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2022/05/29

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「アイヌの珍譚」

 

[やぶちゃん注:本論考は初回本篇が大正三(一九一四)年九月発行の『人類學雜誌』二十九巻九号に初出され、「追記」が大正五年二月の同誌(三十一巻二号)、「補遺」が大正六年十月発行の同誌(三十二巻十号)に追加されたもので、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に三篇全部が収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は本篇は所持する平凡社「選集」版のそれを二〇一三年にブログ電子化注して公開している。今回は底本が異なるので、全く零から電子化し、注もそれを全く参考にせず、独自に附した(というより、恥ずかしいことだが、最後の最後になって、電子化注をしていることを思い出したからに過ぎないのであった)。本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

    アイヌの珍譚

 

 人類學雜誌二九卷五號一九六頁に吉田君言く、沙流アイヌの老人常に語るらくメノコ、コタン島、女子のみ住で男無し云々、「最上德内この島に入って怪を探る、女陰に齒有り秋葉凋落と共に脫つ、斯くして年々生ず、試に短刀の鞘を以てす、鞘疵つくを見るに人齒の痕に異ならず」、斯る話、蝦夷近き奧州にも行はれたは、根岸守信の耳袋卷一に出たので知れる、云く、「津輕の家土語りけるは、右道中にカナマラ大明神迚黑鐵の輪伽を崇敬し、神體と崇めける所有り、古へ此所に一人の長有しが夫婦の中に獨りの娘を持ち、成長に從ひ風姿類なし。外に男子もなければ聟を撰んで入れけるに、如何なる事にや、婚姻整へ侍る夜卽死しけり、其より彼是と聟を入れけるに、或は卽死し或は逃げ歸りて閨房空しくのみ成りし故、父母娘に譯を尋ぬれば、交りの節或は卽死し又は怖れて迯歸りぬ、我も其譯知ずと答へければ、父母も歎き暮しけるが、迯歸りし男に聞し者の語りけるは、右女の與仁に鬼牙有て或は食切或は疵を蒙りしと云、此事追々沙汰有りければ、或男此事を聞て我聟に成らん迚、黑鐵にて輪伽を拵へ、婚姻の夜交りの折柄右の物を入れしに、右黑鐵の輪伽に食付しに牙悉く碎け散て殘らず碎ける故、其後は尋常の女と成し由、右黑鐵の陽物を神と祝ひ今に崇敬せしと語りし」是等孰れも誇大に過た話だが、發達不完全等で多少本話類似の障礙ある女體世に少なからず、本邦にも現に往々其例有るは屢ば醫師より聞く所ろだから、アイヌ譚も津輕の傳說も全く根據なきには非じ。凡そ民族人種の異なるに隨ひ彼處の相好結構亦差異有り、例せばハーンの目擊談に、北米のデネ隂甸の或族人が他族人を殺して其屍を扱ふの法猥にして語るに堪ず、殺されし者女人なる時殊に甚し、是れ他族の女根全く自族の者と異樣なりとて之を評論審査するに因ると(Morice, “La Femme chez les Dénés,”  Transactions du Congrés internationale des Americanistes, Québec, 1907, p.374)。曾て信ずべき人より、日本女と支那女は單に與仁を見たのみで識別し得と聞た、又佛經に五不女を說く中に角者有物如角、一名陰梃、是は Otto Stoll, ‘Das Geschlechtsleben in der Volkerpsychologie, ’Leipzi, 1908, S.546 に、南非加北米南洋等の或民族に普通だと見えた、陰唇の異常に挺出した者だらう。其最も著名なは南非のホツテントツトの婦人の特徵たる肥臀に伴う前垂(タブリエー)だ(‘Encyclopaedia Britannica,’ 11th, ed., vol.xiii, p.805)。一六七三年筆荷蘭東印度會社の醫士の經驗譚に曰く、ホツテントツト婦人の陰唇懸下して陰囊のごとし。本人之を美として誇る事甚しく、外人其廬に來れば皮裳を披いて自ら其陰相を示すと(William Ten Rhyme, An Account of the Cape of Good Hope and the Hottentotes,in Churchill, A Collection of Voyages and Travels,vol.vi, p.768, 1752)。一八〇四年龍動板 Sir John Barrow, ‘Travels in Southern Africa,’ vol.ii, pp.278-279 に言く、ホツテントツト婦人に名高き陰相はブシユメンにも有り、予輩甞てブシユメンの一群に遭ひしに此相無き婦人一人も無く、少しも風儀を害せず容易に之を觀察し得たり、此諸女の小陰唇延長する事年齡と習慣とに隨ひて差あり、此相、嬰兒に於て纔か之を認むるが、年長ずるに隨て著しく中年の婦人其長さ五吋なるを見たり、然るに實は之よりも長き者多しと云ふ、其色黝靑にして帶赤恰も七面鳥の冠の如く、形及大きさ亦之に類し、外見輪伽の萎垂せるに似たり、歐州婦人の此部は皺摺せるに此土人のは全く平滑なり。隨て其刺激機能を失へる者らしきも、又男子の强凌を捍ぐの利有りて、斯る畸態の機關有る婦女は男子其同意又協力を得るに非んば和合の理無しと。Cornelius de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americains,’ Cleves, 1772, tom.ii, pp.135-136 に、亞非利加の諸國の女子の小陰唇を切除く俗行るゝは、もとこの畸形を除いて婚姻に便を與ふる爲だつたらうと論じ居る。其作法の詳細は Dr.Ernest Godard, ‘Egypte et Palestine,’ 1867, p58 已下に出居り、埃及のカイロ府では十二三歲の女子此方を受け、又田舍では七八歲の時施術するに多くは產婆之を行ふと有る。吾邦にも茄子陰と稱して陰唇挺出せる女がある。吉田君が一九五頁に述られた大酋長の美娘の與仁靈異有て、眠中人來り逼る時聲を放つて之を警戒す。然も娘自身は知らずてふアイヌ譚の根本は、上述の陰梃あるブシユメン婦女は、本人の同意又協力を得ずして、之と會する事を得ずと云ると類似の、或る畸態を具せる娘が實在せしに在たので無からう歟。

