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2022/05/05

ブログ・アクセス1,720,000突破記念 梅崎春生 傾斜 (未完)

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年八月号『世界文化』に発表され、後の作品集「ルネタの市民兵」(昭和二十四年十月月曜書房刊)に所収された。なお、底本解題によれば、『雑誌掲載のとき、末尾に「第一章終」と記されていたが、これ以後書きつがれてはいない』という注記があったので、標題には、上記の通り、未完表記をし、末尾には上記のそれを丸括弧附きで加えておいた。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月刊)に拠った。文中に注を添えた。なお、これを以って底本である沖積舎版「梅崎春生全集」第二巻は「風宴」・「蜆」・「黄色い日日」を除いて総ての電子化注を終えた。「蜆」は、偏愛する「幻化」「桜島」を除き(以上のリンク先は私のPDF縦書版オリジナル注附き)、梅崎春生の名品五本指に入れるほど、好きな作品だが、この三篇は向後も電子化はしない。何故なら、「青空文庫」で先に電子化されてしまっているからである。私は単なる私個人の私の慰みとしての電子化は、する気が、全く、ないのである。「幻化」と「桜島」はそちらにあるが、これはパブリック・ドメインになった二〇一六年一月一日から独自に満を持して電子化注をこのブログで開始し(「幻化」はここ、「桜島」はここ)、「青空文庫」のデータは、私の本文では、一切、使っていない。正直、「青空文庫」の「梅崎春生」というと、個人的な恨みがあるのである。その二〇一六年の半ば過ぎ頃だったが、私のブログを批評したネット上の無名ページを発見し、そこでは、私のブログ版「桜島」の、オリジナル注附けを批判し(注の中身に対しての批評ではなくて、詳注を附けること自体が悪いというのだから、失笑物さね。じゃあ、来なきゃいいし、見なきゃいいんだから。というより、『こんなブログを読まないで「青空文庫」にいらっしゃい』感が、これ、見え見えだった訳だ)、それどころか、今じゃボケ過ぎていて大笑いだが、私のことを『「青空文庫」に梅崎春生があるのに、わざわざ梅崎春生の作品を電子化している』暇人呼ばわりしてあったのだ。そんなこたぁ、上のリストの全十六篇という恐ろしい乏しさでは、もう逆立ちしても、言えねえよな? 要はあのブログ(タイトルなし・プロフィルなし)主は同文庫のシンパの、文字通りの闇の「工作員」だったのだろう。因みに言ってやる! 「私の梅崎春生の電子化注は今や、悪いな、工作員! 三百四十篇近くになるぜよ! クソ野郎!」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが近日内に、1,720,000アクセスを突破した記念として公開する。正直、公開を待つのに飽きただけさ。悪しからず。【二〇二二年五月五日午後八時五十四分:藪野直史】]

 

   傾  斜

 

 その家には玄関がなかった。その上奇妙なことには、便所というものが何処にもついていなかった。

 母家の方は三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]で、それにひろい縁側がついており、家族は其処から出入していた。時にお客があることがあってもその縁側で応対した。どういう大工が建てたのか判らないけれども、とにかく家としてはあらゆる虚飾を切り捨てた裸のままの家であった。ただ住むだけを目的として建てた家のかたちであった。玄関を切りすてた精神は彼にも判らないことはなかったが、便所を省略した気持がどうしても解しかねた。あるいは大工がぼんやりしていて造り忘れたにちがいないとも思ったが、それにしては間取りや採光にこまかい注意がはらわれていた。不注意な大工にはとてもできそうもない配慮があった。

 そこには鬼頭鳥子一家が住んでいた。

 母家からすこし隔てて離れがあった。離れといっても藁葺(わらぶき)の、もとは納屋(なや)かなにかに造られたらしい一棟だが、それを板でふたつに仕切って、片方が厩(うまや)、のこり半分に畳を入れて小部屋となっている。その部屋に彼は住んでいた。そして月額二百円の部屋代を鳥子に払ってした。もちろん納屋造りだから母家にくらべて造作が粗末で、窓だって格子(こうし)はあるが引戸が無く、雨の日は自由に降りこんできた。仕切の板の節穴からは厩がのぞかれた。押入れも棚もなかった。むろん便所など気の利いたものはついて居なかった。だから彼は特別の場合をのぞいて使所は勤め先に着くまで辛抱した。

 母家の前は広い空地で、花苑になっていた。そこには花花がみだれ咲いていた。華麗な季節のいろがみなぎってした。花苑のすみに板を二枚わたし、その下に大きな甕(かめ)が埋めてあって、それが便所であった。板がこいも何もなかった。ただその前に躑躅(つつじ)が二本植えてあったけれども、完全な遮蔽(しゃへい)の役は果してはいなかった。道路とは密生した杉垣でくぎられていたから、見えるおそれはなかったけれども、庭のなかからだと、角度によってはそんなわけには行かなかった。

 鳥子の家は、三人家族であった。鳥子には、花子と太郎というふたりの子供があった。この家族のなかで、彼が初めて逢(あ)ったのは、娘の花子であった。

 革手帳の所書きをたよりに、この家を訪ねあてたとき、玄関らしいものが見当らなかったので、彼は家の前ですこしまごついた。どこで案内を乞うていいのかと、ためらって立っていると、縁側の方から、どなたですか、という声がした。そして、人影がそこにあらわれた。それは女の姿であった。

 縁側に立った女をひとめ見たとき、彼は思わず視線を浮かした。女の顔は、火傷のために、醜くひきつれていた。皮膚に茶褐色の凹凸があって、表情がそれで消えていた。戦野でも、顔を焼いた兵の顔は、たくさん見てきたが、これが女の顔であるだけに、彼は平気になれなかった。すこしたじろいで視線を外(そ)らしかけたが、外らすことがかえって相手を侮辱することになると、彼は気持をひきしめた。そのとき女がかさねて言葉をかけた。

「なにか御用なんですか」

 それは明るく澄んだ声であった。

 彼がこの家を訪ねてきた理由を、すこしずつ話し始めたとき、とつぜん女が彼のことばをさえぎって、口早に問いかけた。

「それでお父さんと、どこで逢ったの。いつごろのことなの?」

 この女が花子であると判ったとき、彼はある烈しい衝動を胸にうけて、思わずだまりこんだ。そうすると花子は、彼の沈黙を落胆と感じたらしく、すこし身体を乗りだすようにして、沈んだ口調になって言った。

