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2022/05/04

「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年二月発行の『東京人類學會雜誌』二百九十九号に初出され、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが冒頭)で視認して用いたが、最後の「山神絵詞」の部分は平凡社の「南方熊楠選集」第三巻(一九八四年刊)の当該部を参考底本とした(そうした理由は当該箇所の前注で述べる)。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。また、「J-STAGE」のここで、本篇の初出の画像を入手出来たので、これも参考にした。無論、今まで通り、所持する平凡社の「南方熊楠選集」も参考にした。特に、例の通り、南方熊楠の文章は語り出すと、牛の涎の如く、止まらなくなるため、注を附けるのが厄介で、読者の方が直近で注を参考出来るようにしたいことから、「選集」を参考に段落を成形した(その結果、段落で切った箇所の読点は句点に変えてある。注の後は一行空けた)。また、今まで通り、なかなか読みが難しいので、( )で私が推定読みを歴史的仮名遣で添えた。漢文脈部分は、直後に、《 》で推定訓読文を添えた。

 本篇は底本では一連の単発論考を纏めた大パート「俗傳」の巻頭にあるのだが、後の論考に比べると、やや長めなので、独立させて電子化注する。実は私は既にサイトで、一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集 第三巻 南方随筆」のそれ(標題は「山神オコゼ魚を好むということ」)を二〇〇六年九月に電子化公開している(底本は新字新仮名であるが、一部を独自に補正した。但し、注は附していない)が、今回は正規表現・オリジナル注版として零から始めた。

 なお、その古い公開時にブログでちょっと一言書いた。それも参考になろうからして、参照されたい。

 最後に一言。本篇末に「山神絵詞」が引用されているが、そこでは、「いくちもえくぼにみゆる」(「いくち」は口蓋裂のこと)等の差別表現が見られる。古文とはいえ、そうしたものへの批判精神をしっかり持って読解されることを望む。]

 

 

    俗   傳

 

 

    山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事

 

 瀧澤解の玄同放言卷三に、國史に見えたる、物部尾輿大連(もののべのをこしむらじ)、蘇我臣興志(そがのおみをこし)、尾張宿禰乎己志(をはりのすくねをこし)、大神朝臣興志(おほみわのあそみをこし)、凡連男事志(おほしのむらじをこし)等の名、總てオコシ魚の假字なりと云り。和漢三才圖會卷四八に、この魚、和名乎古之、俗云乎古世《和名「乎古之(をこじ)」。俗に「乎古世(をこぜ)」と云ふ。》と見ゆ、惟(おも)ふに、古え[やぶちゃん注:ママ。]オコゼを神靈の物とし、資(よつ)て以て子に名(なづ)くる風行はれたるか、今も舟師(しうし)山神(やまがみ)に風を禱(いの)るに之を捧ぐ。紀州西牟婁郡廣見川と、東牟婁郡土小屋(つちごや)とは「オコゼ」もて山神を祭り、大利を得し人の譚を傳ふ、甚だ相似たれば、その一のみを述(のべ)んに、昔し人有り、十津川の奧白谷(おくしらたに)の深林で、材木十萬を伐りしも、水乏(とぼし)くて筏を出す能はず、因(よつ)て河下なる土小屋の神社に鳥居(現存)を献じ、生(いき)たるオコゼを捧げ祈りければ、翌朝水夥(おびただし)く出でて其鳥居を浸し、件の谷より此處迄、筏陸續して下り、細民生利(しやうり)を得る事維(こ)れ多し、其人之を見て大に歡び、徑八寸有る南天の大木に乘り、流れに任せて之(ゆ)く所を知らずと。

[やぶちゃん注:「オコゼ」狭義には、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(或いはオニオコゼ科 Synanceiidae)オニオコゼ亜科オニオコゼ Inimicus japonicus を指し、漢字では「鬼鰧」「鬼虎魚」、地方名では「アカオコゼ」(東京)、「オクジ」(秋田県男鹿)、「シラオコゼ」(小田原)、「ツチコオゼ」(和歌山県田辺)の他、「オコシ」「オコジョ」「オコオジン」「アカオコゼ」があり、一般的には単に「オコゼ」と呼ぶことが多い。私の『毛利梅園「梅園魚譜」 鬼頭魚(オニオコゼ)』を参照されたい。美麗な図も、勿論、ある。但し、実際に山神への供物として使用される「オコゼ」はオニオコゼ一種ではなく、魚顔の異形(いぎょう)な広汎なカサゴ類の種群が用いられており(後述される)、他に後に「川オコゼ」出るように淡水系の異形魚も多く使われる。それは純粋な淡水魚であるスズキ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux や、降河回遊型のカジカ科 Rheopresbe属アユカケ Rheopresbe kazika である。これらの「川カジカ」については、「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」の私の注を見られたいが、そこでも紹介してある通り、このカジカ科 Cottidaeには、有明海と流入河川に限定的に棲息する、ズバり! 和名が、カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus という種もいるのである(興味があられるであろうから、グーグル画像検索「ヤマノカミ Trachidermus fasciatusをリンクさせておく。結構なヤンキーっぽい!)。熊楠は明治四四(一九一一)年三月から五月にかけて地元の『牟婁新報』に「山の神とオコゼ魚」という随筆(未完)を発表しているが、これは、実は「南方熊楠全集」に未収載で、一九九一年八坂書房刊の「熊楠漫筆 南方熊楠未刊文集」に載っている(私は所持しない)。幸い、大和茂之氏のブログ「南方熊楠のこと、あれこれ」のこちらで、全文が電子化されてあるのであるが、その「五」の最後で、『前に引ける柳田氏の説にも、日向で神を祈るに、あるいは「海オコゼ」、あるいは「川オコゼ」を用ゆといえり。山中で生きたオコゼというはこの「川オコゼ」のことなり。田辺でアイカケという魚あり、鮎に随って川を上下し、形状オコゼに似て頬に刺あり、沙底に伏し動かず、鮎その上を過ぐると、たちまち刺を引っ掛けこれを捉え食らう。冬分は錦城館の下などにあり、夏分は請川ごとき海に遠き川に住む。「川オコゼ」とはこの魚のことならん。帝国博物館の『魚類目録』にも出でたり。』とあるのが、アユカケのことである。同じくグーグル画像検索「アユカケ Rheopresbe kazikaを示す。こちらも、なかなかの貫禄である。なお、熊楠の言う「オコゼ」の正体については、後注も参照されたい。