      (大正三年九月人類二九卷九號)

[やぶちゃん注:最後の書誌は底本では最終行の下方インデント。本篇は底本では伏字箇所が二ヶ所あるが、「選集」で復元した。但し、一部の生殖器部位の呼称が「選集」とは異なっており、そこは底本に従い、以下で読みその他を注した。また、本題材についての素晴らしい論文を見つけた。『千葉大学ユーラシア言語文化論集』(二〇一八年十二月発行)に収載された、阪口諒氏とウジーニン・エフゲーニー氏の共同論文「陰部に歯のある女性の伝承:サハリンの伝承を中心に」The storis of "Women with teeth in their vagina" in Sakhalin)である(PDF)。是非、一読を強くお薦めする。熊楠の引用や、本篇にも一寸だけ触れられてある。

『人類學雜誌二九卷五號一九六頁に吉田君言く、沙流アイヌの老人常に語るらくメノコ、コタン島、女子のみ住で男無し云々、「最上德内この島に入って怪を探る、女陰に齒有り秋葉凋落と共に脫つ、斯くして年々生ず、試に短刀の鞘を以てす、鞘疵つくを見るに人齒の痕に異ならず」』これは幸い、「j-stage」のこちらで、初出全文PDF)が視認出来る。標題は「アイヌの命名につきて(續)」で、そのPDFの「8」コマ目上段から始まる、「四、陰部に因めるアイヌの說話」中の、下段末尾から次のページにかけての以下の一節である。ソリッドに引く。一部に句読点や記号を入れた。なお、「沙流」(さる)「アイヌ」というのは、北海道南部の日高西端を北東から南西に流れる沙流川(さるがわ)の流域地方(サイト「川の名前を調べる地図」のこちらで流域が確認出来る)のアイヌ民族及び彼らの使うアイヌ方言を指す。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。

