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2022/05/09

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 三十六町一里幷一里塚權輿事

 

[やぶちゃん注:本篇は、今までの底本「新燕石十種第四」では、ここからであるが、「曲亭雜記」の巻第五のここからにも載り、そちらではルビが振られてあることから、後者を参考に、必要と考えた読みを丸括弧で挿入した。表記も両者はかなり細部が違うが、私が読み易いと判断したものを、孰れと限らずに採ったので(読みの一部を外に出したりもした)、特殊な本文電子化となっていることをお断りしておく。また、数字が出てだらだらと続けて書かれていて、非常に読み難いので、勝手に改行を入れて、段落を成形し、そこに注を挟んだ。なお、標題の最後の「権輿」は「けんよ」で、「権」は「秤(はかり)の錘(おもり)」、「輿」は「車の底の部分」の意で、孰れも最初に作る部分であるところから、「物事の始まり・事の起こり・発端」の意。]

 

   ○三十六町を一里とせるはじまり幷一里塚の事

 解、按ずるに、「拾芥抄」【中末。】、「田籍部」に、

卅六町一里。此六里ㇾ條。條ㇾ從ㇾ北行於南【限トス卅六條。】。里ㇾ西於東【限トス卅六里。】。町ㇾ艮(ウシトラ)ニㇾ乾(イヌヰ)ニ【但し、已上可ㇾ隨國例。】

と、しるされたれど、三十六町をもて一里と定められし事は、いづれのおん時に、はじまりしにや、詳(つまびらか)ならず。

[やぶちゃん注:訓読しておく。

   *

三十六町を一里と爲(な)す。此れ、六里を條(じやう)と爲す。條は、北より起ちて、南に行く【三十六條を限りとす。】。里は、西に起きて、東に行く【三十六里限りとす。】。町(ちやう)は艮(うしとら)に始めて、乾(いぬゐ)に終はる【但し、已上は國例に隨ふべし。】

   *

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は南北朝に成立した類書。「拾芥略要抄」とも呼ぶ。鎌倉時代には原形が出来ていたものを、洞院公賢(きんかた)撰で、その玄孫の実熙(さねひろ)が増補したとされる。歳時・文学・風俗・諸芸・官位・典礼など九十九部に分け、漢文で簡略に記述。全三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長の版本のここが当該部。

「三十六町」一町は百九メートルで、三・九二七キロメートル。]

 舊き說に、いにしへ、六町を一里とせられしよしは、地六(ちろく)の數(すう)に隨はれしなり。そのゝち、三十六町を一里とせられしは、是と六六三十六、則ち、地の三十六禽(きん)によられるなりともいひ、或は鯉の鱗(うろこ)三十六の義によりて、里數を三十六里に定められしなりなどいへれども、何れも臆說にて、出處、定かならぬことなり。さばれ、その理なきにしもあらねば、姑(しばら)く、一說に備(そな)ふべし。但し、鯉の鱗の如きは鑿說(さくせつ)なり。

[やぶちゃん注:「地六」骰子(さいころ)を「一天地六」(いってんちろく)と呼び、その各面が天・地・東・西・南・北を象徴しているとされることから、天が「一」に対して、「六」が地を代表し、以下、その全方向として、「五」が東、「二」が西、「三」が南、「四」が北とされるところからの地の名数。

「地の三十六禽」一昼夜十二時の各時に一獣を配し、そのそれぞれの獣に、また、二つの属獣がついた計三十六の鳥獣。五行ではそれを卜(ぼく)に用い、仏家では、それぞれの時に現れて坐禅の行者を悩ますとされる。三十六獣。諸家で動物名は異なる。例えば、「画題Wiki」のここや、個人ブログ『「だい将棋」の謎』のここに三十六種のリストが出る。

「鯉の鱗三十六」平凡社「世界大百科事典」のコイ(鯉)の記載に、普通のコイは側線上の有孔鱗数が三十二から三十九枚ほどで、昔は鯉に「ロクロクリン」(六六鱗)という別名があったのは、側線鱗数の中間数の三十六枚の個体が多く見られたことによるとあった。「鑿說」「さくせつ」。内容が乏しく、真実性の薄い説。「鑿空」(さっくう)。]

