只野真葛 むかしばなし (48)
○蟲のまねをよくして枝豆をうる人、有し。度々、御よび、客の有(ある)時など、なぐさみに被ㇾ遊し。是も律義ものにて、いそがしき時は、手つだへに來りしが、數寄屋町に引(ひつ)こして後、一度、たづねて來りしこと、有し。
「ぢゞに成(なり)、齒がかけて、昔のやうにはできませぬ。」
と、いひしが、少しはまねたりし。
其頃、出入の豆腐屋、律義ものにて、日々に上(あげ)しとふふ、二季拂(ばらひ)かよひ帳なりしが、盆暮には十兩前後のはらひなりし。是にて、暮しの手、はりたること、おもふべし。五、六丁入(いり)のとうふ入岡持(いれおかもち)、臺所に有て、二丁づゝ入(いる)るは定(きま)りなり。入用の時は、いく丁とても、このむことなり。朝、二丁入(いれ)て行(ゆき)、夕方來る時、ふたを明(あけ)て見て、なければ、又一丁入(いれ)、有時は、晝こしらへのとうふと取(とり)かへて、二丁おきて行(ゆく)ことなり。そのおくことは、豆腐屋まかせ、又、上(うへ)の用になき時、下々(しもじも)は、いくらくひても、かまわず、といふやうな、大まかなことにて有し。豆腐屋も「一旦那(いちだんな)」とて主人のごとく有(あり)がたがりて、
「壱年に廿兩、豆腐をうる所は、築地にて、門跡樣と工藤樣。」
とて、ほめしとぞ。
○ワ、七(ななつ)ばかりのことなりし。「お品」といふ御奉公人、父樣、病家なりしが、もとは御本丸を見た人ならん、其頃は愛宕下、九鬼樣なるべし、部屋かたより、むかふに、愛宕の見へる所なりし。病氣にて下(さが)り居(をり)候時、父樣は駕(かご)の中にのせて御つれ被ㇾ成しが、子ども好きにて、錦手の雛《ひな》の膳わん壱人前と、けし人形、香箱入、又、拜領のよしにて、あらゝ木にて仕(したて)たる菓子だんすの、おほは、まるくぬきて【絹花なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、切《きれ》にてしたる作花(つくりばな)を色々付(つけ)たる物、もらひて有し。何にもならねど、見事のものなりし。
[やぶちゃん注:以上に「菓子だんす」の絵が入っている。底本からトリミングした。
「菓子だんす」思うに、雛飾りの小型のミニチュアの菓子入箱であろう。
「あらゝ木」「蘭」裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata の異名。「櫟」。年輪の幅が狭く、緻密で狂いが生じにくく、加工し易く、光沢があって美しいという特徴を持つ。紅褐色をした美しい心材が多く、彫刻品などの工芸品・器具材・箱材・机の天板・天井板。鉛筆材等に用いられる。
「おほは」キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連オオバギ属オオバギ Macaranga tanarius であろう。大葉木。材は淡褐色で軽く柔らかく、下駄材・箱材に好適とされる。ここはそれを薄く剝いだものを花型に切り抜いたものを貼付した細工と思われる。
「お品樣」お雛さまの調度品の謂いであろう。]
それより、
「お品樣、お品樣。」
とて、うれしがりて有しこと、おぼへたり。
快氣後、へやへ上りしこと、有し。其時は九(ここのつ)なりし。白練(しろねり)に吹繪(ふきゑ)と縫(ぬひ)にて、すそ模樣付(つえ)たるひとへものを、もらひたりし。「おしづ」・「おつね」と、だんだん、ゆづりに成(なり)しが、そなたにも着られしなり。部屋かたにて、三味線などなりて、にぎやかの御殿なりし。
[やぶちゃん注:「吹繪」地紙の上に種々の形に切り抜いた型紙を置き、その上方から絵の具や墨などを含ませた筆に、強く息を吹きかけて飛沫を散らし、型紙を取り去って、絵や模様を表わしもの。]
橘りう庵樣よりは、桑原家内、年々、年始(ねんし)ふるまへによばれしが、其時、いつも、母樣も御よばれ被ㇾ成るれど、御斷(おことわり)のこと、おほかりし。ワなども、兩度、行(ゆき)しことおぼへたり【乳のみ子の時分は年々かけずにいらせられしとなり。】[やぶちゃん注:同前で『原頭註』とある。]。
[やぶちゃん注:「橘りう庵」複数回既出既注だが、再掲しておくと、幕医橘隆庵元常(もとつね)。真葛の母遊の父である仙台藩医桑原隆朝(りゅうちょう)の師。]
明和九年辰のとし、二月廿九日、橘家、ふるまひなりしが、
「餘り、年々、斷もならず。」
とて、母樣ばかり御出被ㇾ成し留守のうち、名大の火事、出(いで)たりし。風つよく、物さわがしきに、父樣も留守なり、小倉樣【門ならびの旗本衆勝之進といひし。】[やぶちゃん注:同前で『原頭註』とある。]の角に立(たつ)て、やけだされのくるを見てゐたりしに、稻葉橋を三丁つゞきの女駕(をんなかご)とほる。『やけだされか。』とおもひて有しに、桑原のばゞ樣、をぢ樣と、母樣にて有し。
