「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「通り魔の俗說」
[やぶちゃん注:本論考は大正元(一九一二)年八月発行の『人類學雜誌』二十八巻八号に初出されて、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
実は、本篇は「選集」版を「通り魔の俗説」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。漢文脈の箇所は後に《 》で推定訓読を挿入した。なお、平凡社の「南方熊楠選集」では、添え辞が二行分割で、『前田「通り魔の俗説」参照』『(『人類学雑誌』二七巻九号五七三頁)』となっている。なお、この前田氏は不詳。]
通り魔の俗說(人類二七卷九號五七三頁參照)
山崎美成の世事百談に此事を記せり、云く、「前略、不圖狂氣するは、何となきに怪しき者目に遮る事有て、其に驚き魂を奪はれ、思はず心の亂るゝ也、俗に通り惡魔に逢ふと云ふ是也」とて、昔し川井某なる士、庭前を眺めたりしに、椽前の手水鉢下の葉蘭叢中より、熖三尺ばかり、その煙盛に上るを不審に思ひ、刀脇指を別室へ運ばしめ、打臥して氣を鎭めて見るに、熖の後方の板塀の上より、亂髮白襦袢着たる男躍降り、鎗打ふり睨む、心を臍下に鎭め、一睡して見れば熖男共に無し、尋で[やぶちゃん注:「ついで」。]隣宅の主人發狂し、刄を揮ひ譫語[やぶちゃん注:「うはごと」。]したり。又四谷邊の人の妻、類燒後留守し居りたるに、燒場の草葉の中を、白髮の老人杖にすがり、蹣跚して[やぶちゃん注:「まんさんして」。よろよろと歩いて。]笑ひながら來る樣、頗る怪し、彼女心得有る者にて、閉眼して普門品を誦し、暫くして見れば既に消失ぬ。扨三四軒隔てたる醫師の妻、暴かに[やぶちゃん注:「にはかに」。]狂氣せりと有り(撮要)。熊楠按ずるに、古事談卷三僧行部に、關東北條の孫なる少女俄に氣絕、忠快僧都に祈らしめしに、少女に天狗付て種々の事共云ければ、忠快云、是は驗者抔にて非可奉加持之儀《加持奉るべきの儀に非ず》、止ん事なきの人、一念の妄心に依て、有らぬ道に墮ち玉ふ事不便なれば、經を誦で[やぶちゃん注:「よんで」。]聞せ奉て、菩薩をも爲奉祈《祈り奉りたるなり》、去るにても誰にて御坐候哉[やぶちゃん注:「ござさふらうかな」。]と云ひければ、耻かしければ言[やぶちゃん注:「ことば」。]にては得申出じ[やぶちゃん注:「えまうしいでじ」。「得」は不可能を表わす呼応の副詞「え」の当て字。]、書き申さむと云ければ、硯紙抔取せければ、墓々しく[やぶちゃん注:「はかばかしく」。当て字。]假名抔だに書ざる少女、權少僧都良實と書たりければ、周防僧都御房御する[やぶちゃん注:「おはする」。]にこそ侍りなんとて、物語り抔しけり、全く害心も侍らず、是罷り通る事侍りつるにて候ひつるに、きと目を見入れて候ひつる也、今は罷り歸り候ひてむとて退散し、少女無爲たり云々と有り(目を合わせば魔の害を受くる事、塵塚物語より人類學會雜誌二八○號四〇六頁に引るを見よ)。通り惡魔の迷信、中古既に本邦に有りしを知るに足れり。
(大正元年八月人類第二十八卷)
[やぶちゃん注:「山崎美成の世事百談に此事を記せり、云く、……」山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は江戸後期の随筆作家で雑学者。号は好問堂・北峰。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子。家業を継いだが、学問に没頭し、破産した。江戸派国学の小山田与清(ともきよ)に師事した。文政三(一八二〇)年から随筆「海録」(全二十巻。天保八(一八三七)年完成)に着手したが、その間、文政・天保期は、主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢・中村仏庵ら考証収集家と交わって、当時流行の江戸風俗考証に関わった。史料展観合評会の「耽奇会」や「兎園会」の肝煎を勤め、江戸市井では一目置かれた雑学者であった。しかし生計のため、晩年になるに従い、営利目的の、謂わば当たり目当ての企画物の編著が増え、精巧さに欠けるようになった。なお、私は曲亭馬琴の、その「兎園小説」類の完全な電子化注をブログ・カテゴリ「兎園小説」で進行中であり、美成が馬琴から絶交を突きつけられることとなった『「けんどん」爭ひ』も既に公開済みである。未見の方は、是非、読まれたい。「世事百談」は天保一四(一八四三)年板行の四巻からなる随筆。「国文学研究資料館」のデータ・セットを視認して、以下に全文を電子化する。挿絵は所持する吉川弘文館随筆大成版のそれをトリミングして附した。読みは一部に留めた。読み易さを考えて段落を成形し、話法部分も改行した。実は、既に「柴田宵曲 妖異博物館 異形の顏」で電子化しているが、今回は底本を変えたので、零から起こし、画像も再度、新たに作成した。