   *

ホ、女陰(ぢよいん)を口に見立てたる說 膽振(いぶり)元室蘭フラバナ老爺曰ふ。昔、アイヌの大酋長に一美娘ありき。「オキ・クル・ミ」、夜、密かにこれを挑む。オキ・クル・ミ、戶を排して入らむとすれば、「イツコ・ラム。イツコ・ラム。」と連呼するものあり。「イッコ・ラム。」とは「人の入り來たり。」との意なり。「オキ・クル・ミ」、怪しみ怖れて、『四邊に、人や、ある。』と心を配れど、させるけはひ、なし。更に進み入らむとするに、また、はじめの如し。「オキ・クル・ミ」、空しく歸る。こは、件(くだん)の娘、陰部に一種の靈異ありて、睡眠中といへど、人の危害を加へむとするあれば、かかる警語の、陰部より、自づと發したるものなり。而かも、娘自身には、知らざりき、と。

 沙流アイヌの老爺某々、老嫗某々、常に語るを聞く。曰く、蝦夷島より海を隔てて「メノコ・コタン」と稱する島あり。一島、悉く、女子(をなご)のみ。かつて、男子(をとこ)、棲まず。偶(たまたま)、男子の至るあれば、歡待、いたらざるなし。有名なる殿(との)、最上德内が、アイヌ名の古老に語り傳へし實話に、德内、「メノコ・コタン」に入りて、怪を探る。女陰に齒あり。秋、葉、凋落と共に脫(ぬけ)つ、かくして、年々、生(しやう)ず。試(こころみ)に、短刀の鞘を以つて、す。鞘、疵(きずつ)くを見るに、人齒(ひとのは)の痕(あと)に異らず。女子、戰(いくさ)を好む。銷[やぶちゃん注:意味不明。鎗の誤字か?]の端に鎌をつけて德内を挑む。德内、身を以つて僅かに脫するを得たり。「彼(か)の當時の鎌の疵なり。」とて、親しく肩を脫(ぬ)き[やぶちゃん注:ママ。]露はして、撫(なで)しつつ、アイヌ某々に語りき、と。德内の外にも、彼處(かのところ)に至れるもの、その怪を見る。また、同じ。沙流海岸、今に、往々、シコロの皮、波に打揚げらる。アイヌはこれを「メノコ・コタンのアンバ(浮)」と稱す。この傳說は、石狩アイヌ間にもあり、とか。怪、益(ますます)、怪を產み、兦、愈よ、兦に底止(そこどまり)するなきは、蓋(けだし)、アイヌ說話の常習なりかし。

   *

この「最上德内」(もがみとくない 宝暦四(一七五四)年或は同五年~天保七(一八三六)年)は江戸中・後期にかけての探検家で江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身で、元の姓は高宮(「たかみや」。略して「高(こう)」とも)。諱は常矩(つねのり)。当該ウィキによれば、『実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志し』、『長男であるにも』拘わらず、『家を弟たちに任せて』、『奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後』、『師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として入牢しながら』も、『後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした』『人物でもある。シーボルトが最も信頼を寄せていたといわれる』とある。「シコロ」アイヌ語でムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense のこと。アイヌ料理にはこの実が欠かせないという。「浮」「浮き」か。意味不明。なお、ここに出る「メノコ・コタン島」は所謂、伝承上の架空の「女護が島」・「アマゾネス国」の類いと思われる。「兦」何んと読んでいるか不詳。「にげること」と私は仮に訓じた。

「斯る話、蝦夷近き奧州にも行はれたは、根岸守信の耳袋卷一に出たので知れる、云く、「津輕の家土語りけるは、……」私の根岸鎮衛の同書の完全電子化・訳注附きの内、「耳嚢 金精神の事 / 陽物を祭り富を得る事」がそれ。十三年前の古い作業なので、漢字表記が正字不全だったが、特別にこの記事のみ補正を加えた。「守信」は彼の別名の一つ。

