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2022/05/26

柳田國男「水の神としての田螺」

[やぶちゃん注:本篇は『人類學雜誌』第二十九巻第一号に初出された論考(掲載誌では「雑録」パートに入っている)である。私は本日、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「水の神としての田螺」(全二回)』を注するまで、柳田のこの論考を全く知らなかった。それは、所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」に載らず、親本である同社の「定本柳田國男全集」(数冊所持する)も調べたが、やはり載っていなかったからである。調べたところ、現行の新たな一九九九年刊の同社の「柳田國男全集」二十九巻に収録されていることが判明したが、試みに調べたところが、「j-stage」のこちらで初出を見出せたPDF)ので、ここに電子化することとする。]

 

    ○ 水の神としての田螺

            柳 田 國 男

 淵沼池のヌシに鯉、鯰、鰻などを說くは屢々聽くところなれども、或は又田螺を水のヌシと崇むる地方あり。日本の水神信仰の變遷を硏究するものにとりては、頗る注意すべき手掛りならんと考へ、先づ其の數例を集錄して、諸家の考證を待つべし。栗太志卷十二に依れば、物部鄕玉岡庄出庭村卽ち今の滋賀縣栗太郡葉山村大字出庭(デバ)に、出庭大明神二座います。神事は四月十日也。此神田螺を以て使令(ツカハシメ)とす。氏子等田螺を畏れ敬すること神の如し。他村に往き田螺を烹たる火を知らずして煙草など薰らすれば、忽ち戰慄を生じ、病みて數日に至る。况や之に觸れ又は食ふ者をや。耕作の時田に此物あれば、斷りをして社地に移したる後に非ざれば耕作せず。此村へ緣附きたる者、此相火の物を食ひて永病したる實例ある也(以上)。田螺を食はぬと云ふ點は鷄精進(トリシヤウジン)の類なるが如きも、神地に移すとあるを見れば、神前の池などに此物多く棲息せしなるべし。此と同じ地なりや否を知らざるも、觀惠交話卷下には左の記事あり。曰く江州に淡婦(マ﹅)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]大明神の社あり。其の前の池に大さ二三尺まはりの雌雄の田螺あり。旱[やぶちゃん注:「ひでり」。]に池をかへほし捕れば其まゝ雨降る。後又もとの如く池に放つ。其近邊の者には大に祟るなり(以上)[やぶちゃん注:原本は「崇る」であるが誤字と断じて訂した。後も一ヶ所、同じ処理をした。]。右二つの記事同じ社のことなりとすれば、二書の記述には七八十年の時代の差あれば、口碑變化の興味ある一例なるべし。雨乞の行事には神を怒らしむる目的のもの多く、地元の人民は槪して之れを好まず。從つて觸るれば祟ると云ふ俗信は常に八釜しく傳へられてある也。

