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2022/05/09

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」電子化注始動 / 「序」

 

[やぶちゃん注:本篇は「のちのかりのことばのき」と読み、柳田国男が明治四一(一九〇八)年に宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。題名は『群書類従』所収の「狩詞記」(就狩詞少々覚悟之事)に由来するもの。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの献本(扉に献本辞と署名有り)原本のこちらを視認した。正字正仮名で、漢字表記はなるべく当該表示漢字を再現してある。なお、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」のここにある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集」の「第二十七卷(新装版)」一九七〇年筑摩書房刊)を加工データとして、使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 なお、底本原本では、読点はなく、総ての箇所が句点であるが、これは流石に読み難いので、私の判断で一部を読点に代えた。また、やや難読と思われる箇所には私が〈 〉で読みを歴史的仮名遣で添えた(柳田のルビはカタカナなので判別は容易である。なお、読みは所持する「ちくま文庫」版一九八五年刊「柳田國男全集」第五巻の当該論文も参考にした)。下線は底本では右傍線。踊り字「〱」「〲」は私自身が生理的に嫌いなので正字に代えた。禁欲的に注を附した。冒頭に目次があるが、省略する。

 また、私の電子化注した、早川孝太郎氏の「猪・鹿・狸」の「猪」のパートは大いに参考になろうと思う。早川の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川。ここ)を中心とした民譚集で非常に面白い。特に以下の注では挙げないが、未読の方は、是非、お勧めである。

 

    

 

一 阿蘇の男爵家に下野(シモノ)の狩の繪が六幅ある[やぶちゃん注:「六」は印刷では「四」であるが、自筆で「六」に修正されてある。]。近代の模寫品で、武具や紋所に若干の誤謬が有るといふことではあるが、私が之を見て心を動かしたのは、其繪の下の方に百姓の老若男女が出て來て見物する所を涅槃像のやうに畫いてあるのと、少しは畫工の誇張もあらうけれども、獲物の數が實に夥しいものであることゝ、侍雜人〈ざうにん〉迄の行裝が如何にも花やかで、勇ましいと云はんよりは寧面白い美くしいと感ぜられたことゝである。下野の年々の狩は當社嚴重の神事の一であつた。遊樂でも無ければ生業では勿論無かつたのである。從つて有る限の昔の式例作法は之を守り之を後の世に傳へたことと思はれる。此が又世の常の遊樂よりも却つて遙に樂しかつた所以であつて、例としては小さいけれども、今でも村々の祭禮の如き、之を執行ふ氏子の考が眞面目であればあるほど、祭の樂しみの愈深いのと同じわけである。肥後國誌の傳說に依れば、賴朝の富士の卷狩には阿蘇家の老臣を呼寄せて狩の故實を聽いたとある。倂し坂東武者には狩が生活の全部であつた。まだ總角〈あげまき〉の頃から荒馬に乘つて嶺谷を驅け巡り。六十年七十年を狩で暮す者も多かつたのである。何も偏土の御家人に問はずとも、立派に卷狩は出來たことであらうから、此說は信用するには及ばぬ。が唯この荒漠たる火山の裾野が原も、阿蘇の古武士にとつては神の惠の樂園であつて、代々の弓取が其生活の趣味を悉く狩に傾けて居つたことは明かである。處が其の大宮司家も或時代には零落して、初は南鄕谷〈なんがうだに〉に退き、次には火山の西南の方、矢部(ヤベ)の奧山に世を忍び、更に又他國の境にまでも漂泊したことがある。祖神の社頭には殺生を好まぬ法師ばかりが衣の袖を飜へし、霜の宮の神意は知らいでも、阿蘇谷の田の實は最早他國の武家の收穫であつた。昔肥前の小城(ヲギ)の山中で腹を切つた大宮司は、阿蘇の煙の見える所に埋めよと言つたといふことである。其子孫が久しく故土に別れて居つたのである。嘸〈さぞ〉かし遙に神山の火を眺めて、產土〈うぶすな〉の神と下野の狩を懷かしがつたことであらう。然るに漸くのことで浦島のやうに故鄕に歸つて見れば、世は既に今の世に成つて居つた。谷々の牟田には稻が榮え、草山には馴れたる牛馬が遊んで居て、鹿兎猪狐の類は遠く古代へ遁げ去つて居つたのである。昔を寫す下野の狩の繪には、隱れたこんな意味合も籠つて居るのである。