「お父さんは死んじまったのよ。船が沈没して――」

 お父さんと逢ったのはどこか、と花子が問いかけた瞬間、それは彼にも感じられたことであった。花子の語調には、あきらかにそのようなものを含んでいたのである。彼は佇立(ちょりつ)して、なおしばらく花子の顔を、こんどはためらわず眺めていた。ある贖罪(しょくざい)に似た気持が、彼の胸にいっぱいになってきた。花子にたいして、償うべきどんな罪も、現実には彼は犯していなかったのだけれども。

 あるいは部屋を貸してもらえるかと思って来たんだという彼の言葉を、花子が素直にうけたらしいのも、彼のこの引け目の気持をまっすぐ感じ取ったせいかも知れなかった。花子はその声と身のこなしで、急に彼の気持に近づいてきた。

「部屋はないこともないのよ。しかしひどい部屋よ」

 花子にみちびかれて、離れの部屋をみたとき、彼はすこしおどろいた。漠然と部屋というものに対する概念が彼にあったから、彼はこの部屋の荒れかたにおどろく気持がおこったので、南の島での生活を考えれば、おどろく筈のことはなかった。それは細長い変な形の部屋で、板仕切でむこうと隔てられていた。今のところが仮住居で、今日明日にも出なければならぬことでもあったし、他にあてもないことであったから、彼はわらでも摑(つか)む気持でいた。

「貸していただくとしても、あなた一存で」

「いいのよ。どうせあいてるんですもの」

 花子はそう答えた。

 その夜荷物をはこんで、彼はひっこして来た。荷物といっても、ほとんどなかった。そして母親の鬼頭鳥子とあった。

 もう四十を少し越えたように見える頑丈な婦人であった。肩の幅など彼よりももっと広いように見えた。坐っている膝の厚みも一尺は確かにあった。きちんと両掌を乗せて、自分達一家のことを簡単に話した。鳥子の眼はキラキラ光り、人を射すくめるような強い光があった。彼は膝もくずさず畏(かしこま)ってその話を聞いた。

「神様の御導きによりまして――」

 家族三人が餓えもせず大過なく現在を暮して居るという話なのであった。離れの部屋も別段貸す必要はないけれども、此の住宅難の時代に空部屋があることは神の意志に反するから、困って居る人に貸すことに決意したということであった。それにしては部屋代二百円は高いと思ったけれども、復員後金に対する観念が彼には混乱して判らなくなっていたから、或いはこの程度が相場なのかも知れないとも思った。

 それから彼は離れに行き、夜具をしいて横になった。この部屋はなにか臭いがすると彼は思った。嗅ぎ慣れた臭いだと思ったが、何の臭いか思い出せなかった。寝がえりをうとうとした時、板仕切になにか固いものがぶっつかる音がした。その音は一寸やんでまた二三度続けて聞えた。彼はおどろいて布団の上に起き直った。板仕切の向うに何者かがいるに違いなかった。彼は暫(しばら)くそうしていたが、またひとつ音がしたので思い切って立ちあがり、土間におりて扉をあけ、月明りの庭をこの棟の反対側に足を忍ばせて廻った。此の離れは何だか細長い造りだった。横木が一本渡してあってそこから首を出しているものは、月の光に照らされて、紛れもない馬の顔であった。

 「馬が!」

 叫びかけて彼はあわてて口を押えた。

 馬はながい頸(くび)を横木にもたせかけ、立ちすくんだ彼の姿を怪訝(けげん)そうな横目で見つめていた。たてがみが耳の辺や頭にふかぶかとかぶさっているが、小さな月の輪の形を宿した瞳のいろはむしろ温く光っていた。彼はやっと驚きから恢復(かいふく)して馬の方に近づいた。

 それは夜の光の中でもかなり老廃した馬の姿であった。彼が近づくと餌でも持って来たと感違いしたものか、顔を彼の方にすりよせながら、しきりに足踏みしはじめた。後脚の蹄(ひづめ)が時折板仕切に触れてかたい音を立てた。先程の音はこれに違いなかった。おれは馬と同居している、という奇妙な感慨が彼の胸をよぎったのはこの時である。馬の鼻息を裸の胸にかんじながら、それがやがていいようもない不思議な感覚となって彼の身体中に拡がって来た。ある過去から現在にわたる長い悲喜を、今この一点に凝集したような切なさがあった。ただその切ない感じだけが、彼にははっきり判った。その他の事はなにも判らなかった。彼は馬の真似のように自分も足踏み始めながら、次第に気持がいら立って来るのを感じはじめた。

 しかし彼は翌日から平凡な顔をして勤めに通いはじめた。都心の事務所まで電車で二時間近くかかった。出勤時刻はさほど厳格ではないのであったが、然し厠(かわや)の関係があるので彼はたいてい早く家をでた。庭の厠を遠慮なく使うよう鳥子は言ったが、夜分ならともかく白日の光の下では彼は其処を使う気になれないのである。軍隊にいる時でも彼は過敏にその意識をまもって来た。見通しのきくところで肉体を曝(さら)すことが、彼には堪えがたい生理的な不安を起させるのであった。此の不安はしかし、彼の内部にひそむ或る意識と頑強にからみ合っていた。それは彼にはっきり判っていた。

 勤めに出るため庭を通るとき、彼の視線はどうしても独りでそこに行く。それは強迫観念みたいに避けられなかった。誰もいないことが確められると彼はほっと肩を落すが、躑躅(つつじ)の花かげにしろい姿体を見出すと、にわかに頭に血がのぼり彼は視線を宙に外らす。恥かしがるべきはおれではなく向うではないかと思っても、顔のほてりが自然にそれを裏切った。鳥子や、花子ですらも、その事には平気で無関心に見えた。羞恥を超えた自然の営みに見えた。

 事務所は京橋にあった。昼間の何時間かを彼はそこですごした。

 郊外の駅からまた歩いて鬼頭家の門をくぐる時、それでも彼の眼は迷ったように花苑の方に流れる。躑躅は紅い花を、藤は青い花房を夕昏(ゆうぐれ)に垂れていた。彼はそれを瞳に収めて離れの方に足を運ぶ。花々は日に日に美しかった。此処だけが別の世界のようだった。此の苑は花子が作ったのかと彼は始め漠然と考えていたが、そうではなかった。花を植え花を育てるのは息子の太郎だった。

 太郎は頭の大きな、黙りこくっているとむしろ陰欝な感じのする子供であった。彼が離れに住むようになっても、太郎はほとんど彼に興味を示さないように見えた。ある日彼が少し早く家に戻って来る途中、道を切れた草原の土管のかげで、四五人の子供が集って賭博(とばく)に耽(ふけ)っているのに気がついた。南の島で彼は退屈まぎれに賭博に熱中した時期があったから、人が四五人集って、それが賭博をやっているかどうかは、感じで敏(さと)く見分けられた。それは雰囲気で判った。草原に入って彼はその群に近づいた。子供達は彼を見てもおそれる気配はなかった。おそろしい人とそうでない人を彼等は本能的に弁別するらしかった。その中に太郎がいた。

