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2022/05/30

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鼈と雷」(全)

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が大正三(一九一四)年四月発行の『人類學雜誌』二十九巻四号に、「二」が同雑誌の大正三年八月発行の二十九巻八号に、「三」が同誌の大正三年十二月発行の二十九巻十二号に、「追加」が同誌の大正四年四月発行の三十巻四号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に総てがセットで収録された。標題は「すつぽんとかみなり」。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、底本はこの篇、誤字が著しく多いので、平凡社「選集」で訂した。但し、それをいちいち断ってはいない。底本と私の電子化を比較されれば、自ずとお判り戴ける。]

 

 

 

    鼈 と 雷 

 

 本邦の俗說に鼈が人に咋付くと雷鳴ねば放さぬと云ふ。二世一九の奧羽道中膝栗毛四編中卷に、婬婦お蛸「妾が吸付たが最期、雷樣が鳴しやつても離れるこつちやござりましない」と云るも是に基くか。熊野の山中に「かみなりびる」有り一たび吮付ば雷鳴る迄離れずと云ふ。予或夏那智の山奧にて之を見しに蛭にあらずして一種のプラナリアン長さ六寸斗り田邊抔の人家、朽木に多き「かうがいびる」(長さ二三寸)に似たれども細長く瑇瑁色、背に黑條有り美麗なれど氣味惡く徐かに蠕動す、空試驗管に入れ十町斗り走り見れば、早や半溶け居たり。因て考るに、暑き日强いて人體に附すれば粘着して溶け了る事は有なん、更に蛭如く血を得んとて吸付く者に非ず。重訂本草啓蒙三十八に、度古「かうがいびる」北江州方言「かみなりびる」長五七寸夏月雷雨の際樹より落る由を言り。是は田邊々で所謂「かうがいびる」に非ずして、那智で見し「かみなりびる」と同物ならん。雷雨の節落る故斯く名しを鼈の例を追ひ、吸付ば雷鳴る迄離れずと附會せしなるべし。支那には淵鑑類函に、養魚經曰、魚滿三百六十、則龍爲之長而引飛出、水内有鼈則魚不復去、故鼈名神守など鼈の神異を說く例は有れど、其雷と關係あるを言ふ事無きが如し。Wowitt, ‘The Native Tribes of South-East Australia,’ 1904, p.769 にヲチヨパルク族の男子四十歲ならずして淡水產の鼈を食へば雷に殺さる。鼈と雷と緣有りて落雷の跡鼈に似たる臭ありと謂ふと出づ。又グベルナチスは言く、梵語で龜をカシヤパスと言ひ(佛書に摩訶迦葉波を大龜氏と譯せり)、雷神サラスワチーの騷ぐ音乃ち雷鳴をカシヤピートと呼び、又龜をクールマス、屁をもクールマスと名く、孰れも古え龜甲を楯とし用ひしより、楯擊つ音に雷聲を比せしに因ると(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ 1872, vol.ii, p.366)。此他に龜・鼈と雷と相關する說有ば報知を吝まれざらん事を冀ふ。   (大正三年四月人類二九卷)

[やぶちゃん注:「咋付く」「くひつく」。

「二世一九」戯作者十字亭三九(じゅうじていさんく 生没年未詳)。為永春水・十返舎一九に学び、天保四(一八三三)年に第二代「一九」を名乗った。後、仙石騒動を題材としたことへの咎めを懼れて、失踪した。上野(こうずけ)出身。姓は糸井。名は武。人情本「谷中の月」、合巻本「本朝武王軍談」などが知られる。

