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2022/05/14

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「詩に就て」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「詩壇の柱」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

     詩に就て

 

 

 詩壇の柱

 

 或晚、本屋の店先で福士幸次郞氏の「太陽の子」を見て、直ちにこれを購ひ求めた。大正三年に出版された此詩集の中には、今のプロレタリア詩派の先驅的韻律と氣魄とを同時に持合せ、激しい一ト筋の靑年福士幸次郞の炎は全卷に餘燼なく燃え上つてゐた。自分は手擦れのした此詩集の存在に對し友情の外の敬愛を感じた。今の高村光太郞君の粗大を最う一ト握り生活面で壓搾した彼の内容的な集中感は、見渡したところ到底天下に較べるものの無い位だつた。これらの詩が大正初年の作品であることと、そして何よりも彼の性根がその時代から今までへの二十年の歲月に、悠悠と働きかけてゐる健實な新味を思はざるを得なかつた。時時「童謠も書いて見る」フラスコ風の詩人、時時注文によつて詩物語をも案じて見る三流以下の詩人、又時時人生派風の嵐や海洋やケチ臭い生活詩を歌ふ詩人、さういふ詩人の中で淸節をもつ此「太陽の子」に於ける行動と韻律を約束した二十年後の立派さは、自分の眼界に瘦軀をもつて霜を衝くところの、詩人中の詩人、過去がもつ大なる柱石的な奇峰を現出せしめた。縱令何人と雖も此一つの柱、云ひやうのない氣魄が全詩壇的な過去への大なる承認であることを知らねばならなかつた。

 自分は數句の後、大阪から來た或書店の書目の中に、彼が大正九年の版行である詩集「展望」を見て僅かに三十錢を投じて購求した。「感謝」の玲朧、「記億」の悒鬱《いふうつ》、「友情」の美と韻律、「平原のかなたに」の思慕的な熱情、そして「昏睡」の中にある現世的ライオン、此詩は、(一人の男に知惠をあたへ、一人の男に黃金のかたなをあたへ……)の呼びかけから書き出して左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記錄を絕した力勁さで終つてゐる。

 

 この男に聲をあたヘ

 この男をゆりさまし

 この男に閃をあたヘ

 この男を立たしめよ!

 

 そして又「夜曲」の美しい激越、調度と愛情。

 「われは君のかつて見た海をわすれず、君の遊ん

 だ濱を忘れず、その海によなよなうつる星のごと

 く荒いうねりに影うつす星のごとく、われは君を

 ば思ひだす……」

 その他「幸福」の幽《かそけ》さ「泣けよ」の純朴、「船乘りのうた」「この殘酷は何處から來る」それらの詩の内外にある健實な搖るがない確さは、もはや過去の詩檀に聳える奇峰的な壯大な疊み上げ、遙かに群がる諸詩人の上に光つてゐる。これらの韻律、行動、形態、表現の諸相は、今日の詩壇の最も柱石的なものであり、萩原朔太郞氏の「月に吠える」と相對ひ合うて、大なる詩歌の城をどつしりと上の方に乘せてゐる。風雲は彼らを訪れるであらうけれど彼らの拔くことのできない大なる柱は、益益その城を護るために、後代への重い役目を果すであらう。今日の詩壇に筆劍を磨くの徒は何人も彼のために一ト先づ挨拶を交し、自分のもつ敬愛を同感することに依つて、彼を知ることを得たのを喜ぶべきであらう。

[やぶちゃん注:文中に「われは君のかつて見た海をわすれず、……」は引用全体が一字下げベタなので、かく処理した。但し、以下に示す通り、引用が不全である。

『福士幸次郞氏の「太陽の子」』大正三(一九一四)年洛陽堂刊の福士の処女詩集。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本全篇が読める。

『詩集「展望」』大正九(一九二〇)年新潮社刊。同前のこちらで原本全篇が読める。以下、

「感謝」はここ

「記憶」はここ

「友情」はここ(題名の後に『(千家元麿氏に)』(「せんげもとまろ」と読む)の献辞がある)

