道の手纏(てまき)[やぶちゃん注:上代の装身具。玉や鈴にひもを通して手に巻いたもの。「くしろ」とも称する。]を取り得て、其の妻に與(あた)ふ。乃(すなは)ち、手纏を抱(いだ)きて縊死(くびりし)にたり。時の人、之れを聞きて流-涕(かな)しむ。是の後(のち)に、蝦夷、亦、襲ひて人民を略(かす)む。因りて以つて、田道の墓を掘るに、則ち、大なる虵(をろち)有りて、目を發-瞋(いから)して墓より出で、以つて咋(くら)ふ。蝦夷、悉くに虵の毒を被りて、多く死に亡(う)せぬ。唯(ただ)、一、二人、免かるることを得たるのみ。故に、時の人、云はく、

「田道、既に既に亡(みまか)ると雖も、遂に讎(あだ)を報ゆ。何ぞ死にたる人の知(さと)り無からむや。」

と。)

   *

「新著聞集十一篇に、下女死して貯金に執着し、……」『小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信訳) 附・原拠』の私の注で電子化してある。

Keightley, ‘The Fairy Mythology,’ ed.Bohn, 1884, p.298, n.」アイルランド生まれの作家・歴史学者トマス・カイトリー(Thomas Keightley 一七八九年~一八七二年)が一八二八年に最初に著した「妖精神話学」。]

 綠洲[やぶちゃん注:「グリーンランド」。]人、靈魂、睡中體を脫し、狩獵舞踏訪交すと云ふは、正しく斯る夢を見るに出づ。北米印度甸[やぶちゃん注:「インジアン」。]、夢に魂拔出て、物を求むる事有んに、覺めて後力めて[やぶちゃん注:「つとめて」。]其物を手に入れずば、魂遂に求め煩うて全く身を去り終ると云ふ。新西蘭[やぶちゃん注:「ニユージーランド」。]人は、魂夢に死人鄕に入り、諸亡友と話すと信じ、「カレンス」は、夢に見ること悉く魂が親く[やぶちゃん注:「したしく」。]見聞する所と信ず。濠州土人、「コンド」人等、其巫祝、夢に神境に遊ぶとす。「アウグスチン」尊者の書に、人有り、一儒士に難讀の書の解釋を求めしも、平素應ぜざりしが、或夜其人就牀に先ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]、儒士來て之を解き吳れたり。後日に及び、其故を問ひ、甫て[やぶちゃん注:「もとめて」。]儒士の魂が、夢に體を出で問ふ人の室に現じ、其未だ眠らざる間に之を敎へたるを知れりと載たり(Tylor, ‘Primitive Cultur,’ New York, 1888, vol.i, pp.437, 441)。「ニウーブリツン」島人は、靈魂、人形[やぶちゃん注:「ひとがた」。]を具し、常に其體内に棲み、眠中又氣絕中のみ、拔出ると信じ、眠たき時、予の魂他行せんと欲すと云ふ(和歌山市の俗、坐睡[やぶちゃん注:「ゐねむり」。]を根來詣り[やぶちゃん注:「ねごろまゐり」。]と稱す。寐と根、國音近きに出ずる洒落乍ら、本と[やぶちゃん注:「もと」。]睡中魂拔出ると想ひしに出るや疑を容れず)。サモア島民の信、粗[やぶちゃん注:「ほぼ」。]之に同じく、夢中見る所、靈魂實に其地に往き其事を行へりとす(Brown,op.cit., pp.192, 219)。

[やぶちゃん注:「Tylor, ‘Primitive Cultur,’ New York, 1888, vol.i, pp.437, 441」「原始文化」は、イギリスの人類学者で、宗教の起源に関してアニミズムを提唱した「文化人類学の父」と呼ばれるエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)の代表作で、一八七一年に刊行された彼の代表作。「Internet archive」(但し、一九二〇年版だが、一致する)のここと、ここ

『「ニウーブリツン」島』パプア・ニューギニアのニュー・ブリテン島。ビスマルク諸島最大の島。火山・荒野と、長い植民地の歴史で知られる。

Brown,op.cit., pp.192, 219ここと、ここ

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

 熊楠按ずるに、靈魂不斷人身内に棲むとは、何人にも知れ切つた事の樣なれど、又例外無きに非ず。極地の「エスキモー」は、魂と、身と、名と三つ集りて個人を成す。魂常に身外に在りて、身に伴ふ事影の身を離れざる如く、離るれば身死す、と信ず(Rasmussen, ‘The People of the Polar North,1908, p.106)。神道に幸魂、奇魂、和魂、荒魂等を列し、支那に魂魄を分ち、佛典に魂識、魄識、神識、倶生神等の名有り。古埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]人は、「バイ」(魂)の外に「カ」(副魂)を認めたり(第十一板大英類典九卷五五頁)。是等は、魂の想像進みて、人身に役目と性質異なる數種の魂有りと見たるにて、其内に眠中死後體に留る魂と、拔出る魂と有りとせるやらん。近代迄、多島洋民中には、死後貴人の魂のみ殘り、下民の魂は全く消失すと信ぜる者ありたり(Waitz und Gerland, ‘Anthropologie der Naturvölker,’ 1872, Band VI, S. 302)。

[やぶちゃん注:「Rasmussen, ‘The People of the Polar North,’ 1908, p.106」グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年)。デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である。本書「極北の人々」はイヌイットの風俗を纏めた旅行記で同年に刊行された。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ

Waitz und Gerland, ‘Anthropologie der Naturvölker,’ 1872, Band VI, S. 302」ドイツの心理学者・人類学者テオドール・ウェイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)が書いたものに、人類学者・地球物理学者であったゲオルグ・カール・コルネリウス・ゲランド(Georg Karl Cornelius Gerland 一八三三年~一九一九年)が書き足して完成した「原始人類学」。「Internet archive」で原本が視認出来る(私はドイツ語は読めないので後者のリストのリンクに留めた)。]

 阿非利加の「イボ」族の人言く、祖先來の口碑の外に、靈魂が睡眠中拔出るを證するは、夢尤も力ありと(A. G. Leonard, ‘The Lower Niger and its Tribes,’ 1906, p.145)。「トマス」氏が大英類典十一板八卷に筆せる夢の條に云く、下等人種夢の源由を說くに二樣有り。一は魂が外出して、身外の地處生人死人を訪ふとし、一は死者等の魂が來て其人に會ふとする也と。孰れにしても、莊周が其夢也魂交、其覺也形開《其の寐(い)ぬるや、魂の交はり、其の覺(さ)むるや、形の開く。》と言へるに合り[やぶちゃん注:「あへり」。]、又云く、「デカルツ」[やぶちゃん注:デカルト。]の徒は、生存は考思に憑るとす。隨て心は常に考思すれば、睡中夢實に絕えずと說く。之に反して「ロツク」は人夢中の事を常に知る無し。覺醒中の魂、一考過れば忽ち之を記せず。無數の考思跡を留めず消失する程なるに、睡中自ら知らざる際、猶考思すとは受取れずと難ぜり。「ハミルトン」等又之を駁して、睡遊者、睡遊中確かに其識有り乍ら、常態に復れば直ちに之を忘る。故に睡中不斷夢有るも、寤れば多く忘失する也と論ぜりと。下等人種も「ハミルトン」同樣の見解より、睡中常に夢斷えず。隨て睡る每に必ず魂拔け出づと信ぜるも有り。又睡中必しも不斷夢見ざれども、睡人が或は夢み或は夢みずに居るを傍人正しく識別し能はず。但し夢見る時は必ず魂が拔出る者と心得たるもありて、兩說孰れより考へても、急に睡人を攪亂搖起するは、靈魂安全に身に還るを妨ぐる譯と、戒愼するに及びしならん。斯てこそ二七卷五號[やぶちゃん注:本考の「一」。]に、唐譯の佛敎律より引たる、古印度人、睡れる王を急に呼び寤さず、音樂を奏して漸く覺悟せしめたる風習

[やぶちゃん注:『「イボ」族』西アフリカのナイジェリア南東部のニジェール川とクロス川に挟まれた熱帯森林地帯に居住する部族。人口は三百万人に達し,人口密度も非常に高い。アフリカでも最も進取の気性に富み、活力に満ちた人々として知られ、商業活動などを通じて、ナイジェリア全土、特に北部地方で活躍した。北部のハウサ族や西部のヨルバ族とは異なり、イボ族は、元来、中央集権的な政治制度を持たず、村落連合的な纏まりを基とする民族であった。

A. G. Leonard, ‘The Lower Niger and its Tribes,’ 1906, p.145」「下ニジェールとその民族」はアメリカの地質学者アーサー・グレイ・レオナルド(Arthur Gray Leonard 一八六五年~一九三二年)のニジェールの民俗誌。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が読める

「大英類典十一板八卷」「ブリタニカ百科事典」(Encyclopædia Britannica)のこと。「Internet archive」のここから原本が読める

「ハミルトン」不詳。アメリカ合衆国憲法の実際の起草者として知られる哲学者・政治家アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton 一七五五年~一八〇四年)か。

 以下の二段落は底本では特異的に両方ともに全体が一字下げ。第一段落は御覧の通り、行頭一字下げがあるが、二段落目は、ない。但し、底本のページをめくると、二段落目の続きは行頭に上がっており、おかしい。前の句読点なしの断ち切れも不審感が強く、「選集では以下の部分は丸括弧で続いている。但し、初出では確かに補記形式でかくなっている。その後は「追記」であり、この二段落目の字下げは、無視しないと、本文が尻切れ蜻蛉となってしまう。事実、初出はそうなっている。]

 此譚 F.A. von Schiefner, ‘Tibetan Tales,’ trans. Ralston, 1906, ch.viii にも出でたれど、漸令覺悟《漸く覺悟せしむ》とは無くて、歌謠、銅鈸子、大鼓を以て寤すと有り。それでは安眠を暴かに擾す[やぶちゃん注:「にはかにみだす」。]譯にて、王者に對する作法に背く。西蔵[やぶちゃん注:「チベツト」。]譯經の不備か、譯者の麁漏か、何に致せ唐譯の方正義を得たりと思はる。

[やぶちゃん注:「F.A. von Schiefner, ‘Tibetan Tales,’ trans. Ralston, 1906, ch.viii」ドイツの言語学者にしてチベット学者であったフランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)の「チベット譚」。]

往年英國官吏が緬甸[やぶちゃん注:「ビルマ」。]人を訪て、屢ば睡眠中とて謝絕され、魂の還らざるを惧れて搖起せざると云ふ理由に氣付かず、無闇に家人の無禮を憤りし事(‘Hints to Travellers,Royal Geographical Society, London, 1889, p.389)、非列賓[やぶちゃん注:「フイリピン」。]島の「タガル」人の、睡中魂不在とて、睡人を起すを忌む俗(Tylor, op.cit., vol.i, p.441)等が生じたるなれ。

[やぶちゃん注:「royal geographical society」イギリスの「王立地理学会」。]

 追記。吾邦の魂結びに似たる事、「ハーバート・スペンセル」の社會學原理三板、七七七頁に出たり。南洋「ロヤルチイ」島の古風に、人病重くなれば、魂醫(ソール・ドクトル)[やぶちゃん注:ルビ。]をして病體を脫せる魂を取戾さしむ。其醫二十友を隨へ、二十友[やぶちゃん注:底本・初出・「選集」ともに『二十女』とするが、以下の叙述と齟齬するので、かく、した。]と俱に、病家の墓地に赴き、男は鼻笛吹き、女は嘯きて遊魂を誘出し、時を經て、吹嘯行列して遊魂を病家に伴れ[やぶちゃん注:「つれ」。]歸る。衆、掌を開き、穩かに之を扇ぎて家に向はしめ、家に入るや忽ち一齊に呵して、病人の身に入しめしと云ふ。予の現住地紀伊田邊に、古來四國の船多く來る。二三十年前迄親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]見しとて、數人語りけるは、其船員此地で病死し、葬事終り商賣濟みて出立に際し、船に踏板を渡し、乘込人を待つ振りする事良[やぶちゃん注:「やや」。]久しくて後、死者の名を高く呼んで早く乘れと催し[やぶちゃん注:「うながし」。]、扨て其者已に乘りたりとて人數を算へ、乘員の現數を一人多く增して稱へて解纜せり。斯くせずば亡魂安處せず。船に凶事有りと傳へたりとぞ。

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンセル」イギリスの哲学者・社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。一八五二年にThe Developmental Hypothesis(発達仮説)を、一八五五年にPrinciples of Psychology(心理学原理)を出版後、「社会学原理」(Principles of Sociology)「倫理学原理」を含むA Systemof Synthetic Philosophy(『総合哲学体系』一八六二年から一八九六年までの三十五年をかけて完成させるなど、多くの著作をものした。これらの著作はかれの“evolution”(「進化」)という着想に貫かれており、現在のダーウィニズムの「進化」という概念や、我々がダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)は、の言葉と誤解している“survival of the fittest”(「適者生存」)という言葉は、実はダーウィンの進化論発表の直前に示された彼スペンサーによる概念及び造語である。一八八〇年から九〇年代の明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、『スペンサーの時代』と呼ばれるほどで、一八六〇年に出版されたEducation(教育論)は、尺振八の訳で明治一三(一八八〇)年に「斯氏教育論」と題して刊行され、『スペンサーの教育論』として人口に膾炙した。また、その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた(以上は主にウィキの「ハーバート・スペンサー」に拠った)。同版の英文はこちらで読める。

『「ロヤルチイ」島』ロイヤルティ諸島(英語:Loyalty Islands)又はロワイヨテ諸島(フランス語:îles Loyauté)及びプロヴァンス・デ・ジル・ロイヤルティ(同前:Province des îles Loyauté)或いはロワイヨテ諸島州(デ・ジル・ロイヤリティ州・離島州とも称する)は南太平洋の諸島で、フランス領ニューカレドニアを構成する三つのプロヴァンス(州)の一つであるが、地理的区分と行政区分とは異なる。ここ

 以下は行頭から記すが、初出も「選集」も追記の一部となっている。]

 人類學雜誌二七卷五號の拙文[やぶちゃん注:本篇の「一」。]差し立てゝ後、三重縣木本町近村の石工來り、予の忰五歲なるが夜分顏に墨塗り眠に就くを見、斯すれば必ず魘はる[やぶちゃん注:「おそはる」。うなされる。]と語りて去る。其夜忰屢ば寢言ひ安眠せず。妻、大に困れり。田邊近傍では斯すれば、阿房になると云ふ由。(同號三一三頁參照)

       (大正元年八月人類二十八卷)

[やぶちゃん注:「三重縣木本町」木本町(きのもとちょう)は三重県南牟婁郡にあった町。現在の熊野市木本町に当たる。ここ

「予の忰」南方熊楠の長男熊弥。明治四〇(一九〇七)年生まれ。満年齢で記している。これは不吉な予兆であった。彼は大正一四(一九二五)年三月、高知高等学校受験のために高知に赴いた際、精神異常を発症し(統合失調症と推定される)、自宅療養となったが、昭和二(一九二七)年五月に症状が悪化、熊楠の粘菌図譜を始めとした多くの書類を毀損するに至り、知人の勧めによって翌年の五月に京都の岩倉病院に入院させることとなった(昭和一二(一九三七)年三月に退院したが、病状は回復せず、現在の海南市藤白に家を借り、転地療養となった。後、父熊楠(昭和一六(一九四一)年十二月二十九日)、母松枝の死(昭和三〇(一九五五)年十一月六日)の後、昭和三五(一九六〇)年二月十八日、五十三歳で逝去した。発症素因としては、小学校時代の「いじめ」とも、また、父である巨人熊楠の精神的な重圧とも言われるが、定かでない。]

2022/05/18

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が明治四四(一九一一)年八月発行の『人類學雜誌』二十七巻五号に初出され、「二」が大正元(一九一二)年八月発行の同じ『人類學雜誌』二十八巻八号に初出されて、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。例によって、南方熊楠の文章はダラダラと長いので、「選集」を参考に段落を成形し、そこに注を挟んだ。不審な箇所は「選集」で訂したが、それはいちいち注記しなかった。経典の漢文(「大蔵経データベース」で確認した)は直後に《 》で推定訓読を附した。ブログ版では「一」と「二」を分割した。]

 

    睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 

          (人類二八九號二八二頁參照)

 本邦に此迷信を記せる者多き中、顯著なる一例、南溟の續沙石集(寬保三年自序有り)卷一章六に、中京の或家の婢、主人の親屬なる男と情を通ぜるが、彼男本妻を迎んとすと聞き、しきりに怨み臥たる夜半、俄かに叫び起き、双び臥したる女共に語る。某街の門を出んとするに、向ふより人來るを見て、隱れんとするを、彼人劍を拔て我を斬付ると夢見て寤ると、明朝人來て告ぐ、今日は珍しき事有て、只今迄其事に係りて往反せり、昨夜更て我相識れる醫者、某街の門を通り過んとする時、髮を亂し、恨めし氣なる樣したる若き女、行違んとして又立歸隱れんとす、影の如くにて進退に脚音無し、聲掛しも應えず、身の毛彌立て恐しかりければ、劍を拔て斬付けたり。忽消て其人無し、醫者劔を捨てゝ歸りしを今朝其街に往て乞ふに、聊爾に還すまじと、六かしくなって、漸く只今事濟けりと、其所其町の名も聢かに聞たれども、なおほ十年にも成ぬ事故、わざと記さず、此女、男を恨み、思ひ牾の一念、影の如く人目に見ゆる計り現はれ、男の許に往んとせし事疑ひ無し、と。

[やぶちゃん注:冒頭の注記は、「選集」では二行で、

   *

  谷津直秀「睡眠中に霊魂の抜け出づとの迷信」参照

  (『東京人類学会雑誌』二五巻二八九號二八二頁)

   *

とある。

「南溟の續沙石集(寬保三年自序有り)卷一章六に、……」事前に『「續沙石集」巻一「第六 夢中現映像事」』を、「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらを底本として電子化注しておいたので、そちらと対比されたい。同書には別版本があるので、或いはそちらを熊楠は参考にしたのかも知れぬが、熊楠が梗概として書き変えた部分もあるとも思われるので、必ず比較されたい。]

 七年前嚴冬に、予那智山に孤居し、空腹で臥したるに、終夜自分の頭拔け出て家の橫側なる牛部屋の邊を飛び廻り、有り有りと闇夜中に其狀況を詳く視る。自ら其精神變態に在るを知ると雖も、繰返し繰返し斯の如くなるを禁じ得ざりし。其後 Frederic W. H. Myeers, ‘Human Personality,’ 1903,  vol.ii, pp.193, 322 を讀で、世に斯る例尠なからぬを知れり、去れば蒙昧の民が、睡中魂拔出づと信ずるは、最もな事にて、啻に魂が人形を現して拔出るのみならず、蠅、蜥蜴、蟋蟀、鴉、鼠等となりて、睡れる身を離れ遊ぶと言ふ迷信、諸方の民閒に行はる(Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol.i, p.126 )。隨つて急に睡人を驚起せしむれば、其魂歸途を誤り、病み出すとの迷信、緬甸[やぶちゃん注:「ビルマ」。]及び印度洋諸島に行はれ、塞爾維[やぶちゃん注:「セルビア」。]人は、妖巫眠中、其魂蝶と成て身を離るゝ間だ、其首足の位置を替て臥せしむれば、魂歸て口より入る能はず、巫爲に死すと傳へ、盂買[やぶちゃん注:「ボンベイ」。]にては、眠れる人の面を彩り、睡れる女に鬚を書けば罪[やぶちゃん注:「つみ」。]殺人に等し、と言り(同書一二七頁)、廿年前、予廣東人の家に宿せし時、彼輩の眠れる顏を描きて鬼形にし、又其頰と額に男根を𤲿き抔せしに、孰れも起て後ち、鏡に照して大に怒れり、其譯を問ひしに、魂歸り來るも、自分の顏を認めず、他人と思つて去る虞有る故との事なりし。

[やぶちゃん注:「七年前嚴冬に、予那智山に孤居し」南方熊楠は明治三四(一九〇一)年十月末に勝浦に向い、南紀植物調査行を開始し(途中で田辺に帰宅してはいる)、明治三十七十月、延べ三年に亙った調査を終えて田辺に戻っている。

Frederic W. H. Myeers, ‘Human Personality,’ 1903,  vol.ii, pp.193, 322」イギリスの詩人・古典文学者で心霊学者でもあったフレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤース(Frederick William Henry Myers  一八四三年~一九〇一年)。心霊研究の開拓者として知られ、また初期の深層心理学研究に於ける重要な研究者でもある、かのウィリアム・ジェームズやカール・グスタフ・ユングらにも影響を与えたとされる。一八八〇年代に、師であるイギリスの哲学者・倫理学者ヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick 一八三八年~一九〇〇年)らとともに「心霊現象研究協会」(The Society for Psychical Research)を創立している。「河出文庫」の中沢新一責任編集の『南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学』の本篇注によれば、『ここに挙げられている署は、人間個性とその肉体の死後の留存を論じたもので、南方熊楠はナチで耽読して大きな影響を受けた』とある。正式書名は注通り、「Human personality and its survival of bodily death」である。「Internet archive」で原本を見ることが出来る。ここと、ここである。

「蠅」何より忘れられないのは、「小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信訳) 附・原拠」であろう。「二」で熊楠が原拠に言及している。

Frazer, ‘The Golden Bough,’ 」イギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」( The Golden Bough )。私の愛読書の一つである。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が読める。]

 又按ずるに、義淨譯根本說一切有部毘奈耶雜事卷廿七、多足食王子、假父に殺さるゝを慮り、鞞提醯國に奔る、途中樹下に困睡す、偶々其國王殂して嗣無く、大臣ら、然る可き人を求むるに、此王子非常の相有るを見て、觸て之を寤す[やぶちゃん注:「さます」。]、王子覺て曰く、王を覺すに然くすべけんや、諸人其法を問ふ、答て曰く、先奏美音、漸令覺悟、羣臣曰、此非貧子、定出高門《「先づ、美音を奏し、漸く覺-悟(めざ)めしむ。」と。羣臣曰く、「此れは貧しき子に非ず、定めて高門(かうもん)に出でしならん。」と。》、仍(より)て質して其の先王の甥たるを知り、立て王と爲す。是れにて、印度に古く、突然貴人を寤さず、音樂を奏し徐々[やぶちゃん注:「そろそろと」。]之を起す風有りしを知る、倭漢三才圖會卷七一に、伊勢國安濃郡内田村、長源寺の堂の椽に、土地の人と日向の旅人と、雨を避て眠れるを、倉卒呼起され、二人の魂入れ替り、各其家に還りしも、家人承引せず、再び堂の椽に熟眠中、魂入れ替り復舊せりと述べ、或る紀を引いて、推古帝卅四年、件の兩國の人死して蘇生せしに、魂入れ替りし故、二人を交互轉住せしめし由云り、此或紀とは、有名の僞書、先代舊事本紀なりしと記臆す、全くの妄譚也、但し之に似たる事、紀伊續風土記卷八五に出づ、云く、東牟婁郡野竹村民彌七郞、元文中七十歲計り、病で悶絕し、暫くして人々に呼れて甦りしも、言語態度頓に變り、妻子を識らず、木地引の語を成す(木地引者近江の詞多し、本年一月の文章世界、柳田國男氏の木地屋物語參看)、其頃、當村の奧山に住し木地引彌七郞死し、其魂未だ消失せざるに同名を呼ばれ、來て此老人と入替りたるなるべし、蘇生後十餘年經て死せりと。 

     (明治四十四年八月人類二七號)

[やぶちゃん注:「多足食王子、……」の話は、既に『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 三 / 「卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」の「出典考」の続き』の本文に既出。そちらを見られたい。

「倭漢三才圖會卷七一に、伊勢國安濃郡内田村、長源寺の堂の椽に、……」事前に『「和漢三才圖會」卷第七十一「伊勢」の内の「當國 神社佛閣各所」内の「長源寺」の記載』として電子化注済み。

「紀伊續風土記」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここで確認出来る。

「木地引」木地師のこと。当該ウィキを参照。因みに、澁澤龍彥が死の直前に次回作の素材として考えていたのが、彼らだった。

「柳田國男氏の木地屋物語」サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は一九七〇年筑摩書房刊の新装版「定本柳田國男集 第二十七卷」)で読める。]

「和漢三才圖會」卷第七十一「伊勢」の内の「當國 神社佛閣各所」内の「長源寺」の記載

 

長源寺    在安濃郡内田村【天台】

  本尊 十一靣觀音【長三尺三寸】傳教大師以菩提樹作

 相傳曰昔當地人與日向國旅人會避暑於堂之檐互

 不知熟睡日既暮有人倉卒呼起之兩人周章覺其魂

 入替而各還家靣貌其人而心志音聲甚異也家人不

 敢肯兩人共然故再來于此復熟睡則夢中魂入替如

 故諺曰伊勢也日向之物語者是也

 或紀曰【推古天皇三十四年三月壬午日】五瀬國并日向國言五瀬國

 黃葉縣佐伯小經來死三日三夜而蘓日向國小畠縣

 謂依狹晴戸者同日死同日蘓不知妻子及所柄鄕村

 名五瀬者語日向日向者語五瀬父子鄕村名分明其

 子弟互至相問符合何以然也兩人同時死共至冥府

 黃泉大帝議曰兩人命未宜還於鄕冥使率之來誤差

 其魂尸兩家子弟深不審之問焉縣社明神託巫告曰

 冥使通明何有所誤人不知魂鬼又多疑冥府冥帝知

 之證之教之如此而已其身雖我等父心卽非我實父

 心非父身無由父亦以不爲子願欲替父朝庭下府任

 父子願仍小經來至於日向晴戸至五瀬如故而行業

 鄕名亦替之

△按二說相似而趣異共是恠談而已蓋日向佐伯伊勢

 小畠其名與昔互替乎不知

   *

長源寺    安濃郡(あのうのこほり)内田村に在り。【天台。】

  本尊 十一靣觀音【長け、三尺三寸。】傳教大師、菩提樹を以つて作る。相ひ傳へて曰はく、『昔、當地(ところ)の人と、日向國の旅人と、會(たまたま)、暑(しよ)を堂の檐(ゑん)に避(さ)く。互ひに、知らず。熟睡して、日、既に暮るる。人、有りて、倉-卒(にはか)に之れを呼び起す。兩人、周章(あはて)て覺(めざ)め、其の魂(たましひ)、入れ替りて、各(おのおの)、家に還る。靣貌(めんばう)は其の人にして、心志(こころざし)・音聲、甚だ異(こと)なり。家人、敢へて肯(うけが)はず。兩人、共に、然(しか)り。故(ゆゑ)、再(ふたゝ)び,此(ここ)に來りて、復(ま)た、熟睡すれば、則ち、夢中に、魂、入れ替りて、故(もと)のごとし。諺(ことわざ)に曰はく、「伊勢や日向の物語」とは、是れなり。

或る「紀」に曰はく【推古天皇三十四年三月壬午(みづのえむまの)日。】、五瀬(いせ)の國、并(ならびに)、日向國より、言(まふ)す。五瀬の國黃葉縣(きえふのあがた)、佐伯小經來(さへきのこふく)、死して、三日三夜にして、蘓(よみがへ)る。日向の國小畠縣(こはたのあがた)、依狹晴戸(よさむのはれと)と謂ふ者、同日、死して、同日、蘓り、妻子及び柄(す)む所の鄕村(さとむら)の名をも知らず。五瀬の者は、日向のことを語り、日向の者は、五瀬のことを語るに、父子・鄕村の名、分明なり。其の子弟、互ひに至つて、相ひ問ふに、符(わりふ)合(あ)ふ。何を以つて然(しか)るや。兩人、同時に死して、共に冥府に至る。黃泉(よみぢ)の大帝、議して曰はく、「兩人の命(いのち)、未だし。宜(よろ)しく鄕(さと)に還へすべし。」と。冥使、之れを率(ひきい)て、來り、誤(あやま)ちて、其の魂と尸(かばね)を差(たが)ふ。兩家の子弟(こども)、深く、之れを不審(いぶか)り、縣社(あがたのやしろ)に問ふ。明神、巫(みこ)に託(か)りて、告げて、曰はく、「冥使は通明なり。何の、誤る所、有らん。人、魂鬼を知らず、又、多く、冥府を疑ふ。冥帝、之れを知りて、之れの證、之れを教ふること、此くのごとくなるのみ。」と。[やぶちゃん注:「両家の遺族は」が省略されている。]「其の身(むくろ)は、我等ら父と雖も、心、卽ち、我が實父に非ず。心、父に非る身は、由(よし)無し。父も亦た、以つて、子を爲(おも)はず。願はくは、父を替へんと欲す。」と。朝庭(みかど)[やぶちゃん注:「朝廷」に同じ。]、府(ふ)[やぶちゃん注:「官符」のことか。]を下して、父子の願ひに任(まか)す。仍(すなは)ち、小經來(こふく)は日向に至り、晴戸は五瀬に至り、故(もと)のごとくにして、行業(すぎわい)して鄕(さと)の名も、亦、之れを替ふ。

△按ずるに、二說、相ひ似て、趣き、異(い)なり。共に是れ、恠談のみ。蓋し、「日向の佐伯(さへき)、伊勢の小畠(こばた)と、其の名、昔と、互ひに、替りしや、知らず。

[やぶちゃん注:「長源寺」現在の三重県津市安濃町(あのうちょう)内多(うちだ)に現存(グーグル・マップ・データ)。

「伊勢や日向の物語」「事の前後がはっきりしないまとまりのない話」や、また、「見当はずれなこと」などにいう慣用語。この語の由来については、「伊勢物語知顕抄」は「伊勢(三重県)と日向(宮崎県)の男が死んだ時、閻魔の庁で、寿命のある伊勢の男を生き返らせようとしたが、すでに灰になっていたので、日向の男の体に生き返らせたところ、体と心が別人で、言うことがちぐはぐであった。」といい、また、「諺草」(ことわざぐさ)は「天鈿女命(あめのうずめのみこと)の問いに、随行者の猿田彦神が、「皇孫は日向の高千穂に、自分は伊勢の五十鈴川上に下る。」と答えた説話に拠るとする(小学館「ことわざを知る辞典」に拠る)。また、「東洋文庫」版「和漢三才図会」の注には、『「伊勢人は僻事(ひがごと)す」ともいう。『雑話集』に同話がある』とあるが、確認出来なかった。

『或る「紀」に曰はく【推古天皇三十四年三月壬午(みづのえむまの)日。】、……』出典未詳。南方熊楠は偽書である「先代旧事本紀」の記載と記憶すると、「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」で述べているが、版本と活字本二種を調べたが、推古天皇の記事は推古天皇二十九年までしかない。本紀以外に出るのであれば、お手上げ。探す気はない。識者の御教授を乞う。]

「續沙石集」巻一「第六 夢中現映像事」

 

[やぶちゃん注:本書は鎌倉時代の無住の仏教説話集「沙石集」を範として、江戸後期浄土真宗仏光寺の僧南溟が書いたもの。全六巻・六十二話。延享元(一七四四)年京都で板行された。

 底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらから映像を視認して起こした。カタカナをひらがなに代え、読みは送り仮名で出すなどして、一部に留めた。句読点は私が、適宜、附し、段落も成形した。漢文脈部分は後に( )で訓読を示した。「*」は、以下が、筆者評言となるので、挿入した。「源氏物語」の「葵」の帖からの引用部は前後に「――」を入れた。]

 

 第六 夢中現映像事(夢中(むちう)に映像を現ずる事)

 中京(なかぎやう)のる或人の内に居(ゐ)たる女、その主人の親屬なる人の男と、そのびに情(こゝろ)をかよはして、末の松山、波こさじ、約(ちぎり)けるが、彼(か)の男、本妻を迎へんとするの相談をきゝけり。

 此の女、頻りにうらめしく、心のうちは、もゆるばかりなれども、流石(さすが)に、人、しんじて、契(ちぎ)りし事なれば、柰何(いかん)ともしがたく、埋火(うづみび)の下にのみこがれ侍りて、其の夜も卧(ふ)したるけるが、半夜(よなか)、まへになり、此の女世におそろしげなる聲して、呌(さけ)び、起きたり。枕をならべて卧したる傍輩(ほうばい)の序し(おなご)ども、其の聲に驚きて、各(おのおの)目をさましぬ。此の女、汗水になりて云ひけるは、

「何町通(なにまちどほり)何町(なにてう)の門(もん)を超えて向ひの方(かた)へゆかんとするに、向うより、人の來たるあり、是れ故に、傍らにかくれんとするを、彼(か)の人、來たる人、劔(つるぎ)をぬきて、我れを一打(ひとたち)にきりつくる。我れ、まさにきらるゝと思ふと、夢みて、今、覺めたる。」

と、かたる。

 扨(さて)、夜明けて、此の女、

「件(くだん)の物思ひありて、夢をや、見つらん。」

と、傍輩の中に別(べち)して親しき者に密かに物語りして居たりけるに、外(ほか)より、人、きたりて、云はく、

「今日は、珍らしき事ありて、只今まで、其の事にかゝりて、往反(わうへん)せり[やぶちゃん注:あちこちを行ったり来たりで閉口した。]。昨夜、更けて、半夜(よなか)まへ比(ころ)、我が相ひ識りたる醫者、何町通何町の門を通りすぎんとする時、髮をさばきて、世にうらめしき樣(さま)したる若き女、行き違はんとして、又、たちかへりて、傍らにより、かくる。醫者のこゝろには、

『何者ぞ、もし、狂氣したる者か。』

とみれば、人に、かくれんとする躰(てい)あり、又、影の如くにて、進退に、脚音(あしおと)、なし。

『化(け)したる者か。』

と思ひ、聲、掛をかけて、とがめても、物、いはず。其の間(ま)に、身の毛、卓竪(いよだち)て、をそろしかりければ、帶劔(たいけん)を拔きて、きりつけたり。

 忽ち、きえて、其の人、なし。

 よりて、劔(つるぎ)を、すて置きて、此の醫者、かへり、其の劔を、今朝(こんてう)より、其の町へ、ゆきて、『たまはれ。』と云ふに、『捨てたる劔、聊爾(れうじ)には[やぶちゃん注:そういい加減には。]、かへすまじ。』と、むつかしくなりて、漸(やうやう)、只今、事、すみてげり。」

と。

   *

 其の所、其の町(てう)の名も、たしかに聆(き)きぬれども、尚(まだ)十年にだも事ふりぬ故に、わざと其の町(てう)、所の名を、もらしぬ。

 されば、此の女、彼の男をうらみ、思ひねにせし一念、影のごとく、人目に見ゆるばかり、あらわれ、男のもとにゆかんとする途中にて、醫者にきりつけられ侍りるに究(きは)まれり。珍しく思ひて、此の事はきゝしより、わすれず、今、書き付け侍るなり。

 朝綱(あさつな)「婚姻賦」に、「彼情感之好通雖父母禁禦」(彼(か)の情感(ぜうかん)の好通(かうつう)は、父母(ぶも)と雖も、禁禦し難し)と見えて、男女の閨怨(けいゑん)、互ひに大方(おほかた)ならず。

 これが爲めに、命(いのち)を失ふ事、多し。

 其の内、別して、思ひつめて、晴方(はるゝかた)なきは、女の情(ぜう)なり。

――六條御息所(ろくでうのみやすどころ)、嫉妬の思ひ、深く、御座(ましま)して、葵上(あほひのうへ)を、なやまし玉ふ時、光君(ひかるぎみ)、さまざま、なぐさめ玉ふに、葵上の御氣色(ごきしよく)、かはりて、

「いてあらずや、身(み)のくるしきを、やすめ玉へ。」

と聞くらんとてなん、

「かく參りこんとも、さらに思はぬを、物思ふ人の、たましゐは、實(げ)に、あるかるゝものになん有りける。」

と、最(いと)なつかしげにいひて、

 なげきわび空(そら)にみだるゝわが靈(たま)をむすびとゞめよしたがひのつま

と、の玉ふ聲、けはい、其人にも、あらず、かはり玉へり。

『最(いと)あやし。』

と、おぼしめしぐらすに、只(たゞ)、

『かの御息所なりけり。浅ましく人の兎角いふを、「よからぬ者どもの云ひ出づること。」と聞きにくゝおぼしてのたまひけつ[やぶちゃん注:「消(け)つ。」]を、目に、みすみす、世には、かゝることこそは有りけり。』

と、うとましくなりぬ。――

と、「源氏物語」に見えたり。

 されば、女の一念、みづから、あらはれて、恨みをなし、或ひは、人につきて、其の怨みをかたること、古今にわたり、上下に通じて、其ためし、まゝ多く、寔(まこと)に是れ、をそろしき者なり。元來、「女」と云ふ字は、女の心の、こだはりて一すぢなるにかたどりたるにて、六書(りくしよ)の中には象形(しやうげう)の字なり。佛經の中には、ふかく女をいましめて、『たとひ、毒蛇にはちかづくとも、女人には、ちかづくこと、なかれ。』と見えたるも、宜(むべ)なるかな。

   *

大修館書店「廣漢和辭典」の「女」の「解字」には『両手をしなやかに重ねひざまずく女性の象形』とあるが、「語家族」の部分の最後に』『努や怒は奴から派生した語であろう』とはある。しかし、ここで南溟が言っているような、字義は「女」の本来の字素にはない。仏教上の差別的な「変成男子」(へんじょうなんし)思想を勝手に託けたものであろう。「六書」は言わずもがな、漢字の成立と使用についての六種の分類。象形・指事・会意・形声・転注・仮借。]

ヨハネ默示録筆写夢

この一ヶ月、ほぼ毎日、夢を見る。本未明のそれは印象的であった――

   *

 私は水茎の小筆を持って文語訳譯大正改譯の「新約聖書」の「ヨハネの默示錄」を暗い洞窟の中で机上に書写している。

 ところが、

『第三の御使ラッパを吹きしに、燈火のごとく燃ゆる大なる星、天より隕ちきたり、川の三分の一と水の源泉との上におちたり。

 この星の名は苦艾(にがよもぎ)といふ。水の三分の一は苦艾となり、水の苦くなりしに因りて多くの人死にたり。』

に至って、洞穴の内は水が満たされ、その水中で私は息が出来ないのも厭わず、水中の中空に墨色ではない白い筆跡の立体図のようになった続きの書写をし進めて行くのである。

 さうして、かの、

『此の獸(けもの)の數目(かずめ)の義を知るものは智慧あり才智ある者は此の獸の數を算へよ獸の數は人の數なり其の數は六百六十六なり』

を水中に記した瞬間、その文字が白い細い帯となって、メタモルフォーゼし、後ろ足で立ち、上半身を起こし、前足をこちらへ垂らした、僅かな黒い縞をもった白虎となって、私を凝視していた。その瞬間、私は、

『――李徴――であるな……』

と思い、優しく笑った。

 その白虎の眼の輝きの向こうに、私は私の古い教え子のある男子の優しい視線を感じ、寧ろ、心が落ち着くのを感じたのだった……

   *

 覚醒は午前一時五十分であった。続きを見たかったが、それから五時半の起床まで、半覚醒が続き、それは叶わなかった。

2022/05/17

南方熊楠「イスノキに關する俚傳」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・縦書PDF版)

南方熊楠「イスノキに關する俚傳」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・縦書PDF版)を「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/16

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート 「イスノキに關する俚傳」

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年十月発行の『人類學會雜誌』二十七巻七号に初出され、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「イスノキに関する里伝」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。]

 

    イスノキに關する俚傳

 

 「イスノキ」 Distylium racemosum Sieb.et Zucc.は、九州及び熊野等、暖地產の常綠樹にて「マンサク科」に屬す、ヒヨンノキとも呼ぶ、倭漢三才圖會卷八四に云く、其葉面如子者脹出、中有小蟲化出、殼有孔口、吹去塵埃爲空虛。、大者如桃李、其文理如檳榔子、人用收胡椒秦椒等末、以代匏瓢、故俗曰瓢木、或小兒戯吹之爲笛、駿州多有之、祭禮吹此笛供奉于神云々、紀州西牟婁郡稻成村大字糸田に、大なるイスノキ有り、俗に疣の木と稱す、年々小さき網窠蟲[やぶちゃん注:「まうくわちゆう」。]其葉に子を產付け、上記の蟲窠(沒食子)を生ずる、初め其狀頗る疣に類する故也。疣を病む者、此木の側らなる地藏の石像に祈り、其小枝を折り、葉にて疣を撫で、捨て歸るに必ず平癒すと傳ふ、疣が人體を離れて木に徙る[やぶちゃん注:「うつる」。]と云ふ、又紀州の里俗、疣有者、棒を己が身と木との間に、橋の如くに渡し、「疣橋渡」[やぶちゃん注:「いぼ、はし、わたれ。」。]と三度唱へ乍ら、指にて木を輕く打つて橋を渡るに擬すれば、疣速かに癒ゆ、別に何の木と定りたる事無しと云ふ、英國にも、ハンノキの芽を疣の數だけ取て、之を埋むれば、忽ち斯の患を除くてふ事 W. G. Black, ‘Folk-Medicine,’ 1883, p.57 に見ゆ。思ふに此れ等は、最初諸木の葉に生ずる蟲窠の疣樣なるより、人の疣を樹に移し得と信ずる事、件の糸田の疣の木に於るが如くなりしより起れるならんか、支那の先王の八音、金石糸竹匏土革木の中に、土の樂器は壎[やぶちゃん注:「けん」。]なり。和漢三才圖會卷十八に、事物起原云、世本壎謂暴辛公所造者非也、德音之音而聖人作爲也、拾遺記言、庖犧爲壎、蓋壎燒土爲之、大如鵝、卵鋭上平底似稱錘六孔と有り、白虎通に、其卦は炊に中り、其方は西南に位すと云り、其圖を視るにヒヨンの笛に似たり、其始めは斯る蟲窠を吹きしより起りしかと惟はる[やぶちゃん注:「おもはる」。]、十七年計り前、大英博物館に近き店に、不斷斬新の翫具を賣出す所有り、壎の圖に酷似せる、赤き土製の樂器に、音譜と使用傳授書を添え賣出せしを見るに、ocarina と云ふ物也、因て手近き字書類典抔を搜せしも見當らず、ウエストミンスターの學僧兼飮仙「ヂーン、ハーフヲード」に尋ねしに、是れは支那の壎如き古樂にも非ず、聖作にても無し、ほんの俗謠に合せて兒童の翫ぶ具也と答えられし、昨年出板の大英類典卷十九、九六五頁に、オカリナの短き一條有り云く、伊太利創製の器にて、兒戯具又奇品たるに過ぎず、但し合奏に用ゆべく譜曲を作れる者は有り、普通に十孔を有す云々と、去れば壎と何の關係も無き者なり、愚案に壎唐音ヒヱン、イスノキのヒヨン共に其鳴る聲に基ける名たる事、吾邦のビヤボン、ポコンポコン、英語のドラム(太皷)タムタム(拍皷)に等しきもの歟、序でに述ぶ、那智山と高田村の間だに、烏帽子岩とて甚だ淋しき處有り、魔所の由、昔し尾張で最上の陶器を燒くに、イスノキの灰を土に和するを要し、此所にイスノキ多ければとて採りに來るを常とせり、或る時其使一人、此岩に登り四邊を觀察して、申の刻を過せしに、周圍の草木風無きに自ら動き出しければ、狼狽して逃げ還れりと、咄しを聽て予暮に及んで獨り其處に行き見しに、果して風吹かずに、水楊[やぶちゃん注:「かはやなぎ」。]コアカソ抔動搖して止まず、氣味惡きを我慢して詳察せしに、叢下に多き細流[やぶちゃん注:「ほそながれ」。]に、水楊の細根夥く[やぶちゃん注:「おびただしく」。]浸り居り、水之に激して小木皆搖けるなり[やぶちゃん注:「ゆりけるなり」。]、諸國の俚譚に風無くて草木震動すと云ふは、此樣な[やぶちゃん注:「こんな」。]事から速斷して生ぜるなるべし。

   (明治四十四年十月人類第二十七卷)

[やぶちゃん注:『「イスノキ」 Distylium racemosum Sieb.et Zucc.は、九州及び熊野等、暖地產の常綠樹にて「マンサク科」に屬す、ヒヨンノキとも呼ぶ、倭漢三才圖會卷八四に云く……』事前に『「和漢三才圖會」卷第八十四 灌木類 瓢樹(ひよんのき/いす) / イスノキ』を電子化注しておいたので、そちらを参照されたい。

「紀州西牟婁郡稻成村大字糸田」現在の和歌山県田辺市稲成町(グーグル・マップ・データ)。南方熊楠の墓もここにある。なお、熊楠の神社合祀反対運動の濫觴はここの猿神社(さるがみのやしろ:結局、合祀されてしまった)の合祀に発した。

「網窠蟲」「選集」は『網翅蟲』と訂しているが、網翅目はゴキブリ亜目とカマキリ亜目からなり、イスノキに寄生して虫瘤を形成する種はそこに含まれないので、誤りである。築地琢郎氏のサイト「Mushi Navi」のこちらによれば、当該種はカメムシ目アブラムシ科ヒラタアブラムシ亜科 Metanipponaphis 属シイコムネアブラムシ Metanipponaphis rotunda rotunda とある。本文に現われる「gall」虫癭(ちゅうえい=虫瘤)は、同科 Nipponaphis 属イスノフシアブラムシ Nipponaphis distyliicola が作ったものを「イスノキエダナガタマフシ」、同科 Neothoracaphis 属ヤノイスアブラムシ Neothoracaphis yanonis が作ったものを「イスノキハタマフシ」と呼称する。画像はここ(Shu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」内)やここ(佐々木玄祐氏のサイト「Gen-yu's Files」内)を見られたい。

「蟲窠(沒食子)」前者は「ちゆうくわ」(ちゅうか)、後者は「もつしよくし」(もつしょくし)と読む。所謂、「虫瘤(むしこぶ)」である。

「ハンノキ」本邦産のそれはブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica var. villosa 。但し、イギリスには本種は自生しないから、ハンノキ属の別種である。ヨーロッパに分布ヨーロッパハンノキ Alnus glutinosa  (英語名:Black Alder)と思われる。

W. G. Black, ‘Folk-Medicine,’ 1883, p.57」グラスゴー出身のスコットランドの古物商で、弁護士・政治家でもあったウィリアム・ジョージ・ブラック(William George Black 一八五七年~一九三二年)の「民間薬」。このページ数は「選集」でも「p.657」で同じだが、「Internet archive」で見る限り、当該原本は全「228」ページで、こんなページはない。そこで,英文テクストを「warts」(疣)で検索してそれぞれの部分を調べた結果、図に当たった。これは(☞)「p.57」の誤りで、その「In Donegal,…」以下の段落に出現することが確認出来た。

   *

If one takes as many buds from an alder bush as one has warts, and buries them, there should soon be a cure.