「奧羽道中膝栗毛」二世一九によって書かれた、師の「膝栗毛」シリーズの続編。享和二(一八〇二)年板行か。

「かみなりびる」不詳。以下の熊楠の観察に従うなら、形状や体色の細部に至るまでが、まさに扁形動物門有棒状体(渦虫・ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目陸生三岐腸(コウガイビル)亜目 Terricola 或いは同亜目のコウガイビル科コウガイビル属  Bipalium に属するコウガイビル(笄蛭)類の一種或いはその幼体(成体の多くは驚くほど長い種(一メートルを有に超える)がいることが知られている)としか思われない。私は嘗つて山岳部の顧問をしていたが、各地の山中で、しばしば見かけた。コウガイビルが真正の巨大な山蛭(環形動物門ヒル綱顎ヒル目ヒルド科 Haemadipsa 属亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica)に食われる場面に遭遇したこともある。「かみなりびる」という和名や異名は、調べた限りでは見当たらない。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 度古(こうがいびる)」の本文・絵・私の注を参照されたい。

「吮付ば」「すひつけば」。

「プラナリアン」コウガイビルは、生物学の再生実験でよく知られるプラナリア(Planarian Flatworm)、則ち、三岐腸目 Tricladidaに属する陸生プラナリアの一分類群である。

「瑇瑁色」「タイマイいろ」。嘗つての本邦に伝統工芸である鼈甲細工で知られる爬虫綱カメ目ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata の背甲の色。背甲の色彩は黄色で、黒褐色の斑紋が入る。私が何度も見たコウガイビルは、まさにそうした色彩であった。

「徐かに」「しづかに」。

「蠕動」「ぜんどう」。

「空試驗管」「からしけんくわん」。

「十町」一キロメートル強。

「半溶け居たり」「なかばとけをつたり」。

「溶け了る事は有なん」「とけをはることはありなん」。コウガイビルの溶解現象は実際にあることがある教育番組での映像で見たことがある。

「重訂本草啓蒙三十八に、度古」(どこ)『「かうがいびる」北江州方言「かみなりびる」長五七寸夏月雷雨の際樹より落る由を言り』同書はお馴染みの小野蘭山述の本草書。国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四 (一八四七)年版本を視認して電子化する。まず、「巻三十六」「蟲之二」「卵生類」の中の「水蛭」の項を見よう(但し、こう書いているものの、事実上は環形動物門ヒル綱 Hirudinea 及び縁もゆかりもないコウガイビルまで含んでしまっている)。当該箇所は左丁の後ろから二行目末から次の丁にかけてである。読み易さを考え、カタカナの一部をひらがなに代え、句読点や記号も使用し、一部に推定で読みを歴史的仮名遣で添えた。

   *

「カウガヒビル」、あり。馬蜞(うまびる)[やぶちゃん注:同丁八行目を見よ。]に似て、頭の形、「丁」の字の如し。故に名(なづ)く。又、「カツタイビル」[やぶちゃん注:「かつたい」は本邦でのハンセン病の古い差別異名。]【伯州[やぶちゃん注:伯耆国。]。】・「アマビル」【播州。】・「カミナリビル」【江州。】の名あり。漢名は「土蠱(ドコ)」なり。濕生類「馬陸」の下に出(いづ)。

   *

この最後のそれはここだが、「馬陸」(ばりく)は長いニョロニョロという点でしか共通性のないヤスデ(節足動物門多足亜門ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱Diplopoda に属するヤスデ類)の漢名である。そしてその「馬陸」の最後の「正誤」の注記で、

   *

度古 「カウガヒビル」・「ミヽカキビル」・「カミナリビル」【北江州。】・「アマビル」【播州。】・「カッタイビル」【伯州。】。馬蛭(ウマビル)[やぶちゃん注:底本のルビ。]に似て、頭、廣く、扁(ひらた)く「かうがひ」の形の如く、又は「銀杏(イチヨウ)葉[やぶちゃん注:底本のルビ。]」の如し。身は長さ、五、七寸、夏月、雷雨の時、地に落(おつ)。