[やぶちゃん注:「下野」恐らく「ひなたGBS」の椎葉村大河内地区のどこかにあった。現在も小字地名に残っているはずなのだが、地図類では見たらない。【二〇二二年五月十日削除・追記】以下の没落後の位置が孰れも肥後で、椎葉村と国を越えて有意に離れていることが不審だったが、その際、椎葉村字大河内小字下野という記載を発見したため(してしまったため)、大きな誤認を見逃してしまった。何時も情報を頂戴するT氏より昨日、「AsoPedia」の「下野狩」を紹介戴いた。そこに「下野狩(しもののかり)」はここに記されている通り、阿蘇大宮司家によって行われた神事的な演武の巻狩(まきがり)であって、阿蘇山麓で展開されたものであった。『鎌倉幕府を開いた源頼朝の富士の巻狩の手本となったと伝えられており、天正七年(一五七九)に阿蘇氏の没落と共に廃絶し』たとし、『下野とは、現在の坊中(黒川)』(ここ)『からの登山道、南阿蘇村下野』(ここ)『からの登山道と北外輪山麓の黒川に囲まれた広大な原野』・『沼沢地で』、『狩場は永草』(ながくさ:ここ。下野の東北直近)の「鬚捊(びんかき)の馬場」・「中の馬場」・「赤水の馬場」と三つに分かれていたとある。「下野狩」の起こりははっきりしないものの、『始めは農作物を食い荒らす害獣を駆除し、開拓神(国造神社)』(阿蘇神社の北に位置するため、通称「北宮」と呼ばれている「国造(こくぞう)神社」。約二〇〇〇年の歴史を持つ古い神社)『に贄(にえ)として捧げる小規模な』贄狩であったものが、『時代が下がるに従い、阿蘇家の勢力も拡大し、狩の方法も進化し』たとあり、『狩は武士団の軍事訓練の一環として、諸将を招集し、勢子(せこ)の動員から隊の編成、狩場での諸将の指揮振りを見る等、大規模なものとな』ったとして、その狩りの拡大や発展が解説されてある。而して、『阿蘇家には、この下野狩の様子を描いた』三『幅の「下野狩図」が残されてい』るとあり、そのカラー画像も載る(恐らくは古くにあったものの原画の部分写本であろう)。絵師は『肥後狩野派の祖とされる』薗井守供(そのいもりとも)で、精緻を極めた美麗なものでる。そして、その下方に「下野狩の推定図」が画像で記されて執行勢の進行路の指示もある。それを見るに、グーグル・マップ・データではこの画面の内部が展開地域であったことが判明した。永く私の読者として御助力頂いているT氏に心より御礼申し上げるものである。

「雜人」賤民。

「南鄕谷」現在の熊本県阿蘇郡高森町高森のこの附近。手間取ったが、「ひなたGPS」のここで阿蘇山南麓のこの旧地名を見出せる。

「矢部」位置的に見て、現在の熊本県上益城郡山都町北中島附近か。「矢部サンバレーカントリークラブ」というのがあり、阿蘇山の西南という条件に一致する。同じく「ひなたGPS」で旧地名の「矢部」を確認出来た。]

