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2022/05/08

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 帶披考【追記・信天緣】

 

[やぶちゃん注:本篇の本説「帶披考(おびかけかう)」は、今までの底本「新燕石十種第四」では、ここからであるが、「曲亭雜記」の巻第一下のここからにも載り、そちらではルビが振られてあることから、後者を参考に、必要と考えた読みを丸括弧で挿入した。表記も両者はかなり細部が違うが、私が読み易いと判断したものを、孰れと限らずに採ったので(読みの一部を外に出したりもした)、特殊な本文電子化となっていることをお断りしておく。なお、追記記事の「信天緣(あはうどり)」は後者には載らない。因みに、『アホウドリは「信天翁」だろ?』という御仁のために、ここでは――まあ、お待ちなせえ、そこのおいらの注を読んで下せえ――とのみ言っておこう。]

 

   ○帶披考【佐渡にては「帶平(おびひら)」と云、越後にては「帶挾(おびはさみ)」と云。】」

「佐渡事略」【下卷。】云、『賤女(しづのめ)のさまは、山里にては三十三歲まで眉をそらず。いづれも白粉(おしろい)、紅脂(べに)をほどこさず、髮を、結はず。只、押し上げて、まげ置き、櫛・弄(かうがい)等の具(ぐ)、なし。「帶平」といふ物を、多くは帶にはさむ』云々。この「帶ひら」といふものを、こゝろ得がたく思ひしかば、文化のはじめ、佐渡相川の人石井靜藏(せいざう)、出府の時にたづねしに、曰く、『「帶ひら」は茜染(あかねぞめ)の木綿(もめん)を、二、三尺にきりて、これを竪に三に折り、女の帶へはさみ候。何の故といふことを、しらず。「昔、順德院、當國に遷(うつ)され給ひし頃よりの事。」などゝいふもの、あれども、慥(たしか)ならず。これも、近來(ちかどろ)は至つて稀になり候故、「帶ひら」をかくる女は、相川などにては、見かけ候はず。山里の賤の女の、さきくさのドウネを着て、繩を帶にしたる類ひは、前のあらはれぬ料(れう)までに、ひらきて、はさむものならん。』といへり。

[やぶちゃん注:「帶披(おびかけ)」小学館「日本国語大辞典」では、『近世、大名の奥女中などが使った帯留の一種。帯挟み。帯平。』とある。

「佐渡事略」佐渡奉行石野平蔵廣広通(ひろみち 天明元(一七八一)年~天明六年まで在勤)が、天明二年に著わした佐渡地誌と見聞記。上・下・別録で全三巻。上巻では佐渡の大概を記し、下巻は佐渡に於見聞を記し、別録は金山・銀山のことを記している。当時の佐渡の国勢・気象・物産・風俗・鉱山の様子が知られるもの。「日本古典籍ビューア」の写本のここの左丁七行目以下。

「文化のはじめ」文化元年は一八〇四年で、文化十五年まで。

「石井靜藏」石井夏海(なつみ 天明三(一七八三)年~嘉永元(一八四八)年)は佐渡国雑太(さわた)郡相川生まれ。幼名は秀次郎、後に静蔵。別号、安瀾堂。江戸に出て、画を紀南嶺・谷文晁に、学問を大田南畝に、天文・地理・測量術・西洋画法を司馬江漢に学んだ。文政一二(一八二九)年、地方御役所絵師となった。曲亭馬琴・式亭三馬・酒井抱一らと親交があった。佐渡の歴史や伝承を題材にした戯作「小万畠双生種蒔」の稿本が残り、狂歌も詠んだ(サイト「UAG美術家研究所」の「佐渡奉行所の絵図師をつとめた石井夏海・文海父子」に拠った。彼の絵の画像も有り)。

「順德院」後鳥羽天皇の第三皇子で二代後の順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)。「承久の乱」で佐渡へ配流され、そこで没した(自死とも)。

「さきくさ」「三枝」でミツマタの上代語。

「ドウネ」不詳。「ドウ」は「胴」か。]