   *

とあることから、熊楠は正規の前者からではなく、この「巻之三十八蟲部」の「蟲之四」の「濕生類」の「馬陸」の「正誤」から引いていることが判る。一見、ちょっと変則的な感じがするが、実はこれは「本草綱目」の記載を基本としているからなのである。同書ではコウガイビル相当の立項がなされていないが、その代わり、「本草綱目」の巻四十二「蟲之四」の濕生類」に「馬陸」の項があり、そのまさに「正誤」の条で(「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[100-15b] 以下を参照)、例の国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年版の当該部を参考に訓読してみる。

   *

正誤 藏器曰はく、「按ずるに、土蟲(どちゆう)、足、無く、一條の衣帶のごとし。長さ、四、五寸。身、扁(へん)にして、韭(にら)の葉のごとし。背の上、黃・黒の襇(まじれ)る有り。頭、鏟子(さんす)[やぶちゃん注:鋤(すき)の意か。]行く處、白き涎(よだれ)有り。濕地に生(しやう)ず。雞、嗅(か)げば、卽ち、死す。陶が云はく、『土蟲、蜈蚣(むかで)に似たる者の、乃(すなは)ち、蚰蜒(げじけじ)、土蟲に非ず。亦、馬陸に非ず。』と。蘓が云はく、『馬陸、蚰蜒のごとし。』も亦、誤れり。按ずるに、蚰蜒、色、黃にして、斑(まだら)ならず。其の足、數ふる無し。」と。時珍曰はく、「按ずるに、叚成式(だんせいしき)が「酉陽雜俎」に云はく、『「度古」、俗に「土蠱」と呼ぶ。身・形、衣帶に似て、色、蚯蚓(みみず)に類す。長さ一尺餘。首、鏟(さん)のごとく、背の上に黃・黒の橺れる有り。梢(すこ)し觸るれば、卽ち、斷(たちき)るる。常に蚓(みみず)を趂(の)む[やぶちゃん注:事実、コウガイビルはミミズを体液で麻痺させて捕食する。]。之れを掩(おほ)へば、則ち、蚓、化して水と爲(な)る。毒、有り。雞、之れを食へば、輒(すなは)ち、死す。此れに據(よ)るときは、則ち、陳藏器が所謂「土蟲」は、蓋(けだ)し、「土蠱(どこ)」なり。陶氏、誤りて、蚰蜒を以つて馬陸と爲(な)す。陳氏も亦、誤りて、「土蠱」を以つて「土蟲」と爲す。』と。

   *

これに従えば、時珍は本当のコウガイビルを指す漢語を「土古」とし、民間の通称が「土蠱」、「土蟲」は誤りだと言っている。しかし、この「土蠱」はどうもピンとこない。何故かと言うと、この「蠱」は「蠱毒」(こどく)のそれで、古代中国において用いられた呪術であり、獣や有毒な動物やを使って共食い等をさせ、最強毒を濃縮する、華南の少数民族の間で今も受け継がれているとされる妖術に絡むから、非常にダークな感じのするものだからである。しかし、実は一部のコウガイビルの体液からは、かの猛毒テトロドトキシンが発見されているから、その種は「蠱毒」に入る資格があろうし、あの信じられないほど異様に長いグニャグニャの体とドギツい色は、不気味と言やぁ、言えるわけだ。なお、「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 度古(こうがいびる)」でリンクさせたサイト「Gen-yu's Files」のDr. Masaharu Kawakatsu 氏の「本草書の中のコウガイビル」の考証は必見である。是非、読まれたい。

「田邊々」「たなべへん」。熊楠の本拠である田辺周辺の意。こういう所に「々」記号を使用するのは、個人的にはちょっと嫌)(いや)だな。

『所謂「かうがいびる」に非ずして、那智で見し「かみなりびる」と同物ならん』こう熊楠先生が断定的に言われてしまうと、「カミナリビル」という「コウガイビル」でない別種が存在するとしか思われないだが、う~ん、困った。

「落る故斯く名しを」「おつるゆゑ、かくなづけしを」。

「淵鑑類函に、養魚經曰、魚滿三百六十、……」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」のこちらで、「欽定四庫全書」所収のものが電子化されており、影印本も見られる。四百四十一巻冒頭の「鱗介部五」の「鼈一」である。ガイド・ナンバー[446-2a]を参照されたい。以下、訓読を試みる。