二 今の田舍の面白く無いのは狩の樂を紳士に奪はれた爲であらう。中世の京都人は鷹と犬とで雉子〈きじ〉鶉〈うづら〉ばかりを捕へて居〈を〉つた。田舍侍ばかりが夫役〈ぶやく〉の百姓を勢子〈せき〉にして大規模の狩を企てた。言ふ迄も無いが世の中が丸で今とは異なつて居る。元來今日の山田迫田(サコダ)は悉く昔の武士が開發したものである。今でこそ淺まな山里で、晝は遠くから白壁が見え、夜は燈火が見えるけれども、昔は此等の土地は凡て深き林と高き草とに蔽ひ隱されて、道も橋も何も無い、烈しく恐ろしい神と魔との住家であつた。此中に於て、茲〈ここ〉に空閑〈くげん〉がある茲に田代〈たしろ〉を見出でたと言ふ者は。武人の外に誰が有らうか。獸を追ふ面白味に誘はれてうかうかと森の奧に入つて來る勇敢な武士でなければ出來ないことである。其發見者は一方には權門大寺に緣故を求めて官符と劵文〈けんもん〉とを申下し、他の一方には新に山口の祭を勤仕して神の心を和らげた。名字の地と成れば我が命よりも大事である。之を守る爲には險阻なる要害を構へ。其麓には堀切土居の用意をする要害山の四周は必ず好き狩場であつた。大番役に京へ上る度に。むくつけき田舍侍と笑はれても。華奢風流の香も嗅がずに。年の代るを待兼て急いで故鄕に歸るのは。全く狩といふ强い樂があつて。所謂山里に住む甲斐があつたからである。殺生の快樂は酒色の比では無かつた。罪も報も何でも無い。あれほど一世を風靡した佛道の敎も。狩人に狩を廢めさせることの極めて困難であつたことは。今昔物語にも著聞集にも其例證が隨分多いのである。

[やぶちゃん注:「迫田」山の狭い谷あいに開かれた小さな田。

「空閑」未だ人が入って田畑になっていない開発し得るような未開地。

「田代」ここは田にするに適した土地。或いはかなり古い過去の隠田(おんでん)の跡も指すであろう。

「劵文」 奈良時代以降、土地家屋などに関する権利を証する文書を指す。]

三 此の如き世の中も終に變遷した。鐡砲は恐ろしいものである。我國に渡來してから僅に二三十年の間に。諸國に於て數千の小名の領地を覆へし、其半分を殺し其半分を牢人と百姓とにしてしまふと同時に、狩といふ國民的娛樂を根絕した。根絕せぬ迄も之に大制限を加へた。「狩詞記」の時代は狩が茶の湯のやうであつた。儀式が狩の殆〈ほとんど〉全部に成りかけて居る。大騷をして色々の文句を覺え、畫に描いた太田道灌のやうな支度で山に行つても、先日の天城山の獵よりも不成績であつたことが隨分有つたらうと思はれる。併しまだ遠國の深山には、狩詞記などゝいふ祕傳の寫本が京都に有るやら無いやらも考へずに、せつせと猪鹿〈しし〉を逐〈おひ〉掛けて居る地頭殿が有つた。併し鐵砲が世に現はれては是非も無い。弓矢は大將の家の藝であるけれども、鐵砲は足輕中間(チウゲン)に持たすべき武具である。而も其鐵砲の方が、使ひ馴れては弓よりもよく當り遠くへ屆く。平日は領主の威光で下人の狩を禁ずることも出來るが、出陣の日が次第に多くなつては、留守中の取締は付き兼ねる。昔は在陣年を越えて領地へ歸つて見ると、野山の鳥獸は驚くべく殖えて居る。此が凱旋の一つの快樂であつた。然るに今は落人〈おちうど〉の雜兵〈ざふひやう〉が糊口の種に有合せの鐵砲を利用して居る。土民は又戰敗者の持筒〈もちづつ〉を奪ひ取つて、之を防衞と獸狩の用に供して居る。怒つて見ても間に合はぬ。山には早〈はや〉よほど鹿〈しか〉猿が少くなつた。そこで徒然〈つれづれ〉のあまり狩の故實を筆錄する老武者もあれば、之を讀んで昔を忍ぶ者も段々と多くなつたのである。