 

Zakkiobikake

 

Ensekiobikake

 

[やぶちゃん注:孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。全然違うタッチなので、二本の参考底本の図をともに示した。前の方が「曲亭雜記」のそれで(左下に絵師の署名(二字目は「陵」か)・落款有り)、後が「新燕石十種」のもの。以下も同様である。]

 

越後鹽澤の鈴木牧之(ぼくし)【鹽澤の宿長。】云、『越後にて寺泊など、佐渡の方(かた)によりたる田舍の婦人は、祭見物(まつりけんぶつ)、或は、晴(はれ)なる時に出(で)あるきするには、「帶はさみ」をいたし候。此「帶はさみ」といふものは、紅染(こうぞめ)の布の二尺あまりなるを三に折りて、前にて、少し、脇へせて、はさみ候よし、只今、いかゞ候や、當所にても、關六日町(はさむいかまち)などの、舊家の婦人の晴なるときは、「帶はさみ」をしたるよし、承り及び候ひき。』と、いへり【今は、その事、絕たるなるべし。】。

[やぶちゃん注:「鈴木牧之」(明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)は現在の新潟県魚沼市塩沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の豪商で随筆家。私の偏愛する北国の民俗学的随筆「北越雪譜」の作者として、とみに知られる(天保八(一八三七)年、初版三巻を刊し、天保十二年には四巻を追加)。

「關」塩沢の南方の現在の新潟県南魚沼市関か。

「六日町」塩沢の直近。]

 

Zakkiuhamo

 

Ensekiuhamo

 

[やぶちゃん注:キャプションがある。

   *

「襅(ウハモ)」

小ヒダ有とも云ヘり、未ㇾ詳。紐の左右の玉を、うしろヘめぐらして、帶に、はさむなり。長は、膝を不ㇾ過といへば、布一幅をもて、つくりしならん。

   *

「帶カケ」

佐渡・越後にては、「ひもをつけず」といふ。今はたゝみて、帶に、はさむゆゑなり。

   *

後者の「新燕石十種」の「帶カケ」に相当する「佐渡越後にては……」の「帯かけ」の図の中にサイズが記されてあり、縦が、

五寸斗(ばかり)

横が、

二尺余

とある。]

 

この兩說によりて按ずるに、彼(か)の「帶ひら」「帶はさみ」は、襅(ひつ)の遺製(ゐせい)なるべし。襅は往々國史に見えて、和名ウハモなり【「和名抄」には、なし。】。襅は字書に見えず。按ずるに、「韠」の「韋」を「衣」に易(かへ)たるなり。「韠」は「說文」云「韍」也。「正字通」、「韍」字の註に云、『韍布※芾紱、同トモニ蔽滕ㇾ也。韍又云、韠補密切所(ユヱン)一ㇾ。以ㇾ韋爲ㇾ之。禮玉藻』云々。

天朝の製、これに倣(なら)へり。但し、韋(かは)をもて作らず。代へるに、布をもてせり。是れ、その字、改めて、「衣」に從ふゆゑんなり。[やぶちゃん注:「※」=「㡀」+(「拔」―「扌」)。]

[やぶちゃん注:「襅」男は袴の上、女は下裳(したも)の上に着る裳。男は推古朝まで用いたが、女はさらに続けて用い平安時代に入ると上裳・下裳の別は無くなった。「しびら」「うわみ」とも呼ぶ(「日本国語大辞典」に拠る)。

『「韠」は「說文」云……』訓読を試みる。

   *

「韠(ひつ)」は「說文(せつもん)」に云はく、「韍(ふつ)」なり。「正字通」の、「韍」の字の註に云はく、『「韍」は布(ふ)・※[やぶちゃん注:読み・意味ともに不詳。読みは音「へい」か。]・芾(ひ)・紱(ふつ)、同(とも)に、蔽(おほ)ふなるを滕ふ[やぶちゃん注:読み・意味ともに不詳。音なら「とう」で、訓なら「湧く」「湧き上がる」だが、意味が通じない。]。「韍」の註に、又、云はく、『韠は「補」と「密」の切(せつ)。「前を蔽ふ」の所以(ゆゑん)たり。「韋」を以つて之れと爲(な)す。禮玉藻(れいぎよくさう)』云々。