   *

「八音」以下の「壎」とともに、事前に電子化注した『「和漢三才圖會」卷第十八 樂噐類 壎(けん) / べッセル・フルート(土笛)』を参照されたい。一部、熊楠の引用には不審があったので、訂した。

「匏」「はう(ほう)」。瓢(ひさご)を素材とした楽器の一種で、本邦の笙(しょう)の類から発せられる音。

「白虎通」中国,後漢の班固の編集した書。正しくは「白虎通義」(びゃっこつうぎ)。後漢の章帝が、七九年に、諸学者を白虎観に集め、儒教の経書に関する解釈の異同について討論させ、これを折衷して「白虎通徳論」を作ったが、これに基づいて班固が編集したもの。経書中の主要な事項について、総括した解説がある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「ヒヨンの笛」「ひょんの笛」。イスノキ(「ひょんのき」の異名がある)の虫瘤で製した笛。個人ブログ「俳句の迷宮」の「ひょんの笛」を参照されたい。写真もある。

『ウエストミンスターの學僧兼飮仙「ヂーン、ハーフヲード」』不詳。

「ビヤボン」「琵琶笛」「口琴」と書き、江戸時代の子供用の玩具楽器で、二叉にした鋼に針状の鉄を挟んだものを口に含み、振動させて鳴らすもの。

「ポコンポコン」「ポヒン」「ポコペン」「ポッペン」等とも呼ぶ。薄いガラスで出来た玩具。首が長い管になったフラスコ形のもので、底のガラスを薄くし、息の出入によって「ポピン、ポピン」と鳴るようにしたもの。

「タムタム(拍皷)」Tam-tam。金属で作られた大型の打楽器。当該ウィキを見られたい。

「那智山と高田村の間だに、烏帽子岩」(ゑぼしいは)「とて甚だ淋しき處有り」ここ(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの写真のここと、ここを参照。まさに烏帽子!

「水楊」キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属カワヤナギ Salix gilgiana 学名のグーグル画像検索をリンクしておく。

「コアカソ」バラ目イラクサ科カラムシ連(clade IBoehmerieae)カラムシ属 Boehmeria spicata 同前。]

「和漢三才圖會」卷第十八 樂噐類 壎(けん) / べッセル・フルート(土笛)

 

Ken

 

けん      塤【俗字。】

【音「暄」。】

ヒヱン

 

事物起原云世本壎謂暴辛公所造者非也德音之音而

聖人作爲也拾遺記言庖犧爲壎蓋壎燒土爲之大如鵝

卵鋭上平底似稱錘六孔俗作塤字非

 

   *

 

けん      塤【俗字。】

【音、「暄」。】

ヒヱン

 

「事物起原」に云はく、『「世本(せいほん)」に、『壎、暴辛公(ぼうしんこう)の造る所なり』と謂ふは非なり。「德」音の音にして、聖人(せいじん)の作爲なり。』と。「拾遺記」に、『庖犧(はうぎ)、壎を爲(つく)る。』と言へり。蓋し、壎は土を燒きて、之れを爲(つく)る。大いさ、鵝(がてう)の卵(たまご)ごとく、上を鋭(するど)にし、底を平(たひら)にし、稱(はかり)の錘(おもり)に似、六孔あり。俗に、「塤」の字に作るは、非なり。

 

[やぶちゃん注:ウィキの「塤」によれば、『中国の伝統管楽器のひとつで、粘土や陶磁で作られたべッセルフルート(英語: vessel flute、オカリナの仲間)のこと。土笛の一種。八音では「土」に属する』。『中国では陶器製のものを「陶塤」(タオシュン、táoxūn)と言い、他にも材質によって、石器製の「石塤」(シーシュン、shíxūn)、磁器製の「瓷塤」(ツーシュン、cíxūn)、獣骨製の「骨塤」(グーシュン、gǔxūn)、漆器製の「漆塤」(チーシュン、qīxūn)、貝殻製の「貝塤」(ベイシュン、bèixūn)などがある』。『朝鮮半島には塤から派生したフン(朝鮮語: 훈、塤、hun)がある』。『日本では、同じタイプの陶器の楽器は土笛(つちぶえ)と呼ばれ、「塤」の字訓もつちぶえである』。『大きさはさまざまだが、形状は卵形である。大きいものは低い音が出る。現在の代表的なものでは、いちばん上に吹き穴があり、指穴は通常』、『吹き穴より小さいものが』八『つあり、両手の人差し指・中指・薬指・親指で押さえる』。『起源は、狩猟の際に獲物を呼び寄せたり、反応を探るために使った管楽器と考えられている。骨で作る管状の呼び笛を「骨哨」といい、陶器製の「陶哨」も作られるようになった。中国浙江省の河姆渡』(かぼと)『文化や河南省の仰韶』(ぎょうしょう)『文化の新石器時代遺跡から、吹き穴だけの陶器の管楽器が出土しており、音色からこのような用途であると考えられる』。『夏代には指穴』二『つのものがあり、音が』四『種出せたと伝えられている。殷代には陶器、石、骨で作られ、多くは底が平らな卵形に作られている。戦国時代には指穴』四『つになり、多くは平底卵形となった。漢代の』「爾雅」の記述からも、『陶器製で、大きさは大きい物ではガチョウの卵ほどで、上部は尖り、底は平らで、はかりのおもりの様な形で、穴が』六『つあり、小さいものでは鶏卵ほどの大きさであったことが分かる。多くの音が出せるようになったことから、秦、漢以降は、主に宮廷音楽(雅楽)に用いられるようになった』。『その後廃れたが』、一九七〇『年代以降、出土された楽器から再び注目されるようになり、新たに作成されたり、演奏が行われるようになった。現代のものでは穴が増やされ』、七『個から』十『個の指穴が開けられている』とある。以上の解説に出た「八音(はちおん)は、当該ウィキによれば、『特に儒教音楽で使われる、八種類の楽器を表す語』で、『古代中国では、楽器は』、金・石・糸・竹・匏(ほう)・土・革・木(ぼく)の『八種類の素材からつくられると考えられ、区分されていた。楽器の総称を表す「金石糸竹」という四字熟語はこれに由来する』。『「発音原理」を楽器分類の重要な基準と考えたインドと違い、中国では、楽器区分は、「楽器の素材」によった』。『西洋音楽では管楽器を木管楽器、金管楽器に分けるが、これは素材によった分類からきており』(但し、現在では発音原理による分類である)、『八音と類似点がある。正倉院に保存されている種々の楽器はこの分類によって分けられていると考えられている』。『また、朝鮮半島に伝わる、孔子廟の祭祀楽は八音すべてを含むような楽器編成になっている。日本の雅楽でも同様の分類が行われた』。以下、

①「金」は『金属で作った楽器。青銅を使った編鐘(へんしょう)、鉄板を使った方響(ほうきょう)、銅鑼(どら)、鈴など』を指す。

②「石」は『石で作った楽器。編磬(へんけい)、特磬など。中国語で「玉音」とも呼ばれる』。

③「糸」は『絹の糸を張った楽器。琴(きん)、箏(そう)、瑟(しつ)、琵琶(びわ)、阮咸(げんかん)、箜篌(くご)などの弦楽器』。

④「竹」は『竹から作られた楽器。簫(しょう、排簫、洞簫)、箎(ち)、笛などの管楽器』を指す。但し、『同じ笛の仲間でもオカリナの類は』「土」に入り、笙は「匏」に入る。

⑤「匏」は「ふくべ」で、『ヒョウタン・ユウガオなどを素材として作った楽器。笙(しょう)、竽(う)など』を指す。

⑥「土」は『土を焼いて作った陶製の楽器』で、この『塤(けん、しゅん)という土笛など』を指す。

⑦「革」は、通常は、牛の『革を張った鼓』『などの楽器』を指す。

⑧「木」は『木製の楽器。柷(しゅく)、敔(ぎょ)、拍板など』がある。

『これを発音原理で分類してみると、金・石・革・木は打楽器』(この内、「革」は膜鳴楽器で、残りは体鳴楽器となる)、『糸は弦楽器、竹・匏・土は管楽器(明確に金管楽器に該当するものはない)に概ね該当する』とある。

「事物起原」宋の高承の撰になる事物の起源や由来を記した博物書。但し、現行本は後世の誰かが補填した部分の方が約九十八%を占め、原著とは言い難い。

「世本」詳細不詳。事物や事柄の創始者や氏姓の出所について述べたもので、後漢の頃に書かれたものと推定されている。南宋期に佚亡したが、清代になって多くの編輯本が作られた。

「暴辛公」蘇成公。春秋時代の蘇の国の君主。

『「德」音』儒教精神の核心たる「徳」を現わす音(おと)ということか。

「拾遺記」元は後秦の王嘉の撰になる、神話時代の伏羲(ふっき)から晉に至るまでの伝説を集めた志怪小説集。最初は十九巻あったが、散佚し、残ったものを梁の蕭綺が編輯して十巻に纏め、別に所論を附したものが残る。なお、以上の書物の注は「東洋文庫」の書名注に拠った。

「庖犧」伏羲の別名。]

南方熊楠『山神「ヲコゼ魚」を好むと云ふ事』(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開

南方熊楠『山神「ヲコゼ魚」を好むと云ふ事』(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・1.85MB・28頁)を「心朽窩旧館」に公開した。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 ムシロ貝 / ムシロガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

Musirogai

 

「百貝圖」

   むしろ貝

 

[やぶちゃん注:腐肉食で知られるスカベンジャーの、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目新腹足下目ムシロガイ(オリイレヨフバイ)科 Nassarius 属ムシロガイ Nassarius livescens

である。幼少の頃は盛んに拾ったが、私は直に飽きてしまった。

「百貝圖」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)。]

2022/05/15

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 口キリ貝 / カニモリガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

Kutikirigai

 

口(くち)きり貝【「百貝圖」。】

 

[やぶちゃん注:標準和名に「口切貝」、腹足綱異鰓亜綱異旋目トウガタガイ超科 トウガタガイ科クチキレガイ属クチキレガイ Orinella pulchella があるが、開孔部の形状や、殻表面が平滑であって、本図とは一致しない。これは、まず、貝口の形と殼表の顆粒状螺旋から、

腹足綱前鰓亜綱中腹足(盤足)目オニノツノガイ超科オニノツノガイ科タケノコカニモリ属カニモリガイ Rhinoclavis kochi

に比定してよいように思われる。

「百貝圖」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)。]

泉鏡花「高棧敷」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)を公開

「高棧敷」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)を「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/14

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「詩に就て」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「詩壇の柱」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

     詩に就て

 

 

 詩壇の柱

 

 或晚、本屋の店先で福士幸次郞氏の「太陽の子」を見て、直ちにこれを購ひ求めた。大正三年に出版された此詩集の中には、今のプロレタリア詩派の先驅的韻律と氣魄とを同時に持合せ、激しい一ト筋の靑年福士幸次郞の炎は全卷に餘燼なく燃え上つてゐた。自分は手擦れのした此詩集の存在に對し友情の外の敬愛を感じた。今の高村光太郞君の粗大を最う一ト握り生活面で壓搾した彼の内容的な集中感は、見渡したところ到底天下に較べるものの無い位だつた。これらの詩が大正初年の作品であることと、そして何よりも彼の性根がその時代から今までへの二十年の歲月に、悠悠と働きかけてゐる健實な新味を思はざるを得なかつた。時時「童謠も書いて見る」フラスコ風の詩人、時時注文によつて詩物語をも案じて見る三流以下の詩人、又時時人生派風の嵐や海洋やケチ臭い生活詩を歌ふ詩人、さういふ詩人の中で淸節をもつ此「太陽の子」に於ける行動と韻律を約束した二十年後の立派さは、自分の眼界に瘦軀をもつて霜を衝くところの、詩人中の詩人、過去がもつ大なる柱石的な奇峰を現出せしめた。縱令何人と雖も此一つの柱、云ひやうのない氣魄が全詩壇的な過去への大なる承認であることを知らねばならなかつた。

 自分は數句の後、大阪から來た或書店の書目の中に、彼が大正九年の版行である詩集「展望」を見て僅かに三十錢を投じて購求した。「感謝」の玲朧、「記億」の悒鬱《いふうつ》、「友情」の美と韻律、「平原のかなたに」の思慕的な熱情、そして「昏睡」の中にある現世的ライオン、此詩は、(一人の男に知惠をあたへ、一人の男に黃金のかたなをあたへ……)の呼びかけから書き出して左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記錄を絕した力勁さで終つてゐる。

 

 この男に聲をあたヘ

 この男をゆりさまし

 この男に閃をあたヘ

 この男を立たしめよ!

 

 そして又「夜曲」の美しい激越、調度と愛情。

 「われは君のかつて見た海をわすれず、君の遊ん

 だ濱を忘れず、その海によなよなうつる星のごと

 く荒いうねりに影うつす星のごとく、われは君を

 ば思ひだす……」

 その他「幸福」の幽《かそけ》さ「泣けよ」の純朴、「船乘りのうた」「この殘酷は何處から來る」それらの詩の内外にある健實な搖るがない確さは、もはや過去の詩檀に聳える奇峰的な壯大な疊み上げ、遙かに群がる諸詩人の上に光つてゐる。これらの韻律、行動、形態、表現の諸相は、今日の詩壇の最も柱石的なものであり、萩原朔太郞氏の「月に吠える」と相對ひ合うて、大なる詩歌の城をどつしりと上の方に乘せてゐる。風雲は彼らを訪れるであらうけれど彼らの拔くことのできない大なる柱は、益益その城を護るために、後代への重い役目を果すであらう。今日の詩壇に筆劍を磨くの徒は何人も彼のために一ト先づ挨拶を交し、自分のもつ敬愛を同感することに依つて、彼を知ることを得たのを喜ぶべきであらう。

[やぶちゃん注:文中に「われは君のかつて見た海をわすれず、……」は引用全体が一字下げベタなので、かく処理した。但し、以下に示す通り、引用が不全である。

『福士幸次郞氏の「太陽の子」』大正三(一九一四)年洛陽堂刊の福士の処女詩集。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本全篇が読める。

『詩集「展望」』大正九(一九二〇)年新潮社刊。同前のこちらで原本全篇が読める。以下、

「感謝」はここ

「記憶」はここ

「友情」はここ(題名の後に『(千家元麿氏に)』(「せんげもとまろ」と読む)の献辞がある)

「平原のかなたに」は「ああ平原のかなたに」が正しく、ここ

「昏睡」はここで、以下の引用は最後の「昏睡」の最終連であるが、原詩は最初の三行末には読点がある。

「夜曲」はここで、以下の引用は最終連であるが、引用(一部不全)がベタなのは不満。以下に示す。

   *

ああわれは君のかつて見た海をわすれず、

君の遊んだ濱を忘れず、

その海によなよなうつる星のごとく、

荒いうねりに影うつす星のごとく、

われは君をば思ひだす、

われは君をば思ひだす。

   *

が正しい。

「幸福」はここ

「泣けよ」はここ

「この殘酷は何處から來る」はここ

である。

「悒鬱」「憂鬱」に同じ。] 

 

 詩歌の道

  

 自分は若い時分から歌を詠まうといふ氣持を持たなかつた。歌に對する才能の無いのも朧氣ながら知つてゐた。併し他の歌人の詠草は努めて讀んで自分の足しになるものは、自ら恍惚としてその道の「物の哀れ」を感じ味はひ、發句や詩の境致に窺へない或は相聞風な或は自然風物の詠草に、身を入れて讀み耽ることは樂しかつた。良寬の閑境や元義《もとよし》の情熱、又は實朝の豪直なども、勞作の暇暇《いとまいとま》の心を和め慰めてくれたけれど、依然作歌の衝動を感じたことは一度もなかつた。何處まで行つても自分の作爲を動かすことはなかつた。

 昨年の夏自分は眼を病み、殆どその眼に纏帶を施してゐた關係上、かういふ時に發句でも作らうと思うて見たが、何故か發句への氣持が動かず、詩にも氣持は働かうとしなかつた。眼を病むと氣持の鬱屈することは並大抵ではなかつた。自分は或朝早く庭に小さな朝顏の花を見出し、それが土の上を這うて咲いてゐる有樣に物哀れさを身と心に沁みて感じた。歌を作りたい氣持に打込まうとしたのも、初めて經驗する靜かな又得難い衝動だつた。自分は齋藤茂吉氏の歌や島木赤彥氏の歌を讀んで見て、自分も作歌の志を立てて見たが矢張り失敗して書けなかつた。自分はふと釋超空氏の歌をよんで暫らく茫然と見詰めてゐた。實際自分は近頃これほど鋭い唐突な驚きを感じたことは稀だつた。それほど釋氏の歌は咄嵯の間《かん》に自分に關係を生じて來てゐた。「赤光」以來歌に驚きを感じたことは、初めての經驗だつた。自分は釋氏の境致には誰も手をつけてゐないことを知り、その茫茫たる道を釋氏が縱橫に步いてゐることに、ひそかに舌を卷いたのである。誰も知らぬ歌壇にこのやうな恐ろしい奴がのつそりと步いてゐたことは、全く驚いて見るだけの「押《あふ》」の强さをもつてゐた。自分は前田夕暮氏に會うた時の釋氏のことを尋ねたが、前田君も釋は怪物だといふ意昧のことを言つてゐた。自分の考へが謬《あやま》つてゐないことは兎も角、遠い文壇の彼方にぎらぎら光つてゐる眼光のあつたことは、自分を猛烈に打つて來るのだつた。自分はどういふ意味にも油斷してはならぬと思ひ、兄だか弟だか分らぬ藝術の分野に伏兵をしなければならぬ自分のネヂの弛みを締め上げるのだつた。凡ゆる詩歌の分野的仕事の隱れてゐる位置、匿れてゐなければならぬ境涯、それでゐて到底五十年を豫約する光芒の純粹さは、詩歌の大平原に朝日のごとく輝いてゐるものだった。彼らの中に一生詩歌に理もれてゐる人さへあり、それを衿持せずに微笑してゐる人もあつた。

 自分は詩歌への精進はしてゐても、最《も》う動かないものを動かさうとする詩歌の最後の中に絕叫してゐるものである。動かないものを動かすところへ行き着くことは、併し歡喜に違ひはないが進步ではなかつた。化石と同樣な慘めさと憂苦だつた。自分はその扉を蹴破らうとしながらゐて、自ら重石の下にゐるも同樣の苦衷を嘗めてゐた。それは詩が誠の「意識」から抉《ゑぐ》り出されるものだつたからだ。自分は呼べども答へない詩歌の鐵の扉を、日夜蹴破り敲くものの慘苦を經驗し、凡ゆる哄笑の中に仁王立ちに立ちあがり乍ら、身を以て打《ぶ》つかつてゐるやうなものだつた。

 最早あらゆる詩歌はその本體を搔きさぐることではなく、本體自身が本體となる前の、文章が文章とならない以前、感情の動きが既に動きとならない前のものでなければならなかつた。自分の刻苦して打つかるものも自分の感情的な皺の多い時代には、その皺を剝ぎ起さなければならなかつた。その皺の下に未だある一滴の泉を自分は靈藥のやうに目にそそぎ込まなければならないのだ。

[やぶちゃん注:「元義」平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)は幕末期の岡山の国学者で歌人・書家。当該ウィキによれば、『子規が明治』三四(一九〇一)年に、雑誌『『日本』に連載していた』「墨汁一滴」に『元義を万葉歌人として称賛する文が発表され、元義の名は世に広く知れ渡った』とある。]

 

 詩と發句とに就て

 

 發句も詩も別に自分には渝《かは》りがない。渝りのあるのは詩の中にあるもので壓搾されたものが、發句の姿となり内容となるだけである。特に職業的俳人や卽興的詩人の輩に依つて區別される發句や詩の單なる形式的識別は、自分には最早問題ではない、――自分の問題とするところはそれらの根本の嚴格さを引き出すことにあるのだ。

 發句といへばさびしをりを云ふのは、假令それらの言葉の存在があるとしても直ちにそれに依つて片付けてしまふことは間違ひである。要は嚴格な、高い、登り詰めてゐる氣持をいふに過ぎぬ。我我は吾吾の最高峰を攀ぢ登つてしまうたところで、最う一度何物かを搔きさぐらねばならぬ。詩が感情的風景の域を脫してゐることは勿論、詩はそれらの上に立つ最早雲表《うんぺう》的な氣禀《きひん》の激しさから登り詰めた何物かであらう。――

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「雲表」遙かな雲の上。]

 

 遺傳的孤獨

 

 元祿の作者の中で特に選ばれた丈艸や凡兆は芭蕉と共に自分らを擊つのも、かれらの高峰が俗手《ぞくしゆ》の抵觸外に立つてゐる爲であらう。ホヰツトマンやヴエルレエヌの詩風は詩風の一存在として、特に僕らの靑春を襲うて共鳴してゐたのも、最早今日の僕らをしてたはいないものとして眺め飽きたのも、僕らの成人を意味する前に既に僕らが奈何に彼らよりも、より烈しい東洋風の孤獨とともに在ることに耐へる、千古不拔の遺傳的詩人であつたかが想像されるであらう。

 西洋人は遺傳的に孤獨の外の人種であり、性情に孤獨の巢をもたないやうである。稀れに露西亞人にある北方的憂欝の氣質は、トルストイやドストエフスキイの器に盛られたとしても、東洋風な、淡《あつさ》りした孤獨の城を建てることを知らない、――發句が幾たびか英譯されてゐながら、その十分の一すら味ひや甘みを傳へることのできぬのは、民族の遺傳的風習や生活樣式の相違ばかりではない。「分りかねる」ものが未永劫にまで「わかりかねる」ことであり、解らうとしてもその解るべき性質を根本から失うてゐるからに過ぎない。

 

 悲壯なる人

 

 詩が日本の靑年の間に作爲されたのは、正しい新人の努力に依つてその地盤を築き上げたのは、今から二十年前であらう。河井醉茗や澤村胡夷《こい》、蒲原有明等もその記憶にあるところのものだが、寧ろ北原白秋三木露風の二つの存在は、新人詩壇の存在を固めるに力のあつたものであらう。三木露風のねらひどころの可成りに正確な、洞察の幽邃は空虛な詩壇を一層低迷ならしめたことは萬死に値すべきであるが、併しあの時代に於て彼の詠嘆の矢弓《しきゆう》はただちに騷騷しい混鬧《こんだう》に陷入らないで、一ト通りの靜寂を覗き見ようとしてゐたのは並並でない努力であつた。白秋の邪宗門に於ける異國情調の比較的嚴格な律調も、消化されて次の時代の格律となつたことも疑へないやうである。「思ひ出」の輕い調子が後期に惡影響を與へたことは云ふまでもない。

 併乍ら白露二氏の時代から今日までの詩人中の詩人、新人中の新人として數へ上げることのできるのは、中野重治でもなければ千家元麿でもない。一人の劍の折れたる戰士萩原朔太郞であらう。時代の新勢は既に萩原を乘り越えてゐるに拘らず、彼はなほ昨日の新人の如き善良なる勇邁と、作詩的末期の餘熖《よえん》に捲かれ乍ら、悲壯なる戰鬪の眞中にゐるのは滑稽以上の嚴肅さであり餘りに悲壯以上の悲壯でなければならぬ。彼自らも猶悲壯淋漓たる中に、幾たびか胴震《どうぶる》ひをして猶永く末期的餘熖の渦中に立つであらう。

[やぶちゃん注:「澤村胡夷」(明治一七(一八八四)年~昭和五(一九三〇)年)詩人で美術史家。滋賀県彦根生まれ。本名は専太郎。京都帝大文科大学哲学科美学美術史専攻で明治四二(一九〇九)年卒。文学博士。早くから『小天地』などに詩を投稿し、明治三六(一九〇三)年、詩「小猿」を発表。旧三高の代表歌「逍遙之歌」や「水上部歌」を作った。明治四十年詩集「湖畔之悲歌」を刊行。大学卒業後は『国華』の編集に従事し、大正八(一九一九)年、京帝大助教授となった。著作に「日本絵画史の研究」「東洋美術史の研究」がある。台湾訪問中に依頼を受け、昭和三年の暮れ、「胡夷」のペン・ネームとして最後の詩となる「臺灣警察歌」を作詞している。

「混鬧」現代仮名「こんどう」。遣混乱と騒擾。]

 

 十年の前方

 

 詩が今より最《も》つと注意され愛讀されるには、やはり十年の歲月を要するであらう。その十年の曉にもなほ不運であるべき詩人の嘆息は、その時に於てすら更に十年の年月を曉望するであらう。我我が詩を書き始めたころは依然十年の行手を眺めてゐた。その十年は今吾吾の存在や周圍の存在だつた。しかも我我や吾吾の若い同行の詩人たちは、詩に於て衣食することを拒絕されてゐることは勿論、詩中に呻吟することをも許されなかつた。

 詩人は詩人である爲の輕蔑、詩人でなければならぬ輕蔑の苦苦しい唾液を吐き出すまでに、可成な辛酸のあることは小說家が小說的唾液を吐き出すと一般であらう。しかも詩人は詩人である傳說的美名と、美名がもつ輕蔑とに惱まされ通してゐる。應需の尠《すくな》い詩人の社會的進出は、小說家に及ばない如く他の何者にも及ばなかつた。併も彼らは風流才子でない如く甚だコセコセした虛名に憧れなければならぬ原因があるとしたら、それは詩人自身にではなく、彼の「十年」の年月が前方にあるからだと云つた方がよからう。彼ら詩人は絕えず十年を目ざして進んでゐる。これは小說家に於ける眼の前の生活にばかり拘泥してゐるのとは、少しく事變つてゐる。彼らが彼らの受ける輕蔑の前に、先づこの晴晴しい「十年」の前方を俯仰《ふぎやう》することに依つて、他の奈何なる藝術の士にも劣らない心魂を硏ぎ澄すことを證據立てるであらう。その一事のみに依つて彼らは漸く彼らの仕事に受ける輕蔑の蒼蠅を拂ひ除けることができるであらう。

 

 詩錢

 

 千家元麿氏は或時、或本屋の門を通り過ぎ乍ら、不圖《ふと》囊中《なうちゆう》空しきを知り、鉛筆で數章の詩を書いて金に換へたさうである。これは千家氏自身から直聞《ぢきぶん》した話であるから噓ではなからう。千家の詩風であつてこそ初めて此卽興的場面が充されることを知り、僕なぞはかうゆくまいと思はれた。

 詩を書かうといふ氣持は、殆ど瞬間にして消失する再び補捉しがたい氣持である。金に換へるために書くことは決して惡いことではない。僕などの詩を書きはじめた大正元年前後には、詩に稿料を拂ふ雜誌社がなく、そのために現今の如く身を落して、詩人が雜稿を市に賣ることを潔しとしなかつたやうである。尠くとも僕自身は詩を書く外、雜文は書かないで破垣茅屋《やれがきあばらや》に甘んじて暮した。その頃から見れば今は詩人の生活も物質的に惠まれてゐると言つてよい。

 詩人にして小說を淋くことは多少輕蔑されることらしい。詩人で生涯小說を書き通すとも、よくよくの面魂《つらだましひ》をもたなければならぬ。千家氏の如く書店の門前で平氣で詩を書いて賣ることは、その平然たる面魂の中に、押しの强さがある。自分は何故かその話を面白く想出した。

 

 圓本の詩集

 

 圓本の中に詩集がその一卷の役目を持ち、改造社、春陽堂も其書册に加へてゐる。天下の詩人數十氏が年代的に後代に傳へらるべきものは、先づ此詩集位であらう。同時に凡ゆる圓本中、窺かに其後代に於て古籍本としての市價が圓本中の何物よりも以上に價高き古本の値を持つことは當然であらう。何故といへば小說本の紙價はその年代とともに低落するに先立ち、詩集類は歲月とともに其定價をセリ上げてゆくからである。萩原朔太郞の「月に吠える」や「靑描」福士幸次郞の「太陽の子」高村光太郞の「道程」日夏歌之介の「轉身の頌《しよう》」千家元麿の「虹」百田宗治の「ぬかるみの街道」北原白秋の「邪宗門」佐藤春夫の「殉情詩集」西條八十の「砂金」堀口大學の「砂の枕」等は、最早その初版は定價の二倍以上に昇り、市上これを輕輕しく求められない。

 以上の詩集はその詩人の出世作である所以もあるが、それを讀む若い人人は次から次へと成長し、又次から次へと搜し求めるからである。詩歌に熱情を持つ靑年は他の小說本の比ではない、彼等は一卷を求めるに東京中の古本屋を搔き𢌞すことは平氣である。詩歌の士は誠に此心がけがなければならず、往昔の自分もまた此道を踏んで來たものである。圓本の詩册がかういふ氣持ちを胎んでゐることはその編輯者と雖も自覺しないであらう。かういふ不斷な靑年の背景をもつ詩集の書册が、當然圓本中に於ける重大な役目を持つてゐること、及び後年その紙價を上騰させることは瞭《あきら》かなことである。

 圓本の使命はどうして之等の圓本を後代に殘すかといふ今は非營利な寧ろ藝術的熱情を感じる時である。相應營利的成果のあつた今日に於て、先づ此等の圓本を後代の史家に殘し、圓本の輕蔑を剝奪すべき良き書物の塔をどうして殘すかを考慮すべき時である。新人を加へ最善を盡し、少し位《ぐらゐ》損をしても自ら元祿の井筒屋庄兵衞をも念頭に入れるの時である。圓本時代に何人が圓本以上の仕事をしたか、その仕事に藝術的な眞摯な作用をもつ出版書肆がどれだけゐたか、さういふ決定を爲すベふ時である。自分は材料蒐集の上、これらの圓本論とその時代を論じたいと思うてゐる。圓本を檢討することは時代の腸《はわわた》に手をさぐり入れることに均しいからである。

[やぶちゃん注:「窺かに」逆立ちしても「ひそかに」と読むしかないが、「窺(ひそ)かに……持つことは當然であらう」という文脈では呼応がひどく悪い。「窺(ひそ)かに思ふには……持つことは當然であらうかとも感ぜられる」ぐらいでないと、尻が落ち着かないと私は思う。

「井筒屋庄兵衞」京都の書肆。俳書の出版で知られ、蕉門の俳書は、殆どが、この書肆より刊行されている。初代が初めて俳書を出版したのは承応元(一六五二)年で、以後百五十余年、五代にわたって出版活動を続けた。]

 

 詩情

 

 自分の詩を書いてゐた年少の時にすら、詩に遊ぶといふ氣持よりも、むしろ詩の中にゐて年少の生活を見てゐたやうに思ふ。何か心に添はず友情に叛き兄姉に離れた時には、机に對ひ詩中の悲しみを自ら經驗したやうに思うてゐる。徒らに花下《くわか》に春秋の思ひを練るといふ氣は無かつたらしい。假令、春秋の念ひを遣《や》るにしてもその折折の自分を基としてゐたやうである。

 年少の悲しさはそれ自身成長の後には詩情に似たやうなものであるけれど、年少の時は詩情どころではない。世に容れられぬと一般な悲哀であるやうだ。自分は敍情風な昔の詩を讀み返すと、それを書いた時の日光の色、樹の匂ひ、その時の心もちなぞが思ひ出されて來て、一枚の寫眞を眺め入るのと何の變化りはないやうである。自分は既に壯年の齡に行き着いてゐるけれど、詩情は昔に稀に立ち還つて自分に何か考へさせるやうである。尠くとも敍情の詩を書いた自分を不幸だとは思はない、あの頃は自分の生活の中でも一番樂しかつた頃ではないかとさへ思ふのである。考へることに濁りがなく憂愁はあつても素直な姿をもつてゐた。しかも靑春の多くの時を詩に形ををさめ、一卷として自分の年少時代を記念したことは決して不幸ではない。――振り顧(かへ)つて往時を思ふよすがともなる仕合《しあはせ》さへ感じるのである。

 その頃の自分は東京の町町を步くことを一種の旅行のやうに考へてゐた。實際、田舍に生れた自分には、海近い深川の土藏のある町通りや、大川端の古風な昔の艶を拭き出した下町を見物して步くことは、郊外から出掛けるだけでも鳥渡《ちよつと》した旅行に似た遠い感じであつた。土藏と土藏の間から隅田川を見、淺草公園では樣樣な見世物小屋に半日の心さむしい遊びをしたり、と或る店さきに眉目正しい、下町娘を見出したりして、ちよつとした旅愁を感じたものだつた。とり分けさういふ町を步きながら雨に降られたりすると、國の町のやうに傘借りることもできないなぞが、一層他鄕の感じを深めるのだつた。冷たい雨あしを眺め自分はよく淺草の知らぬ町家の軒下に佇んで、國の町でさういふ雨に降られた時のことを思ひ出して、漠然とした憂愁を感じたものであつた。この感じは東京に居馴れるに從つて次第に消えて行く感じであつたがまだ折折心を掠めて殘つてゐた。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 詩集と自費出版に就て

 

 自分が初めて愛の詩集を出版したのは大正六年の冬だつた。當時も今も處女詩集は自費出版に定《きま》つてゐる。本屋などは相手にしてくれるものではない。そのかはり幾らかの文名を贏《か》ち得た後に更めて本屋が出してくれるものである。自分の愛の詩集も後に本屋から改めて發行した。同樣「抒情小曲集」も自費で出したが今までにアルスや紅玉堂から度度《たびたび》版を重ねた。

 自費出版はそれの償ひが精神的以外に酬いられるものではない。自費出版の意義はその詩人の大成した後日に初めて生じると云つてよいであらう。市井一介の詩人としての沈沒する詩集は、本人には意昧はあつても文壇的に意義をなさないとしたら、これはよく考へた後に出版すべきものであらう。當今の如く思いつきや當座の感興などから、簡單に出版されるべきものではなく、能くその詩人の全生涯の發足的な地盤を決定すべき、ゆるぎのない作品の堅實性を信憑してから、それの出版を見るべきものであらう。後代に傳はる如き作の集成を見ることは、ひとり作者の快適とするところばかりでなく、全文壇に美しい記錄を殘すものと言つてよい。小說集は二三年にしてその書物としての形や値を失ふことが多いが、詩集本は年經るごとに高金の値を生じてゆくのは、作者に誠の心があるからである。又、別の意昧で小說集は他の刊行物として出版されるが、詩集の重版は少く、その元の版のまま稀本として傳はつて行くが爲である。一朝にして亡びる詩集を出版するくらゐなら止めた方がよいといふのも此意昧に徹するからだ。

 

 

 過去の詩壇

 

 當今では詩や小說ぐらゐ書けない靑年は稀になつてゐる。全くのところ詩や小說の眞似事くらゐ書けないやうな靑年は、その靑年たる常識を缺いてゐる程度にまで、文藝が一般に普及してゐる時代である。何も詩や小說を書くことが特殊な仕事ではなつなつてゐる。それ故これからは詩や小說を書いて世に問ふことの困難であることは勿論である。餘程秀れた才能を持ち合せてゐるか、または異常な神經や心の持主に限り、世に問ふ所以のものを有つてゐると言へるであらう。

 詩だけに就て言ふならば、その分野は既に唄ひつくされてゐると云つてもよい程である。千遍一律の詩には我我は疾くに飽きもし素讀に耐へないものがある。詩を書かうとするならば餘程の文學的敎養の達人でなければ、餘程生れながらの素直な人でなければならぬ。尋常一樣の詩作程度では、その作を擧げて天下の詩情を動かすことはできないであらう。それほど詩作する人人が多く相應の腕のある人が揃つてゐる譯である。曾て萩原朔太郞君や千家元麿君の得たる詩境と聲望をさへ、今後の詩人に於ては却却《そこそこ》容易に得ることの出來ぬのは、彼ら程の才能を持つて出て來ても時勢は彼らの二倍くらゐの才能を求めてゐるから遂に彼らの地位を得られないのである。この過去の二作家の二倍以上の作家が出て來たら、完全に後繼者を詩壇は得たるものと言つてよからう。既成や新進の爭ひは俗惡なる文壇ばかりではなかつた。詩壇にもその聲を聞くとき僕の思ふところは以上數言に盡きてゐる。――

 

 敵國の人

     萩原朔太郞君に

 

 雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれたことは、僕と雖も絕えず微笑をもつて讀むことが出來た。併し詩集「故鄕圖繪集」に論及した君は、不思議に僕の本統の姿を見失うてゐる。君が自ら敵國と爲すところの僕の生活内容が、君のいふ老成の心境でもなければ風流韻事に淫する譯のものでもない。僕は僕らしく靜かに生活して居れば僕らしい者の落着けることを信じるだけである。君が自ら僕を敵國と目ざすところは落着いて暮したい希望を捨てない僕を難ずるなら兎も角、徒に輕率な風流呼ばはりや老成じみた一介の日蔭者としての僕を論ずるならば、僕はそれを返上したいと思つてゐる。

「故鄕圖繪集」の本流はこの詩集以外には決して流れてゐない。君が諸作品の韻律や素朴に統一的な缺乏のあることを指摘し、「忘春詩集」に劣つても勝ることなきを言及してゐるが、この詩集の中にある僕らしい行き着き方を君は又幸にも見失うてゐる。君はこれらの詩が發句的要素から別れて出たものであることを指摘するのはよいが、何よりも「忘春詩集」以來かうならなければならぬ「彼」の素顏を何故に見なかつたかと云ふことである。自分は俳三昧や風流沙汰や老成心境から出發したのではなく、これらの道具立は不幸にも僕に加へられた迷惑な通り名に過ぎない。

 僕は君の如き一代の風雲見を以て自稱するものではなく、只孤獨に耐へるだけの鍛へをあれ等の詩作の上に試みただけであり、夫等の試みは直ちに君には不幸にも老人臭く見えたのであらう。我我靑年の末期にあるものは兎もすると老人臭くなるのは、事實それに近づきつつあるからでどうなるものではない。又努めて僕は書生流の詩域から脫したい願ひを持つてゐることは勿論である。

 君のいふ如く僕を慘めな一個の庭いぢりとして生涯を送るもののやうに見るのは、君が僕を見失うてゐる初めではないかと思ふのだ。僕の生活苦やその種種な面は直に君を打たないであらう。

 君は僕に二人とない益友ではあるが、然し君は僕を讀み落し見詰めてゐては吳れないやうである。離れてゐて遠くから僕を見てゐる親切氣はありながら、僕が仕事によりどれだけ昔の僕から今の僕へ進んでゐるかを見落してゐる。君に見て貰はなければならぬものを君さへ見失うてゐる。僕のいふ孤獨の鍛《きた》へといふものも、君の誤解する風流韻事と稱する間違ひも大槪ここらあたりから別れて批評されたのであらう。

 君が僕の發句を以て餘技とし月並であり陳套《ちんたう》であるといふのは、月並の薀奧《うんわう》は何者であるか、何故に僕が蕉風の古調を自ら意識に入れながら模索してゐるかが能く解らないからである。

 自分は發句を以て末技《まつぎ》の詩作と思つたことがない。或意味で僕は僕の發句や短册を市井に賣つてまで衣食したい願ひを持つてゐるのは、賣文の埃から遠退くことが出來るかと思ふからである。元祿天明の時代なら兎も角今日發句を賣つて米鹽の資を得ることは出來ない。僕は僕の本來のものを靜かに心で育てる外に僕の發句は生きないと言つてよい位である。

