多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖
多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖
[やぶちゃん注:本話は『小泉八雲 靑柳のはなし(田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』で、一度、電子化しているが、今回は原版本に基づき、零から電子化注した。私の大好きなしみじみとした哀れな異類婚姻譚である。漢詩は原本では二段であるが、一段で示し、後に丸括弧で訓読を載せた。挿絵は今まで使っている国書刊行会の「江戸文庫」版のそれが、汚損がひどくいやな感じなので、今回は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該挿絵画像(単独JPG版)をリンクさせるに留めた。]
柳情(りうせいの)靈妖(れいよう)
文明の年中、能登の國の太守、畠山義統(よしむね)の家臣に、岩木(いわき)七郞友忠と云ふ者、有《あり》。幼少の比《ころ》より、才智、世に勝れ、文章に名を得、和漢の才(ざへ)に冨みたり。ようぼう、いつくしく、いまだ廿(はたち)にみたず。
[やぶちゃん注:一四六九年から一四八七年まで。室町幕府将軍は足利義政・足利義尚で、後半は「応仁の乱」の余波が未だ続いていた。
「畠山義統」(?~明応六(一四九七)年)は父義有(よしあり)が永享一一(一四三九)年か翌年頃、大和の陣中で死去したため、幼くして跡を継ぎ、祖父義忠の後見を受けて享徳元(一四五二)年に能登守護となった。義忠の隠居の後、室町幕府相伴衆(しょうばんしゅ(しゅう):室町時代、将軍が殿中で宴を催し、また、諸将の宴に臨む時、相伴役としてその席に陪従する者。有力守護大名家から選ばれた)となり、寛正五(一四六四)年の「糺河原勧進猿楽」にも列席した。畠山宗家の争いでは、幕命により、義就(よしひろ/よしなり)に味方し、「応仁の乱」でも義就のバックにあった山名氏が率いる西軍に属した。文明九(一四七七)年、能登に下国し、能登府中に長くあって、領国支配に専念したが、長享二(一四八八)年、加賀の富樫政親を救援すべく、出兵、明応二(一四九三)年の細川政元のクーデタで越中に逃れた前将軍足利義材(よしき)をも支援した。祖父義忠に似て、和歌。連歌に優れ、歌会を催し、臨済僧で歌人として知られる清巌正徹(せいがんしょうてつ)や、その門下の正広とも親交があった。
「岩木七郞友忠」不詳。]
義統、愛敬(あいきやう)して、常に祕藏し給ふ。
生國(しやうこく)は越前にして、母、一人、古鄕(こきやう)にあり。世、いまだ、靜かならねば、行《ゆき》とぶらふ事も、なし。
或るとし、義統、將軍の命をうけ、山名を背(そむ)き、細川に一味して、北國(ほつこく)の通路をひらきぬ。杣山(そまやま)に、山名方(かた)の一城(いちじやう)あれば、
「是を責めむ。」
とて、義統、杣山の麓に出陣して日を送り給へば、此ひまをうかゞひ、母の在所も近ければ、友忠、ひそかに、只(たゞ)一人、馬(むま)に打ち乘り、おもむきける。
[やぶちゃん注:「杣山」福井県南条郡南越前町大字瓜生にあった杣山城か。サイト「城郭放浪記」の「越前 杣山城」が地図もあり、詳しい。但し、文明六(一四七四)年に『越前国守護斯波氏の家臣増沢甲斐守祐徳が城主となったが、斯波氏に叛いて朝倉孝景(敏景)に攻められ』、『敗れた。朝倉氏は家臣河合安芸守宗清を城主とした』とあるだけで、畠山が攻めた事実はないようである。]
比《ころ》しも、む月の始めつかた、雪、千峯(せんほう)を埋(うづ)み、寒風(かんふう)、はだへを通し、馬、なづむで、進まず。
路(みち)の旁らに、茅舍の中(うち)に、煙りふすぶりければ、友忠、馬をうちよせてみるに、姥(むば)・祖父(ほゝぢ)、十七、八の娘を中に置き、只、三人、燒火《たきび》に眠(いねふ)り居(ゐ)たり。その體(てい)、蓬(よもぎ)の髮(かみ)は亂れて、垢、付《つき》たる衣(ころも)は、裾みじかなれども、花のまなじり、うるはしく、雪の肌(はだへ)、淸らかにやさしく媚(こび)て、
