「續沙石集」巻一「第六 夢中現映像事」(単発公開)
[やぶちゃん注:本書は鎌倉時代の無住の仏教説話集「沙石集」を範として、江戸後期浄土真宗仏光寺の僧南溟が書いたもの。全六巻・六十二話。延享元(一七四四)年京都で板行された。本話は作業中の『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」』に必要となったため、単発でここに電子化した。急いでいるため、注は附さない。
底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらから映像を視認して起こした。カタカナをひらがなに代え、読みは送り仮名で出すなどして、一部に留めた。句読点は私が、適宜、附し、段落も成形した。漢文脈部分は後に( )で訓読を示した。「*」は、以下が、筆者評言となるので、挿入した。「源氏物語」の「葵」の帖からの引用部は前後に「――」を入れた。]
第六 夢中現二映像一事(夢中(むちう)に映像を現ずる事)
中京(なかぎやう)のる或人の内に居(ゐ)たる女、その主人の親屬なる人の男と、そのびに情(こゝろ)をかよはして、末の松山、波こさじ、約(ちぎり)けるが、彼(か)の男、本妻を迎へんとするの相談をきゝけり。
此の女、頻りにうらめしく、心のうちは、もゆるばかりなれども、流石(さすが)に、人、しんじて、契(ちぎ)りし事なれば、柰何(いかん)ともしがたく、埋火(うづみび)の下にのみこがれ侍りて、其の夜も卧(ふ)したるけるが、半夜(よなか)、まへになり、此の女世におそろしげなる聲して、呌(さけ)び、起きたり。枕をならべて卧したる傍輩(ほうばい)の序し(おなご)ども、其の聲に驚きて、各(おのおの)目をさましぬ。此の女、汗水になりて云ひけるは、
「何町通(なにまちどほり)何町(なにてう)の門(もん)を超えて向ひの方(かた)へゆかんとするに、向うより、人の來たるあり、是れ故に、傍らにかくれんとするを、彼(か)の人、來たる人、劔(つるぎ)をぬきて、我れを一打(ひとたち)にきりつくる。我れ、まさにきらるゝと思ふと、夢みて、今、覺めたる。」
と、かたる。
扨(さて)、夜明けて、此の女、
「件(くだん)の物思ひありて、夢をや、見つらん。」
と、傍輩の中に別(べち)して親しき者に密かに物語りして居たりけるに、外(ほか)より、人、きたりて、云はく、
「今日は、珍らしき事ありて、只今まで、其の事にかゝりて、往反(わうへん)せり[やぶちゃん注:あちこちを行ったり来たりで閉口した。]。昨夜、更けて、半夜(よなか)まへ比(ころ)、我が相ひ識りたる醫者、何町通何町の門を通りすぎんとする時、髮をさばきて、世にうらめしき樣(さま)したる若き女、行き違はんとして、又、たちかへりて、傍らにより、かくる。醫者のこゝろには、
『何者ぞ、もし、狂氣したる者か。』
とみれば、人に、かくれんとする躰(てい)あり、又、影の如くにて、進退に、脚音(あしおと)、なし。
『化(け)したる者か。』
と思ひ、聲、掛をかけて、とがめても、物、いはず。其の間(ま)に、身の毛、卓竪(いよだち)て、をそろしかりければ、帶劔(たいけん)を拔きて、きりつけたり。
忽ち、きえて、其の人、なし。
よりて、劔(つるぎ)を、すて置きて、此の醫者、かへり、其の劔を、今朝(こんてう)より、其の町へ、ゆきて、『たまはれ。』と云ふに、『捨てたる劔、聊爾(れうじ)には[やぶちゃん注:そういい加減には。]、かへすまじ。』と、むつかしくなりて、漸(やうやう)、只今、事、すみてげり。」
と。
*
其の所、其の町(てう)の名も、たしかに聆(き)きぬれども、尚(まだ)十年にだも事ふりぬ故に、わざと其の町(てう)、所の名を、もらしぬ。
されば、此の女、彼の男をうらみ、思ひねにせし一念、影のごとく、人目に見ゆるばかり、あらわれ、男のもとにゆかんとする途中にて、醫者にきりつけられ侍りるに究(きは)まれり。珍しく思ひて、此の事はきゝしより、わすれず、今、書き付け侍るなり。
朝綱(あさつな)「婚姻賦」に、「彼情感之好通雖二父母一難二禁禦二」(彼(か)の情感(ぜうかん)の好通(かうつう)は、父母(ぶも)と雖も、禁禦し難し)と見えて、男女の閨怨(けいゑん)、互ひに大方(おほかた)ならず。
これが爲めに、命(いのち)を失ふ事、多し。
其の内、別して、思ひつめて、晴方(はるゝかた)なきは、女の情(ぜう)なり。
――六條御息所(ろくでうのみやすどころ)、嫉妬の思ひ、深く、御座(ましま)して、葵上(あほひのうへ)を、なやまし玉ふ時、光君(ひかるぎみ)、さまざま、なぐさめ玉ふに、葵上の御氣色(ごきしよく)、かはりて、
「いてあらずや、身(み)のくるしきを、やすめ玉へ。」
と聞くらんとてなん、
「かく參りこんとも、さらに思はぬを、物思ふ人の、たましゐは、實(げ)に、あるかるゝものになん有りける。」
と、最(いと)なつかしげにいひて、
なげきわび空(そら)にみだるゝわが靈(たま)をむすびとゞめよしたがひのつま
と、の玉ふ聲、けはい、其人にも、あらず、かはり玉へり。
『最(いと)あやし。』
と、おぼしめしぐらすに、只(たゞ)、
『かの御息所なりけり。浅ましく人の兎角いふを、「よからぬ者どもの云ひ出づること。」と聞きにくゝおぼしてのたまひけつ[やぶちゃん注:「消(け)つ。」]を、目に、みすみす、世には、かゝることこそは有りけり。』
と、うとましくなりぬ。――
と、「源氏物語」に見えたり。
されば、女の一念、みづから、あらはれて、恨みをなし、或ひは、人につきて、其の怨みをかたること、古今にわたり、上下に通じて、其ためし、まゝ多く、寔(まこと)に是れ、をそろしき者なり。元來、「女」と云ふ字は、女の心の、こだはりて一すぢなるにかたどりたるにて、六書(りくしよ)の中には象形(しやうげう)の字なり。佛經の中には、ふかく女をいましめて、『たとひ、毒蛇にはちかづくとも、女人には、ちかづくこと、なかれ。』と見えたるも、宜(むべ)なるかな。
*
大修館書店「廣漢和辭典」の「女」の「解字」には『両手をしなやかに重ねひざまずく女性の象形』とあるが、「語家族」の部分の最後に』『努や怒は奴から派生した語であろう』とはある。しかし、ここで南溟が言っているような、字義は「女」の本来の字素にはない。仏教上の差別的な「変成男子」(へんじょうなんし)思想を勝手に託けたものであろう。「六書」は言わずもがな、漢字の成立と使用についての六種の分類。象形・指事・会意・形声・転注・仮借。]
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