   *

「養魚經」に曰はく、『魚は三百六十に滿つれば、則ち、龍、之れが長(ちやう)と爲(な)りて、引(ひき)いて、飛び出づ。水の内(うち)に鼈(べつ)有れば、則ち、魚、又、去らず。故に鼈は「神守(しんしゆ)」と名づく。』と。

   *

Wowitt, ‘The Native Tribes of South-East Australia,’ 1904, p.769」オーストラリアの人類学者・探検家・博物学者で、オーストラリア先住民の文化や社会を研究したアルフレッド・ウィリアム・ハウイット(Alfred William Howitt 一八三〇年~一九〇八年)の「オーストラリア南東部の先住民族」。

「ヲチヨパルク族」不詳。

「グベルナチス」「Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ 1872, vol.ii, p.366」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。この「動物に関する神話学」は「Internet archive」のこちらで当該原本が見られ、ここが当該部。]

 

 

    鼈 と 雷 

 

 人類學雜誌廿九卷四號一六〇頁の拙文を英譯してノーツ、エンド、キーリスへ出した處ろ、今年四月廿五日の同誌三三五頁にノルウヰツチのヒブゲームなる人對えて曰く、米國ヴワージニア州の黑人及び多少の白人も、鼈が物に咋付くと雷が鳴らねば放さぬと信ず、又龜も左樣だと聞たが龜が咋付いた例を知らぬ。老たる獵師の話に、雷雨中蛇が毒を出し得ぬと聞いた事もある、斯樣の動物は空中の電氣狀況で大分平日と變つて來るらしいと。熊楠曰く、廿四五年前予ミシガン州アナボアの郊外林間の池で、甲の長さ七吋斗りの龜を捕るとて食指を咬れた事がある、又日本の龜に餌を遣るとて誤つて咬まれた事もある、無何れも手を引て忽ち離し得た。

       (大正三年八月人類第二九卷)

[やぶちゃん注:雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。「Internet archive」で視認でき、熊楠の投稿が「268」ページにあり(左の段の最後)、それへの「ヒブゲームなる人」(Frederick T. Hibgame)の応答は「335」ページの右最後から次のページかけてにある。

「ノルウヰツチ」イングランド東部ノーフォークの州都ノリッジ(Norwich)であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。同地は、「ノーウィッチ」とも呼ばれるからである。

「ヴワージニア州」ここ

「ミシガン州アナボア」アナーバー(Ann Arbor)。ここ。]

 

 

    鼈 と 雷 三 附たり誓言に就て

 