 僕は又永年の詩作の經驗すら一句の發句に及ばないことを知つてゐる。或意味で發句を重んじる僕の凡てで無ければ全幅を剌繡すべき肝要なものだと云つてよい。何を苦しんで無意味な餘技を弄する愚を學ばう。――僕の發句を月並だと斷ずるのは新樣破調を操らない爲の君の非難であらうが、破調の發句が出駄羅目な容易に入り易い句境であり、古調は凡夫の末技から築き上げることの困難なのは、君と雖も。一應は肯《うなづ》くであらう。

 君の發句觀は不幸にも僕の未だ能く知らないところである。又君の說く蕪村は決して元祿の諸家を理解したものではない。君が粉骨碎身流の蕪村道の達人であることも、まだ寡聞なる僕の知らぬところである。その上君が今の僕を絞め上げ止《とど》めを刺すことは、寧ろ君へのお氣の毒な挨拶しか持合《もちあは》さぬ。君が天下の發句を論ずる前に先づ僕の止めを刺し、そして君の嫌ひな芭蕉流のさびしをりを此世から退治すべきであらう。

 僕の知る限りの芭蕉は一朝のさびや風流を說いた人ではない、芭蕉といふ能書的槪念は漸く今日では、あらゆる新しい思想の向側にあるやうに思はれてゐる。併し眞實の彼は元祿から今日へまでの新人中の新人だつた。彼の異國趣味や無抵抗主義は後代のトルストイの中にさへその面影を潛めてゐる。太平の元祿にあつて彼は社會主義者になる必要に迫られはしなかつたらうが、併し彼は何よりも近代に生を享けてゐたら、彼も亦敢然として古今の革命史に秋夜の短きを嘆じてゐたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

『雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれた』これは昭和二(一九二七)年九月号の第一次『椎の木』(第十二号)に掲載された」「室生犀星君の心境的推移について(忘春詩集以後、故郷圖繪集迄)」である。調べたところ、OCRで全文を読み込んだままを校訂せずに放置してある本篇全文のページを発見したので、リンクさせておく。所持する筑摩書房「萩原朔太郎全集」初版では第八巻に所収しているが、私には電子化注する食指が全く動かない。

「故鄕圖繪集」昭和二(一九二七)年椎の木社刊の詩集。サイト「日本詩人愛唱歌集 詩と音楽を愛する人のためのデータベース」のこちらで恐らく全詩篇が電子化されてある。

「忘春詩集」大正一一(一九二二)年京文社刊の詩集。同前でここに恐らく全詩篇がある。こちらは「青空文庫」のここにもある。

「薀奧」奥義。]

 

 文壇的雜草の榮光

 

 詩が文壇の埒の外の雜草であるか否かは別として、詩は中央公論や改造や新潮には殆ど必要の無い一國の想華であることは、詩人であるが爲《ため》聰明なる吾吾の知るところである。そして又曾てそれらの大雜誌に揭載された詩が、均しく全詩壇に後世的作品を示した例は殆ど皆無であつた。吾吾の詩が今までの城砦を築き上げる爲に必要であり、我我をして忘恩せしめざるところのものは、片片たる三十二頁の同人雜誌の威力であり奮鬪であつたことは、何と文壇外の美しい榮光だつたことであらう。或營利雜誌は吾吾の詩に婦女子の寫眞を揷入れて之を揭載した。又或雜誌は出題の下に作詩せしめ且つそれに應じた低能な詩大家があつた。又或乳臭き雜誌は全詩壇の詩作人の詩を乞ひ、殘酷に作詩人を數珠つなぎとして、天下に詩人愚を梟首として揭載した。自分は一々これを拒絕したが、遂に婦女子の寫眞入りの詩だけは掠め取られた。自分は詩人が輕蔑せらるべき多くのものを、文壇人が斷乎として拒絕してゐる好例の對照を見聞《みきき》してゐる。さういふところに雜草的卑屈と强制された遠慮とが、常識的な冷笑すべき習慣となる程度までに下つてゐるやうである。

 

 ゴシップ的鼠輩の沒落

 

 ゴシツプ的鼠輩《そはい》の曲說はともあれ、僕自身が老成的壞血病詩人であることに於て、止むなき餘命を詩壇に置いてゐる譯ではないのである。僕自身は今の僕自身を役立てる爲のふくろ叩きを辭さない物好きの中に呼吸してゐるものである。凡ゆる作詩人も其中期の作品の中に悶えもし、又退屈も窺へないではないが、彼らのなかには猶ふくろ叩きや締めつけを辭さない者のある位は、又同時にゴシツプ的鼠輩の沒落した時に、その彼らの誤りであることに心づくであらう。

 

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 東大寺造立供養記(追記で「瑞稻」と「白烏」が付随する)

 

   ○「東大寺造立供養記」【文治元年。】云。周防國從杣中出大河曰佐波川矣。木津至于海【三十六町爲一里。】。

[やぶちゃん注:底本はここから。「瑞稻」(ずいたう:目出度い稲穂)と「白烏」(しろがらす:カラスのアルビノ)は無関係な記事であるからして、一行空けた。

 訓読を試みる。

   *

「東大寺造立供養記」【文治元年。】に云はく、『周防國、杣中(そまなか)より、出づる大河、「佐波川(さばがは)」と曰(い)ふ。木津にて、海に至る【三十六町、一里と爲(な)す。】。』と。

   *

この「東大寺造立供養記」は治承四(一一八〇)年に平重衡の南都焼き討ちによって焼失した東大寺大仏の再建から起こして、建仁三(一二〇三)年の東大寺総供養に至るまでの、造立及び供養に関する記述をほぼ編年的に記した史料で、短いものながら、そこには東大寺再建に於いて尽力した重源に関する記述が、多数、見られる。「文治元年」は一一八五年。原文は「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「群書類従」のこちら8コマ目を参照されたい。右丁一行目から「周防國」の記載が始まり、左丁七行目からが以上の文となる。「中川木材産業」公式サイトの「第7章 木材供給の歴史」の「6.心血を注いだ鎌倉の復興」に、『文治二年(一一八六年)春に、後白河法皇から周防国(山口県)が寄進されたので、重源は十余人の役人と、宋の鋳物師陳和郷』(「東大寺造立供養記」の誤字。先の6コマ目二行目を参照。陳和卿(ちんなけい)が正しい)『らを従え、瀬戸内海を渡って周防の杣に入った。そのとき内海沿岸の国々は源平の戦の終わった直後で、疲弊困窮はその極みに達していた。重源らは船中の米を施し、農耕の種子を与えたりしながら、深山幽谷をことごとく巡視して良材を探し求めた。また良材を見つけたら米を与えるという奨励の方法を取ったので、杣人たちは大いに発奮し、谷、峰の境なく尋ね回ったために、成績は大いにあがった』と冒頭にあって、以下、当時の復興のための木材の収集の苦労が詳しく述べられてあり、必見である。陳和卿は鎌倉史では、実朝のトンデモ渡宋を決意させる如何にも怪しい渡来人のイメージが濃厚で、「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る」や、「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」、及び、『やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相』を見られたのだが、ここでは東大寺再建を支えた人物としていい感じに描かれているのが、興味深い。「佐波川」の位置は当該ウィキの地図を見られたい。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

「栂尾明惠上人渡天行程記」云。從大唐長安京摩阿陀國王舍城五萬里。即當八千三百三十三里十二町一也【大里定也。三十六町一里定。】。百里【小里。】十六里二十四町也【大里定也。】この二書、「群書類從」中に在り。

[やぶちゃん注:訓読してみる。

   *

「栂尾明惠上人渡天行程記」に云はく、『大唐長安京より摩阿陀(まがだ)國王舍城に到るに五萬里、即ち、八千三百三十三里十二町に當たれり【大里の定(ぢやう)なり。三十六町を一里に定(さだ)む。】。百里【小里。】十六里二十四町也【大里の定なり。】。

   *

「摩阿陀國」は当該ウィキを参照されたい。「大里」「小里」は先の「三十六町一里幷一里塚權輿事」を見られたい。なお、「栂尾明惠上人渡天行程記」というのは、かの名僧明恵(みょうえ)が釈迦への強い思慕のあまり、元久元(一二〇五)年、この「大唐天竺里程記」を旅行準備の資料として作成し、『天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ』建仁二(一二〇二)年にも『インドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念して』(当該ウィキに拠る)おり、結局、明恵は大陸に渡ることはなかったので、注意が必要。なお、私はブログで「明恵上人夢記」及び「栂尾明恵上人伝記」【完】を手掛けている。]

右三ケ條、輪池翁の問れしかば、卒爾ながら、しか、答へたりき。そのゝち、翁、追考のよしにて、上層に朱をもて、しるして、見せられたり。さらば問ずもあれかしと思ふのみ。

 

追錄瑞稻、白烏、

天保二年辛卯の秋、越後魚沼郡妻有の庄、十日町の在鄕割、野村久左衞門といふ者の家の裏の軒端に、稻一株自然と生出しを、そがまゝに捨置しに、漸々生立て長さ八九尺に及び、葉の幅、八、九分なり。親穗は一穗に千百十數粒あり、小穗十三本、これぞ、おのおの五、六百粒有り。「未曾有の事也。」とて、遠近の老若、來會して、見る者、堵のごとくなりき。又天保三年壬辰の春、越後魚沼郡鹽澤の里人、鍵屋治左衞門といふものゝ園の樹に、烏、巢を造りて、雛三隻、生出たり。その内に白烏一隻あり。あるじのをとこ、人にぬすまれんことを怕れて、はやうとりおろして養ひたり。その烏、純白にして、初は觜と足と薄紅なりしが、成長に從ひて觜も脚も白くなりにき、といふ。鹽澤の里長、目擊して、圖して予におくれり。右の畫圖は別卷にあり。

[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が一字下げ。]

この二ケ條は、壬辰の夏四月、牧之が書狀もて告られしを、こゝに半張の餘紙ありければ、追錄しつるにこそ。    著作堂主人

[やぶちゃん注:「天保二年」一八三一年。因みに、ウィキの「天保」によれば、この前の元年には、『秋田藩で大冷害。旧暦』六『月の土用の頃でも』、『襦袢を着る必要な涼しさ』で、『秋のコメの収穫は僅かで高騰を招いた』とあり、而して五年後の天保七年には人肉食も行われた「天保の大飢饉」が襲っている。

「越後魚沼郡妻有」(つまあり)「の庄」現代の旧十日町市・旧川西町・旧中里村・津南町の広い地域を指した。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「十日町の在鄕割」現在の十日町市街か。

「自然と」「おのづと」。

「生出しを」「おひいでしを」。

「生立て」「おひたちて」。

「遠近」「をちこち」。

「堵」「かき」。垣根。

「魚沼郡鹽澤」新潟県南魚沼市塩沢

「園」「には」と訓じておく。

「生出たり」「うまれいでたり」。

「怕れて」「おそれて」。

「觜」「くちばし」或いは「はし」。

「鹽澤の里長」「北越雪譜」の作者鈴木牧之その人である。

「圖して予におくれり。右の畫圖は別卷にあり」ネットを検索してみたところ、emi氏のブログ「今日も星日和 kyomo hoshi biyori」の「馬琴と画眉鳥シリーズ(その2)馬琴の『禽鏡』に感動!」で、それを、再度、模写した素敵なシロガラスの図が見られる。著作堂名義で馬琴がものした鳥図鑑「禽鏡」の中にあるものである。これは、凄い!

「壬辰」天保三年。

「半張」「はんはり」。]

2022/05/13

泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版 又は ――「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿とは甚だしく異なるという驚愕の事実――(PDF縦書ルビ版・附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」)公開

先にブログで出したものを、『泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版 又は ――「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿とは甚だしく異なるという驚愕の事実――』(PDF縦書ルビ版・附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」)として「心朽窩旧館」に公開した。

なお、私の『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』に、その日の葬儀場の図が載るので、参照されたい。

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「附録」「狩之卷」 / 「後狩詞記」電子化注~了

 

[やぶちゃん注:底本のここから。以下は、底本では各標題「一」のみが行頭で、抜きんでいるが、その解説部は一字下げである。その箇条の「一」の後に、すぐ、文が続くのだが、これがちょっと読み違えそうなので、一字空けた。また、本文上に横罫があり、その上方にポイント落ちで柳田國男の頭注が入る。それは【 】で同ポイントで適切と思われる本文の中に同ポイントで挿入した。〔 〕が割注である。なお、このパートでは下線は左傍線で、「序」の「十」にあったように、柳田が意味不明であった部分をかく表示したものである。文中の字空けはママ。]

 

    附錄

 

      狩之卷

    西山小獵師    獅子式流

一 山に出る時、生類〈しやうるゐ〉に行あふてまつるとなへ。

  山の神もてんとの事はめされ鳧〻〻〻〻

 と唱へ、もゝ椿の枝にて拂ふ也。但し道の上を折る

[やぶちゃん注:「西山」不詳。単に西の方の山間の意か。西方浄土に掛けるか。

「てんとの」不詳。「天殿」か?

「鳧」「けり」。

「〻〻〻〻」は「鳧」のくり返しではなく、「めされ鳧」のくり返しであろう。

「もゝ椿」不詳。或いは、「椿桃」「油桃」で「づばきもも」とも称したモモの変種のことか。流通名「ネクタリン」で知られる、バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモ  Amygdalus persica var. nectarina 。中国西域原産であるが、古くから日本やヨーロッパに伝わった。一般に果実は無毛でモモよりやや小さく黄赤色を帯びる。果肉は黄色で核の周囲は紅紫色。核は離れやすい。七~九月に成熟し、生食する。在来品種は消滅したが、近年、ヨーロッパ系品種が渡来し、植栽されている。「つばきもも」「つばいぼう」とも呼ぶ。「桃」や「椿」の意なら、柳田が傍線するはずがない。]

 

    宍垣〈ししがき〉の法

一 鹿は上をしげく、猪は下をしげく。後宍垣、前は三尺二寸。腰袖しがきと云ふは二尺三寸也。其時 小摩〈しやうま〉の獵師猪をとる事數不知〈かずしらず〉 小摩が内の者【△今も椎葉にては男女の下人(メローとデエカン)を「内の者」といふ】に辰子と云へる男 せつ子といへる女に しゝを手向よと乞けるに 男女共にせなをかるひはぎなとして 小摩の獵師に仕ふる後一人は山川に飛入〈とびいり〉アダハヘとなる ひとりは海にとび入〈いり〉一寸〈いつすん〉の魚と成る 今の「おこぜ」これ也 其時しゝをとりてかふら戶を祭る かぶらは山の御神一人の君に奉る 骨をばみさき【△「みさき」は小田林の呪文にも「御先御前」とあること前に見ゆ】に參らする 草脇〈くさわき〉をば今日〈こんにち〉の三體玉女に參らする そも々々小摩がもとは藤原姓也 如何なる赤不淨黑不淨にくひちがへても 小摩が末〈すゑ〉たがふまじと誓ひたまふ 大摩〈たいま〉の獵師は山神の御母神にわりごを參らせず よつて三年に嶺の椎柴一つゆるされしが 三年に白きししの貳と一つゆるされ 三年にかは一枚 みなふこと一筋とたふへしや 奧山三十三人 中山三十三人 山口三十三人 山口太郞 中山二郞 奧山三郞 嶺の八郞 おろふの神谷原行司 三年原の行司 只今の獵師の末に相逢ふて あだ矢射させまじ獵師や 柳の枝七枝 小摩が年の數〔五十より〕かり文ましきのごく 白き粢(しとぎ)かけの魚とり調へ 昔の神かふざき 中頃の神かふざき 當代神かふざき【△「かふざき」は前にいふ「コウザキ殿」のことと見ゆ】 山の御神に懈怠〈おこた〉らず謹むで申奉る

[やぶちゃん注:「小摩の獵師」当地椎葉村の伝承中の人物名。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに柳田関連の論文からとして、『大摩』(たいま)『と小摩』(しょうま)『という二人の猟師がいた。七日間浄斎した飯を神にあげた。大摩はアダバエとなり、小摩だけが猟師となることができた。』とあった。「アダバエ」は意味不詳。

「せなをかるひはぎなとして」意味不明。以下、傍線部は柳田國男も判らなかったのであるから、個人的に推理出来そうなもの以外は注さない。

「アダハヘ」不詳。妖怪の名か。

「かふら戶」不詳。アニミズムの精霊の名か。

「かぶら」当初は「鏑」で、嘗つては猪鹿(しし)を矢で射る訓練に用いた鏑矢のことかとも思ったが、ここは後に「骨」とあるから、猪の頭をかく言っているものと思う。

「草脇」前掲。胸部部分。

「海にとび入〈いり〉一寸〈いつすん〉の魚と成る 今の「おこぜ」これ也」一寸は異様に小さいから、『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』で私が一番の候補に挙げたオニオコゼではあり得ない。思うのは、私自身、熊楠の「オコゼ」で、当初、ちらっと頭を過った、成魚でも十センチ前後で、しかし棘毒が半端ないカサゴ目ハオコゼ科ハオコゼ属ハオコゼ Paracentropogon rubripinnis が候補と挙がってくるように私には思われる。

「赤不淨黑不淨」一般の習俗では「死穢」(しえ)=「死の穢れ」を「黒不浄」、出血を伴い魂が二つ存在している出産前後のそれを「白不浄」、広義の血に纏わる「血の穢れ」を「赤不浄」と呼ぶが、「赤不浄」は専ら女性の月のものの穢れを指す

「粢〈しとぎ〉」神に供える餠。糯米を蒸し、少し搗いて卵形にしたもの。その形状から「鳥の子」とも呼ぶ。一説に、逆に粳(うるち)米の粉で作ったものとも言う。「しとぎもち」「粢餠(しへい)」。]

 

    椎柴の次第

一 上瀨にさか柴。但ししでを付る。

[やぶちゃん注:「しで」紙垂。注連縄・玉串・祓串(はらえぐし)・御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った例の紙。]

 

    御水散米の法

一 中瀨は椎柴也。木の柴三丸かし也。柴の上より粢みさき祭る。亦ごく【△「亦ごく」は赤御供なるべし、「ごく」は外にも見ゆ】七まへ、尤柴の右の三方より立掛火を放。心經讀誦。しゝは其柴にかけ置事。口傳。

一 中瀨みてぐら三本。但し水神の幣也。ごくしとぎごまひを備へ、諸神くわん

一 神崎三本。亦は七本。【△「神崎」は亦かふざきなるべし】

 ちゝみ右數にして備ふ。

 

    小獵師に望の幣【△左右の「六」と「八」何れかあやまりならん】

 

Nusa

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミング清拭した。]

 

    朝鹿の者けぢな祭る事【△「けぢな」は「けばな」とも見ゆ「け」は本の字分明ならずふり假名による】

一 ちはやふる神のおもひも叶しや

         けふ物數に千たびもゝ度

 

    完草(ウダグサ)返し

一のぼるは山に五萬五千 下るは山に五萬五千 合て十一萬の山の御神 本山本地居なほくち 得物を多くたびたまへ きざらだやはんけの水【△「はんけの水」前にも見ゆ】をたつね來て生をてんじて人に生れよ 夫(ヲ)じゝ五カ 婦(メ)じゝ四カや 步行。口傳。

一初しゝには頭にまなばしをあてず、矢びらきに掛る也。

一神崎まつり 〔串長 二寸二分 燒物串 右同斷〕

むかしありといひしや 中頃ありといひしや 地主かんどかうさき かんのかうざき 今當代かんどかうさき 簗のかうさき 祭人玉女にむかふ【△此文句などはきはめてよく沖繩の「オモロ」に似たり】

一丸頭 今日の日の三度三體玉女殿にかけ法樂申 野の神山の神 天日の神 三日の神 同所のちんじゆ森 かくら山の御神に參らする【△「カクラ」は前に出でたり狩倉と同義なるべし】 猶も數の得物たび玉へ ぐうぐせひのものたすくるといへどたすからず 人に食して佛果に至れ。六じの名號。

 

    掛隨

一 しやち頭 今日の日の三體玉女に參らする 二つの兩眼は日天月天  犬はな打きんのみさき 左のふたは所の鎭守森 かくら諸神にかけ法樂申奉る 草脇は草の御神 こしわきは尻指のみさき【△尻指のみさき】 八枚の折肌は八人のかんどかうさき 天竺の流沙川水神殿 同法界いなり ほつかい水神 め谷を谷のはゝ かりこの行司 かりこの子とも おろふの神 さけふの神 谷の口におりやらせ玉ふは山のみさきに掛け法樂申す とんたのとほみとしたの其子に掛け法樂申す 同じ山の木柴おりからし ほう丁まなばしまな板かうばし せんくやうくなきやうに 得物をくし玉へ まつりはづしはあか良原殿 はづしのなきやうに あとのちよとのにかけ法樂申奉る

一 完所に女來るときは、必ずしゝをふるまふべし。女心えはきたる草履の裏にて受れば、なり木の枝をしき、其上にしゝを置てわたすべし

[やぶちゃん注:「掛隨」「かけしたがひ」と読んではおく。願掛けの祝詞の文か。]

 

    山神祭文獵直しの法

一 抑〈そも〉山の御神 數を申せば千二百神 本地藥師如來にておはします 觀世音菩薩の御弟子阿修羅王 緊那羅王〈きんならわう〉 摩睺羅王〈まぎらわう〉と申〈まうす〉佛は 日本の將軍に七代なりたまふ 天〈あまの〉の浮橋〈うきはし〉の上にて 山の神千二百生れ玉ふや 此山の御神の母 御名を一神の君と申す 此神さんをして 三日までうぶはらをあたゝめず 此浮橋の上に立玉ふ時 大摩〈たいま〉の獵師毎日山に入り狩をして通る時に 山の神の母一神の君に行あひ玉ふとき 我さんをして今日三日になるまで うぶはらをあたゝめず 汝が持ちし割子〈わりご〉を少し得さすべしと仰せける 大摩申けるは 事やうやう勿體なき御事也 此わり子と申〈まうす〉は 七日の間〈あひだ〉行〈ぎやう〉を成し 十歲未滿の女子〈をなご〉にせさせ てんから犬にもくれじとて天上にあげ ひみちこみちの袖の振合〈ふれあひ〉にも 不淨の日をきらひ申す 全く以て參らすまじとて過〈すぎ〉にけり 其あとにて小摩〈しやうま〉の獵師に又行あひ 汝高をいふもの也 我こそ山神の母なり 產をして今日三日になるまで うぶはらをあたゝめず 山のわり子を得さすぺしとこひ玉ふ 時に小摩申けるは さてさて人間の凡夫にては 產をしては早くうぶはらをあたゝめ申事なり ましてや三日まで物を聞しめさずおはす事のいとをしや 今日山に不入〈いらず〉 明日山に不入とも 幸ひ持〈もち〉しわり子を一神の君に參らせん かしきのごく 白き粢〈しとぎ〉の物を聞しめせとでさゝげ奉る 其時一神の君大によろこび いかに小摩 汝がりうはやく聞せん 是より丑寅の方に的〈あたり〉て とふ坂山といへるあり 七つの谷の落合に りう三つを得さすべし 猶行末々たがふまじと誓て過玉ふ きうきうによりつりやう 敬白【此大摩小摩の物語は如何にも形式のよくととのひたる神話なり此筋より求入〈もとめい〉らば更に面白き發見あるべき也】

[やぶちゃん注:「緊那羅王」インド神話に登場する音楽の神々又は精霊。仏教では護法善神の一尊となり、天龍八部衆の一人とされる。

「摩睺羅王」摩睺羅伽(まごらが)が一般的。サンスクリット語名の「マホーラガ」は「偉大なる蛇」を意味する。本来は古代インドの神であったが、仏教に取り入れられた。身体は人間で、首は大蛇或いは頭に蛇冠を戴いた人間の姿で描かれる。八部衆の緊那羅と同じく音楽の神とされるが、ナーガがコブラを神格化したものであるのに対し、このマホーラガはニシキヘビのような、より一般的な蛇を神格化したものとされる。やはり、護法善神の一尊で天竜八部衆・二十八部衆に数えられる。胎蔵界曼荼羅の外金剛部院北方に配せられてある(当該ウィキに拠った)。]

一 上日さかな。へんはい口傳。

   みさきあらばかせと車に打のりて

        かへりたまへやもとのみ山に

一 友引。一大事。

一 我まへに來るかくれしゝ打つまじき事。

 

    熊の紐ときの傳 (大祕事)

一 なむめいごのもん  三返

     腹に手をあて

 ろてん中天なりばざつさい あとはならくのこんりんざい

     紐分

一 是より天竺の流沙か嶽の邊にて めんたはつたといへる鍛冶の打ぬべたる 彌陀の利劍を以て解いたる紐にとがはあるまじ

     歌

   月入て十日あまりの十五日

        のこる十日はみろく菩薩へ

     月の輪二つに割るとなへ

一 こんがうかい たいざうかい 兩部の万だら 大日如來。

[やぶちゃん注:「万だら」は底本献本では自筆で「方」を取消線して「万」と修正してある。]

      ねんぶつ十二返

 右小刀三本にてみつ柴口傳

     紐とく間のきやうもん

 

一なふまくさまんだもとなんそはらちことやきやなんおんのんしふらはらしふらうしゆしゆりそふはしやせんちんきやしりゑいそはか【△此呪文何に在りとも知らず切に識者の敎を待つ】

 同。しゝにまなばしをたてゝ九字の文にて九刀にきる。

     引導【△有難さうなる經文なれども編者も山中の人と共に夢中にて寫し置く】

一 ぐわんにしきどく平號しゆいつさいおんゆふく百さいちん守らいやうおんしゆりれうちごくがきしゆらのくをのがれしきやう成就となるべし

一 諸行むじやうぜしやうめつぽふ生めつめついじやくめつゐらくひがふぐんせいのもの助るといへども助らず人に食してぶつくわに至れ

 六字の名號。ごしんぼふ

一南無御本尊界行摩利支天

 のうへ影向〈やうがう〉あつて

   ヲンソワウロタヤソワカ。   七返。

 右產所の流といへり。

 

大山祇命

       山の御神也

豐玉姬命

 

 

   寬政五年八月  奈須資德相傳也

         ―――――――――――――

   右一卷日向國西臼杵郡椎葉村之内大字大河内椎葉德藏所藏之書以傳寫本一本謹寫訖

    明治四十二年二月二日  柳 田 國 男

 

[やぶちゃん注:本書には奥付が存在しない。既に述べたが、柳田國男が相原某に献呈した国立国会図書館デジタルコレクションの別の所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り)では、非常に読み難いが、こちらのここに奥付がある。左ページの右下方である。]

泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版(「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿と夥しく異なるという驚愕の事実が判明した) / 附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」

 

[やぶちゃん注:泉鏡花の芥川龍之介の葬儀で本人によって読まれた自死の三日後、谷中斎場にて昭和二(一九二七)年七月二十七日午後三時から行われた葬儀で、先輩総代として第一番に本人によって読まれた弔辞である。以下に示したものは、その自筆原稿で、一九九二年河出書房新社刊の鷺唯雄編著になる「年表作家読本 芥川龍之介」に載った画像で、それを元に電子化した。なお、パブリック・ドメインの著作物を平面的にそのまま写した画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の見解である。岩波の「鏡花全集」巻二十八(一九四二年刊)と校合したが、驚くべきことに、句読点以外(現行より遙かに多く打たれてあり、句点と読点の相違も数多ある)では、現行、知られているそれとは、異様に激しい異同があることが判明した。以下に示す。下線は重大な異同と私が思うものに附した。

①原稿標題はあくまで「弔辞」であるのに、現行では「芥川龍之介氏を弔ふ」となっている。

原稿冒頭「玲瓏明哲」が現行では「玲瓏(れいろう)、明透(めいてつ)」と書き変えられてある。

③原稿の「其の文」が、現行では「その文」と「其」がひらがなになっている。

原稿「名玉、文界に輝ける君よ。」が、現行では「名玉山海(めいぎよくさんかい)を照(て)せる君(きみ)よ。」と激しく異なっている。

⑤現行のものは最後の一文のみを改行してあるが、原稿では全部で三段落が形成されてあり、行頭の字空けはどの段落にも存在しない。

原稿の「巨星天に在り」の前に、現行ではこの前に「倏忽(たちまち)にして」とある。

⑦同前の箇所で「在り」は、現行では、ひらがなで「あり」となっている。

原稿では「異彩を」とある部分が、現行では「光(ひかり)を」となっている。

原稿の「密林」が現行では「翰林(かんりん)」となっている。

原稿の「敷きて」が現行では「曳(ひ)きて」となっている。

⑪原稿の「とこしなへ」が現行では「永久(とこしなへ)」と漢字になっている。

⑫原稿の「手を取りて」が現行では「手(て)をとりて」となっている。

⑬原稿の次の「其の容を」が現行では「その容(かたち)」と「其」がひらがなになっている。

⑭同前で次の「其の聲を」が現行では「その聲(こゑ)を」となっている。

原稿の「秋悲しく」が現行では「秋深(あきふか)く」となっている。

⑯原稿の「其の靣影」が現行では「面影(おもかげ)」だけで「其の」を外してある。

⑰原稿の「代うべくは」が現行では「代(か)ゆべくは」となっている。

⑱原稿の「いふものぞ」が現行では「言(い)ふものぞ」と漢字になっている。

原稿の「令郞」が現行では「遺兒(ゐじ)」と書き変えられてある。

⑳最後の一文終辞「辭」(ことば)「つたなきを羞」(は)「ぢつゝ、謹」(つゝしん)「で微衷」(びちう)「をのぶ。」は現行では、段落を成していない。

岩波「鏡花全集」では編者によるクレジットは『昭和二年八月』となっている。

その㉑から、後に本「弔辞」が雑誌に収録されるに際して、鏡花自身が大幅に書き換えたものであると推察出来る。しかし、弔辞とは作品ではない。あくまで一回性のものである。書き変えられる謂われは、明らかな誤字以外はあってはならないものと私は考える。恐らく多くの芥川龍之介及び泉鏡花の愛読者は、書き変えられた弔辞が芥川龍之介の葬儀の場で読まれたと思っているはずだ。これはどうしても言っておかねばならぬと感じた。なお、弔辞原本には当然の如くルビは全くない。以下でも、それに従った。]

 

Kyoukaryunosuke

 

 

   弔辞

 

玲瓏明哲、其の文、その質、名玉、文界を輝ける君よ。溽暑蒸濁の夏を背きて、冷々然として獨り凉しく逝きたまひぬ。

巨星、天にあり、異彩を密林に敷きて、とこしなへに消えず。然りとは雖も、生前手をとりて親しかりし時だに、其の容を見みるに飽かず、其の聲を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何せむ。おもひ、秋悲しく、露は淚の如し。月を見て其の靣影に代うべくは、誰かまた哀別離苦をいふものぞ。

高き靈よ、須臾の間も還れ。地に、君にあこがるゝもの、愛らしく賢き令郞たちと、溫優貞淑なる令夫人とのみにあらざるなり。辭つたなきを羞ぢつゝ、謹で微衷をのぶ。

 

 昭和二年七月二十七日

             泉鏡太郞

 

 

●参考(「鏡花全集」巻二十八所収の「弔詞」パートの「芥川龍之介氏を弔ふ」。編者によるクレジットが昭和二(一九二七)年八月として標題下方にある。ルビにある踊り字は正字化した)

 

 芥川龍之介(あくたがはりうのすけ)氏(し)を弔(とむら)ふ

 

 玲瓏(れいろう)、明透(めいてつ)、その文(ぶん)、その質(しつ)、名玉山海(めいぎよくさんかい)を照(て)らせる君(きみ)よ。溽暑蒸濁(じよくしよじようだく)の夏(なつ)を背(そむ)きて、冷々然(れいれいぜん)として獨(ひと)り涼(すゞ)しく逝(ゆ)きたまひぬ。倏忽(たちまち)にして巨星(きよせい)天(てん)に在(あ)り。光(ひかり)を翰林(かんりんりん)に曳(ひ)きて永久(とこしなへ)に消(き)えず。然(しか)りとは雖(いへど)も、生前(せいぜん)手(て)をとりて親(した)しかりし時(とき)だに、その容(かたち)を見(み)るに飽(あ)かず、その聲(こゑ)を聞(き)くをたらずとせし、われら、君(きみ)なき今(いま)を奈何(いかん)せむ。おもひ秋(あき)深(ふか)く、露(つゆ)は淚(なみだ)の如(ごと)し。月(つき)を見(み)て、面影(おもかげ)に代(か)ゆべくは、誰(たれ)かまた哀別離苦(あいべつりく)を言(い)ふものぞ。高(たか)き靈(れい)よ、須臾(しばらく)の間(あひだ)も還(かへ)れ、地(ち)に。君(きみ)にあこがるゝもの、愛(あい)らしく賢(かしこ)き遺兒(ゐじ)たちと、温優貞淑(をんいうていしゆく)なる令夫人(れいふじん)とのみにあらざるなり。

 辭(ことば)つたなきを羞(は)ぢつゝ、謹(つゝしん)で微衷(びちう)をのぶ。

2022/05/12

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「色々の口傳」・附記

 

[やぶちゃん注:底本のここから。この段、標題本文は行頭からだが、その解説部は一字下げで、それが二行以上に亙る場合は、それ以降、全体が一字下げとなっている。]

 

    色々の口傳

 

飛走中の猪を止まらすること。

 竹笛を一口短く微〈かすか〉に吹く。

 竹笛無きときは同じくウソを吹く。

 猪は元來眼よりも耳の感覺鋭敏なり。近距離に居りても動きさへせねば之を知らず。物音は之に反す。故に一寸微に物音をすれば、附近に人の在るを疑ひて小止りをして考を付るなり。されど此法は素人は行ふべからず。

[やぶちゃん注:「ウソ」前に注した通り、ここは「口笛」を指す。]

猪を見ずして其大小肥瘠〈ひせき〉を知ること。

 蹄〈けづめ〉の跡小さくとも地中に印すること深きは大。

 蹄の跡小さくとも跡と跡との距離長きは大。

 蹄の跡大なりとも地中に印すること淺きは瘠肉〈やせにく〉也。

 蹄の跡に立つ形あるものは多くは瘠肉也。

 蹄の跡の向爪〈むかうづめ〉と後爪との間廣がり居るものは猪が疲憊〈ひはい〉せる兆〈しるし〉也。疲憊せる猪は遠くへ往かず、近所に潛伏するものと見る。

 蹄の跡の雪中に印するものは、小猪なりとも大猪と見誤まることあり。日射の爲蹄跡の雪融解すれば也。

丸の儘なる猪の肥瘠を知ること。

 牡猪は脊部肥え牝猪は腹部肥え居〈を〉るが常なり。故に牝猪の腹部の肥えたるを見て、全身肥滿のものと思ひ購〈あがな〉ふときは損をすべし。

 脊部の毛色白く且つ全身綿の如き綿毛にて蔽はれ居るものは肥肉にて、全面毛色黑く且つ疎なるものは瘠肉也。

[やぶちゃん注:「後爪」猪は後ろに「副蹄(ふくてい)」という小さな跡がつくのが特徴で、それを言う。サイト「マイナビ農業」の「獣害の犯人は? 足跡で獣を特定しよう ~動物の足跡12種~」を見られたい。]

猪の肉量を知ること。

 臟腑のみを除きたる丸の儘の猪ならば、之に六を掛くれば純肉の量なり。但し此は十貫目以内の猪のことにて、十貫目を超ゆる者は大槪七を掛け、二三十貫目の大猪となれば八を掛くる也。其殘〈のこり〉は骨又は蹄などなり。

[やぶちゃん注:「十貫目」三十七・五キログラム。]

銃聲を聞きて命中と否とを知ること。

 トンと短く纏まりたる反響は命中とす。

 トーンと長く散じたる反響は不とす。

彈の數のこと。

 一丸も二丸も場所によりて利害は色々なり。

 一丸は命中正確なるも飛走中の猪には二丸を利なりとす。一丸は熟練者に於て採用し、二丸は未練者に利あり。

 熊笹の如き障碍物密集の場所にて、狙ひ定まらざる場合には、誰人〈たれびと〉も多くは二丸を込むるを利とす。

 二丸を二ツ矢と云ふ。

獵犬を仕込むこと。

 猪狩向きの犬には決して兎を逐はしむべからず。若し兎を逐ひたるときはいたく叱し懲〈こら〉すべし。

 幼犬を仕込むに最良の法は、小猪を半死の中に繫ぎ置き、長く引ずりまはして咬殺〈かみころ〉さしめ、さて後時々其肉の小片を切りて與ふる也。

 幼犬の側にて發砲するときは、幼犬喫驚〈きつきやう〉して常に銃聲を恐るゝの癖を生ずるもの也。

 幼猪を伴ひたる牝猪に接したるときは、幼犬に付〈つき〉てはよほど注意すべし。何となれば幼犬は悅びて小猪を咬まんとす。若し放任するときは母猪歸り來〈きたつ〉て幼犬を噬殺〈かみころ〉すことあり。故に母猪の引返すを伺ひて速〈すみやか〉に射殺すべき也。

 幼犬もし猪罠にかゝりたるときは、直ちに罠を切り解くべからず。罠の杭を撓〈たわ〉め罠を弛〈ゆる〉めて、犬をして自ら之を噬み切るの習慣を養はしむるを肝要とす。

 

 

           ――――――――――――

茲に椎葉村の地圖を揭ぐることを得ば讀者に便なりしならんも、適當なる原圖を得ざりき。もし熱心なる人あらば、大日本陸地測量部にて出版したる五萬分一圖中、左の圖幅を參照せられんことを望む。共に延岡號の中なり。

     椎葉村。 神門(ミカド) 。諸塚山。 鞍岡。 村所(ムラジヨ)。

 

           ――――――――――――

[やぶちゃん注:以上は附記で、本文とは分離して、底本では次の「附錄」の見開き右ページ中央にポイント落ちで記されてある(底本のここ)。既に注で「ひなたGPS」を示しているが、地図をダウン・ロードして自由に見たい方は、「ひなたGPS」の元版である私がよく使う「Stanford Digital Repository」の明治三五(一三〇二)年測図・昭和七(一九三二)年修正図で陸軍参謀本部作成の「秘」印のあるそれがよい(ネット上の画面だと、拡大表示ではディスプレイ一杯に示されてしまい、使い勝手が実は悪い)。以下のリンク先からどうぞ。ダウウ・ロード・リストの下から二番目の最大の「Whole image (14423 x 11083px)」がよい(サイズの関係上、最初に開くとファイル破損で開けないとする表示が出るが、暫くそのままにしておくとちゃんと表示され、二度目からは出ないので安心されたい)。「椎葉村」はここ、「神門」はここ、「諸塚山」はここ、「鞍岡」はここ、「村所」はここである。五枚全部でも百二十六MBである。

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「狩の作法」

 

[やぶちゃん注:底本のここから。この段、本文は行頭からだが、以下二行以上に亙る場合は、それ以降、全体が一字下げとなっている。]

 

     狩の作法

 

獵法。 狩は陰曆九月下旬に始り、翌年二月に終る。狩を爲さんとする當日は、未明にトギリを出し、其復命に由り狩揃ひを爲し、老練者の指圖に依り各々マブシに就き、後セコカクラに放つ。オコゼを有する者は背負籠に之を納めて出るなり。

 マブシに在る者は、セコより竹笛にて合圖を爲す迄は、最も靜肅を旨とし、竹笛にて幽〈かすか〉に合圖をするはよけれども、決して言語を發すべからず。若し咳嗽〈がいさう〉起らば地上に伏して爲すものとす。既に猪が突到〈つきいた〉らば息を凝らし、數步の近きに引受け、肺臟心臟の部分を狙ひて發砲す。其狙ひ所を小肘〈こひぢ〉のハヅレと云ふ。

[やぶちゃん注:「トギリ」以下、概ね前二章で既出。未明に出発する猪の索敵係。

マブシ」猪を迎え撃つための猪の獣道の近くの一定の箇所を指す。

カクラ」猪が潜伏している区域。

オコゼ」「山の神」に入山・山猟のために安全と豊猟を祈誓するための供物。前章の「一五 オコゼ」を参照されたい。

セコ」勢子。狩場で鳥獣を追い出したり、他へ逃げるのを防いだりする役の担当者。

「咳嗽」せき。「咳」は「痰が無くて咳音のある症状」を言い、「嗽」は「咳が殆んど伴わず痰の絡む症状」を言う。]

タテ庭、吠庭始まりたるときは、受持のマブシを離れ、山の上の方に囘り靜に近寄るべし。萬一擊損ずるか又は負傷せしめたるときは、硝煙の未だ照尺を拂はざる中に、猪は突進し來りて股を切り、倒るれば、胴を切る也。故に未練者は楯に寄るに非ざれば近よるべからず。此時尙大〈おほい〉に注意すべきはハヒジシに在り。ハヒジシ(這ひ猪)とは負傷せる猪が怒りて人〈ひと〉犬に當らんが爲に、伏して假死狀を爲し居るを云ふ。此考無くして近よりたるときは、猪は矢の如く飛びかゝり、牡猪なるときは牙にて股をえぐり、牝猪なれば牙なき故肘と無く頸〈きび〉と無く咬〈くは〉へて粉碎せんとするなり。

[やぶちゃん注:「タテ庭」前掲。猟犬が猪を取り囲んで戦うことを指す。

「吠庭」同前。猪が包囲域が崩れて拡大してしまっても、さらに当該対象との狩猟を続ける様態を指す。]

猪斃れたるときはヤマカラシ(短刀のことなり)を拔きて咽喉〈のど〉を刺し、次に灰拂〈はひばらひ〉を切取る。灰拂を切取るは最先に射斃したる證とする也。其後ヤマカラシと耳とを一つに束ね、左の咒文を唱ふ。

[やぶちゃん注:「灰拂」不詳。但し、推理するに、これは「蠅拂」で、獣毛を束ねて柄をつけた、蠅や蚊を追うためのものを指し、後に法具の一つとして邪鬼・煩悩などを払う功徳があるとされた仏具があることから、逆に、蠅を嫌がって払う猪の頭部の部分を想起すると、耳(恐らく両耳)を指すのではないかと思われる。但し、ネットではこの「灰払」では熟語自体がヒットしない。識者の御教授を乞う。

 以下の呪文は底本では全体が二字下げ。原文はベタだが、底本にある程度まで近づけるために、早めに改行した。]

 今日の生神三度三代。ケクニユウの神。山の神。

 東山カウソが岳の猪の鹿も。角を傾けカブを申

 受け。今成佛さするぞ。南無極〈なむごく〉。

猪はヲダトコに持下〈もちおろ〉し、一應緣の上につるし下げ、然る後解剖す。解剖に二通りあり。胴切にして四足に分ち其後〈そののち〉骨を除くを金山オロシと云ひ、肉のみを四足に分ち其後骨を除くを本オロシと云ふ。