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通り惡魔の恠異(けい)
世に狂氣するものを見るに、大かたは無益(むえき)のことに心を苦しめ、一日も安き思ひなくて、はてには、胸にせまり、心みだれて、狂ひさはげるなり。されば、男たるものには、先(まづ)は、なきはづのことにて、婦人には、まゝあることなり。しかれども、男女(なんによ)にかぎらず、何事もなきに、ふと狂氣して、人をも殺し、われも自害などすることあり。そはつねづね心のとりをさめ、よろしからざる人の、我(われ)と、破(やぶ)れを、とるに至るものなり。かゝれば、養生(やうじやう)は藥治によらず、平生(へいぜい)の心がけ、あるべし。こゝろを養ふこと專(もつはら)なるべし。その、ふと、狂氣するは、何となきに恠(あやし)きもの、目にさへぎることありて、それにおどろき、魂をうばはれ、おもはず、心の、みだるゝなり。俗に「通り惡魔にあふ」といふ、これなり。「游䰟(いふこん)變をなす」[やぶちゃん注:「䰟」は「魂」の異体字。]の古語、むなしからず。不正の邪氣に犯さるゝなり。こは、常に心得あるべきことなり。
むかし、川井某(なにがし)といへる武家、ある時、當番よりかへり、わが居万(ゐま)[やぶちゃん注:「万」はママ。]にて、上下(かみしも)、衣服を着かへて、座につき、庭前をながめゐたりしに、椽(えん)さきなる手水鉢(てうづばち)のもとにある葉蘭(はらん)の生(おひ)しげりたる中(うち)より、熖(ほのほ)、炎々と、もゆる、三尺ばかり、その烟(けふ)り、さかんに立(たち)のぼるをいぶかしく思ひ、心つきて、家來をよび、刀、脇指(わきざし)を次(つぎ)へ取(とり)のけさせ、
「心地、あしき。」
とて、夜着とりよせて打臥、氣を鎭めて見るに、その熖のむかふなる板屛(いたべい)[やぶちゃん注:「屛」はママ。]の上よりひらりと飛(とび)おりるもの、あり。
目をとめて見るに、髮ふりみだしたる男の、白き襦袢(じゆばん)着て、鋒(ほさき)のきらめく鎗、打(うち)ふり、すつくと立(たち)て、こなたを白眼(にらみ)たる面(おも)ざし、尋常(よのつね)ならざるゆゑ、猶も、心を臍下(さいか)にしづめ、一睡して後(のち)、再び見るに、今まで燃立(もえたて)る熖も、あとかたなく消(きえ)、かの男も、いづち行けん、常にかはらぬ庭のおもなりけり。
かくて、茶などのみて、何心なく居(ゐ)けるに、その隣(となり)の家の騷動、大かたならず、
「何ごとにか。」
と尋ぬるに、
「その家(いへ)あるじ、物にくるひ、白刄(しらは)をふり𢌞(まは)し、あらぬことのみ訇(のゝし)り呌(さけ)びけるなり。」
と、いへるにて、
「さては、先(さ)きの怪異の、しわざにこそ。」
とて、家内のものに、かのあやしきもの語(がたり)して、
「われは、心を納(をさ)めたればこそ、妖孼(わざはひ)、隣家(りんか)へうつりて、その家のあるじ、怪しみ、驚きし心より、邪氣に犯されたると見えたれ。これ、世俗のいはゆる、『通り惡魔』といふもの。」
と、いへり。
また、これに似たることあり。
四ツ谷の邊、類燒ありし時、そこにすめる某が妻、あるじの留守にて、時は、はつ秋のあつさも、まだ、つよければ、只ひとり、椽先(えんさ)きにたばこのみつゝ、夕ぐれのけしきをながめゐたるに、燒後(やけご)といひ、はづかのかり住居(ずまゐ)なれば、大かた、礎(いしずゑ)のみにて、草葉(くさば)、生(おひ)しげり、秋風の、さはさはと、おとして、吹來(ふききた)りしが、その草葉の中を、白髮の老人、腰は、ふたへにかゞまりて、杖にすがり、よろぼひつゝ、笑ひながら、こなたに來るやうす、たゞならぬ顏色(がんしよく)にて、そのあやしさ、いはんかた、なし。
この妻女(さいぢよ)、心得(こゝろえ)あるものにて、兩眼(りやうがん)を閉ぢ、
『こは、わが心の、みだれしならん。』