 本と南濠州アデレード大學古文學敎授だつたベンスリー氏より敎示に、米國のルイサ、メイ、オールコツト女史の一著(多分一八七一年に出たリツル、メン)に、誓言を好む童子自ら惡詞を用るを止めんとて、其代りに雷鼈《サンダータートルス》という語を用ひ出す事有り、由來詳かならねど或は雷が鼈の稟質に關係有りとする俗傳に基き此語を案出せしに非るかと。此序でに未だ海外に蹈出した事無き讀者に告置くは、歐米人が神の名を援て誓言するはキリスト敎の尤も制戒するところなるに拘らず、無學の輩は固より敎育多く受けた人士小兒迄も、情感興奮の際種々不穩の詞を發して誓言する夥しさ、聞くに堪ぬ事多し。西班牙人抔は些かの事に人を罵るとて、「上帝の頭に糞し掛けよ」抔言ふ。又南支那人も「母を犯す奴」「後庭を犯さるゝ男」抔口癖に言ふ者多く、其他獨逸人が「魔王に就け」英人が「鷄姦々々」と連呼する等、その麁獷穢褻吾邦の最惡詞と雖も以て其十分一に比す可らざる事多し。扨故サーエドヰン、アーノールドの說に日本には人を罵る時「此の奴」と呼ぶ位い[やぶちゃん注:ママ。]が惡言で、誓言と云ふ事一切無しと有た。誠に歐米又はお隣りの支那に比して吾邦に重惡な誓言現存せぬは實に誇とすべき事だが、サー―エドウヰンが古今を混同して、昔から日本人は一切誓言を吐ぬと思ふたは間違て居る。何か物言ふ、每に「神以て」とか「八幡々々」とか「愛宕神も照覽あれ」抔と言ふ人多かつたは德川幕府中葉以前の書籍を見れば分り、男のみかは女も時として斯る語を發したと見える。去り迚當時の人之を善い事とはせず、一話一言卷八に、慶安三年刊行の或書を引て「人と雜談し侍る時、假初事にも佛祖、天道神、八幡氏神照覽、愛宕白山、ゐずくみ、見しやり、此火に荼毘せられうぞ抔と、怖しき誓言する事甚だ良らぬ事と云へり」、折たく柴の記にも白石其父が或老人言ふ每に誓言するを非難せし由を載す。慶長見聞集二、平五三郞という織物賣り田舍客相手に營業するさまを記すに、自分を堅固の法華信者と見せ掛け「御經御本尊御題曼陀羅此の數珠ぞ此の數珠ぞ」と誓言吐て賣ると有る。嬉遊笑覽十一に、昔は常の人雜談中にも八幡白癩抔誓言を云り、商人は殊更也、人情不直なるよりの事乍ら猶ほ質朴と云可しと評し居る。京阪で誓文祓ひとて十月廿日商賣の神に詣づるは、本と祇園の官者殿(素盞嗚尊の荒魂を祭ると云)が僞誓の罪を免がれしむるとて此日羣集して年中欺賣誓言の罪を祓ふたが起りだと云ふ(倭漢三才圖會七二、麓の花下卷、守貞漫稿二四參取)。然るに今となつては人が惡く成て、誓言抔吐ても信ずる者も無れば、誓文祓は名のみで專ら營業祝ひと賣出しの日と成て仕舞たらしい。又吾輩十二三の頃(明治十三四年)迄兒童の契約に「親の頭に松三本」抔言ふが和歌山で一汎の風だつた。約を背かば親が死んで其墓上に松が生るてふ意味で斯く誓言すると父母に嚴しく叱られた。憂しと見し世ぞ目今のごとく子供まで根性が黠しく成ては、早や其樣な事で、中々食はぬ風と成た。但し「鄕土硏究」二卷六號三六六頁に、佐渡の一村で子供同士の約束に鬢切り髮切りと言ひ、又僞言吐ば山の井戶落ると言ふとあるから、今も誓言の遺風を存する地方も有ると知らる。支那にも古來誓言は有たが、近代益す盛んで、予二年斗り其博徒間に起臥したが誓言の詞の鄙猥極まるは上述の如く、甚しきは生きた鷄の頭を斷て他に抛付けて誓言する抔有る。在英の際孫逸仙の話に只今支那人が用る下劣な誓言は悉く歐人に倣ふた者で歐人と交通盛んならぬ世には一切無つたと言れたが果して然りや。終りに述置くは、吾邦で昔し用ひた誓言で最も聞苦しいのは「白癩」だらう。西鶴の武道傳來記七、武士の爭鬪に「白癩是はと拔合せ」、又近松の淨瑠璃にも、放蕩息子が金を獲て悅ぶ辭に「てんと白癩」と有たと臆ふ。是は嚴重な誓文の詞で佛典から出たらしい。乃ち唐天竺波羅頗密多羅譯寶星陀羅尼經八、護正法品十一に諸天龍夜叉等正法を護らんと佛前に誓ふ、詞が長いから略抄すると、已來若法師、若比丘比丘尼優婆塞優婆夷、復有諸信心善男子善女人、施設妙好、廣爲他人分別、開示此經、及讀誦時、我等一々、與無量百千眷屬圍繞、往彼聽法、爲擁護故、成熟衆故、我等若不往彼城邑乃至庶民家、及以眷屬不受敎勅、不成熟衆生、不令衆生財穀豐饒倉庫盈滿、又復一切鬪諍飢饉疾病、他方怨敵、非時風雨、極寒極熱諸災難等、若不遮斷我等則爲欺誑過去未來現在諸佛世尊、違本誓願、空無得、得白癩病、退失神通、身體爛壞云々と有る。   (大正三年十二月『人類學雜誌』二九卷一二號)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「本と南濠州アデレード大學古文學敎授だつたベンスリー氏」不詳。