   *

「芾」は儀式の際の膝掛け。「紱」は紐。その他、全くお手上げ。]

韠は、いにしへ、婢妾賤婦の儔(ともがら)、凡そ、袴を着るに及ばざりし女子(じよし)の、前にかくるものなり。その長さ、膝をすぎず、といふ。これ、いにしへは、婦人の帶、甚だ細し。故に、步行のとき、前のひらくを覆(おほ)ふが爲(ため)なり。

襅(ひつ)ウハモと名づけしは、裳(も)のひらくを、覆ふ具なればなり。後世、戰國爭擾(さうゆう)の世となりし程は、襅(うはも)の名をだに、しらぬもの、多かりけん。さりけれども、京師にては、はかなき遊(あそび)女のたぐひまで、前のひらくを厭(いと)ふが爲に、「帶かけ」といふものをしたらんと思ふよしは、古畫に、その圖の遺(のこ)れるがあれば也【古畫の婦人の「帶かけ」をしたるを、予は享和中、京師にて見たり。かくて、こたび、又、見つるのみ。この前後には絕て見ぬなり。】。

[やぶちゃん注:「享和」文化の前。一八〇一年から一八〇四年まで。]

されば流れての世の風俗なれば、襅(うはも)の製の、やうやく、變じて、只、色々の染絹などもて、今の「ゆまき」を、只、一幅(ひとはゞ)にしたるやうなるを、一重(ひとへ)、腰に繞(めぐ)らして、脇にて、結びとめたる也。そは天正前後の古畫に、その圖の遺るもの、則ち、是れ也。當時も、猶、婦人の帶は、究めて細かり。その畫圖(ゑづ)の帶に似たるは、則ち、これ、「帶かけ」にて、まことの帶は、隱(かく)るゝ故に、畫がゝず。こゝをもて、その「帶かけ」は、なかなかに、帶の如くに見ゆれども、その帶の結びめは、さらなり、端(はし)をだにゑがゝぬにて、「帶かけ」なる事、あきらかなり。かくて、百四、五十年以來(このかた)、婦人の帶の幅、年々(としどし)に廣くなりて、近來(ちかごろ)に至りては、昔の「帶かけ」の幅よりも、猶、廣きもの、多かり。この故に、「帶かけ」、變じて、「前垂(まへだれ)」になりたる也。

[やぶちゃん注:「ゆまき」「湯卷」。江戸中期までは、「入浴の際に腰に巻いた布」を本来は指した。宝永(一七〇四年~一七一一年)頃まで、男女ともに裸で入浴することはなく、布を腰に巻いて入った。湯文字 (ゆもじ) 。但し、ここは、所謂、女性の「腰巻き」のことであろう。「蹴出(けだ) し」「二幅(ふたの)」「いまき」などとも言った。

「天正」安土桃山時代の一五七三年から一五九二年まで。]

故老云、『むかし、江戶にては、小袖に、「袖口(そでくち)」といふものをかくることはなかりしに、東福門院樣御下向のとき、供奉の女中方の小袖に、袖口をかけたるを見て、江戶にても、袖口をかくることに、なりたり。又、「前垂」といふものも、江戶にてはせざりしに、是れは、京の茶屋女の風俗を、見および、聞きおよびて、遂に「前垂」をかくるやうになりたり。』と、いへり【今、市店の男女の前垂をかくるは、膝をよごさじ、との爲めなれば、いにしへの襅とは、その用心、異にして、いよいよ鄙俗になりしなり。】。

[やぶちゃん注:「東福門院」(慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年)は江戸幕府二代将軍徳川秀忠と御台所達子(浅井長政三女)の末娘で、後水尾天皇の中宮。