 越後には白田螺の話甚だ乏しからず。例へば越後野志卷十四に、蒲原郡彌彥庄丸山村の御洗水池、此池の鮒は皆一目眇[やぶちゃん注:「すがめ」。]なり、又白田羸(シロタニシ)を出すとあり。尙同郡下田鄕蘆ケ平村の磨於比池(マオヒイケ)は深山中の靈湫[やぶちゃん注:「れいしう」。神聖な水域。]なり。土人漫に[やぶちゃん注:「みだりに」。]人の到ることを禁止す。白田蠃を產す。天旱するとき雨を乞ひ、祈るに驗あり。土人神とし祭り畏敬す云々とも見えたり。越後名寄卷二十には、之を古志郡蘆ケ平村と云ひ、稍詳細の記事あり。尤も此村の所在、前者には五十嵐川の上流と云ひ、後者には、諏門嶽(スモンダケ)の北麓八十里越の谷なりと云へり。同じ池の噂なることは疑なし。名寄の說にては、蘆ケ平の山中には三つの池あり。底知れず。爰に田螺あり、色白く美なり。岸に浸りし篠竹、柴などに附き居れり。大旱に雩[やぶちゃん注:「あまひき」。雨乞い。]をするとき、彼池に行き隨分音せぬやうにして取るなり。少しにても物音をすれば、水底に轉び入りて取ること難し。是を取得て大旱の雨を望む村里へ持ち來るに、降らずと云ふことなし。雨を得れば本の池に返し放つなり。自然過ちて殺すか又は失ひなどして返さゞれば、彼池大に荒れて洪水し、麓なる蘆ケ平村甚だ艱難[やぶちゃん注:「かんなん」。難儀でつらい目に遭うこと。]に及ぶ。故に村にては一向取らせじとするとぞ。深山なれば不知案内にては行く事成り難く、密かに村の者をすかし忍びてすること也。晴れたる日にも對岸には雲の懸りてある怖しき池なり。寬政六年の旱には村松藩の使捕りに往きしが得ず。只池の岸にて山伏に祈らしめしが雨降らず。それより六十年前には、池の底に潜り入り、方二丈ばかりの淵より白蟹(シロカニ)を得て返りしに、雨降りしことありと云ふ(以上。深山の池に棲み蝸牛などの如く、岸の竹樹に遊ぶと云ふ貝をタニシと斷定したるは何故なりしか。單に動物學上の問題としては、此ほど難儀なる問題はなかるべし)。白井眞澄の遊覽記卷三十二下、羽後北秋田郡の打戶(ウツト)と云ふ地の記事に、沼平(ヌマダイ)とて大なる沼あり。此沼の田螺(ツブ)は皆左り卷きにして、大なるは石碓[やぶちゃん注:「いしうす」。]ほどなるがあり。これを親ツブとて沼の主とす。されど水深ければ(著者は)淺岸にて拳ほどなるを見たるのみとあり。關東には田ニシを田ツブ又は單にツブと謂ふ地方多し。思ふにニシもツブも共に海に住む大形の貝なるを、比較に粗なる農人等、之と稍似たる一物の水田に居るを以て、直に其同類なりとし、此の如き名を下せしなるべし。彼の土中にホラと云ふ貝棲むと傳へ、亦は谿谷の崩壞するを、ホラ※[やぶちゃん注:「米」=「秡」の異体字。「グリフウィキ」のこれ。しかし、これは「拔」の誤字ではあるまいか?]と名づけ、此物時ありて逸出するが爲なりと稱するが如きは、一つには法螺を貝の名なりと誤りしこと、二つには洞又は狹き谷をボラと呼ぶ日本語あるより、二者の關係あるが如く考へたる結果の俗說ならんも、更に又地中より色々の貝殼現はれ、池沼の淺き處又は水田に、妙な貝の生息する事實も、幾分か斯る誤謬を助長せしこと[やぶちゃん注:約物であるが、ひらがなにした。]なるべし、結局するところ田ニシは微物なれども、田舍人は之を深海靈物の先陣の雜兵ぐらゐに考へて、畏れ且つ敬せしものならんか。新編武藏風土記稿を見るに、武藏橘樹郡田島村大字中島、即ち今の川崎大師堂の附近にも一箇田螺石と云ふ靈石あり。昔弘法大師筑波へ修行の途次、此邊に田螺多くして水田の障[やぶちゃん注:「さはり」。]となるを見て、法力を以て田螺の王を此石の中に封じ籠め、それより二鄕其の災を免かれたりと傳ふ(以上)。此田螺の親玉も例のホラなるべしと認む。

[やぶちゃん注:「栗太志」明治一六(一八八三)年に田中適齋貞昭によって書かれた滋賀県栗太郡の地誌であるようだが、原本はネットでは閲覧出来なかった。しかし、それを受け継いで新たに滋賀県栗太郡役所編で大正一五(一九二六)年に刊行された「近江栗太郡志」の巻四を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したところ、その「神社志」の「第七節 葉山村」の出庭(でば)神社の項のここに、以下の記載を見出すことが出来た。前の文章の最後に、『田中適齋の栗田當社の條中に』とあって、

   *

 三  ツ  石

  正殿ノ側ニ在リ往古ヨリ埓シテ之ヲ崇ムルヿ[やぶちゃん注:「事」の約物。]神ノ如シ、村人ニ其故ヲ尋ヌレトモ知ルモノナシ、

と見ゆるは古墳の石※[やぶちゃん注:「※」=「土」+「廓」。]の一部ならん、社前に石の大賓塔一基あり總長一丈にも達すべし、此石も亦石*[やぶちゃん注:前の「※」の(つくり)を「廊」としたもの。]の石を用ひて鎌倉若くは足利時代に製作せしにやに想はる、當社に一の奇傳說あ今り栗太志に左の如く記す、

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ]

此神ニ一ノ奇異アリ田螺ヲ以テ使令トス、氏子等田螺ヲ恐レ敬スルヿ神ヲ敬スルガ如シ、若シ他村ニ行キ田螺ヲ烹タル火ヲ不知シテ誤テタバコナド薫スレバ忽戰慄ヲ生シ病テ數日ニ至ル、况ヤ田螺ニ觸或ハ食フ者ヲヤ、故ニ耕作ノ時田中ニ田螺アレバ拜シテ其故ヲコトハリ[やぶちゃん注:ママ。]社地ニ移シテ後耕作スルナリ、余也[やぶちゃん注:「よや」。私は。]奇ヲ好マズ故ニ謂ラク田螺ニ靈アルニ非ズ氏子ヨリ靈トスルガ故ニ如斯奇異アルナルベシト云キ、然ルニ余ガ緣者矢島村某ノ女此村某ニ嫁ス翌年春ノ頃ヨリ病テ勞症ノ如シ、諸醫萬方ニスレトモ不癒、因テ此神ニ禱卜[やぶちゃん注:

たいぼく」。]ス、巫祝[やぶちゃん注:「ふしゆく」。]曰、田螺ノ相火ナリト【此村ノ方言ニ田螺ヲ烹ル家ニ入ルヿヲ相火ト云フ】此婦嫁シテ幾年モアラザレバ田螺ノ靈威ナルヿヲコトヲ不知、又田螺烹ル家ニ行キタルヿヲ覺ヘズ[やぶちゃん注:ママ。]ト云、然レトモ猶深ク穿鑿シレバ歸省ノ日下部[やぶちゃん注:「ひ、しもべ」。]ノ者共烹テ之ヲ食フ、其火ヲ以テ飯ヲ炊キ及ヒ茶ヲ煎シタリコレヲ食スルニ依テナルベシト、直ニ此事ヲ罪トシテ此神ニ祈リケレバ次第ニ全快ス、嗚呼奇中ノ奇ナルカナ、

   *

とあった。柳田國男が見たのは、まさにこの引用部分であることが判る。サイト「JAPAN GEOGRAPHIC」の中山辰夫氏による同神社のページがあるが、真新しい田螺の奉納石碑が確認出来るので、この信仰や禁忌は守られているものと考えてよい。また、そこに、『田螺について』とあって、『出庭神社の氏子は田螺を食わない。いやそれどころか田螺を恐れ且つ敬うさまは神様のそれと変わらない程という奇伝説がある。それについては色々の話がある』。『さる百姓が他村に出かけて行って煙草の火を借りて一服喫った所が俄かに寒気がしてならない。大病となったが、それは田螺を煮た火で煙草をつけたことによる。他に、この村へ嫁いできた丈夫な女が、突然』、『病に侵され、病名が分からないうちに衰弱が激しくなり、卜ってもらうと「これは田螺を煮ている家の門口をまたいだに違いない。そのおタタリだ』……『」とのこと。調べてみると、里帰りの途中で立ち寄った親戚が、田螺を煮て食ったばかりで、勧められたお茶もその田螺を煮た火で煎じたものと分かり、神様にお詫びして全快したという』。『里人は野良仕事の時など田螺が一つでもいたら田螺に礼拝し、訳を断りお宮の境内に移してから耕作したという』とあり、前者はこの柳田の話と一致し、後者の話は以上の記載と合致する。

「物部鄕玉岡庄出庭村卽ち今の滋賀縣栗太郡葉山村大字出庭(デバ)に、出庭大明神二座います」現在の出庭神社は滋賀県栗東市出庭のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

「鷄精進(トリシヤウジン)」知られたものでは、「河津の鳥精進酒精進」がある。当該ウィキを参照。一定期間、鶏肉・鶏卵・酒を禁忌とするもので、『いまでも、給食のメニューから鶏肉・卵が外されるなど風習が守られている』とさえある。

「觀惠交話」「落穂余談」とも呼ぶようだが、書誌不詳。ネット上では視認出来ない。柳田國男は若い頃、これの旧内閣文庫蔵本を自由に閲覧していたらしい。

「江州に淡婦(マ﹅)大明神の社あり」不詳。似た名前なら、滋賀県高島市新旭町饗庭の波爾布(はにふ)神社があるが、田螺との関連はネット上では見出せない。因みに、先の出庭神社の北西直近の滋賀県守山市笠原町に、ズバり、田螺を神使とする蜊江(つぶえ)神社(中央下方に出庭神社を配した)があることが判明した。「守山市観光物産協会」公式サイト内の同神社の解説に、『蜊江神社では「オツブさん」、つまりタニシ(蜊)を神の使いとして祀っています』。『この地は、古くから大雨のたびに、野洲川の氾濫による水害を被ってきました。江戸時代の』享保六(一七二一)『年にも堤防が破れ、社殿が流されてしまうという大規模な洪水が起こりました。しかし、タニシの付着した神輿が社殿の前で止まったため、幸いにも祭神は流されることはありませんでした。以来、タニシに感謝した人々は、御蜊様(おつぶさま)と呼び、神の使いとして大切にするようになったといわれています』。『境内の大きな池は「御蜊様池」といい、もとはタニシを保護するための人工池でした』。『現在池は枯れてしまいましたが、その後植えられたショウブは初夏になると鮮やかな花を咲かせます』。『神仏習合当時の地蔵院を残す珍しい神社』とある。