「ルイサ、メイ、オールコツト女史」「若草物語」(Little Women)で知られるアメリカの小説家ルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott 一八三二年~一八八八年)。

「一八七一年に出たリツル、メン」同年刊行の‘Little Men’(「小さな紳士たち」或いは「第三若草物語」とも呼ばれる)。

「雷鼈」「選集」では『サンダータートルス』というルビが振られてある。

「稟質」(ひんしつ)は「天賦の性質・生まれつきの性質」の意。

「蹈出した」「ふみだした」。

「告置く」「つげおく」。

「援て」「ひいて」。

「西班牙」「スペイン」。

「後庭」肛門。「後庭華」は男色の隠語である。

「鷄姦」同じく男色の隠語。

「麁獷穢褻」「そかうわいせつ」。「麁」は雑なこと。「獷」は粗暴で悪いこと。

「サーエドヰン、アーノールド」エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 一八三二年~ 一九〇四年)はイギリス出身の新聞記者・紀行文作家・随筆家にして、東洋学者・日本研究家・仏教学者で詩人。ヴィクトリア朝に於ける最高の教研究者・東洋学者とされる。慶應義塾客員講師となり、本邦に滞在したこともある。日本を「地上で天国或いは極楽に尤も近づいている国だ」と言ったことは有名。当該ウィキを読まれたい。

「此の奴」「このやつ」。「こいつ」のこと。

「有た」「あつた」。

「吐ぬ」「はかぬ」。

「間違て居る」「まちがつてをる」。

「去り迚」「さりとて」。

「一話一言」大田南畝著の江戸後期の随筆。五十六巻(内、六巻は欠)。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書かれた。歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの「蜀山人全集. 巻4」のここの「○或書の中に」がそれ。

「慶安三年」一六五〇年。徳川家光が没する前年。

「假初事」「かりそめごと」。

「ゐずくみ」「居竦」。座ったまま、体が竦(すく)んで動けなくなること。誓言に用い、「もし、この言葉が偽りであったならば、神仏の冥罰(みょうばつ)を蒙って、座ったままで永遠に動けなくなってもよい。」の意。以下の注も参照。

「見しやり」「身晒」で現代仮名遣「みしゃり」。「もし、約束を違(たが)えたならば、神仏の罰を受けて、この身は髑髏(しゃれこうべ)となってもよい。」又は、「身が腐ってもよい」という意の自誓の言葉。「誓文みしゃり」「みしゃれ」「みしゃりびゃくらい」「みしゃれかったい」とも言った。「びゃくらい」は以下の本文にも出る「白癩」で、本来はハンセン病の病態型の一つを指す古い差別名。特に、皮膚が広く白く変質するタイプへのそれを指し、別に「白肌(しらはだ)」「白山瘡(はくさんそう)」などとも呼んだ。而して、ここは誓言をする際に「もし、この誓いを破れば、その業病(ごうびょう:生きながら地獄に落とされた病いとしてハンセン病は不当に差別されたのである)になってもよい」という意味で自ら誓って言った台詞であり、既にして、副詞的に変化し、「断じて」或いは「必ず」という強い決意を表わす語として使用されたのである。「かったい」も「かったいぼ」で、やはり非常に古くからあったハンセン病の差別名で、同様に用いられた。

