「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鯤鵬の傳說」
[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年六月発行の『人類學雜誌』二十七巻三号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
実は本篇は、本文にも出る「マンモスに関する旧説」とカップリングして、古くに平凡社版「選集」版で電子化しているが、こちらが正規表現版となる。本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
鯤 鵬 の 傳 說 (人類學雜誌』二七卷、壹號、四三頁參照)
永田氏の「オシンタ」旅行記に、「近日某學者の說に、莊子鯤鵬の說は、印度の小說と同じ、莊子はインドの小說を傳へしに非ずやと云る者有れど、「フリ」と名くる大鳥の「アイヌ」譚は、佛說に非ざるが如し」と言はる。G. A. Erman, ‘Reise um die Erde,’ Band I, S, 710(Berlin,1833)、西伯利のオブドフ邊の記に、此邊に「マンモス」牙多く、海岸の山腹浪に打るゝ每に露れ出るを、「サモイデス」人心掛け、往き採るにより、彼輩之を海中の原產物と心得たりと云ひたるは鯨屬抔の牙と見なせるなるべし。又云く、北西伯利に巨獸の遺骨多ければ、土人古へ其地に魁偉の動物住せしと固信す、過去世の犀、「リノケロス、チコルヌス」の遺角鈎狀なるを、ゆ往來の露國商人も、土人の言の儘に鳥爪と呼ぶ。土人の或る種族は、此犀の穹窿せる髑髏を大鳥の頭、諸他の厚皮獸の脛骨化石を其大鳥の羽莖と見做し、其の祖先、常に此大鳥と苦戰せる話を傳ふと云ふ。此等の誕を合せ考るに、莊子鯤北冥の魚にて、化して鵬となるの語も、多少の據ろ無きに非じ、委細は動物學雜誌二四九號、三八頁以下、予の「マンモス」に關する舊說に出だせり。大魚大鳥の傳話必ずしも印度に限らざる也。
(明治四十四年六月人類第二十七卷)
[やぶちゃん注:添え辞は平凡社の「選集」では、改行下方インデント二行で、『永田方正「オシンタ旅行記」参照』『『人類学雑誌』二七巻一号四三頁』とある。指示する当該論文は「j-stage」のこちらでPDFで読める。なお、同年の六月発行の二号後の同誌に同氏の「オシンタ旅行記(續)」も載り、やはり同前で読める。著者永田方正(天保一五(一八四四)年~明治四四(一九一一)年)は教育者・歴史家。西条藩士の子として武蔵国南豊島郡青山百人町で生まれ、江戸の昌平黌に学び、函館師範教師を経て、明治一五(一八八二)年に函館県御用掛となり、アイヌ民族の教育に当たった。同二十年、北海道庁に入り、同二十四年には「北海道蝦夷語地名解」を編集、二年後の同二十六年には「あいぬ教育ノ方法」を纏めている。後、遺愛女学校・東京高等女学校で教えた。熊楠の示した部分は四十三頁下段中央で、『近日某學者の說に莊子鯤鵬の說は印度の小說と同じ莊子は印度の小說を傳へしにあらずやといへる者あれども蝦夷の北地には未だ佛法入りしを聞かず但アイヌが佛說を雜へて地獄の談話するは有珠善光寺百萬遍の敎化を受けし餘波なるべしと雖も大鳥は佛說にあらざるが如し』とある。私も大いに同感である。
「莊子鯤鵬」(「こん」・「ほう」で二種は別な想像生物である。以下の私の注を参照されたい)「の說」「荘子」の冒頭「逍遙遊篇 第一」の巻頭を飾る、私が中学二年の時に魅せられたそれである(私は漢籍では、大学時代に、唯一、完全精読をしたのが「荘子」であった。未だに書き込みをした岩波文庫が残っている)。「漢籍リポジトリ」の『欽定四庫全書』の「莊子注巻一」(晉の郭象の注附き)が影印本画像も見られるのでよい。「鯤」は本来は微小な「魚の子」=「はららご」=魚の卵塊を指す語であるが、それを北の果ての海に生息する「幾千里なるかを知らず」(春秋時代の一里は四百五メートル)という超巨大魚の名とするところが、パラドクスの達人荘子の真骨頂である。そ奴がある時、突如、瑞鳥「鵬」に変ずるが、「鵬」は知られた「鳳」の古字である。その「鵬の背は、其れ、幾千里なるかを知らず。怒して、飛べば、其の翼、垂天の雲のごとし」という有様である。後者は「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」で私が詳しく考察しているので見られたい。