 以下の一段落は二書ともに全体が一字下げである。]

解、按ずるに、「日本紀略」に、藤原保昌(やすまさ)が弟保輔が事、見えて、渠(かれ)を「袴垂(はかまだれ)」と異名(いみやう)したるは、世の人、しれり。この「袴垂」は襅(うはも)の事なるべし。保輔は無類の癖者(くせもの)にて、遂に盜賊となりたりし。その人となりを推(お)すときは、渠、その禮服、威儀を斁(いと)ふにより、襅を袴に代へたるにやあらん。こゝをもて、「袴垂」と呼ばれしものか。「襅には小積(こひだ)あり」としもいへば、「袴に似て、垂(たれ)たり」といふ義ならんと思ふかし。譬へば、今も襅に似たるものを「前かけ」と唱へ、多くは「前垂(まへだれ)」といふ。「垂(たれ)」の儀、此の如くなるべし。

[やぶちゃん注:「日本紀略」平安末期に成立した歴史書。全三十四巻。成立年・著者不詳。神代は「日本書紀」そのままで,神武から光孝までの各天皇は六国史の抄略、宇多天皇以後、後一条天皇までは「新国史」や「外記日記」などに基づいて編集されている。六国史の欠逸を補う重要史料とされる。

「藤原保昌」(やすまさ 天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)平安中期の貴族。で「道長四天王」の一人。藤原南家巨勢麻呂流。右京大夫藤原致忠の子。当該ウィキによれば、「今昔物語集」から抄訳して、以下の話を示す。十月、『朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂』(はかまだれ)『という盗賊の首領が衣装を奪おうと』、『その者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで』、『衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという』とあり、さらに、『同様の説話は』「宇治拾遺物語」にもあり、『後世』、『袴垂は保昌の弟藤原保輔』(以下の通りなので、当該ウィキをリンクさせるに留める。因みに彼は傷害事件を起こし、史上最初の切腹で亡くなった人物として知られる)『と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが』、「今昔物語集」の『説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい』ため、『実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている』とある。「今昔物語集」のそれは、巻二十五の「藤原保昌朝臣値盜人袴垂語第七」(藤原(ふじはらの)保昌の朝臣(あそん)、盜人(ぬすびと)の袴垂に値(あ)へる語(こと)第七)で、「やたがらすナビ」のこちらで、新字体であるが、テクストとして読める。]

かくて、今は、「前垂」にも、花美を盡すことになりたり。しかれども、そは、京の祇園の「赤前垂(あかまへだれ)」を初めとして、江戶にても、遊里の茶屋女、或は、遊民・俠客(けふかく)の妻・むすめならでは、前垂を晴れには、せず。これによりて思ふに、古畫(こぐわ)の美人の「帶かけ」をしたるは、皆、是、當時(そのかみ)の妓女なるべし。そが中に、佐渡・北越の片田舍には、なかなかに、古風、遣(のこ)りて、「前だれ」をかくる婦人はあらで、彼(か)の「帶ひら」・「帶はさみ」をのみせしよしは、猶、告朔(こくさく)の餼羊(きよう)の如しとも、いはましや。これすらも、近頃は、いと、まれまれになりしと、いへば、後々に至りなば、彼の地にても、「帶ひら」の名をだにしらずなりやせん。そは、なげくべきことになん。

[やぶちゃん注:「告朔の餼羊」古くから続いている習慣や年中行事は、理由もなく廃絶してはならないということの喩え。「告朔」は周代に行われた儀式で、毎月一日に羊を廟に供えて祖先を祭ったことを指し、「餼羊」は告朔の際に供える生贄の羊のこと。出典は「論語」の「八佾(はちいつ)」。魯で告朔の儀式が廃れ、羊を供える形式だけが残っていた。「それでは、無意味だから、餼羊をやめるべきです。」と子貢が言うと、孔子は儀式が完全に廃れることを惜しんだとされる。

 以下の一段落は二書ともに全体が一字下げである。]

