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2022/05/02

多滿寸太禮卷第三 秦兼美幽冥禄

 

  秦兼美(はたのかねみ)幽冥禄(ゆうめいろく)

 

 承久の比(ころ)、深水形部秦兼美(ふかみぎやうぶはたのかねみ)といふ者は、もとは京家(きやうけ)の學匠なり。さうなき儒者にて、相州鎌倉の屋形(やかた)へめされ、闕所(けつしよ)の領知を給はり、桐が谷(ヤツ)の邊(へん)に居住し、日夜、儒書を講談し、五經・易に通ず。門人數輩(すはい)、市(いち)をなし、性(せい)、學を恣(ほしいまゝ)にして、專ら佛道をよろこばず。よりより、その門弟にあへば、則ち、誹(そし)りあざむきて、

「四民の内、たとひ士と成、農となり、工とならずんば、せめては商人(あきうど)ともなれかし。なんぞ釋氏(しやくし)となりて身を捨てむや。」

 「警論」といふ書を、三卷、作(さく)し、人性(にんじやう)を正し、世の敎へを扶(たす)けなす。その上篇の畧(りやく)にいはく、

「先づ、儒のいはく、『天は則ち理(り)なり』といへり。其形體(ぎやうたい)を以《もつて》いふ時は、是を帝(てい)といひ、帝は、則ち、天(てん)、天は則ち、帝。蒼天の上に、別に一天(てん)、宮居(ぐうきよ)・端閣(たんかく)、この世のごとき帝王のいますに、あらず。是れ、全く釋氏の妄語なり。 又、所謂(いわゆる)、三天・九天・三十三天、十方《じつ》(はう)の諸帝、いかに天の多(おほふ)して、帝(てい)の多き事や。これを思へば、いまだ階級の形(かた)ちのときを、まぬかれず。帝、又、割據の爭ひある事まぬかれず。漢の張道陵を尊(たつと)むで天師(てんし)となす。天、豈(あに)師あらむや。宋の林氏の女を以、天妃(てんひ)となす。天、いかに妃あらむや。それ、天は理のいづる所(ところ)。聖人(せいじん)は天にのつとる。道陵、たとひ、聖(せい)なりとも、亦、人鬼(じんき)なり。林女(りんによ)、既に死す。是れ又、遊魂のみ。なんぞ天たる事を得むや。 天を敬(うやま)ふ所以(ゆゑん)にして、此の說をなす事は、天を慢(あなど)る所なり。世に人、只、天にあるの天を、しる。此故に、日月星辰の光り、風雨霜露(さうろ)のあらはれを見る。吉(きつ)と凶とは天のしわざ、禍(くわ)と福とは天の降(くだ)すなり。をのが天ある事を、しらず。丹扃(たんけい)煌々(くわうくわう)は天の君なり。靈臺(れいだい)湛々(たんたん)は天の帝なり。三綱五常(さんかうごぢやう)、眼晰(がんせき)は日月星辰の光りにあらずや。禮樂法度(れいがくはつと)の明白正大(めいわくしやうだい)なるは、風雨霜露の敎へにあらずや。をのが君と、天の君と、たがふ時は、凶禍(けうくわ)なり。かならず類(るい)を以、したがふ。天の帝と、をのが帝と、合(かな)ふ時は、吉福(きつふく)なり。達する者は、これを信じ、愚者は、則ち、懵(あやま)るなり。」

 其の論篇、大むね、かくのごとし。

[やぶちゃん注:「秦兼美」「深水形部秦兼美」私は鎌倉史には常人より詳しいつもりだが、全く不詳。百済からの渡来した有力豪族秦氏の末裔という設定であろう。初期の幕府御家人では二階堂行政の妻が熱田神宮の巫女で秦氏が出自である。

「承久」一二一九年から一二二二年。京を舞台としており、「承久の乱」を挟むから、設定はその前後の短い期間しか設定不能である。以下の「闕所」云々とあって鎌倉に住んでいるところからは、乱後か。

「闕所」持ち主のない土地。特に中世に於いて、罪を犯して没収されたり、訴訟によって改替されたり、或いは、知行者が死亡して幕府や領主が直接支配することになった所領を指す。

