泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版(「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿と夥しく異なるという驚愕の事実が判明した) / 附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」
[やぶちゃん注:泉鏡花の芥川龍之介の葬儀で本人によって読まれた自死の三日後、谷中斎場にて昭和二(一九二七)年七月二十七日午後三時から行われた葬儀で、先輩総代として第一番に本人によって読まれた弔辞である。以下に示したものは、その自筆原稿で、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著になる「年表作家読本 芥川龍之介」に載った画像で、それを元に電子化した。なお、パブリック・ドメインの著作物を平面的にそのまま写した画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の見解である。岩波の「鏡花全集」巻二十八(一九四二年刊)と校合したが、驚くべきことに、句読点以外(現行より遙かに多く打たれてあり、句点と読点の相違も数多ある)では、現行、知られているそれとは、異様に激しい異同があることが判明した。以下に示す。下線は重大な異同と私が思うものに附した。
①原稿標題はあくまで「弔辞」であるのに、現行では「芥川龍之介氏を弔ふ」となっている。
②原稿冒頭「玲瓏明哲」が現行では「玲瓏(れいろう)、明透(めいてつ)」と書き変えられてある。
③原稿の「其の文」が、現行では「その文」と「其」がひらがなになっている。
④原稿「名玉、文界に輝ける君よ。」が、現行では「名玉山海(めいぎよくさんかい)を照(て)せる君(きみ)よ。」と激しく異なっている。
⑤現行のものは最後の一文のみを改行してあるが、原稿では全部で三段落が形成されてあり、行頭の字空けはどの段落にも存在しない。
⑥原稿の「巨星天に在り」の前に、現行ではこの前に「倏忽(たちまち)にして」とある。
⑦同前の箇所で「在り」は、現行では、ひらがなで「あり」となっている。
⑧原稿では「異彩を」とある部分が、現行では「光(ひかり)を」となっている。
⑨原稿の「密林」が現行では「翰林(かんりん)」となっている。
⑩原稿の「敷きて」が現行では「曳(ひ)きて」となっている。
⑪原稿の「とこしなへ」が現行では「永久(とこしなへ)」と漢字になっている。
⑫原稿の「手を取りて」が現行では「手(て)をとりて」となっている。
⑬原稿の次の「其の容を」が現行では「その容(かたち)」と「其」がひらがなになっている。
⑭同前で次の「其の聲を」が現行では「その聲(こゑ)を」となっている。
⑮原稿の「秋悲しく」が現行では「秋深(あきふか)く」となっている。
⑯原稿の「其の靣影」が現行では「面影(おもかげ)」だけで「其の」を外してある。
⑰原稿の「代うべくは」が現行では「代(か)ゆべくは」となっている。
⑱原稿の「いふものぞ」が現行では「言(い)ふものぞ」と漢字になっている。
⑲原稿の「令郞」が現行では「遺兒(ゐじ)」と書き変えられてある。
⑳最後の一文終辞「辭」(ことば)「つたなきを羞」(は)「ぢつゝ、謹」(つゝしん)「で微衷」(びちう)「をのぶ。」は現行では、段落を成していない。
㉑岩波「鏡花全集」では編者によるクレジットは『昭和二年八月』となっている。
その㉑から、後に本「弔辞」が雑誌に収録されるに際して、鏡花自身が大幅に書き換えたものであると推察出来る。しかし、弔辞とは作品ではない。あくまで一回性のものである。書き変えられる謂われは、明らかな誤字以外はあってはならないものと私は考える。恐らく多くの芥川龍之介及び泉鏡花の愛読者は、書き変えられた弔辞が芥川龍之介の葬儀の場で読まれたと思っているはずだ。これはどうしても言っておかねばならぬと感じた。なお、弔辞原本には当然の如くルビは全くない。以下でも、それに従った。]
弔辞
玲瓏明哲、其の文、その質、名玉、文界を輝ける君よ。溽暑蒸濁の夏を背きて、冷々然として獨り凉しく逝きたまひぬ。
巨星、天にあり、異彩を密林に敷きて、とこしなへに消えず。然りとは雖も、生前手をとりて親しかりし時だに、其の容を見みるに飽かず、其の聲を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何せむ。おもひ、秋悲しく、露は淚の如し。月を見て其の靣影に代うべくは、誰かまた哀別離苦をいふものぞ。
高き靈よ、須臾の間も還れ。地に、君にあこがるゝもの、愛らしく賢き令郞たちと、溫優貞淑なる令夫人とのみにあらざるなり。辭つたなきを羞ぢつゝ、謹で微衷をのぶ。
昭和二年七月二十七日
泉鏡太郞
●参考(「鏡花全集」巻二十八所収の「弔詞」パートの「芥川龍之介氏を弔ふ」。編者によるクレジットが昭和二(一九二七)年八月として標題下方にある。ルビにある踊り字は正字化した)
芥川龍之介(あくたがはりうのすけ)氏(し)を弔(とむら)ふ
玲瓏(れいろう)、明透(めいてつ)、その文(ぶん)、その質(しつ)、名玉山海(めいぎよくさんかい)を照(て)らせる君(きみ)よ。溽暑蒸濁(じよくしよじようだく)の夏(なつ)を背(そむ)きて、冷々然(れいれいぜん)として獨(ひと)り涼(すゞ)しく逝(ゆ)きたまひぬ。倏忽(たちまち)にして巨星(きよせい)天(てん)に在(あ)り。光(ひかり)を翰林(かんりんりん)に曳(ひ)きて永久(とこしなへ)に消(き)えず。然(しか)りとは雖(いへど)も、生前(せいぜん)手(て)をとりて親(した)しかりし時(とき)だに、その容(かたち)を見(み)るに飽(あ)かず、その聲(こゑ)を聞(き)くをたらずとせし、われら、君(きみ)なき今(いま)を奈何(いかん)せむ。おもひ秋(あき)深(ふか)く、露(つゆ)は淚(なみだ)の如(ごと)し。月(つき)を見(み)て、面影(おもかげ)に代(か)ゆべくは、誰(たれ)かまた哀別離苦(あいべつりく)を言(い)ふものぞ。高(たか)き靈(れい)よ、須臾(しばらく)の間(あひだ)も還(かへ)れ、地(ち)に。君(きみ)にあこがるゝもの、愛(あい)らしく賢(かしこ)き遺兒(ゐじ)たちと、温優貞淑(をんいうていしゆく)なる令夫人(れいふじん)とのみにあらざるなり。
辭(ことば)つたなきを羞(は)ぢつゝ、謹(つゝしん)で微衷(びちう)をのぶ。
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