「見物どころで、なし。」
とて、内へつれて御歸り、かた付物など被ㇾ成たりし。いまだ御膳上らぬうち、大火にて御かへり被ㇾ成しと被ㇾ仰し。道すがら、風つよく、駕も吹たほすやうなりしとぞ。其日は、築地は風わきにて、心づかひなかりし故、七ツ頃よりやけだされ、おびたゞしく來たりし。其時分、派きゝ男(をとこ)老中右近樣御家中、難波(なんば)・牧多(まきた)家内(いへうち)【是は内緣有(あり)。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、熊谷與左衞門家内【ばゞ樣お妹の所。】[やぶちゃん注:同前。]、片岡平十郞といひしも、右近樣御家中、與右衞門妹の行(ゆき)し所にて【名お淸といひし。】[やぶちゃん注:同前。]、前々より出入(でいり)せし程に、
「見へそうなもの。」
と思召れしが、工藤家、風わきの所、心付(こころづか)ず、外(ほか)へ行(ゆき)しとなり。
[やぶちゃん注:「明和九年辰のとし、二月廿九日」ここ以降の大火は、江戸三大大火の一つに数えられる「明和の大火」である。明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に江戸で発生し、目黒行人坂(ぎょうにんざか:現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。同地にあった大円寺に盗みに入った武州熊谷無宿の願人坊主真秀の放火が原因であった(真秀は同年四月頃に捕縛され、同年六月二十一日、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された)。これは、私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女』でも、瀧澤馬琴が彼女をせつせつと語る中に出ており、そこに「明和の大火」も注してあるので、未読の方は、是非、読まれたい。
「稻葉橋」不詳。表記が誤っているか。
「老中右近樣」この時、「右近」と称するのは、陸奥国棚倉藩主で老中首座であった松平武元であろう。]
此牧多、見もん第一の人にて有し。明日、客、有はづにて、料理の仕度とゝのひて有しを、その夜先、やけだされに御ふるまひ被ㇾ成しゆへ、
「此騷動の中、よく丁寧の御料理被ㇾ成、御手のまわること。」
と、感心して有しとなり。是等も幸(さいはひ)のことなりし。一夜の逗留なり。
[やぶちゃん注:「見もん」権門の意であろう。]
追々、中元ども、毛氈(まうせん)に、荒繩かけて、包(つつみ)たるもの、持て來りしが、雛をかざりしまゝにて、立のきし故、やたらに引つつみて持て來りしなり。
「手や足、かけて、何にもならねど、お子さまがたのお持(もて)あそびに被ㇾ成。」
とて置(おい)て行たり。手前女ども、
「さてさて。おしきこと。」
といへば、難波の女、口々に、
「それより、おしきは、雛のかざりて有(あり)しうしろの押入に、色々の反物が二長持(ふたながもち)有しが、をしかりし。」
と、いひしとぞ。
富士南の風、一晝夜吹(ふき)しが、一日に、目黑より千手まで、やけはらひ、翌日、風かわりて、又、吹もどせし程に、大火事、道をかえて、かへりこし間、
「築地も、あぶなし。」
とてさわぐに付(つき)、やけだされの人たちも、又、立のきて有し。
黑けむり、天にみちて、
「三月朔日(ついたち)日中に、提燈つけて、通行仕(し)たりしは、珍らしきこと。」
後には、父樣御はなし被ㇾ成し。與左衞門御家内は、しばらく逗留なりし。翌年の春、父樣、右近樣御家中へ御いで御覽被ㇾ成しに、
「雛をもらひしこと、おびたゞしく、段にあまりて、たゞ、おくほどなりし。」
と被ㇾ仰し。誠に「やけほこり」とは、此ことなり。
其火事に光明寺の山へのぼりて、やけ死(じに)たる人、數をしらず。其故は明曆中の大火に、此山にて、ふしぎに人の命たすかりしとぞ、それをいひつたへ聞(きき)つたへて、火事とさへいへば、此山にのぽることゝ近邊の人々おもひてゐし故、大火といふいなや、一さんに此山へ諸道具をはこびしほどに、道もなきよふにて有しに、火かゝりしかば、たき付(つけ)に成(なり)て、のこらず、燒死す。其當座、少しづゝ假屋さしかけなどして、人、すまひしに、光明寺の山にて亡㚑《もう》(れい)の音(こゑ)するといふこと、聞えしとぞ。女子ども、おぢをそれて、夜は外へ出(いで)ざりし。夜更(よふけ)、物しづかになれば、何となく、なげくやうな音(こゑ)のせしを、おそれて衾《ふすま》かぶり、又は、物の陰などに、よりかくれなどせしに、次第に聲もたしかに聞(きこ)へ、九ツに成(なり)四(よつ)に成、五(いつつ)頃からも、少々、きこゆるほどになりしに、