「平原のかなたに」は「ああ平原のかなたに」が正しく、ここ

「昏睡」はここで、以下の引用は最後の「昏睡」の最終連であるが、原詩は最初の三行末には読点がある。

「夜曲」はここで、以下の引用は最終連であるが、引用(一部不全)がベタなのは不満。以下に示す。

   *

ああわれは君のかつて見た海をわすれず、

君の遊んだ濱を忘れず、

その海によなよなうつる星のごとく、

荒いうねりに影うつす星のごとく、

われは君をば思ひだす、

われは君をば思ひだす。

   *

が正しい。

「幸福」はここ

「泣けよ」はここ

「この殘酷は何處から來る」はここ

である。

「悒鬱」「憂鬱」に同じ。] 

 

 詩歌の道

  

 自分は若い時分から歌を詠まうといふ氣持を持たなかつた。歌に對する才能の無いのも朧氣ながら知つてゐた。併し他の歌人の詠草は努めて讀んで自分の足しになるものは、自ら恍惚としてその道の「物の哀れ」を感じ味はひ、發句や詩の境致に窺へない或は相聞風な或は自然風物の詠草に、身を入れて讀み耽ることは樂しかつた。良寬の閑境や元義《もとよし》の情熱、又は實朝の豪直なども、勞作の暇暇《いとまいとま》の心を和め慰めてくれたけれど、依然作歌の衝動を感じたことは一度もなかつた。何處まで行つても自分の作爲を動かすことはなかつた。

 昨年の夏自分は眼を病み、殆どその眼に纏帶を施してゐた關係上、かういふ時に發句でも作らうと思うて見たが、何故か發句への氣持が動かず、詩にも氣持は働かうとしなかつた。眼を病むと氣持の鬱屈することは並大抵ではなかつた。自分は或朝早く庭に小さな朝顏の花を見出し、それが土の上を這うて咲いてゐる有樣に物哀れさを身と心に沁みて感じた。歌を作りたい氣持に打込まうとしたのも、初めて經驗する靜かな又得難い衝動だつた。自分は齋藤茂吉氏の歌や島木赤彥氏の歌を讀んで見て、自分も作歌の志を立てて見たが矢張り失敗して書けなかつた。自分はふと釋超空氏の歌をよんで暫らく茫然と見詰めてゐた。實際自分は近頃これほど鋭い唐突な驚きを感じたことは稀だつた。それほど釋氏の歌は咄嵯の間《かん》に自分に關係を生じて來てゐた。「赤光」以來歌に驚きを感じたことは、初めての經驗だつた。自分は釋氏の境致には誰も手をつけてゐないことを知り、その茫茫たる道を釋氏が縱橫に步いてゐることに、ひそかに舌を卷いたのである。誰も知らぬ歌壇にこのやうな恐ろしい奴がのつそりと步いてゐたことは、全く驚いて見るだけの「押《あふ》」の强さをもつてゐた。自分は前田夕暮氏に會うた時の釋氏のことを尋ねたが、前田君も釋は怪物だといふ意昧のことを言つてゐた。自分の考へが謬《あやま》つてゐないことは兎も角、遠い文壇の彼方にぎらぎら光つてゐる眼光のあつたことは、自分を猛烈に打つて來るのだつた。自分はどういふ意味にも油斷してはならぬと思ひ、兄だか弟だか分らぬ藝術の分野に伏兵をしなければならぬ自分のネヂの弛みを締め上げるのだつた。凡ゆる詩歌の分野的仕事の隱れてゐる位置、匿れてゐなければならぬ境涯、それでゐて到底五十年を豫約する光芒の純粹さは、詩歌の大平原に朝日のごとく輝いてゐるものだった。彼らの中に一生詩歌に理もれてゐる人さへあり、それを衿持せずに微笑してゐる人もあつた。

 自分は詩歌への精進はしてゐても、最《も》う動かないものを動かさうとする詩歌の最後の中に絕叫してゐるものである。動かないものを動かすところへ行き着くことは、併し歡喜に違ひはないが進步ではなかつた。化石と同樣な慘めさと憂苦だつた。自分はその扉を蹴破らうとしながらゐて、自ら重石の下にゐるも同樣の苦衷を嘗めてゐた。それは詩が誠の「意識」から抉《ゑぐ》り出されるものだつたからだ。自分は呼べども答へない詩歌の鐵の扉を、日夜蹴破り敲くものの慘苦を經驗し、凡ゆる哄笑の中に仁王立ちに立ちあがり乍ら、身を以て打《ぶ》つかつてゐるやうなものだつた。

