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2022/05/10

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作短歌・「土地の名目」

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作顕歌・「土地の名目」

[やぶちゃん注:以下の柳田國男の献歌一首は、「序」の最後のページの見返し(裏)に記されてある(底本ではポイント落ち)。柳田が当初、歌人。詩人を志していたことはあまり知られていない。当該ウィキによれば、『森鷗外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿』し、『桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿』、明治三〇(一八九七)年には『田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた』(作品名は「野の花」(明治三十四年新聲社刊・単行本。後発の大正五年春陽堂版の花袋の作品集「野の花」が国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る)。『飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから』、『当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し』、『決別していった』とある。

 なお、以下の本文はメインの解説が二行に亙る場合は二行目以降は、底本では一字下げであるが、無視した。また、後に添えられた柳田自身による「編者注」(頭に△を打つ)も、底本ではポイント落ちで、全体が三字下げであるが、引き上げて同ポイントとした。]

 

        椎葉村を懷ふ

     立かへり又みゝ川のみなかみに

     いほりせん日は夢ならでいつ

 

 

      土地の名目

 

一 ニタ。 山腹の濕地に猪が自ら凹所を設け水を湛へたる所を云ふ。猪は夜々來りて此水を飮み、全身を浸して泥土を塗り、近傍の樹木に觸れて身を擦る也。故にニタに注意すれば、附近に猪の棲息するや否やを知り得べし。

△編者云、ニタは處によりてはノタともいふか。北原氏話に、信州にてノタを打つと云ふは、猪鹿などの夜分此所に來て身を浸すを狙ふなり。火光を禁ずる故に鐵砲の先に螢を著〈つけ〉けて照尺とし、物音を的に打放すことあり。ニタを必ず猪が自ら設けたるものとするは如何〈いかん〉。凡そ水のじめじめとする窪みを、有樣に由りてニタと云ふなるぺし。風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡は不知〈しらず〉、伊豆の仁田〈にた〉を初め諸國にニタといふ地名少なからず。我々が新田の義なりとする地名の中にも、折々は此ニタあるべし。例へば上野〈かうづけ〉の下仁田など。

[やぶちゃん注:これは所謂「沼田場(ぬたば)」・「ヌタ場」として知られる、ある種の四足獣類が、泥浴びをする(体表に附着しているダニなどの寄生虫や、汚れを落とすために泥を浴びるをするとされているが、明確には判っておらず、以下に見るように、動物種によって役割は多様である)「ぬた打ち」行う場所を差す。当該ウィキによれば、『沼、湖や川の畔、休耕田』『なども使われるが、谷筋の一定の場所が繰り返し使われることがある』。『日本の猟師の間ではぬた場に、山の神がいて、祈ることで獣が現れると考えられていた』。『日本の神奈川県東丹沢地域での観察によれば、ヌタ場で最も多い行動は』、『動物の種類、ニホンジカ、イノシシ、タヌキ、アナグマによって異なるとことが判明した。ニホンジカは飲水(オスに限るとヌタ浴び)、イノシシはヌタ浴び、タヌキとアナグマは臭い嗅ぎが最も多い行動で、ニホンジカのメスにとってヌタ場は塩場』(塩分供給)『としての機能も有している可能性があることが報告されている』とあり、ウィキの「イノシシ」によれば、『多くの匂いに誘引性を示し、ダニ等の外部寄生虫を落としたり体温を調節したりするために、よく泥浴』『・水浴を行う。泥浴・水浴後には体を木に擦りつける行動も度々』、『観察される。特にイノシシが泥浴を行う場所は「沼田場(ヌタバ)」と呼ばれ、イノシシが横になり転がりながら全身に泥を塗る様子から、苦しみあがくという意味の』「ぬたうちまわる(のたうちまわる)」『という言葉が生まれた』とある。所持する松永美吉氏の労作「民俗地名語彙事典」(三一書房『日本民俗文化資料集成』版)の「ニタ」の項でも、『湿地。水のじくじくした田代として適当な谷間をいう〔『地形名彙』〕』とし、以下、猪絡みの記載が長く続く。『熊本県球磨郡水上(ミズカミ村元野では、ニタの神というのがある。桜、樫などの木が茂り、その下に水溜りがある。猪がここに来て、この水溜に入り、木の根に体をすりつけてシラミを殺す。そこでは昼でも暗く山師も寄りつかない。もしこの山の木を伐ると熱病にかかる、ニタの神様は耳も聞こえず目も見えないという〔『熊本民俗事典』〕』とあり、猪は『矢きずを負った時、ここで身体の熱をさまし、傷口を癒すらしい。重傷の手負いの猪が時折、ニタ場の近くで倒れていることがある。このニタのにごり具合で、猪が近くに居るかどうかを判断することもあり』、『ニタのつく地名が山間部に意外に多い〔前田一洋『えとのす』〕』とある。以下、一段落が霧島山付近の猪のニタでの行動様式が子細に語られていて興味深い。最後に谷川健の文章を引いて、『沖縄の宮古島の島尻という部落には、自然の湧水の濁ったくぼみをニッジヤまたはニッダアと呼んで他界への入口とみなしている』という例を挙げ、谷川はこの二つの呼称は『ニタと同義語であり』、ニタという地名は『神聖なものの出現の場所とみなすことができると思う』という谷川説が示される。豊饒の象徴である田代、先の「ニタの神」から、この谷川の説は、私は侮れないと思う。