[やぶちゃん注:「ヲダトコ」前掲。獲った猪を里に持ち降ろし、裂いて分配をするための家を指す。この『ヲダトコの家は一定しをれり』とあった。後の柳田の補注の「小田床」もそれを漢字にしただけのものである。先に出た天草の地名ではない。

金山オロシ」「金山」の読み不詳。ネットでも出現しない。山猟の関連資料も縦覧したが不明。ただ、一つ目に留まったのは、さくら氏のブログ「昨日より今日 今日より明日へ 自分を信じて♪」の「猪と金山」で(行空けを詰めた)、

   《引用開始》

日蓮大聖人は御遺文集のなかで、中国の天台大師の『摩訶止観』の一節を引用されている。

「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」と。

 猪は、金山の輝いているのを憎く思い、自分の体をこすりつけて光沢をなくそうとする。だが、こすればこするほど、金山は輝きをましてくる。あたかも、多くの河川が流れ込んで海水を豊かにし、薪が加えられると火がますます燃えさかえるように__。求羅は風にあうと大きくなるという伝説的な生き物である。

 これは、仏道修行の厳しき過程で、逆風に負けず、それを前進のための追い風に変えていけとの戒めだが、人生万般に通ずる尊い教訓が秘められていると思う。

   《引用終了》

万一、これが起源だとすると、「きんざんオロシ」と読めることにはなる。]

△分割は山にてもすることあり。之も違式には非ず。小田床〈をだどこ〉にて必ず一應は緣の上に釣下ぐるは、丸のまゝに先づ神に供ふる嚴重の儀式なりと聞けり。

分配の法は擊主には射中〈いあ〉てたる方の前肢と脂とを與ふ。其前肢の目方は總量の五分の一なり。其後又擊主をも加へて平等に分配す。擊主には草脇〈くさわき〉を與ふることもあり。その肉の量は前の場合に同じ。其他セコは一人に二人分を與へ、獵犬の分は又一人前とす。

[やぶちゃん注:「草脇」「草分き」(草を押し分けて行く部分)で「獣類の胸先」を指す。「くさわけ」とも呼ぶ。]

△曾て耳にて聞きたるは又此記事と少異あり。首と胸の肉を仕留めたる者の所得とす。首の肉は最上品なり。同じく首を落すにも、ヤマカラシを耳の元に宛てゝ、それより三轉〈みころ〉ばしにて切るも、四轉ばし目に切るもあり。地頭殿の仕留めたる折には、この轉ばし方殊に多し。執刀者にも餘分の所得あり。この慣習は中々嚴重なるものなりしが、可悲〈かなしむべし〉近年漸く廢せんとす。猪の肉が高くなると、狩人は自ら食はずして商人に渡すなり。一頭三十圓より五十圓に及ぶ。此場合には擊主の所得は代金の四分の一を定〈さだめ〉とす。

[やぶちゃん注:「ヤマカラシ」植物のそれではないので、注意。これは実用の小刀である「山刀(やまがたな)」の地方名である。主に焼畑などの山林伐採や、狩猟の際の獲物の皮剝ぎなどに用いる。これを動物との格闘の刺し突きの武器に使用するのは危急の場合に限る。一般に小型で片刃のものが多く、野鍛冶(のかじ)に打たせたもの、又は昔の脇指を切り縮めたものなどがある。地方により名を異にし、九州山地では「ヤマカラシ」、四国西部で「サッカン」、中国山地で「ホウチョウ」、青森県津軽地方で「コバヤリ」、秋田県阿仁で「マキリ」(これはアイヌ語と同じ)など各地ごとに違っている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

解剖終りたるときは。執刀者はヤマカラシを肉の上に✕に置き、左の咒文を唱ふ。

[やぶちゃん注:以下の咒文は、底本では三字下げ。]

カブラは山の神越前のきさきに參らする。骨をば御先御前に參らする。草脇をば今日の日の三代ケクニユウ殿に差上ぐ。登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神。本山本地に居直りたまふて。數の獲物を引き手向けたび玉へり。ハンゲノ水を淸ければ。シヤウゲンして人々生く。南無極樂々々々々。

分配終つて後、コウザキと紙の旗をコウザキ殿に獻じ、左の祝詞を唱ふ。コウザキ殿は巖石又は大木の下、雨露のかゝらざる所に奇石を置き、折々カケグリを獻ず。カケグリとは七八寸の長さに拇指大〈おやゆびだい〉の竹を切り、十數本を束ね、此に濁酒を盛りたるもの也。

[やぶちゃん注:以下、原本は同前。]

   諏訪のはらひ

そもそも諏訪大權現と申するは。本地は彌陀のアツソンにてまします。ユウオウ元年庚戌〈かのえいぬ〉。我が羽根の下に天降らせたまふ。信濃國善光寺嶽赤根山の峠に。千人の狩子を揃へ。千匹の鹿をとり。右は地藏菩薩。左は山宮大明神。中に加茂大明神と現はれ出で。八重鎌千鎌を手に持ちて。我先の不淨惡魔を切拂ひ。水露ほども殘なく。三五サイヘイ再拜と敬て白す。

△前の呪文に「越前のきさき」とあるはコウザキ殿のことなるべしと思はる。ケクニユウ殿。ゆかしき名なれども思ひ得たる所なし。登百葉山降百葉山は、登る葉山降る葉山なること。「狩之卷」に依りて明〈あきらか〉なり。唯此字が新なる偶然の誤寫には非ずして、山民も久しく斯く唱へ來れるものとすれば興味あり。

[やぶちゃん注:柳田も思い当たらないと言っている通り、咒文(祝詞)なれば、ここの神名の実体は判らない。但し、宮崎のポータルサイト「miten」の「みやざき風土記」の「宮崎県民俗学会」副会長前田博仁氏の『宮崎の神楽「銀鏡神楽シシトギリ」にある猪霊送り』の記事が、本咒文や、その他の宮崎県内の事例を示して解説しておられ、必見である。それを参考に以下を推理してみる。

カブラ」は諏訪神社の古習俗(鹿の頭を奉納した)から見て猪の「頭(カシラ)」のことと読め、

「越前のきさき」は柳田の謂いから「えちぜん」ではなく、「コウザキ」「こしざき」で、「山の高みを越えたところにあられる山の神さま」の意ではなかろうか。

「御先御前」(「おさきごぜん」?)は山の神を前の「越前のきさき」と分離した山の入り口の一神としたものか。

「今日の日の三代ケクニユウ殿」の名はお手上げだが、形容に「今日の日の三代」とあるから、やはり、山の神を細分化して、今現在の三代目の山の神に与えた神号ととれる。こうした山の神の増殖は以下の「登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神」で明白である。

ハンゲノ水」これは「半夏生(はんげしやう)」の転訛であろう。小学館「日本大百科全書」他を参考にすると、七十二候の一つで夏至の第三候。半夏生は夏至を挟んで入梅と対称位置の時期に当たり、陽暦では七月二日頃となる。「半夏生」は多年草のコショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensisで、別名をハンゲ或いはカタシログサ(片白草)と称し、水辺や低湿地に生え、一種の臭気を持つ。「その半夏が生える頃」という意で、昔の農事暦では、この頃までに田植を終える、とされていた点で「水」との親和性が強く、また、迷信的暦注としては、この日には毒気が降るので、「前夜から井戸や泉に蓋をすべし」とされた、から、これもまた、「ハンゲノ水を淸ければ」という祝詞と、よく合うように思われる。

シヤウゲン」「正現」或いは「精進」の転訛か。

アツソン」「三尊」の転訛。

ユウオウ元年庚戌」「ユウオウ」を雄略天皇ととるなら、雄略天皇十四年(ユリウス暦四七〇年)が庚戌。仏教は伝来していないが、後付けだろうから、それは問題にならない。

「信濃國善光寺嶽赤根山」不詳。

サイヘイ」「賽幣」?

拜と敬て白す。

『「狩之卷」に依りて明なり』本篇の最後に附録として添えられたそれの、「完草(ウダグサ)返し」の祭文(底本のここ)の冒頭。『のぼるは山に五萬五千 下るは山に五萬五千 合て十一萬の山の御神』とあるのを指す。]

罠獵〈わなりやう〉。 罠獵は秋の彼岸より春の彼岸までとす。罠は猪のウヂの屈曲なく見通しよき箇所に、二尋八引〈ふたひろやつびき〉の腕大〈かひなだい〉の杭を立て、麻にて作りたる八尺の繩を末端に結び付け、撓〈たわ〉めて輪を作り、蹴絲〈けりいと〉を張り、猪が蹴絲に觸れたるときは、はづれて之を捕縛するものなり。

[やぶちゃん注:「ウヂ」前掲。猪の通り道。

「二尋八引」一尋は大人が両腕を一杯に広げた長さの身体尺で、一般には八尺を指したとされるので、二メートル四十二センチ。「引」はその八本を並べて打ち込むことか。

「蹴絲」進行する猪を引っ掛けるための地面から相応の高さで横に張った細繩のトラップ。現在の猪猟では「トリガー」と呼んでいる。]

 猪がウヂを行くには、ウヂ引の命〈みこと〉、尻指の命と云ふ二の山の神が、其前後に立ちて走るものなりと云ふ。故に罠を掛けたるときは、少量の粟を四方に散らし、ウヂ引の命尻指の命に上げ參らすると三唱する者あり。其趣意はウヂ引の命は道先の案内、尻指の命は後押を爲す神なれば、此神たちに念願を掛れば、猪を罠の方に導き、又猪踟躊〈ちちゆう〉するときは尻指の命其尻に觸れて、はと罠に飛込ましむると言ふに在り。

△又「ウヂ引尻指の命に御賴み申す、あびらうんけんそはか」と唱ふる者もあり。夜待〈よまち〉をする者猪の來る前に凡そ鼠ほどの足音して走る者あるをきく。これウヂ引の神なりと云へり。

△罠にて猪を捕るは昔より小民の業にて、鐵砲を持つ者は之を輕〈かろ〉しめをれり。故に折々は無理なる獲物爭ひをもしかくる也。罠主は七日に一度づゝ罠を見巡るが作法なり。狩人之に先〈さきだ〉ちて罠ある所に行き、既にかゝれる猪を我が追込〈おひこ〉みたるなりと云ふことあり。凡そ罠は猪の通路を圖りて立るなれども、之を立てたる山には猪より付かず。故に諸方より追込みて罠に罹〈かか〉らするは常のことなり。狩人他人の罠に猪を追掛〈おひか〉けたるときは、片肢〈かたあし〉を罠の主に與へ殘りを我が所得とす。三四日も前に罹りて眼の落くぼみたる猪を、今日我が追込みたるなり。蝨猪(シラミジシ)なりし故〈ゆゑ〉山にて燒きて來たりなどゝ欺きて、橫領する奸徒〈かんと〉も無きに非ず。

△燒畑の猪防ぎにワナといふものあり。燒占、栞の類なり、罠に似たる物を作りて畑の附近に置けば猪亦之により付かず。

[やぶちゃん注:「尻指の命」「しりさしのみこと」か。]

ヤマ獵。 ヤマは猪が燒畑作りを荒し、又は樫の實をあさりに來る箇所に設くるなり。ヤマを設くることを上〈ア〉グルと云ふ。其方法は、六七寸周りの木を六尺に切り、二十本ばかり組みて筏狀と爲し、兩側に二本の俣杭〈またぐひ〉を立て、之に橫木を置き、ヤマの一端を三尺の高さに此橫木へ釣上げ、莢〈さや〉のまゝなる小豆を一握ばかりづゝ結びて、四周とヤマの内につるし、中央の小豆を引き餌とし、猪が此の引餌を咬〈くは〉へて引きたるとき、ヤマが落下して壓殺する法なり。ヤマの上には荷石を括り付け押へとする也。

ヤマにては巨猪を獲ることありと雖〈いへども〉、悲哉〈かなしいかな〉壓搾するを以て、血液煮えて全身に行渡り、肉の品質を損ふなり。井ドモなるときは一度に四五頭を得ることあり。

[やぶちゃん注:「井ドモ」「ヰドモ」。前掲。『猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ』とあった。]

狩の紛議。 狩獵に付ては甲乙カクラ組の間又は狩組と罠主との間に、紛議を生ずること往々にしてあり。然れども一〈ひとり〉も警官に訴へ或は法廷に持出すことなく、慣例に依り之を解決するものなり。左に其慣例の二三を記す。

[やぶちゃん注:以下の箇条部は、底本では全体が一字下げ。]

一 狩組が他人の罠に猪を追掛けたるときは、前脚一本を切り罠杭に括り付け置き、心當りに通告すること。

一 甲カクラ組に於て負傷せしめたる猪が、乙カクラ組の區域に遁げ込み、乙カクラ組の手にて擊ち留められたるときは。甲乙兩組の平等割とす。

一 甲カクラより乙カクラに遁げ込みたる猪を、乙カクラ組に於て擊ち留めたるときは、乙組の所得とす。但し甲組の獵犬が追跡し來りたるときは此限に在らず。(此場合が最も紛議を生じ易し。良犬は自ら搜し出したる物なるときは、終日追跡するものなり。然るに乙組に於ては芝苞〈しばづと〉を作り、犬に負傷せしめざるやうにして之を敲き拂ふことあればなり。)

一 猪を獲たるとき、其狩組に加はりし者か否かを判定するには、當日出發の際、狩揃ひの場に出頭せし人の顏を以てす。(橫著なる者は銃聲を聞きて獲物のありたるを知り、蒼皇〈さうこう〉獵裝〈れうさう〉を爲して己も狩組に加はりしものの如くに見せかけ、解剖場に乘込むことあり。本項は此場合に之を適用す。)

[やぶちゃん注:「蒼皇」慌てふためくさま。]

裁判例の一二。判士は庄屋殿、又は小役人。

[やぶちゃん注:以下の例は底本では全体が一字下げ。]

第一例 他人の罠猪を盜みたるもの。

原告八兵衞は昨日九年山に掛けある罠を見に行きたり。四斗位の猪がかゝり大に罠場を荒したる形跡現然たり。決して逐掛けの猪とは認めず。然るに狩人は之を銃殺して持去れり。其足跡は雪を蹈みて一ツ戶の方へ向けあるを以て、彼方の狩人に疑〈うたがひ〉を入れつなぎ至れば、果して一ツ戶なる三之助の緣の上に釣し在り。彼は予が質問に對し、此猪は昨日竹之元にて追起せしを、誰人〈たれびと〉かの罠に追掛けしを以て、狩の法に依り前肢一本を罠杭に括り付け置き、今日通告せんと思ひ居りたるなりと答へ、返すことを拒みたり。

庄屋曰く和談すべし。

原被とも承諾せず。

庄屋曰く。然らば直に關係外の狩人に申付け、元起し場より猪の足跡を搜索さすべし。

此時被告の顏色稍〈やや〉變ず。

被告は他の有力者に縋り、猪を罠主に返し、庄屋前〈まへ〉を取下げたり。

[やぶちゃん注:「四斗位」「」は「眞」で、正味の意であろう。容積で七十二リットル、米換算で二百四十キログラム。相当な大物であるから、孰れも引かなかったわけだ。

「前」訴訟告発文。]

          ―――――――

第二例。甲組に於て負傷せる猪を乙組に於て擊止めたるもの。

原告三太郞は一昨日佐禮山に登り、七八名連れにて狩を入れ、暮方鷹山の元にて大猪を起し、タテニハに於て一發を加へしも、鹿遊(カナスビ)の方へ向け流血淋漓として遁げ去れり。昨日ツナギを入れたるに、鹿遊の狩人虎市等に於て擊止めたる處に出會したり。由つて仲間入りを交涉したるに。頑として之に應ぜず。剩〈あまつさ〉へ侮辱を加へたり。

小役人曰く。手負猪と知らば雙方にて程好く分配すべし。

被告虎市曰く。成ほど血液は滴り來りしも、微傷にて銃傷とは認め難し。故に拙者共の勝手にすべし。

小役人曰く。猪は射手の前、口事〈もめごと〉は言手〈いひて〉の前と云ふことありと雖〈いへども〉、獵は此節に止〈とどま〉らず。末永く互に仲好くせざれば。終には之に類する反對の位置に立ちて損をすることあり。屹度〈きつと〉小役人の指圖に從ひ、仲間として分配すべし。猪の疵だけにやめ(矢目に通ず)として、敢て言ひ爭ひを爲し庄屋殿の手を煩はすことなかれ。

被告虎市曰く。誠に左樣なることなり。一同承諾すべしと。

△中瀨氏の文章、野味ありて且つ現代の味あり。其一句一字の末まで、最も痛切に感受せられ得と思ふ。讀者以て如何と爲す。

2022/05/11

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 酌子貝(シヤクシガイ)・イタラ貝 / イタヤガイ(四度目)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部、マスキングした。この見開き丁の図譜もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。]

 

Syakusigai

 

酌子貝(しやくしがい)【「いたら貝」。】

 

「大和本草」、『「海扇」の少なる者、「勺子貝」と為す。』。然(しか)らず。「海扇」は「車渠(をほみ貝)」と云ひ、其の貝、甚だ厚し。形狀は同物なれども、「勺子貝」は、殻、薄し。「海扇」と一物にあらず。其れ、肉柱、一つ有り、而して「たいらぎ」に類(るい)す「。車渠(しやこ)」、又、一種、別なり。

 

此の數品(すひん)、和田氏藏。同九月廿四日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、既に本「介譜」で四度も示されてある、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

である。本種は殻の色彩の個体変異が多いことが知られ、古くから貝杓子にもよく用いられてきた。ここに描かれたのは、膨らみが弱く、放射肋がくっきりしていることから、左殻で、やや殻の辺縁部がすっきりし過ぎて、描き方が気に入らないものの、蝶番の下方にあるのは、反転させた膨らみの強い右殻の内側の一部であろう。

 ここで梅園は珍しく益軒に嚙みついている。という私も、実は、この当該箇所である「大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇」で同じように批判している。益軒は安易に見た目から「ホタテガイ」(斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科 Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis )の名を当ててしまっているからである。詳しくは、そちらの私の注を見られたい。

「車渠(をほみ貝)」というルビは、「大身貝」の意であろう。但し、梅園には、所謂、シャコガイ類(異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacnidae)の認識も、また、別にあったと私は考えている。『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ』の私の注を参照されたい。

『「たいらぎ」に類す』いただけない。タイラギ(学名は現在いろいろ問題がある。「大和本草附錄巻之二 介類 玉珧 (タイラギ或いはカガミガイ)」の私の注を参照されたい)はこの後のここで大図で示されるのだが、何故、益軒の杜撰を鋭く突いた彼が、同時にこのような似ても似つかぬ別種をのほほんと同類としたのか、気が知れないからである。残念!

「同九月廿四日」前からの続きで、これは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十四日となる。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 簞笥のはじまりの事

 

[やぶちゃん注:今までの底本ではここからだが、これも「曲亭雜記」巻第五・上に所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本とし、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。]

 

    ○簞笥のはじまりの事

このもの、ふるくは所見なし。按ずるに、三百年あまり以前に、籠笥(ろうす)といひしもの、是、箪笥のはじめなるべし。この籠笥は「下學集」【「器材門」。】に見えて、唐櫃(カラビツ)、懸子(カケコ)、皮籠(カハコ)、葛籠(ツヾラ)、破籠(ヤレカゴ)、頓須籠、髮籠(カミコ)、籠笥(ロウス)、柳筥(ヤナギカゴ)と並べ出したり。この籠笥を後に簞笥と名づけしは、「廣韻」に『竹器ナルヲㇾ「箪」。方ナルヲㇾ「笥」』。とあるに據る。五山法師などの所爲(わざ)にもやありけんかし。元來(もと)、簞笥は籠(かご)をもてせし書箱(ふみばこ)なるべし。「書言字考」に、『本朝、俗、謂書厨簞笥』と註して、和訓をカタミバコとしるせしは、何に據れるにや。疑らくは記者の新製なるべし。もし、よめむかへに、簞笥の名目はなからずやと思へど、「群書類從」は、すべて舊宅の文庫に遺しおきたれば、只今、穿鑿によしなし。異目披閱(いもくひゑつ)してその事あらば、追書すべし。さばれ、大かた、なきなるべし。かゝれば籠笥(ろうす)の轉じて、簞笥となりしより後には、竹を編みて造らず、代りに桐の木をもて、引出しなどいふものすら、造りそえたるは、寬永以來の事にやあらん。譬へば、「柳筥(やなぎばこ)」の轉じて「挾み板」となり、又、轉じて「挾筥(はさみばこ)」となれるが如し。そが中に、「かさねだんす」といふものは、百年來のものと、おもほゆ。小石川の御簞笥町、牛込の簞笥町も、ふるき江戶繪圖、江戶地書等には、見えず。今は御簞笥町に、引出し橫町など唱ふる處もあり。こは、「私(わたくし)の字(あざな)なるべし」とばかりにして、簞笥を造りはじめたる時代は詳ならず。猶、考ふべし【「康煕字典」に、「廣韻」を引て、『箪笥は篋』と見えたり。但し、「簞」は「笥」なり。「小篋なり」と云ふ意にてもあるべけれども、同意の字をかさねて、熟字の如くつかふこと例あれば、既に唐山にて簞笥と云[やぶちゃん注:「いふ」。]名、ありぬらんと、おぼし。猶、考べし。「說文」、『簞は笥也』、「漢律令」、『京は小篋也』。】

 文政八年乙酉秋七月念一日  著作堂解識

再び云ふ、「たんす」は「擔笥」にて、明曆の災後、車長持を停廢せられしより、火事の時、擔ひ出すに便利の爲にとて、造り出せしものかと思へども、古くより「簞笥」とのみ書て、「擔笥」と書たるを見ねば、未、臆說を免れず。もし證文あらば一說とすべし【但、簞笥と云名目は、擔笥と別なるべし。】。

[やぶちゃん注:ウィキの「箪笥」によれば、『箪笥の登場は江戸時代前期、寛文年間』(一六六一年~一六七三年)『の大坂といわれ、正徳年間』(一七一一年~一七一六年)『頃から普及したとされる。それまで』、『衣服は竹製の行李、木製の長持や櫃といった箱状の物に収納されてきた』。『これらと比べた箪笥の特徴は何といっても』、『引き出しを備えたことで、これにより、大量の衣類や持ち物を効率よく収納できるようになった。逆に言えば、元禄時代の経済成長を経て、箪笥を使わなければいけないほど、人々の持ち物は増えてきたということである』。但し、『長持に比べ、多くの材料と高度な技術を必要とする箪笥は、まだまだ高価な品物であった。貧しい庶民にまで箪笥が広まるのは、江戸時代末期からである』。『「たんす」は、古くは「担子」』(本篇に「擔子」に同じ)『と書かれ、持ち運び可能な箱のことを指していた。江戸時代に引き出し式の「たんす」が登場すると、いつの間にか「箪笥」の字が当てられるようになった。中国では「箪」は円形の、「笥」は方形の竹製収納容器をさす言葉である。現在、中国では日本で箪笥と呼ぶものには「櫃」という語を用いる』とあった。

「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的は、その語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該箇所は寛文九(一六六九)年版本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここ

「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一(一七二六)年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。

「小石川の御簞笥町、……」ウィキの「箪笥町」を参照されたい。

「車長持」「くるまながもち」。移動しやすいように、車輪を下部にとりつけた長持。明暦三(一六五七)年の「明暦の大火」で、車長持が道を塞ぎ、混雑したため、それ以後、禁止された。]

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「狩ことば」

 

[やぶちゃん注:底本のここから。]

 

   狩ことば

 

一 トギリ。 狩を爲さんとする當日、未明に一二人を派して、猪の出入先を搜索し復命せしむるを云ふ。

二 オヒガリ。 逐狩。トギリを出さず、心あたりを空〈くう〉に狩るを云ふ。

三 オヒトホシ。 追通し。猪が小憩もせずにマブシのあたりを走り過ぐるを云ふ。猪は飛禽の如く走ると雖〈いへども〉、大槪二三十間每に凡そ二十秒ほどの間立止〈まだちとま〉るもの也。是四近の樣子に聞耳を立つる爲也。獵師は此時を待ちて發砲す。されども犬が追跡するときは、此小憩をも爲さずマブシを通り過ぐる故に、此に命中するをば追通しを擊ちたりとて大手柄とす。

[やぶちゃん注:「マブシ前掲。『猪の通路に構へて要擊する一定の箇所』を指す語。]

四 スケ。 猪が一定のマブシに出でず他に出でんとするを、囘走して擊つを云ふ。

五 タテニハ。 獵犬が猪を包圍して鬪爭するを云ふ。

六 ホエニハ。 吠庭。包圍が散開しつゝなほ鬪爭を續くるを云ふ。

△猪の犬は昔より細島〈ほそしま〉にて買ふ。兒犬の時にても二十圓もする也。狩に使ふには牝犬の方優れり。牝犬が行けば外の牡犬も追ひ行きて、捕られぬ猪も捕らるゝなり。されど牝犬を飼へば秋の比〈ころ〉に三里四方の牡犬悉く集り來て、玉蜀黍〈たうもろこし〉の畑を荒し村人に惡〈にく〉まるゝ故に、飼ふことを憚かるなり。犬は近年鹿兒島の種交りて形小さくなれり。

[やぶちゃん注:宮崎県日向市細島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸時代以前から江戸や大阪と東九州を結ぶ交易の中継地として発達した港町。]

七 九ダイ三ダイ。 獵師が當日猪の出先を占ふ方位なり。獵師は今日は何の日なるを以て猪は何代に出づと言ふなり。

八 クサククミニウツ。 猪の肌見えず、笹や草の中に在るを見込みて擊つを云ふ。

九 ヤタテ。 矢立。又矢鉾ともいふ。猪を獵獲し分配の後、三度發砲して山の神に獻ずるを云ふ。

△分配の後といふこと、如何。隣村諸塚村〈もろつかそん〉の村長堀莊氏曰く、分割の後に一發、之を「芝起し」と云ふと。ヤタテは山に在りて猪を仕止めたる時に手向くるものには非ざるか。

[やぶちゃん注:「諸塚村」ここ。椎葉村の東北に接する。当該ウィキによれば、『面積あたりの林道の密度は日本一である』とある。

「堀莊」読み方不詳。]

一〇 ガナラキ。猪の舌を云ふ。ガナラキは未だ一囘も猪を獲たること無き者には分配せず。

△新進の狩人は隨分冷遇を受く。例へば猪の腸(ワタ)は分割の場にて串に差し燒きて食ふを常とす。此のワタアラヒは必ず新參者の役なり。

一一 コウザキ。 猪の心臟を云ふ。解剖し了りたるときは、紙に猪の血液を塗りて之を旗と爲し、コウザキの尖端を切り共に山の神に獻ず。コウザキコウザキ殿と云ひ、又山の神をもコウザキ殿と云ふ。祭文は後に記す。

[やぶちゃん注:後の「狩の作法」のここに出る『咒文』というのがそれと思われる。]

一二 イリコモリ。 入籠。トギリを出したるときに、前夜は猪の出入先を發見せずと雖〈いへども〉、前々夜若くは數日前の入跡〈いりあと〉現然として、出跡〈いであと〉無きときは卽ち入り籠り居るものと見るなり。前夜の入跡をナマアトと云ひ、其以前のものをフルアトと云ふ。

[やぶちゃん注:「出跡」は「であと」かも知れない。]

一三 セコ。 包圍中のカクラに分け入り。タカウソ(竹の笛)を吹き犬を呼びつゝ、隈なく搜索して猪を追ひ出す者を云ふ。

[やぶちゃん注:「カクラ前掲。『猪の潛伏せる區域』を指す語。

タカウソ」単に「ウソ」という語は「口笛」を指す。]

一四 ハヒバラヒ。 灰拂。猪の尾端を云ふ。

一五 オコゼ。 鯱(シヤチ)に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ、山獵には海オコゼを祭るを效驗多しと云ふ。祭るには非ず責むるなり。其方法はオコゼを一枚の白紙に包み、告げて曰く、オコゼ殿、オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまへ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ參らせんと。次〈つぎ〉て幸〈さひはひ〉にして一頭を獲たるときは、又告げて曰く、御蔭を以て大猪を獲たり。此上猶一頭を獲させたまへ。さすれば愈〈いよいよ〉世の明〈あか〉りを見せ申さんとて、更に又一枚の白紙を以て堅く之を包み、其上に小捻〈おひねり〉を以て括〈くく〉るなり。此〈かく〉の如く一頭を獲る每〈ごと〉に包藏するが故に、祖先より傳來の物は百數十重に達する者ありと云ふ。此のオコゼは決して他人に示すこと無し。

△椎葉村にオコゼを所持する家は甚〈はなはだ〉稀〈まれ〉なり。中のオコゼを見たる者は愈以て稀有〈けう〉なるべし。鯱に似たる細魚なりは面白し。中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何。オコゼは一子相傳にして家人にも置所〈おきどころ〉を知らしめず。或者の妻好奇心のあまりに、不思議の紙包を解き始めしに、一日掛〈かか〉りて漸〈やうや〉くして干〈ほし〉たるオコゼ出でたりと云ふ話あり。一生涯他人のオコゼ包〈づつみ〉を拾ひ取らんと心掛くる者もありと云ふ。此村にては吝嗇〈りんしよく〉なる者を「おこぜ祭」と云ふ。

[やぶちゃん注:実は本篇の電子化注は、ブログで公開した『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』を受けたものである。そこで熊楠がこの部分に言及している。また、私はそちらの注で、ここで言う「山オコゼ」及び「海オコゼ 」の種についても考証しておいたので、重複を避けるため、そちらを是非、参照されたい。

一六 タマス。 猪肉を分配する爲、小切にしたるものを云ふ。

△此說明は少しく不精確なり。タマスは分け前といふことなり。一タマスタマスは一人前二人前なり。役により一人にて二タマスを得る者もあり。次を見よ。

一七 クサワキ。 草脇。猪の腭〈あご〉の下より尻へかけての腹の肉を云ふ。

一八 ミヅスクヒ。 猪の下腭の末端を云ふ。

△三角の形を爲せる部分なり。最うまし。

一九 セキ。 猪の腰の間にて腹を包み居〈を〉る脂肉を云ふ。二十貫以上の猪ならば脂肉のみにて六七斤もあり。幾年圍ひ置くも腐敗せず。バタの代用を爲す。

[やぶちゃん注:「二十貫以上」七十五キログラム以上。

「六七斤」三・六~四・二キログラム。

バタ」バター。]

二〇 ギヤウジボネ。 行司骨。猪の肋骨の端なる軟骨を云ふ。

二一 イヒガヒボネ。 飯匙骨。猪の後脚の腿骨〈たいこつ〉の端を云ふ。其形狀飯匙に似たればなり。

[やぶちゃん注:「飯匙」杓文字(しゃもじ)のこと。]

二二 ツルマキ。 絃卷。猪の首の肉なり。輪切にしたる所絃卷に似たり。味最美なりとす。

[やぶちゃん注:「絃卷」弓矢の附属具。掛け替え用の予備の弓弦(ゆづる)を巻いておく道具。葛藤(つづらふじ)又は籐(とう)で輪の形に編み上げ、中に穴をあけて、箙(えびら)の腰革(こしかわ)に下げるのを例とした。弦袋(つるぶくろ)とも呼ぶ。]

二三 ソシ。 猪の背に沿ひて附著する肉なり。外部なるをソトゾシと云ひ、内部なるをウチゾシと云ふ。最〈もつとも〉不味〈ふみ〉也。

△「そじゝのむな國〈くに〉」などいふそじゝなるべし。

[やぶちゃん注:「そじゝのむな國」「膂宍(そしし)の空國(むなくに)」に同じ。猪などの獣類の背には肉が少ないことが原義であるが、そこから、「物事の豊かでない」意に喩え、「豊沃でない土地・瘦せた土地・不毛の地」の意図して記紀の時代から用いられた上代語である。]

二四 モグラジシ。 鼹鼠猪。又ブタジシとも云ふ。臭氣ありて食用に供し難し。百頭の猪の中大槪二三頭は此なり。外形少しく通常のものと異なれども、素人は解剖の上ならでは見分くること能はず。其形一見豕〈ぶた〉の如く、腹部甚しく肥滿して脚は割合に短かく、仰臥〈ぎやうぐわ〉せしむれば四肢の容態鼹鼠に酷似す。素人又は商人之を購ひ泣き出すことあり。

二五 〈いち〉ノキレ。 猪の首を云ふ。

二六 ヌリ。 負傷せる猪の血液が荊棘などに附著し。又は地上に滴り居るを云ふ。獵師はこのヌリを見て、急所に中〈あた〉り居るか擦り傷位なるかを知り、急所に中りたるものと認めたるときは、三四日間引續きても搜索する也。蓋し急所に中りたる折の血液は、黑味を帶び又脂肪を混ず。

△血をノリといふ語原はわかりたり。

[やぶちゃん注:と柳田は言っているが、それは「塗り」の転訛ということらしい。しかし、「血のり」は粘ついた凝固血の「糊」状になった「血」が語源と私は思う。]

二七 オヒサキ。 狩出したる猪を追跡するを云ふ。

二八 ツナグ。 猪の足跡を求めて搜索するを云ふ。

二九 アテ。 他人の猪を盜〈ぬすみ〉取り、又は狩場の作法に背き、不正の行爲を爲したるときは、奇妙にも獵運惡しきものなり。又獵師の妻が姙娠中は猪を獲〈から〉ず。萬一要部を射當るも斃〈たふ〉れず。斃れたりと雖〈いへども〉蘇生して逃走することあり。この二の場合をアテと云ふ。併し後のアテは大反對に出で、獵運大〈おほき〉によろしきこともありと云ふ。

三〇 ヰドモ。 猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ。

三一 ツキヰ。 附猪。ヰドモに牡の大猪が伴ひ居るを云ふ。

泉鏡花「星あかり」(正規表現・オリジナル注附・PDF縦書版)を公開

泉鏡花「星あかり」(正規表現・オリジナル注附・PDF縦書版)を満を持して「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/10

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作短歌・「土地の名目」

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作顕歌・「土地の名目」

[やぶちゃん注:以下の柳田國男の献歌一首は、「序」の最後のページの見返し(裏)に記されてある(底本ではポイント落ち)。柳田が当初、歌人。詩人を志していたことはあまり知られていない。当該ウィキによれば、『森鷗外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿』し、『桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿』、明治三〇(一八九七)年には『田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた』(作品名は「野の花」(明治三十四年新聲社刊・単行本。後発の大正五年春陽堂版の花袋の作品集「野の花」が国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る)。『飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから』、『当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し』、『決別していった』とある。

 なお、以下の本文はメインの解説が二行に亙る場合は二行目以降は、底本では一字下げであるが、無視した。また、後に添えられた柳田自身による「編者注」(頭に△を打つ)も、底本ではポイント落ちで、全体が三字下げであるが、引き上げて同ポイントとした。]

 

        椎葉村を懷ふ

     立かへり又みゝ川のみなかみに

     いほりせん日は夢ならでいつ

 

 

      土地の名目

 

一 ニタ。 山腹の濕地に猪が自ら凹所を設け水を湛へたる所を云ふ。猪は夜々來りて此水を飮み、全身を浸して泥土を塗り、近傍の樹木に觸れて身を擦る也。故にニタに注意すれば、附近に猪の棲息するや否やを知り得べし。

△編者云、ニタは處によりてはノタともいふか。北原氏話に、信州にてノタを打つと云ふは、猪鹿などの夜分此所に來て身を浸すを狙ふなり。火光を禁ずる故に鐵砲の先に螢を著〈つけ〉けて照尺とし、物音を的に打放すことあり。ニタを必ず猪が自ら設けたるものとするは如何〈いかん〉。凡そ水のじめじめとする窪みを、有樣に由りてニタと云ふなるぺし。風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡は不知〈しらず〉、伊豆の仁田〈にた〉を初め諸國にニタといふ地名少なからず。我々が新田の義なりとする地名の中にも、折々は此ニタあるべし。例へば上野〈かうづけ〉の下仁田など。

[やぶちゃん注:これは所謂「沼田場(ぬたば)」・「ヌタ場」として知られる、ある種の四足獣類が、泥浴びをする(体表に附着しているダニなどの寄生虫や、汚れを落とすために泥を浴びるをするとされているが、明確には判っておらず、以下に見るように、動物種によって役割は多様である)「ぬた打ち」行う場所を差す。当該ウィキによれば、『沼、湖や川の畔、休耕田』『なども使われるが、谷筋の一定の場所が繰り返し使われることがある』。『日本の猟師の間ではぬた場に、山の神がいて、祈ることで獣が現れると考えられていた』。『日本の神奈川県東丹沢地域での観察によれば、ヌタ場で最も多い行動は』、『動物の種類、ニホンジカ、イノシシ、タヌキ、アナグマによって異なるとことが判明した。ニホンジカは飲水(オスに限るとヌタ浴び)、イノシシはヌタ浴び、タヌキとアナグマは臭い嗅ぎが最も多い行動で、ニホンジカのメスにとってヌタ場は塩場』(塩分供給)『としての機能も有している可能性があることが報告されている』とあり、ウィキの「イノシシ」によれば、『多くの匂いに誘引性を示し、ダニ等の外部寄生虫を落としたり体温を調節したりするために、よく泥浴』『・水浴を行う。泥浴・水浴後には体を木に擦りつける行動も度々』、『観察される。特にイノシシが泥浴を行う場所は「沼田場(ヌタバ)」と呼ばれ、イノシシが横になり転がりながら全身に泥を塗る様子から、苦しみあがくという意味の』「ぬたうちまわる(のたうちまわる)」『という言葉が生まれた』とある。所持する松永美吉氏の労作「民俗地名語彙事典」(三一書房『日本民俗文化資料集成』版)の「ニタ」の項でも、『湿地。水のじくじくした田代として適当な谷間をいう〔『地形名彙』〕』とし、以下、猪絡みの記載が長く続く。『熊本県球磨郡水上(ミズカミ村元野では、ニタの神というのがある。桜、樫などの木が茂り、その下に水溜りがある。猪がここに来て、この水溜に入り、木の根に体をすりつけてシラミを殺す。そこでは昼でも暗く山師も寄りつかない。もしこの山の木を伐ると熱病にかかる、ニタの神様は耳も聞こえず目も見えないという〔『熊本民俗事典』〕』とあり、猪は『矢きずを負った時、ここで身体の熱をさまし、傷口を癒すらしい。重傷の手負いの猪が時折、ニタ場の近くで倒れていることがある。このニタのにごり具合で、猪が近くに居るかどうかを判断することもあり』、『ニタのつく地名が山間部に意外に多い〔前田一洋『えとのす』〕』とある。以下、一段落が霧島山付近の猪のニタでの行動様式が子細に語られていて興味深い。最後に谷川健の文章を引いて、『沖縄の宮古島の島尻という部落には、自然の湧水の濁ったくぼみをニッジヤまたはニッダアと呼んで他界への入口とみなしている』という例を挙げ、谷川はこの二つの呼称は『ニタと同義語であり』、ニタという地名は『神聖なものの出現の場所とみなすことができると思う』という谷川説が示される。豊饒の象徴である田代、先の「ニタの神」から、この谷川の説は、私は侮れないと思う。

「北原氏」「序」に既出。

『風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡』「出雲風土記」の「仁多の郡(こほり)」の条には、文字通り、「こは濕(にた)しき小國(をぐに)なり」と大穴持(おおあなむち)の命(=大国主命)が仰せられたこととに始まる。彼は、この郡の三つの郷(さと)は孰れも田が優れているとも言っているので、やはり湿潤の地であるととってよい。現在の奥出雲町及び雲南市の一部に相当する。]

二 ガラニタ。 水枯渴して廢絕せるニタを云ふ。

三 ウヂ。 猪の通路を云ふ。

△鹿のウヂ、にくのウヂなどゝも云ふ。ウヂ引尻指の神の條參照。中瀨氏はウヂは菟道〈うみち〉にて山城其他の宇治同義なりと云ふ。如何〈いかん〉。

[やぶちゃん注:所謂、四足獣類の各自が形成する自身の獣道(けものみち)のこと。

「引尻指の神の條」後の「狩の作法」の「罠獵」の後注に出る。ここ。読みが判らぬが、ルビを振っていないので、「ひしりゆび」と訓じておく。]

四 セイミ。 少しく水湧き泥狀を爲し居〈を〉る處を云ふ。猪は此水を飮み蟹蛙などをあさり食ふ。人の注意することニタに同じ。

五 シクレ。 荊棘〈いばら〉茂り合ひ人容易に通過し能はざる處を云ふ。猪は大槪シクレに伏し、又はシクレを通路とす。

六 モッコク。 シクレの中に枯木の枝打混〈うちこん〉じ、シクレの層甚しく、且小區域なる處を云ふ。モッコクは猪の好潛伏場とす。

七 ヤゼハラ。 シクレの廣く亙れる處を云ふ。

八 ドザレ。 傾斜地に砂礫疊々として通行するに一步每に砂礫の轉下する處を云ふ。ドザレは流石の猛猪も急進すること能はず。故に村田銃を以てせば五六步每に一丸を與ふることを得る也。

[やぶちゃん注:所謂、山屋の言う「ガレ場」である。

「村田銃」陸軍少将村田経芳(つねよし)によって設計された小銃で、日本陸軍で初めて制式となった国産小銃。明治一三(一八八〇)年に、フランスのグラー銃及びオランダのボーモン銃を参考に「十三年式村田銃」として開発した。ボルト・アクション単発式で口径十一ミリ、全長一メートル二十九・四センチメートル、重量四キロ、照尺千五百メートルであった。明治十八年には、一部が改良されて「十八年式村田銃」となり、これらが「日清戦争」で実戦使用された。この十八年式の制定から間もなく、無煙火薬の連発銃の時代となり、村田も明治二十二年には「二十二年式村田連発銃」(口径八ミリ、全長一メートル二十二センチメートル、重量四キロ、照尺二千メートルを完成、制定されている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

九 ヒラミザコ。 凹所〈あふしよ〉急ならず弧狀を爲し、水無き迫〈さこ〉の竪〈ひき〉に引き居る處を云ふ。セイミは大槪ヒラミザコに在り。

[やぶちゃん注:「迫〈さこ〉」岡山県以西の中国地方と九州地方で「山あいの小さな谷」を指す。]

一〇 ホウバ。 樹木立込み居るも見通しのよろしき處を云ふ。卽ちセイミモッコクヤゼハラドザレの反對の地形なり。猪は遁走するにホウバを避く。故に狩人が包圍するにも、人手多き場合に限り弱卒を此處に配置するのみなり。

一一 スキヤマ。 森林にして見通しよろしき處を云ふ。スキヤマは位置ホウバに似たるも、猪は之を避けず。

一二 ツチダキ。 土瀧。岩石無く急傾斜にして滑り易く、人の通るに困難なる箇所を云ふ。

一三 クネ。 土砂隆起して大瀧の狀を爲し、橫又は斜に引き居る處を云ふ。猪は大槪クネの上下を過ぎるものなれば、クネの上に構へて要擊する也。

△對馬の久根。遠江の久根。地名辭書に見ゆ。

[やぶちゃん注:「地名辭書」明治三三(一九〇〇)年三月に第一冊上が出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として、在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された労作。