「迚」「とて」。

「黑鐵の輪伽」「くろがねのリンガ」と読んでおく。「リンガ」は「印・記号・標識」を意味するサンスクリット語で、インド思想史上では、様々な意味で用いられるものの、民俗学では、ヒンドゥー教のそれ、「シバ神」の象徴としての男性生殖器に対する崇拝、及び、それを象った神聖像=「陽石」の意で用いられる。アーリア人以外の先住民族の間で、地母神崇拝と合体して広く行われていた比較的原始的な信仰形態・宗教である。リンガ像は通常は女性生殖器をシンボライズした皿のような台の上に、その女性陰部と思しい部分を貫く形で立っているが、後世のような即物的な形象をあまり持ってはいない。見るからに如何にもリアルなそれは、寧ろ、その対象像が比較的新しい時代に作られたものだと考えた方がよいと私は思っている。

「長」「をさ」。

「類なし」「たぐひなし」。

「迯歸りぬ」「にげかへりぬ」。

「知ず」「しらず」。

「與仁」「ヨニ」。「リンガ」の対語。同じくサンスクリット語の漢音写。外部女性生殖器或いは子宮を指すこともある。

「鬼牙」「きが」。尖った牙。

「食切」「きひきり」。

「婚姻の夜交りの折柄右の物を」「婚姻の夜」(よ)、「交」(まじは)「りの折柄」(をりから)、「右の物を」。

「散て」「ちりて」。

「過た」「すぎた」。

「發達不完全等で多少本話類似の障礙ある女體世に少なからず、本邦にも現に往々其例有るは屢ば醫師より聞く所ろだから、アイヌ譚も津輕の傳說も全く根據なきには非じ」私の知る限りでは、処女膜が非常に肥厚して通常の性交では破瓜出来ないケースがあるということを、医学専門雑誌で見たが、その場合、閉鎖性が半端ないため、結婚よりずっと以前に、生理の経血の鬱滞による症状が出て、発覚するとも読んだ。また、所謂、性交中に女性が「膣痙攣」を起こすと、男根は締め付けられ、外す事も出来ずなり、コイツスした状態で、救急搬送されたという事実も雑誌記事で見かけたから、こうしたものが、実体としての「刃のあるヴァギナ」であろうかと私は推察する。一方で、これはエディプス・コンプレクスの一変形であり、男子が自分の母によって男根を嚙み切られるというグレート・マザー由来の神経症的深層心理に発するものとも思われる。これは、私が高校教師になった当時、都市伝説として勤務校でも半数を超える生徒が実在するとして恐れていた「口裂け女」のその裂けた口と尖った牙列を縦にしてみれば、「牙を有したヴァギナ」であることは容易に想起出来るからである。私は当初からそう考えていたが、風評が社会現象となるに及んで精神科医が、私のそれと同じことを言っていた。因みに、私は独自に考え、「ポマード」という言葉を嫌う性格、「鼈甲飴(後に一般に入手し易い「ペロペロ・キャンディー」に変化する)を投げると、大好物なので、追うのをやめて食べだし、彼女から逃げられる」とい二点から、一九七九年の末には、これは「ポマード」と「鼈甲」から「髪」に関わり、また、好物を食べる内に彼女から逃げ切れるという構造が「呪的逃走」譚の定番であることから、私は生徒たちに「『口裂け女』の民俗学的ルーツは、「古事記」にある、黄泉の国に行って「よもつへぐい」をして暗黒神となってしまった伊耶那美が、醜い姿を夫伊耶那岐に見られたことから、殺害せんとする復讐神に転じ、遁走する伊耶那岐を「よもつしこめ」らとともに追いかけたあのエピソードが元である。」と説明した。皆、せせら笑っていた。しかし、後に、殆んどそれと同じことを著名な若手民俗学者が論文を書いて発表されるや、世間はそれを指示した。私が「論文で書いて、雑誌に投稿していたらなぁ!」と悔しがったことは言うまでもない。