 東涯先生の「制度通」に云、『公式令、凡、行程馬七十里、步は五十里、車三十里。本朝古へは中國の法にて、一里の中に小名を立て、何里何町と云こと、見えず。「拾芥抄」に、三十六町か二里とすとあるは、田地の積りにて、方一町の田を三十六、並べたるを云へり。今、路程の長さ、三十六町を一里とするものは、此等より轉じたるものなるべし。本朝に「里」と云ふに、三樣あり。戶令に、五十戶二一里一と云は、土地、廣狹によらず、家數を以て、一在所を立るの名なり。雜令に、三百步一里と云は、路程の法なり【三百步は規矩尺六尺を一步として、今の六尺か二間とすると同じく、一步は一間にて、今の五町なり。是、古への一里なり。○解云、上古の尺は、つまりたり。今の五町は、古の六町と同じかるべし。】。又、云、『今いふ三十六町を一里とし、五十町を一里とする事は、何れの頃よりと云ことを詳にせず。』と、いへり【以上、見「制度通」。又可ㇾ參「秉燭譚」。】

[やぶちゃん注:「東涯先生」伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇~元文元(一七三六)年)は古義学派の儒者。仁斎の長男。父の説を継承・発展させ、また、考証に長じて、現代でも有益な語学や以下のような制度関係の著書を残している。堀川の家塾で門弟を教授した。

「制度通」中国の制度の変遷と、中国と日本の制度の関係について述べた書。全十三巻。享保九(一七二四)年の自序があるが、実際の刊行は没してより七十年も後の寛政九 (一七九七) 年。日本の制度については、王朝以降には論及していないが、記述は実証的で正確(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。馬琴の引用は国立国会図書館デジタルコレクションの大正元(一九一二)年金港堂書籍刊の「三六、行程里數ノ事」のここで、前後を入れ替えている。

「秉燭譚」同じく東涯の考証随筆。]

 三十町二里の事は、紀原、詳かならず。先哲も、をさをさ「拾芥抄」によれるのみなり。又、今の一里塚のはじまりは、「信長記(しんちやうき)」に、天文九年冬、將軍家にて、諸國へ仰せ有て、四十町を二里とし、里堠(いちりづか)の上に、松と榎(えのき)を植ゑらると、いへり。又「蒼梧隨筆」には、天正年間の頃、織田信長公の下知に依て、一里を三十六町に定めて、其表示に榎を栽させ、旅人休泊の事を易からしめ給ふと、いへり。又、云、一里塚に榎木を栽しは、其頃の奉行のもの、「一里塚には松・杉を栽べきか。」と云ひしに、信長公の命に、「松杉は並木に等し、餘の木を栽よ。」と、の玉ひしを、餘の木を榎の木と聞誤りしといへども、密に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]考るに、榎と槐と、其木、相似て、槐は少にして、榎は多きもの故に、得るに易く、尤、松・杉と異にして、蔭をなして、大木となるを以て、槐に代て、榎を栽しなるべし。「事文類聚」を考るに、韋孝寬、雍州の刺史と爲て、道の側に一里每に一土堠[やぶちゃん注:「いちどこう」。]を築しに、雨にて、其土堆、度々、損順するに因て、又、勘辨して、土堠の處に槐木を植しむ。然して、損頽なきのみに非ず、旅行の人、庇蔭を得て、休息するに便りありとて、韋孝寬が德を仰ぎしとなり。周文、これを可として、「壹、雍州のみならんや。」とて、普く天下に令して、一里に一木、十里に二木、百里に五木を植させしと有り【按ずるに、一里一木とあるは、一里塚の事なり。十里に二木、百里に五木とあるは、是、旅行の人の息む爲の事にして、槐木を栽て、庇蔭を設けしめし、今の世に、茶屋・建場といふ類の如くなるべし。○解云、一里每には一木を栽へ、其より、第十里目には二木、第百里目に五木と、其木を倍して、里數の句ぎり句ぎりを知らせしなり。五里に一舍、十里に一亭の定とは、異なるべし。】。魏の文帝は、一里每に、一銅表を置く。高さ五尺にして、里數を記せしとあり【已上、摘要。】。解云、魏文の一條は、天朝の多賀城の類(たぐひ)なるべければ、今の一里塚とは、おなじからぬなるべし。【韋孝寬が事は、「北史」に見えたり。】。

[やぶちゃん注:「信長記」安土桃山から江戸初期にかけての儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜ ほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)が、書いた織田信長の一代記。但し、彼の書いた本書や「太閤記」は、また、彼らの複数の伝記類の総称であり、同名の著作は複数ある。その中でも小瀬のそれは最も著名なものである。

「天文九年」一五四〇年。

「將軍家」足利義昭。

「蒼梧隨筆」江戸中期の有職故実家。大塚蒼梧の随筆。寛政一二(一八〇〇)年刊。

「天正年間の頃」一五七三年から一五九二年であるが、信長は天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)に自死しているから、その閉区間。

「槐」「えんじゆ」。マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。日本へは早く八世紀には渡来していたとみられ、現在の和名は古名の「えにす」が転化したもの。