「桐が谷(ヤツ)」カタカナは原本にママ。材木座の桐ヶ谷(きりがやつ)。但し、この谷戸名は現代に受け継がれていない。諸資料からみると、この中央の丘陵の中の谷の一つであったと考えられる(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「五經・易」と、わざわざ「易」を出しているところからは、五経の「易経」(周易)に基づいえ発展した広義の易学に詳しかったようだ。

「釋氏」仏僧。

「警論」不詳。

「張道陵」(三四年~五六年)後漢の道士。天師道(五斗米道(ごとべいどう))の祖。本名は張陵。蜀の鵠鳴山に入って、天人から道を授かり、それによって治病に尽くし、民衆から信奉されたという。

「宋の林氏の女を以、天妃となす」中国沿海部を中心に現在でも信仰を集める道教の女神、で航海・漁業の守護神媽祖(まそ)天后は、宋代に実在した官吏の娘黙娘が神となったものであるとされている。当該ウィキによれば、黙娘は九六〇年に興化軍莆田(ほでん)県湄州島(びしゅうとう)の都巡であった林愿(りんげん)の『六女として生まれ、幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得て』、『村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ』、『崇められた。しかし』、二十八『歳の時に父が海難に遭い』、『行方知れずとな』り、『これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。また、他に、『父を探しに船を出し遭難したという伝承もあ』り、『福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』とある。

「丹扃」強く赤く輝く宮門か。

「三綱五常」儒教で説く絶対に守るべき基本徳目。三綱(君臣・父子・夫婦間の恭順)と五常(五徳とも。仁・義・礼・智・信)。

「眼晰」明確に表れた実在。

「懵る」この漢語は本来は「愚かである」「呆ける」の意。]

 

  或る時、兼美、聊か、病ひをまふけ、數日(すじつ)、療治す。門弟、うれへて、神祇(じんぎ)に祈る。

 兼美、聞きて、

「各《おのおの》、書をよむといへ共、理(り)をてらす事、いまだ、徹せず。鬼神(きしん)、なんぞ酒米(しゆべい)を私(わたくし)にすべけむや。人の命(いのち)、豈(あに)紙錢(しせん)を以《もつて》買ふべけんや。吾、誰(たれ)をか欺かむや、天をあざむかんや。」

と云《いひ》て、此の夜(よ)、遂に卒(そつ)す。

 しかれども、胸のほとり、やゝ暖かなれば、しばらく葬むらず。門弟、各、これを守る。

 七日七夜を過《すぎ》て、衣(ころも)、うごく。をのをの、驚き、うかゞへば、鼻のなか、氣を、いだす。急ぎ、藥をあたへ、良(やゝ)久敷(ひさしく)して、眼(まなこ)をひらき、四五日を經て、漸々(やうやう)もとのごとくに成りて、妻子・けむぞく・門弟を集めて、淚をながして云く、

「釋門の偉(おゝい)なる鬼神(きしん)の、誠(まこと)なる事、至れる事を、我れ、日比(ひごろ)、癖見(ひやくけん)してあやまり、佛神を毀(そし)る。今(いま)、官をけづられ、祿をへらさる。已(すで)に生(しやう)する事、あたはず」。

 門人、おどろき、

「いかに。」

と、とへば、

「我、常に怪しみを語らず。然れども、御邊らに、果報の空(むな)しからざる事をしめさむ。

 はじめ、我れ、病ひ、少し、おこたる時、二つの大きなる蠅《はへ》の、床(ゆか)のまへにおつるをみるに、其のまゝ變じて、人、となる。靑衣《せいえ》をきて、黃(き)なる巾(きん)をかうふり、吾に、

『地府(ちふ)、急ぎ、汝を召す。とく、赴き給へ。』

と云ふ。我れ、

『地府とは、いかに。』

黃巾、答へて、

『閻羅王。』

と、こたふ。我れ、聞きて、

『冥途、黃泉(くわうせん)は、道(みち)、異(こと)にして、いかにしてゆかむや。それ故、吾れをはなれて、いかで、冥地(めいち)あらむや。』

使者のもの、いかりて、予(われ)を、大きなるかわ袋(ぶくろ)の中に入、あみのごときなる細き繩にて、口を、ゆひ、兩人、中(ちう)にひつさげて、行く事、疾風のごとし。諸木の梢をふむ事を、きく。