 最早あらゆる詩歌はその本體を搔きさぐることではなく、本體自身が本體となる前の、文章が文章とならない以前、感情の動きが既に動きとならない前のものでなければならなかつた。自分の刻苦して打つかるものも自分の感情的な皺の多い時代には、その皺を剝ぎ起さなければならなかつた。その皺の下に未だある一滴の泉を自分は靈藥のやうに目にそそぎ込まなければならないのだ。

[やぶちゃん注:「元義」平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)は幕末期の岡山の国学者で歌人・書家。当該ウィキによれば、『子規が明治』三四(一九〇一)年に、雑誌『『日本』に連載していた』「墨汁一滴」に『元義を万葉歌人として称賛する文が発表され、元義の名は世に広く知れ渡った』とある。]

 

 詩と發句とに就て

 

 發句も詩も別に自分には渝《かは》りがない。渝りのあるのは詩の中にあるもので壓搾されたものが、發句の姿となり内容となるだけである。特に職業的俳人や卽興的詩人の輩に依つて區別される發句や詩の單なる形式的識別は、自分には最早問題ではない、――自分の問題とするところはそれらの根本の嚴格さを引き出すことにあるのだ。

 發句といへばさびしをりを云ふのは、假令それらの言葉の存在があるとしても直ちにそれに依つて片付けてしまふことは間違ひである。要は嚴格な、高い、登り詰めてゐる氣持をいふに過ぎぬ。我我は吾吾の最高峰を攀ぢ登つてしまうたところで、最う一度何物かを搔きさぐらねばならぬ。詩が感情的風景の域を脫してゐることは勿論、詩はそれらの上に立つ最早雲表《うんぺう》的な氣禀《きひん》の激しさから登り詰めた何物かであらう。――

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「雲表」遙かな雲の上。]

 

 遺傳的孤獨

 

 元祿の作者の中で特に選ばれた丈艸や凡兆は芭蕉と共に自分らを擊つのも、かれらの高峰が俗手《ぞくしゆ》の抵觸外に立つてゐる爲であらう。ホヰツトマンやヴエルレエヌの詩風は詩風の一存在として、特に僕らの靑春を襲うて共鳴してゐたのも、最早今日の僕らをしてたはいないものとして眺め飽きたのも、僕らの成人を意味する前に既に僕らが奈何に彼らよりも、より烈しい東洋風の孤獨とともに在ることに耐へる、千古不拔の遺傳的詩人であつたかが想像されるであらう。

 西洋人は遺傳的に孤獨の外の人種であり、性情に孤獨の巢をもたないやうである。稀れに露西亞人にある北方的憂欝の氣質は、トルストイやドストエフスキイの器に盛られたとしても、東洋風な、淡《あつさ》りした孤獨の城を建てることを知らない、――發句が幾たびか英譯されてゐながら、その十分の一すら味ひや甘みを傳へることのできぬのは、民族の遺傳的風習や生活樣式の相違ばかりではない。「分りかねる」ものが未永劫にまで「わかりかねる」ことであり、解らうとしてもその解るべき性質を根本から失うてゐるからに過ぎない。

 

 悲壯なる人

 

 詩が日本の靑年の間に作爲されたのは、正しい新人の努力に依つてその地盤を築き上げたのは、今から二十年前であらう。河井醉茗や澤村胡夷《こい》、蒲原有明等もその記憶にあるところのものだが、寧ろ北原白秋三木露風の二つの存在は、新人詩壇の存在を固めるに力のあつたものであらう。三木露風のねらひどころの可成りに正確な、洞察の幽邃は空虛な詩壇を一層低迷ならしめたことは萬死に値すべきであるが、併しあの時代に於て彼の詠嘆の矢弓《しきゆう》はただちに騷騷しい混鬧《こんだう》に陷入らないで、一ト通りの靜寂を覗き見ようとしてゐたのは並並でない努力であつた。白秋の邪宗門に於ける異國情調の比較的嚴格な律調も、消化されて次の時代の格律となつたことも疑へないやうである。「思ひ出」の輕い調子が後期に惡影響を與へたことは云ふまでもない。