「帶ひら」・「帶はさみ」と唱へるよしは、田舍といへども、今の帶は、その幅(はゞ)、廣かり。かゝれば、是を昔の如く、前にかけて、裳のひらくを掩(おほ)ふにしも及ばねば、只、昔より他行(たぎやう)には、しかするものぞ、とのみ、こゝろえて、只、いつとなく、三ツに折りて、おのおの、帶にはさみしより、「帶かけ」とだにいはずして云々と唱へるならん。譬へば、むかしは、駕輿(かき)のものも、多くは烏帽子(えぼし)・白張(しらばり)なりしに、烏帽子を省略する世となりしより、柹染(かきぞめ)、或(ある)は、段々筋(だんだらすぢ)の布をもて、鉢卷のやうにして、前をひらき、後ろをしぼりて、「盆(ぼん)の窪(くぼ)」にて結びしかば、則ち、烏帽子にかたどる也。又、その袖を長くしたるは、白張に擬(ぎ)したる也。しかるを、百年餘りこなたは、それをすら、略して、その布を頭(かうべ)に卷かせず。只、三つ、四つに長く折りて、腰に挾(はさ)ませたりしより、おしなべて、その布を「はさみ」「手ぬぐひ」と呼びなすのみ。それも又、近來(ちかごろ)は、その手拭を糊張(のりはり)にし、或(ある)は、片木(へぎ)の眞(しん)さへ入れて、檜扇(ひあふぎ)の如くしたるを、何等(なんら)の用に立つともしらねど、腰のかざりとこゝろえて、陸尺(ろくしやく)ばらの腰に揷すと、同日の談なるべし。

[やぶちゃん注:「陸尺」駕籠舁きを指す近世語。]

一日、輪池翁(りんちおう)、古畫(こぐわ)の美人三幅(さんぷく)を、予によせて問て云、「この箱書付には、『土佐又平(またへい)畫(ゑ)』とあれども、その時代より、猶、すこしおくれたるものなるべし。しかるに、畫圖(ゑづ)の美婦人の帶の幅(はば)、甚だ、廣し。抑(そもそも)婦人の帶の幅の、かくのごとく廣くなりしは、いつ頃よりの事なるや、聞(きか)まほし。」と、いはれたり。予、この心を得て、その畫(ゑ)を觀るに、げに又平が筆には、あらず。さばれ、畫中の人物は、天正中の妓女なるべく、畫者(ぐわしや)は天正後にやあらん。且つ、その帶と見られしは、眞(まこと)の帶にはあらずして、「帶かけ」ならんと、思ひしかば、則ち、「襅(うはも)」と、佐渡・越後なる「帶はさみ」の事をもて云々と、これをことわり、この畫(ぐわ)の時代に、かくのごとく帶の廣かるべきやうなし。その故は云々と、前條を擧げて答へしかば、輪池翁、うけ歡びて、猶、「帶はさみの證書(あかしふみ)を、見まくほし。」と、いはれたり。「扨も、輪池翁の博覽强記もて、下問(かもん)を耻ぢ給はぬ、めでたさよ。」とばかりにして、うちもおかれず、予が見たるまゝ聞たるまゝを、しどろもどろにしるしつけて、まゐらすること、右の如し。このうち、「襅(うはも)」の一條は、國史中に見えたるを、抄錄して置きたれども、抄錄の多卷(たくわん)なるを、探(さぐ)り出ださんも煩しければ、今、備(つぶさ)にはしるすに及ばず。又、「帶ひら」の一條は、「佐渡風土記」・「佐渡年代記」・「增補越後名寄」などに載せたりけん歟、ありとしも、おぼえず。この書どもは、舊宅なる書齋に殘し置きてしかば、そは、亦、異日、考索(かうさく)せん。正しく物にしるされしは、「佐渡事略」の外(ほか)暗(そら)には、おぼえず。餘は傳聞によるものから、近來(ちかごろ)、記憶を喪ひしに、かく引書(いんしよ)にすら、乏しければ、漏(もら)すも多く、違(たが)へるもあらん。猶、よく、正(たゞ)されん事をねがふのみ。時に文政八年五月四日瀧澤解拜具