「對馬の久根」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本(上巻二版)のここの左ページ上段に出、「遠江の久根」は同中巻の「山香」の中の「佐久間」の項(右ページ中段)に「久根(クネ)銅山」として出る。]

一四 マブ。 傾斜したる小谿〈しやうけい〉の水源又は小迫〈こさこ〉の頭に、塚狀を爲し居る處を云ふ。猪は大槪マブ下を通過し、巨猪は群犬を茲〈ここ〉に引受けて鬪ふ。

一五 ヨコダヒラ。 傾斜緩なる地が橫に長く亙り居る處を云ふ。

△九州南部にて廣くハエといふ地名を附する處、地形或は之と同じきか。椎葉及其附近にでは凡て「八重」と書く。勿論近代のあて字なり。例へば尾八重(ヲハエ)、野老八重(トコロハエ)などあり。或地方にては「生(ハエ)」とも書けり。「延へ」の義か。はた先住民の語か。山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり。

[やぶちゃん注:「山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり」同様の解説が前掲の松永氏の「民俗地名語彙事典」にもあった。]

一六 クモウケ。 雲受。天を眺むる如き山の頂上を云ふ。

一七 クザウダヒラ。 山々相重なり居る中に。一つの山のみが方向を異にし。斜に天を挑むるに似たる所を云ふ。

一八 カマデ。 鎌手。或目標に向ひて右の方を云ふ。

一九 カマサキ。 鎌先。同じく左の方を云ふ。

二〇 イレソデ。 入袖。燒畑又は舊燒畑跡が判然として、山林區域に對し袖狀に見ゆる所を云ふ。卽ち左圖の如し。

 

Totinomeimokuiresode

[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。扉に献辞と署名有り)の当該部からトリミングした。キャプションは、右に、

「山林」

左に、

「入袖」

である。]

 

二一 ツクリ。 燒畑跡地にして未だ林相を爲さゞる處を云ふ。

二二 キリ。 切。昔燒畑とせし箇所が森林に復し居る處を云ふ。然らば椎葉の山林は凡てキリなるかとも云ひ得べしと雖〈いへども〉、此〈かく〉の如く解すべからず。抑〈そもそも〉キリの名稱は地面の一局部に小地名を冠する必要より生ぜしもの也。例へば往時燒畑を作りし人が五右衞門なるときは五右衞門キリ、三之助なるときは三之助切といふ一の小字〈こあざ〉となるなり。

△燒畑を經營することを此地方一帶にてはコバキリと云ふ。コバは火田〈くわだ〉にて、畑と書きてコバと訓む地名多し。人吉の南にある大畑(オコバ)[やぶちゃん注:この「(オコバ)」はルビではなく、本文。以下、丸括弧は総てルビ。]の如し。燒畑を切山(キリヤマ)。切畑(キリバタ)といふこと東西諸州に於て常のことなり。或は野畑(薩州長島)。藪(伊豫土佐の山中)とも云ふ。草里(サフリ)。佐分(サブリ)。藏連(ザウレ)。曾里(ソリ)とも云へりと見ゆ。反町と書きてソリマチ、後にはタンマチとも訓〈よ〉めり。是も燒畑に因〈ちなみ〉あること疑〈うたがひ〉なし。神奈川町の臺地に反町桐畑(タンマチキリバタケ)、昔忍ばるゝ地名なり。されど燒畑と切替畑〈きりかへはた〉とは同じ物に非ず。說長ければ略す。地方凡例錄〈ぢかたはんれいろく〉の說明は誤れり。

[やぶちゃん注:「地方凡例錄」寛政六(一七九四)年に高崎藩松平輝和の郡(こおり)奉行大石久敬(きゅうけい)の著したもので、江戸時代を通じて、農政全般に亙る各種実務書の内で、最も優れた書とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの恐らく巻之二の下の内容を指しているようだが、どこを批判しているのか、ちょっと判らぬ。]

二三 カタヤマギ。 片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ。

二四 ツチベイギ。 燒畑と燒畑との境に伐り殘りの樹木が多少燒害を受けつゝも生存し居るを云ふ。

△此村竝〈ならび〉に近鄕にはをさをさ土塀を見ず。此語を土塀より出でたりとは速斷すべからず。

二五 ヨホーレギ。 斜に立ち居る木を云ふ。

二六 マブシ。 猪の通路に構へて要擊する一定の箇所を云ふ。

二七 カクラ。 猪の潛伏せる區域を云ふ。

二八 ナカイメ。 中射目。カクラの中に在るマブシなり。中射目に手員〈てかず〉を配置するは、富士の卷狩に似たる大狩場にあり。四方八方要所を堅めたるも、カクラ廣くして逐出〈ひだ〉すに困難する場合のことなり。中射目は東西雌雄を決する關ケ原なれば、此要害を占〈し〉むるの任は、老練衆に秀〈すぐ〉る獵將と雖〈いへども〉、遺憾ながら之を庄屋殿に讓らざるべからず。

△此の庄屋殿は中瀨氏自らのことなるべし。下にも見ゆ。面白からずや。

二九 シリナシヲ。 尻無尾。尾(峯)がおろし居るも低所に達せず、中途にして展開し居るものを云ふ。この尾の下は猪の遁路に當り、最肝要の箇所とす。

三〇 ズリ。 材木又は薪を落し下〈おろ〉す所なり。熊笹の如き植物密生し見通し難き場合は、此のズリにすけ行き、一目一引といふ工合にて、ころりと擊落〈うちおと〉すことあり。

[やぶちゃん注:所謂、材木の切り出しや「柴車(しばぐるま)」(私の「譚海 卷之五 信州深山の民薪をこり事」の同注を見られたい)を落とす場所を利用して、猪を打ち落とすことを説明している。]

△一目一引の工合、十分に想像すること能はず。すけ行くは沿ひ行くなり。わざと椎葉の方言を飜譯せず。

[やぶちゃん注:「一目一引」「ひとめひとひき」か。発見した獲物を即座に引金を引いて一発で必殺することか。]

三一 ヲダトコ。 猪を里に持下〈もちおろ〉して、割〈さ〉きて分配するに使ふ家を云ふ。ヲダトコの家は一定しをれり。

△天草下島の西海岸にも小田床村あり。神祭にゆかりある名ならんと思へど考證し得ず。

[やぶちゃん注:「小田床村」現在の天草の下島(しもしま)の熊本県天草市天草町下田南の附近。ここ。]

三二 カモ。 猪の寢床なり。笹、柴、茅などを集めて、粗末なるものを作れり。此の笹草は如何に生ひ茂れる中なりと雖〈いへども〉、決して一所に於ては採取すること無く、遠方より點々と持集〈もちあつ〉め來りて、形跡を暗〈くら〉ますなり。

△草萎〈しぼ〉めば常に新しきを取〈とり〉そふるなり。カモにては子を育つる故にかく人に知られぬやうに骨を折る。

三三 ヲタケ。 峯の橫に亙れるを云ふ。

三四 ヲバネ。 峯を云ふ。

△赤羽根、靑羽根の如く羽根といふ地名は、凡て上代に埴(ハニ)を採りし所なるより直〈ぢき〉に命名したること、例へば柚木〈ゆずき〉、久木などゝ同じ類〈たぐひ〉ならんと思ひしが、かゝる羽根もありけり。

三五 タヲ。 嶺を云ふ。

△峯と嶺とを區別するの意明ならず。タヲは三備其他中國の山中にては。乢又は峠と書けり。乢の字の形が示す如く、たわむといふ語と原由を同じくするならん。土佐にては峠を凡てトーと云ふ。たゞ山の頂をもトーと云ふ。此もタヲの訛なるべし。三浦氏の一族に大多和氏、相模の三浦郡に大多和の地ありと記憶す。

[やぶちゃん注:「峯と嶺とを區別するの意明ならず」は「峯」は単独で山頂を指し、「嶺」はピークが並ぶこと、及びその間の鞍部や峠道を持つ部分をより広く指すと私は考えてよいようには思われる。

「大多和」神奈川県横須賀市太田和(おおたわ)。ここ。そこを、航空写真に切り替えると、丘陵や山間のピークが複雑に入れ込んでいることが判る。]

三六 ヒキ。 嶺の凹所に在り。各所より逐ひ囘したる猪が最後の遁路なり。ウヂとは混ずべからず。

三七 シナトコ。 大豆、小豆、蕎麥、稗等を燒畑の内にてたゝき落し收納したる跡を云ふ。猪は來りて落穗をあさるものなり。

△燒畑に作りたる穀類は凡て實のみを家に持歸るなり。麥などは穗を燒〈やき〉切りて採るが常にて、短き麥桿〈むぎわら〉の小束が松明〈たいまつ〉の末〈すゑ〉のやうに、焦げて山に棄てゝあるを見る。麥を燒きて穗のみを收むることは奧羽にても普通なり。

[やぶちゃん注:焼き切って収穫するというのは、ちょっと驚いた。]

三八 シバトコ。人の變死したる跡を云ふ。某〈なにがし〉シバトコと稱し、死者の名を冠して地名とす。路を行く者柴を折りて之に捧ぐる風習あり。之を又柴神〈しばがみ〉とも云ふ。柴を捧ぐるは亡靈を慰するの意なり。

△又路の側に小竹を立て其端に茅〈かや〉を結び付けたるを見る。これは蝮蛇〈まむし〉を見たる者が必ず其所に立てゝ人を戒むるなり。其名を何と云ふか記憶せず。

三九 アゲヤマ。 上山。燒畑に伐るとき誤りて樹上より墜落し悲慘の死を遂ぐる者あり。上げ山と稱するは、此山の一部分を爾後燒畑にせざる旨を山の神に誓ひて立て殘しある箇所なり。

四〇 サエ。 高寒の地。村里遠く隔たりたる所を云ふ。

四一 コウマ。 サエの反對にして卽ち村里を云ふ也。因〈ちなみ〉に記す、本村の神樂歌にサヱは雪コウマは霰といふ句あり。

[やぶちゃん注:「神樂歌」の「サヱ」の表記はママ。修正していない。どちらの表記が正しいかは判らない。]

2022/05/09

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」電子化注始動 / 「序」

 

[やぶちゃん注:本篇は「のちのかりのことばのき」と読み、柳田国男が明治四一(一九〇八)年に宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。題名は『群書類従』所収の「狩詞記」(就狩詞少々覚悟之事)に由来するもの。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの献本(扉に献本辞と署名有り)原本のこちらを視認した。正字正仮名で、漢字表記はなるべく当該表示漢字を再現してある。なお、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」のここにある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集」の「第二十七卷(新装版)」一九七〇年筑摩書房刊)を加工データとして、使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 なお、底本原本では、読点はなく、総ての箇所が句点であるが、これは流石に読み難いので、私の判断で一部を読点に代えた。また、やや難読と思われる箇所には私が〈 〉で読みを歴史的仮名遣で添えた(柳田のルビはカタカナなので判別は容易である。なお、読みは所持する「ちくま文庫」版一九八五年刊「柳田國男全集」第五巻の当該論文も参考にした)。下線は底本では右傍線。踊り字「〱」「〲」は私自身が生理的に嫌いなので正字に代えた。禁欲的に注を附した。冒頭に目次があるが、省略する。

 また、私の電子化注した、早川孝太郎氏の「猪・鹿・狸」の「猪」のパートは大いに参考になろうと思う。早川の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川。ここ)を中心とした民譚集で非常に面白い。特に以下の注では挙げないが、未読の方は、是非、お勧めである。

 

    

 

一 阿蘇の男爵家に下野(シモノ)の狩の繪が六幅ある[やぶちゃん注:「六」は印刷では「四」であるが、自筆で「六」に修正されてある。]。近代の模寫品で、武具や紋所に若干の誤謬が有るといふことではあるが、私が之を見て心を動かしたのは、其繪の下の方に百姓の老若男女が出て來て見物する所を涅槃像のやうに畫いてあるのと、少しは畫工の誇張もあらうけれども、獲物の數が實に夥しいものであることゝ、侍雜人〈ざうにん〉迄の行裝が如何にも花やかで、勇ましいと云はんよりは寧面白い美くしいと感ぜられたことゝである。下野の年々の狩は當社嚴重の神事の一であつた。遊樂でも無ければ生業では勿論無かつたのである。從つて有る限の昔の式例作法は之を守り之を後の世に傳へたことと思はれる。此が又世の常の遊樂よりも却つて遙に樂しかつた所以であつて、例としては小さいけれども、今でも村々の祭禮の如き、之を執行ふ氏子の考が眞面目であればあるほど、祭の樂しみの愈深いのと同じわけである。肥後國誌の傳說に依れば、賴朝の富士の卷狩には阿蘇家の老臣を呼寄せて狩の故實を聽いたとある。倂し坂東武者には狩が生活の全部であつた。まだ總角〈あげまき〉の頃から荒馬に乘つて嶺谷を驅け巡り。六十年七十年を狩で暮す者も多かつたのである。何も偏土の御家人に問はずとも、立派に卷狩は出來たことであらうから、此說は信用するには及ばぬ。が唯この荒漠たる火山の裾野が原も、阿蘇の古武士にとつては神の惠の樂園であつて、代々の弓取が其生活の趣味を悉く狩に傾けて居つたことは明かである。處が其の大宮司家も或時代には零落して、初は南鄕谷〈なんがうだに〉に退き、次には火山の西南の方、矢部(ヤベ)の奧山に世を忍び、更に又他國の境にまでも漂泊したことがある。祖神の社頭には殺生を好まぬ法師ばかりが衣の袖を飜へし、霜の宮の神意は知らいでも、阿蘇谷の田の實は最早他國の武家の收穫であつた。昔肥前の小城(ヲギ)の山中で腹を切つた大宮司は、阿蘇の煙の見える所に埋めよと言つたといふことである。其子孫が久しく故土に別れて居つたのである。嘸〈さぞ〉かし遙に神山の火を眺めて、產土〈うぶすな〉の神と下野の狩を懷かしがつたことであらう。然るに漸くのことで浦島のやうに故鄕に歸つて見れば、世は既に今の世に成つて居つた。谷々の牟田には稻が榮え、草山には馴れたる牛馬が遊んで居て、鹿兎猪狐の類は遠く古代へ遁げ去つて居つたのである。昔を寫す下野の狩の繪には、隱れたこんな意味合も籠つて居るのである。

[やぶちゃん注:「下野」恐らく「ひなたGBS」の椎葉村大河内地区のどこかにあった。現在も小字地名に残っているはずなのだが、地図類では見たらない。【二〇二二年五月十日削除・追記】以下の没落後の位置が孰れも肥後で、椎葉村と国を越えて有意に離れていることが不審だったが、その際、椎葉村字大河内小字下野という記載を発見したため(してしまったため)、大きな誤認を見逃してしまった。何時も情報を頂戴するT氏より昨日、「AsoPedia」の「下野狩」を紹介戴いた。そこに「下野狩(しもののかり)」はここに記されている通り、阿蘇大宮司家によって行われた神事的な演武の巻狩(まきがり)であって、阿蘇山麓で展開されたものであった。『鎌倉幕府を開いた源頼朝の富士の巻狩の手本となったと伝えられており、天正七年(一五七九)に阿蘇氏の没落と共に廃絶し』たとし、『下野とは、現在の坊中(黒川)』(ここ)『からの登山道、南阿蘇村下野』(ここ)『からの登山道と北外輪山麓の黒川に囲まれた広大な原野』・『沼沢地で』、『狩場は永草』(ながくさ:ここ。下野の東北直近)の「鬚捊(びんかき)の馬場」・「中の馬場」・「赤水の馬場」と三つに分かれていたとある。「下野狩」の起こりははっきりしないものの、『始めは農作物を食い荒らす害獣を駆除し、開拓神(国造神社)』(阿蘇神社の北に位置するため、通称「北宮」と呼ばれている「国造(こくぞう)神社」。約二〇〇〇年の歴史を持つ古い神社)『に贄(にえ)として捧げる小規模な』贄狩であったものが、『時代が下がるに従い、阿蘇家の勢力も拡大し、狩の方法も進化し』たとあり、『狩は武士団の軍事訓練の一環として、諸将を招集し、勢子(せこ)の動員から隊の編成、狩場での諸将の指揮振りを見る等、大規模なものとな』ったとして、その狩りの拡大や発展が解説されてある。而して、『阿蘇家には、この下野狩の様子を描いた』三『幅の「下野狩図」が残されてい』るとあり、そのカラー画像も載る(恐らくは古くにあったものの原画の部分写本であろう)。絵師は『肥後狩野派の祖とされる』薗井守供(そのいもりとも)で、精緻を極めた美麗なものでる。そして、その下方に「下野狩の推定図」が画像で記されて執行勢の進行路の指示もある。それを見るに、グーグル・マップ・データではこの画面の内部が展開地域であったことが判明した。永く私の読者として御助力頂いているT氏に心より御礼申し上げるものである。

「雜人」賤民。

「南鄕谷」現在の熊本県阿蘇郡高森町高森のこの附近。手間取ったが、「ひなたGPS」のここで阿蘇山南麓のこの旧地名を見出せる。

「矢部」位置的に見て、現在の熊本県上益城郡山都町北中島附近か。「矢部サンバレーカントリークラブ」というのがあり、阿蘇山の西南という条件に一致する。同じく「ひなたGPS」で旧地名の「矢部」を確認出来た。]

二 今の田舍の面白く無いのは狩の樂を紳士に奪はれた爲であらう。中世の京都人は鷹と犬とで雉子〈きじ〉鶉〈うづら〉ばかりを捕へて居〈を〉つた。田舍侍ばかりが夫役〈ぶやく〉の百姓を勢子〈せき〉にして大規模の狩を企てた。言ふ迄も無いが世の中が丸で今とは異なつて居る。元來今日の山田迫田(サコダ)は悉く昔の武士が開發したものである。今でこそ淺まな山里で、晝は遠くから白壁が見え、夜は燈火が見えるけれども、昔は此等の土地は凡て深き林と高き草とに蔽ひ隱されて、道も橋も何も無い、烈しく恐ろしい神と魔との住家であつた。此中に於て、茲〈ここ〉に空閑〈くげん〉がある茲に田代〈たしろ〉を見出でたと言ふ者は。武人の外に誰が有らうか。獸を追ふ面白味に誘はれてうかうかと森の奧に入つて來る勇敢な武士でなければ出來ないことである。其發見者は一方には權門大寺に緣故を求めて官符と劵文〈けんもん〉とを申下し、他の一方には新に山口の祭を勤仕して神の心を和らげた。名字の地と成れば我が命よりも大事である。之を守る爲には險阻なる要害を構へ。其麓には堀切土居の用意をする要害山の四周は必ず好き狩場であつた。大番役に京へ上る度に。むくつけき田舍侍と笑はれても。華奢風流の香も嗅がずに。年の代るを待兼て急いで故鄕に歸るのは。全く狩といふ强い樂があつて。所謂山里に住む甲斐があつたからである。殺生の快樂は酒色の比では無かつた。罪も報も何でも無い。あれほど一世を風靡した佛道の敎も。狩人に狩を廢めさせることの極めて困難であつたことは。今昔物語にも著聞集にも其例證が隨分多いのである。

[やぶちゃん注:「迫田」山の狭い谷あいに開かれた小さな田。

「空閑」未だ人が入って田畑になっていない開発し得るような未開地。

「田代」ここは田にするに適した土地。或いはかなり古い過去の隠田(おんでん)の跡も指すであろう。

「劵文」 奈良時代以降、土地家屋などに関する権利を証する文書を指す。]

三 此の如き世の中も終に變遷した。鐡砲は恐ろしいものである。我國に渡來してから僅に二三十年の間に。諸國に於て數千の小名の領地を覆へし、其半分を殺し其半分を牢人と百姓とにしてしまふと同時に、狩といふ國民的娛樂を根絕した。根絕せぬ迄も之に大制限を加へた。「狩詞記」の時代は狩が茶の湯のやうであつた。儀式が狩の殆〈ほとんど〉全部に成りかけて居る。大騷をして色々の文句を覺え、畫に描いた太田道灌のやうな支度で山に行つても、先日の天城山の獵よりも不成績であつたことが隨分有つたらうと思はれる。併しまだ遠國の深山には、狩詞記などゝいふ祕傳の寫本が京都に有るやら無いやらも考へずに、せつせと猪鹿〈しし〉を逐〈おひ〉掛けて居る地頭殿が有つた。併し鐵砲が世に現はれては是非も無い。弓矢は大將の家の藝であるけれども、鐵砲は足輕中間(チウゲン)に持たすべき武具である。而も其鐵砲の方が、使ひ馴れては弓よりもよく當り遠くへ屆く。平日は領主の威光で下人の狩を禁ずることも出來るが、出陣の日が次第に多くなつては、留守中の取締は付き兼ねる。昔は在陣年を越えて領地へ歸つて見ると、野山の鳥獸は驚くべく殖えて居る。此が凱旋の一つの快樂であつた。然るに今は落人〈おちうど〉の雜兵〈ざふひやう〉が糊口の種に有合せの鐵砲を利用して居る。土民は又戰敗者の持筒〈もちづつ〉を奪ひ取つて、之を防衞と獸狩の用に供して居る。怒つて見ても間に合はぬ。山には早〈はや〉よほど鹿〈しか〉猿が少くなつた。そこで徒然〈つれづれ〉のあまり狩の故實を筆錄する老武者もあれば、之を讀んで昔を忍ぶ者も段々と多くなつたのである。

[やぶちゃん注:「猪鹿〈しし〉」古い言い方で振った。別に「ゐのしししか」でもいいが、リズムがだれるので好まなかっただけである。]

四 狩詞記(群書類從卷四百十九)を見ると、狩くらと言ふは鹿狩に限りたることなりとある。所謂峯越す物といひ山に沿ふ物といふ「物」は鹿である。全く鹿は狩の主賓であつた。此には相應の理由のあることで、つまりあらゆる狩の中で鹿狩は最も興が高いといふ次第である。北原晉氏は鐵砲の上手で、若い頃を久しく南信濃の山の狩に費した人である。然るに十年餘の間に猪を擊つたのは至つて小さいのを唯一匹だけであつた。猪は何と言つても豚の一族である。走るときは隨分早いけれども、大雪の中をむぐむぐと行く有樣は鼹鼠〈もぐら〉と同じやうである。之に反して鹿は走るときはひたと其角〈つの〉を背に押付ける。遠くから見ても近くでも、丸で二尺まはり程の棒が橫に飛ぶやうなものである。足の立所〈たちどころ〉などは見えるもので無い。之を橫合に待掛けて必ず右か左の三枚〈さんまい〉を狙ふのである。射當てた時の歡〈よろこび〉はつまり所謂技術の快樂である。滿足などゝいふ單純な感情では無い。昔から鹿狩を先途〈せんど〉とするの慣習も或は此邊の消息であらうか。乃至は未知の上代から傳へられた野獸の階級とでもいふものがあるのか、兎に角に鹿は弱い獸で、人からも山の友からも最も多く捕られて最も早く減じたらしいのである。奈良や金華山に遊ぶ人たちは。日本は鹿國のやうに思ふだらうけれども、普通の山には今は歌に詠む程も居らぬのである。此因〈このちなみ〉に思ひ出すのは北海道のことである。蝦夷地には明治の代まで鹿が非常に多かつた。十勝線の生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)の停車場を始として、ユクといふ地名は到る處に多い。然るに開拓使廳の始頃に、馬鹿なことをしたもので、室蘭附近の地に鹿肉鑵詰製造所を設立した。そしたら三年の内に鹿も鑵詰所も共に立行〈たちゆ〉かぬことになつた。北海道の鹿は鐵砲の痛さを知るや否や直に其傳說を忘却すべく種族が絕えたのである。

[やぶちゃん注:「狩詞記(群書類從卷四百十九)」国立国会図書館デジタルコレクションの「新校 群書類從」(昭和七(一九三二)年内外書籍刊)の第十八巻の当該部(正しくは「就狩詞少々覺悟之事【今、狩詞記と稱す。】」)をリンクさせておく。

「三枚」肋骨の三本目を指す。鹿に限らず、猪・熊でもそこを急所とする。

「生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)」前の丸括弧はルビ、後者のそれは本文。幾つかのフレーズで検索をかけても見つからず、古い地図も調べたが、お手上げ。一つ、根室本線に「幾寅」なら、現存する。ここは現在の南富良野町幾寅であるが、十勝ではない。しかし、ここには南に「ユクトラシュベツ川」もあるから、ここか? また、調べると、アイヌ語で「ユク」は「鹿」を指し、古くはヒグマやエゾタヌキなども含めて「ユク」と読んでいたと、アイヌ工芸品店「アイヌモシリ三光」の店長のブログのこちらにあったので、以上の話との親和性が強いことが判った。【二〇二二年五月十日追記】同じくT氏より、『本序の最後に明治四二(一九〇九)年二月一日のクレジットがあるが、明治四十二年十月十二日まで、旭川―帯広間は「十勝線」であり、「幾寅駅」は明治三五(一九〇二)年十二月六日開業』との御指摘を受けた。これによって、柳田の「生寅」は「幾寅」の誤記の可能性が高いことになる。]

五 茲に假に「後狩詞記」といふ名を以て世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、勿論第二期の狩に就ての話である。言はゞ白銀時代の記錄である。鐡砲といふ平民的飛道具を以て、平民的の獸卽ち猪を追掛ける話である。然るに此書物の價値が其爲に些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、其中に列記する猪狩の慣習が正に現實に當代に行はれて居ることである。自動車無線電信の文明と併行して、日本國の一地角に規則正しく發生する社會現象であるからである。「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是〈そんぜ〉」といふ書物の、農業生產之部第五表禽畜類といふ所に、猪肉一萬七千六百斤、其價格三千五百二十圓とあるのが立派な證據である。每年平均四五百頭づゝは此村で猪が捕られるので、此實際問題のある爲に、古來の慣習は今日尙貴重なる機能を有つて居る。私は此一篇の記事を最〈もつとも〉確實なるオーソリテイに據つて立證することが出來る。何となれば記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀨淳氏から口又は筆に依つて直接に傳へられたものである。中瀨氏は椎葉村大字下福良(〈シモ〉フクラ)小字嶽枝尾(タケノエダヲ)の昔の給主〈きふしゆ〉である。中世の名主職を持つて近世の名主職に從事して居る人である。此人には確に狩に對する遺傳的運命的嗜好がある。私は椎葉の山村を旅行した時に、五夜中瀨君と同宿して猪と鹿との話を聽いた。大字大河内の椎葉德藏氏の家に泊つた夜は、近頃此家に買得〈ばいとく〉した狩の傳書をも共に見た。東京へ歸つて後賴んで狩の話を書いて貰つた。歷史としては最〈もつとも〉新しく紀行としては最〈もつとも〉古めかしいこの一小册子は、私以外の世の中の人の爲にも、隨分風變りの珍書と言つてよからう。

[やぶちゃん注:「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是」この書物、未詳。識者の御教授を乞う。

「一萬七千六百斤」十トン五百六十キログラム。

「椎葉村大字下福良」ここ

「嶽枝尾」椎葉村大河内(おおかわうち)の、ここに嶽枝尾(たけのえだお)神社がある。

「給主」中世に於いて、幕府や主家から恩給としての所領を与えられた者。また、領主の命を受けて領地を支配した者。給人とも称した。江戸時代でも、幕府・大名から知行地或いはその格式を与えられた旗本・家臣などをも指した。

「買得」買い取ること。]

六 此序に少しく椎葉村の地理を言へば、阿蘇の火山から霧島の火山を見通した間が、九州では最深い山地であるが、中央の山脈は北では東の方〈かた〉豐後境へ曲り、南では西の方肥薩〈ひさつ〉の境へ曲つて居るから、空〈そら〉で想像すれば略〈ほぼ〉Sの字に似て居る。其Sの字の上の隅、阿蘇の外山(外輪山の外側)の緩傾斜は、巽〈たつみ〉の方へは八里餘、國境馬見原(マメワラ)の町に達して居る。其先には平和なる高山が聳〈そばだ〉つて、椎葉村は其山のあなた中央山脈の垣の内で、肥後の五箇莊〈ごかのしやう〉とも嶺を隔てゝ鄰である。肥後の四郡と日向の二郡とが此村に境を接し、日向を橫ぎる四〈よつ〉の大川は共に此村を水上として居る。村の大さは壹岐よりは遙に大きく隱岐よりは少し小さい。而も村中に三反とつゞいた平地は無く、千餘の人家は大抵山腹を切平げて各〈おのおの〉其敷地を構へて居る。大友島津の決戰で名を聞いた耳川の上流は村の中央を過ぎて居るが、此川も他の三川〈さんせん〉も共に如法の瀧津瀨であつて、舟はおろか筏さへも通らぬ。阿蘇から行くにも延岡、細島乃至は肥後の人吉から行くにも、四周の山道は凡て四千尺内外の峠である。

[やぶちゃん注:「馬見原」現在の熊本県上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)馬見原(まみはら)

「五箇莊」落人伝説で知られる隠田集落。この附近

「大友島津の決戰」天正六(一五七八)年、豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向国高城川原(宮崎県木城町のこの附近)を主戦場とした「耳川の戦い」。

「耳川」サイト「川の名前を調べる地図」のここ。現在は小丸川。]

七 比の如き山中に在つては、木を伐つても炭を燒いても大なる價を得ることが出來ぬ。茶は天然の產物であるし、椎蕈〈しひたけ〉には將來の見込があるけれども、主たる生業はやはり燒畑の農業である。九月に切つて四月に燒くのを秋藪〈あきやぶ〉と云ひ、七月に切込んで八月に燒くのを夏藪と云ふ。燒畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど、二年を過ぐれば士が流れて稗も蕎麥も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバと訓〈よ〉む。卽ち火田〈くわだ〉のことで常畠〈じやうばた〉熟畠の白田〈しろた〉と區別するのである。木場切の爲には山中の險阻に小屋を掛けて、蒔く時と苅る時と、少くも年に二度は此處に數日を暮さねばならぬ。僅な稗や豆の收穫の爲に立派な大木が白く立枯〈たちがれ〉になつて居〈ゐ〉る有樣は、平地の住民には極めて奇異の感を與へる。以前は機〈はた〉を織る者が少なかつた。常に國境の町に出でゝ古着を買つて着たのである。牛馬は共に百年此方〈このかた〉の輸入である。米も其前後より作ることを知つたが、唯〈ただ〉僅〈わづか〉の人々が樂しみに作るばかりで、一村半月の糧にも成り兼るのである。米は食はぬならそれでもよし、若し些〈いささか〉でも村の外の物が欲しければ、其換代〈かへしろ〉は必ず燒畑の產物である。家に遠い燒畑では引板〈ひきいた〉や鳴子〈なるこ〉は用を爲さぬ。分けても猪は燒畑の敵である。一夜此者に入込まれては二反三反の芋畑などはすぐに種迄も盡きてしまふ。之を防ぐ爲には髮の毛を焦して串に結付け畑のめぐりに插すのである。之をヤエジメと言つて居る。卽ち燒占〈やきしめ〉であつて、昔の標野(シメノ)、中世莊國の榜示〈ばうじ〉と其起原を同じくするものであらう。燒畑の土地は今も凡て共有である。又茅〈かや〉を折り連ねて垣のやうに畑の周圍に立てること、之をシヲリと言つて居る。栞も古語である。山に居れば斯くまでも今に遠いものであらうか。思ふに古今は直立する一〈ひとつ〉の棒では無くて、山地に向けて之を橫に寢かしたやうなのが我國のさまである。

[やぶちゃん注:「火田」「焼き畑」のこと。古くは朝鮮のそれを指した。

「引板」鳴子と同じような警鳴器。略縮して「ひた」とも呼ぶ。]

八 椎葉村は世間では奈須と云ふ方が通用する。例の肥後國誌などには常に日州奈須と云つて居る。村人は那須の與一が平家を五箇の山奧に追詰めて後、子孫を遺して去つた處だといふ。昔の地頭殿の家を始め千戶の七百は奈須氏であるが。今は凡て那須といふ字に書改めて居る。併しナスといふのは先住民の殘して置いた語で、かゝる山地を言現〈いひあら〉はすものであらう。野州の那須の外、たしか備後の山中にも那須といふ地名がある。椎葉と云ひ福良と云ふも今は其意味は分らぬけれども、九州其他の諸國に於て似たる地形に與へられたる共通の名稱である。奈須以外の名字には椎葉である黑木である甲斐である、松岡、尾前、中瀨、右田、山中、田原等である。就中〈なかんづく〉黑木と甲斐とは九州南部の名族で、阿蘇家の宿老甲斐氏の本據も村の北鄰[やぶちゃん注:底本は「部」の字の誤植を手書きで「鄰」に訂してある。]なる高千穗庄であつた。明治になつて在名の禁が解かれてから、村民は各緣故を辿つて、村の名家の名字の何れかを擇んだが、其以前には名字を書く家は約三の一で、これだけをサムラヒと稱して別の階級としてあつた。其餘は之を鎌サシといふ刀の代りに鎌を指す身分といふことであらう。昔の面影は此外にも殘つて居る。家々の内の者卽ち下人は女をメロウといひ男をばデエカンと云ふ。デエカン卽ち代官である。近代こそ御代官はよき身分であつたが、其昔は主人を助ける一切の被管〈ひかん〉は大小となくすべて、代官であつた。

[やぶちゃん注:「肥後國誌」明治一七(一八八四)年頃に成瀬久敬の「新編肥後国志草稿」(享保一三(一七二八)年成立)を水島貫之・佐々豊水らが編纂したものを指すものと思われる。

「備後の山中にも那須といふ地名がある」現在の広島県山県(やまがた)郡安芸太田町那須であろう。

「高千穗庄」椎葉村の北東の現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町

「被管」「被官」はこうも書く。]

九 次には猪を擊つ鐵砲のことである。村に傳へらるゝ寫本の記錄「椎葉山根元記」に依れば、奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫(西曆一五八七―一六一三)の幕下に屬して居つた時代に、椎葉の地頭へ三百梃の鐡砲が渡された。此時代は明治十年[やぶちゃん注:一八七七年。]の戰時[やぶちゃん注:西南戦争。]と共に、椎葉の歷史中最悲慘なる亂世であつた。十三人の地侍は徒黨して地頭の一族を攻殺〈せめころ〉した。此時の武器は凡て鐵砲であつた。元和年中[やぶちゃん注:一六一五年から一六二四年まで。江戸前期。]に平和が快復して後、此三百梃は乙名〈おとな〉[やぶちゃん注:長老を意味する一般名詞。]差圖を以て百姓用心の爲に夫々〈それぞれ〉相渡したとある。寬延二年[やぶちゃん注:一七四九年。]の書上を見ると、村中の御鐵砲四百三十六梃、一梃に付銀一匁の運上を納めて居る。今日ある鐵砲は必しも昔の火繩筒では無いやうだ。其數は寬延[やぶちゃん注:一七四八年から一七五一年まで。]度よりも增して居るや否や。運上の關係は如何〈いかに〉なつて居るかは凡て知らぬ。又如何なる方法で火藥を得て居るかといふことも知らぬ。併し鐵砲の上手は今日も決して少なく無いと考へられる。それは兎に角、椎葉の家の建て方は頗〈すこぶる〉面白い。新渡戶博士が家屋の發達に關する御說は、此村に於ては當らぬ點が多い。山腹を切平げた屋敷は、奧行を十分に取られぬから、家が極めて橫に長い。其後面は悉く壁であつて、前面は凡て二段の通り緣になつて居る。間〈ま〉の數は普通三つで、必ず中の間が正廳〈せいちやう〉である。三間ともに表から三分の一の處に中仕切があつて、貴賤の坐席を區別して居る。我々の語で言へば人側(イリカハ)である。正廳の眞中には奧へ長い爐があつて、客を引く作法は甚しくアイヌの小屋に似てをる。卽ち突當りの中央に壁に沿うて、床の間のやうな所があつて、武具其他重要なる家財が飾つてある。其前面の爐の側が家主の席であつて之を橫坐といふ。宇治拾遺の瘤取の話にも橫坐の鬼とあるのは主の鬼卽ち鬼の頭〈かしら〉のことであらう。橫坐から見て右は客坐と云ひ、左は家の者が出て客を款待(モテナ)す坐である。

 

Okarinokotobanoki

[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り。なお、非常に読み難いが、こちらにはここに奥付がある。左ページの右下方)の当該部からトリミングした。キャプションは、上から下へ、右から左へで、

   *

「廏」(=廐(うまや))

「障子又ハ雨戶」

「ウシロハ切崖」

「キヤクザ」

「エンガハ」

「シキダイ」

「トコ」(=床の間)

「カマト」(=竃(かまど))

「戶」(=勝手口)

「戶」(同前)

「泉又ハ筧」

   *]

 

遠來の客は多くの家の客坐に於て款待せられた。緣の外は僅の庭で其前面は全く打開〈うちひら〉けて居る。開けて居ると言つても狹い谿を隔てゝ對岸は凡て重なる山である。客坐の客は少し俯〈うつむ〉けばその山々の頂を見ることが出來る。何年前の大雪にあの山で猪を捕つた、あの谷川の川上で鹿に逢つたといふやうな話は、皆親しく其あたりを指さして語ることが出來るのである。之に付けて一つの閑話を想出すのは、武藏の玉川の上流棚澤の奧で字〈あざ〉峯といふ所に、峯の大盡本名を福島文長といふ狩の好きな人が居る。十年前の夏此家に行つて二晚とまり、羚羊〈かもしか〉の角でこしらへたパイプを貰つたことがある。東京から十六里の山奧でありながら、羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝は先づ神棚の天井を照す家であつた。此家の緣に腰を掛けて狩の話を聽いた。小丹波川の波頭の二丈ばかりの瀧が家の左に見えた。あの瀧の上の巖には大きな穴がある。其穴の口で此の熊(今は敷皮となつて居る)を擊つたときに。手袋の上から二所〈ふたどころ〉爪を立てられて此傷を受けた。此犬は血だらけになつて死ぬかと思つたと言つて、主人が犬の毛を分けて見せたれば、彼の背には縱橫に長い瘢痕があつた。あの犬にも十年逢はぬ。此の親切な椎葉の地侍たちにも段々疎遠になることであらう。懷かしいことだ。

[やぶちゃん注:「棚澤」現在の神奈川県厚木市棚沢附近であろう。

「宇治拾遺の瘤取の話」「宇治拾遺物語」の知られた瘤取り爺さんの話。「鬼ニ瘤被取事」(鬼に瘤取らるる事)。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、原文が読める。

「羚羊」獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ属カモシカ亜属ニホンカモシカ Capricornis crispus(日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県に分布)。私は槍ヶ岳から下る、徳本(とくごう)の手前で、夕刻、四、五メートル先の藪の中にいる♀と出逢ったのが、野生のそれとの邂逅の最初であった。]

十 椎葉山の狩の話を出版するに付ては、私は些も躊躇をしなかつた。此の慣習と作法とは山中のおほやけである。平地人が注意を拂はぬのと交通の少ない爲に世に知られぬだけで、我々は此智議を種に平和なる山民に害を加へさへせずば、發表しても少しも構はぬのである。之に反して「狩之卷」一卷は傳書である。祕事である。百年の前迄は天草下島の切支丹の如く、暗夜に子孫の耳へ私語〈ささや〉いて傳へたものである。若し此祕書の大部分が既に遵由〈じゆんいう〉の力を現世に失つて、椎葉人の所謂片病木(カタヤマギ)の如くであることを想像せぬならば、私はとても山神の威武を犯してかゝる大膽な決斷を敢てせぬ筈である。併し畏るゝには及ばぬ。狩之卷は最早歷史になつて居る。其證據には此文書には判讀の出來ぬ箇所が澤山ある。左側に――を引いた部分は、少なくも私には意味が分らぬ。それのみならず實の所私はまだ山の神とは如何なる神であるかを知らないのである。誰か讀者の中に之をよく說明して下さる人は無いか。道の敎〈をしへ〉は知るのが始〈はじめ〉であると聞く。もし十分に山の神の貴さを會得したならば。或は大に悔いて狩之卷を取除くことがあるかも知れぬ。其折には又狩言葉の記事の方には能〈かな〉ふ限〈かぎり〉多くの追加をして見たいと思ふ。

 

   明治四十二年二月一日 東京の市谷に於て

                  柳 田 國 男

[やぶちゃん注:「遵由」頼りにして従うこと。

「片病木(カタヤマギ)」以下の本文の「土地の名目」の「二三」に出る。そこに『カタヤマギ。片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ』とある。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 イツカワ貝 / マルアマオブネ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。本図を以ってこの見開きページは電子化注を終わる。]

 

Itukawagai

 

イツカワ貝

 

[やぶちゃん注:この和名は不詳だが、図の描き方が、本種の反対側の開口部が大きいものであることを示唆しており、これは、明らかに、

腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ上科アマオブネガイ科Neritidae

であろうと踏んだ。特に、殻表の色と、その螺状の細い筋線が密であるところから、同科の、

コシタカアマガイ属マルアマオブネ Nerita histrio

に比定したい。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 岩蠃(イワニシ) / アシヤガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Iwanisi

 

岩蠃【いわにし。】

 

[やぶちゃん注:螺層が急激に大きくなって開口部が有意に楕円状に広がっていること、螺層上の細い線状に放射状のアクセントがあるところから、

腹足綱直腹足亜綱古腹足上目ホウシュエビス上科Granata 属アシヤガイ Granata lyrata と同定していいように思う。朝鮮語のサイトであるが、同種のページの写真が、かなり梅園の図に似ている。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 子ジマ貝 / ウスモシオか?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Kojimagai

 

子ジマ貝

 

[やぶちゃん注:貝殻の一方の扁側が見られないが、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 狐貝 / モシオガイ・ウスモシオ?』に候補として挙げた、

斧足綱異歯亜綱モシオガイ科ニッポノクラサテラ属ウスモシオ Nipponocrassatella adamsi

の若い個体かも知れない。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鐙貝(アブミガイ) / ソデガイの一種か

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Abumigai

 

鐙貝(あぶみがい)

 

[やぶちゃん注:「鐙貝」の異名は残っていない(いい和名だと思うのだが)が、形状からは、もう少し一方の貝端(ここでは下方)が伸びていないとという不審あるが、

斧足綱原鰓亜綱クルミガイ目シワロウバイ超科シワロウバイ(ロウバイガイ)科Yoldia 属のソデガイ類の一種

であろうと思う。或いはこれ、貝表面の様態が梅園の絵心をそそらなかったため、貝殻の内側を描いたものかも知れない。種は、例えば、「鳥羽水族館」公式サイト内の「ギャラリー」の「キヌタレガイ、クルミガイの仲間」を見られたい。下方に写真附きで同属六種が載る。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 三十六町一里幷一里塚權輿事