 其の後(のち)、しきりに闇(くら)き空(そら)をゆく。使者、袋を平地(へいち)に置きて、中より、我を引き出だす。兩人して引はり、あゆむともなく、一つの鐵門に至る。

 守る者、或《あるい》は、高き鼻、深き眼(まなこ)、鬚髭(びんはつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]そらさまに生ひたり。

 使者に問ふに、

『朱印(しゆいん)なり。』

と答(こた)ふ。

 又、紅衣(こうい)の者、一人の男、三人の女を引きて來《きた》る。守る者、又、問ふ。

『墨印(こくいん[やぶちゃん注:ママ。])なり。』

と答ふ。

『印を、みん。』

といへば、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]札(ふだ)を出《いだ》して見する。長さ二寸斗《ばかり》。我を引居(ひきゐ)たる靑衣の札は朱字、紅衣の札は墨字(こくじ)なり。

 使者、門を入《いり》て、吾れをともなひ、左の廊下に行《ゆく》。

『いかなる所ぞ。』

と問へば、

『冥都(めいと)㐧一の關(せき)なり。』

といふ。

 爰(こゝ)にて、兼美、死(しゝ)たる事を、しる。

 又、前の朱墨(しゆぼく)の札を、とふ。答へていわく、

『冥司(みやうじ)、人を呼びに來りて、又、蘇生する者には、朱を以《もつて》書き、永く返らざる者には、墨(すみ)を以(もつてす)。』

 かくて、行く事、數里(すり)にして、鐵圍城(てつゐじやう)に入《いる》。

 城門の守護、使者に、とふ。さきのごとく、答ふる。俄かにして、禁庭(きんてい)に入《いる》。使者のいふやう、

『御邊(ごへん)、重罪なしといへ共、黃泉(くわうせん)の道は嚴重にして、凡世(ぼんせい)にあらず。』

とて、繩を解きて、わが首に付(つ)く。ひきて入《いり》、まづ、冠服司(くわんふくし)に入(い)る。主司(しゆし)は、六旬にこへたる白髮の老女なり。其の長(た)け八尺あまり。則ち、わが衣(ころも)をはぎて、

『罪巾(ざいきん)、おさむ。』

と、いへば、我、漸々(やうやう)、肌着斗りに、繩を帶びてゆく。

 聽門(ちやうもん)に及びて、一人の使者さきに入、しばらくの間に、五、六人を引《き》て出《いづ》るをみれば、おめき、さけぶ。

 吾れを、とらへて入る。

 階下にひざまづきおるに、大王、尊服寶冠を着(ちやく)し、臺上(うてなのうへ)に居住(きよぢう)す。

 侍衞(じゑ)の官人、四方に、ゐねうす。我にむかつて曰《いはく》、

『汝は、相州の儒士、秦兼美(はたのかねみ)にあらずや。汝、儒に尊(たつと)ぶ所は、上(かみ)、鴻濛(こうもう)をうかゞひ、中《なか》、聖智(せいち)に法(のつと)り、下(しも)は物理を究め、乾(けん)をひらき、坤(こん)を閉づ。妙に至り、微(み)にいたる。精醇(せいじゆん)を陶治(たうぢ)し、元和《げん》(わ)を橐(ゆふ)す。無中有象(む)《ちゆう》(うざう)の薀(うん)をきわめ、陰陽(ゐんやう)動靜の根(ね)を妙にし、翕忽變化(うこつへんくわ)を用とす。出入(しゆうにふ)に方(かた)なく、三つにして一つに會す。これを儒と云《いふ》。しかも鬼神(きしん)もうかがふ事、あたはず。[やぶちゃん注:「橐」の字はこの字の異体字で、最上部が「右」のこの字体(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、かくした。]