[やぶちゃん注:「輪池翁」屋代弘賢。

「土佐又平」絵師土佐光起(元和三(一六一七)年~元禄四(一六九一)年)。父は「源氏物語画帖」などを描いた光則。承応三(一六五四)年三十八歳の時、左近将監に任ぜられ,室町最末期に廃絶した土佐派を再興、宮廷の絵所預(えどころあずかり)となった。また、この年の内裏造営に加わって、障壁画を描き、京都の公家社会と画壇に復帰して多年の宿望を果たした。しかし、この「又平」という呼称は、そもそもが、宝永五(一七〇八)年に大坂・竹本座で人形浄瑠璃として初演された近松門左衛門作の「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」に出る彼の通称としてもっぱら知られから、如何も怪しい。

「文政八年」一八二五年。]

追考(ついかう)

「伊豆國海島風土記(いづのくにかいとうふどき)」下卷に、八丈島なる男女(なんによ)の風俗をしるして云、『女の帶の幅は一尺ばかり、長、四、五尺に、紬(つむぎ)を織り、蘇枋木(すはうぼく)を以て、赤く染(そめ)、その儘、單(ひとへ)にて用ひ、老若(らうじやく)ともに、是を、前にて、結ぶ。男は眞(しん)を入れ、くけたる帶を結ぶもありと、いへり。これ、亦、「帶かけ」の遣風なるべく、今、佐渡にては、女の帶の幅の廣きを結ぶゆゑに、「帶ひら」を三にたゝみて、その帶に挾む也。又八丈島なる女は、いにしへの帶かけを、やがて、帶に用ふるにより、たけをば、長くせしにやあらん。孤島は他鄕(たきやう)の人をまじへざるをもて、物每(ものごと)に古風を存する事、多かり。五島・平戶などの島々なる風俗をも、よく訪ひ窮めなば、かゝるたぐひ、なほ、あるべし。文政八年七月朔 瀧澤解再識

[やぶちゃん注:「伊豆國海島風土記」官吏であった佐藤行信著。全六巻。伊豆諸島の地誌。天明元(二四四二)年に吉川義右衛門秀道という人物に調べさせたもの。

 なお、「曲亭雜記」には最後に、近代の漢学者で作家の依田百川(ひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年:詳しくは当該ウィキを読まれたいが、森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である)の批評が載り、そこで、

   *

『「襅(ひつ)」は、いにしへ婢妾賤婦の儔(たぐひ)、凡そ賤しきもの袴を着(つけ)ざるもの、これに代へたるなるべし。』といふは、如何(いかゞ)あるべき。袴は衣(ころも)の下に着たるものにて、「褌(こん)」といふも同じ。昔は貴賤ともに「褌(こん)」をつけざるもの、なし。これを下衣(したえ)に着(つけ)るによりて、遂にこれを廢するに至れりと見ゆ。男子・婦人ともに上衣下裳(じやういかしやう)の両種にて、その下には袴、即、「褌(こん)」を穿きたり。唐𤲿(からゑ)の婦人に裳(も)の下より少し露はるゝは、卽、袴にて、多くは紅(こう)の色を用ひたり。この袴なくものはなかりしに、中古より袴を美麗にせしより、自(おのづ)から賤しきものは、用ふること、能はずして、これを廢せしかば、その風、今に至りて、我國の婦人、貴賤ともに、單裙(たんくん)をのみ用ひ、袴を衣の下に着(き)ること無き惡風に至れり。されば、『いにしへ、賤婦に、袴、なし。』とは謂ふべからず。

   *

と批判している。

 以下、別な話題になるので、一行空けた。]

 