「事文類聚」宋の祝穆(しゅくぼく)の編になる類書。全一七〇巻。一二四六年成立。「芸文類聚」の体裁に倣って古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新追加し、総計二百三十六巻に膨れ上がった。

「韋孝寬」(い こうかん 五〇九年~五八〇年)南北朝の北魏・西魏・北周の軍事の名将で尚書令。彼が雍州刺史となったのは彼の中文ウィキによれば、西魏の五五三年。

「魏の文帝」(一八七年〜二二六年)は三国時代の魏の初代皇帝曹丕(在位二二〇年~二二六年)。曹操の子。父の死後、漢の献帝の禅譲を受けて皇帝となり、漢の制度を改革し、九品官人法を施行した。弟の曹植とともに文学を好み、多くの詩文を残した。

「多賀城の類」「壺の碑」のこと。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑』の私の注を参照。]

 

 又、按ずるに、「信長記」に四十町を一里とせられしと云ふは、今の世も伊勢路は四十町、四十八町を一里とす。かゝれば、當時(そのかみ)の四十町一里は、伊勢・尾張の里數によられしものか。當時(そのとき)といへども、諸國、大かたは、三十六町一里にして、或は、五十町・六十町・七十町を一里とせし處も、ありけん。今も猶ほ、しかなり【今の世も仙臺は六町一里也。これを「こみち」といふ。又、三十六里もてするを「大みち」といふ。山陽道は、五十町・七十二町を一里とすと云。】。

[やぶちゃん注:「こみち」古い特殊な路程単位である「坂東里」「坂東道(ばんどうみち)」に同じ。「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称した。安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるが、この坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺(例えば唐代の一里は僅か五百五十九・八メートルである)に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、実は、江戸時代でも、江戸でこの単位をよく用いた。江戸期の諸本で、旅程などが異様に長いと感じたものは、この「坂東道」で換算すると、しっくりくるので、記憶しおかれるとよい。例えば、坂東里の「百里」は六十五・四キロメートルにしかならないのである。]

 この他、「續日本紀」に、限伊勢大神宮之界(タ)ツㇾ標としるされ、又、近世の制度(さだめ)には、一書に「奠陰(てんいん)」・「逸史(いつし)」を引て、慶長九年二月。下シテ東海東山北陸三道。是里置ㇾ堠。既ニ乄而西南亦皆依ルト其法云々と見えたるは、今の並樹の事にして、まさしく一里塚の事とも聞えず。「續紀」に見えたるは、道里遠近の碑を建られしにて、亦、是、多賀城の碑の類なるべし。

[やぶちゃん注:「奠陰」「逸史」孰れも江戸中期の大坂の儒学者中井竹山((一七三〇)年〜(一八〇四)年:朱子学者で荻生徂徠の「論語徴」を批判する「非徴」を書いたが、その朱子学は林家の学風とも闇斎の学風とも異なる、独自の自由なものであった)の著書。

「慶長九年」一六〇四年。開幕の翌年。]

 又、「一休和尙の連歌の發句なり。」とて、

 門松は冥土の旅の一里塚

といふを、人口に膾炙したり。これによれば一里塚は、天文・天正以前、はやく諸國にありしやうに思ふものもあるべけれど、この句、必しも、一休なりとは定めがたく、いと疑しきものながら、「人生、逆旅に似たり。」といふ、唐人の句を飜案して、「無常迅速」の意を示せしは、おもしろし【一休は、文明十三年十一月に遷化なり。かゝれば、一里塚を置れしといふ、天文九年より遡に數ば、六十年許上に在り。】。

[やぶちゃん注:「一休和尙の連歌の發句なり」これは、

 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

として彼の狂歌ともされ、ネット上では、一休宗純の漢詩集「狂雲集」の一句に拠るとか、彼の作と、まことしやかに書いてあるサイトをあったが、これは恐らく、江戸時代に盛んに創作された〈一休話〉の中で形成された偽作である。

『「人生、逆旅に似たり。」といふ、唐人の句』蘇軾の詞「臨江仙送錢穆父」(臨江仙、錢穆父(せんぼくほ)を送る:一〇九一年作)の一節、

   *

 人生如逆旅

 我亦是行人

 (人生 逆旅のごとし

  我れも亦 是れ 行人)

   *

全篇は壺齋散人氏のサイト「漢詩と中国文化」の「臨江仙‧送錢穆父 :蘇軾を読む」がよい。言わずもがな、芭蕉の「奥の細道」冒頭の原拠である、李白の「春夜宴桃李園序」(春夜桃李の園に宴するの序)」の冒頭「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客」(夫(そ)れ、天地は萬物の逆旅にして、光陰は百代の過客(くわかく)なり)のインスパイア。「奥の細道」冒頭原文は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉』を参照されたい。]

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