とて、「普門品」[やぶちゃん注:「法華経」第八巻第二十五品(ほん)の「観世音菩薩普門品」の略称。]を唱へつゝ、心をしづめ、しばしありて、目(め)をひらき見るに、風に草葉のなびくのみ。いさゝかも、目にさへぎるもの、さらになかりしに、三、四軒も、ほどへたる醫師の妻、
「俄(にはか)に狂氣しけり。」
と、いへり。
これも、おなじ類(たぐ)ひの恠異(けい)なるべし。むかしより、「妖(えう)は人よりおこる」といふこと、亦、うべならずや。鳩巢(きうさう)云(いふ)、
「陰陽五行の氣の、四時(しじ)に流行するは、天地の正理(せいり)にて、不正なけれども、その氣、両間(りやうかん)に游散紛擾(いうさんふんぜう)して、いつとなく、風寒暑濕(ふうかんしよしつ)をなすには、自(おのづから)不正の氣もありて、人に感ずるにて、しるべし。されば、天地の間(あひだ)に、正氣をもて、感ずれば正氣、応じ、邪氣をもて、感ずれば、邪氣、応ず。」
と、いへり。
色にまよひて、身命(しんめい)を失ふも、おなじことわりと、しるべし。
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「鳩巢」は江戸中期の朱子学者室鳩巣(むろきゅうそう 万治元(一六五八)年~享保一九(一七三四)年)。加賀侯に仕え、藩命により、京都の木下順庵に学んだ。程朱の学を信奉し、道義思想を鼓吹し、赤穂義士を賛美、陽明学や古学派を排斥した。後に新井白石の推挙によって幕府儒官となり、将軍吉宗に信任され、清の「六諭衍義」の和訳を命ぜられ、「六諭衍義大意」を刊行した。以上の引用は「駿台雑話」の「妖は人より興る」の一節。九州大学大学院人文科学研究院教授川平敏文氏のサイト「閑山子LAB」「川平研究所」のこちらで電子化(但し、新字)されたものが読める。
「古事談卷三僧行部に、關東北條の孫なる少女俄に氣絕、忠快僧都に祈らしめしに、……」「古事談」は源顕兼の編になる鎌倉初期の説話集。全六巻。建暦二(一二一二)年から建保三(一二一五)年の間に成立した。「王道・后宮」・「臣節」・「僧行」・「勇士」・「神社」・「仏寺」・「亭宅・諸道」の六篇に分類された上代から中古の四百六十一話を収める。文体は和製の漢文体・仮名交り文など、多様で、どの説話も短文であり、資料からの抄出が多い。「続日本紀」・「往生伝」・「扶桑略記」・「江談抄」・「中外抄」などの記録や談話録に取材している。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の刊本を視認(「37」コマ目から)して電子化するが、これ、少しく読み難いので、カタカナをひらがなに代え、岩波の「新日本古典文学大系」版を参考に読みなど添えて、書き換え、前と同じ仕儀を加えた。
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関東北條【時政。】の孫の小女十二才、俄かに絕入(ぜつにふ)したりければ、然(しか)るべき験者などもなくて、折節忠快僧都の鎌倉を經𢌞(へまは)る時なりければ、請ひていのらせむとしけるに、小女に、天狗、付きて、種々の叓(こと)等、云ひければ、忠快、云はく[やぶちゃん注:「叓」は「事」の異体字。]、
「是れは、驗者などにて加持し奉るべき儀に非ず。止むごと無き人、一念の妄心に依りて、あらぬ道に堕ち給ふ事、不便(ふびん)なれば、經を誦してきかせ奉りて、菩薩をも祈り奉らむと為(す)るなり。さるにても、誰(たれ)にて御坐哉(おはしますや)。」
と云ひければ、
「はづかしければ、詞(ことば)にては、え申いでじ。書きて、申さむ。」
と云ひければ、硯・紙など、とらせたりけれ、はかばかしく仮名などだに未だ書かぬ小女、
「權少僧都良實」
と書きたりければ、
「周防僧都御房の御(おは)するにこそ侍るなれ。」
とて、物語など、しけり。
「全く、害心も侍らず。是れを罷り通る叓侍りつるに、縁に立ちて候ひつるに、『き』と、目を見入れて候ひつるなり。今は罷り還り候ひてむ。」
とて退散す。
小女無為と云々。