  今、汝、ひとへに己(をのれ)が見(けん)をとりて、文詞(ぶんし)を作り、神を謗(そし)り、佛(ほとけ)を毀(そし)る。天、至つて大なるに、階級し、帝、至つて尊(たつと)きに、割據(かつきよ)を以《もつて》これに戲むる。妄りに天子の號を論じ、妄りに天妃の稱を弁ず。其の罪(つみ)、大いなり。且、儒書の中に天を云《いふ》事は、一つならず。「春秋」に「天王」と書し、「詩」には「天の妹(まつ)」に、たとふ。昊天(くわう)《てん》其の子(こ)といへるがごとし。皆、汝が論ずる、天、已(すで)に師なし、「妃、なし」と論ぜば、なんぞ王あり、妹(まい)有《あり》、子あり、といはんや。汝が學、誠(まこと)に拘(かゝは)りて通(とう)せず。滯(とゞこほり)て、さゝはりあり。さゝわり[やぶちゃん注:ママ、]あれば、鄙癖(ひへき)なり。誠に、俗賤虛妄(ぞくせんこもう)の士、なんぞ儒者の名を犯すや。汝、もとは六品《りく》(ほん)の官となり、花閣(くわかく)に出入《でいり》す。汝、神佛と信(しん)ぜず、鬼神(きしん)をなみする。殊に降(くだ)して七品《しち》(ほん)とす。』

大きに怒り、述べたまふ。

 吾、頓首して禮謝して、

『過(とが)を改めむ。』

と乞ふ。尊王のいわく、

『此人、面(おもて)には請けぬれども、後(しりへ)に誹(そし)りて、退(しりぞひ)て後(のち)、又、いわむ。獄中をみせて、その心を折服(せつふく)さすべし。』

と。

[やぶちゃん注:「罪巾」「巾」はここでは「布切れ」で、ここは罪人の衣服を指しているようである。下着だけ残すというのは、彼に対する最小限度の心遣いであろう。但し、挿絵の亡者は褌のみであるが(一人だけの女性の亡者が着衣であるのは寧ろ違和感が大である)、兼美は衣服はそのままである。本文では地獄巡りの後に、服は返されている。挿絵師はちゃんと本文を読んでいないようである。

「元和を橐(ゆふ)す」「元和」は本来の恒常的絶対的平穏和平の意か。「橐」は「袋」の意であるから、「元和」の状態をしっかりと包み込むという意か。

「無中有象」本来の無常なる仮初めの現実世界の儚い実体の意か。仏教的だが、中国の古来の諸思想でもそこは根本的には共通していると思われるから、問題はあるまい。

「薀」蓄え、保存すること。現実世界を安定させることか。陰陽思想に基づく「陰陽動靜の根を妙にし」もそれを言っている。

「翕忽變化」「翕忽」は「速やかなこと」。道家的であるが、前注のそれと同じく、現実世界に対する盗撮は儒家もそのような見かけの変容を認めていよう。

「用」現存在への作用の意か。

「階級し」勝手に対象を区分・差別化し、自然には存在しない絶対的強権力や架空の至上の称号を捏造することであろう。

「詩」「詩経」。『「天の妹」に、たとふ』は「大雅」の「文王之什」(ぶんわうのじゆう)の「大明」(だいめい)の一節に出る。

   *

大邦有子

俔天之妹

文定厥祥

親迎于渭

造舟爲梁

不顧其光

(大邦子有り

 天の妹に俔(たと)ふ

 文をもつて厥の祥(しやう)を定めて

 親(みづか)ら渭(い)に迎へり

 舟を造りて梁(はし)と爲(な)す

 顧(あきら)かならずや其の光)

   *

「文」は周末期の文王(紀元前十二世紀から紀元前十一世紀頃)、「天の妹」と称されたのは、彼の妃太姒(たいじ)。当該ウィキに、『有莘似』(ゆうしんじ)『氏の娘として生まれた。文王は渭水に舟を並べて橋を作り、太姒を迎えた。太姒は太姜や太任を慕って、朝に夕に勤労し、婦道を推し進めた。太姒は号を文母といった』。『太姒は文王とのあいだに』十『人の男子を産』み、『太姒が』その子らを『教育すると、子どもたち』は『成長しても悪癖を見ることがなかった』「詩経」に『「大邦有子、俔天之妹、文定厥祥、親迎于渭、造舟為梁、不顕其光」(大国に優れた娘があり、天の妹にもたとえられる。文王は礼をもってその吉祥を定め、自ら渭水に迎えに行き、舟を並べて橋を作った。その栄光の輝かしいことよ)』『と謡われ、また「太姒嗣徽音、則百斯男」(太姒は太任の名声を継いで、たくさんの男子を生んだ)』『と讃えられた』とある。同詩篇全体は『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』のこちらがよい。現代語訳も附されてある。