「北原氏」「序」に既出。

『風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡』「出雲風土記」の「仁多の郡(こほり)」の条には、文字通り、「こは濕(にた)しき小國(をぐに)なり」と大穴持(おおあなむち)の命(=大国主命)が仰せられたこととに始まる。彼は、この郡の三つの郷(さと)は孰れも田が優れているとも言っているので、やはり湿潤の地であるととってよい。現在の奥出雲町及び雲南市の一部に相当する。]

二 ガラニタ。 水枯渴して廢絕せるニタを云ふ。

三 ウヂ。 猪の通路を云ふ。

△鹿のウヂ、にくのウヂなどゝも云ふ。ウヂ引尻指の神の條參照。中瀨氏はウヂは菟道〈うみち〉にて山城其他の宇治同義なりと云ふ。如何〈いかん〉。

[やぶちゃん注:所謂、四足獣類の各自が形成する自身の獣道(けものみち)のこと。

「引尻指の神の條」後の「狩の作法」の「罠獵」の後注に出る。ここ。読みが判らぬが、ルビを振っていないので、「ひしりゆび」と訓じておく。]

四 セイミ。 少しく水湧き泥狀を爲し居〈を〉る處を云ふ。猪は此水を飮み蟹蛙などをあさり食ふ。人の注意することニタに同じ。

五 シクレ。 荊棘〈いばら〉茂り合ひ人容易に通過し能はざる處を云ふ。猪は大槪シクレに伏し、又はシクレを通路とす。

六 モッコク。 シクレの中に枯木の枝打混〈うちこん〉じ、シクレの層甚しく、且小區域なる處を云ふ。モッコクは猪の好潛伏場とす。

七 ヤゼハラ。 シクレの廣く亙れる處を云ふ。

八 ドザレ。 傾斜地に砂礫疊々として通行するに一步每に砂礫の轉下する處を云ふ。ドザレは流石の猛猪も急進すること能はず。故に村田銃を以てせば五六步每に一丸を與ふることを得る也。

[やぶちゃん注:所謂、山屋の言う「ガレ場」である。

「村田銃」陸軍少将村田経芳(つねよし)によって設計された小銃で、日本陸軍で初めて制式となった国産小銃。明治一三(一八八〇)年に、フランスのグラー銃及びオランダのボーモン銃を参考に「十三年式村田銃」として開発した。ボルト・アクション単発式で口径十一ミリ、全長一メートル二十九・四センチメートル、重量四キロ、照尺千五百メートルであった。明治十八年には、一部が改良されて「十八年式村田銃」となり、これらが「日清戦争」で実戦使用された。この十八年式の制定から間もなく、無煙火薬の連発銃の時代となり、村田も明治二十二年には「二十二年式村田連発銃」(口径八ミリ、全長一メートル二十二センチメートル、重量四キロ、照尺二千メートルを完成、制定されている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