 南方で彼はやはり此の年頃の少年たちが賭博に耽っている情景を、何度となく見て来た。しかし内地の風物の中で日本の子供達が骰子(さいころ)を振っているのを見ると、何だか奇妙な感じだった。太郎のような子が骰子の目の動きに一心に打ち込んでいる顔付は少し恐い気もした。南方の子供をながめた眼と、ここの子供をながめる今の彼の眼は、たしかに変化していた。そのことを彼はぼんやり感じていた。その時太郎が顔を上げて彼を手まねいた。

「小父さんもやらないか」

 曖昧な笑いをつくったまま彼はそこを離れて歩き出した。すると太郎は立ち上って追って来た。

「離れのおじさん。俺とやんねえか。あんな子供たちとやっても面白くないんだよ」

「あんな子供たちって、お前も子供じゃないか」と彼は笑いながら言った。太郎は両手を彼の腰に廻して、身体ごとぐいぐい押すようにした。

 しかし暫くの後、馬のいない厩(うまや)で藁(わら)に埋もれ、彼は太郎と向き合って賭博を始めていたのである。始めは彼も退屈しのぎのつもりだったが、だんだん此の遊びに引き入られ始めていた。太郎はなかなか手強かった。勝つと太郎は揶揄(やゆ)するような短い笑声をたてた。彼は本気に殷子をふった。やがて厩から出て来た時には、彼は若干の金を太郎から捲きあげられていたのである。しかし彼は久しぶりに実のある仕事をしとげたような寛(ひろ)やかな感じが、彼の身体を領していることに気付いた。此の感じは長乍・忘れていたものだった。別れるとき太郎は、その中に綺麗(きれい)な花をやるから又やろうな、と言った。

 花は欲しいと思ったが彼は部屋に花をさすべき瓶すら持たなかった。彼はただ咲き乱れた花苑を勤めの行き帰りに一瞥することだけで満足していた。そしてその度に、太郎の丹誠への情熱はどこから来るのかとぼんやり考えた。しかしその事よりも、鳥子が此の庭を菜園とせずに太郎の花苑に任し切りであることが彼には不思議だった。

 鳥子が馬を買い運送の仕事をはじめるについての資金は、夫の兵太郎の殉職に対する船会社の見舞の金であった。しかし運送の仕事は表業で、鳥子は今はもっと利の多い所業に専心しているらしかった。運送業の儲(もう)けだけでも馬鹿にならなかった。朝八時頃になると鳥子はすっかり身仕度して厩(うまや)にやってくる。古い船員服を改造した服をまといゲートルを脚に巻いていた。頑丈な体軀(たいく)だからそれがまた良く似合った。空気を押し分けるようにしてあるいて来る。馬を叱咜(しった)して厩から引き出して荷車の轅(ながえ)につけると、やがて車輪の音を響かせながら何処かへ出て行く。

 夕昏になると鳥千と馬は戻って来る。荷は空の時もあるが、筵(むしろ)におおい隠された荷物が積んであることもある。鳥子はひとりでそれをかついで奥の八畳の間に運び込む。それが米俵らしいこともあったし、塩の袋でもあったし、また何を詰めたか判らない梱(こおり)のこともあった。近隣の話では鬼頭家に聞けばどんなものでも売って呉れるという話であったし、その売買の場を彼は見かけた事もある。それならば運送屋は表むきで、実は闇屋ではないかと始めて彼は気付いたが、しかしもうそんな事には彼は驚かなくなっていた。復員後そんなことには麻痺していた。人を疑うことはなかったが、人を信ずる気持からは離れていた。それで裏切られる驚きはなかった。すっかり八畳に運びこむと鳥子は馬を轅からはなして厩に追いいれる。[やぶちゃん注:「梱」ここは行李に同じ。]

 馬は実にたくさん食べた。

 朝は六時になると鳥子が厩に餌桶(えおけ)を持って来る。それから出発。昼の餌は車に積んで行き、帰って来て直ぐに一度。六時。八時。十一時に食わせる。これはみな鳥子がやった。そして真夜中の二時頃彼が眼をさますと、厩に餌箱を持ってきた音がする。この真夜中の餌だけは花子の役であった。仕切の節穴から覗くと、花千がもつ提燈(ちょうちん)の光のなかで馬は懸命に食べている。花子は薄い寝衣のままそれを見ながら、何時も小声で歌をうたっている。讃美歌であった。それは何時も同じ旋律の同じ文句であった。暗い感じの節だった。

 

  のどけきそらと  みるがうちに

  やがてほのおは  ふりきたれり

 

 馬は温和な表情で、しきりに顔を餌箱に出し入れした。提燈の薄い光のなかでも、馬の影は毛が伸びすぎて脚が畸形にみじかい感じであった。夜みても老廃のいろが濃かった。昼間の光の下で初めて彼がこの馬をながめたときの驚きは、いまでも彼の頭に残っている。それは衰順そのままの影だった。一眼見るなり彼はかすかな嘔気(はきけ)がこみ上げてきたほどであった。夜の馬のすがたの方が彼には親しみやすかった。

 夜になると馬はときどき仕切板を蹴った。最初の中は彼はそれが気になって眠れないのであった。此の馬は昼中あんなに働いてくる癖に、夜中になってもほとんど眠らないらしかった。馬は眠らなくとも彼は眠る必要があるので、彼は馬に対してあまり面白くない気持であった。ある日彼は勤めの帰りに睡眠剤を買いもとめて来た。馬に服用させる心算(つもり)なのである。四辺(あたり)が寝静まってから彼は薬を湯でとき、人参のはだに塗りつけた。厩に行って、横木から首をだしている馬の鼻面にもって行った。そうしながら、此の薬を馬に服用させるより自分が服用した方が早いのではないかと、ふと気付いた。

 馬は白い歯を見せてそれをくわえ、そしてパリパリと嚙みくだいたが、急に嚙むのを止めてじっと彼の顔を見た。食べるかといくぶん危惧(きぐ)の念でながめて居た彼は、青く澄んだ馬の視線をとつぜん受けて、少しばかりたじろいだ。いいようのない羞恥が彼の胸いっぱい拡がってきた。彼はそれを辛抱しながら、じっと馬の顔を見返してレた。すると馬はやがてかすかに頸(くび)を振って、顎を動かし始めた。嚥下(えんげ)してしまうと長い舌を出してゆっくり口の端を砥めた。そして首を垂れた。彼は部屋の方にとってかえしながら、馬は何もかも悟ったに違いないとかんがえた。