「彼處」「かしこ」。

「ハーンの目擊談に、北米のデネ隂甸」(インヂアン)「の或族人が他族人を殺して其屍を扱ふの法」、「猥」(みだら)「にして語るに堪」(たへ)「ず、殺されし者女人なる時殊に甚し、是れ他族の女根」(ぢよこん=会陰部)「全く自族の者と異樣」(ことやう)「なりとて之を評論審査するに因ると(Morice, “La Femme chez les Dénés,”  Transactions du Congrés internationale des Americanistes, Québec, 1907, p.374)」「デネ」「ディネ」(英語:Dene)はナ・ディネ語族の南北アサバスカ語族を話す先住民族の自称。「北部アサバスカ諸語」(カナダのインディアン部族の言語)を話す「ヘアー・インディアン(hare indan)」及び「アラスカとカナダのディネ(先住するインディアン諸部族)」と、「南部アサバスカ諸語」(アメリカのインディアン部族の言語)の「ナバホ族(Diné, Navajo)」及び「アパッチ族(Indé, Apache)」のことを指す(当該ウィキに拠った)。提示された引用書はカナダの宣教師エドリアン・ガブリエル・モリス(Adrien-Gabriel Morice 一八五九年~一九三九年)の「ディネ族の女たち」「Internet archive」のフランス語原本ではここ。「ハーン」なる人物は不詳。

「五不女」「女性たる者としては深刻な先天的欠陥五つ」の意か。

「角者有物如角、一名陰梃」『角(かく)』とは、物、有りて、角(つの)のごとし。一名、「陰梃(いんてい)」。皓星社「隠語大辞典」によれば「陰梃」は「陰挺」に同じで、俗に「茄子(なすび)」と隠語し、婦人の陰部に生ずる異状の肉様の隆起を指すとし、次に「陰庭」「前庭」とも称し、女陰の一部である尿道と腟口との間の、小陰唇に囲まれた部分を言う(ここは正常な部位の名)とあった。ここは無論、第一義のそれを指す。

は、明治以降の隠語解説文献や辞典、関係記事などをオリジナルのまま収録し

Otto Stoll, ‘Das Geschlechtsleben in der Volkerpsychologie, ’Leipzi, 1908, S.546」スイスの言語学者で民族学者オットー・ストール(Otto Stoll 一八四九年~一九二二年)が一九〇八年に書いた「民族心理学に於ける性生活」。「Internet archive」で原本が見られるが(当該ページ)、ドイツ語で書かれており、私には全く読めない。