九 ヒラミザコ。 凹所〈あふしよ〉急ならず弧狀を爲し、水無き迫〈さこ〉の竪〈ひき〉に引き居る處を云ふ。セイミは大槪ヒラミザコに在り。

[やぶちゃん注:「迫〈さこ〉」岡山県以西の中国地方と九州地方で「山あいの小さな谷」を指す。]

一〇 ホウバ。 樹木立込み居るも見通しのよろしき處を云ふ。卽ちセイミモッコクヤゼハラドザレの反對の地形なり。猪は遁走するにホウバを避く。故に狩人が包圍するにも、人手多き場合に限り弱卒を此處に配置するのみなり。

一一 スキヤマ。 森林にして見通しよろしき處を云ふ。スキヤマは位置ホウバに似たるも、猪は之を避けず。

一二 ツチダキ。 土瀧。岩石無く急傾斜にして滑り易く、人の通るに困難なる箇所を云ふ。

一三 クネ。 土砂隆起して大瀧の狀を爲し、橫又は斜に引き居る處を云ふ。猪は大槪クネの上下を過ぎるものなれば、クネの上に構へて要擊する也。

△對馬の久根。遠江の久根。地名辭書に見ゆ。

[やぶちゃん注:「地名辭書」明治三三(一九〇〇)年三月に第一冊上が出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として、在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された労作。

「對馬の久根」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本(上巻二版)のここの左ページ上段に出、「遠江の久根」は同中巻の「山香」の中の「佐久間」の項(右ページ中段)に「久根(クネ)銅山」として出る。]

一四 マブ。 傾斜したる小谿〈しやうけい〉の水源又は小迫〈こさこ〉の頭に、塚狀を爲し居る處を云ふ。猪は大槪マブ下を通過し、巨猪は群犬を茲〈ここ〉に引受けて鬪ふ。

一五 ヨコダヒラ。 傾斜緩なる地が橫に長く亙り居る處を云ふ。

△九州南部にて廣くハエといふ地名を附する處、地形或は之と同じきか。椎葉及其附近にでは凡て「八重」と書く。勿論近代のあて字なり。例へば尾八重(ヲハエ)、野老八重(トコロハエ)などあり。或地方にては「生(ハエ)」とも書けり。「延へ」の義か。はた先住民の語か。山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり。

[やぶちゃん注:「山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり」同様の解説が前掲の松永氏の「民俗地名語彙事典」にもあった。]

一六 クモウケ。 雲受。天を眺むる如き山の頂上を云ふ。

一七 クザウダヒラ。 山々相重なり居る中に。一つの山のみが方向を異にし。斜に天を挑むるに似たる所を云ふ。

一八 カマデ。 鎌手。或目標に向ひて右の方を云ふ。

一九 カマサキ。 鎌先。同じく左の方を云ふ。

二〇 イレソデ。 入袖。燒畑又は舊燒畑跡が判然として、山林區域に對し袖狀に見ゆる所を云ふ。卽ち左圖の如し。

 

Totinomeimokuiresode

[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。扉に献辞と署名有り)の当該部からトリミングした。キャプションは、右に、

「山林」

左に、

「入袖」

である。]

 

二一 ツクリ。 燒畑跡地にして未だ林相を爲さゞる處を云ふ。

二二 キリ。 切。昔燒畑とせし箇所が森林に復し居る處を云ふ。然らば椎葉の山林は凡てキリなるかとも云ひ得べしと雖〈いへども〉、此〈かく〉の如く解すべからず。抑〈そもそも〉キリの名稱は地面の一局部に小地名を冠する必要より生ぜしもの也。例へば往時燒畑を作りし人が五右衞門なるときは五右衞門キリ、三之助なるときは三之助切といふ一の小字〈こあざ〉となるなり。