「G. A. Erman, ‘Reise um die Erde,’ Band I, S, 710(Berlin,1833)」ドイツの物理学者・地球科学者ゲオルク・アドルフ・エルマン(Georg Adolf Erman 一八〇六年~一八七七年)。当該ウィキによれば、一八二八年から一八三〇年に『かけて、彼は自ら費用を負担して探検旅行を敢行したが、その主たる目的は、可能な限り詳細な地磁気のメッシュ分布を捉えることにあった。探険の前半には、ノルウェーの天文学者クリストフェル・ハンステーンが同行し、イルクーツクまで到達した。そこから先は、単独でシベリア、北アジアを横断し、オビ川の河口部からカムチャツカ半島に至った。そこから、当時のロシア領アメリカ(後のアラスカ州)へ渡った。彼はさらに、カリフォルニア、タヒチ島、ホーン岬を経て、リオデジャネイロヘ至』り、『そこから、サンクトペテルブルクを経由して、ベルリンに帰還した』。『この遠征旅行を踏まえて、彼は全』七『巻から成る』‘Reise um die Welt durch Nordasien und die beiden Oceane’(「北アジアと二つの大洋を越えた世界旅行」)を『著し、歴史篇』五『巻が』一八三三年から一八四二年に『かけて、物理学篇』二『巻と地図帳が』一八三五年から一八四一年に『かけて、ベルリンで出版された。これによって』、一九四四年にはイギリスの』「王立地理学会」から金メダル(パトロンズ・メダル)を授与された』とある。
「西伯利」「シベリア」。
「オブドフ」不詳。「選集」では「オブドロフ」とするが、これで調べても見当たらない。
「マンモス」アフリカ獣上目ゾウ目ゾウ科ゾウ亜科アジアゾウ族†マンモス属 Mammuthus 。当該ウィキによれば、『現生のゾウの類縁だが、直接の祖先ではない。約』四百万年前から一万年前頃『(絶滅時期は諸説ある)までの期間に生息していた。巨大な牙が特徴で、種類によっては牙の長さが』五・二『メートルに達することもある。日本では、シベリアと北アメリカ大陸に生息し、太く長い体毛で全身を覆われた中型のケナガマンモス Mammuthus primigenius 有名である。実際にはマンモスは大小』、『数種類あり、シベリア以外のユーラシア大陸はもとより、アフリカ大陸や南アメリカ大陸に広く生息していた。特に南北アメリカ大陸に生息していたコロンビアマンモス』Mammuthus columbi『は、大型・短毛で』、且つ、『最後まで生存していたマンモスとして』知られるとある。
『「サモイデス」人』ロシア北部とシベリアに住むサモエド族。犬種として知られる「サモエド」は彼らが橇の牽引に用いるために飼っていたことによる。
「魁偉」「くわいゐ」と読む。身体が並外れて巨大で厳ついことを言う。
『過去世の犀、「リノケロス、チコルヌス」』私の「選集」版の冒頭注でリンクさせた、イギリスの古生物学者・動物学者ヘンリー・アレイン・ニコルソン(Henry Alleyne Nicholson 一八四四年~一八九九年)の‘Ancient Life-History of the Earth’(「古代の生命――地球の歴史」。一八七七年刊)に載る同種の頭骨(図「263」:キャプション:Skull of the Tichorhine Rhinoceros, the horns being wanting. One-tenth of the natural size. Post-Pliocene deposits of Europe and Asia.:「リノケロス・チコルヌスの頭蓋骨。実物大の十分の一。ヨーロッパとアジアの鮮新世後の堆積物。」)を以下に示す。
「鈎狀」「かぎじやう」。
「鳥爪」「うさう」。(大)鳥の鉤爪。
「髑髏」「どくろ」。
「厚皮獸」「こうひじう」。
「羽莖」「はねくき」。腑に落ちる。
「據ろ」「よりどころ」。
『動物學雜誌二四九號、三八頁以下、予の「マンモス」に關する舊說』既に述べた通り、こちらを参照されたい。これは「續々南方隨筆」に載るが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら原雑誌の初出を入手出来た(PDF)。但し、私のポリシーの順番があるので、ここでそれを電子化する気にはちょっとなれない。本「南方隨筆」の電子化注が終わったら、真っ先に電子化するので、お待ちあれ。「選集」版を電子化してあるし、初出のダウン・ロードも出来るし、普通に誰でも見られるのだから、わざわざ、今、他にもいっぱい電子化注を抱えている私がやらねばならないという義務は全く感じない、ということである。悪しからず。]
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