「かへほし」「返へ干し」。水を汲み上げて池を干上げ。

「白田螺」「しろつぶ」と訓じておく。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」「白田螺  シロツブ」を参照されたい。

「越後野志」水原(現阿賀野市)の書籍商小田島允武(のぶたけ)が文化一二(一八一五)年に書いた地誌。「新潟県立図書館/新潟県立文書館」の「越後佐渡デジタルライブラリー」の当該巻の「17」コマ目の右丁の最後の項である。

「蒲原郡彌彥庄丸山村の御洗水池」位置が同定出来ない。

「此池の鮒は皆一目眇なり」これは柳田國男が後に「一目小僧その他」でディグすることとなる。私はブログで同書の全電子化注を終えている

「同郡下田鄕蘆ケ平村の磨於比池(マオヒイケ)」同じく同定不能。

「越後名寄」同前の「越後佐渡デジタルライブラリー」で総て見られるのだが、「卷二十」は縦覧したが、植物の名寄部分で不審。巻数の誤りかと思ってほかの目ぼしい部分を探したが、膨大過ぎ、諦めた。悪しからず。

「古志郡蘆ケ平村」不詳。

「五十嵐川の上流」同河川の流路はサイト「川の名前を調べる地図」のここで確認されたい。

「諏門嶽(スモンダケ)の北麓八十里越の谷」現在の新潟県三条市吉ケ平(よしがひら)にある守門岳(すもんだけ)。距離はぶっ飛んでいるので信じないとして、その北麓には気になる池がある。雨生ヶ池(まごいがいけ)である。池の主(但し、大蛇)と名主の娘の悲恋の伝説が伝わるとある。

「寬政六年」一七九四年。

「村松藩」越後国蒲原郡の内、村松・下田・七谷・見附地方を支配した。藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。されば、この範囲内にその田螺の池はなくてはならぬ。

「白蟹」先の「白田螺」や、神使として知られる「白蛇」「白猿」「白鹿」など、アルビノはその希少性から得な役回りとなるのは言うまでもない。

「深山の池に棲み蝸牛などの如く、岸の竹樹に遊ぶと云ふ貝をタニシと斷定したるは何故なりしか。單に動物學上の問題としては、此ほど難儀なる問題はなかるべし」民俗学上から見れば、少しもおかしくない。「蠃」「螺」は中国でも本邦でも生息域を限らず、これらの漢字に当てる「つび」「つぶ」「にし」という和語も、これまた、あらゆる巻貝状の水棲・陸産貝全部を古くから指し、「田」は田圃に限らず、広義の「田圃」「人が入って耕作するに適した場所」や、さらには、単に「自然状態の多く残る田舎」の意にも用いるからである。

「白井眞澄の遊覽記」国学者で紀行家として知られる菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の本姓は白井。三河出身。国学・本草学を学び、天明三(一七八三)年より、信濃・奥羽・蝦夷地などを大いに踏破・遍歴し、享和元(一八〇一)年からは、主に出羽久保田藩領内に居住した。「遊覽記」は旅先での地理・風俗を挿絵入りで記録した日記である。多くの貴重な地誌や随筆を残した。私も非常に興味を持っている人物である。

「羽後北秋田郡の打戶(ウツト)と云ふ地の記事に、沼平(ヌマダイ)とて大なる沼あり」「Yahoo!地図」の大湯温泉の大湯川上流に「沼平発電所」が見出せる。同名の沼は見えないが、それらしい感じの池沼或いは細流れが左岸に複数ある。

「彼の土中にホラと云ふ貝棲むと傳へ、亦は谿谷の崩壞するを、ホラ※[やぶちゃん注:「米」=「秡」の異体字。「グリフウィキ」のこれ。しかし、これは「拔」の誤字ではあるまいか?]と名づけ、此物時ありて逸出するが爲なりと稱するが如きは、一つには法螺を貝の名なりと誤りしこと、二つには洞又は狹き谷をボラと呼ぶ日本語あるより、二者の關係あるが如く考へたる結果の俗說ならん」山中や田圃にホラガイが棲息するというトンデモ話は、実は非常に広く伝承されている。地震の発信源の正体を鯰ではなく、法螺貝とするものもあるようである。私は複数の例を知っているが、例えば、「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」を挙げておこう。山中の洞窟に棲息するというのは、山伏のアイテムとして必須の鳴器であるそれを、垣間見て誤認したものであろう。

「新編武藏風土記稿」文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)に編まれた御府内を除いた武蔵国地誌。昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信らの指揮に拠る)で編纂された。全二百六十五巻。柳田の指す巻数は違う。やっと見つけた。巻之七十一のここの左ページ下段の「田螺石」である。]

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