追記「信天緣」        瀧澤解再選

天保三年壬辰夏六月、牛込御門内なる武家某氏屋敷の樹に、「信天緣」、忽然と來て、集たり。人みな、觀て、捉まくほりせしかども、高樹の事なれば、すべなかりしに、次の日、その鳥、おのづからに落て、庭に、あり。やがて、とらへて、いろいろ飢を養ひけるに、啖はず。後に、泥鰌をあたへければ、いさゝか、くらひしとぞ。「信天緣」、又、「信天翁」と云。この間の俗、「馬鹿鳥」といふもの、是、なり。形狀、鴇[やぶちゃん注:「とき」。]に似て、脚に水かきあり。總身、薄黑色にて、臭氣あり。觀るもの、鼻を掩ふ。高さ一尺五寸、羽をひらけば、左右へ、七尺五寸あり、といふ。高さに合[やぶちゃん注:「あは」]しては、羽は、甚、長かり。短尾、雁の如し。この鳥、物に傷られて[やぶちゃん注:「いためられて」。]、遠く逃れ來つるなるべし。いく程もなく隕たり[やぶちゃん注:「しにたり」。]。上總・伊豆の海濱には、多くあるものながら、江戶にて觀るは、めづらし。芳婿赫洲、その畫圖を懷にし、來て、予に見せたれど、寫生、ならねば、見るに足らず。この鳥の事、「本草綱目」幷に「五雜俎」・「大和本草」等に詳也。こゝに半頁の餘紙あれば、誌して遺忘に備ふ。

[やぶちゃん注:「信天緣」鳥綱ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus 。本邦には渡り鳥として、これを含めて三種が確認されている。現在の中文ウィキの「アホウドリ」でも、中文名を「短尾信天翁」とする。しかし、実は、現在の日本語に於ける標準和名アホウドリに、この漢字を当てたのは、中国人ではなく、貝原益軒の「大和本草」であるというのだ。これは一九八七年平凡社刊の荒俣宏「世界大博物図鑑  4 鳥類」の「アホウドリ」の項に記されあり、現代中国の、その「信天翁」については、荒俣氏は日本からの逆輸入を疑っておられる。「大和本草」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの原本の「信天翁(ライ)」なのであるが、そこで益軒は、『「本草綱目」、鵜鶘ノ集解ニ信天翁ト云者即是也』と記しているのであるが(右丁五~六行目)、いざ、「本草綱目」を調べると「鵜鶘」(荒俣氏はこれはペリカンを指すとされる)の「集解」には、「信天翁」ではなく、「信天緣」と書いてあるのである(「漢籍リポジトリ」が動作していないので、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年版本で示す。右丁の後ろから五行目末からで、二ヶ所出る)。即ち、少なくとも、現在のアホウドリに「信天翁」の漢字で誤って宛ててしまったのは、どうも、益軒の「犯行」であったらしいのである。益軒に批判的であった小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」では、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の「鵜鶘」の項の左丁六行目に、

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「信天縁」は、「ライ」【筑前。】、一名、「アホウドリ」【丹後。】、「ヲキノタイフ」【長州。】、「ヲキノゼウ」【豫州。】、「トウクロウ」【圡州。】。一名「信天翁」【「事物紺珠」。】。「大和本草」に、『「かもめ」に似て、淡青白にして、觜(はし)、長く、少し、それり。脚、赤。海邉にあり。雁より大なり。』と云ふ。

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とあって、蘭山は正しく「信天縁」を代表表記として用いている。中に「信天翁」もあるが、この「事物紺珠」は明の一六〇四年黄一正が編纂した動植物等について類書であるが、荒俣氏はこの名は『天翁(太陽)に信(まか)せる』の意で、『本来どの鳥を指したものかは不明である』とされ、さらに、『信天縁なる語自体もほんとうにアホウドリを指したかどうか定かではない』。『一説によれば信天縁はペリカンだといわれる』とされ、『明治以降』、『アホウドリは天縁とは〈縁〉がなくなった!』と結ばれているのである。というか、ここで馬琴の記した江戸に飛来した奇体な黒い臭い鳥というのは、私は、アホウドリではないのではないか? と思っている。一つの候補としては、カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus はどうかなとは思う。]

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