 併乍ら白露二氏の時代から今日までの詩人中の詩人、新人中の新人として數へ上げることのできるのは、中野重治でもなければ千家元麿でもない。一人の劍の折れたる戰士萩原朔太郞であらう。時代の新勢は既に萩原を乘り越えてゐるに拘らず、彼はなほ昨日の新人の如き善良なる勇邁と、作詩的末期の餘熖《よえん》に捲かれ乍ら、悲壯なる戰鬪の眞中にゐるのは滑稽以上の嚴肅さであり餘りに悲壯以上の悲壯でなければならぬ。彼自らも猶悲壯淋漓たる中に、幾たびか胴震《どうぶる》ひをして猶永く末期的餘熖の渦中に立つであらう。

[やぶちゃん注:「澤村胡夷」(明治一七(一八八四)年~昭和五(一九三〇)年)詩人で美術史家。滋賀県彦根生まれ。本名は専太郎。京都帝大文科大学哲学科美学美術史専攻で明治四二(一九〇九)年卒。文学博士。早くから『小天地』などに詩を投稿し、明治三六(一九〇三)年、詩「小猿」を発表。旧三高の代表歌「逍遙之歌」や「水上部歌」を作った。明治四十年詩集「湖畔之悲歌」を刊行。大学卒業後は『国華』の編集に従事し、大正八(一九一九)年、京帝大助教授となった。著作に「日本絵画史の研究」「東洋美術史の研究」がある。台湾訪問中に依頼を受け、昭和三年の暮れ、「胡夷」のペン・ネームとして最後の詩となる「臺灣警察歌」を作詞している。

「混鬧」現代仮名「こんどう」。遣混乱と騒擾。]

 

 十年の前方

 

 詩が今より最《も》つと注意され愛讀されるには、やはり十年の歲月を要するであらう。その十年の曉にもなほ不運であるべき詩人の嘆息は、その時に於てすら更に十年の年月を曉望するであらう。我我が詩を書き始めたころは依然十年の行手を眺めてゐた。その十年は今吾吾の存在や周圍の存在だつた。しかも我我や吾吾の若い同行の詩人たちは、詩に於て衣食することを拒絕されてゐることは勿論、詩中に呻吟することをも許されなかつた。

 詩人は詩人である爲の輕蔑、詩人でなければならぬ輕蔑の苦苦しい唾液を吐き出すまでに、可成な辛酸のあることは小說家が小說的唾液を吐き出すと一般であらう。しかも詩人は詩人である傳說的美名と、美名がもつ輕蔑とに惱まされ通してゐる。應需の尠《すくな》い詩人の社會的進出は、小說家に及ばない如く他の何者にも及ばなかつた。併も彼らは風流才子でない如く甚だコセコセした虛名に憧れなければならぬ原因があるとしたら、それは詩人自身にではなく、彼の「十年」の年月が前方にあるからだと云つた方がよからう。彼ら詩人は絕えず十年を目ざして進んでゐる。これは小說家に於ける眼の前の生活にばかり拘泥してゐるのとは、少しく事變つてゐる。彼らが彼らの受ける輕蔑の前に、先づこの晴晴しい「十年」の前方を俯仰《ふぎやう》することに依つて、他の奈何なる藝術の士にも劣らない心魂を硏ぎ澄すことを證據立てるであらう。その一事のみに依つて彼らは漸く彼らの仕事に受ける輕蔑の蒼蠅を拂ひ除けることができるであらう。

 

 詩錢

 

 千家元麿氏は或時、或本屋の門を通り過ぎ乍ら、不圖《ふと》囊中《なうちゆう》空しきを知り、鉛筆で數章の詩を書いて金に換へたさうである。これは千家氏自身から直聞《ぢきぶん》した話であるから噓ではなからう。千家の詩風であつてこそ初めて此卽興的場面が充されることを知り、僕なぞはかうゆくまいと思はれた。

 詩を書かうといふ氣持は、殆ど瞬間にして消失する再び補捉しがたい氣持である。金に換へるために書くことは決して惡いことではない。僕などの詩を書きはじめた大正元年前後には、詩に稿料を拂ふ雜誌社がなく、そのために現今の如く身を落して、詩人が雜稿を市に賣ることを潔しとしなかつたやうである。尠くとも僕自身は詩を書く外、雜文は書かないで破垣茅屋《やれがきあばらや》に甘んじて暮した。その頃から見れば今は詩人の生活も物質的に惠まれてゐると言つてよい。