 

[やぶちゃん注:本篇は、今までの底本「新燕石十種第四」では、ここからであるが、「曲亭雜記」の巻第五のここからにも載り、そちらではルビが振られてあることから、後者を参考に、必要と考えた読みを丸括弧で挿入した。表記も両者はかなり細部が違うが、私が読み易いと判断したものを、孰れと限らずに採ったので(読みの一部を外に出したりもした)、特殊な本文電子化となっていることをお断りしておく。また、数字が出てだらだらと続けて書かれていて、非常に読み難いので、勝手に改行を入れて、段落を成形し、そこに注を挟んだ。なお、標題の最後の「権輿」は「けんよ」で、「権」は「秤(はかり)の錘(おもり)」、「輿」は「車の底の部分」の意で、孰れも最初に作る部分であるところから、「物事の始まり・事の起こり・発端」の意。]

 

   ○三十六町を一里とせるはじまり幷一里塚の事

 解、按ずるに、「拾芥抄」【中末。】、「田籍部」に、

卅六町一里。此六里ㇾ條。條ㇾ從ㇾ北行於南【限トス卅六條。】。里ㇾ西於東【限トス卅六里。】。町ㇾ艮(ウシトラ)ニㇾ乾(イヌヰ)ニ【但し、已上可ㇾ隨國例。】

と、しるされたれど、三十六町をもて一里と定められし事は、いづれのおん時に、はじまりしにや、詳(つまびらか)ならず。

[やぶちゃん注:訓読しておく。

   *

三十六町を一里と爲(な)す。此れ、六里を條(じやう)と爲す。條は、北より起ちて、南に行く【三十六條を限りとす。】。里は、西に起きて、東に行く【三十六里限りとす。】。町(ちやう)は艮(うしとら)に始めて、乾(いぬゐ)に終はる【但し、已上は國例に隨ふべし。】

   *

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は南北朝に成立した類書。「拾芥略要抄」とも呼ぶ。鎌倉時代には原形が出来ていたものを、洞院公賢(きんかた)撰で、その玄孫の実熙(さねひろ)が増補したとされる。歳時・文学・風俗・諸芸・官位・典礼など九十九部に分け、漢文で簡略に記述。全三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長の版本のここが当該部。

「三十六町」一町は百九メートルで、三・九二七キロメートル。]

 舊き說に、いにしへ、六町を一里とせられしよしは、地六(ちろく)の數(すう)に隨はれしなり。そのゝち、三十六町を一里とせられしは、是と六六三十六、則ち、地の三十六禽(きん)によられるなりともいひ、或は鯉の鱗(うろこ)三十六の義によりて、里數を三十六里に定められしなりなどいへれども、何れも臆說にて、出處、定かならぬことなり。さばれ、その理なきにしもあらねば、姑(しばら)く、一說に備(そな)ふべし。但し、鯉の鱗の如きは鑿說(さくせつ)なり。

[やぶちゃん注:「地六」骰子(さいころ)を「一天地六」(いってんちろく)と呼び、その各面が天・地・東・西・南・北を象徴しているとされることから、天が「一」に対して、「六」が地を代表し、以下、その全方向として、「五」が東、「二」が西、「三」が南、「四」が北とされるところからの地の名数。

「地の三十六禽」一昼夜十二時の各時に一獣を配し、そのそれぞれの獣に、また、二つの属獣がついた計三十六の鳥獣。五行ではそれを卜(ぼく)に用い、仏家では、それぞれの時に現れて坐禅の行者を悩ますとされる。三十六獣。諸家で動物名は異なる。例えば、「画題Wiki」のここや、個人ブログ『「だい将棋」の謎』のここに三十六種のリストが出る。

「鯉の鱗三十六」平凡社「世界大百科事典」のコイ(鯉)の記載に、普通のコイは側線上の有孔鱗数が三十二から三十九枚ほどで、昔は鯉に「ロクロクリン」(六六鱗)という別名があったのは、側線鱗数の中間数の三十六枚の個体が多く見られたことによるとあった。「鑿說」「さくせつ」。内容が乏しく、真実性の薄い説。「鑿空」(さっくう)。]

 東涯先生の「制度通」に云、『公式令、凡、行程馬七十里、步は五十里、車三十里。本朝古へは中國の法にて、一里の中に小名を立て、何里何町と云こと、見えず。「拾芥抄」に、三十六町か二里とすとあるは、田地の積りにて、方一町の田を三十六、並べたるを云へり。今、路程の長さ、三十六町を一里とするものは、此等より轉じたるものなるべし。本朝に「里」と云ふに、三樣あり。戶令に、五十戶二一里一と云は、土地、廣狹によらず、家數を以て、一在所を立るの名なり。雜令に、三百步一里と云は、路程の法なり【三百步は規矩尺六尺を一步として、今の六尺か二間とすると同じく、一步は一間にて、今の五町なり。是、古への一里なり。○解云、上古の尺は、つまりたり。今の五町は、古の六町と同じかるべし。】。又、云、『今いふ三十六町を一里とし、五十町を一里とする事は、何れの頃よりと云ことを詳にせず。』と、いへり【以上、見「制度通」。又可ㇾ參「秉燭譚」。】

[やぶちゃん注:「東涯先生」伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇~元文元(一七三六)年)は古義学派の儒者。仁斎の長男。父の説を継承・発展させ、また、考証に長じて、現代でも有益な語学や以下のような制度関係の著書を残している。堀川の家塾で門弟を教授した。

「制度通」中国の制度の変遷と、中国と日本の制度の関係について述べた書。全十三巻。享保九(一七二四)年の自序があるが、実際の刊行は没してより七十年も後の寛政九 (一七九七) 年。日本の制度については、王朝以降には論及していないが、記述は実証的で正確(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。馬琴の引用は国立国会図書館デジタルコレクションの大正元(一九一二)年金港堂書籍刊の「三六、行程里數ノ事」のここで、前後を入れ替えている。

「秉燭譚」同じく東涯の考証随筆。]

 三十町二里の事は、紀原、詳かならず。先哲も、をさをさ「拾芥抄」によれるのみなり。又、今の一里塚のはじまりは、「信長記(しんちやうき)」に、天文九年冬、將軍家にて、諸國へ仰せ有て、四十町を二里とし、里堠(いちりづか)の上に、松と榎(えのき)を植ゑらると、いへり。又「蒼梧隨筆」には、天正年間の頃、織田信長公の下知に依て、一里を三十六町に定めて、其表示に榎を栽させ、旅人休泊の事を易からしめ給ふと、いへり。又、云、一里塚に榎木を栽しは、其頃の奉行のもの、「一里塚には松・杉を栽べきか。」と云ひしに、信長公の命に、「松杉は並木に等し、餘の木を栽よ。」と、の玉ひしを、餘の木を榎の木と聞誤りしといへども、密に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]考るに、榎と槐と、其木、相似て、槐は少にして、榎は多きもの故に、得るに易く、尤、松・杉と異にして、蔭をなして、大木となるを以て、槐に代て、榎を栽しなるべし。「事文類聚」を考るに、韋孝寬、雍州の刺史と爲て、道の側に一里每に一土堠[やぶちゃん注:「いちどこう」。]を築しに、雨にて、其土堆、度々、損順するに因て、又、勘辨して、土堠の處に槐木を植しむ。然して、損頽なきのみに非ず、旅行の人、庇蔭を得て、休息するに便りありとて、韋孝寬が德を仰ぎしとなり。周文、これを可として、「壹、雍州のみならんや。」とて、普く天下に令して、一里に一木、十里に二木、百里に五木を植させしと有り【按ずるに、一里一木とあるは、一里塚の事なり。十里に二木、百里に五木とあるは、是、旅行の人の息む爲の事にして、槐木を栽て、庇蔭を設けしめし、今の世に、茶屋・建場といふ類の如くなるべし。○解云、一里每には一木を栽へ、其より、第十里目には二木、第百里目に五木と、其木を倍して、里數の句ぎり句ぎりを知らせしなり。五里に一舍、十里に一亭の定とは、異なるべし。】。魏の文帝は、一里每に、一銅表を置く。高さ五尺にして、里數を記せしとあり【已上、摘要。】。解云、魏文の一條は、天朝の多賀城の類(たぐひ)なるべければ、今の一里塚とは、おなじからぬなるべし。【韋孝寬が事は、「北史」に見えたり。】。

[やぶちゃん注:「信長記」安土桃山から江戸初期にかけての儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜ ほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)が、書いた織田信長の一代記。但し、彼の書いた本書や「太閤記」は、また、彼らの複数の伝記類の総称であり、同名の著作は複数ある。その中でも小瀬のそれは最も著名なものである。

「天文九年」一五四〇年。

「將軍家」足利義昭。

「蒼梧隨筆」江戸中期の有職故実家。大塚蒼梧の随筆。寛政一二(一八〇〇)年刊。

「天正年間の頃」一五七三年から一五九二年であるが、信長は天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)に自死しているから、その閉区間。

「槐」「えんじゆ」。マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。日本へは早く八世紀には渡来していたとみられ、現在の和名は古名の「えにす」が転化したもの。

「事文類聚」宋の祝穆(しゅくぼく)の編になる類書。全一七〇巻。一二四六年成立。「芸文類聚」の体裁に倣って古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新追加し、総計二百三十六巻に膨れ上がった。

「韋孝寬」(い こうかん 五〇九年~五八〇年)南北朝の北魏・西魏・北周の軍事の名将で尚書令。彼が雍州刺史となったのは彼の中文ウィキによれば、西魏の五五三年。

「魏の文帝」(一八七年〜二二六年)は三国時代の魏の初代皇帝曹丕(在位二二〇年~二二六年)。曹操の子。父の死後、漢の献帝の禅譲を受けて皇帝となり、漢の制度を改革し、九品官人法を施行した。弟の曹植とともに文学を好み、多くの詩文を残した。

「多賀城の類」「壺の碑」のこと。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑』の私の注を参照。]

 

 又、按ずるに、「信長記」に四十町を一里とせられしと云ふは、今の世も伊勢路は四十町、四十八町を一里とす。かゝれば、當時(そのかみ)の四十町一里は、伊勢・尾張の里數によられしものか。當時(そのとき)といへども、諸國、大かたは、三十六町一里にして、或は、五十町・六十町・七十町を一里とせし處も、ありけん。今も猶ほ、しかなり【今の世も仙臺は六町一里也。これを「こみち」といふ。又、三十六里もてするを「大みち」といふ。山陽道は、五十町・七十二町を一里とすと云。】。

[やぶちゃん注:「こみち」古い特殊な路程単位である「坂東里」「坂東道(ばんどうみち)」に同じ。「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称した。安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるが、この坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺(例えば唐代の一里は僅か五百五十九・八メートルである)に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、実は、江戸時代でも、江戸でこの単位をよく用いた。江戸期の諸本で、旅程などが異様に長いと感じたものは、この「坂東道」で換算すると、しっくりくるので、記憶しおかれるとよい。例えば、坂東里の「百里」は六十五・四キロメートルにしかならないのである。]

 この他、「續日本紀」に、限伊勢大神宮之界(タ)ツㇾ標としるされ、又、近世の制度(さだめ)には、一書に「奠陰(てんいん)」・「逸史(いつし)」を引て、慶長九年二月。下シテ東海東山北陸三道。是里置ㇾ堠。既ニ乄而西南亦皆依ルト其法云々と見えたるは、今の並樹の事にして、まさしく一里塚の事とも聞えず。「續紀」に見えたるは、道里遠近の碑を建られしにて、亦、是、多賀城の碑の類なるべし。

[やぶちゃん注:「奠陰」「逸史」孰れも江戸中期の大坂の儒学者中井竹山((一七三〇)年〜(一八〇四)年:朱子学者で荻生徂徠の「論語徴」を批判する「非徴」を書いたが、その朱子学は林家の学風とも闇斎の学風とも異なる、独自の自由なものであった)の著書。

「慶長九年」一六〇四年。開幕の翌年。]

 又、「一休和尙の連歌の發句なり。」とて、

 門松は冥土の旅の一里塚

といふを、人口に膾炙したり。これによれば一里塚は、天文・天正以前、はやく諸國にありしやうに思ふものもあるべけれど、この句、必しも、一休なりとは定めがたく、いと疑しきものながら、「人生、逆旅に似たり。」といふ、唐人の句を飜案して、「無常迅速」の意を示せしは、おもしろし【一休は、文明十三年十一月に遷化なり。かゝれば、一里塚を置れしといふ、天文九年より遡に數ば、六十年許上に在り。】。

[やぶちゃん注:「一休和尙の連歌の發句なり」これは、

 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

として彼の狂歌ともされ、ネット上では、一休宗純の漢詩集「狂雲集」の一句に拠るとか、彼の作と、まことしやかに書いてあるサイトをあったが、これは恐らく、江戸時代に盛んに創作された〈一休話〉の中で形成された偽作である。

『「人生、逆旅に似たり。」といふ、唐人の句』蘇軾の詞「臨江仙送錢穆父」(臨江仙、錢穆父(せんぼくほ)を送る:一〇九一年作)の一節、

   *

 人生如逆旅

 我亦是行人

 (人生 逆旅のごとし

  我れも亦 是れ 行人)

   *

全篇は壺齋散人氏のサイト「漢詩と中国文化」の「臨江仙‧送錢穆父 :蘇軾を読む」がよい。言わずもがな、芭蕉の「奥の細道」冒頭の原拠である、李白の「春夜宴桃李園序」(春夜桃李の園に宴するの序)」の冒頭「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客」(夫(そ)れ、天地は萬物の逆旅にして、光陰は百代の過客(くわかく)なり)のインスパイア。「奥の細道」冒頭原文は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉』を参照されたい。]

2022/05/08

譚海 卷之五 信州深山の民薪をこり事

 

○信州にては、窮僻(きゆうへき)の高山に登りて常に薪を取(とる)也。登る時は蔦(つた)かづらにすがり、岩角などをふみてやうやうに登り、思ふまゝに薪を取、かずかずにつかねて、山よりなげおとして、一日の内に夥敷(おびただしき)薪を取事也。扨(さて)下らんとする時は、道なきけはしき山をも、薪の束(つか)ねたるを五六把(ぱ)腰にゆはへ付(つけ)て、夫(それ)に乘(のり)て絶壁をすべりて下(くだ)るといふ、和歌に柴車とよめるも此類(たぐひ)なるべし。

[やぶちゃん注:「窮僻」極めて辺鄙な場所。

「柴車」「しばぐるま」。柴を丸く束ねておいて、それを山の上から転がし落とすこと及びそのものを言う。ここに言うように、歌語として知れる。例えば、「堀河百首」(堀河百首(長治二(一一〇五)年か翌年頃)の「雜」の大江匡房(まさふさ)の、

 柴車落ち來るほどにあしひきの山の高さを空に知るかな

や、同じ折りの修理大夫顕季の、

 峯高きこしのを山にいる人は柴車にてかへるなりけり

或いは、「梁塵秘抄」の巻第二「雜 八十六首」の三七四番の以下などがある。

   *

 すぐれて速きもの

 鷂(はいたか) 隼(はやぶさ) 手なる鷹

 瀧の水 山より落ち來る柴車(しばぐるま)

 三所(さんしよ) 五所に申すこと

   *

「鷂」は私のこちら、「隼」はこちらを参照。最終行は熊野三所権現と熊野五所王子への祝詞(のりと)の意。]

譚海 卷之五 同國猿の事

 

○四國の猿は、飼(かひ)なして舞踏ををしふるに、よく曲節(きよくふし)にあたりて、觀物(みせもの)に供するに足る。他邦の猿はかく在(ある)事なし。四國にてもかしこき猿ならでは、敎(をしへ)を立(た)つる事成難(なりがた)し。山中の民此猿を生(いけ)どるには、戶棚を拵(こしら)へ、戶の内にくろゝを仕付(しつけ)、戶をたつれば内にてくろゝ下(さが)るやうにせしを山中へ持行(もちゆき)、戶棚の内に食物(くひもの)を置(おき)て、猿のあつまり來たるとき、先(まづ)その人戶棚の内へ入(いり)て戶をさしあけて出で、又入て戶をさし、此體(このてい)をあまたたび猿に見せ置(おき)て、其後かくれて伺ひをれば、猿ども此食物をくらはんとして、戶棚に入て生(いけ)どらるゝ也。但(ただし)愚(おろか)なる猿は、戶棚の内に入て物くふばかりにて、やがてにげ行(ゆく)ゆゑ生どらるゝ事なし。かしこき猿は戶棚に入て、跡より友猿(ともざる)の來らん事をはかりて、戶をたてて物くふ故、くろゝ下りて出る事あたはず、生どりにせらるゝと云。

[やぶちゃん注:「同國」前話を受ける。

「くろゝ」「くるる」の音変化であるが、「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部(左丁六行目)を見たところ、はっきりと「くるゝ」(「類」の草書体「る」)となっていることが確認出来た。「枢」で、戸締まりのために戸の桟から敷居に差し込む止め木及びその仕掛けを指す。]

譚海 卷之五 土州夏月潮いきれ幷豆州南海黑汐の事

 

○土佐國は極南の地ゆゑ、夏月殊に凌(しのぎ)がたし。酷暑の比(ころ)は時々盬いきれといふ事有。一日海上風絕(たつ)て波のたゝぬ日は、黃昏(たそがれ)より何となく心わるく、諸人屋内に往する事叶はず、庭中或は往還の道路にいでて、むしろ或は床几(しやうぎ)などをもうけて露席(ろせき)し、食事起臥をする事とぞ。裸體に成(なり)ても堪(たへ)がたく、眠(ねむり)に就(つい)てもまどろまれず、茫然として夜(よ)をあかす。やうやう夜半曉(あかつき)ちかく成(なり)て、身體も冷敷(すずしく)心よき事にて、始めて屋内に入(いり)て寢に就(つく)事也。是は絡日炎天に照されたる潮の氣醒(さめ)ずして、一國に𣎰[やぶちゃん注:底本では右に『(熏)』と編者傍注がある。](くん)じみち、其氣に蒸(む)るゝ故(ゆゑ)堪がたく暑き也。夜半より炎氣やうやうさめゆけば、涼しくなる事といへり。江戶にても鐵炮洲(てつぱうず)の邊は、暑月は時々かやうなる事あり。但(ただし)是は黃昏よりある事にはあらず、夜分七つ比(ごろ)より明かたまで、あつく苦しくして、家々門戶を明(あけ)とほし起居(おきを)る。一時(いつとき)ばかり過(すぐ)れば、涼氣を催し、明方よりまどろむ事といへり。是も盬いきれのわざなるべし。又伊豆の南海中に、秋夏の交(かはり)は黑汐といふものあり、陸より一里斗りを隔てし波の上に、黑く凝(こり)て流るゝやうに見ゆ、是も炎氣にむされて、鹽のこりかたまりたるがなす所也。渡海の舟人惧(おそれ)て是を避(さく)る也。もし此黑汐にあへば船をくつがへさる、また左(さ)なくても、人々病氣をうくるといへり。

[やぶちゃん注:「潮いきれ」この呼称は、少なくとも現在は生き残っていないようである。

「鐵炮洲」東京都中央区東部の地名。現在の湊町・明石町に相当する。地名は徳川家康の入府当時、鉄砲の形をした洲の島であったこと、また、寛永(一六二四年~一六四四年)の頃、この洲で鉄砲の試射をしたことによるとも言う。鉄砲洲稲荷などに名称が残る。隅田川西岸にあり、江戸時代は港として栄えた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「七つ」午前四時前後。]

甲子夜話卷之七 7 有德廟信濃國へ人參御植つけ、且生育の事

7ー7

秋山元瑞と云る醫者の【龍野侯の臣】話なりとて、或人より聞しは、德廟、朝鮮國の寒氣は吾邦の信州と均しと御考ありて、信州に人參を植させ給ふに、其生產、氣味、朝鮮に異らず。因屢々人をして視せられし故、土人これを厭ひて、密に彼草に湯を濯ぎ、土不ㇾ協など申上しより、竟其こと廢せしと云。萬民の爲を思召ての御仁心をはゞみし者ども、誅してもあまりある罪人とこそ云べき。又元瑞の門生、信州に歸住せし者の話しと聞しは、今も其種の遺りしものあるに、土地に應じて生育宜しとなり。彌可レ恨【元瑞は太宰純に學びたる者なりとぞ】。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」徳川吉宗。

「秋山元瑞」播磨国龍野藩藩医。彼が仕えたのは第八代藩主で寺社奉行・老中であった脇坂安董(やすただ:藩主在位:天明四(一七八四)年~天保一二(一八四一)年:老中在任中に急死)。

「均し」「ひとし」。

「因」「よつて」。

「密に」「ひそかに」。

「土不ㇾ協」「土、協(あ)はず」。

「竟」「つひに」。

「彌」「いよいよ」。

「太宰純」大儒太宰春台(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の本名。

甲子夜話卷之七 6 宗左が水甁の銘の事

7-6

千宗左召に因て江都に出るの間、紀邸の長屋に寓し、茶器を求て客中の用に當たるが、皆麤惡を極たり。就ㇾ中水さしの水を度々かゆるは煩しとて、僕に命じて大なる水甁を錢三百文に買て、これを爐邊に置て用ひたり。其甁に不性者と銘題しけり。暇を賜り發足するに及で、門人所ㇾ置の茶器を乞需む。宗左これに應て配分せり。門人輩謝儀として方金一二三思々に贈る。時に宗左僕に謂て曰。嚮に汝が買來れる大甁三百匹に所望せられたれば、其金は汝に與ふと言ふ。僕拜受して退かんとす。宗左が曰。待べし。かの甁は我もと三百文を出せし者なり。三百文は返すべしと云て、其中錢三百文を取り、殘りの金は皆其僕に與しとなり。

■やぶちゃんの呟き

「千宗左」先般、既出既注

「麤惡」「そあく」。「粗悪」に同じ。

「水甁」「すいびやう」と読んでおく。

「乞需む」「こひもとむ」。

「應て」「こたへて」。

「思々に」「おもひおもひに」。

「嚮に」「さきに」。

甲子夜話卷之七 4 林子の常に從事する所を問事 / 5 前人寓意の事

 

4―4

林蕉軒に常に志して從事する所を問ものあり。答云。文武、和漢、古今、雅俗。この今と俗と云ところ、深く咀嚼すべし。又娛樂する所を問へば、答云。風月、山水、詩歌、管絃。

■やぶちゃんの呟き

「林蕉軒」お馴染みの林述斎。

 

4-5

前人一時寓意の聯あり。

   醜石雜花、此レハ家之大弓寶玉

   素弦又淸管、或以謂老子之醇酒婦人

これは「蕉軒集」外の文なれば錄す。

■やぶちゃんの呟き

 訓読しておく。

   *

醜石(しうせき)と雜花(ざつくわ)と、此れは、是れ、我が家の大弓(だいきゆう)・寶玉と爲(な)す。

素弦(そげん)、又、淸管、或いは、以つて、老子の醇酒(じゆうしゆ)・婦人と謂へり。

   *

「聯」はここでは「対句」の意。

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 帶披考【追記・信天緣】

 

[やぶちゃん注:本篇の本説「帶披考(おびかけかう)」は、今までの底本「新燕石十種第四」では、ここからであるが、「曲亭雜記」の巻第一下のここからにも載り、そちらではルビが振られてあることから、後者を参考に、必要と考えた読みを丸括弧で挿入した。表記も両者はかなり細部が違うが、私が読み易いと判断したものを、孰れと限らずに採ったので(読みの一部を外に出したりもした)、特殊な本文電子化となっていることをお断りしておく。なお、追記記事の「信天緣(あはうどり)」は後者には載らない。因みに、『アホウドリは「信天翁」だろ?』という御仁のために、ここでは――まあ、お待ちなせえ、そこのおいらの注を読んで下せえ――とのみ言っておこう。]

 

   ○帶披考【佐渡にては「帶平(おびひら)」と云、越後にては「帶挾(おびはさみ)」と云。】」

「佐渡事略」【下卷。】云、『賤女(しづのめ)のさまは、山里にては三十三歲まで眉をそらず。いづれも白粉(おしろい)、紅脂(べに)をほどこさず、髮を、結はず。只、押し上げて、まげ置き、櫛・弄(かうがい)等の具(ぐ)、なし。「帶平」といふ物を、多くは帶にはさむ』云々。この「帶ひら」といふものを、こゝろ得がたく思ひしかば、文化のはじめ、佐渡相川の人石井靜藏(せいざう)、出府の時にたづねしに、曰く、『「帶ひら」は茜染(あかねぞめ)の木綿(もめん)を、二、三尺にきりて、これを竪に三に折り、女の帶へはさみ候。何の故といふことを、しらず。「昔、順德院、當國に遷(うつ)され給ひし頃よりの事。」などゝいふもの、あれども、慥(たしか)ならず。これも、近來(ちかどろ)は至つて稀になり候故、「帶ひら」をかくる女は、相川などにては、見かけ候はず。山里の賤の女の、さきくさのドウネを着て、繩を帶にしたる類ひは、前のあらはれぬ料(れう)までに、ひらきて、はさむものならん。』といへり。

[やぶちゃん注:「帶披(おびかけ)」小学館「日本国語大辞典」では、『近世、大名の奥女中などが使った帯留の一種。帯挟み。帯平。』とある。

「佐渡事略」佐渡奉行石野平蔵廣広通(ひろみち 天明元(一七八一)年~天明六年まで在勤)が、天明二年に著わした佐渡地誌と見聞記。上・下・別録で全三巻。上巻では佐渡の大概を記し、下巻は佐渡に於見聞を記し、別録は金山・銀山のことを記している。当時の佐渡の国勢・気象・物産・風俗・鉱山の様子が知られるもの。「日本古典籍ビューア」の写本のここの左丁七行目以下。

「文化のはじめ」文化元年は一八〇四年で、文化十五年まで。

「石井靜藏」石井夏海(なつみ 天明三(一七八三)年~嘉永元(一八四八)年)は佐渡国雑太(さわた)郡相川生まれ。幼名は秀次郎、後に静蔵。別号、安瀾堂。江戸に出て、画を紀南嶺・谷文晁に、学問を大田南畝に、天文・地理・測量術・西洋画法を司馬江漢に学んだ。文政一二(一八二九)年、地方御役所絵師となった。曲亭馬琴・式亭三馬・酒井抱一らと親交があった。佐渡の歴史や伝承を題材にした戯作「小万畠双生種蒔」の稿本が残り、狂歌も詠んだ(サイト「UAG美術家研究所」の「佐渡奉行所の絵図師をつとめた石井夏海・文海父子」に拠った。彼の絵の画像も有り)。

「順德院」後鳥羽天皇の第三皇子で二代後の順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)。「承久の乱」で佐渡へ配流され、そこで没した(自死とも)。

「さきくさ」「三枝」でミツマタの上代語。

「ドウネ」不詳。「ドウ」は「胴」か。]

 

Zakkiobikake

 

Ensekiobikake

 

[やぶちゃん注:孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。全然違うタッチなので、二本の参考底本の図をともに示した。前の方が「曲亭雜記」のそれで(左下に絵師の署名(二字目は「陵」か)・落款有り)、後が「新燕石十種」のもの。以下も同様である。]

 

越後鹽澤の鈴木牧之(ぼくし)【鹽澤の宿長。】云、『越後にて寺泊など、佐渡の方(かた)によりたる田舍の婦人は、祭見物(まつりけんぶつ)、或は、晴(はれ)なる時に出(で)あるきするには、「帶はさみ」をいたし候。此「帶はさみ」といふものは、紅染(こうぞめ)の布の二尺あまりなるを三に折りて、前にて、少し、脇へせて、はさみ候よし、只今、いかゞ候や、當所にても、關六日町(はさむいかまち)などの、舊家の婦人の晴なるときは、「帶はさみ」をしたるよし、承り及び候ひき。』と、いへり【今は、その事、絕たるなるべし。】。

[やぶちゃん注:「鈴木牧之」(明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)は現在の新潟県魚沼市塩沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の豪商で随筆家。私の偏愛する北国の民俗学的随筆「北越雪譜」の作者として、とみに知られる(天保八(一八三七)年、初版三巻を刊し、天保十二年には四巻を追加)。

「關」塩沢の南方の現在の新潟県南魚沼市関か。

「六日町」塩沢の直近。]

 

Zakkiuhamo

 

Ensekiuhamo

 

[やぶちゃん注:キャプションがある。

   *

「襅(ウハモ)」

小ヒダ有とも云ヘり、未ㇾ詳。紐の左右の玉を、うしろヘめぐらして、帶に、はさむなり。長は、膝を不ㇾ過といへば、布一幅をもて、つくりしならん。

   *

「帶カケ」

佐渡・越後にては、「ひもをつけず」といふ。今はたゝみて、帶に、はさむゆゑなり。

   *

後者の「新燕石十種」の「帶カケ」に相当する「佐渡越後にては……」の「帯かけ」の図の中にサイズが記されてあり、縦が、

五寸斗(ばかり)

横が、

二尺余

とある。]

 

この兩說によりて按ずるに、彼(か)の「帶ひら」「帶はさみ」は、襅(ひつ)の遺製(ゐせい)なるべし。襅は往々國史に見えて、和名ウハモなり【「和名抄」には、なし。】。襅は字書に見えず。按ずるに、「韠」の「韋」を「衣」に易(かへ)たるなり。「韠」は「說文」云「韍」也。「正字通」、「韍」字の註に云、『韍布※芾紱、同トモニ蔽滕ㇾ也。韍又云、韠補密切所(ユヱン)一ㇾ。以ㇾ韋爲ㇾ之。禮玉藻』云々。

天朝の製、これに倣(なら)へり。但し、韋(かは)をもて作らず。代へるに、布をもてせり。是れ、その字、改めて、「衣」に從ふゆゑんなり。[やぶちゃん注:「※」=「㡀」+(「拔」―「扌」)。]

[やぶちゃん注:「襅」男は袴の上、女は下裳(したも)の上に着る裳。男は推古朝まで用いたが、女はさらに続けて用い平安時代に入ると上裳・下裳の別は無くなった。「しびら」「うわみ」とも呼ぶ(「日本国語大辞典」に拠る)。

『「韠」は「說文」云……』訓読を試みる。

   *

「韠(ひつ)」は「說文(せつもん)」に云はく、「韍(ふつ)」なり。「正字通」の、「韍」の字の註に云はく、『「韍」は布(ふ)・※[やぶちゃん注:読み・意味ともに不詳。読みは音「へい」か。]・芾(ひ)・紱(ふつ)、同(とも)に、蔽(おほ)ふなるを滕ふ[やぶちゃん注:読み・意味ともに不詳。音なら「とう」で、訓なら「湧く」「湧き上がる」だが、意味が通じない。]。「韍」の註に、又、云はく、『韠は「補」と「密」の切(せつ)。「前を蔽ふ」の所以(ゆゑん)たり。「韋」を以つて之れと爲(な)す。禮玉藻(れいぎよくさう)』云々。

   *

「芾」は儀式の際の膝掛け。「紱」は紐。その他、全くお手上げ。]

韠は、いにしへ、婢妾賤婦の儔(ともがら)、凡そ、袴を着るに及ばざりし女子(じよし)の、前にかくるものなり。その長さ、膝をすぎず、といふ。これ、いにしへは、婦人の帶、甚だ細し。故に、步行のとき、前のひらくを覆(おほ)ふが爲(ため)なり。

襅(ひつ)ウハモと名づけしは、裳(も)のひらくを、覆ふ具なればなり。後世、戰國爭擾(さうゆう)の世となりし程は、襅(うはも)の名をだに、しらぬもの、多かりけん。さりけれども、京師にては、はかなき遊(あそび)女のたぐひまで、前のひらくを厭(いと)ふが爲に、「帶かけ」といふものをしたらんと思ふよしは、古畫に、その圖の遺(のこ)れるがあれば也【古畫の婦人の「帶かけ」をしたるを、予は享和中、京師にて見たり。かくて、こたび、又、見つるのみ。この前後には絕て見ぬなり。】。

[やぶちゃん注:「享和」文化の前。一八〇一年から一八〇四年まで。]

されば流れての世の風俗なれば、襅(うはも)の製の、やうやく、變じて、只、色々の染絹などもて、今の「ゆまき」を、只、一幅(ひとはゞ)にしたるやうなるを、一重(ひとへ)、腰に繞(めぐ)らして、脇にて、結びとめたる也。そは天正前後の古畫に、その圖の遺るもの、則ち、是れ也。當時も、猶、婦人の帶は、究めて細かり。その畫圖(ゑづ)の帶に似たるは、則ち、これ、「帶かけ」にて、まことの帶は、隱(かく)るゝ故に、畫がゝず。こゝをもて、その「帶かけ」は、なかなかに、帶の如くに見ゆれども、その帶の結びめは、さらなり、端(はし)をだにゑがゝぬにて、「帶かけ」なる事、あきらかなり。かくて、百四、五十年以來(このかた)、婦人の帶の幅、年々(としどし)に廣くなりて、近來(ちかごろ)に至りては、昔の「帶かけ」の幅よりも、猶、廣きもの、多かり。この故に、「帶かけ」、變じて、「前垂(まへだれ)」になりたる也。

[やぶちゃん注:「ゆまき」「湯卷」。江戸中期までは、「入浴の際に腰に巻いた布」を本来は指した。宝永(一七〇四年~一七一一年)頃まで、男女ともに裸で入浴することはなく、布を腰に巻いて入った。湯文字 (ゆもじ) 。但し、ここは、所謂、女性の「腰巻き」のことであろう。「蹴出(けだ) し」「二幅(ふたの)」「いまき」などとも言った。

「天正」安土桃山時代の一五七三年から一五九二年まで。]

故老云、『むかし、江戶にては、小袖に、「袖口(そでくち)」といふものをかくることはなかりしに、東福門院樣御下向のとき、供奉の女中方の小袖に、袖口をかけたるを見て、江戶にても、袖口をかくることに、なりたり。又、「前垂」といふものも、江戶にてはせざりしに、是れは、京の茶屋女の風俗を、見および、聞きおよびて、遂に「前垂」をかくるやうになりたり。』と、いへり【今、市店の男女の前垂をかくるは、膝をよごさじ、との爲めなれば、いにしへの襅とは、その用心、異にして、いよいよ鄙俗になりしなり。】。

[やぶちゃん注:「東福門院」(慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年)は江戸幕府二代将軍徳川秀忠と御台所達子(浅井長政三女)の末娘で、後水尾天皇の中宮。

 以下の一段落は二書ともに全体が一字下げである。]

解、按ずるに、「日本紀略」に、藤原保昌(やすまさ)が弟保輔が事、見えて、渠(かれ)を「袴垂(はかまだれ)」と異名(いみやう)したるは、世の人、しれり。この「袴垂」は襅(うはも)の事なるべし。保輔は無類の癖者(くせもの)にて、遂に盜賊となりたりし。その人となりを推(お)すときは、渠、その禮服、威儀を斁(いと)ふにより、襅を袴に代へたるにやあらん。こゝをもて、「袴垂」と呼ばれしものか。「襅には小積(こひだ)あり」としもいへば、「袴に似て、垂(たれ)たり」といふ義ならんと思ふかし。譬へば、今も襅に似たるものを「前かけ」と唱へ、多くは「前垂(まへだれ)」といふ。「垂(たれ)」の儀、此の如くなるべし。

[やぶちゃん注:「日本紀略」平安末期に成立した歴史書。全三十四巻。成立年・著者不詳。神代は「日本書紀」そのままで,神武から光孝までの各天皇は六国史の抄略、宇多天皇以後、後一条天皇までは「新国史」や「外記日記」などに基づいて編集されている。六国史の欠逸を補う重要史料とされる。

「藤原保昌」(やすまさ 天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)平安中期の貴族。で「道長四天王」の一人。藤原南家巨勢麻呂流。右京大夫藤原致忠の子。当該ウィキによれば、「今昔物語集」から抄訳して、以下の話を示す。十月、『朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂』(はかまだれ)『という盗賊の首領が衣装を奪おうと』、『その者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで』、『衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという』とあり、さらに、『同様の説話は』「宇治拾遺物語」にもあり、『後世』、『袴垂は保昌の弟藤原保輔』(以下の通りなので、当該ウィキをリンクさせるに留める。因みに彼は傷害事件を起こし、史上最初の切腹で亡くなった人物として知られる)『と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが』、「今昔物語集」の『説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい』ため、『実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている』とある。「今昔物語集」のそれは、巻二十五の「藤原保昌朝臣値盜人袴垂語第七」(藤原(ふじはらの)保昌の朝臣(あそん)、盜人(ぬすびと)の袴垂に値(あ)へる語(こと)第七)で、「やたがらすナビ」のこちらで、新字体であるが、テクストとして読める。]

かくて、今は、「前垂」にも、花美を盡すことになりたり。しかれども、そは、京の祇園の「赤前垂(あかまへだれ)」を初めとして、江戶にても、遊里の茶屋女、或は、遊民・俠客(けふかく)の妻・むすめならでは、前垂を晴れには、せず。これによりて思ふに、古畫(こぐわ)の美人の「帶かけ」をしたるは、皆、是、當時(そのかみ)の妓女なるべし。そが中に、佐渡・北越の片田舍には、なかなかに、古風、遣(のこ)りて、「前だれ」をかくる婦人はあらで、彼(か)の「帶ひら」・「帶はさみ」をのみせしよしは、猶、告朔(こくさく)の餼羊(きよう)の如しとも、いはましや。これすらも、近頃は、いと、まれまれになりしと、いへば、後々に至りなば、彼の地にても、「帶ひら」の名をだにしらずなりやせん。そは、なげくべきことになん。

[やぶちゃん注:「告朔の餼羊」古くから続いている習慣や年中行事は、理由もなく廃絶してはならないということの喩え。「告朔」は周代に行われた儀式で、毎月一日に羊を廟に供えて祖先を祭ったことを指し、「餼羊」は告朔の際に供える生贄の羊のこと。出典は「論語」の「八佾(はちいつ)」。魯で告朔の儀式が廃れ、羊を供える形式だけが残っていた。「それでは、無意味だから、餼羊をやめるべきです。」と子貢が言うと、孔子は儀式が完全に廃れることを惜しんだとされる。

 以下の一段落は二書ともに全体が一字下げである。]

「帶ひら」・「帶はさみ」と唱へるよしは、田舍といへども、今の帶は、その幅(はゞ)、廣かり。かゝれば、是を昔の如く、前にかけて、裳のひらくを掩(おほ)ふにしも及ばねば、只、昔より他行(たぎやう)には、しかするものぞ、とのみ、こゝろえて、只、いつとなく、三ツに折りて、おのおの、帶にはさみしより、「帶かけ」とだにいはずして云々と唱へるならん。譬へば、むかしは、駕輿(かき)のものも、多くは烏帽子(えぼし)・白張(しらばり)なりしに、烏帽子を省略する世となりしより、柹染(かきぞめ)、或(ある)は、段々筋(だんだらすぢ)の布をもて、鉢卷のやうにして、前をひらき、後ろをしぼりて、「盆(ぼん)の窪(くぼ)」にて結びしかば、則ち、烏帽子にかたどる也。又、その袖を長くしたるは、白張に擬(ぎ)したる也。しかるを、百年餘りこなたは、それをすら、略して、その布を頭(かうべ)に卷かせず。只、三つ、四つに長く折りて、腰に挾(はさ)ませたりしより、おしなべて、その布を「はさみ」「手ぬぐひ」と呼びなすのみ。それも又、近來(ちかごろ)は、その手拭を糊張(のりはり)にし、或(ある)は、片木(へぎ)の眞(しん)さへ入れて、檜扇(ひあふぎ)の如くしたるを、何等(なんら)の用に立つともしらねど、腰のかざりとこゝろえて、陸尺(ろくしやく)ばらの腰に揷すと、同日の談なるべし。

[やぶちゃん注:「陸尺」駕籠舁きを指す近世語。]

一日、輪池翁(りんちおう)、古畫(こぐわ)の美人三幅(さんぷく)を、予によせて問て云、「この箱書付には、『土佐又平(またへい)畫(ゑ)』とあれども、その時代より、猶、すこしおくれたるものなるべし。しかるに、畫圖(ゑづ)の美婦人の帶の幅(はば)、甚だ、廣し。抑(そもそも)婦人の帶の幅の、かくのごとく廣くなりしは、いつ頃よりの事なるや、聞(きか)まほし。」と、いはれたり。予、この心を得て、その畫(ゑ)を觀るに、げに又平が筆には、あらず。さばれ、畫中の人物は、天正中の妓女なるべく、畫者(ぐわしや)は天正後にやあらん。且つ、その帶と見られしは、眞(まこと)の帶にはあらずして、「帶かけ」ならんと、思ひしかば、則ち、「襅(うはも)」と、佐渡・越後なる「帶はさみ」の事をもて云々と、これをことわり、この畫(ぐわ)の時代に、かくのごとく帶の廣かるべきやうなし。その故は云々と、前條を擧げて答へしかば、輪池翁、うけ歡びて、猶、「帶はさみの證書(あかしふみ)を、見まくほし。」と、いはれたり。「扨も、輪池翁の博覽强記もて、下問(かもん)を耻ぢ給はぬ、めでたさよ。」とばかりにして、うちもおかれず、予が見たるまゝ聞たるまゝを、しどろもどろにしるしつけて、まゐらすること、右の如し。このうち、「襅(うはも)」の一條は、國史中に見えたるを、抄錄して置きたれども、抄錄の多卷(たくわん)なるを、探(さぐ)り出ださんも煩しければ、今、備(つぶさ)にはしるすに及ばず。又、「帶ひら」の一條は、「佐渡風土記」・「佐渡年代記」・「增補越後名寄」などに載せたりけん歟、ありとしも、おぼえず。この書どもは、舊宅なる書齋に殘し置きてしかば、そは、亦、異日、考索(かうさく)せん。正しく物にしるされしは、「佐渡事略」の外(ほか)暗(そら)には、おぼえず。餘は傳聞によるものから、近來(ちかごろ)、記憶を喪ひしに、かく引書(いんしよ)にすら、乏しければ、漏(もら)すも多く、違(たが)へるもあらん。猶、よく、正(たゞ)されん事をねがふのみ。時に文政八年五月四日瀧澤解拜具

[やぶちゃん注:「輪池翁」屋代弘賢。

「土佐又平」絵師土佐光起(元和三(一六一七)年~元禄四(一六九一)年)。父は「源氏物語画帖」などを描いた光則。承応三(一六五四)年三十八歳の時、左近将監に任ぜられ,室町最末期に廃絶した土佐派を再興、宮廷の絵所預(えどころあずかり)となった。また、この年の内裏造営に加わって、障壁画を描き、京都の公家社会と画壇に復帰して多年の宿望を果たした。しかし、この「又平」という呼称は、そもそもが、宝永五(一七〇八)年に大坂・竹本座で人形浄瑠璃として初演された近松門左衛門作の「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」に出る彼の通称としてもっぱら知られから、如何も怪しい。