「昊天」大空。

「六品」正従・(じゅ)六位。以下の七品も同様。

「花閣」御殿。ここは鎌倉幕府を指すのであろう。

「鬼神」ここは邪悪なそれではなく、仏教に於ける超人的な能力を持つ存在の総称。

「なみする」「無みする・蔑する」で、本来は「無」の方で、形容詞「無(な)い」の語幹に接尾語「み」(「そのようなものとして捉える」の意か)の付いた「なみ」に、動詞「す」の付いたもので、「そのものの存在を無視する・ないがしろにする・あなどる」の意。ここは「無視する」でよかろう。

「此人、面には請けぬれども、後に誹りて、退て後、又、いわむ。獄中をみせて、その心を折服さすべし」という閻魔王の台詞から、彼が地獄に来たのは、そうした訓戒を告げるための方便としての仮死であったことが明らかとなる。]

 

 數卒(すそつ)、予(われ)を挾(さしはさ)むで、下(くだ)し、附(ふ)す。

 使者、領して、さり行く。

 其の道に、寶塔、一器、あり。僧堂の傍らに立ちて、香爐を執りて居(きよ)す。

 使者、再拜す。

 我も又、同じく拜す。

 僧、塔をひらきて、一つの大珠《だい》(じゆ)をとりて、金盤(きんばん)にのせて、出《いだ》す。

 使者、頂戴して行く。予(よ)、したがひゆくに、その道、幽暗にして、くらき事、限り、なし。我、道すがら、問ふ。

『僧は、たそ。』

 答へて、云はく、

『六道能化(のう)《げ》の地藏菩薩なり。』

 又、とふ、

『玉《たま》は、なんぞ。』

『菩薩の願珠(ぐわんじゆ)なり。獄中の業《ごふ》深く重きは、珠光(しゆくわう)を照らし、破(やぶ)るを賴む。さもあらざれば、鬼王、暗中(あん)《ちゆう》におひて、人の心肝(しんかん)をくらふて、出《いづ》る事を得ず。』

[やぶちゃん注:「六道能化」六道の辻に立って、死者を導き、六道に亙って衆生を教化(きょうげ)することの出来る者の意で、地蔵菩薩の別称。]

 

Hatajigoku
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版のそれをトリミングした。地蔵菩薩の願珠は右から捕まえている冥吏が持っている。これがないと、暗黒の地獄では見学が出来ないから、気の利いた小道具として、映像的には優れていると言える。作者の創作部分では、かなり読者に向けた以下のシークエンスへの現実的且つ親切な効果を持っていることを見逃してはなるまい。]

 

 さるほどに、一つの獄中に至る。

『不義を罰する地獄。』

と云《いふ》。

 大きなる庭に、炭火(すみび)をうづたかくおこし、炎、のぼりて、空(そら)に、みつ。罪人を呼びて、ひざまづかせ、火中(くわ)《ちゆう》の鐵丸(てつ)《ぐわん》、大きさ、ゆびのごとくなるを刺して、人の眼(まなこ)に入れ、十五、六をつらねて、串に、さす。干魚(ひを)をかくるがごとし。

 使者のいはく、

『此の罪人ども、世にある時、大倫《だい》(りん)を輕んじ、財利の爲めに兄弟親族をつらくし、敵(てき)のごとく、かろしめて、此の報(むくい)をうくる也。』

[やぶちゃん注:「八熱地獄」に付随する「鉄丸地獄」か。串刺しは「八大地獄」の「焦熱地獄」=「炎熱地獄」でも見られる。後者の罪状の一つに「邪見」があり、これは「仏教の教えとは相容れない考えを説き、或いは、それを実践する」罪で、兼美に見せる最初としては腑に落ちる。]

 

 次(つぎ)の地ごくは、不和をいましむる獄なり。

 皆、女人老少、まじはり、人ごとに舌のうへに、一つの釣(つりばり)をかけ、おもりの石を、かく。くるしみいふ斗《ばかり》なし。後(のち)は瓜(ふり[やぶちゃん注:「うり」の古語。])をまろばすごとく、こけ倒れて、舌出《いで》て、長事、一尺斗《ばかり》。