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「北條【時政。】の孫の小女」時政は鎌倉幕府初代執権だが、その孫の少女というのは不詳。「忠快僧都」(平治元(一一五九)年~安貞元(一二二七)年)は鎌倉前期の天台僧。平教盛(清盛の弟)の子に生まれ、平氏の生き残りとして、「平家物語」の成立に深く関わった。覚快法親王に入室し、慈円の弟子となって律師に任ぜられたが、「平家の都落ち」に同道、壇の浦で捕らえられ、伊豆に配流となった。文治五(一一八九)年に流罪が解け、上洛すると、再び慈円に師事し、建久六(一一九五)年には、上洛した源頼朝に伴われて、関東に下り、鎌倉幕府に仕えた。これは平家一門の僧として、平氏の怨霊を鎮めるために起用されたものであった。その後は京と鎌倉を往復しながら、慈円が仏法興隆のために白河に建てた大懺法院の供僧となり、他方で源実朝の信頼を受けて、祈祷を行い、その活動は弟子の小川僧正承澄の著「阿娑縛抄」(あさばしょう)に詳しく載る。台密小川流の祖。晩年は比叡山の横川の長吏となって、権勢を振るった(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。「權少僧都良實」「新日本古典文学大系」の注によれば、『天承二年(一一三二)正月、権少僧都で崇徳護持僧。同年閏四月に没。仁和寺僧、高野御室覚法(白河皇子)の濯頂弟子(仁和寺相承記)』とある。「周防僧都御房」同前で、『父孝清、あるいは養父(祖父)良綱が周防守であった故の称』とある。「小女無為」「その後は何事もなく無事であった」という意。
「塵塚物語より人類學會雜誌二八○號四〇六頁に引る」サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)・一九七一年刊で新字新仮名)の「邪視のこと」から引用する。一部の不明字を後に示す国立国会図書館デジタルコレクションの画像で補正した。
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邪視のこと
南方「出口君の『小児と魔除』を読む」参照
(『東京人類学会雜誌』二四巻二七八号二九六頁)
『改定史籍集覧』第一〇冊所収『塵塚物語』(天文二十一年[やぶちゃん注:一五五二年。]著)四三頁に、当時本邦にこの信ありしを徴すべき文あり。いわく、「ある人のいわく、およそ山中広野を過ぐるに、昼夜を分かたず心得あるべし。人気《ひとけ》罕《まれ》なる所にて、天狗魔魅の類、あるいは蝮蛇猛獣を見つけたらば、逃げ隠るる時、必ず目を見合わすべからず。怖ろしき物を見れば、いかなる猛《たけ》き人も、頭髪立ちて、足に力なくふるい出て、暁鐘を鳴らすこと勿論なり。これ一心顚倒するによりてかかることあり。この時|眼《まなこ》を見合わすれば、ことごとくかの物に気を奪われて、即時に死すものなり。外の物は見るとも、かまえて眼ばかりは窺うべからず。これ秘蔵のことなり。たとえば暑きころ、天に向かいて日輪を見ること、しばらく間あれば、たちまち昏盲として目見えず。これ太陽の光明|熾《さかん》なるがゆえに、肉眼の明をもってこれを窺えば、終《つい》に眼根を失うがごとし。万人を降して、平等に愍れみ給う日天さえかくのごとし、いわんや魔魅障礙の物をや。毫髪なりとも便《たより》を得て、その物に化して真気を奪わんと窺う時、目を見るべからすとぞ」。
また背縫(『東京人類学会雑誌』二七八号三〇〇頁に出ず)は、同冊『老人雑話』五頁、秀頼五歳参内の時、太閤むりょうの闊袖の羽織に、烏を背縫にせし由見えたり。
(明治四十二年七月『東京人類学会雑誌』二四巻二八〇号)を見よ)。通り惡魔の迷信、中古既に本邦に有りしを知るに足れり。
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『南方「出口君の『小児と魔除』を読む」』は、既に電子化注した、南方熊楠の「小兒と魔除」(PDF一括版)の初出題名。この「塵塚物語」というのは、室町時代の説話集で、奥書には天文二十一年とあり、藤原某の作とするが、永禄一二(一五六九)年の序文があるので、実際には、その頃の成立と考えられている。上代以降、主に鎌倉・室町時代の重要人物の人格・逸話や、徳政などの歴史的な事柄に関する話六十五編を収録するが、記載内容は厳密性を欠き、近世的な感覚による叙述も見られ、その信憑性は低いが、中世の風俗や慣習を多く伝える(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。以上の引用部が、国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第十冊のここに載っている。非常に読み易いので、一読をお勧めする。]
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