只野真葛 むかしばなし (53) / 舟奇談
一、濱町にて、御坊主永井久悅の咄しに、
『此頃、懇意のものゝはなしなり。吉原から猪牙(ちよき)にのつて歸りしに、闇の夜なりしが、藏前邊にて、
「ぐらり」
と、かへりしが、仕合(しあはせ)には、水、淺く、膝きりにて有(あり)し故、衣類《きもの》をぬらしたばかりにて、石垣傳ひに、どうかして、岡へ上りかへりしが、舟は、少しも、かまわずに、一さんに、漕(こい)で行(ゆき)し、となり。ぬれながら、内へ歸り、翌日、
「船頭はどうしてゐる。」
と舟宿へ行て見しに、高ぎせるにて、門口に居(ゐ)たり。
「是は。どうだ。」
と聲かけしかば、物いわずに、袖をとり、
「こちらへ、おはいり。」
とて引込(ひつこみ)、二階へ上(あげ)て、
「眞平御めん。」
と、あやまりしとぞ。
「御めん所か。とほうもない。」
と云(いふ)をおさへて、
「先々、高聲(こうせい)被ㇾ成て被ㇾ下ますな。大切な事でござりますが、申分(まうしぶん)の爲(ため)、御咄し申(まうし)ます。お素人がたを相手に、夜、壱人(ひとり)で漕(こぎ)、舟が引(ひつくり)かへつた時、壱人では、中々、助けられません。下手にうろつくと、共に、死にますから、棄切(すてぎり)の「さだめ」でござります。必、他言被ㇾ下まじ。」
とて、酒肴(しゆかう)にてもてなし、惣船宿、連名の「誤り證文」いたし、七重八重に成(なり)て閉口せし故、ふくれながら、其まゝにして置(おき)たり。
「とんだ事が有もの。」』
と、いひし。
父樣も、
「わかき時分、吉原歸りの船にて、危(あやう)き事、有し。」
と被ㇾ仰し。是も暗夜にて下(さ)ゲ汐(しほ)の時、一さんに、くだして、來(きた)る。父樣は、船中にねむりて御いで被ㇾ成しに、
「ザブリ」
と、物の落(おち)たる音せし故、御覽有しに、艪(ろ)づな、切(きれ)て、櫂(かい)を持(もち)ながら、船頭が落(おち)しとぞ。
舟は、矢を射る如く、走りて下る、中々、およぎて、追つかれねば、跡に成(なり)て、いかゞしたるか知らず、大きに心づかひなりしに、永代橋の外にかゝりたる親船のはらへ、舳先(へさき)が當りし故、船頭共、とがめしを、
「ケ樣、ケ樣。」
の事と被ㇾ仰て、舟をとめてもらひ、手間取(てまどる)内に、落たる船頭、櫂をかついで、岡を走りながら、
「萬幸(ばんこう)さん、萬幸さん。」
と呼(よび)て來りしとぞ。それより又、櫓をしかけて、歸りし、となり。
「親船に當らずば、いづく迄、行くかしれず、危かりし事。」
と、其時、被ㇾ仰し。
[やぶちゃん注:「御坊主」数寄屋(すきや)坊主・茶坊主・御奥(おおく)坊主で、江戸幕府の中奥の職名の一つ。若年寄の支配に属し、数寄屋頭の指揮をうけて、将軍を始め、出仕の幕府諸役人に茶を調進し、茶礼・茶器を司った。僧形で、二十俵二人扶持。町屋敷が与えられ、その数は百人から三百人ほどいた。一般には少年・若者が選ばれた。因みに、芥川龍之介の養父で伯父(実母フクの実兄で芥川家嫡流)の芥川道章の家系は彼の祖父の代まで、この職にあった。
「萬幸」そのぶつかった永代橋に係留してあった親船(伊勢船の俗称。伊勢船は船型構造が中世末期の伝統を持つため、近世の進歩した弁才船に対して、古様であるところからの称)の水主(かこ)の姓か。]
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