 しかしその夜も馬は眠らぬらしかった。何時もよりかえって板仕切を蹴った度数は多いようだった。薬の量が少かった為にかえって逆に亢奮(こうふん)させる結果になったのかも知れないと思ったが、もいちど試みる気持はもはや失せていた。馬を誑(たぶ)らかそうとしたこと、そしてそのことで馬に羞恥を感じたことが、彼の心にある意識となって強く作用していた。

 この瞬間からこの馬は、たんに彼の棟の同居人だけではなく、ひとつの親近な存在として彼の心の一部に投影しはじめていた。彼は勤め先のうすぐらい室でぼんやりしている時など、ふと馬のことをおもいだした。おもいだしさえすれば、あの澄んだ瞳や老いぼれた毛並が、現実に眼の前にあるときよりももっと鮮烈にうかんできた。

 朝起きると直ぐ彼は床を離れて厩の前に廻る。横木に頸をもたせた茶色の馬の眼球のなかに、朝の花苑の風景が凝縮されて映っていた。その風景の中でも花々は朝風に小さく小さく揺れていた。それを見ると彼は何とはない親しさと安らぎが胸に湧きおこってくるのを覚えるようになった。

 

 鬼頭鳥千という女は、誠(まこと)に風変りな女のように彼には思えた。

 まず最初のうちは彼は鳥子の働きぶりに驚いた。終日馬を引いて歩きまわり、戻ってくると手まめに馬を世話し、それがすむと家事のきりもりや客の応対に従事する。夜中の餌だけは花子の仕事らしかったが、その他のは全部鳥子がした。疲れを知らぬ風であった。これに彼は圧倒された。

 背は五尺三寸ほどもある。和服を着ているときも堂々としているが、男の古服をきて馬車の先にたつと、にわかに凛(りん)として来て、動物精気とでもいいたいものが身体中に漲ってくる。眉が濃く、切れながの瞼からくろい瞳が力づよく動いた。誰と話すときでもこの瞳はぜったいにたじろがない。顔の皮膚も油を塗ったように艶やかにひかった。声はわざとおさえたような裏声だが、言葉遣いは気味悪くなるほど丁寧(ていねい)であった。あるいはその逆効果を意識して使っているのかもしれなかった。

 奥の八畳間は鳥子がどこからか運びこんだ物資でいっぱいらしい。夜になると食料をもとめに来た近所の内儀(おかみ)やブローカーらしい身なりの男と、鳥子は縁側で折衝している。鳥子は和服をきちんと着こなして、両掌を膝の上にそろえ大きな座布団の上にすわっている。あがれと言わないから買手は足を沓脱ぎに置き、尻をなかば縁にかけた姿勢で、身体をねじって応対しなければならない。鳥子の姿勢はすでに地の利を得たという感じであった。応対に際しては鳥子は自分の言いだしたことは絶対に曲げないのである。しかし言葉はきわめて鄭重であった。

「さようでございますか。さようでございましても、私どもの方はこれ以下の御値段ではお分けできないんでございますのよ。お宅様の御事情もお察し申すんでございますけれどねえ」

 鳥子の頰にはそんな時ふしぎな笑いがうかんでいる。それはつくった笑いでもなければ、得意そうな笑いでもない。心からうれしげな微笑である。買手はそれでまごついてしまうのだ。鳥子の売値はけっして安くない。時とすると市価を上廻る。買手がそれを言いだすと鳥子の顔にふと当感の色が浮ぶ。それは自分の売価と市価と、どんな関係があるのか判らないといった表情であった。

「それは大変でございますわねえ」

 そして溜息をつく。溜息をつくのも、相手が市価などを言いだす蒙昧(もうまい)さに溜息をついているので、鳥子としては自分の商品が市価に左右されるということが心から解せない風であった。

 鳥子が基督(キリスト)教徒であることは、最初の日会った時の口なりで彼は知っていた。朝仕事に出かける前に縁側に卓を据(す)え、鳥子は仕事着のまま大声で聖書の一節を朗読したり讃美歌をうたったりする。その声は彼の部屋まで聞えてくる。格子窓から覗(のぞ)くと縁側にいるのはいつも鳥子と太郎だけであった。祈禱(きとう)をする鳥子のまえに太郎がおおきな頭をたれて神妙にすわっていた。花子は姿を見せないか、苑の花卉(かき)の前にしゃがんで指でさわっていたりする。しごく無関心に見えた。時にその横顔が彼にも見えた。花子がこの異相になりながら、母親の祈禱に背をむけているのは彼には一応ふしぎに思えたが、しかし花子がその風貌で祈禱をささげる情景をもし見たら、おれは顔をそむけるに違いないと彼は思った。

 しかしそれよりも彼には鳥子の信心が不思議でならなかったのだ。あのように聖書を読んだ後できわめて平然と馬車をひき闇商売にでてゆく鳥子の心理が、彼には解釈できないのであった。彼はしかし鳥子の信仰は疑わなかった。鳥子が大声で聖書をよむ声をきいても、彼はその声から誇示とか擬装とかは感じとれなかった。没我の境にあることが肉体で感じられた。贋の声ではない。そして鳥子は信仰について語りだす時、その眼がひとしお強くキラキラと輝いて来る。

 夜厩に餌箱を持ってきて、馬がそれを食べ終るまでの間、時に鳥子は気紛(まぐ)れのように彼の扉をたたくことがある。夜はたいてい和服なので、恰幅は田舎の女地主みたいな感じをあたえる。窓に引戸がないので雨に畳のはしが濡れてふやけているのを避けながら、鳥子はどっかと坐りこむのだ。せまい部屋が鳥子がひとりで一ぱいになったように見える。彼は一つの感じが胸にあるから、もし寝転んでいればそのままの姿勢で起き直ろうとしない。はじめは意識して冷淡なポーズを取っている。

 気紛れのように来るといってもそれが初めからその積りであるらしい事には、鳥子はいつも蒸したパンや蜜柑(みかん)をたもとから出すのだ。そしてそれを彼にすすめる。それから色々彼に話しかける。兵太郎と会った時の話を聞きたがったり、彼の過去を根ほり訊ねたり、また自分の一家の話をしたりする。声は相変らぬおさえつけた裏声だが、話し振りにへんに浮ついた抑揚がまじる。幽(かす)かだけれども彼はそれを敏感に感じとっていた。