[やぶちゃん注:「猪鹿〈しし〉」古い言い方で振った。別に「ゐのしししか」でもいいが、リズムがだれるので好まなかっただけである。]

四 狩詞記(群書類從卷四百十九)を見ると、狩くらと言ふは鹿狩に限りたることなりとある。所謂峯越す物といひ山に沿ふ物といふ「物」は鹿である。全く鹿は狩の主賓であつた。此には相應の理由のあることで、つまりあらゆる狩の中で鹿狩は最も興が高いといふ次第である。北原晉氏は鐵砲の上手で、若い頃を久しく南信濃の山の狩に費した人である。然るに十年餘の間に猪を擊つたのは至つて小さいのを唯一匹だけであつた。猪は何と言つても豚の一族である。走るときは隨分早いけれども、大雪の中をむぐむぐと行く有樣は鼹鼠〈もぐら〉と同じやうである。之に反して鹿は走るときはひたと其角〈つの〉を背に押付ける。遠くから見ても近くでも、丸で二尺まはり程の棒が橫に飛ぶやうなものである。足の立所〈たちどころ〉などは見えるもので無い。之を橫合に待掛けて必ず右か左の三枚〈さんまい〉を狙ふのである。射當てた時の歡〈よろこび〉はつまり所謂技術の快樂である。滿足などゝいふ單純な感情では無い。昔から鹿狩を先途〈せんど〉とするの慣習も或は此邊の消息であらうか。乃至は未知の上代から傳へられた野獸の階級とでもいふものがあるのか、兎に角に鹿は弱い獸で、人からも山の友からも最も多く捕られて最も早く減じたらしいのである。奈良や金華山に遊ぶ人たちは。日本は鹿國のやうに思ふだらうけれども、普通の山には今は歌に詠む程も居らぬのである。此因〈このちなみ〉に思ひ出すのは北海道のことである。蝦夷地には明治の代まで鹿が非常に多かつた。十勝線の生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)の停車場を始として、ユクといふ地名は到る處に多い。然るに開拓使廳の始頃に、馬鹿なことをしたもので、室蘭附近の地に鹿肉鑵詰製造所を設立した。そしたら三年の内に鹿も鑵詰所も共に立行〈たちゆ〉かぬことになつた。北海道の鹿は鐵砲の痛さを知るや否や直に其傳說を忘却すべく種族が絕えたのである。

[やぶちゃん注:「狩詞記(群書類從卷四百十九)」国立国会図書館デジタルコレクションの「新校 群書類從」(昭和七(一九三二)年内外書籍刊)の第十八巻の当該部(正しくは「就狩詞少々覺悟之事【今、狩詞記と稱す。】」)をリンクさせておく。

「三枚」肋骨の三本目を指す。鹿に限らず、猪・熊でもそこを急所とする。

「生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)」前の丸括弧はルビ、後者のそれは本文。幾つかのフレーズで検索をかけても見つからず、古い地図も調べたが、お手上げ。一つ、根室本線に「幾寅」なら、現存する。ここは現在の南富良野町幾寅であるが、十勝ではない。しかし、ここには南に「ユクトラシュベツ川」もあるから、ここか? また、調べると、アイヌ語で「ユク」は「鹿」を指し、古くはヒグマやエゾタヌキなども含めて「ユク」と読んでいたと、アイヌ工芸品店「アイヌモシリ三光」の店長のブログのこちらにあったので、以上の話との親和性が強いことが判った。【二〇二二年五月十日追記】同じくT氏より、『本序の最後に明治四二(一九〇九)年二月一日のクレジットがあるが、明治四十二年十月十二日まで、旭川―帯広間は「十勝線」であり、「幾寅駅」は明治三五(一九〇二)年十二月六日開業』との御指摘を受けた。これによって、柳田の「生寅」は「幾寅」の誤記の可能性が高いことになる。]