 詩人にして小說を淋くことは多少輕蔑されることらしい。詩人で生涯小說を書き通すとも、よくよくの面魂《つらだましひ》をもたなければならぬ。千家氏の如く書店の門前で平氣で詩を書いて賣ることは、その平然たる面魂の中に、押しの强さがある。自分は何故かその話を面白く想出した。

 

 圓本の詩集

 

 圓本の中に詩集がその一卷の役目を持ち、改造社、春陽堂も其書册に加へてゐる。天下の詩人數十氏が年代的に後代に傳へらるべきものは、先づ此詩集位であらう。同時に凡ゆる圓本中、窺かに其後代に於て古籍本としての市價が圓本中の何物よりも以上に價高き古本の値を持つことは當然であらう。何故といへば小說本の紙價はその年代とともに低落するに先立ち、詩集類は歲月とともに其定價をセリ上げてゆくからである。萩原朔太郞の「月に吠える」や「靑描」福士幸次郞の「太陽の子」高村光太郞の「道程」日夏歌之介の「轉身の頌《しよう》」千家元麿の「虹」百田宗治の「ぬかるみの街道」北原白秋の「邪宗門」佐藤春夫の「殉情詩集」西條八十の「砂金」堀口大學の「砂の枕」等は、最早その初版は定價の二倍以上に昇り、市上これを輕輕しく求められない。

 以上の詩集はその詩人の出世作である所以もあるが、それを讀む若い人人は次から次へと成長し、又次から次へと搜し求めるからである。詩歌に熱情を持つ靑年は他の小說本の比ではない、彼等は一卷を求めるに東京中の古本屋を搔き𢌞すことは平氣である。詩歌の士は誠に此心がけがなければならず、往昔の自分もまた此道を踏んで來たものである。圓本の詩册がかういふ氣持ちを胎んでゐることはその編輯者と雖も自覺しないであらう。かういふ不斷な靑年の背景をもつ詩集の書册が、當然圓本中に於ける重大な役目を持つてゐること、及び後年その紙價を上騰させることは瞭《あきら》かなことである。

 圓本の使命はどうして之等の圓本を後代に殘すかといふ今は非營利な寧ろ藝術的熱情を感じる時である。相應營利的成果のあつた今日に於て、先づ此等の圓本を後代の史家に殘し、圓本の輕蔑を剝奪すべき良き書物の塔をどうして殘すかを考慮すべき時である。新人を加へ最善を盡し、少し位《ぐらゐ》損をしても自ら元祿の井筒屋庄兵衞をも念頭に入れるの時である。圓本時代に何人が圓本以上の仕事をしたか、その仕事に藝術的な眞摯な作用をもつ出版書肆がどれだけゐたか、さういふ決定を爲すベふ時である。自分は材料蒐集の上、これらの圓本論とその時代を論じたいと思うてゐる。圓本を檢討することは時代の腸《はわわた》に手をさぐり入れることに均しいからである。

[やぶちゃん注:「窺かに」逆立ちしても「ひそかに」と読むしかないが、「窺(ひそ)かに……持つことは當然であらう」という文脈では呼応がひどく悪い。「窺(ひそ)かに思ふには……持つことは當然であらうかとも感ぜられる」ぐらいでないと、尻が落ち着かないと私は思う。

「井筒屋庄兵衞」京都の書肆。俳書の出版で知られ、蕉門の俳書は、殆どが、この書肆より刊行されている。初代が初めて俳書を出版したのは承応元(一六五二)年で、以後百五十余年、五代にわたって出版活動を続けた。]

 

 詩情

 

 自分の詩を書いてゐた年少の時にすら、詩に遊ぶといふ氣持よりも、むしろ詩の中にゐて年少の生活を見てゐたやうに思ふ。何か心に添はず友情に叛き兄姉に離れた時には、机に對ひ詩中の悲しみを自ら經驗したやうに思うてゐる。徒らに花下《くわか》に春秋の思ひを練るといふ氣は無かつたらしい。假令、春秋の念ひを遣《や》るにしてもその折折の自分を基としてゐたやうである。