「折たく柴の記」新井白石の自叙伝。全三巻。享保年間(一七一六年~一七三六年)に書き上げた。祖父母の時代から始め、父の生涯や自身の経歴を記し、将軍徳川家宣の補佐として幕政に尽力した「正徳(しょうとく)の治」のことや、家宣を継いだ幼将軍徳川家継の下で側用人間部詮房(まなべあきふさ)とともに幕府の改善に苦闘したことが叙述される。和文で綴られており、文学的にも優れている。家継死後、退職の時点で擱筆してある(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。以下の話は、国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。右丁の「朝比奈といひし老人の、……」がそれ。明治二七(一八九四)年の和本だが、非常に読み易い。

「慶長見聞集」「けいちやうけんもんしふ」と読む。江戸初期の見聞記。三浦浄心作。(慶長一九(一六一四)年刊。全十巻。浄心は後北条氏に仕えた遺臣であったが、江戸に出て、商人となった。北条氏のこと、合戦のこと、江戸の風俗、諸国一見のことなどを書き、後にこれを分冊して「北條五代記」・「見聞軍抄」・「そぞろ物語」・「順禮物語」として刊行した。江戸初期の貴重な記録とされ、特に「そぞろ物語」には慶長期の江戸の歌舞伎や吉原のことが書かれており、風俗資料としての価値が高い。以下の部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの明三九(一九〇五)年富山房袖珍名著文庫刊ここから読める。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊(上下二冊の「下」)の当該部で当該部が読める。「卷十一(商賈)」の「江戶の町みせ棚のさま」(「棚」は「たな」で「店」に同じ)の末尾(右ページ三行目の丸括弧内の補記の冒頭に出る)。熊楠は珍しくほぼちゃんと引用している。

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むかしは常の人雜談の中にも八幡白癩など誓(チカ)ことをいへり商人は殊更なり人情不直なるよりのことながら猶ほ質朴といふべし

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「京阪で誓文祓ひ」(せいもんばらひ)「とて十月廿日商賣の神に詣づるは、本と祇園の官者殿(素盞嗚尊」(すさのをのみこと)「の荒魂」(あらみたま)「を祭ると云)が僞誓の罪を免がれしむるとて此日羣集して年中欺賣誓言」(ねんちゆうだましうりちかごと)「の罪を祓ふたが起りだと云ふ」「誓文祓ひ」「誓文拂ひ」「誓文晴らし」とも書く。近世以来、この十月二十日に、京の商人や色町の人々が四条寺町東入ルの冠者殿社(かんじゃでんしゃ)に参詣し、平素客をだました罪を免れるよう祈る行事。また、その頃、京坂の商店で、「その罪滅ぼしのため」と称して安売りをする行事をも指す。近隣の市町村には月遅れで行なうものもある。

「倭漢三才圖會七二」中近堂版で当該部を示すと、「卷第七十二の本」の「山城」の「祇園社」野中の、「宦者殿」。所持する原本の訓点を参考に訓読する。

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宦者殿(かんじやでん)【御旅所(おたびしよ)の向ひに在り。素戔嗚尊(すさのをのみこと)の荒魂(あらみたま)なり。每十月廿日、群集(ぐんじゆ)して、誓文の罰を免かるることを請(こ)ふなり。辨慶、正尊(しやうぞん)を卒(ひきい)て、此に於いて誓紙(せいし)を書けり。】

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「正尊」は「謡曲」として知られる観世彌次郎長俊の作。土佐坊正尊は京都堀河御所の義経を討つ計画を、弁慶や義経に気づかれ、詰問され、偽りの起請文を書いて逃れ、やがて夜討ちをするものの、迎え討たれて、捕らえられるというストーリー。元は「平家物語」に基づく。

「麓の花」かの山崎美成の随筆。『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「通り魔の俗說」』の私の彼の注を参照。