 「信仰の道にお入りなさいませよ。不破さん。こんな世の中になりましては、神様だけがほんとにおたより出来るものでございます」

 鳥子が持って来たパンなどを食い欠きながら、彼はそんな話を聞いている。勿論彼は信仰にはいる気持など全然ないので、始めのうちはいい加減に聞きながして居るが、そんな場合の鳥子の態度はなにか年歯もゆかぬ子供にたいするような変に訓(おし)えるような優しさを帯びて来るので、彼は自分でわかっていながら段々いらだって来るのだ。わざと鳥子の言葉に反対したりする。どんなに意地悪く反撥しても鳥子が怒らぬことは、肉体的な直覚として彼は感じ取っていた。

「しかし小母さん。そう言うけれど、僕は今の世の中を悪いとはおもわないな。僕には信仰は要らないのだよ」

 突っぱねたような彼の言葉を、鳥子はれいの微笑をたたえて聞いている。不破の言いかたが判らないといった笑いである。しかし眼だけは強い光を帯びて執拗に彼にそそがれている。

「此の世はほんとに濁っておりますのよ」

 此の世を悪くするのも鳥子たちが闇をやるからではないのかと、彼は心の中で忌々(いまいま)しがるのだが、流石にそれは口には出さない。ただ言葉尻だけで反撥するだけだが、自然自分の反対の仕方が子供の駄々じみてくるのが判るのだ。

 やがて鳥子が部鼠から出てゆくと、彼はやっと解放された気になる。疲れているのが判る。肩臂(かたひじ)張って相対したあとの感じであった。鳥子がきたあとのこの部屋は、いつもの厩の臭気にまじって、なにか一種の香がただよっている。鳥子の体臭と香料の匂いが微妙にいりまじっていた。その匂いはなにか予感じみた戦慄を彼に与えた。彼は毛布に横たわり燈を消してじっと眼をつむっている。

「こうしては居られない」

 そんな気持であった。とにかく今のままの中途半端な気持では過して行けないことだけが彼にははっきり判っていた。しかしどうしていいのか判らなかった。彼は暗闇のなかからするどく鳥子の体臭だけを引出して嗅ぎながら、ふてくされた自分の姿勢を持てあましていた。その体臭は、南の島で彼の肉体を愛したある曹長の体臭に似ていた。

 彼は少年時をストイックな家庭で育った。学校を出るとすぐ会社に勤め、そして召集を受けた。自分がそんな対象になり得るということを自覚したのは、此の荒くれた世界のなかであった。それは受身にしろ彼には背徳の感じが強かった。しかし彼は拒み切れなかったのである。それを拒むということが軍隊の中でどの位住みにくくすることか、同時にそれを受け入れるという事がどんな利益になるものか、彼は本能みたいに嗅ぎとった。心の弱さであると言えば言えたが、どの途(みち)戦死するのだという気持がそれを支えていた。しかし破倫の感じは執拗に残った。

 部隊をかわると必ず新しい相手ができた。腐臭を遠くから知る蠅(はえ)のように、それは正確に彼に近づいた。相手同士の鞘当(さやあ)てもあった。それらを彼はひややかに眺めていた。そして彼も南の島に渡った。

 その頃から感覚的な喜びが彼にないでもなかった。それは尾を引く背徳不倫の感と一緒になって、背に粟(あわ)立つような感じであった。彼は時に背囊(はいのう)に秘めた手鏡を取出して眺めた。毛穴の立ったような此の容貌のどこが良いのかと自らを嫌悪する気持に陥ちたが、それは戦争末期の孤島の荒涼たる世界の中では、そんな気持も感傷に思えた。その頃彼はある曹長に愛されていた。

 そんな経験の中で、彼はその意図をもって近づいて来る男をひとめで弁別できる直覚をつくりあげていた。多数のなかから一瞥(いちべつ)で指呼し得た。その瞬間に彼の全肉体は、不知不識(しらずしらず)の中にそれに呼応するようにうごいた。自ら気付いて浅間しいと思うのだが、肉体がそれを裏切った。肩の力をおとし、四肢からだるく力が抜けて来る。もちろん現実の肉体の形には出ず、気持の姿勢に過ぎなかったが、相手は生物の敏感さでそれを感知するらしかった。この男とのこれから先の経過を、彼はもはやひややかな心で計量し始めている。そして同じような態度と言葉遣いで近寄ってくる逞(たくま)しい肉体を、手練手管を知りつくした娼婦の心で彼はさげすむのであった。しかも自分の冷たさが充分の魅力であることも、それ故にかえって相手の心をかき立てることもはっきりと知っていた。

 ――烏子と最初会った時もある感じがあった。それは体臭から来るあの曹長への類推が、鳥子の頑丈な体軀の印象にたすけられて、彼にそんな錯覚を起させたものらしかった。それは倒錯した感じではあったけれども、背徳の感じはなかった。彼は四肢がぬけて行くようなあのだるい感じを遠くかんじながら、鳥子の強い視線を受けていた。此の女は組しやすいという考えが頭のどこかで動いていた。

 しかしそれも完全な錯覚にちがいなかった。鳥子がそんな簡単な女でないことは、判るのに日時を要さなかった。そして彼は無意識の中に鳥子の本態を知りたいと努めていることに気付いた。夜の対座で彼はわざと鳥子に冷淡な態度をとっていた。女から見透されまいと思うからであった。そんな彼を鳥子はふしぎな微笑で眺める。すると彼は独相撲(ひとりずもう)だと判りながら変にいら立って来るのであった。

 しかし鳥子への関心は、彼が鳥子と逢(あ)っている時だけであった。姿が見えないと彼はこの更年期の女の存在を忘れてしまう。想い出すことがあるとすれば、それは花子の母親としてであった。その意味では、あの異相を持った花子の存在は、当初から大きく彼の心を占めているようであった。

 

 此の家のある一帯は焼けた様子もないのに、何故花子にだけ顔に火傷の跡があるのかと、彼は初めからそれを疑間におもっていた。ある夜鳥子が空襲の話をした時彼はさり気なく言葉尻をとらえてそれを聞いてみた。そのとき鳥子はふと緊張した表情をつくった。鳥子は彼の部屋で色々話しこむくせに、不思議に娘の花子の事にはほとんど話題をふれなかった。彼はその時鳥子がその表情の中で、ある強い感情を押えようとする気配を見た。