△燒畑を經營することを此地方一帶にてはコバキリと云ふ。コバは火田〈くわだ〉にて、畑と書きてコバと訓む地名多し。人吉の南にある大畑(オコバ)[やぶちゃん注:この「(オコバ)」はルビではなく、本文。以下、丸括弧は総てルビ。]の如し。燒畑を切山(キリヤマ)。切畑(キリバタ)といふこと東西諸州に於て常のことなり。或は野畑(薩州長島)。藪(伊豫土佐の山中)とも云ふ。草里(サフリ)。佐分(サブリ)。藏連(ザウレ)。曾里(ソリ)とも云へりと見ゆ。反町と書きてソリマチ、後にはタンマチとも訓〈よ〉めり。是も燒畑に因〈ちなみ〉あること疑〈うたがひ〉なし。神奈川町の臺地に反町桐畑(タンマチキリバタケ)、昔忍ばるゝ地名なり。されど燒畑と切替畑〈きりかへはた〉とは同じ物に非ず。說長ければ略す。地方凡例錄〈ぢかたはんれいろく〉の說明は誤れり。

[やぶちゃん注:「地方凡例錄」寛政六(一七九四)年に高崎藩松平輝和の郡(こおり)奉行大石久敬(きゅうけい)の著したもので、江戸時代を通じて、農政全般に亙る各種実務書の内で、最も優れた書とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの恐らく巻之二の下の内容を指しているようだが、どこを批判しているのか、ちょっと判らぬ。]

二三 カタヤマギ。 片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ。

二四 ツチベイギ。 燒畑と燒畑との境に伐り殘りの樹木が多少燒害を受けつゝも生存し居るを云ふ。

△此村竝〈ならび〉に近鄕にはをさをさ土塀を見ず。此語を土塀より出でたりとは速斷すべからず。

二五 ヨホーレギ。 斜に立ち居る木を云ふ。

二六 マブシ。 猪の通路に構へて要擊する一定の箇所を云ふ。

二七 カクラ。 猪の潛伏せる區域を云ふ。

二八 ナカイメ。 中射目。カクラの中に在るマブシなり。中射目に手員〈てかず〉を配置するは、富士の卷狩に似たる大狩場にあり。四方八方要所を堅めたるも、カクラ廣くして逐出〈ひだ〉すに困難する場合のことなり。中射目は東西雌雄を決する關ケ原なれば、此要害を占〈し〉むるの任は、老練衆に秀〈すぐ〉る獵將と雖〈いへども〉、遺憾ながら之を庄屋殿に讓らざるべからず。

△此の庄屋殿は中瀨氏自らのことなるべし。下にも見ゆ。面白からずや。

二九 シリナシヲ。 尻無尾。尾(峯)がおろし居るも低所に達せず、中途にして展開し居るものを云ふ。この尾の下は猪の遁路に當り、最肝要の箇所とす。

三〇 ズリ。 材木又は薪を落し下〈おろ〉す所なり。熊笹の如き植物密生し見通し難き場合は、此のズリにすけ行き、一目一引といふ工合にて、ころりと擊落〈うちおと〉すことあり。

[やぶちゃん注:所謂、材木の切り出しや「柴車(しばぐるま)」(私の「譚海 卷之五 信州深山の民薪をこり事」の同注を見られたい)を落とす場所を利用して、猪を打ち落とすことを説明している。]

△一目一引の工合、十分に想像すること能はず。すけ行くは沿ひ行くなり。わざと椎葉の方言を飜譯せず。

[やぶちゃん注:「一目一引」「ひとめひとひき」か。発見した獲物を即座に引金を引いて一発で必殺することか。]

三一 ヲダトコ。 猪を里に持下〈もちおろ〉して、割〈さ〉きて分配するに使ふ家を云ふ。ヲダトコの家は一定しをれり。

△天草下島の西海岸にも小田床村あり。神祭にゆかりある名ならんと思へど考證し得ず。

[やぶちゃん注:「小田床村」現在の天草の下島(しもしま)の熊本県天草市天草町下田南の附近。ここ。]

