曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 東大寺造立供養記(追記で「瑞稻」と「白烏」が付随する)
○「東大寺造立供養記」【文治元年。】云。周防國從二杣中一出大河曰二佐波川一矣。木津至二于海一【三十六町爲二一里一。】。
[やぶちゃん注:底本はここから。「瑞稻」(ずいたう:目出度い稲穂)と「白烏」(しろがらす:カラスのアルビノ)は無関係な記事であるからして、一行空けた。
訓読を試みる。
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「東大寺造立供養記」【文治元年。】に云はく、『周防國、杣中(そまなか)より、出づる大河、「佐波川(さばがは)」と曰(い)ふ。木津にて、海に至る【三十六町、一里と爲(な)す。】。』と。
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この「東大寺造立供養記」は治承四(一一八〇)年に平重衡の南都焼き討ちによって焼失した東大寺大仏の再建から起こして、建仁三(一二〇三)年の東大寺総供養に至るまでの、造立及び供養に関する記述をほぼ編年的に記した史料で、短いものながら、そこには東大寺再建に於いて尽力した重源に関する記述が、多数、見られる。「文治元年」は一一八五年。原文は「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「群書類従」のこちらの8コマ目を参照されたい。右丁一行目から「周防國」の記載が始まり、左丁七行目からが以上の文となる。「中川木材産業」公式サイトの「第7章 木材供給の歴史」の「6.心血を注いだ鎌倉の復興」に、『文治二年(一一八六年)春に、後白河法皇から周防国(山口県)が寄進されたので、重源は十余人の役人と、宋の鋳物師陳和郷』(「東大寺造立供養記」の誤字。先の6コマ目二行目を参照。陳和卿(ちんなけい)が正しい)『らを従え、瀬戸内海を渡って周防の杣に入った。そのとき内海沿岸の国々は源平の戦の終わった直後で、疲弊困窮はその極みに達していた。重源らは船中の米を施し、農耕の種子を与えたりしながら、深山幽谷をことごとく巡視して良材を探し求めた。また良材を見つけたら米を与えるという奨励の方法を取ったので、杣人たちは大いに発奮し、谷、峰の境なく尋ね回ったために、成績は大いにあがった』と冒頭にあって、以下、当時の復興のための木材の収集の苦労が詳しく述べられてあり、必見である。陳和卿は鎌倉史では、実朝のトンデモ渡宋を決意させる如何にも怪しい渡来人のイメージが濃厚で、「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る」や、「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」、及び、『やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相』を見られたのだが、ここでは東大寺再建を支えた人物としていい感じに描かれているのが、興味深い。「佐波川」の位置は当該ウィキの地図を見られたい。
以下の段落は底本では全体が一字下げ。]
「栂尾明惠上人渡天行程記」云。從二大唐長安京一到二摩阿陀國王舍城一五萬里。即當二八千三百三十三里十二町一也【大里定也。三十六町一里定。】。百里【小里。】十六里二十四町也【大里定也。】この二書、「群書類從」中に在り。
[やぶちゃん注:訓読してみる。
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「栂尾明惠上人渡天行程記」に云はく、『大唐長安京より摩阿陀(まがだ)國王舍城に到るに五萬里、即ち、八千三百三十三里十二町に當たれり【大里の定(ぢやう)なり。三十六町を一里に定(さだ)む。】。百里【小里。】十六里二十四町也【大里の定なり。】。
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「摩阿陀國」は当該ウィキを参照されたい。「大里」「小里」は先の「三十六町一里幷一里塚權輿事」を見られたい。なお、「栂尾明惠上人渡天行程記」というのは、かの名僧明恵(みょうえ)が釈迦への強い思慕のあまり、元久元(一二〇五)年、この「大唐天竺里程記」を旅行準備の資料として作成し、『天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ』建仁二(一二〇二)年にも『インドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念して』(当該ウィキに拠る)おり、結局、明恵は大陸に渡ることはなかったので、注意が必要。なお、私はブログで「明恵上人夢記」及び「栂尾明恵上人伝記」【完】を手掛けている。]
右三ケ條、輪池翁の問れしかば、卒爾ながら、しか、答へたりき。そのゝち、翁、追考のよしにて、上層に朱をもて、しるして、見せられたり。さらば問ずもあれかしと思ふのみ。
追錄瑞稻、白烏、
天保二年辛卯の秋、越後魚沼郡妻有の庄、十日町の在鄕割、野村久左衞門といふ者の家の裏の軒端に、稻一株自然と生出しを、そがまゝに捨置しに、漸々生立て長さ八九尺に及び、葉の幅、八、九分なり。親穗は一穗に千百十數粒あり、小穗十三本、これぞ、おのおの五、六百粒有り。「未曾有の事也。」とて、遠近の老若、來會して、見る者、堵のごとくなりき。又天保三年壬辰の春、越後魚沼郡鹽澤の里人、鍵屋治左衞門といふものゝ園の樹に、烏、巢を造りて、雛三隻、生出たり。その内に白烏一隻あり。あるじのをとこ、人にぬすまれんことを怕れて、はやうとりおろして養ひたり。その烏、純白にして、初は觜と足と薄紅なりしが、成長に從ひて觜も脚も白くなりにき、といふ。鹽澤の里長、目擊して、圖して予におくれり。右の畫圖は別卷にあり。
[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が一字下げ。]
この二ケ條は、壬辰の夏四月、牧之が書狀もて告られしを、こゝに半張の餘紙ありければ、追錄しつるにこそ。 著作堂主人
[やぶちゃん注:「天保二年」一八三一年。因みに、ウィキの「天保」によれば、この前の元年には、『秋田藩で大冷害。旧暦』六『月の土用の頃でも』、『襦袢を着る必要な涼しさ』で、『秋のコメの収穫は僅かで高騰を招いた』とあり、而して五年後の天保七年には人肉食も行われた「天保の大飢饉」が襲っている。
「越後魚沼郡妻有」(つまあり)「の庄」現代の旧十日町市・旧川西町・旧中里村・津南町の広い地域を指した。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「十日町の在鄕割」現在の十日町市街か。
「自然と」「おのづと」。
「生出しを」「おひいでしを」。
「生立て」「おひたちて」。
「遠近」「をちこち」。
「堵」「かき」。垣根。
「魚沼郡鹽澤」新潟県南魚沼市塩沢。
「園」「には」と訓じておく。
「生出たり」「うまれいでたり」。
「怕れて」「おそれて」。
「觜」「くちばし」或いは「はし」。
「鹽澤の里長」「北越雪譜」の作者鈴木牧之その人である。
「圖して予におくれり。右の畫圖は別卷にあり」ネットを検索してみたところ、emi氏のブログ「今日も星日和 kyomo hoshi biyori」の「馬琴と画眉鳥シリーズ(その2)馬琴の『禽鏡』に感動!」で、それを、再度、模写した素敵なシロガラスの図が見られる。著作堂名義で馬琴がものした鳥図鑑「禽鏡」の中にあるものである。これは、凄い!
「壬辰」天保三年。
「半張」「はんはり」。]
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