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2022/05/01

譚海 卷之五 奥州津輕より松前へ渡り幷蝦夷風俗の事 附數の子・鮭魚漁獵の事

 

[やぶちゃん注:二〇一五年の九月に電子化注を始動したが、途中、特に「卷四」の公家方の話が退屈で、暫くスルーしていたため、なかなか進まなかった。全十四巻だから、まだ三分の一弱だが、スピードを上げる。今一度、現在の凡例を確認しておくと、底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版を用いた。底本では目録に一括して示されてある標題を各話の冒頭に配した。原則、底本のままに活字化した上で(底本の句読点は、原則、いじらない)、一部、読みにくいと私が判断した箇所に、私の推定する読みを( )で歴史的仮名遣で振った。不審な箇所は、私の底本と同一底本である国立国会図書館デジタルコレクションの画像(第五巻冒頭をリンクさせた)及び「国文学資料館」の写本(同前)も参考にした。また、数少ない底本のルビは、以下の通り、その旨を指示した。]

 

 譚 海 卷の五

 

〇津輕より松前へわたる所をたつひといふ。渡口(わたりくち)半里ほど、其間(そのあひだ)北より東へ潮の流(ながる)る事晝夜絕ず、潮はやくしてたぎり川の如し。夫故(それゆゑ)此わたり口甚(はなはだ)難儀なれば、東風はげしき折を見合(みあひ)船をいだす事なり。帆を船の橫にはり、東風をうけてわたる。隨分北によりて上のかたより船を出(いだ)せども、潮に押ながされて向ふへ着(つく)所は東のはづれへ着事也。渡るとき鼻紙などを流し見るに、暫時に十里斗りはうきつしづみつ流るるといふ。又松前にありて外(そと)[やぶちゃん注:原本のルビ。]蝦夷の地に至りて見れば、東は海にてみな赤き泥なれば、船の往來なりがたく見ゆ。泥中によしの如く葉もなき草かぎりなく生(はえ)てあり。每朝日の出る前方には、はるかに雷の如くひゞく也、其ひゞき收(をさむ)れば日はいづる、其鳴ひゞくとき、此泥中に生(お)ひたるよしの如き物のはへぎはより、ぶつぶつと沫(あは)わき、海水にえかへるやうに覺ゆ。松前は五穀を生ずる事なき故、皆他國より持渡(もちわた)りてあきなふ。夫故(それゆゑ)雪隱(せつちん)といふものもなし、大小便とも海邊(うみべ)へ仕(し)ちらし置(おく)事也。又外蝦夷の地にしりべち山と云高山有、殘らず岩ほの色五色にして見事也、山上に神ありて、時々遊戲する體(てい)山下より望み見ゆる也。蝦夷人は刄物(はもの)を作る事をしらず、又たばこも彼(かの)地になし、皆此邦より持渡りて交易する也。交易する所より奧へは此邦の人ゆく事ならぬゆゑ、交易のものを持(もち)はこびて、其所(そのところ)にならべ置けば、ゑぞ人(びと)來りて彼の方の產物に取かへもてゆく也。昔は斧・まさかり・庖丁・小刀の類、いくらもなまくら物を持行(もちゆき)て交易せしが、今はゑぞ人かしこく成(なり)て、刄物をならべ置(おく)所へ石を抱(いだ)き來り、刄物を其石にうちあてゝ試(こころみ)る、刄こぼれ又はまがりなどすれば、打やりて返りみず、刄よきものをゑりてかふる事に成たり。ゑぞの產物は大抵昆布・飴・にしむなどの類也。昆布は一ふさにて十間二拾間づつにつゞけり、百間に及ぶ物もあり。にしむといふはかづの子の親也。鮭は秋の末いくらも海よりのぼりくるを、やすといふものにてさして取也。此邦よりましけ船とて、每年五六艘十艘ほどづつ鮭をかえに行(ゆく)也。此船底(ふなぞこ)には盬百俵つみ入(いれ)、上荷(うはに)には刄物・たばこ・酒などを積(つみ)て行(ゆく)。扨(さて)每年着岸の地へ至れば、蝦夷人來りて交易を乞ふ。上積(うはづみ)せし刄物の類(たぐひ)を渡しやれば、ゑぞ人うけがひて船をとゞめ置(おき)、秋の末鮭の上(のぼ)る時、ゑぞ人海邊に出(いで)て鮭をつき取、いくらとなく船頭にわたす、一日に千二千の數に及ぶ。其鮭を船底より盬にて漬(つけ)ひたし、船の椽(ふち)に及ぶまで積(つむ)事故、夥敷(おびただしき)鮭を得る事也。夫(それ)をよき程にして歸らんとすれども、鮭の盛(さかん)に上る時は、ゑぞ人あまりきほひ勇(いさ)みて、今一日々々とゞめて、歸る事をゆるさず。然(しか)れども見はからひて早く歸船(かへりぶね)すれば難なし、もし歸りおくるゝときは、洋中(やうちゆう)にていつも颶風(ぐふう)の發(おこ)る比(ころ)に逢(あひ)て、船をくつがへさるゝ事也。萬一無難にして歸京すれば、巨萬の利を得(うる)事なれども、多(おほく)はゑぞにとどめられ、鮭の獵(れう)澤山有(ある)にひかれて逗留を過(すご)すゆゑ、無言にて歸る船少(すくな)し。年々五そふ六そふづつは破船に及べども、貪利(どんり)の徒(と)こりる事なく、ましけ船仕立(したてて)ゆく事悲(かなし)むべきわざ也。

[やぶちゃん注:「たつひ」青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍(みんまやたつはま)浜にある津軽半島の最北端龍飛崎(たっぴざき:グーグル・マップ・データ)。最も近い北海道松前郡松前町白神の白神岬とは津軽海峡を挟んで十九・五キロメート離れる。

「はへぎは」「生え際」。

「外蝦夷地」この場合、松前藩の領地以外の西蝦夷地と東蝦夷地を指す。小学館「日本大百科全書」の「蝦夷地」の解説と、「蝦夷地の範囲と略年表」の画像を見られるのがよい。本書「譚海」の成立は寛政七(一七九五)年であるから、松前藩が一応、北海道一円を支配地としてはいた。

「しりべち山」尻別岳(しりべつだけ)。標高千百七・二七メートル。アイヌの人々はピンネシリ(雄山)と呼んで、北西十キロ余にある羊蹄山(千八百九十八メートル)と対比させて呼んだ。後の入植者の呼称は「前方羊蹄山」。

「十間」十八・一八メートル。

「にしむ」条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii。「かづの子」ともに私の「大和本草卷之十三 魚之下 鰊(かど) (ニシン)」を参照されたい。

「やす」漁具の突き銛(もり)の簎(やす)。

「ましけ船」不詳。時代的に見て、宝暦元(一七五一)年に松前の商人村山伝兵衛(能登国出身)が函館奉行所より、増毛場所を請け負い、増毛に出張番屋を設けて交易を始めているから、ここへ向かう内地日本の船を、かく呼んだのではあるまいか。名はアイヌ語の「マシュキニ」「マシュケ」(鷗(かもめ)の多いところ)に由来する。まさに鮭がやってくるくるから、鷗も来るのである。

「颶風」強く激しい風。]

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