三二 カモ。 猪の寢床なり。笹、柴、茅などを集めて、粗末なるものを作れり。此の笹草は如何に生ひ茂れる中なりと雖〈いへども〉、決して一所に於ては採取すること無く、遠方より點々と持集〈もちあつ〉め來りて、形跡を暗〈くら〉ますなり。

△草萎〈しぼ〉めば常に新しきを取〈とり〉そふるなり。カモにては子を育つる故にかく人に知られぬやうに骨を折る。

三三 ヲタケ。 峯の橫に亙れるを云ふ。

三四 ヲバネ。 峯を云ふ。

△赤羽根、靑羽根の如く羽根といふ地名は、凡て上代に埴(ハニ)を採りし所なるより直〈ぢき〉に命名したること、例へば柚木〈ゆずき〉、久木などゝ同じ類〈たぐひ〉ならんと思ひしが、かゝる羽根もありけり。

三五 タヲ。 嶺を云ふ。

△峯と嶺とを區別するの意明ならず。タヲは三備其他中國の山中にては。乢又は峠と書けり。乢の字の形が示す如く、たわむといふ語と原由を同じくするならん。土佐にては峠を凡てトーと云ふ。たゞ山の頂をもトーと云ふ。此もタヲの訛なるべし。三浦氏の一族に大多和氏、相模の三浦郡に大多和の地ありと記憶す。

[やぶちゃん注:「峯と嶺とを區別するの意明ならず」は「峯」は単独で山頂を指し、「嶺」はピークが並ぶこと、及びその間の鞍部や峠道を持つ部分をより広く指すと私は考えてよいようには思われる。

「大多和」神奈川県横須賀市太田和(おおたわ)。ここ。そこを、航空写真に切り替えると、丘陵や山間のピークが複雑に入れ込んでいることが判る。]

三六 ヒキ。 嶺の凹所に在り。各所より逐ひ囘したる猪が最後の遁路なり。ウヂとは混ずべからず。

三七 シナトコ。 大豆、小豆、蕎麥、稗等を燒畑の内にてたゝき落し收納したる跡を云ふ。猪は來りて落穗をあさるものなり。

△燒畑に作りたる穀類は凡て實のみを家に持歸るなり。麥などは穗を燒〈やき〉切りて採るが常にて、短き麥桿〈むぎわら〉の小束が松明〈たいまつ〉の末〈すゑ〉のやうに、焦げて山に棄てゝあるを見る。麥を燒きて穗のみを收むることは奧羽にても普通なり。

[やぶちゃん注:焼き切って収穫するというのは、ちょっと驚いた。]

三八 シバトコ。人の變死したる跡を云ふ。某〈なにがし〉シバトコと稱し、死者の名を冠して地名とす。路を行く者柴を折りて之に捧ぐる風習あり。之を又柴神〈しばがみ〉とも云ふ。柴を捧ぐるは亡靈を慰するの意なり。

△又路の側に小竹を立て其端に茅〈かや〉を結び付けたるを見る。これは蝮蛇〈まむし〉を見たる者が必ず其所に立てゝ人を戒むるなり。其名を何と云ふか記憶せず。

三九 アゲヤマ。 上山。燒畑に伐るとき誤りて樹上より墜落し悲慘の死を遂ぐる者あり。上げ山と稱するは、此山の一部分を爾後燒畑にせざる旨を山の神に誓ひて立て殘しある箇所なり。

四〇 サエ。 高寒の地。村里遠く隔たりたる所を云ふ。

四一 コウマ。 サエの反對にして卽ち村里を云ふ也。因〈ちなみ〉に記す、本村の神樂歌にサヱは雪コウマは霰といふ句あり。

[やぶちゃん注:「神樂歌」の「サヱ」の表記はママ。修正していない。どちらの表記が正しいかは判らない。]

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