 年少の悲しさはそれ自身成長の後には詩情に似たやうなものであるけれど、年少の時は詩情どころではない。世に容れられぬと一般な悲哀であるやうだ。自分は敍情風な昔の詩を讀み返すと、それを書いた時の日光の色、樹の匂ひ、その時の心もちなぞが思ひ出されて來て、一枚の寫眞を眺め入るのと何の變化りはないやうである。自分は既に壯年の齡に行き着いてゐるけれど、詩情は昔に稀に立ち還つて自分に何か考へさせるやうである。尠くとも敍情の詩を書いた自分を不幸だとは思はない、あの頃は自分の生活の中でも一番樂しかつた頃ではないかとさへ思ふのである。考へることに濁りがなく憂愁はあつても素直な姿をもつてゐた。しかも靑春の多くの時を詩に形ををさめ、一卷として自分の年少時代を記念したことは決して不幸ではない。――振り顧(かへ)つて往時を思ふよすがともなる仕合《しあはせ》さへ感じるのである。

 その頃の自分は東京の町町を步くことを一種の旅行のやうに考へてゐた。實際、田舍に生れた自分には、海近い深川の土藏のある町通りや、大川端の古風な昔の艶を拭き出した下町を見物して步くことは、郊外から出掛けるだけでも鳥渡《ちよつと》した旅行に似た遠い感じであつた。土藏と土藏の間から隅田川を見、淺草公園では樣樣な見世物小屋に半日の心さむしい遊びをしたり、と或る店さきに眉目正しい、下町娘を見出したりして、ちよつとした旅愁を感じたものだつた。とり分けさういふ町を步きながら雨に降られたりすると、國の町のやうに傘借りることもできないなぞが、一層他鄕の感じを深めるのだつた。冷たい雨あしを眺め自分はよく淺草の知らぬ町家の軒下に佇んで、國の町でさういふ雨に降られた時のことを思ひ出して、漠然とした憂愁を感じたものであつた。この感じは東京に居馴れるに從つて次第に消えて行く感じであつたがまだ折折心を掠めて殘つてゐた。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 詩集と自費出版に就て

 

 自分が初めて愛の詩集を出版したのは大正六年の冬だつた。當時も今も處女詩集は自費出版に定《きま》つてゐる。本屋などは相手にしてくれるものではない。そのかはり幾らかの文名を贏《か》ち得た後に更めて本屋が出してくれるものである。自分の愛の詩集も後に本屋から改めて發行した。同樣「抒情小曲集」も自費で出したが今までにアルスや紅玉堂から度度《たびたび》版を重ねた。

 自費出版はそれの償ひが精神的以外に酬いられるものではない。自費出版の意義はその詩人の大成した後日に初めて生じると云つてよいであらう。市井一介の詩人としての沈沒する詩集は、本人には意昧はあつても文壇的に意義をなさないとしたら、これはよく考へた後に出版すべきものであらう。當今の如く思いつきや當座の感興などから、簡單に出版されるべきものではなく、能くその詩人の全生涯の發足的な地盤を決定すべき、ゆるぎのない作品の堅實性を信憑してから、それの出版を見るべきものであらう。後代に傳はる如き作の集成を見ることは、ひとり作者の快適とするところばかりでなく、全文壇に美しい記錄を殘すものと言つてよい。小說集は二三年にしてその書物としての形や値を失ふことが多いが、詩集本は年經るごとに高金の値を生じてゆくのは、作者に誠の心があるからである。又、別の意昧で小說集は他の刊行物として出版されるが、詩集の重版は少く、その元の版のまま稀本として傳はつて行くが爲である。一朝にして亡びる詩集を出版するくらゐなら止めた方がよいといふのも此意昧に徹するからだ。

 

 

 過去の詩壇

 

 當今では詩や小說ぐらゐ書けない靑年は稀になつてゐる。全くのところ詩や小說の眞似事くらゐ書けないやうな靑年は、その靑年たる常識を缺いてゐる程度にまで、文藝が一般に普及してゐる時代である。何も詩や小說を書くことが特殊な仕事ではなつなつてゐる。それ故これからは詩や小說を書いて世に問ふことの困難であることは勿論である。餘程秀れた才能を持ち合せてゐるか、または異常な神經や心の持主に限り、世に問ふ所以のものを有つてゐると言へるであらう。