五 茲に假に「後狩詞記」といふ名を以て世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、勿論第二期の狩に就ての話である。言はゞ白銀時代の記錄である。鐡砲といふ平民的飛道具を以て、平民的の獸卽ち猪を追掛ける話である。然るに此書物の價値が其爲に些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、其中に列記する猪狩の慣習が正に現實に當代に行はれて居ることである。自動車無線電信の文明と併行して、日本國の一地角に規則正しく發生する社會現象であるからである。「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是〈そんぜ〉」といふ書物の、農業生產之部第五表禽畜類といふ所に、猪肉一萬七千六百斤、其價格三千五百二十圓とあるのが立派な證據である。每年平均四五百頭づゝは此村で猪が捕られるので、此實際問題のある爲に、古來の慣習は今日尙貴重なる機能を有つて居る。私は此一篇の記事を最〈もつとも〉確實なるオーソリテイに據つて立證することが出來る。何となれば記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀨淳氏から口又は筆に依つて直接に傳へられたものである。中瀨氏は椎葉村大字下福良(〈シモ〉フクラ)小字嶽枝尾(タケノエダヲ)の昔の給主〈きふしゆ〉である。中世の名主職を持つて近世の名主職に從事して居る人である。此人には確に狩に對する遺傳的運命的嗜好がある。私は椎葉の山村を旅行した時に、五夜中瀨君と同宿して猪と鹿との話を聽いた。大字大河内の椎葉德藏氏の家に泊つた夜は、近頃此家に買得〈ばいとく〉した狩の傳書をも共に見た。東京へ歸つて後賴んで狩の話を書いて貰つた。歷史としては最〈もつとも〉新しく紀行としては最〈もつとも〉古めかしいこの一小册子は、私以外の世の中の人の爲にも、隨分風變りの珍書と言つてよからう。

[やぶちゃん注:「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是」この書物、未詳。識者の御教授を乞う。

「一萬七千六百斤」十トン五百六十キログラム。

「椎葉村大字下福良」ここ

「嶽枝尾」椎葉村大河内(おおかわうち)の、ここに嶽枝尾(たけのえだお)神社がある。

「給主」中世に於いて、幕府や主家から恩給としての所領を与えられた者。また、領主の命を受けて領地を支配した者。給人とも称した。江戸時代でも、幕府・大名から知行地或いはその格式を与えられた旗本・家臣などをも指した。

「買得」買い取ること。]

六 此序に少しく椎葉村の地理を言へば、阿蘇の火山から霧島の火山を見通した間が、九州では最深い山地であるが、中央の山脈は北では東の方〈かた〉豐後境へ曲り、南では西の方肥薩〈ひさつ〉の境へ曲つて居るから、空〈そら〉で想像すれば略〈ほぼ〉Sの字に似て居る。其Sの字の上の隅、阿蘇の外山(外輪山の外側)の緩傾斜は、巽〈たつみ〉の方へは八里餘、國境馬見原(マメワラ)の町に達して居る。其先には平和なる高山が聳〈そばだ〉つて、椎葉村は其山のあなた中央山脈の垣の内で、肥後の五箇莊〈ごかのしやう〉とも嶺を隔てゝ鄰である。肥後の四郡と日向の二郡とが此村に境を接し、日向を橫ぎる四〈よつ〉の大川は共に此村を水上として居る。村の大さは壹岐よりは遙に大きく隱岐よりは少し小さい。而も村中に三反とつゞいた平地は無く、千餘の人家は大抵山腹を切平げて各〈おのおの〉其敷地を構へて居る。大友島津の決戰で名を聞いた耳川の上流は村の中央を過ぎて居るが、此川も他の三川〈さんせん〉も共に如法の瀧津瀨であつて、舟はおろか筏さへも通らぬ。阿蘇から行くにも延岡、細島乃至は肥後の人吉から行くにも、四周の山道は凡て四千尺内外の峠である。

[やぶちゃん注:「馬見原」現在の熊本県上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)馬見原(まみはら)

「五箇莊」落人伝説で知られる隠田集落。この附近

「大友島津の決戰」天正六(一五七八)年、豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向国高城川原(宮崎県木城町のこの附近)を主戦場とした「耳川の戦い」。