「南非加」南アフリカ。以下の「南非」も同じ。

「ホツテントツトの婦人の特徵たる肥臀に伴う前垂(タブリエー)」「ホツテントツト」(Hottentot)現在でも私より上の人々はかく呼んでいるが、差別用語であるので、厳に慎むべきである。現在は「コイコイ人」と呼ばれる。南アフリカ共和国からナミビアの海岸線から高原地帯及びカラハリ砂漠などに居住している民族。詳しくは当該ウィキを参照されたいが、そこに以下の概ね人口形成になる「伸張陰唇」の他に、『臀部が極端に突出している特徴があり、これは脂臀と呼ばれる。また、男性は睾丸の片方を除去する半去勢と呼ばれる通過儀礼を行っていた』とある。熊楠の言う「肥臀」(ひでん:steatopygia。「殿部脂肪蓄積」。スティアトウピジア)である。これは当該ウィキによれば、『脂臀(しでん)とは、臀部と大腿における組織の相当なあるいは大した水準を有する状態である。この造りは 臀部の範囲に限らず、 大腿の外側と前方に広がり、そして膝に向かって先細りになる』。『臀部領域での脂肪組織の蓄積の増大を引き起こす遺伝的特性である脂臀は、南アフリカ出身の一部の幾らかの女性に見られる。最も多い(しかしこれに限らない)のは、南アフリカのコイサン族と中央アフリカのピグミー族で』、『アンダマン諸島のオンゲ族のようなアンダマン人の間にも観察される。この遺伝的特性は女性の間で広く見られるが、しかし男性でも低い度合いで生じる』。『脂臀は、かつてアデン湾から喜望峰までに広がる人々の特性としてみられてきた』ようで、『それらの人々はコイサン族とピグミー族の名残かもしれない』。『コイサン族では、それは子供の時からあり、最初の妊娠のときに完全に発達する』。『この特徴は、かつてもっと広がっていた事を示唆されてきた。ヨーロッパからアジアまで発見される、しばしば「脂臀的ビーナス」の姿として表現される、旧石器時代のビーナス豆像は、顕著な大腿の発達と、そしてまさに陰唇の延長(英語: elongated labia)を示す。この事は学説の裏づけに用いられてきた。これらは写実、誇張、もしくは理想としての表現を意図したいずれのものであるのかは明らかでない。しかしながら、脂臀は現代の医学的標準により背中と尻との角度がほぼ』九十『度しかない特徴を示すのに対して、おおよそ』百二十度もの『角度を示すこれらの豆像は、脂臀とは見做されないかもしれない』。『ビクトリア朝のイギリスで、見世物小屋は』、『しばしば脂臀の女を食い物にした。最もよく知られた例はサラ・バートマンという名の南アフリカのコイコイ族』『の女だった彼女は脂肪性浮腫(英語: lipedema)に罹っていると思われ』ていたとある。彼女は以下の伸張陰唇の紹介にも関わる女性である。さて、「伸張陰唇(しんちょういんしん)」であるが、「Elongated labia」「Sinus pudoris」「macronympha」などと学術的には呼ばれ、通称では「コイコイ・エプロン」(khoikhoi apron)あるいはかつては「ホテントットのエプロン」とも呼ばれて知られる。これは、当該ウィキによれば、『特定のコイコイ人の特徴であり、その女性のメンバーらは比較的細長い小陰唇を発達させ、直立した姿勢で立っているとき』、『外陰部の外に最大』で十・一六センチメートル『ぶら下がっている』。『陰唇は意図的な陰唇拡張によって形作られることもあり、これは通例、女の子に対して年上の叔母によって行われ』、五『歳から始まり、これは以前はタイプIV 女性性器切除(Type IV female genital mutilation)のカテゴリーに分類されていた慣行である』二〇〇八年に、『世界保健機関は、危害の認識された欠如と、それを実践する人々による、女性のセクシュアリティの報告されたよりポジティブな認識のために、この慣行を身体改造(body modification)として再分類し』直している、とある。

「廬に來れば」「いへにきたれば」。

「皮裳」「かはもすそ」と訓じておく。

William Ten Rhyme, An Account of the Cape of Good Hope and the Hottentotes, in Churchill, A Collection of Voyages and Travels, vol.vi, p.768, 1752」一六七三年にオランダ東インド会社に雇われたオランダの医師で植物学者のウィレム・テン・ライネ(Willem ten Rhijne 一六四七年~一七〇〇年)はオランダ人が定住した初期のコイコイ人の生活と、アジアのハンセン病に関する先駆的な本の他、茶や日本の鍼灸の研究でも知られる。当該書は「希望峰とホッテントットの解説」。

「一八〇四年龍動」(ロンドン)「板 Sir John Barrow, ‘Travels in Southern Africa,’ vol.ii, pp.278-279」イギリスの東洋学者で官僚のジョン・バロー(John Barrow 一七六四年~一八四八年1123日)の著。

「陰相」「いんさう」。陰部の外的形態。

「五吋」「ごインチ」。十二・七センチメートル。

「黝靑」「うすぐろあを」と訓じておく。

「帶赤」「おびるあか」と訓じておく。

「類し」「るゐし」。

「萎垂」「いすい」。縮んで垂下すること。

「皺摺」「しうしふ」(しゅうしゅう)。皺(襞)が寄ること。

「强凌」「がうりやう」。強姦。

「捍ぐ」「ふせぐ」。

「非んば」「あらずんば」。

「理」「ことわり」。

Cornelius de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americains,’ Cleves, 1772, tom.ii, pp.135-136」オランダの哲学者・地理学者にして外交官であったコーネリアス・フランシスカス・デ・ポゥ(Cornelius Franciscus de PauwCornelis de Pauw  一七三九年~一七九九年)の「アメリカ人に関する哲学的研究」。