『誠に、かゝる山の奧にも、かゝる人、有《あり》けるよ。しらず、神仙の住居(すまひ)か。』
と、あやしまる。
祖父(ぢい)夫婦、友忠をみて、むかへ、
「たつていたはしの少人(せうじん)や。かく山中に獨りまよはせ給へるぞや。雪、ふり積り、寒風、忍びがたし。先《まづ》、火によりて、あたり給へ。」
と、念比(ねんごろ)に申せば、友忠、よろこび、語るに、
「日、已に暮れて、雪は、いよいよ降りつもる。こよひは、こゝに一夜を明《あか》させ給へ。」
と佗(わ)ぶれば、おゝぢ、
「かゝる片山陰(かたやまかげ)のすまひ、もてなし申さむよすがもなし。さりとも、雪間(ゆきま)をしのぐ旅のそら、こよひは、何かくるしかるべき。」
とて、馬の鞍をおろし、ふすまをはりて、一間(ひとま)をまふけて、よきにかしづきける。
此娘、かたちをかざり、衣裳をかへて、帳(ちやう)をかゝげて、友忠をみるに、はじめ見そめしには、且つ、まさりて、うつくしさ、あやしきほどにぞ有ける。
「山路(やまぢ)の習ひ、濁り酒など、火にあたゝめ、夜寒《よざむ》をはらし給へ。」
と、主(ぬし)よりして、はじめて、盃(さかづき)をめぐらしける。
友忠、何となく、むすめに、さす。夫婦、うち笑ひ、
「山家(やまが)そだちのひさぎめにて、御心にはおぼさずとも、旅のやどりのうきをはらしに、御盃《おん》(さかづき)をたうべて上《あげ》まいらせ。」
と、いらへば、娘も、貌(かほ)うちあかめて、盃をとる。友忠、
『此女のけしき、よのつねならねば、心をも引《ひき》みむ。』
と思ひて、何となく、
尋(たづね)つる花かとてこそ日をくらせ明ぬになどかあかねさすらん
と口ずさみければ、娘も、又、
出る日のほのめく色をわが袖につゝまばあすも君やとまらむ
とりあへず、『その歌がら、詞(ことば)のつゞき、只人(たゞうど)にあらじ。』と思ひければ、
「さいあいのつまも、なし。願(ねがはく)は、我れに、たびてんや。」
といへば、夫婦、
「かくまで賎(いや)しき身を、いかにまいらせん。たゞかりそめに御心をもなぐさめ給へかし。」
と申せば、むすめも、
「此身を君にまかせまいらするうへは、ともかくもなし給へ。」
と、ひとつふすまに、やどりぬ。
かくて、夜も明けければ、空もはれ、嵐もなぎて、友忠、
「今は暇(いとま)を申さん。又、逢ふまでの形見《かたみ》とも、み給へ。」
とて、一包(つゝみ)の金(こがね)を懷中より出して、これを、あたふ。主(あるじ)のいはく、
「これ、さらによしなき事なり。娘によき衣(きぬ)をもあたへてこそ參らすべきに、まづしき身なれば、いかゞせん。われら夫婦はいかにともくらすべき身なれば、とくとく、つれて行《ゆき》給へ。」
と、更に請けねば、友忠も力なく、娘を馬にのせ、別れをとりて、歸りぬ。
かくて、山名・細川の兩陣、破れて、義統も上洛して、都、東寺に宿陣ありければ、友忠、ひそかにぐして、忍び置きけるに、如何(いかゞ)しけむ、主(しう)の一族なりし細川政元、此女を見そめ、深く戀ひ侘び給ひしが、夜にまぎれ奪(ばい)とらせ、寵愛なゝめならざりしかば、友忠も無念ながら、貴族に敵對しがたく、明暮(あけくれ)と思ひしづみける。
或る時、あまりの戀しさに、みそかに傳(つて)をもとめ、一通のふみをかきて遣しける。その文のおくに、
公子王孫逐二後塵一
綠珠埀淚滴二羅巾一
候門一入深如ㇾ海
從ㇾ是蕭郞是路人
(公子王孫 後塵を逐(お)ふ
綠珠 埀(た)れ 淚 羅巾を滴(した)つ
候門(こうもん) 一たび入りて 深きこと 海のごとし
是れより 蕭郞(せうらう) 是れ 路人(ろじん))
とぞ書《かき》たりける。
[やぶちゃん注:この漢詩の原拠(唐の憲宗の元和年間(八〇六年~八二〇年)に秀才(科挙制度の前段階の一つである院試に及第した者)になった詩人崔郊(さいこう)の詩としてよく知られた「贈去婢」(去る婢に贈る)という題の七言絶句。事実、彼はこの詩を以って愛人をとり返したとされる)と意味は『小泉八雲 靑柳のはなし(田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』で詳注してあるので、参照されたい。