 使者のいはく、

『此もの、世にある時、ひたすら色をこのみ、閨房にまよひ、女の道を守る事を、せず。夫(おつと)の家を分けさせ、中《なか》ごとを云《いひ》て、あだをむすばする、むくひなり。』

[やぶちゃん注:舌に関わる刑罰は多くの地獄でポピュラーなものとして活用される。

「瓜(ふり)」「うり」の古語。]

 

 東南の一獄は、「閻浮惣獄(えんぶそうごく)」といふ。此地ごくの北を「剔鏤(けつろう)」といふ。人を柱にからめ付《つけ》て、刀(かたな)を以て、つゞる。蓑(みの)のごとくし、うちわを以《もつて》、あふぐ。あつ酢(す)をかけ、絕して、又、よみがへる。水をそゝげば、皮肉、もとのごとし。惡逆にして、善人を生害《しやう》(がい)する者、爰に落(おつ)る。

[やぶちゃん注:「閻浮惣獄」不詳。作者の創作らしい。しかし、「閻浮」は「閻浮提」で仏教に於ける人間世界を指すので、何となく変な感じがしはする。

「剔鏤」不詳。同前。「剔」は「えぐる」、「鏤」は「刻みつける」の意。これは等活地獄の定番。]

 

  其の隣り、「穢溷獄(ゑこんごく)」といふ。大糞《だい》(ふん)の池(いけ)、沸々(ほつほつ)として、湯のごとくわき、臭くして、近づくべからず。鬼ども、長き熊手を以《もつて》、人をかけて、煮る。しばらくして潰爛(つえたゞ[やぶちゃん注:ママ。])れ、化(くわ)して蟲(むし)と成《なる》。これを鍋の中に入《いれ》て炒(い)る。灰とし、糞水(ふんすい)を汲みて、そゝぐに、又、人となる。これは、小人にして君子を謗り、智人(ち)《じん》をあざむくもの、こゝに來《きた》る。

[やぶちゃん注:「穢溷獄」不詳。同前。「溷」(音「コン」等)は「便所」「穢れる」等の意がある。「大糞の池」は等活地獄の「屎泥処」(しでいしょ)がよく知られる。]

 

  其の次は、數十人を裸にして、羅刹、錢(ぜに)の繩(なわ)を以《もつて》、八、九人の罪人を引き來たり、刀(かたな)を以つて、裸の者の胸・股(もゝ)の間《あひだ》の肉を、さいて、鍋の中にて、煮て、これを餓鬼に、くらはしむる。業風(ごうふう)、一たび吹けば、支體(したい)、もとのごとし。是、皆、人間、官祿の役人、權(けん)を專らにして、賄路を入れ、世を欺き、名をぬすみ、或《あるい》は、知行所・檢斷所(けんだんどころ)にても、表(うへ)は廉潔をみせ、内にはひそかに金銀を受け、或は非義の公事(くじ)を勝たせ、人をむさぶり、己(をのれ)を利する者、みな、其の中に有《あり》。

 兼美、日比(ひごろ)むつびし友も有り、淺ましなむども、おろかなる事ども也。

[やぶちゃん注:地獄名がないが、やはり創作であろう。作者はオリジナルな地獄を創案するのを楽しんでいる傾向が見られるが、それにしては、奇抜なオリジナリティがないのは、ちょっと残念である。ここの処刑も極めて総ての地獄で一般的だが、餓鬼を処刑に使役しているのはちょっと面白い。餓鬼道は畜生道同様、独立した別界ではなく、人間道とも別次元的に共時する世界であるから、問題はない。なお、ここを最後に配したのは、亡き友人の官吏が苦しむのを見せて、幕府から取り立てられている官人としての兼美自身の罪意識を駄目押しする効果として、よく効いている。]

 

 ことごとく、見終りて、かへる。

 使者、珠(たま)をおさめて僧に返し、又、王の前に至る。

 王、又、示して、のたまはく、

『まさに此の後(のち)の罪を改むべし。むかしの非(ひ)を、なす事、なかれ。若し、改めずは、罪を、まぬかるまじ。』

とて、使者に命じて、送りかへらしむ。

 此の時、始めて、繩を解き、身體、自由なる事を、おぼゆ。

 冠服司にゆきて、衣服をとりて、きせ、

『暫く、まち給へ。符をとりて、歸るべし。』

とて、捷徑(せうけい)を取りて歸る。

[やぶちゃん注:「捷徑」近道。]