「亞非利加の諸國の女子の小陰唇を切除く俗行るゝ」風俗習慣としての女性生殖器の一部切除を指す。サイト「MSDマニュアル」の「小児科 」/「小児虐待 」/「女性性器切除」によれば(コンマを読点に代えた)、『女性性器切除はアフリカの一部(通常北または中央アフリカ)において日常的に行われており、地域によっては文化の一環として深く根づいている。中東での一部でも行われている。性の喜びを経験した女性は制御できないとみなされ、敬遠されて結婚できないために行われるとされている』。『切除を受ける女児の平均年齢は』七『歳であり、切除は麻酔なしで行われる。WHOが定義した女性性器切除には主に以下の』四『種類がある』。『I型:陰核切除―陰核の一部または全切除、まれに陰核周囲の皮膚ひだ(包皮)のみ切除』。『II型:切除―陰核および小陰唇の一部または全切除、大陰唇の切除を伴う場合と伴わない場合がある』。『III型:陰部閉鎖―月経と排尿のための小開口を残して陰唇の切開と再建により』、『封鎖を形成し』、『腟開口部を狭小化する』。『IV型:その他―医療以外の目的で女性性器に行われるあらゆるその他の有害な処置(陰部の穿刺、ピアス、彫り物[切開]、擦過、焼灼)』。『性器切除の後遺症として、術中または術後の出血、感染症(破傷風を含む)などがありうる。陰部封鎖された女性には、反復性の尿路および』、『または』、『婦人科系感染症および瘢痕化の可能性がある。女性性器切除後に妊娠した女性は、分娩時に重大な出血を来す可能性がある。精神的な後遺症が重症となりうる』。『女性性器切除は、この慣習に反対してきた宗教指導者の影響や、一部地域社会において高まりつつある抵抗により、減少しているものと考えられる』とある。また、一見、広義の「割礼」と同じような仕儀ではあるが、現行、存在する如何なる宗教の起源による儀式でもない。「日本ユニセフ協会」公式サイト内の「世界の子どもたち」のこちら二〇一三年の記事では、『ギニアでは、15歳から49歳の女性の96%が女性性器切除を受けています。そのうち22%は4歳になる前、60%は9歳の誕生日を迎える前に施術が行われています』。『女性性器切除はイスラム教の宗教的慣習だと、多くのギニア人が信じています。しかし、宗教指導者はその事実を否定し、ユニセフの調査においても、宗教とこの慣習との関連が認められないことが分かっています。女性性器切除はイスラム教やキリスト教の成立よりも前から存在しており、どの宗教の教典にも、この慣習の実施を求める記述はありません。それにもかかわらず、宗教上必要な儀式であると、多くの人が信じていることも、この慣習が依然として広く行われている理由のひとつです』。『ギニアでは1965年から女性性器切除が違法になっています。そして2000年の法改正の際に、更に強化されました。ユニセフ・ギニア事務所は先日、首都のコナクリで、子どもへの暴力に関する法律施行の講習会を開催し、法律があるにもかかわらず適用が難しい現状を、課題に挙げました』。『「女性性器切除は伝統的な慣習です。地域の人々の信仰に奥深く根付いているものなのです」と、ラマ司法補佐官が語ります』。『ギニアには女性性器切除を禁止する法律があるにもかかわらず、この慣習の根絶に向けた取り組みは進んでいません。警察官や司法当局が子どもの権利や、女性性器切除が女の子や女性に与える甚大な危害を理解していたとしても、実際に法律を行使することは極めて難しいものです』。『「たとえば、祖母が娘を女性性器切除に連れて行こうとしていると正式な訴えが父親からあった場合、私たちが間に入り、祖母を説得します。ギニアでは、父親が祖母の意見に反対すると、家庭が崩壊してしまうということがよくありますから」(ラマ司法補佐官)』。『農村部のコミュニティでは、家族という単位がとても大切にされており、家族がいなくては生活をすることができません。ですから、女の子を家族から引き離して保護することは、とても難しいのです』とある。私は二十六歳の時に世界的な民俗学書を乱読し、その時に、この事実を知った。それから四半世紀、未だにこの忌まわしい儀式は現に生きているのである。