「細川政元」(文正元(一四六六)年~永正四(一五〇七)年)は細川勝元の嫡男。足利義澄を擁して将軍とし、管領となって幕政の実権を握ったが、養子とした澄之(すみゆき)・澄元・高国の家督争いに巻き込まれ、澄之派に暗殺された。ただ、彼はこの友忠の妻を掠奪する役としては、正直、相応しくない。当該ウィキによれば、『政元は修験道・山伏信仰に凝って、女性を近づけることなく』、『生涯』、『独身を通した。そのため、空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中したり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行があり』、「足利季世記」では『京管領細川右京大夫政元ハ、四十歲ノ比マデ、女人禁制ニテ、魔法飯綱(いづな)ノ法・アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ。或時ハ經ヲヨミ、陀羅尼ヲヘンシケレハ、見ル人、身ノ毛モ、ヨタチケル。」『とある(ただし、政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、山伏たちを諜報員のように使い、各地の情報や動向を探るなどの手段ともしていた)』。『とはいえ、衆道は嗜んだようであり、家臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする見方もある』とあるからである。]
いかゞしけむ、此の詩、政元へ聞えければ、政元、ひそかに友忠を召《めし》て、
「物いふべき事あり。」
と云ひ遣しければ、友忠、
「思ひよらず。一定《いちじやう》、これは、わが妻の事、顯はれ、恨みの程(ほど)を怖れて、吾れを取り込め、討たむずらん。たとへ、死すとも、いま一たび、見る事もや。折もよくば、恨みの太刀(たち)一かたなに。」
と、思ひつめて行《ゆき》ける。
政元、頓(やが)て、出《いで》あひ、友忠が手をとりて、
「『候門一たび入て 深き事 海のごとし』と云ふ句は、これ、汝(なんぢ)の句なりや。誠に、ふかく感心す。」
とて、淚をうかめ、則ち、かの女を呼び出《いだ》し、友忠にあたへ、剩(あまつ)さへ、種々(しゆじゆ)の引手物して、返し給ふ。こゝろざし、いとやさし。
尤も文道(ぶんだう)の德なりけり。
これより、夫婦、偕老同穴のかたらひ、いよいよ深く、とし月を送るに、妻の云ひけるは、
「吾れ、はからずして、君(きみ)と五とせの契りをなす。猶、いつまでも、八千代をこめむと思ひしに、ふしぎに、命(いのち)、こよひに究まりぬ。宿世(すくせ)の緣を思ひたまはゞ、跡、よく弔(とむら)ひ給へ。」
と、淚、瀧のごとくにながせば、友忠、肝(きも)をけし、
「ふしぎなる事、いかに。」
と、とへば、妻、かさねて、
「今は何をかつゝみ候はん。みづから、もと、人間の種(たね)ならず。柳樹(りうじゆ)の情(せい)。はからずも、薪(たきゞ)の爲めに伐られて、已に朽ちなむとす。今は、歎くに、かひ、なし。」
とて、袂をかざすとぞみえしが、霜の消ゆるごとくに、衣(ころも)斗(ばか)り、のこれり。
「これは。」
と思ひ、立《たち》よれば、小袖のみにして、形體(かたち)も、なし。
天にこがれ、地にふして、かなしめども、さりし面影は、夢にだに、みえず。
せんかたなければ、遂に、もとゞり、切《きつ》て、諸國修業の身とぞ成《なり》にける。
妻の古鄕(ふるさと)のもとへ尋ねて、ありし跡を見るに、すべて、家も、なし。
尋ぬるに、隣家(りんか)もなければ、たれ、しる人も、なし。
唯(たゞ)、大(おゝ)きなる柳(やなぎ)のきりかぶ、三《み》もと、殘れり。
『うたがひもなき、これ、なんめり。』
と思ひ、其傍らに塚をつき、なくなく、わかれ去りけり。
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