 

 もとの道には、いでず、多くの關門を越ゆるに、爰に新敷(あたらしき)樓門の關(くわん)あり。「蜉蝣關(ふゆうくわん)」と云《いふ》。

 吾、儒者なる事を知りて、

『「蜉蝣門」の銘を作らしめむ。』

と云《いふ》。

 われ、重ねて、

『いかなる故に「蜉蝣」と名づくや。』

 鬼王の云はく、

『生《しやう》を人間に受くるものは、悉く、これより、出《いづ》る。しかれども、久しからずして、又、至る。蜉蝣の、朝(あした)に生じて、夕(ゆふべ)に死するが如し。』

 吾、則ち、數語(すご)をゑらむで、これに、むくふ。其の文(ぶん)に曰《いはく》、

[やぶちゃん注:「蜉蝣關」不詳。やはり作者の創作であろう。ただ、「徒然草」を原拠とした見え見えの鬼王の台詞はちょっと鼻白む。なお、閻魔王は地獄界のあらゆる場所を遠隔視認出来、そこに言葉を伝える超能力を持っていることが判る。これは作者の思いついた中では、意外にも王の声が聴こえてくる点で、なかなか効果的な思いつきとして評価出来る。

 なお、底本原本では以下の銘文全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

「尊(たつと)き事有《ある》者は關鎭厚(くわんちんこう)の地なり。赫(かく)たる事あるは、それ、威關(いくわん)の史なり。これを蜉蝣と名づく。凡そ、その生ずる事、有《ある》物は、是より、ゆく。去つて、又、時を越《こえ》ずして、やゝ又、至る。何ぞ此の蟲の一日の中《なか》に生死《しやうじ》あるに、異(こと)ならむ。南、閻浮提、光陰、かはる。往來して、なんぞ憩(いこ)ふ事、稀れなる。此名を見て、そのたとへを、さとらざらむ。六道四生、はやく出離(しゆつり)し、逍遙無方功利《せうえう》(むはうこうり)を證し、皆、天人と成《なり》て、此の關(くわん)、永く廃すべし。敬(けい)して予が銘(めい)を聞《きき》て、佛誓《ぶつせい》をはつせよ。あゝ、幽靈、守りて、かはる事、なかれ。」

[やぶちゃん注:「關鎭厚」不詳。見たことがない熟語である。一種の地獄の門域を言っているようではある。

「四生」仏教に於ける生物の出生・発生様態によって分類した分類法。「胎卵湿化」などとも呼ぶ。「胎生」(たいしょう:現代仮名遣。以下同じ)は「母親の胎内から出生するもの」を、「卵生」(らんしょう)は「卵殻様物体から出生するもの」を、「湿生」(しっしょう)は「湿潤なじめじめした場所から出生するもの」(広義の卵のごく小さな昆虫類などをそう捉えた)を、最後の「化生」(けしょう)は「純然たる業(ごう)によって何も存在しない時空間で、如何なる親子や血族関係もない状態で、忽然と突如、出生するもの」(天人・地獄の亡者などをそれとした)を指した。最後の「化生」は無生物から有情物が生まれるケース(山芋が鰻となる例)にも用いられる。

「無方」方位の制限がなく、際限がないこと。制限がないこと。自由自在なこと。

「功利」真に仏教的な意味での幸福と利益(りやく)の意であろう。]

 

 鬼王、よろこびて、則《すなはち》、吾れを、はなちて、ゆかしむ。

 二更に至りて、わが家に歸り、身(み)、床(ゆか)の上に臥し、燈(ともしび)、からげ、妻子・門人、取り𢌞(まは)し、嘆くを、みる。

 使者、一たび、うしろより、おす。吾、おぼえずして、跌(けつまづ)き、屍(しかばね)の内に入《いる》。恍然(くわうぜん)として、悟(さめ)たり。」

 其後、兼美、ふかく佛神を敬(うやま)ひ、淸愼廉潔(せいしんれんけつ)にして、世を送りけるとぞ。

[やぶちゃん注:「二更」午後十時及びそれを中心とする二時間。

「恍然」心がうっとりとしているさま。恍惚に同じ。]

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