「文政八年」一八二五年。]

追考(ついかう)

「伊豆國海島風土記(いづのくにかいとうふどき)」下卷に、八丈島なる男女(なんによ)の風俗をしるして云、『女の帶の幅は一尺ばかり、長、四、五尺に、紬(つむぎ)を織り、蘇枋木(すはうぼく)を以て、赤く染(そめ)、その儘、單(ひとへ)にて用ひ、老若(らうじやく)ともに、是を、前にて、結ぶ。男は眞(しん)を入れ、くけたる帶を結ぶもありと、いへり。これ、亦、「帶かけ」の遣風なるべく、今、佐渡にては、女の帶の幅の廣きを結ぶゆゑに、「帶ひら」を三にたゝみて、その帶に挾む也。又八丈島なる女は、いにしへの帶かけを、やがて、帶に用ふるにより、たけをば、長くせしにやあらん。孤島は他鄕(たきやう)の人をまじへざるをもて、物每(ものごと)に古風を存する事、多かり。五島・平戶などの島々なる風俗をも、よく訪ひ窮めなば、かゝるたぐひ、なほ、あるべし。文政八年七月朔 瀧澤解再識

[やぶちゃん注:「伊豆國海島風土記」官吏であった佐藤行信著。全六巻。伊豆諸島の地誌。天明元(二四四二)年に吉川義右衛門秀道という人物に調べさせたもの。

 なお、「曲亭雜記」には最後に、近代の漢学者で作家の依田百川(ひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年:詳しくは当該ウィキを読まれたいが、森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である)の批評が載り、そこで、

   *

『「襅(ひつ)」は、いにしへ婢妾賤婦の儔(たぐひ)、凡そ賤しきもの袴を着(つけ)ざるもの、これに代へたるなるべし。』といふは、如何(いかゞ)あるべき。袴は衣(ころも)の下に着たるものにて、「褌(こん)」といふも同じ。昔は貴賤ともに「褌(こん)」をつけざるもの、なし。これを下衣(したえ)に着(つけ)るによりて、遂にこれを廢するに至れりと見ゆ。男子・婦人ともに上衣下裳(じやういかしやう)の両種にて、その下には袴、即、「褌(こん)」を穿きたり。唐𤲿(からゑ)の婦人に裳(も)の下より少し露はるゝは、卽、袴にて、多くは紅(こう)の色を用ひたり。この袴なくものはなかりしに、中古より袴を美麗にせしより、自(おのづ)から賤しきものは、用ふること、能はずして、これを廢せしかば、その風、今に至りて、我國の婦人、貴賤ともに、單裙(たんくん)をのみ用ひ、袴を衣の下に着(き)ること無き惡風に至れり。されば、『いにしへ、賤婦に、袴、なし。』とは謂ふべからず。

   *

と批判している。

 以下、別な話題になるので、一行空けた。]

 

追記「信天緣」        瀧澤解再選

天保三年壬辰夏六月、牛込御門内なる武家某氏屋敷の樹に、「信天緣」、忽然と來て、集たり。人みな、觀て、捉まくほりせしかども、高樹の事なれば、すべなかりしに、次の日、その鳥、おのづからに落て、庭に、あり。やがて、とらへて、いろいろ飢を養ひけるに、啖はず。後に、泥鰌をあたへければ、いさゝか、くらひしとぞ。「信天緣」、又、「信天翁」と云。この間の俗、「馬鹿鳥」といふもの、是、なり。形狀、鴇[やぶちゃん注:「とき」。]に似て、脚に水かきあり。總身、薄黑色にて、臭氣あり。觀るもの、鼻を掩ふ。高さ一尺五寸、羽をひらけば、左右へ、七尺五寸あり、といふ。高さに合[やぶちゃん注:「あは」]しては、羽は、甚、長かり。短尾、雁の如し。この鳥、物に傷られて[やぶちゃん注:「いためられて」。]、遠く逃れ來つるなるべし。いく程もなく隕たり[やぶちゃん注:「しにたり」。]。上總・伊豆の海濱には、多くあるものながら、江戶にて觀るは、めづらし。芳婿赫洲、その畫圖を懷にし、來て、予に見せたれど、寫生、ならねば、見るに足らず。この鳥の事、「本草綱目」幷に「五雜俎」・「大和本草」等に詳也。こゝに半頁の餘紙あれば、誌して遺忘に備ふ。

[やぶちゃん注:「信天緣」鳥綱ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus 。本邦には渡り鳥として、これを含めて三種が確認されている。現在の中文ウィキの「アホウドリ」でも、中文名を「短尾信天翁」とする。しかし、実は、現在の日本語に於ける標準和名アホウドリに、この漢字を当てたのは、中国人ではなく、貝原益軒の「大和本草」であるというのだ。これは一九八七年平凡社刊の荒俣宏「世界大博物図鑑  4 鳥類」の「アホウドリ」の項に記されあり、現代中国の、その「信天翁」については、荒俣氏は日本からの逆輸入を疑っておられる。「大和本草」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの原本の「信天翁(ライ)」なのであるが、そこで益軒は、『「本草綱目」、鵜鶘ノ集解ニ信天翁ト云者即是也』と記しているのであるが(右丁五~六行目)、いざ、「本草綱目」を調べると「鵜鶘」(荒俣氏はこれはペリカンを指すとされる)の「集解」には、「信天翁」ではなく、「信天緣」と書いてあるのである(「漢籍リポジトリ」が動作していないので、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年版本で示す。右丁の後ろから五行目末からで、二ヶ所出る)。即ち、少なくとも、現在のアホウドリに「信天翁」の漢字で誤って宛ててしまったのは、どうも、益軒の「犯行」であったらしいのである。益軒に批判的であった小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」では、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の「鵜鶘」の項の左丁六行目に、

   *

「信天縁」は、「ライ」【筑前。】、一名、「アホウドリ」【丹後。】、「ヲキノタイフ」【長州。】、「ヲキノゼウ」【豫州。】、「トウクロウ」【圡州。】。一名「信天翁」【「事物紺珠」。】。「大和本草」に、『「かもめ」に似て、淡青白にして、觜(はし)、長く、少し、それり。脚、赤。海邉にあり。雁より大なり。』と云ふ。

   *

とあって、蘭山は正しく「信天縁」を代表表記として用いている。中に「信天翁」もあるが、この「事物紺珠」は明の一六〇四年黄一正が編纂した動植物等について類書であるが、荒俣氏はこの名は『天翁(太陽)に信(まか)せる』の意で、『本来どの鳥を指したものかは不明である』とされ、さらに、『信天縁なる語自体もほんとうにアホウドリを指したかどうか定かではない』。『一説によれば信天縁はペリカンだといわれる』とされ、『明治以降』、『アホウドリは天縁とは〈縁〉がなくなった!』と結ばれているのである。というか、ここで馬琴の記した江戸に飛来した奇体な黒い臭い鳥というのは、私は、アホウドリではないのではないか? と思っている。一つの候補としては、カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus はどうかなとは思う。]

2022/05/07

泉鏡花「怪談女の輪」(正規表現PDF縦書版)公開

泉鏡花の実話怪談「怪談女の輪」を正規表現・PDF縦書ルビ附き版「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/06

只野真葛 むかしばなし (54) / 毛虫の変化(へんげ)

 

一、おぢ四郞左衞門樣は、毛蟲、殊の外、御きらいなりし。

「此道に拔身(ぬきみ)を持(もち)て待(まつ)てゐるといふ所より、毛むしの巢の有(ある)下と聞(きき)し方、行難(ゆきがた)し。」

と被ㇾ仰し。

「松に付(つき)たる毛蟲も、所によりては、沙噀《なまこ》に、かへるものなり。」

とぞ。

 同じをぢ樣の御はなしなり。僞(いつはり)など、仰られぬ人なり。

 旅行被ㇾ成しに【紀州なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、海邊の松原、けしきよかりし故、御休(おやすみ)有しに【夏秋の間なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、水にのぞめる松の枝より、毛蟲のさがりて、水上(すいじやう)におちつきて、しばし、うごめくと、ちいさく成(なり)て、浪に引れて、ながれ行(ゆく)を、御嫌ひの事故、とく見つけられて、あやしく思召(おぼしめし)、所の者の、行(ゆき)かふに、御とへ被ㇾ成しかば、

「けふは天氣が能《よい》から、毛むし共が、ぬけかはります。」

と、こたへしとぞ。

「拔(ぬけ)て、何になる。」

と聞(きか)せられしに、

「なまこに成(なり)ます。」

と、いひしとぞ。

 ふしぎながら、能《よく》水底(みなそこ)を御覽あれば、小さきなまこ、夥しく、ゐたり。水の上にてうごめくは、からを脫(ぬぎ)うちなり[やぶちゃん注:「うつ」の誤記か。]。ぬぎ仕(し)まへば、なまこは、下におち、からは、流(ながれ)て行(ゆき)し、とぞ。

「きたいの事。」と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:私は海鼠フリークなのだが、毛虫が海鼠に化生(けしょう)するというのは、ちょっと聴いたことがない。甚だ面白い。]

只野真葛 むかしばなし (53) / 舟奇談

 

一、濱町にて、御坊主永井久悅の咄しに、

『此頃、懇意のものゝはなしなり。吉原から猪牙(ちよき)にのつて歸りしに、闇の夜なりしが、藏前邊にて、

「ぐらり」

と、かへりしが、仕合(しあはせ)には、水、淺く、膝きりにて有(あり)し故、衣類《きもの》をぬらしたばかりにて、石垣傳ひに、どうかして、岡へ上りかへりしが、舟は、少しも、かまわずに、一さんに、漕(こい)で行(ゆき)し、となり。ぬれながら、内へ歸り、翌日、

「船頭はどうしてゐる。」

と舟宿へ行て見しに、高ぎせるにて、門口に居(ゐ)たり。

「是は。どうだ。」

と聲かけしかば、物いわずに、袖をとり、

「こちらへ、おはいり。」

とて引込(ひつこみ)、二階へ上(あげ)て、

「眞平御めん。」

と、あやまりしとぞ。

「御めん所か。とほうもない。」

と云(いふ)をおさへて、

「先々、高聲(こうせい)被ㇾ成て被ㇾ下ますな。大切な事でござりますが、申分(まうしぶん)の爲(ため)、御咄し申(まうし)ます。お素人がたを相手に、夜、壱人(ひとり)で漕(こぎ)、舟が引(ひつくり)かへつた時、壱人では、中々、助けられません。下手にうろつくと、共に、死にますから、棄切(すてぎり)の「さだめ」でござります。必、他言被ㇾ下まじ。」

とて、酒肴(しゆかう)にてもてなし、惣船宿、連名の「誤り證文」いたし、七重八重に成(なり)て閉口せし故、ふくれながら、其まゝにして置(おき)たり。

「とんだ事が有もの。」』

と、いひし。

 父樣も、

「わかき時分、吉原歸りの船にて、危(あやう)き事、有し。」

と被ㇾ仰し。是も暗夜にて下(さ)汐(しほ)の時、一さんに、くだして、來(きた)る。父樣は、船中にねむりて御いで被ㇾ成しに、

「ザブリ」

と、物の落(おち)たる音せし故、御覽有しに、艪(ろ)づな、切(きれ)て、櫂(かい)を持(もち)ながら、船頭が落(おち)しとぞ。

 舟は、矢を射る如く、走りて下る、中々、およぎて、追つかれねば、跡に成(なり)て、いかゞしたるか知らず、大きに心づかひなりしに、永代橋の外にかゝりたる親船のはらへ、舳先(へさき)が當りし故、船頭共、とがめしを、

「ケ樣、ケ樣。」

の事と被ㇾ仰て、舟をとめてもらひ、手間取(てまどる)内に、落たる船頭、櫂をかついで、岡を走りながら、

「萬幸(ばんこう)さん、萬幸さん。」

と呼(よび)て來りしとぞ。それより又、櫓をしかけて、歸りし、となり。

「親船に當らずば、いづく迄、行くかしれず、危かりし事。」

と、其時、被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「御坊主」数寄屋(すきや)坊主・茶坊主・御奥(おおく)坊主で、江戸幕府の中奥の職名の一つ。若年寄の支配に属し、数寄屋頭の指揮をうけて、将軍を始め、出仕の幕府諸役人に茶を調進し、茶礼・茶器を司った。僧形で、二十俵二人扶持。町屋敷が与えられ、その数は百人から三百人ほどいた。一般には少年・若者が選ばれた。因みに、芥川龍之介の養父で伯父(実母フクの実兄で芥川家嫡流)の芥川道章の家系は彼の祖父の代まで、この職にあった。

「萬幸」そのぶつかった永代橋に係留してあった親船(伊勢船の俗称。伊勢船は船型構造が中世末期の伝統を持つため、近世の進歩した弁才船に対して、古様であるところからの称)の水主(かこ)の姓か。]

只野真葛 むかしばなし (52) / 舟怪談パート2!

 

一、築地毛利樣へふだんござる旗本衆なりしが、吉原へ遊(あそび)に行(ゆき)て有(あり)しが、明朝、當番故、夜中に歸らねばならず、舟にのりて、船頭と、二人、夜更(よふけ)て川筋を下(くだ)るに、霧雨、しきりに下(ふ)りて、物も見へず【築地より、舟の通用には、「浪よけ稻荷」の後(うしろ)を出(で)ると、海にかゝり、天氣のよい時は、はればれとして、よけれど、いつも、浪のあらい所なり。それから、川といへども㚑岸島(れいがんじま)・「浪よけ」の前などは海も目前にて、人氣少(ひとけすくな)く、びやうびやうとしたるところなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。屋根船の中に、うちねぶりて有しに、㚑岸島を通過(とほりすぎ)たる時分、

「もし。且那、旦那。」

と起(おこ)す故、

「何だ。」といひば、

舟頭「舟が。うごきません。」

旦那「どふした。」

舟頭「あれを。ごろふじませ。」

といふ故、へさきの方を見れば、たしかに形は見えねど、眞綿(まわた)をぬり桶(をけ)に掛(かけ)たるやうな形にて、

「ふわふわ」

としたる白きもの、高さは、四、五尺の間(あひだ)とおぼしきもの、立(たち)て有(あり)。

 ねむけもさめしに、船頭、聲、かけ、

「もし。必ず、念佛を唱へ被ㇾ成ますな。お刀でお拂(つぱらい)て被ㇾ下まし。」

といひし故、

「得たり。」

と、刀(かたな)引拔(ひきぬき)ざま、心の内には、

『にくき妖怪め。かたじけなくも、公方(くばう)の御用、明朝勤(つとむ)る當番の、など、さまたぐるぞ。速(すみやか)に立去(たちさ)れ、立去れ。』

と、くりかへし、くりかへし、ねんじて、切拂(きりはら)ひしかば、

「ふわふわ」

とびさりしと思ふと、舟、動き出(だし)たり。

 物もいはず、息をもつかず、一おしに築地の川まで、おし付(つけ)たり。

 おかへ上(あが)りて後、

「あれは、何ぞ。」

と、とへば、

「『舟(ふな)ぼう㚑(れい)』なり。」

と、いひしとぞ。

「念佛をとゞめしは、何の故。」

と、とはれしかば、

「弱味へ付入(つけいり)ては、强く成(なる)ものなり。氣がをくれ、念佛などいふ樣なことでは、いくらも、いくらも、出て來て、舟を、しづめるものなり。兼(かね)て御元氣(おおげんき)をぞんじて居(をり)ますから、お力に存じましたる、お蔭で、命、助(たすかり)ました。」

と禮をいひしとぞ。

「折々、逢(あふ)ものか。」

と聞しに、

「とんだ事をおつしやります。そんなに逢ことでは、いきては居られません。たゞ、『忿佛を、左樣な時、必ずとなへぬもの。』と申事は、なかま中(うち)、いひつたへて置(おく)事なり。必ず、三年の中(うち)は、人にお咄し被ㇾ成ますな。わるいめに、逢(あひ)ます。」

と、口どめせしとぞ。

 それ故、其人も、しばらく、口外にせられざりしが、ほどへて、若い時分の「元氣咄し」などのでし時、語られしを聞(きき)て、人々、おぢたりし。

[やぶちゃん注:会話形式で臨場感たっぷり! 語り出すと、乗るんだよね! 真葛姐さんは!

「浪よけ稻荷」現在の東京都中央区築地にある波除(なみよけ)稲荷神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、「明暦の大火」(明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)までに江戸の大半を焼いた大火災)の『後、当時はまだ』、『江戸湾が入り込んでいた築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。その最中の』、『ある晩、光を放ち』、『海面を漂う御神体が見つかり』万治二(一六五九)年、『現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり』、『工事が順調に進んだことから、「波除稲荷」と尊称して厄除けなどに信仰を集めることとなった』とある。同神社公式サイトもリンクさせておく。

「㚑岸島」霊岸島。東京都中央区の東部、隅田川河口右岸の旧町名。現在の新川一・二丁目に相当する。江戸初期には北の箱崎島 (現在の日本橋箱崎町) とともに「江戸中島」と呼ばれたが、新川の開削により、分離した。地名は寛永元 (一六二四) 年に、霊巌雄誉上人がこの地に創建した霊巌寺に由来し (寺は「明暦の大火」後に深川に移転した) 、「霊巌島」とも書いた。以後、町家、門前町として発展した。また、海上交通の拠点でもあり、上方からの酒を扱う問屋が集中していた。現在では当時の面影は残っていないが、商業地区となっている。]

只野真葛 むかしばなし (51) 久々の真葛怪談!

 

一、卯野元的(うのげんてき)といふ人、有(あり)し。中通醫師なり。築地邊、旗本衆などへ出入し、工藤家へも常に出入せしが、ばゞ樣など諸見物に御いでの時、つれに成(なり)てありきし人なり。

 其人の咄しに、向(むかひ)、築地に、二千石ばかりの旗本衆、有し。大ひやう・大力にて、すなどりを好み、遠網打(とほあみうち)の名人、廿間餘に打出(うちだ)されしが、漁師も及ばざりし、となり。一月には、二、三度づゝ、御勤の暇(いとま)には、漁にいでゝ樂(たのし)まれしとぞ。

 あるひ、例の如く、漁に出(いで)られしが、ちと、刻限、早かりしに、奧方も、おいでの後に、又、床に入(いり)て、休まんとせられしに、夜が明(あく)るや否や、

「お歸り。」

と云(いふ)音(こゑ)す。

『誠(まこと)ならじ。』

と、おもはれしに、實(まこと)にかへられたり。

「風もなし、天氣はよし、何故(なにゆゑ)。」

と問(とふ)に、顏色、土の如くにして、無言なり。

 家内、いぶかりて、手をかへ、品をかへて聞(きく)に、さらに其故(そのゆゑ)をかたられざりしとなり【是より、つり道具を、みな、すてゝ、漁をやめられし、となり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 元的も出入(でいり)にて、殊にしたしくせし故、年をかさねて、事にふれつゝ、ゆかしければ、

「もふ、お咄被ㇾ成(はなしなられ)てもよさそうなもの。」

などゝ、まじめにも聞(きき)、をどけにも聞仕(ききしまはし)たりしが、一生、其故を口外(こうがい)へいださで、果(はて)られしとぞ。

 語らではてられしと云(いふ)事は、ワ、築地に居(をり)し内(うち)、聞(きき)しことなりし。

 然るを、數寄屋町へ引(ひつ)こして後、善助樣、

「船頭の隱居ぢゞに聞(きき)し。」

とて、其故を、御はなし被ㇾ成候。珍しきことなりし。

 老人曰(いはく)、

「わたし共も、海の上を渡世にしてゐるものだけれども、氣味の惡ひ事に逢(あひ)しは、久しきあとの事なりしが、築地の殿樣と、二人、舟にのつて出た所が、ちと早くて夜が明(あけ)やしなんだ。舟をかけてゐたら、何だか舟のわきに付(つい)てゐやしたが、死人(しびと)のやうで有(あつ)たから、漕(こぎ)ぬけやふとおもつて、櫂(かい)で、ついてやつて、二十間ばかりわきへ行(ゆき)やした【漁舟《りようせん》にて出懸(でがけ)に死人にあへば、其日の「けち」として、まづまづ、無言にてみぬ顏してつきだしてにげるとなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。所が又、下から「ざぶり」と、ういて出(で)た物が有故(あるゆゑ)、二人ながら、おもはず、見たら、女の死人さ。少し夜が明やした。『いまいましい』と思(おもつ)て、また、つきだそうとしたら、櫂が、つきはづれやした。其時、死人が「にこにこ」と笑(わろう)た顏の、いやな事、「ぞつ」として、そこにゐられぬから、其日は歸りやした。あんな氣味のわるい事は、ござりません。それから殿樣も漁を休(やすみ)さしつたし、私も遠(とほ)あるきを、やめました。」

と語(かたり)し故、其事は知れたり。

「少し、旗本衆の胸に、當りし事、有しならん。」

と被ㇾ仰し。すべて舟の中には、あやしき事、あるものなり。

[やぶちゃん注:久々の怪談実話である。聴き書きで、最後に老漁師の告白形式をとり、非常にリアリズムがあり、非常に優れている。当時の口語体が再現されているのも興味深い。真葛の怪談はまっこと、「キョワい」。似たような話であるが、幸田露伴の「幻談」なんか、足元にも及ばないね。

「中通」福島県「中通り」地方。福島県中部で、西に奥羽山脈、東に阿武隈高地に挟まれた太平洋側内陸の地域。その北部は真葛の父平助の仕えた主家、伊達郡を本貫とした伊達氏の領地であった。]

「和漢三才圖會」卷第八十四 灌木類 瓢樹(ひよんのき/いす) / イスノキ

 

Hyonnnoki

 

ひよんのき 正字未詳

瓢樹   【俗云比與牟乃木

いす    其木名伊須】

 

△按其木葉並似女負而厚狹長色微淡三四月開細小

 花深赤色結實大如豆自裂中子細小黒色別其葉靣

 如子者脹出中有小蟲化出殼有孔口吹去塵埃爲空

 虛大者如桃李其文理如檳榔子人用收胡椒秦椒等

 末以代匏瓢故俗曰瓢木或小兒戯吹之爲笛駿州多

 有之祭禮吹此笛供奉于神輿四國九州多有之斫木

 爲薪木心白微赤日乾者全赤堅硬爲薪之上品

一種 有唐比與乃木者花葉無異但葉小耳

 

   *

 

ひよんのき 正字、未だ詳かならず。

瓢樹   【俗に云ふ「比與牟乃木(ひよんのき)」。

いす    其の木を「伊須(いす)」と名づく。】

 

△按ずるに、其の木・葉、並びに女負(ひめつばき)に似て、厚く、狹長(さなが)。色、微(わづかに)淡し。三・四月、細き小花(せうくわ)を開く。深赤色。實を結ぶ。大いさ、豆のごとし。自裂して、中の子(たね)、細小、黒色。別に其の葉の靣(おもて)に、子のごとくなる者、脹(ふく)れ出でて、中に、小蟲、有り、化出(けしゆつ)す。殼に孔-口(あな)有り、塵埃(ちりほこり)を吹き去れば、空-虛(から)と爲(な)る。大(だい)なる者、桃・李(すもも)のごとく、其の文理(もんり)、檳榔子(びんらうじ)のごとし。人、用ひて、胡椒・秦椒(しんせう)等の末(まつ)を收む。以つて匏瓢(ひやうたん)に代(か)ふ。故に俗に「瓢の木」と曰ふ。或いは、小兒、戯れに之れを吹きて、笛と爲す。駿州(すんしう)に、多く、之れ、有り、祭禮、此の笛を吹きて、神輿(みこし)に供奉す。四國・九州、多く之れ有り、木を斫(き)り、薪(たきぎ)と爲す。木の心、白く、微赤。日に乾す者、全く赤し。堅硬にして、薪の上品と爲す。

一種 「唐比與乃木(たうひよんのき)」と云ふ者、有り。花・葉、異(こと)なること、無し。但(ただ)、葉、小さきのみ。

 

[やぶちゃん注:これは、

ユキノシタ目マンサク科イスノキ属イスノキ Distylium racemosum

である。当該ウィキによれば、イスノキは漢字では「柞の木」(但し、同種をこの漢字で示すのは本邦のみでの当て字であり、現在の中国名は「蚊母樹」である)で、本邦では、暖地の静岡県以西・四国・九州・琉球列島に自生し、異名に「ユスノキ」「ユシノキ」「ヒョンノキ」がある。『国外では済州島、台湾、中国南部に分布する』。葉は、しばしば、虫瘤(むしこぶ:虫癭(ちゅうえい))がつき、『大きくなると穴が開くのが特徴』とあり、『常緑広葉樹の高木で、高さ約』二十~二十五メートルになる。『樹皮は灰白色。大木になると赤っぽくなる』。『葉は互生し、長さ』五~八『センチメートルの長楕円形で、葉身は革質、深緑で表面に強いつやがある』。虫瘤は『イスノキコムネアブラムシの寄生では葉の面に多数の小型の突起状の虫こぶを』イスノキオオムネアブラムシ『Nipponaphis distychii の寄生によっては丸く大きく膨らんだ虫こぶ(ひょんの実)が形成される。どちらも非常に頻繁に出現するのでこれを目当てにイスノキが特定できるほどである。虫こぶは大きくなると』、『穴が開き、ここを吹くと』、『笛のような音が出ることから「ヒョンノキ」の別名がある』。『花期は』三~四月で、『葉腋に総状花序を出して小花をつける』。『花序の基部には雄花、先の方(上部)には両生花がつく』。『花弁はなく、萼も小さいが、雄しべが』五~八『個つき、葯が紅色に色づく』。『葯は乾燥すると』、『裂開し、花粉は風によって飛散する』。『果期は』十月で、『果実は広卵形で、表面が黄褐色の毛で覆われ』、『先端に雌蘂が二裂した突起として突き出すのが目につく。果実が熟すと』二『つに裂開し、黒色の種子が露出する』。『材は本州や四国に自生する木の中ではウバメガシと並んで非常に堅く重い部類となる。家具、杖の素材にされ、とくにイスノキ材の木刀は、示現流系統の剣術で使用されているのは有名。材や樹皮を燃やした灰(柞灰(いすばい))は陶磁器の釉の融剤とする。また、樹皮はトリモチの原料ともなる。樹皮を採取した後のイスノキを長く放置すると辺材が失われて心材のみとなるが、この心材をスヌケと呼ぶ。スヌケは濃い茶色で、磨くと光沢をもつ』。『樹木そのものは』、『乾燥に強く丈夫なので街路樹として栽培されることもある。 また、虫こぶ(ひょんの実)は成熟すると』、『表面が硬く、内部が空洞になり、出入り口の穴に唇を当てて吹くと笛として使える。これが別名ヒョンノキ(ひょうと鳴る木)の由来とも言われる。また、この虫こぶにはタンニンが含まれ、染料の材料として使われる』。『鹿児島県の「伊集院」という地名は、イスノキが多い地であり、平安朝の租税である稲穂を貯蔵する倉院が置かれたことから、「いすいん」と呼ばれるようになったことに由来する』とある。なお、良安は最後に近縁種を挙げているが、「イスノキ」のウィキには本邦では一種のみとあるので、これは誤りである。また、イスノキに寄生するアブラムシ類については、宗林(そうりん)正人氏の論文「緑化樹木のアブラムシ類 (4)」(『植物防疫』第五十七巻第十号・二〇〇三年発行・PDF)に詳しい(それでも多量の種がいるらしく、ウィキで例示している最初に出るイスノキコムネアブラムシは載っていない。なお、後者はウィキでは『イスオオムネアブラムシ』とあるが、この資料で訂した)。

「女負(ひめつばき)」標準和名でビワモドキ亜綱ツバキ目ツバキ科ヒメツバキ属ヒメツバキ Schima wallichii があるが、小笠原産であるから違う。「姫椿」は辞書では、他にサザンカの別名、或いは、ネズミモチの古名(「和名類聚抄」収載)とあり、最も普通に見られるのは、シソ目(或いはゴマノハグサ目)モクセイ科イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum と、同属イボタノキ Ligustrum obtusifolium があり、後者は樹皮上に寄生するイボタロウムシ(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科イボタロウムシ Ericerus pela)の分泌する「いぼた蠟(ろう)」で知られ、古くから蠟燭の原料や日本刀の手入れに用いられてきたから、この二種の孰れか、或いは、虫瘤から後者を良安は指しているとみてよいように思われる。また、否定した「唐比與乃木」(とうひょんのき)というのも、或いは、これらの種の孰れかを指しているともみられる。

「檳榔子(びんらうじ)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の種子。本邦には自生しないが、漢方で古くから知られていた。

「秦椒(しんせう)」ムクロジ目ミカン科サンショウ属フユザンショウ Zanthoxylum armatum var. subtrifoliatum の別名であるが、葉や実には芳香性が無いので、サンショウのように食用にはならないから、違う。中国語の辞書で引くと、山椒とあったので、ここはサ同属サンショウ Zanthoxylum piperitum の実や葉の粉末を指すと考えてよい。

「匏瓢(ひやうたん)」「瓢簞」に同じ。

「瓢の木」ここは「ひよん」(ひょん)との音の類似性から「へうのき」(ひょうのき)と読んでおく。

「駿州(すんしう)」駿河国。]

多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖

多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖

[やぶちゃん注:本話は『小泉八雲 靑柳のはなし(田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』で、一度、電子化しているが、今回は原版本に基づき、零から電子化注した。私の大好きなしみじみとした哀れな異類婚姻譚である。漢詩は原本では二段であるが、一段で示し、後に丸括弧で訓読を載せた。挿絵は今まで使っている国書刊行会の「江戸文庫」版のそれが、汚損がひどくいやな感じなので、今回は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該挿絵画像(単独JPG版)をリンクさせるに留めた。]

 

   柳情(りうせいの)靈妖(れいよう)

 文明の年中、能登の國の太守、畠山義統(よしむね)の家臣に、岩木(いわき)七郞友忠と云ふ者、有《あり》。幼少の比《ころ》より、才智、世に勝れ、文章に名を得、和漢の才(ざへ)に冨みたり。ようぼう、いつくしく、いまだ廿(はたち)にみたず。

[やぶちゃん注:一四六九年から一四八七年まで。室町幕府将軍は足利義政・足利義尚で、後半は「応仁の乱」の余波が未だ続いていた。

「畠山義統」(?~明応六(一四九七)年)は父義有(よしあり)が永享一一(一四三九)年か翌年頃、大和の陣中で死去したため、幼くして跡を継ぎ、祖父義忠の後見を受けて享徳元(一四五二)年に能登守護となった。義忠の隠居の後、室町幕府相伴衆(しょうばんしゅ(しゅう):室町時代、将軍が殿中で宴を催し、また、諸将の宴に臨む時、相伴役としてその席に陪従する者。有力守護大名家から選ばれた)となり、寛正五(一四六四)年の「糺河原勧進猿楽」にも列席した。畠山宗家の争いでは、幕命により、義就(よしひろ/よしなり)に味方し、「応仁の乱」でも義就のバックにあった山名氏が率いる西軍に属した。文明九(一四七七)年、能登に下国し、能登府中に長くあって、領国支配に専念したが、長享二(一四八八)年、加賀の富樫政親を救援すべく、出兵、明応二(一四九三)年の細川政元のクーデタで越中に逃れた前将軍足利義材(よしき)をも支援した。祖父義忠に似て、和歌。連歌に優れ、歌会を催し、臨済僧で歌人として知られる清巌正徹(せいがんしょうてつ)や、その門下の正広とも親交があった。

「岩木七郞友忠」不詳。]

 義統、愛敬(あいきやう)して、常に祕藏し給ふ。

 生國(しやうこく)は越前にして、母、一人、古鄕(こきやう)にあり。世、いまだ、靜かならねば、行《ゆき》とぶらふ事も、なし。

 或るとし、義統、將軍の命をうけ、山名を背(そむ)き、細川に一味して、北國(ほつこく)の通路をひらきぬ。杣山(そまやま)に、山名方(かた)の一城(いちじやう)あれば、

「是を責めむ。」

とて、義統、杣山の麓に出陣して日を送り給へば、此ひまをうかゞひ、母の在所も近ければ、友忠、ひそかに、只(たゞ)一人、馬(むま)に打ち乘り、おもむきける。

[やぶちゃん注:「杣山」福井県南条郡南越前町大字瓜生にあった杣山城か。サイト「城郭放浪記」の「越前 杣山城」が地図もあり、詳しい。但し、文明六(一四七四)年に『越前国守護斯波氏の家臣増沢甲斐守祐徳が城主となったが、斯波氏に叛いて朝倉孝景(敏景)に攻められ』、『敗れた。朝倉氏は家臣河合安芸守宗清を城主とした』とあるだけで、畠山が攻めた事実はないようである。]

 比《ころ》しも、む月の始めつかた、雪、千峯(せんほう)を埋(うづ)み、寒風(かんふう)、はだへを通し、馬、なづむで、進まず。

 路(みち)の旁らに、茅舍の中(うち)に、煙りふすぶりければ、友忠、馬をうちよせてみるに、姥(むば)・祖父(ほゝぢ)、十七、八の娘を中に置き、只、三人、燒火《たきび》に眠(いねふ)り居(ゐ)たり。その體(てい)、蓬(よもぎ)の髮(かみ)は亂れて、垢、付《つき》たる衣(ころも)は、裾みじかなれども、花のまなじり、うるはしく、雪の肌(はだへ)、淸らかにやさしく媚(こび)て、

『誠に、かゝる山の奧にも、かゝる人、有《あり》けるよ。しらず、神仙の住居(すまゐ)か。』

と、あやしまる。

 祖父(ぢい)夫婦、友忠をみて、むかへ、

「たつていたはしの少人(せうじん)や。かく山中に獨りまよはせ給へるぞや。雪、ふり積り、寒風、忍びがたし。先《まづ》、火によりて、あたり給へ。」

と、念比(ねんごろ)に申せば、友忠、よろこび、語るに、

「日、已に暮れて、雪は、いよいよ降りつもる。こよひは、こゝに一夜を明《あか》させ給へ。」

と佗(わ)ぶれば、おゝぢ、

「かゝる片山陰(かたやまかげ)のすまひ、もてなし申さむよすがもなし。さりとも、雪間(ゆきま)をしのぐ旅のそら、こよひは、何かくるしかるべき。」

とて、馬の鞍をおろし、ふすまをはりて、一間(ひとま)をまふけて、よきにかしづきける。

 此娘、かたちをかざり、衣裳をかへて、帳(ちやう)をかゝげて、友忠をみるに、はじめ見そめしには、且つ、まさりて、うつくしさ、あやしきほどにぞ有ける。

「山路(やまぢ)の習ひ、濁り酒など、火にあたゝめ、夜寒《よざむ》をはらし給へ。」

と、主(ぬし)よりして、はじめて、盃(さかづき)をめぐらしける。

 友忠、何となく、むすめに、さす。夫婦、うち笑ひ、

「山家(やまが)そだちのひさぎめにて、御心にはおぼさずとも、旅のやどりのうきをはらしに、御盃《おん》(さかづき)をたうべて上《あげ》まいらせ。」

と、いらへば、娘も、貌(かほ)うちあかめて、盃をとる。友忠、

『此女のけしき、よのつねならねば、心をも引《ひき》みむ。』

と思ひて、何となく、

  尋(たづね)つる花かとてこそ日をくらせ明ぬになどかあかねさすらん

と口ずさみければ、娘も、又、

  出る日のほのめく色をわが袖につゝまばあすも君やとまらむ

とりあへず、『その歌がら、詞(ことば)のつゞき、只人(たゞうど)にあらじ。』と思ひければ、

「さいあいのつまも、なし。願(ねがはく)は、我れに、たびてんや。」

といへば、夫婦、

「かくまで賎(いや)しき身を、いかにまいらせん。たゞかりそめに御心をもなぐさめ給へかし。」

と申せば、むすめも、

「此身を君にまかせまいらするうへは、ともかくもなし給へ。」

と、ひとつふすまに、やどりぬ。

 かくて、夜も明けければ、空もはれ、嵐もなぎて、友忠、

「今は暇(いとま)を申さん。又、逢ふまでの形見《かたみ》とも、み給へ。」

とて、一包(つゝみ)の金(こがね)を懷中より出して、これを、あたふ。主(あるじ)のいはく、

「これ、さらによしなき事なり。娘によき衣(きぬ)をもあたへてこそ參らすべきに、まづしき身なれば、いかゞせん。われら夫婦はいかにともくらすべき身なれば、とくとく、つれて行《ゆき》給へ。」

と、更に請けねば、友忠も力なく、娘を馬にのせ、別れをとりて、歸りぬ。

 かくて、山名・細川の兩陣、破れて、義統も上洛して、都、東寺に宿陣ありければ、友忠、ひそかにぐして、忍び置きけるに、如何(いかゞ)しけむ、主(しう)の一族なりし細川政元、此女を見そめ、深く戀ひ侘び給ひしが、夜にまぎれ奪(ばい)とらせ、寵愛なゝめならざりしかば、友忠も無念ながら、貴族に敵對しがたく、明暮(あけくれ)と思ひしづみける。

 或る時、あまりの戀しさに、みそかに傳(つて)をもとめ、一通のふみをかきて遣しける。その文のおくに、

 公子王孫逐後塵

 綠珠埀淚滴羅巾

 候門一入深如ㇾ海

 從ㇾ是蕭郞是路人

(公子王孫 後塵を逐(お)ふ

 綠珠 埀(た)れ 淚 羅巾を滴(した)つ

 候門(こうもん) 一たび入りて 深きこと 海のごとし

 是れより 蕭郞(せうらう) 是れ 路人(ろじん))

とぞ書《かき》たりける。

[やぶちゃん注:この漢詩の原拠(唐の憲宗の元和年間(八〇六年~八二〇年)に秀才(科挙制度の前段階の一つである院試に及第した者)になった詩人崔郊(さいこう)の詩としてよく知られた「贈去婢」(去る婢に贈る)という題の七言絶句。事実、彼はこの詩を以って愛人をとり返したとされる)と意味は『小泉八雲 靑柳のはなし(田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』で詳注してあるので、参照されたい。

「細川政元」(文正元(一四六六)年~永正四(一五〇七)年)は細川勝元の嫡男。足利義澄を擁して将軍とし、管領となって幕政の実権を握ったが、養子とした澄之(すみゆき)・澄元・高国の家督争いに巻き込まれ、澄之派に暗殺された。ただ、彼はこの友忠の妻を掠奪する役としては、正直、相応しくない。当該ウィキによれば、『政元は修験道・山伏信仰に凝って、女性を近づけることなく』、『生涯』、『独身を通した。そのため、空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中したり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行があり』、「足利季世記」では『京管領細川右京大夫政元ハ、四十歲ノ比マデ、女人禁制ニテ、魔法飯綱(いづな)ノ法・アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ。或時ハ經ヲヨミ、陀羅尼ヲヘンシケレハ、見ル人、身ノ毛モ、ヨタチケル。」『とある(ただし、政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、山伏たちを諜報員のように使い、各地の情報や動向を探るなどの手段ともしていた)』。『とはいえ、衆道は嗜んだようであり、家臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする見方もある』とあるからである。]

 いかゞしけむ、此の詩、政元へ聞えければ、政元、ひそかに友忠を召《めし》て、

「物いふべき事あり。」

と云ひ遣しければ、友忠、

「思ひよらず。一定《いちじやう》、これは、わが妻の事、顯はれ、恨みの程(ほど)を怖れて、吾れを取り込め、討たむずらん。たとへ、死すとも、いま一たび、見る事もや。折もよくば、恨みの太刀(たち)一かたなに。」

と、思ひつめて行《ゆき》ける。

 政元、頓(やが)て、出《いで》あひ、友忠が手をとりて、

「『候門一たび入て 深き事 海のごとし』と云ふ句は、これ、汝(なんぢ)の句なりや。誠に、ふかく感心す。」

とて、淚をうかめ、則ち、かの女を呼び出《いだ》し、友忠にあたへ、剩(あまつ)さへ、種々(しゆじゆ)の引手物して、返し給ふ。こゝろざし、いとやさし。

 尤も文道(ぶんだう)の德なりけり。

 これより、夫婦、偕老同穴のかたらひ、いよいよ深く、とし月を送るに、妻の云ひけるは、

「吾れ、はからずして、君(きみ)と五とせの契りをなす。猶、いつまでも、八千代をこめむと思ひしに、ふしぎに、命(いのち)、こよひに究まりぬ。宿世(すくせ)の緣を思ひたまはゞ、跡、よく弔(とむら)ひ給へ。」

と、淚、瀧のごとくにながせば、友忠、肝(きも)をけし、

「ふしぎなる事、いかに。」

と、とへば、妻、かさねて、

「今は何をかつゝみ候はん。みづから、もと、人間の種(たね)ならず。柳樹(りうじゆ)の情(せい)。はからずも、薪(たきゞ)の爲めに伐られて、已に朽ちなむとす。今は、歎くに、かひ、なし。」

とて、袂をかざすとぞみえしが、霜の消ゆるごとくに、衣(ころも)斗(ばか)り、のこれり。

「これは。」

と思ひ、立《たち》よれば、小袖のみにして、形體(かたち)も、なし。

 天にこがれ、地にふして、かなしめども、さりし面影は、夢にだに、みえず。

 せんかたなければ、遂に、もとゞり、切《きつ》て、諸國修業の身とぞ成《なり》にける。

 妻の古鄕(ふるさと)のもとへ尋ねて、ありし跡を見るに、すべて、家も、なし。

 尋ぬるに、隣家(りんか)もなければ、たれ、しる人も、なし。

 唯(たゞ)、大(おゝ)きなる柳(やなぎ)のきりかぶ、三《み》もと、殘れり。

『うたがひもなき、これ、なんめり。』

と思ひ、其傍らに塚をつき、なくなく、わかれ去りけり。

 

畔田翠山「水族志」 タバメ

 

(二一)

タバメ 一名タバミ タバミバヾク【紀州田邊】

形狀「クチビ」ニ似テ厚ク棘鬣ノ如シ背靑黑色暗ニ淡紫色ノ縱條アリ背ニ靑色ノ斑㸃アルヿ棘鬣ニ似タリ腹白色眼黑色瞳上白色觜細ク「クチビ」ニ似タリ背鬣淡黑色端紅色尾淡黑色端紅色腰下鬣淡黑色ニ乄淡紅ヲ帶脇翅淡黃色腹下翅本淡紅ニ乄末淡黑色淡黃ヲ帶頰淡紅色ヲ帶眼下藍色ノ斑アリ鼻及頭褐黑色ニ乄紅ヲ帶其長大ナル者色淺シ大者二三尺