 詩だけに就て言ふならば、その分野は既に唄ひつくされてゐると云つてもよい程である。千遍一律の詩には我我は疾くに飽きもし素讀に耐へないものがある。詩を書かうとするならば餘程の文學的敎養の達人でなければ、餘程生れながらの素直な人でなければならぬ。尋常一樣の詩作程度では、その作を擧げて天下の詩情を動かすことはできないであらう。それほど詩作する人人が多く相應の腕のある人が揃つてゐる譯である。曾て萩原朔太郞君や千家元麿君の得たる詩境と聲望をさへ、今後の詩人に於ては却却《そこそこ》容易に得ることの出來ぬのは、彼ら程の才能を持つて出て來ても時勢は彼らの二倍くらゐの才能を求めてゐるから遂に彼らの地位を得られないのである。この過去の二作家の二倍以上の作家が出て來たら、完全に後繼者を詩壇は得たるものと言つてよからう。既成や新進の爭ひは俗惡なる文壇ばかりではなかつた。詩壇にもその聲を聞くとき僕の思ふところは以上數言に盡きてゐる。――

 

 敵國の人

     萩原朔太郞君に

 

 雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれたことは、僕と雖も絕えず微笑をもつて讀むことが出來た。併し詩集「故鄕圖繪集」に論及した君は、不思議に僕の本統の姿を見失うてゐる。君が自ら敵國と爲すところの僕の生活内容が、君のいふ老成の心境でもなければ風流韻事に淫する譯のものでもない。僕は僕らしく靜かに生活して居れば僕らしい者の落着けることを信じるだけである。君が自ら僕を敵國と目ざすところは落着いて暮したい希望を捨てない僕を難ずるなら兎も角、徒に輕率な風流呼ばはりや老成じみた一介の日蔭者としての僕を論ずるならば、僕はそれを返上したいと思つてゐる。

「故鄕圖繪集」の本流はこの詩集以外には決して流れてゐない。君が諸作品の韻律や素朴に統一的な缺乏のあることを指摘し、「忘春詩集」に劣つても勝ることなきを言及してゐるが、この詩集の中にある僕らしい行き着き方を君は又幸にも見失うてゐる。君はこれらの詩が發句的要素から別れて出たものであることを指摘するのはよいが、何よりも「忘春詩集」以來かうならなければならぬ「彼」の素顏を何故に見なかつたかと云ふことである。自分は俳三昧や風流沙汰や老成心境から出發したのではなく、これらの道具立は不幸にも僕に加へられた迷惑な通り名に過ぎない。

 僕は君の如き一代の風雲見を以て自稱するものではなく、只孤獨に耐へるだけの鍛へをあれ等の詩作の上に試みただけであり、夫等の試みは直ちに君には不幸にも老人臭く見えたのであらう。我我靑年の末期にあるものは兎もすると老人臭くなるのは、事實それに近づきつつあるからでどうなるものではない。又努めて僕は書生流の詩域から脫したい願ひを持つてゐることは勿論である。

 君のいふ如く僕を慘めな一個の庭いぢりとして生涯を送るもののやうに見るのは、君が僕を見失うてゐる初めではないかと思ふのだ。僕の生活苦やその種種な面は直に君を打たないであらう。

 君は僕に二人とない益友ではあるが、然し君は僕を讀み落し見詰めてゐては吳れないやうである。離れてゐて遠くから僕を見てゐる親切氣はありながら、僕が仕事によりどれだけ昔の僕から今の僕へ進んでゐるかを見落してゐる。君に見て貰はなければならぬものを君さへ見失うてゐる。僕のいふ孤獨の鍛《きた》へといふものも、君の誤解する風流韻事と稱する間違ひも大槪ここらあたりから別れて批評されたのであらう。

 君が僕の發句を以て餘技とし月並であり陳套《ちんたう》であるといふのは、月並の薀奧《うんわう》は何者であるか、何故に僕が蕉風の古調を自ら意識に入れながら模索してゐるかが能く解らないからである。

 自分は發句を以て末技《まつぎ》の詩作と思つたことがない。或意味で僕は僕の發句や短册を市井に賣つてまで衣食したい願ひを持つてゐるのは、賣文の埃から遠退くことが出來るかと思ふからである。元祿天明の時代なら兎も角今日發句を賣つて米鹽の資を得ることは出來ない。僕は僕の本來のものを靜かに心で育てる外に僕の發句は生きないと言つてよい位である。

 僕は又永年の詩作の經驗すら一句の發句に及ばないことを知つてゐる。或意味で發句を重んじる僕の凡てで無ければ全幅を剌繡すべき肝要なものだと云つてよい。何を苦しんで無意味な餘技を弄する愚を學ばう。――僕の發句を月並だと斷ずるのは新樣破調を操らない爲の君の非難であらうが、破調の發句が出駄羅目な容易に入り易い句境であり、古調は凡夫の末技から築き上げることの困難なのは、君と雖も。一應は肯《うなづ》くであらう。