「耳川」サイト「川の名前を調べる地図」のここ。現在は小丸川。]

七 比の如き山中に在つては、木を伐つても炭を燒いても大なる價を得ることが出來ぬ。茶は天然の產物であるし、椎蕈〈しひたけ〉には將來の見込があるけれども、主たる生業はやはり燒畑の農業である。九月に切つて四月に燒くのを秋藪〈あきやぶ〉と云ひ、七月に切込んで八月に燒くのを夏藪と云ふ。燒畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど、二年を過ぐれば士が流れて稗も蕎麥も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバと訓〈よ〉む。卽ち火田〈くわだ〉のことで常畠〈じやうばた〉熟畠の白田〈しろた〉と區別するのである。木場切の爲には山中の險阻に小屋を掛けて、蒔く時と苅る時と、少くも年に二度は此處に數日を暮さねばならぬ。僅な稗や豆の收穫の爲に立派な大木が白く立枯〈たちがれ〉になつて居〈ゐ〉る有樣は、平地の住民には極めて奇異の感を與へる。以前は機〈はた〉を織る者が少なかつた。常に國境の町に出でゝ古着を買つて着たのである。牛馬は共に百年此方〈このかた〉の輸入である。米も其前後より作ることを知つたが、唯〈ただ〉僅〈わづか〉の人々が樂しみに作るばかりで、一村半月の糧にも成り兼るのである。米は食はぬならそれでもよし、若し些〈いささか〉でも村の外の物が欲しければ、其換代〈かへしろ〉は必ず燒畑の產物である。家に遠い燒畑では引板〈ひきいた〉や鳴子〈なるこ〉は用を爲さぬ。分けても猪は燒畑の敵である。一夜此者に入込まれては二反三反の芋畑などはすぐに種迄も盡きてしまふ。之を防ぐ爲には髮の毛を焦して串に結付け畑のめぐりに插すのである。之をヤエジメと言つて居る。卽ち燒占〈やきしめ〉であつて、昔の標野(シメノ)、中世莊國の榜示〈ばうじ〉と其起原を同じくするものであらう。燒畑の土地は今も凡て共有である。又茅〈かや〉を折り連ねて垣のやうに畑の周圍に立てること、之をシヲリと言つて居る。栞も古語である。山に居れば斯くまでも今に遠いものであらうか。思ふに古今は直立する一〈ひとつ〉の棒では無くて、山地に向けて之を橫に寢かしたやうなのが我國のさまである。

[やぶちゃん注:「火田」「焼き畑」のこと。古くは朝鮮のそれを指した。

「引板」鳴子と同じような警鳴器。略縮して「ひた」とも呼ぶ。]

八 椎葉村は世間では奈須と云ふ方が通用する。例の肥後國誌などには常に日州奈須と云つて居る。村人は那須の與一が平家を五箇の山奧に追詰めて後、子孫を遺して去つた處だといふ。昔の地頭殿の家を始め千戶の七百は奈須氏であるが。今は凡て那須といふ字に書改めて居る。併しナスといふのは先住民の殘して置いた語で、かゝる山地を言現〈いひあら〉はすものであらう。野州の那須の外、たしか備後の山中にも那須といふ地名がある。椎葉と云ひ福良と云ふも今は其意味は分らぬけれども、九州其他の諸國に於て似たる地形に與へられたる共通の名稱である。奈須以外の名字には椎葉である黑木である甲斐である、松岡、尾前、中瀨、右田、山中、田原等である。就中〈なかんづく〉黑木と甲斐とは九州南部の名族で、阿蘇家の宿老甲斐氏の本據も村の北鄰[やぶちゃん注:底本は「部」の字の誤植を手書きで「鄰」に訂してある。]なる高千穗庄であつた。明治になつて在名の禁が解かれてから、村民は各緣故を辿つて、村の名家の名字の何れかを擇んだが、其以前には名字を書く家は約三の一で、これだけをサムラヒと稱して別の階級としてあつた。其餘は之を鎌サシといふ刀の代りに鎌を指す身分といふことであらう。昔の面影は此外にも殘つて居る。家々の内の者卽ち下人は女をメロウといひ男をばデエカンと云ふ。デエカン卽ち代官である。近代こそ御代官はよき身分であつたが、其昔は主人を助ける一切の被管〈ひかん〉は大小となくすべて、代官であつた。