○やぶちゃんの書き下し文

たばめ 一名「たばみ」「たばみばばく」【紀州田邊。】

形狀、「くちび」に似て、厚く棘鬣(たひ)のごとし。背、靑黑色暗(せいこくしよくあん)に淡紫色の縱條あり。背に靑色の斑㸃あること、棘鬣(たひ)に似たり。腹、白色。眼、黑色。瞳の上、白色。觜(くちばし)細く、「くちび」に似たり。背鬣(せびれ)、淡黑色、端(はし)は紅色。尾、淡黑色、端は紅色。腰の下の鬣(ひれ)、淡黑色にして淡紅を帶ぶ。脇翅(わきびれ)、淡黃色。腹の下翅(したびれ)の本(もと)は淡紅にして、末(すゑ)は淡黑色に淡黃を帶ぶ。頰、淡紅色を帶ぶ。眼の下に藍色の斑あり。鼻及び頭、褐黑色にして紅を帶ぶ。其の長大なる者は、色、淺し。大なるは、二、三尺。

[やぶちゃん注:「タバミ」は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」によれば、「イトフエフキ」・「クジメ」・「ハマフエフキ」・「フエフキダイ」の地方異名とする。この内、クジメイトフエフキは魚体から候補から外れる(後者はマダイには全く似ていない)。残るハマフエフキフエフキダイを比較すると、名にし負う後者の方がよりマダイ的ではある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」をリンクさせておいた。宇井縫藏の「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)の「フエフキダイ」を見ると、本書を指示して異名「タバミババク」を挙げる(他に本書から「タモリ」を『雜賀﨑』採取で載せるが、これは不審)から、これは、

スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ亜科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus

としてよい。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、「笛吹鯛」は『静岡県沼津市静浦での呼び名』で、『口笛を吹いているような口の形をしているため』とあり、さらに、『口美(クチミ、クチビ)』の異名については、『ハマフエフキなどとともに、クチミ、クチビ、クチミダイと呼ばれるのは口の中が赤いから』とある。写真もあるので参照されたい。なお、畔田は「クチビ」を別種としているが、推察するに、その共通点を持つ、フエフキダイ属ハマフエフキ Lethrinus nebulosus を「クチビ」に当てていると考えれば、腑に落ちる。]

畔田翠山「水族志」 メジロダヒ

 

(二〇)

メジロダヒ

大和本草曰目白ダヒ肩高ク橫濶與紅鬃魚異兩傍有紫斑其目白按「メジロダヒ」大者二尺許「タバメ」ニ似テ背淡褐色ニ乄紫斑斜ニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

めじろだひ

「大和本草」に曰はく、『目白だひ、肩、高く、橫、濶(ひろ)く、紅鬃魚(たひ)と異(こと)なり、兩傍に、紫斑、有り』と。其れ、「目白」は、按ずるに、「めじろだひ」の大なるは、二尺許り、「たばめ」に似て、背、淡褐色にして、紫斑、斜めにあり。

[やぶちゃん注:畔田が引くのは、「大和本草諸品圖下 ムツノ魚・扁鰺(ヒラアヂ)・笛吹魚・目白鯛 (ムツ(図のみから)・マアジ(地方名)・ヤガラ類・メイチダイ)」である。目白という部分に疑問があるが、私はそこで、

スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科ヨコシマクロダイ亜科メイチダイ属メイチダイ Gymnocranius griseus

に比定した。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、メイチは『東京・大阪など日本各地での呼び名。目を貫くように黒い一文字の帯があるから』としつつ、他に『痘痕(あばた)の方言、「めいちゃ」、「めっちゃ」の転訛』説、単に『目が大きいから』、また、目に『独特の臭みのある油があり、目を傷つけないように注意が必要だから』とされるが、以下で『実際には目の周辺は美味』ともある。

「タバメ」次項参照。]

畔田翠山「水族志」 コロダヒ

 

(一九)

コロダヒ【紀州】 一名ヒサノ魚【大和本草】カイグレ【勢州阿曾】石鯽【日用襍字母ニ石鯽ヒサト云按時珍食物本草曰石鯽生溪㵎池澤中長五六寸斑㸃身圓厚岳州名勝志曰石門縣東陽水出石鯽魚云云皆珍品廣西名勝志曰馬平縣靈泉多石鯽觀ㇾ此則石飾淡水魚也蓋「ヒサト」同名異物也】

大和本草曰久ダヒ其形如紅鬃魚黑㸃淡色味美ナルヿ如紅鬃魚或斜有紋三四條者大者一二尺按形狀棘鬣ニ似テ濶シ背淡黑色ニ乄黑斑首ニ頭ヨリ脇翅ニ至リ一條背ヨリ尾上ニ至リ一條アリ條俱ニ黑色也腹白色尾ニ岐ナシ其小ニ乄二三寸ノ者ヲ勢州阿曾浦ニテ「トシヲトコ」ト云背首頭淡黑色ニ乄靑ヲ帶斜ニ黑斑二條アリ首ニ又一黒條アリテ脇翅ニ至ル背ニ尾ノ方ヨリ黑㸃アリ背鬣淡黒色ニ乄上鬣ニ黑斑下鬣ニ黑㸃アリ尾黑色黑斑アリ腰下鬣本淡黑色端黑色腹下翅色相同脇翅淡黑色㋑サンセウダヒ 一名サンセイウヲ【泉州堺】ヱゴダヒ【尾州常滑】大サ尺許形狀「コロダヒ」ニ同乄背淡靑色ニ乄淡紅色ヲ混シ金色ヲ帶テ赤ヲ帶淡黑斑上鬣ノ下ニアリ金色ノ下ヨリ腹ニ至ルノ間淡藍色腹白色靑ヲ帶眼上黑下淡靑色頰及眼上唇上黒斑アリテ唇ヨリ眼ニ至リ一道藍色ナリ頭上ヨリ脇翅ニ至リ尾上ニ及ビ腹ヲ堺ヒ黑キ大斑アリ背ノ上鬣ノ頭ノ方ヨリ尾上至リ斜ニ巨キ黑斑アリ尾ヅヽノ下ニ黑斑アリ尾淡黑色ニ黃ヲ帶テ本ニ黑斑アリ腰下鬣黑色ニ乄半ニ淡藍色アリ其本ヨリ腹ニ至リ黑斑アリ背鬣上ハ淡黃ニ乄淡黑斑下ハ黑色ニ乄微淡黃色ヲ帶脇翅上黑色ヲ帶觜細シ大和本草曰一種ヒサノ魚黑色ノヒサノ魚ニハ異リ鮒ノ形ニ似テタテ筋アリ其筋ノ色濃淡相マジレリ口細ク背ニ光色アリ味ヨシ卽此也

○やぶちゃんの書き下し文

ころだひ【紀州】 一名「ひさの魚」【「大和本草」。】・「かいぐれ」【勢州阿曾。】・「石鯽(セキソク)」【「日用襍字母」に、「石鯽」、「ひさ」と云ふ。按ずるに、時珍、『「食物本草」に曰はく、石鯽は溪㵎・池澤の中に生ず。長さ、五、六寸。斑㸃、身、圓厚にして、「岳州名勝志」に曰はく、『石門縣の東陽水、石鯽魚を出づ』云々、『皆、珍品なり』と。「廣西名勝志」に曰はく、『馬平縣の靈泉、石鯽、多し。此れを觀るに、則ち、石飾にして、淡水魚なり』と。蓋し、「ひさ」と同名異物なり。】

「大和本草」に曰はく、『久(ひさ)だひ、其の形、紅鬃魚(たひ)のごとく、黑㸃、多し。淡色。味、美なること、紅鬃魚のごとし。或いは、斜めに、三四條の者、有り。』と。大なる者、一、二尺。按ずるに、形狀、棘鬣(たひ)に似て濶(ひろ)し。背、淡黑色にして、黑斑、首に、頭より脇翅(わきひれ)に至り、一條、背より尾の上に至り、一條、あり。條、俱(とも)に黑色なり。腹、白色。尾に、岐、なし。其の小にして、二、三寸の者を、勢州阿曾浦(あそうら)にて、「としをとこ」と云ふ。背・首・頭、淡黑色にして、靑を帶び、斜めに黑斑、二條あり。首に、又、一黒條ありて、脇翅(わきひれ)に至る。背に尾の方(かた)より、黑㸃あり。背鬣(せびれ)、淡黒色にして、上鬣(うはびれ)に黑斑、下鬣に黑㸃あり。尾、黑色、黑斑あり。腰の下鬣(したびれ)の本(もと)、淡黑色、端(はし)、黑色。腹の下の翅(ひれ)、色、相ひ同じ。脇翅、淡黑色。

㋑さんせうだひ 一名「さんせいうを」【泉州堺。】・「ゑごだひ」【尾州常滑。】大きさ、尺許(ばか)り。形狀、「ころだひ」に同じくして、背、淡靑色にして淡紅色を混じ、金色を帶びて、赤を、帶ぶ。淡黑斑、上鬣の下にあり、金色の下より、腹に至る間(あいだ)、淡藍色。腹、白色、靑を帶ぶ。眼の上、黑、下、淡靑色。頰及び眼の上・唇の上、黒斑ありて、唇より眼に至り、一道、藍色なり。頭上より脇翅に至り、尾上に及び、腹を堺ひとして、黑き大斑あり。背の上鬣の頭の方より、尾の上に至り、斜めに、巨(おほ)き黑斑、あり。尾づつの下(もと)に黑斑あり。尾、淡黑色に黃を帶びて、本(もと)に黑斑あり。腰の下鬣、黑色にして、半ばに淡藍色あり。其の本より、腹に至り、黑斑あり。背鬣の上は、淡黃にして、淡黑斑、下は黑色にして微淡黃色を帶ぶ、脇の翅の上、黑色を帶び、觜(くちばし)、細し。「大和本草」に曰はく、『一種、「ひさの魚」、黑色の「ひさの魚」には異(ことな)り、鮒の形に似て、たて筋あり、其の筋の色、濃淡、相ひまじれり。口、細く、背に光色あり。味、よし』と。卽ち、此れなり。

[やぶちゃん注:畔田のマニアックな細部の色の描写によって、これは百二十%、

スズキ目スズキ亜目マツダイ科マツダイ属マツダイ Lobotes surinamensis

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマツダイのページの画像や(異名に「石鯽」

学名のグーグル画像検索を見られたい。マツダイの生息水深は四十から二百メートルであるが、幼魚は表層を漂い、枯れ葉や木の枝に擬態し、成魚も流木等に寄って漂うことが多い。汽水域に侵入することが、たまにある。小魚・エビ・カニ・イカ等を食べる。日本では成魚はめったに獲れないが、数センチの幼魚が、夏の終わり頃、流れ藻や流木についたまま、海岸にうち寄せられることがある。背鰭と尻鰭の軟条が長いことから、倒すと尾鰭の中ほどか、それよりも後方にまで達し、まるで三基の尾びれがあるように見えることから、英語では、〝Triple-tail〟と呼ばれている。肉質は柔らかいが、美味である。本邦では南日本、太平洋・インド洋・地中海・大西洋の温帯・熱帯域に広く分布する(「デジタルお魚図鑑」の記載に拠った)。

「大和本草に曰わく、……」これは同書の本体部の「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」と、附属する図解説の「大和本草諸品圖下 馬ヌス人・赤(アカ)魚・寶藏鯛・久鯛 (チカメキントキ・カサゴ・クロホシフエダイ・イシダイ)」の記載を参照している。しかし、私はそちらでは、「ひさのたひ」「ひさだひ」を一貫してイシダイの幼魚と同定している。それを変更する気持ちは、ここに至っても、ない。但し、或いは、益軒の意識の端にはこのマツダイが含まれていたと考えることは吝かではない。しかし、後者の図はどうみても、マツダイではないと断言する。

「勢州阿曾」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「日用襍字母」既注だが、暫くサボっていたので、再掲する。不詳。本書ではしばしば引用書として挙げられる。他の箇所での記載を見るに。本邦で作られた日用(といっても上流階級の)される雑字(「襍」は「雜」の異体字)義集か。

「石鯽」「鯽」は通常、本邦では淡水魚のフナを現わし、畔田は、これを採り上げて漢籍を見てしまった結果、以下の割注の不審な異種の引用を齎すこととなってしまった。

『時珍、『「食物本草」……』不審。李時珍の「本草綱目」には、「石鯽」がただ一回だけ、「鯽魚」(鯉の一種)の状に出現するものの、この文字列は、ない(「漢籍リポジトリ」のここの[104-15a]を参照されたい)。そもそもが「食物本草」は元の李杲(りこう)の編である。それにこの文字列が載るかどうかは、ネットに電子化物が見当たらないので判らない。しかし、以下の引用は、話にならない内陸の河川上流の溪谷に棲息する純粋な淡水魚で、マツダイとは無縁である。但し、現代中国では、調べた限りでは、この「石鯽」は海産魚のスズキ目イサキ科ミゾイサキ属マダラミゾイサキ Pomadasys maculatus を指しているようである。まあ、畔田は最後に『蓋し、「ひさ」と同名異物なり』と言っているのでいいのだが、それに付き合わされるのはちょっと難儀やったな。

「岳州名勝志」不詳。

「石門縣」「東陽水」は不詳だが、現在の石門県なら、湖南省常徳市内のここである。完璧な内陸の山岳地帯である。

「廣西名勝志」明の曹學佺の撰になる広西省の地誌。但し、「中國哲學書電子化計劃」で原本影印を見たが、以下の文字列は見出せなかった。そもそも、この「石飾にして」というのは判読の誤りではないか?

「さんせうだひ」「さんせいうを」この異名、不詳。

「ゑごだひ」平凡社「世界大百科事典」によれば、和歌山では、

スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta

の異名である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを参照されたいが、マツダイとは似ても似つかぬ種で、ここに類縁種として挙げた畔田の意図が判らぬ。但し、以下の記載はコロダイっぽくはある。]

2022/05/05

ブログ・アクセス1,720,000突破記念 梅崎春生 傾斜 (未完)

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年八月号『世界文化』に発表され、後の作品集「ルネタの市民兵」(昭和二十四年十月月曜書房刊)に所収された。なお、底本解題によれば、『雑誌掲載のとき、末尾に「第一章終」と記されていたが、これ以後書きつがれてはいない』という注記があったので、標題には、上記の通り、未完表記をし、末尾には上記のそれを丸括弧附きで加えておいた。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。文中に注を添えた。なお、これを以って底本である沖積舎版「梅崎春生全集」第二巻は「風宴」・「蜆」・「黄色い日日」を除いて総ての電子化注を終えた。「蜆」は、偏愛する「幻化」「桜島」を除き(以上のリンク先は私のPDF縦書版オリジナル注附き)、梅崎春生の名品五本指に入れるほど、好きな作品だが、この三篇は向後も電子化はしない。何故なら、「青空文庫」で先に電子化されてしまっているからである。私は単なる私個人の私の慰みとしての電子化は、する気が、全く、ないのである。「幻化」と「桜島」はそちらにあるが、これはパブリック・ドメインになった二〇一六年一月一日から独自に満を持して電子化注をこのブログで開始し(「幻化」はここ、「桜島」はここ)、「青空文庫」のデータは、私の本文では、一切、使っていない。正直、「青空文庫」の「梅崎春生」というと、個人的な恨みがあるのである。その二〇一六年の半ば過ぎ頃だったが、私のブログを批評したネット上の無名ページを発見し、そこでは、私のブログ版「桜島」の、オリジナル注附けを批判し(注の中身に対しての批評ではなくて、詳注を附けること自体が悪いというのだから、失笑物さね。じゃあ、来なきゃいいし、見なきゃいいんだから。というより、『こんなブログを読まないで「青空文庫」にいらっしゃい』感が、これ、見え見えだった訳だ)、それどころか、今じゃボケ過ぎていて大笑いだが、私のことを『「青空文庫」に梅崎春生があるのに、わざわざ梅崎春生の作品を電子化している』暇人呼ばわりしてあったのだ。そんなこたぁ、上のリストの全十六篇という恐ろしい乏しさでは、もう逆立ちしても、言えねえよな? 要はあのブログ(タイトルなし・プロフィルなし)主は同文庫のシンパの、文字通りの闇の「工作員」だったのだろう。因みに言ってやる! 「私の梅崎春生の電子化注は今や、悪いな、工作員! 三百四十篇近くになるぜよ! クソ野郎!」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが近日内に、1,720,000アクセスを突破した記念として公開する。正直、公開を待つのに飽きただけさ。悪しからず。【二〇二二年五月五日午後八時五十四分:藪野直史】]

 

   傾  斜

 

 その家には玄関がなかった。その上奇妙なことには、便所というものが何処にもついていなかった。

 母家の方は三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]で、それにひろい縁側がついており、家族は其処から出入していた。時にお客があることがあってもその縁側で応対した。どういう大工が建てたのか判らないけれども、とにかく家としてはあらゆる虚飾を切り捨てた裸のままの家であった。ただ住むだけを目的として建てた家のかたちであった。玄関を切りすてた精神は彼にも判らないことはなかったが、便所を省略した気持がどうしても解しかねた。あるいは大工がぼんやりしていて造り忘れたにちがいないとも思ったが、それにしては間取りや採光にこまかい注意がはらわれていた。不注意な大工にはとてもできそうもない配慮があった。

 そこには鬼頭鳥子一家が住んでいた。

 母家からすこし隔てて離れがあった。離れといっても藁葺(わらぶき)の、もとは納屋(なや)かなにかに造られたらしい一棟だが、それを板でふたつに仕切って、片方が厩(うまや)、のこり半分に畳を入れて小部屋となっている。その部屋に彼は住んでいた。そして月額二百円の部屋代を鳥子に払ってした。もちろん納屋造りだから母家にくらべて造作が粗末で、窓だって格子(こうし)はあるが引戸が無く、雨の日は自由に降りこんできた。仕切の板の節穴からは厩がのぞかれた。押入れも棚もなかった。むろん便所など気の利いたものはついて居なかった。だから彼は特別の場合をのぞいて使所は勤め先に着くまで辛抱した。

 母家の前は広い空地で、花苑になっていた。そこには花花がみだれ咲いていた。華麗な季節のいろがみなぎってした。花苑のすみに板を二枚わたし、その下に大きな甕(かめ)が埋めてあって、それが便所であった。板がこいも何もなかった。ただその前に躑躅(つつじ)が二本植えてあったけれども、完全な遮蔽(しゃへい)の役は果してはいなかった。道路とは密生した杉垣でくぎられていたから、見えるおそれはなかったけれども、庭のなかからだと、角度によってはそんなわけには行かなかった。

 鳥子の家は、三人家族であった。鳥子には、花子と太郎というふたりの子供があった。この家族のなかで、彼が初めて逢(あ)ったのは、娘の花子であった。

 革手帳の所書きをたよりに、この家を訪ねあてたとき、玄関らしいものが見当らなかったので、彼は家の前ですこしまごついた。どこで案内を乞うていいのかと、ためらって立っていると、縁側の方から、どなたですか、という声がした。そして、人影がそこにあらわれた。それは女の姿であった。

 縁側に立った女をひとめ見たとき、彼は思わず視線を浮かした。女の顔は、火傷のために、醜くひきつれていた。皮膚に茶褐色の凹凸があって、表情がそれで消えていた。戦野でも、顔を焼いた兵の顔は、たくさん見てきたが、これが女の顔であるだけに、彼は平気になれなかった。すこしたじろいで視線を外(そ)らしかけたが、外らすことがかえって相手を侮辱することになると、彼は気持をひきしめた。そのとき女がかさねて言葉をかけた。

「なにか御用なんですか」

 それは明るく澄んだ声であった。

 彼がこの家を訪ねてきた理由を、すこしずつ話し始めたとき、とつぜん女が彼のことばをさえぎって、口早に問いかけた。

「それでお父さんと、どこで逢ったの。いつごろのことなの?」

 この女が花子であると判ったとき、彼はある烈しい衝動を胸にうけて、思わずだまりこんだ。そうすると花子は、彼の沈黙を落胆と感じたらしく、すこし身体を乗りだすようにして、沈んだ口調になって言った。

「お父さんは死んじまったのよ。船が沈没して――」

 お父さんと逢ったのはどこか、と花子が問いかけた瞬間、それは彼にも感じられたことであった。花子の語調には、あきらかにそのようなものを含んでいたのである。彼は佇立(ちょりつ)して、なおしばらく花子の顔を、こんどはためらわず眺めていた。ある贖罪(しょくざい)に似た気持が、彼の胸にいっぱいになってきた。花子にたいして、償うべきどんな罪も、現実には彼は犯していなかったのだけれども。

 あるいは部屋を貸してもらえるかと思って来たんだという彼の言葉を、花子が素直にうけたらしいのも、彼のこの引け目の気持をまっすぐ感じ取ったせいかも知れなかった。花子はその声と身のこなしで、急に彼の気持に近づいてきた。

「部屋はないこともないのよ。しかしひどい部屋よ」

 花子にみちびかれて、離れの部屋をみたとき、彼はすこしおどろいた。漠然と部屋というものに対する概念が彼にあったから、彼はこの部屋の荒れかたにおどろく気持がおこったので、南の島での生活を考えれば、おどろく筈のことはなかった。それは細長い変な形の部屋で、板仕切でむこうと隔てられていた。今のところが仮住居で、今日明日にも出なければならぬことでもあったし、他にあてもないことであったから、彼はわらでも摑(つか)む気持でいた。

「貸していただくとしても、あなた一存で」

「いいのよ。どうせあいてるんですもの」

 花子はそう答えた。

 その夜荷物をはこんで、彼はひっこして来た。荷物といっても、ほとんどなかった。そして母親の鬼頭鳥子とあった。

 もう四十を少し越えたように見える頑丈な婦人であった。肩の幅など彼よりももっと広いように見えた。坐っている膝の厚みも一尺は確かにあった。きちんと両掌を乗せて、自分達一家のことを簡単に話した。鳥子の眼はキラキラ光り、人を射すくめるような強い光があった。彼は膝もくずさず畏(かしこま)ってその話を聞いた。

「神様の御導きによりまして――」

 家族三人が餓えもせず大過なく現在を暮して居るという話なのであった。離れの部屋も別段貸す必要はないけれども、此の住宅難の時代に空部屋があることは神の意志に反するから、困って居る人に貸すことに決意したということであった。それにしては部屋代二百円は高いと思ったけれども、復員後金に対する観念が彼には混乱して判らなくなっていたから、或いはこの程度が相場なのかも知れないとも思った。

 それから彼は離れに行き、夜具をしいて横になった。この部屋はなにか臭いがすると彼は思った。嗅ぎ慣れた臭いだと思ったが、何の臭いか思い出せなかった。寝がえりをうとうとした時、板仕切になにか固いものがぶっつかる音がした。その音は一寸やんでまた二三度続けて聞えた。彼はおどろいて布団の上に起き直った。板仕切の向うに何者かがいるに違いなかった。彼は暫(しばら)くそうしていたが、またひとつ音がしたので思い切って立ちあがり、土間におりて扉をあけ、月明りの庭をこの棟の反対側に足を忍ばせて廻った。此の離れは何だか細長い造りだった。横木が一本渡してあってそこから首を出しているものは、月の光に照らされて、紛れもない馬の顔であった。

 「馬が!」

 叫びかけて彼はあわてて口を押えた。

 馬はながい頸(くび)を横木にもたせかけ、立ちすくんだ彼の姿を怪訝(けげん)そうな横目で見つめていた。たてがみが耳の辺や頭にふかぶかとかぶさっているが、小さな月の輪の形を宿した瞳のいろはむしろ温く光っていた。彼はやっと驚きから恢復(かいふく)して馬の方に近づいた。

 それは夜の光の中でもかなり老廃した馬の姿であった。彼が近づくと餌でも持って来たと感違いしたものか、顔を彼の方にすりよせながら、しきりに足踏みしはじめた。後脚の蹄(ひづめ)が時折板仕切に触れてかたい音を立てた。先程の音はこれに違いなかった。おれは馬と同居している、という奇妙な感慨が彼の胸をよぎったのはこの時である。馬の鼻息を裸の胸にかんじながら、それがやがていいようもない不思議な感覚となって彼の身体中に拡がって来た。ある過去から現在にわたる長い悲喜を、今この一点に凝集したような切なさがあった。ただその切ない感じだけが、彼にははっきり判った。その他の事はなにも判らなかった。彼は馬の真似のように自分も足踏み始めながら、次第に気持がいら立って来るのを感じはじめた。

 しかし彼は翌日から平凡な顔をして勤めに通いはじめた。都心の事務所まで電車で二時間近くかかった。出勤時刻はさほど厳格ではないのであったが、然し厠(かわや)の関係があるので彼はたいてい早く家をでた。庭の厠を遠慮なく使うよう鳥子は言ったが、夜分ならともかく白日の光の下では彼は其処を使う気になれないのである。軍隊にいる時でも彼は過敏にその意識をまもって来た。見通しのきくところで肉体を曝(さら)すことが、彼には堪えがたい生理的な不安を起させるのであった。此の不安はしかし、彼の内部にひそむ或る意識と頑強にからみ合っていた。それは彼にはっきり判っていた。

 勤めに出るため庭を通るとき、彼の視線はどうしても独りでそこに行く。それは強迫観念みたいに避けられなかった。誰もいないことが確められると彼はほっと肩を落すが、躑躅(つつじ)の花かげにしろい姿体を見出すと、にわかに頭に血がのぼり彼は視線を宙に外らす。恥かしがるべきはおれではなく向うではないかと思っても、顔のほてりが自然にそれを裏切った。鳥子や、花子ですらも、その事には平気で無関心に見えた。羞恥を超えた自然の営みに見えた。

 事務所は京橋にあった。昼間の何時間かを彼はそこですごした。

 郊外の駅からまた歩いて鬼頭家の門をくぐる時、それでも彼の眼は迷ったように花苑の方に流れる。躑躅は紅い花を、藤は青い花房を夕昏(ゆうぐれ)に垂れていた。彼はそれを瞳に収めて離れの方に足を運ぶ。花々は日に日に美しかった。此処だけが別の世界のようだった。此の苑は花子が作ったのかと彼は始め漠然と考えていたが、そうではなかった。花を植え花を育てるのは息子の太郎だった。

 太郎は頭の大きな、黙りこくっているとむしろ陰欝な感じのする子供であった。彼が離れに住むようになっても、太郎はほとんど彼に興味を示さないように見えた。ある日彼が少し早く家に戻って来る途中、道を切れた草原の土管のかげで、四五人の子供が集って賭博(とばく)に耽(ふけ)っているのに気がついた。南の島で彼は退屈まぎれに賭博に熱中した時期があったから、人が四五人集って、それが賭博をやっているかどうかは、感じで敏(さと)く見分けられた。それは雰囲気で判った。草原に入って彼はその群に近づいた。子供達は彼を見てもおそれる気配はなかった。おそろしい人とそうでない人を彼等は本能的に弁別するらしかった。その中に太郎がいた。

 南方で彼はやはり此の年頃の少年たちが賭博に耽っている情景を、何度となく見て来た。しかし内地の風物の中で日本の子供達が骰子(さいころ)を振っているのを見ると、何だか奇妙な感じだった。太郎のような子が骰子の目の動きに一心に打ち込んでいる顔付は少し恐い気もした。南方の子供をながめた眼と、ここの子供をながめる今の彼の眼は、たしかに変化していた。そのことを彼はぼんやり感じていた。その時太郎が顔を上げて彼を手まねいた。

「小父さんもやらないか」

 曖昧な笑いをつくったまま彼はそこを離れて歩き出した。すると太郎は立ち上って追って来た。

「離れのおじさん。俺とやんねえか。あんな子供たちとやっても面白くないんだよ」

「あんな子供たちって、お前も子供じゃないか」と彼は笑いながら言った。太郎は両手を彼の腰に廻して、身体ごとぐいぐい押すようにした。

 しかし暫くの後、馬のいない厩(うまや)で藁(わら)に埋もれ、彼は太郎と向き合って賭博を始めていたのである。始めは彼も退屈しのぎのつもりだったが、だんだん此の遊びに引き入られ始めていた。太郎はなかなか手強かった。勝つと太郎は揶揄(やゆ)するような短い笑声をたてた。彼は本気に殷子をふった。やがて厩から出て来た時には、彼は若干の金を太郎から捲きあげられていたのである。しかし彼は久しぶりに実のある仕事をしとげたような寛(ひろ)やかな感じが、彼の身体を領していることに気付いた。此の感じは長乍・忘れていたものだった。別れるとき太郎は、その中に綺麗(きれい)な花をやるから又やろうな、と言った。

 花は欲しいと思ったが彼は部屋に花をさすべき瓶すら持たなかった。彼はただ咲き乱れた花苑を勤めの行き帰りに一瞥することだけで満足していた。そしてその度に、太郎の丹誠への情熱はどこから来るのかとぼんやり考えた。しかしその事よりも、鳥子が此の庭を菜園とせずに太郎の花苑に任し切りであることが彼には不思議だった。

 鳥子が馬を買い運送の仕事をはじめるについての資金は、夫の兵太郎の殉職に対する船会社の見舞の金であった。しかし運送の仕事は表業で、鳥子は今はもっと利の多い所業に専心しているらしかった。運送業の儲(もう)けだけでも馬鹿にならなかった。朝八時頃になると鳥子はすっかり身仕度して厩(うまや)にやってくる。古い船員服を改造した服をまといゲートルを脚に巻いていた。頑丈な体軀(たいく)だからそれがまた良く似合った。空気を押し分けるようにしてあるいて来る。馬を叱咜(しった)して厩から引き出して荷車の轅(ながえ)につけると、やがて車輪の音を響かせながら何処かへ出て行く。

 夕昏になると鳥千と馬は戻って来る。荷は空の時もあるが、筵(むしろ)におおい隠された荷物が積んであることもある。鳥子はひとりでそれをかついで奥の八畳の間に運び込む。それが米俵らしいこともあったし、塩の袋でもあったし、また何を詰めたか判らない梱(こおり)のこともあった。近隣の話では鬼頭家に聞けばどんなものでも売って呉れるという話であったし、その売買の場を彼は見かけた事もある。それならば運送屋は表むきで、実は闇屋ではないかと始めて彼は気付いたが、しかしもうそんな事には彼は驚かなくなっていた。復員後そんなことには麻痺していた。人を疑うことはなかったが、人を信ずる気持からは離れていた。それで裏切られる驚きはなかった。すっかり八畳に運びこむと鳥子は馬を轅からはなして厩に追いいれる。[やぶちゃん注:「梱」ここは行李に同じ。]

 馬は実にたくさん食べた。

 朝は六時になると鳥子が厩に餌桶(えおけ)を持って来る。それから出発。昼の餌は車に積んで行き、帰って来て直ぐに一度。六時。八時。十一時に食わせる。これはみな鳥子がやった。そして真夜中の二時頃彼が眼をさますと、厩に餌箱を持ってきた音がする。この真夜中の餌だけは花子の役であった。仕切の節穴から覗くと、花千がもつ提燈(ちょうちん)の光のなかで馬は懸命に食べている。花子は薄い寝衣のままそれを見ながら、何時も小声で歌をうたっている。讃美歌であった。それは何時も同じ旋律の同じ文句であった。暗い感じの節だった。

 

  のどけきそらと  みるがうちに

  やがてほのおは  ふりきたれり

 

 馬は温和な表情で、しきりに顔を餌箱に出し入れした。提燈の薄い光のなかでも、馬の影は毛が伸びすぎて脚が畸形にみじかい感じであった。夜みても老廃のいろが濃かった。昼間の光の下で初めて彼がこの馬をながめたときの驚きは、いまでも彼の頭に残っている。それは衰順そのままの影だった。一眼見るなり彼はかすかな嘔気(はきけ)がこみ上げてきたほどであった。夜の馬のすがたの方が彼には親しみやすかった。

 夜になると馬はときどき仕切板を蹴った。最初の中は彼はそれが気になって眠れないのであった。此の馬は昼中あんなに働いてくる癖に、夜中になってもほとんど眠らないらしかった。馬は眠らなくとも彼は眠る必要があるので、彼は馬に対してあまり面白くない気持であった。ある日彼は勤めの帰りに睡眠剤を買いもとめて来た。馬に服用させる心算(つもり)なのである。四辺(あたり)が寝静まってから彼は薬を湯でとき、人参のはだに塗りつけた。厩に行って、横木から首をだしている馬の鼻面にもって行った。そうしながら、此の薬を馬に服用させるより自分が服用した方が早いのではないかと、ふと気付いた。

 馬は白い歯を見せてそれをくわえ、そしてパリパリと嚙みくだいたが、急に嚙むのを止めてじっと彼の顔を見た。食べるかといくぶん危惧(きぐ)の念でながめて居た彼は、青く澄んだ馬の視線をとつぜん受けて、少しばかりたじろいだ。いいようのない羞恥が彼の胸いっぱい拡がってきた。彼はそれを辛抱しながら、じっと馬の顔を見返してレた。すると馬はやがてかすかに頸(くび)を振って、顎を動かし始めた。嚥下(えんげ)してしまうと長い舌を出してゆっくり口の端を砥めた。そして首を垂れた。彼は部屋の方にとってかえしながら、馬は何もかも悟ったに違いないとかんがえた。

 しかしその夜も馬は眠らぬらしかった。何時もよりかえって板仕切を蹴った度数は多いようだった。薬の量が少かった為にかえって逆に亢奮(こうふん)させる結果になったのかも知れないと思ったが、もいちど試みる気持はもはや失せていた。馬を誑(たぶ)らかそうとしたこと、そしてそのことで馬に羞恥を感じたことが、彼の心にある意識となって強く作用していた。

 この瞬間からこの馬は、たんに彼の棟の同居人だけではなく、ひとつの親近な存在として彼の心の一部に投影しはじめていた。彼は勤め先のうすぐらい室でぼんやりしている時など、ふと馬のことをおもいだした。おもいだしさえすれば、あの澄んだ瞳や老いぼれた毛並が、現実に眼の前にあるときよりももっと鮮烈にうかんできた。

 朝起きると直ぐ彼は床を離れて厩の前に廻る。横木に頸をもたせた茶色の馬の眼球のなかに、朝の花苑の風景が凝縮されて映っていた。その風景の中でも花々は朝風に小さく小さく揺れていた。それを見ると彼は何とはない親しさと安らぎが胸に湧きおこってくるのを覚えるようになった。

 

 鬼頭鳥千という女は、誠(まこと)に風変りな女のように彼には思えた。

 まず最初のうちは彼は鳥子の働きぶりに驚いた。終日馬を引いて歩きまわり、戻ってくると手まめに馬を世話し、それがすむと家事のきりもりや客の応対に従事する。夜中の餌だけは花子の仕事らしかったが、その他のは全部鳥子がした。疲れを知らぬ風であった。これに彼は圧倒された。

 背は五尺三寸ほどもある。和服を着ているときも堂々としているが、男の古服をきて馬車の先にたつと、にわかに凛(りん)として来て、動物精気とでもいいたいものが身体中に漲ってくる。眉が濃く、切れながの瞼からくろい瞳が力づよく動いた。誰と話すときでもこの瞳はぜったいにたじろがない。顔の皮膚も油を塗ったように艶やかにひかった。声はわざとおさえたような裏声だが、言葉遣いは気味悪くなるほど丁寧(ていねい)であった。あるいはその逆効果を意識して使っているのかもしれなかった。

 奥の八畳間は鳥子がどこからか運びこんだ物資でいっぱいらしい。夜になると食料をもとめに来た近所の内儀(おかみ)やブローカーらしい身なりの男と、鳥子は縁側で折衝している。鳥子は和服をきちんと着こなして、両掌を膝の上にそろえ大きな座布団の上にすわっている。あがれと言わないから買手は足を沓脱ぎに置き、尻をなかば縁にかけた姿勢で、身体をねじって応対しなければならない。鳥子の姿勢はすでに地の利を得たという感じであった。応対に際しては鳥子は自分の言いだしたことは絶対に曲げないのである。しかし言葉はきわめて鄭重であった。

「さようでございますか。さようでございましても、私どもの方はこれ以下の御値段ではお分けできないんでございますのよ。お宅様の御事情もお察し申すんでございますけれどねえ」

 鳥子の頰にはそんな時ふしぎな笑いがうかんでいる。それはつくった笑いでもなければ、得意そうな笑いでもない。心からうれしげな微笑である。買手はそれでまごついてしまうのだ。鳥子の売値はけっして安くない。時とすると市価を上廻る。買手がそれを言いだすと鳥子の顔にふと当感の色が浮ぶ。それは自分の売価と市価と、どんな関係があるのか判らないといった表情であった。

「それは大変でございますわねえ」

 そして溜息をつく。溜息をつくのも、相手が市価などを言いだす蒙昧(もうまい)さに溜息をついているので、鳥子としては自分の商品が市価に左右されるということが心から解せない風であった。

 鳥子が基督(キリスト)教徒であることは、最初の日会った時の口なりで彼は知っていた。朝仕事に出かける前に縁側に卓を据(す)え、鳥子は仕事着のまま大声で聖書の一節を朗読したり讃美歌をうたったりする。その声は彼の部屋まで聞えてくる。格子窓から覗(のぞ)くと縁側にいるのはいつも鳥子と太郎だけであった。祈禱(きとう)をする鳥子のまえに太郎がおおきな頭をたれて神妙にすわっていた。花子は姿を見せないか、苑の花卉(かき)の前にしゃがんで指でさわっていたりする。しごく無関心に見えた。時にその横顔が彼にも見えた。花子がこの異相になりながら、母親の祈禱に背をむけているのは彼には一応ふしぎに思えたが、しかし花子がその風貌で祈禱をささげる情景をもし見たら、おれは顔をそむけるに違いないと彼は思った。

 しかしそれよりも彼には鳥子の信心が不思議でならなかったのだ。あのように聖書を読んだ後できわめて平然と馬車をひき闇商売にでてゆく鳥子の心理が、彼には解釈できないのであった。彼はしかし鳥子の信仰は疑わなかった。鳥子が大声で聖書をよむ声をきいても、彼はその声から誇示とか擬装とかは感じとれなかった。没我の境にあることが肉体で感じられた。贋の声ではない。そして鳥子は信仰について語りだす時、その眼がひとしお強くキラキラと輝いて来る。

 夜厩に餌箱を持ってきて、馬がそれを食べ終るまでの間、時に鳥子は気紛(まぐ)れのように彼の扉をたたくことがある。夜はたいてい和服なので、恰幅は田舎の女地主みたいな感じをあたえる。窓に引戸がないので雨に畳のはしが濡れてふやけているのを避けながら、鳥子はどっかと坐りこむのだ。せまい部屋が鳥子がひとりで一ぱいになったように見える。彼は一つの感じが胸にあるから、もし寝転んでいればそのままの姿勢で起き直ろうとしない。はじめは意識して冷淡なポーズを取っている。

 気紛れのように来るといってもそれが初めからその積りであるらしい事には、鳥子はいつも蒸したパンや蜜柑(みかん)をたもとから出すのだ。そしてそれを彼にすすめる。それから色々彼に話しかける。兵太郎と会った時の話を聞きたがったり、彼の過去を根ほり訊ねたり、また自分の一家の話をしたりする。声は相変らぬおさえつけた裏声だが、話し振りにへんに浮ついた抑揚がまじる。幽(かす)かだけれども彼はそれを敏感に感じとっていた。

 「信仰の道にお入りなさいませよ。不破さん。こんな世の中になりましては、神様だけがほんとにおたより出来るものでございます」

 鳥子が持って来たパンなどを食い欠きながら、彼はそんな話を聞いている。勿論彼は信仰にはいる気持など全然ないので、始めのうちはいい加減に聞きながして居るが、そんな場合の鳥子の態度はなにか年歯もゆかぬ子供にたいするような変に訓(おし)えるような優しさを帯びて来るので、彼は自分でわかっていながら段々いらだって来るのだ。わざと鳥子の言葉に反対したりする。どんなに意地悪く反撥しても鳥子が怒らぬことは、肉体的な直覚として彼は感じ取っていた。

「しかし小母さん。そう言うけれど、僕は今の世の中を悪いとはおもわないな。僕には信仰は要らないのだよ」

 突っぱねたような彼の言葉を、鳥子はれいの微笑をたたえて聞いている。不破の言いかたが判らないといった笑いである。しかし眼だけは強い光を帯びて執拗に彼にそそがれている。

「此の世はほんとに濁っておりますのよ」

 此の世を悪くするのも鳥子たちが闇をやるからではないのかと、彼は心の中で忌々(いまいま)しがるのだが、流石にそれは口には出さない。ただ言葉尻だけで反撥するだけだが、自然自分の反対の仕方が子供の駄々じみてくるのが判るのだ。

 やがて鳥子が部鼠から出てゆくと、彼はやっと解放された気になる。疲れているのが判る。肩臂(かたひじ)張って相対したあとの感じであった。鳥子がきたあとのこの部屋は、いつもの厩の臭気にまじって、なにか一種の香がただよっている。鳥子の体臭と香料の匂いが微妙にいりまじっていた。その匂いはなにか予感じみた戦慄を彼に与えた。彼は毛布に横たわり燈を消してじっと眼をつむっている。

「こうしては居られない」

 そんな気持であった。とにかく今のままの中途半端な気持では過して行けないことだけが彼にははっきり判っていた。しかしどうしていいのか判らなかった。彼は暗闇のなかからするどく鳥子の体臭だけを引出して嗅ぎながら、ふてくされた自分の姿勢を持てあましていた。その体臭は、南の島で彼の肉体を愛したある曹長の体臭に似ていた。

 彼は少年時をストイックな家庭で育った。学校を出るとすぐ会社に勤め、そして召集を受けた。自分がそんな対象になり得るということを自覚したのは、此の荒くれた世界のなかであった。それは受身にしろ彼には背徳の感じが強かった。しかし彼は拒み切れなかったのである。それを拒むということが軍隊の中でどの位住みにくくすることか、同時にそれを受け入れるという事がどんな利益になるものか、彼は本能みたいに嗅ぎとった。心の弱さであると言えば言えたが、どの途(みち)戦死するのだという気持がそれを支えていた。しかし破倫の感じは執拗に残った。

 部隊をかわると必ず新しい相手ができた。腐臭を遠くから知る蠅(はえ)のように、それは正確に彼に近づいた。相手同士の鞘当(さやあ)てもあった。それらを彼はひややかに眺めていた。そして彼も南の島に渡った。

 その頃から感覚的な喜びが彼にないでもなかった。それは尾を引く背徳不倫の感と一緒になって、背に粟(あわ)立つような感じであった。彼は時に背囊(はいのう)に秘めた手鏡を取出して眺めた。毛穴の立ったような此の容貌のどこが良いのかと自らを嫌悪する気持に陥ちたが、それは戦争末期の孤島の荒涼たる世界の中では、そんな気持も感傷に思えた。その頃彼はある曹長に愛されていた。

 そんな経験の中で、彼はその意図をもって近づいて来る男をひとめで弁別できる直覚をつくりあげていた。多数のなかから一瞥(いちべつ)で指呼し得た。その瞬間に彼の全肉体は、不知不識(しらずしらず)の中にそれに呼応するようにうごいた。自ら気付いて浅間しいと思うのだが、肉体がそれを裏切った。肩の力をおとし、四肢か