「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「親が子を殺して身を全うせしこと」
[やぶちゃん注:本論考は明治四五(一九一二)年二月発行の『人類學雜誌』二十八巻二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
親が子を殺して身を全うせしこと
人類學會雜誌二七八號三一二頁に、予は螢蠅抄より、元寇侵來の際、壹岐對馬の民、敵軍が兒啼きを聞付けて押し寄るを避んとて、嬰兒を殺して逃げ匿れし由の記文を引たり。三〇八頁に引る伊太利の山賊の外にも、歐州に斯る例有るを近日見出たれば報告す。云く、一二五六年、「モアクス」の戰ひに匈牙利軍土耳其人に全く敗られ、其王「ルイ」二世を喪ふ、是に於て土耳其兵全く匈牙利國に克ち、到る處ろ鹵掠を縱まにし、老幼婦女殺戮殆ど盡く、此時婦女其兒が啼て敵を牽くを虞れ、之を生ながら瘞めし者數多あり(Mouchot, ‘Dictionnaire Contenant les Anecdotes Historiques de l'Amour,’ a Troyes, 1811, tom.ii, p.320)。史記に漢高祖項羽の軍に追るゝ事急にして、二子を棄てゝ走りしてふも足手纏ひを除かんとせる人情、軍制確かならぬ世には何國も同じかりしと見ゆ。
(明治四五年七月人類第二十八卷)
[やぶちゃん注:「人類學會雜誌二七八號三一二頁に、予は螢蠅抄より、……」これは先行するブログ分割版では「南方熊楠 小兒と魔除 (7)」が相当する。注もしてある。
「三〇八頁に引るイタリアの山賊」これは「南方熊楠 小兒と魔除 (6)」を見よ。
『「モアクス」の戰ひ』一五二六年八月二十九日に、ハンガリーのモハーチ平原で行われた、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦「モハーチの戦い」のこと。
「匈牙利」「ハンガリー」。
「土耳其」「トルコ」。
『其王「ルイ」二世を喪ふ』ハンガリー王にしてボヘミア王であったラヨシュⅡ世(II. Lajos)は二十歳の若さでこの戦いで戦死した。
「鹵掠」「ろりやく」。略奪すること。
「縱まにし」「ほしいままにし」。
「生ながら」「いきながら」。
「瘞めし」「うづめし」。
「數多」「あまた」。
「Mouchot, ‘Dictionnaire Contenant les Anecdotes Historiques de l'Amour,’ a Troyes, 1811」この本、フランスの複数の著者による組織著作であるらしい。訳すなら、「愛に関わる歴史的な逸話を含む辞書」である。
「史記に漢高祖項羽の軍に追るゝ事急にして、二子を棄てゝ走りし」紀元前二〇五年、劉邦は項羽の本拠地彭城へ侵攻した。項羽は遠征中で、当初、簡単に攻略出来たが、事態を知った項羽が反撃を開始し、劉邦は敗走、同郷出身の弟分であった夏侯嬰が御す馬車で、幼い息子と娘だけを乗せて逃げたが、追手が迫った時、劉邦は車を軽くするために二人の子どもを突き落とした。これを見た夏侯嬰はその場で車を止め、二人の子を拾い上げた。劉邦と夏侯嬰は、三度、同じことを繰り返し、遂に夏侯嬰が劉邦を怒鳴りつけたことから、劉邦は彼を斬ろうとしたが、馭者失っては元も子もなくなることから、漸く、子供を捨てるのをやめたという(以上はQ&Aサイトのこちらの回答を参考にさせて戴いた)。
「何國」「いづこ」と訓じておく。]
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