 その時の鳥子の話はこうであった。花子にはもともと許婚(いいなずけ)みたいな男があって、ある爆撃の日にその男のすむ町ヘ沢山焼夷弾が落ちた。それと知って花子は男を救うつもりか、厳重に身装(みごしらえ)してその町へ出かけたというのである。花千が着いた時はそのあたりは一面の火の渦で、うろうろしているうちに火が背後からもあがり退路を絶たれ、ついに顔を焼かれる程の怪我をうけて誰かに救い出されたのだという。

 「何という馬鹿な娘でございましょうね、ほんとに」

 鳥子は溜息とともにそうつけくわえて微笑をうかべた。彼はある痛烈な感じでその話を受取った。彼が黙っていると鳥子がかさねてつけ加えた。

「あんな顔になりましてから、神の道にでも入れば宜しゅうございますものを、昔を忘れようという積りでございますか、アルバムのなかから自分のもとの写真だけを全部剝(は)ぎとりまして、庭先で皆燃してしまったんでございますのよ」

 彼は鳥子の祈禱(きとう)に背をむけている花子の姿を思い浮べていた。神の道に入ればいいといった鳥子の口調は、匙(さじ)を投げたといった風の詠嘆があったが、彼の瞼裏に浮んで来るその花子の姿勢は拗(す)ねたという感じではなかった。縁側にむけた背には意志的な冷淡さがあった。そこには一脈の哀れさがあるとも見えたが、心理的な類推から生ずる哀れさではなかった。何か昆虫などが持つような、非情の哀れさであった。

 同じ家の中に起居する同居人として彼は花子に近づき、そして隔てなく話したり冗談をすら取りかわす間柄に今はなっていた。最初の日花子に会った印象、あの理由のない贖罪(しょくざい)の感じはほとんど彼の心から消えかかっていた。消えかかるというよりは外の感じに変形しはじめていた。花子は自分の容貌がこんなになった事を、少しも悲しんでは居ないようであった。少くとも今は彼にはそう見えた。花子の声が明るい声だと思ったのは顔の印象が暗いからそう感じたので、つき合ってみると本当は冷たい澄み切った声だった。表面だけはすべてを言葉でそして人を小馬鹿にした口吻(こうふん)で割切っていた。いわば花子はこの家の形のように、自分の心からも玄関や厠(かわや)を切捨てた感じであった。しかし彼は時折花子と冗談を交しながらも、何か確めたい念でことさら視線を花子の顔に置いた。しかし花子の表情にはすこしも不幸の影はないょうであった。ないにも拘らず彼は花子から不幸の臭いを嗅ぎ出そうと努めている自分に気付いた。俺はやくざな犬みたいだ、と彼は思うのであった。

(此の女は仮面をかぶったつもりで安心しているのではないか?)

 躑躅(つつじ)の花蔭で肉体をあらわして恥じないのも、花子の童女的な無心からきているのではないかと彼は思ったことがある。そのような無心さに見えるものは確かに今の花子にあった。しかし花子が顔を焼いたのも許婚の男故だという話を聞いて以来、その無心さも彼には疑わしい気がしていた。けれども花子は何の身振りもないさばさばした態度で彼に立ち向っていた。

 それにも拘らず彼は花子が不幸であるに違いないという念を捨て切れないでいたのである。それは単に花子の異形から来るのではなかった。彼の胸の中に造り上げられた過去の花子の像と、現在の花子の姿の間に横たわる空白の距離を思うゆえであった。花子が写真を全部焼いたという話が、鋲(びょう)のように彼の胸に突きささっていた。花子はそれで過夫を全部消したつもりでいる。そう思うと彼は痛烈な喜びとも悲しみともつかぬ感情が胸につき上げて来るのを感じるのであった。花子は全部焼き尽した積りでいるが、少くとも一枚だけは地上に残っている。それを花子は知らない。その一枚を、彼が持っている!

 離れの部屋の行李(こうり)の中に、彼は一枚の手垢(あか)に黒ずんだ写真を初めからひそかに秘め隠していた。それは花子の十七歳の時の写真であった。大きな綺麗(きれい)な眼をしたその花子は、ふくよかにわらっている。それは三年前南の島の酒場で、その夜初めて会った鬼頭兵太郎の船員服のポケットから、兵太郎の泥酔に乗じて盗みとったものであった。勿論一夜の行きずりの一船員からそんな写真を掠(かす)めとる気になったのも、彼のすさんだ悪戯(いたずら)心に過ぎなかった。けれども彼はそれからの長い荒くれた生活の中でも、不思議に此の写真だけは手離さないで来た。彼は時々それを取り出して眺めた。それは再びもどって行げない世界への郷愁を伴って、彼の瞼に次第に色濃く焼きついて来るようであった。戦局が苛烈になり死が間近に意識されて行くのに比例してその感じは募った。死への不安を韜晦(とうかい)する為にも意識を他の一事に凝集することが兵隊の本能的な必要事であったが、彼の場合は此の写真がそれであった。山中に追い込められて飢餓に苦しみながらも、彼は之を守袋のように身体に秘めていた。そして戦争は終った。

 此の家にやって来て、花子がこんな異相になった事を知った時の感じを、彼は今でもはっきり想い出せる。それは形あるものが頽(くず)れ壊れて行くのを探りあてたような感じであった。自分がこうして生き残るためには、こんな犠牲が必要であったのかと、その夜彼は乾いた口の中で呟(つぶや)いたが、その感傷も彼の胸の中だけに投影し、胸の中だけで散乱した。それは彼だけの問題であった。現実の花子とは何の関係もなかった。現実の肉体を具えた花子に対して、彼は新しい関心をもって接触し始めていた。

 鳥子から花子の話を聞いてから一週間ほどもたった。どんな話のきっかけだったか忘れたが、彼は花子にその事を訊ねてみた。花子は苑にしやがんで花卉(かき)をいじっていて、彼はその側に立っていた。花子の背中の白い筋肉が彼の眼から見下せた。

「空襲の中を許婚(いいなずけ)の人を探しに行ったそうじゃないか」

「誰がそんなことを言ったの」

「大した情熱だと感心したんだよ」

「お母さんだ。きっとお母さんだ」

 使っていたちいさな花剪(はなきり)を取りおとして立ちあがろうとしたが、又思い直したように腰をおろした。花剪を拾いあげて小さな花をパチンと切り落した。そして平静な声で言った。