[やぶちゃん注:「肥後國誌」明治一七(一八八四)年頃に成瀬久敬の「新編肥後国志草稿」(享保一三(一七二八)年成立)を水島貫之・佐々豊水らが編纂したものを指すものと思われる。

「備後の山中にも那須といふ地名がある」現在の広島県山県(やまがた)郡安芸太田町那須であろう。

「高千穗庄」椎葉村の北東の現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町

「被管」「被官」はこうも書く。]

九 次には猪を擊つ鐵砲のことである。村に傳へらるゝ寫本の記錄「椎葉山根元記」に依れば、奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫(西曆一五八七―一六一三)の幕下に屬して居つた時代に、椎葉の地頭へ三百梃の鐡砲が渡された。此時代は明治十年[やぶちゃん注:一八七七年。]の戰時[やぶちゃん注:西南戦争。]と共に、椎葉の歷史中最悲慘なる亂世であつた。十三人の地侍は徒黨して地頭の一族を攻殺〈せめころ〉した。此時の武器は凡て鐵砲であつた。元和年中[やぶちゃん注:一六一五年から一六二四年まで。江戸前期。]に平和が快復して後、此三百梃は乙名〈おとな〉[やぶちゃん注:長老を意味する一般名詞。]差圖を以て百姓用心の爲に夫々〈それぞれ〉相渡したとある。寬延二年[やぶちゃん注:一七四九年。]の書上を見ると、村中の御鐵砲四百三十六梃、一梃に付銀一匁の運上を納めて居る。今日ある鐵砲は必しも昔の火繩筒では無いやうだ。其數は寬延[やぶちゃん注:一七四八年から一七五一年まで。]度よりも增して居るや否や。運上の關係は如何〈いかに〉なつて居るかは凡て知らぬ。又如何なる方法で火藥を得て居るかといふことも知らぬ。併し鐵砲の上手は今日も決して少なく無いと考へられる。それは兎に角、椎葉の家の建て方は頗〈すこぶる〉面白い。新渡戶博士が家屋の發達に關する御說は、此村に於ては當らぬ點が多い。山腹を切平げた屋敷は、奧行を十分に取られぬから、家が極めて橫に長い。其後面は悉く壁であつて、前面は凡て二段の通り緣になつて居る。間〈ま〉の數は普通三つで、必ず中の間が正廳〈せいちやう〉である。三間ともに表から三分の一の處に中仕切があつて、貴賤の坐席を區別して居る。我々の語で言へば人側(イリカハ)である。正廳の眞中には奧へ長い爐があつて、客を引く作法は甚しくアイヌの小屋に似てをる。卽ち突當りの中央に壁に沿うて、床の間のやうな所があつて、武具其他重要なる家財が飾つてある。其前面の爐の側が家主の席であつて之を橫坐といふ。宇治拾遺の瘤取の話にも橫坐の鬼とあるのは主の鬼卽ち鬼の頭〈かしら〉のことであらう。橫坐から見て右は客坐と云ひ、左は家の者が出て客を款待(モテナ)す坐である。

 

Okarinokotobanoki

[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り。なお、非常に読み難いが、こちらにはここに奥付がある。左ページの右下方)の当該部からトリミングした。キャプションは、上から下へ、右から左へで、

   *

「廏」(=廐(うまや))

「障子又ハ雨戶」

「ウシロハ切崖」

「キヤクザ」

「エンガハ」

「シキダイ」

「トコ」(=床の間)

「カマト」(=竃(かまど))

「戶」(=勝手口)

「戶」(同前)