「守貞漫稿」江戸後期の風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?:大坂生まれ。本姓は石原。江戸深川の砂糖商北川家を継いだ)が天保八(一八三七)年から嘉永六(一八五三)年にかけての、江戸風俗や民間雑事を筆録し、上方と比較して考証、「守貞漫稿」として纏めた。この書は明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された。但し、以前にも本書引用で誤っているのであるが、またしても熊楠の巻数二十四は誤りで、「卷之二十七【夏冬】」であった。その冬の行事を記述した中に、「十月二十日 今日、京坂ニテ誓文拂(せいもんばらひ)ト云。江戶ニテ比惠寿講と云ふ」(「比惠寿講」はママ。錯字)として出る。私は岩波文庫版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部を示す。御覧の通り、熊楠も嘆いているように、これ、名ばかりで、内実の反省意識は既に失われた感じであることが判る。

「成て仕舞たらしい」「なつてしまふたらしい」。

「目今」「もつこん(もっこん)」。目下。只今。

「黠しく成ては」「こざかしくなつては」。

「僞言吐ば山の井戶落る」「ぎげんはけば、やまのゐど」(に)「おちる」。

「益す」「ますます」。

「鄙猥」「ひわい」。「卑猥」に同じ。

「斷て」「たちて」或いは「たつて」。

「抛付けて」「なげつけて」。

「孫逸仙」南方熊楠が親交があった孫文の字(あざな)。

「用る」「もちひる」。

「倣ふた」「ならふた」。

「西鶴の武道傳來記」井原西鶴による武家仇討物の浮世草子。貞享四(一六八七)年刊。全八巻。全三十二話。

「唐天竺波羅頗密多羅譯寶星陀羅尼經八、護正法品十一に諸天龍夜叉等正法を護らんと佛前に誓ふ、詞が長いから略抄すると、已來若法師、……」以上の「寶星陀羅尼經」の引用は熊楠も言っている通り、かなり手を加えて略縮しており、「大蔵経データベース」で調べても一致しない箇所が多々ある。ちょっと困ったが、それと、「選集」の書き下し(白文はない)を参考に一部に手を加えて以下に推定訓読を示す。

   *

已來、若(も)しくは法師、若しくは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、復(ま)た、諸(もろもろ)の信心ある善男子・善女人は、妙好に施設(せせつ)して、廣く他人の爲めに分別し、此の經を開示し、讀誦の時に及べば、我等は一々(いちいち)、無量百千の眷屬と圍繞(ゐねう)し、彼(そこ)に往き、法を聽く。擁護せんが爲めの故に、衆生を成熟せしめんが故なり。我等、若し、彼(か)の城邑(じやういふ)乃至(ないし)庶民の家に往かず、及び眷屬を以つて敎-勅(をしへ)を受けしめず、衆生を成熟せしめず、衆生をして財穀豐饒・倉庫盈滿(えいまん)ならしめず、又、復た、一切の鬪諍・飢饉・疾病、他方の怨敵、非時の風雨、極寒、極熱、諸災難等を、若し、遮斷せずんば、我等は、則ち、過去未來現在の諸佛世尊を欺誑(ぎわう)せるものと爲(な)す。本誓願に違(たが)ひ、空しくして得るところ無し。白癩の病ひを得て、神通を退-失(うしな)ひ、身體、爛壞せん云々。

   *]

 

 

追 加

 鼈と雷(人類二九卷十二號四九五頁)に關してノーツ、エンド、キーリスに出した予の疑問に對し、一月十六日の彼誌五二頁にエチ、ジヨンソン氏答へて言く、波斯語で龜をサング、プツシユ(石の背)と言ふ。諸國に石や燧石や石鏃を雷の記標とする民族が多い。因て是等の意味が雷と龜鼈と密に相係はるてふ信念を生ぜしめたのだらうと。(大正四年四月人類第三〇卷)

[やぶちゃん注:「波斯語」「ペルシアご」。

「燧石」「ひうちいし」。

「雷の記標」雷(かみなり)が人にその存在をシンボルとして示し掲げたもの。

「密に」「みつに」と訓じておく。]

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