「あれはね、そんなんじゃないのよ。私は火事を見るのが好きなのよ。私は火事を見物にいったんだわ」

「だってそこに許婚はいたんだろう」

「お母さんだね、そんな事を言ったのは」

 彼は花子のしろい襟(えり)筋を這う一匹の黒蟻をながめていた。しろくなめらかな襟足であった。花子は暫(しばら)く黙っていたが、とつぜん早口で言った。

「あの男のことだって、お母さんは私を嫉妬していたのよ。私はその男は好きでもなんでもなかった。お母さんは誤解しているのよ。私があの男にかかわると気狂いみたいに怒ったわ。そんなのあるかしら。あの日だって火事見にゆくと言ったら、カンカンになって私をとめようとしたのよ。とめるから私は行っちまった。あの男の町が燃えてるということ、そんな事は私は心配じゃなかった。ただ街が壮烈に燃え上るところが見たかったのよ。その男のことを心配してたのは、むしろお母さんよ。心配して心はおろおろしている癖に、平気そうに落着いたりして、そして私が行こうとすると怒るの」

「で、男は焼け死んだの?」

「どうだか知らない。その後訪ねて来ないから死んだんでしょう。私も危く死ぬところだったのよ」

「どうしてそんな危いところまで行ったんだね」

「だってしかたがなかったわ。いつの間にか火が取り巻いていたのよ。気がついた時は病院にいたわ。お母さんがやってきたけれど、お母さんの顔ったらよその人みたいな気がしたわ」

 彼は花子の横顔を探るようにながめていた。花子は掌を上げて蟻(あり)を払いおとすと、ゆっくり立ち上った。そして花を手にそろえたまま縁側の方にあるいた。絹靴下に包まれた脚の形はすんなりと美しかった。縁に腰をおろすと彼の方に顔を振りむけた。

「私何だか詰らない事をおしゃべりしたようね。詰らない事聞くんじゃないわよ」

「お母さんが基督(キリスト)教になったのは、その時からなんだね」

ふと思い付いて彼は訊ねた。

「あら、何故? それはずっと前からよ。お父さんが生きてるときからよ」

「お父さんはまさか、基督教じゃなかっただろう」

 花子は短い笑声をたてた。

「お父さんはね、そんなものを信じるものですか。もっと立派なの。私に色んなことを教えて呉れたわ。でも船にばかり乗っていて、ほとんど家によりつかなかったわ。神戸にお妾がいたの。それを知ってからお母さんは基督教になったのよ」

 彼は沓脱石(くつぬぎいし)の上に立ったまま、ぼんやり家の内部を見廻していた。縁側に沿って六畳と四畳半がある。奥の八畳はからかみに隔てられて見えない。彼は今ずかずかと上り込んでそこを開き、内部を一眼見たい欲望にかられていた。

「此の家はお父さんが造ったんだね」

「そうよ。自分で設計したのよ」

「お父さんは何故、厠(かわや)を造り忘れたんだろうね」

「忘れたんじゃないわ。忘れるもんですか。初めからわざと省(はぶ)いてあったのよ」

「何故省いたのだろう」

「そのうちにつくるつもりだったんでしょう」

 事もなげな口調であった。此の言葉は、ふと鮮かに兵太郎の俤(おもかげ)を彼の頭によみがえらせていた。

 暫くして彼は離れに戻って来た。しき放した毛布の上にあおむけになり、彼は眼を閉じた。

 ――花子は鳥子を憎んでいるな。

 彼は冷やかにそう思った。自分と関係ない愛憎を眺める時、彼は本能的に距離をつくるのが習慣であった。そのことは彼に氷のような喜びをもたらすのであった。彼は鳥子が花子のことを話した時の、表情の緊張を想起していた。それは鳥子の方も花子に対してひとつの構えを持っているしるしであった。

 彼の目に大きく今鬼頭兵太郎の俤が浮び上って来る。

 それは南方の或る島の、小さな港にあった酒場であった。酒場というより居酒屋といった方が良い位の汚ない所だったが、そこで彼がひとりへんな臭いのする地酒を飲んでいると、すでに酔っぱらった兵太郎が入ってきた。防暑服を着た大きな体に薄いレインコートをひっかけていた。身体のこなしに船員特有の無雑作さがあった。いきなり彼の卓に近づくと、

「酒を飲む時は胸を張って飲むんだ、胸を」

 彼の肩を頑丈な掌でぴしぴしと打った。それから二人は同じ卓で飲んだ。初対面でそんな態度だから、初めは粗暴な男かと思ったが、一緒に飲んでみるとそうでもなかった。もう相当年配らしかったが、笑うと眼尻のあたりが無邪気だった。こんな事も飲みながら言った。

「日本は敗けるね。どの途(みち)勝ちっこは無い」

 此のような言葉を弄するのは兵隊の中にも間々(まま)いたから、その類の逆説をよろこぶ単純な露悪家かとも思ったが、次の言葉をきいて彼は少し驚かされた。

「そして俺はそれを望むんだ。早く日本が亡びてしまえばいいと思っている」

 何故と不破が問い返したら、兵太郎は、日本は嘘(うそ)付きだからだ、と答えた。

「領土が欲しいなら、そう言って戦争始めたら良いんだ。それに共栄圏とか領土に野心を持たぬなどとか、偽善だよ。偽善はいけないよ。本当の事言わなくちゃならん」

 それから色々話をした。兵太郎はひどく酔っぱらって軍人の悪口をずいぶんした。軍人だって人間ではないか。大義に生きる、などという言辞を誰が信ずるのか。死ぬのに何故そんな言い訳(わけ)が必要なのか。

「俺はまわりくどい事は全部嫌いさ。単純でないものは全くやり切れん。自分の此の眼で見るんだよ。(彼は自分の眼を指さした)此の眼で捕えたものだけが本当だよ。その他のものは信用出来ん」

 俺は鬼頭兵太郎だ、船員の兵太郎だと、その時始めて名乗った。そして彼の革手帳に東京の住所を書き付け、帰還したら遊びに来いと言った。

 ポケットから娘の写真を出して見せびらかしたのもその時である。それから彼は娘の自慢をした。そんな時は楽しそうであった。兵太郎はそして不破の顔を見ながら、君は女みたいな顔をしているな、と言った。

「ほんとに女みたいな身体つきをしているな。兵科はなんだね。あててやろうか。衛生科だろう。衛生科には、よく君みたいのがいる」

 泥酔した兵太郎をかかえて、酒場を出て船着場まで歩き、其処でわかれた。花子の写真はその時抜き取ったのである。その後彼は兵太郎と再び会わなかった。――

 一夜会っただけにしては、兵太郎の印象は彼の胸に深く残っていた。あの時兵太郎は花子の自慢をしたついでに、ふと淋しそうな自嘲の色を浮べて、俺はしかし結婚には失敗したよ、と呟(つぶや)いた。聞き取れない位低い呟きだったが、不破はそれをはっきりと心にきざんでいた。