「泉又ハ筧」

   *]

 

遠來の客は多くの家の客坐に於て款待せられた。緣の外は僅の庭で其前面は全く打開〈うちひら〉けて居る。開けて居ると言つても狹い谿を隔てゝ對岸は凡て重なる山である。客坐の客は少し俯〈うつむ〉けばその山々の頂を見ることが出來る。何年前の大雪にあの山で猪を捕つた、あの谷川の川上で鹿に逢つたといふやうな話は、皆親しく其あたりを指さして語ることが出來るのである。之に付けて一つの閑話を想出すのは、武藏の玉川の上流棚澤の奧で字〈あざ〉峯といふ所に、峯の大盡本名を福島文長といふ狩の好きな人が居る。十年前の夏此家に行つて二晚とまり、羚羊〈かもしか〉の角でこしらへたパイプを貰つたことがある。東京から十六里の山奧でありながら、羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝は先づ神棚の天井を照す家であつた。此家の緣に腰を掛けて狩の話を聽いた。小丹波川の波頭の二丈ばかりの瀧が家の左に見えた。あの瀧の上の巖には大きな穴がある。其穴の口で此の熊(今は敷皮となつて居る)を擊つたときに。手袋の上から二所〈ふたどころ〉爪を立てられて此傷を受けた。此犬は血だらけになつて死ぬかと思つたと言つて、主人が犬の毛を分けて見せたれば、彼の背には縱橫に長い瘢痕があつた。あの犬にも十年逢はぬ。此の親切な椎葉の地侍たちにも段々疎遠になることであらう。懷かしいことだ。

[やぶちゃん注:「棚澤」現在の神奈川県厚木市棚沢附近であろう。

「宇治拾遺の瘤取の話」「宇治拾遺物語」の知られた瘤取り爺さんの話。「鬼ニ瘤被取事」(鬼に瘤取らるる事)。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、原文が読める。

「羚羊」獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ属カモシカ亜属ニホンカモシカ Capricornis crispus(日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県に分布)。私は槍ヶ岳から下る、徳本(とくごう)の手前で、夕刻、四、五メートル先の藪の中にいる♀と出逢ったのが、野生のそれとの邂逅の最初であった。]

十 椎葉山の狩の話を出版するに付ては、私は些も躊躇をしなかつた。此の慣習と作法とは山中のおほやけである。平地人が注意を拂はぬのと交通の少ない爲に世に知られぬだけで、我々は此智議を種に平和なる山民に害を加へさへせずば、發表しても少しも構はぬのである。之に反して「狩之卷」一卷は傳書である。祕事である。百年の前迄は天草下島の切支丹の如く、暗夜に子孫の耳へ私語〈ささや〉いて傳へたものである。若し此祕書の大部分が既に遵由〈じゆんいう〉の力を現世に失つて、椎葉人の所謂片病木(カタヤマギ)の如くであることを想像せぬならば、私はとても山神の威武を犯してかゝる大膽な決斷を敢てせぬ筈である。併し畏るゝには及ばぬ。狩之卷は最早歷史になつて居る。其證據には此文書には判讀の出來ぬ箇所が澤山ある。左側に――を引いた部分は、少なくも私には意味が分らぬ。それのみならず實の所私はまだ山の神とは如何なる神であるかを知らないのである。誰か讀者の中に之をよく說明して下さる人は無いか。道の敎〈をしへ〉は知るのが始〈はじめ〉であると聞く。もし十分に山の神の貴さを會得したならば。或は大に悔いて狩之卷を取除くことがあるかも知れぬ。其折には又狩言葉の記事の方には能〈かな〉ふ限〈かぎり〉多くの追加をして見たいと思ふ。

 

   明治四十二年二月一日 東京の市谷に於て

                  柳 田 國 男

[やぶちゃん注:「遵由」頼りにして従うこと。

「片病木(カタヤマギ)」以下の本文の「土地の名目」の「二三」に出る。そこに『カタヤマギ。片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ』とある。]

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