「誰がきゝても、人聲(ひとごゑ)に、たがわず。」
といふ沙汰有しを、公儀より、ひそかに捕手(とりて)をつかはされて四方よりかこみよせて見たれば、五十人ばかり、ぬす人、つどひて居(をり)しとぞ。聲を聞て、おそるゝ所をみすまし、やけのこりの品を、とりしとぞ。其夏は、殊の外、ひかり物、おほく、とびたり。駕のものなどは、
「夜ごとに見し。」
とて、かたりしを、おさな心に、おそろしくおもひて有し。
[やぶちゃん注:「光明寺の山」東京都港区虎ノ門にある光明寺か(グーグル・マップ・データ)。「明和の大火」の死者の供養塔が現存する。]
日ごとに火事見舞をつかわさるに御いとまなかりし。重の内に、酒、そへて、二所へ被ㇾ遣を、二升入の德利に酒つめたるを、ふたつ口など結(むすび)て、
「夫(それ)、いだせ。」
と被ㇾ仰しを、十六、七の小女、力もないくせに兩手に持(もち)て立(たち)しが、おもはず、とくりを打(うち)つけて、兩方ともに打わり、酒四升を坐中へこぽして、なきて居(をり)しが、急にとくりとゝのへることならず、まことに仕方なきことにて有し。ばヾ樣、被ㇾ仰しは、
「すべて、德利といふもの、力、有ても、ふたつは提(さげ)ぬもの。」
と、おしへ被ㇾ成しを、『げに』とおもひて、今も、わすれず。
[やぶちゃん注:]「夫(それ)、いだせ。」底本は『がいだせ』だが、意味が通じないので、「日本庶民生活史料集成」を参考にして訂した。]
火事後、疫(えやみ)はやりて、人、多く死(しに)、父樣、病家に御懇意に被ㇾ成(なり)し町人、廿五、六より仕合(しあはせ)よく、だんだん、仕出(しいだ)し、りつぱに普請せしが、新宅びらきなどは、きらきらしきことなりしとぞ。
しかるに、其男、大病にて有しを、父樣、つきそひ、看病被ㇾ成しが、
「大時疫なりし。」
とぞ。
「今宵かぎりならん。」
と思(おぼし)めされしに、
「熊の胆(ゐ)をのませて見たし」
と思しめされし。かしらへ、病人、うわ言に、
「熊の胆、熊の胆、」
と、いひしゆへ、
「病人もいふことなり。」
と、おぼしめし、のませられしに、それにて、ひらけて、命、とりとめ、快氣するといなや、大火にて、皆、燒失なり。
しづまりて後、病人見舞・火事見廻かねて御いで被ㇾ成しに、やけのこりし藏にさし懸(かけ)して住居(すみゐ)しに、きらきらしき佛壇有(あり)て、花をおほく上(あげ)て有しを、
「常は、佛など信ぜぬ人の、何事ぞ。」
と、とわせられしに、
「此尊像は『作(さく)の御佛(みほとけ)』とて、むかしより、持(もち)つたへたる御像(おんぞう)なり。私(わたくし)ぢゞの代より三十三にて、死去致候間、私も當年三十三なり。今年かぎりの命ならんと、力をつくして、家もつくりし所、『大病、はたして、たすかるまじ。』と覺悟いたして有しに、いたつて、むつかしく、夢中(むちゆう)にて有し内、此尊像の、我につげ給ふは、
『其元(そこもと)こと、只今、死べきを、少しさゝはること有(あり)て、命、かゝりて有しことなり。いま、熊の胆をのたまはずば、たすかりまじ。』と仰せらるゝと、たしかにおぼへし時、あなた樣のくまのゐを被ㇾ下し故、たすかりたり。其有がたさ、身にしみしゆへ、とりおかず、佛壇を、しつらへし。」
と語(かたり)しとぞ。
「佛の御(おん)しめし、かならず、なきことには、あらず。」
と被ㇾ仰し。
其ふし、今一言、御しめし有りしは、
「『さりながら、生たるといふ、名のみぞ。』と、佛の被ㇾ仰しとぞ。
「是、いかなることならん、をかしきこと。」
と其時は、かたりしが、後、一向、引(ひき)たゝず、何をしても左前に成(なり)て、だんだんに下(さが)りしが、裏屋ずみして終(をはり)しならん。」
と被ㇾ仰し。おちぶれては、恥(はぢ)て、人交(ひと)《まぢわ》りもせざりし、とぞ【うら店《だな》に有(あり)といふことまではきかせられしが、死生(ししゃう)のこと、御存なしと被ㇾ仰し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。
數寄屋町にて、折々ごとの御はなしに、
「此佛の御しめしをもて考えれば、命はおもきものと見へたり。花々しく普請仕(しまはし)て後、急死し、さて、『いかほどか、仕だすべき人の、おしきこと。』と、人にいはれて、死後に、家、やけなば、よそ目には、やすらかにおもわるゝを、せつかく仕たりし家は燒(やけ)、あるかなきかに裏屋ずみして、世をうらやみ、身をかなしみて生(いき)たるが、命みじかき若死(わかじに)には、まさることゝ見ゆるは、合點ゆかぬこと。」
と被ㇾ仰し。實(まこと)に誰(たれ)も、さこそ、おもわるゝやうなり。
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