 兵太郎の肖像画はしかし、鳥子のあの八畳間に額となって掛けられている筈である。不破はそれを眼で見た訳ではない。しかし知っている。太郎が書いた綴方で読んだのである。その綴方というのは、彼が太郎から賭博でまきあげたものだ。

 勤めの方も、だんだん彼は情熱をなくしていた。なんだか事務所も戦前とちがって、おそろしく内容が乱れているらしく、ほとんど仕事らしい仕事も、彼には与えられなかった。余計者という感じが、つねに彼にまつわっていた。この感じは、すくなからず彼をくるしめた。

 昼過ぎには家に戻り着く日が、こうして多くなった。鳥子は勿論何時も留守だが、花子も何処かへ出かけて居ないことがある。そんな時太郎は何時も彼の部屋にやって来た。扉を細目に開いて太郎の大きな頭がのぞく。太郎が覗(のぞ)く時は決って二人が留守の時だから、彼も安んじて厩(うまや)の中に入って行く。藁(わら)に半身埋もれて代る代る骰子(さいころ)を振るのであった。

 子供を相手にしてという自嘲が時に湧かぬでもないが、それを圧するひそかな楽しみがそこにあった。賭博をやって居る時の太郎はふしぎに彼に子供を感じさせなかった。大人の感じかといえばそうでもなかった。沈欝な容貌で巧妙に骰子を振る。彼も一所懸命だが、大抵勝負は同率であった。

 その日は彼の勝ち番であった。彼は太郎の金を全部捲き上げていた。太郎は憂欝そうにポケットをあちこち探し、そして折り畳んだ紙片を彼に差し出した。

「よし、これを賭けた」

 骰子を振ってそれも捲き上げた。紙片を拡げて見たら、稚ない字で文が綴ってある。僕の家という題の太郎の綴方であった。

 

 ボクノ家ニハ庭ガアル。イチジクノ木ガアリマス。オカアサンハ毎日ハタラキニ行キマス。ネエサンハ色ノシロイ女デス。オ父サンノシャシンガカケテアリマス。八丈ノヘヤノカベノ上デス。馬ゴヤニハウマガイマス。畠ハボクガツクルガネエサンハカッテニ切ッテシマウ。

 

 これで終っていた。欄外に赤インキで、平仮名で書きなさい、と教師の字で書いてあった。彼が読んでいる間太郎は少し照れてもじもじしていた。

「お母さんを好きかい」

「きらいだよ」はっきりした返事だった。

「何故」

「嘘ばかりついてるからさ」

「嘘って、君につくのか」

「ううん」曖昧に首を振ったが急に怒ったように「それ返してくんねえか」

 彼はも一度綴方の上に眼を落し、それを丁寧(ていねい)にたたんでポケットに入れた。太郎の眼がそれを追った。

「姉さんは好きかね」

 太郎は眉間に皺(しわ)を寄せて黙っていたが、何か思い付いたように言った。

「姉さんが小父さんのことを言ってたっけ」

「へええ。何と言ってたね」

「姉さんは昔はあんな顔じゃなかったんだぜ」急に声をひそめて秘密を語るような顔であった。

「知ってるさ。で、何と言ったんだ」

 太郎はずるそうな笑い声を立てた。そして言った。

「綴方返して呉れるなら教えてやるよ」

「あんなことを言ってる。姉さんが何も言うもんか。太郎も嘘付きだからな。何も言やしないんだろう」

 太郎はふと顔を彼にむけて、まっすぐに眼を据えた。眼が濡れたようにキラキラ光って彼を押した。それはあの鳥子の眼にそっくりだった。怒ったのかと彼はひるみ、なだめる言葉を思わず口にしようと思った時、急に太郎は立ち上って出口の方に後すざりしながら表情を卑しく歪めた。しかし眼は彼に釘付けしたままだった。卑猥に唇を曲げて嘲弄するような口調であった。

「やあい。気にしてら。やあい。教えてやろうか。ほんとに教えてやろうか」

「ああ、教えて呉れ」

 彼は静かに言ったつもりだった。太郎は午後の日射しに影を黒く地上に躍(おど)らせながら、そのまま後すざりして逃げて行った。彼は藁(わら)に半身埋めたままそれを見送った。藁の温(む)れた臭いが身体の四辺に立てこめていた。

 しかしそれからも太郎は、皆が留守になると平気な顔で大きな頭を扉口にのぞかせた。そして彼も平気な顔で太郎を連れて厩(うまや)の中に入って行った。綴方の事は太郎はもう忘れたように見えた。

 時々彼は夜が更けて太郎の綴方を取り出して読んだ。そして何時も、姉さんは色が白い、という箇所まで来ると、花子の顔は代赫色(たいしゃいろ)ではないかと思うのであった。しかし太郎が言うのは花子の身体の色のことかも知れなかった。そう考えると直ぐ、彼は代緒色の仮面に似た顔の下に続く花子の肉体を聯想(れんそう)した。形の良い脚や蟻のはっていたしろい背筋や、夜中厩に来るのを節穴から覗いた情景が、なまなましく浮び上って来る。彼は行李(こうり)の中から垢(あか)染んだ写真を出して長いこと眺める。花子の肉体に激しい興味を持ち始めていることを、今彼は一種の戦慄を伴って自覚するのであった。しかしそれは現実の花子に対してなのか。それを思うと彼は惑乱した。

 最初花子を見た時のあの感じは、既に彼の心の中で形を変えていた。それは奇妙なことだったが、憎悪の感情に酷似しているのだ。彼は花子の異相を見ると何か復讐じみた気持が幽(かす)かに起って来るのを感じていた。しかしその気持は一皮剝(は)げばあの贖罪(しょくざい)の思いに他ならぬことも彼は肉体でもって感じていた。

 あの南の島の汚辱に満ちた生活の間、彼は花子の写真に対して、しばしばある罪を犯していた。しかし彼の今の感じでは、その瞬間だけは純粋であった。それは汚辱の記億としてではなく、清冽(せいれつ)な高揚として彼の気持にとどまっている。何故あの数々の汚れた行為が清潔に思い出されて来るのか。彼はそう考えると、もはや破局的な予感なしには花子の肉体を思い浮べることは出来なかった。

 戦場にあった時と同じように、ふたたび自分をじりじり辷(すべ)りおとす傾斜のようなものを、彼は感じはじめていた。彼はひとりでいるときなど、そこから脱出する自分を思いふけっていたりした。その意図のなかでは、彼は奇妙なことだが、あの老馬にまたがって、ドン・キホーテのように果てしなく歩きつづけていた。そのような空想に乗っているのを意識すると、彼はなんとなくいやな気がした。(第一章終)

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