 君の發句觀は不幸にも僕の未だ能く知らないところである。又君の說く蕪村は決して元祿の諸家を理解したものではない。君が粉骨碎身流の蕪村道の達人であることも、まだ寡聞なる僕の知らぬところである。その上君が今の僕を絞め上げ止《とど》めを刺すことは、寧ろ君へのお氣の毒な挨拶しか持合《もちあは》さぬ。君が天下の發句を論ずる前に先づ僕の止めを刺し、そして君の嫌ひな芭蕉流のさびしをりを此世から退治すべきであらう。

 僕の知る限りの芭蕉は一朝のさびや風流を說いた人ではない、芭蕉といふ能書的槪念は漸く今日では、あらゆる新しい思想の向側にあるやうに思はれてゐる。併し眞實の彼は元祿から今日へまでの新人中の新人だつた。彼の異國趣味や無抵抗主義は後代のトルストイの中にさへその面影を潛めてゐる。太平の元祿にあつて彼は社會主義者になる必要に迫られはしなかつたらうが、併し彼は何よりも近代に生を享けてゐたら、彼も亦敢然として古今の革命史に秋夜の短きを嘆じてゐたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

『雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれた』これは昭和二(一九二七)年九月号の第一次『椎の木』(第十二号)に掲載された」「室生犀星君の心境的推移について(忘春詩集以後、故郷圖繪集迄)」である。調べたところ、OCRで全文を読み込んだままを校訂せずに放置してある本篇全文のページを発見したので、リンクさせておく。所持する筑摩書房「萩原朔太郎全集」初版では第八巻に所収しているが、私には電子化注する食指が全く動かない。

「故鄕圖繪集」昭和二(一九二七)年椎の木社刊の詩集。サイト「日本詩人愛唱歌集 詩と音楽を愛する人のためのデータベース」のこちらで恐らく全詩篇が電子化されてある。

「忘春詩集」大正一一(一九二二)年京文社刊の詩集。同前でここに恐らく全詩篇がある。こちらは「青空文庫」のここにもある。

「薀奧」奥義。]

 

 文壇的雜草の榮光

 

 詩が文壇の埒の外の雜草であるか否かは別として、詩は中央公論や改造や新潮には殆ど必要の無い一國の想華であることは、詩人であるが爲《ため》聰明なる吾吾の知るところである。そして又曾てそれらの大雜誌に揭載された詩が、均しく全詩壇に後世的作品を示した例は殆ど皆無であつた。吾吾の詩が今までの城砦を築き上げる爲に必要であり、我我をして忘恩せしめざるところのものは、片片たる三十二頁の同人雜誌の威力であり奮鬪であつたことは、何と文壇外の美しい榮光だつたことであらう。或營利雜誌は吾吾の詩に婦女子の寫眞を揷入れて之を揭載した。又或雜誌は出題の下に作詩せしめ且つそれに應じた低能な詩大家があつた。又或乳臭き雜誌は全詩壇の詩作人の詩を乞ひ、殘酷に作詩人を數珠つなぎとして、天下に詩人愚を梟首として揭載した。自分は一々これを拒絕したが、遂に婦女子の寫眞入りの詩だけは掠め取られた。自分は詩人が輕蔑せらるべき多くのものを、文壇人が斷乎として拒絕してゐる好例の對照を見聞《みきき》してゐる。さういふところに雜草的卑屈と强制された遠慮とが、常識的な冷笑すべき習慣となる程度までに下つてゐるやうである。

 

 ゴシップ的鼠輩の沒落

 

 ゴシツプ的鼠輩《そはい》の曲說はともあれ、僕自身が老成的壞血病詩人であることに於て、止むなき餘命を詩壇に置いてゐる譯ではないのである。僕自身は今の僕自身を役立てる爲のふくろ叩きを辭さない物好きの中に呼吸してゐるものである。凡ゆる作詩人も其中期の作品の中に悶えもし、又退屈も窺へないではないが、彼らのなかには猶ふくろ叩きや締めつけを辭さない者のある位は、又同時にゴシツプ的鼠輩の沒落した時に、その彼らの誤りであることに心づくであらう。

 

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