「もとこの畸形を除いて婚姻に便を與ふる爲だつたらうと論じ居る」意味不明。破瓜の痛みを比較的に感じさせないことを言うか。

Dr.Ernest Godard, ‘Egypte et Palestine,’ 1867, p58」フランスの医師・人類学者で旅行家でもあったエルネスト・ゴダール(Ernest Godard 一八二六年~一八六二年)の著作。

「茄子陰」「なすいん」。既出だが、特にそれが生まれつき肥厚しているものを指す。]

 

 

追 記

 人類學雜誌二九卷九號三七二頁に、予ホツテントツト人等の婦女の畸態陰相タブリエーを「前垂れ」と譯し置た。頃日當田邊町の川端榮長てふ老人若き時大阪堂島で相場を事とし、其間博く松島の遊廓を見た懷舊譚をするを聞く中「又前垂れ陰と名づくるを僅々數囘見た」てふ冒頭で說く樣子、バローが「斯る畸態の機關ある婦女は男子其同意又協力を得るに非んば和合の望無し」と言るに符合したので、吾邦人にも此畸態あるを知り、併せて予の譯語の偶中を悅んだ。扨根本說一切有部毘奈耶雜事十三、又大寶積經の入胎藏會十四之一に或產門如駝口と有るは此前垂陰であらう。三七三頁に書た茄子陰は、善見毘婆娑律十三に根長崛出兩邊者で、女根中肉長出有毛又角者如物角、一名陰梃は吉舌特に長き者であらう。L. Martineau, ‘Lecons Sur les Deformations Vulvaires et Anales,’Paris,1886)に六つ迄其圖を出し有る。

      (大正五年二月人類三十一卷)

補 遺

 (人類二九卷九條三七一頁以下、三十一卷二號六五頁)

 人類學雜誌二九卷九號に沙流アイヌと奧州津輕に行はれた女陰に齒有る譚を吉田巖君の記と耳袋から引いたが、その後能登國名跡志坤の卷を見るに、入左近の子太郞なる者、唐土の王女斯る畸態有る者に會ひ、津輕の傳說同樣の妙計もて常態とならしめ其婿と成た次第を載せ有る。委細は大正六年四月發行大日本地誌大系諸國叢書北陸の壹の三三九頁に就て見るべし。

      (大正六年十月人類第三十二卷)

[やぶちゃん注:以上の「追記」と「補遺」は底本では本文がポイント落ちである。前者には伏字があるが、「選集」で復元した。

「置た」「おいた」。

「頃日」「このごろ」。

「川端榮長」不詳。

「大阪堂島」江戸時代から昭和初期まで米市が置かれ、世界的にも最初の商品先物取引が行われ、それに付随して幕府公認の茶屋の設営が許可され、大坂市街(大坂三郷)の北に位置していため、「北の遊里」「北の色里」などと呼ばれる繁華街として栄えた。ここ

「松島の遊廓」この附近にあった。

「或產門如駝口」「或る產門は駝の口のごとし」。「駝」はラクダであろう。

「根長崛出兩邊者」「根の、長く崛(そばだ)ちて、兩邊に出づる者。」。

「女根中肉長出有毛又角者如物角、一名陰梃」「女根の中(うち)、肉、長く出でて、毛、有り、又、角(かど)あるは、物ありて、角(つの)のごとく、一(いつ)に『陰梃』と名づく。」。

「吉舌」陰唇。

L. Martineau, ‘Lecons Sur les Deformations Vulvaires et Anales,’Paris,1886)」「外陰部と肛門の変形に関する講義」。ルイス・マルティーヌ(Louis Martineau)とM . Lormandなる人物の共著のようである。

「能登國名跡志坤の卷を見るに、入左近の子太郞なる者、……」幸いにして熊楠の指示する「大正六年四月發行大日本地誌大系諸國叢書北陸の壹の三三九頁」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該箇所を発見出来た。左ページ上段の中央よりやや後ろからの記事がそれである。]

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