「瀧澤解の玄同放言卷三に、……」滝沢馬琴の考証随筆の巻三の巻頭にある「姓名稱謂」の一節。活字本を所持するが、本文は恐ろしく長い(但し、私は珍名が出てきて、結構、好きだ)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同版本のここ(文政元(一八一八)年序・PDF一括版)の21コマ目の四右丁の四行の「鰧(ヲコシ)」の項がそれ。本文でのルビは馬琴の添えたものをも参考にした。中にはその漢字では「おこし」だろうと思う読者がいることを想定して、ここに注した。

「和漢三才圖會卷四八に、……」私の同巻の電子化注を参照されたい(「鰧」の項だが、古い電子化で当該標題のその字が表記出来なかったので、「おこじ」でページ内検索をかけられたい)。

「舟師」水主(かこ)。船長。

「十津川の奧白谷」ここか(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東牟婁郡土小屋」現在の和歌山県田辺市本宮町土河屋(つちごや)。或いは「小」は南方熊楠の誤認識かも知れない。

「神社の鳥居」神社はここの八幡神社。熊楠の言っているものかどうかは判らないが、サイド・パネルに鳥居写真があり(木製のこのタイプで百年は難しいが、或いは今もその奉納の儀式は続いているとも考えられる)、そこに並置された祭神小祠の四つの内、一番左に「山神」と墨書きした祠があり、これは相応に古いものであるようである。なお、熊楠は自分が十全に理解していることは、書く必要がないと断ずる傾向があり、ここでも何故、山神と海のオコゼがセットになるかの根本を書いていない。ざっくり言ってしまえば、山林を仕事場とする猟師や伐採に従事する者たちがこの儀式をするのである。山の神は女神とされるが、容貌が醜いとされ、しかも、山の幸を持ち去る者には厳しい神罰を下すと考えられたのである。そこで、醜悪なオコゼの顔を見ると、自分より醜いものがこの世にいると、安心して静まり、山中での仕事を許し、逆にその間の安全を守って呉れるとされるのである。現在でも、地方によっては、山入りの際に、実際のオコゼの類を仕入れて奉納し、山の神に許諾と安全を祈願している。]

 

 人類學會雜誌二八八號二二八頁、山中氏が、柳田氏の記を引たるを見るに、日向の一村には、今も「オコゼ」を靈有りとし、白紙一枚に包み、祝して曰く、「オコゼ」殿、「オコゼ」殿、近く我に一頭の猪を獲させ給はゞ、紙を解き開きて、世の明りを見せ參らせんと、扨幸ひに一猪を獲たる時、又前の如く言て、幾重にも包み置き、每度オコゼを紿(あざむ)きて、山幸を求むる風存すとなり、予が紀州日高郡丹生川(にふがは)の獵師に聞く所は、較(や)や之と異にして、其邊の民は、「オコゼ」を神異の物として之に山幸を祈ることなく、全く「オコゼ」を餌として、山神を欺き、獲物を求むる也、其話に、山神、居常(きよじやう)「オコゼ」を見んと望む念太(はなは)だ切也、因て獵師之を紙に裹みて懷中し、速かに我に一獸を與へよ、必ず「オコゼ」を見せ進(まゐ)らせんと祈誓し、扨志す獸を獲る時、纔かに魚の尾、又首抔、一部分を露はし示す、斯くの如くすれば、山神必ず其全體を見んと、熱望の餘り、幾度誓ひ、幾度欺かるゝも、狩の利を與(あたふ)る事絕えずと。

[やぶちゃん注:最後の「と」は初出によって挿入した。この後半の儀式は、数年前、NHKの特集番組で、場所が定かではないが、親しく見て感激した。確かに白い紙に包んだオコゼを、山神を祀った山林の入り口にある古い祠の前で祈った後に、ちらっ、と見せてのである。この、仕事で山入りする人々の間で、この儀式が今も残っているのに感動したのである。

「東京人類學會雜誌二八八號二二八頁、山中氏が、柳田氏の記を引きたる」牧師で民俗学者・考古学者でもあった山中笑(えむ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)が、この前年明治四三(一九一〇)年三月に同誌の「雜錄」パートに発表した「本邦に於ける動物崇拜」。これは既に『山中笑「本邦に於ける動物崇拜」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」の執筆動機となった論文)』で電子化してあるので、読まれたいが、熊楠の指す箇所は短いので引いておく。

   *

虎魚(オコゼ) 此魚を祭る日向奈須山村の奇風俗に就ては、柳田國男氏の後狩詞記に「海漁には山おこぜ、山獵には海おこぜを祭る。効驗多し、と云ふ。其方法は、おこぜを一枚の白紙に包み、告げて曰はく、おこぜ殿、おこぜ殿、近々、我に一頭の猪を獲させ玉へ。さすれば、紙を解き開きて、世の明りを見せ參らせん、と。次て、幸に一頭を獲たるときは、又、告て、前の如く云ひて、幾重にも包み置と」ぞ[やぶちゃん注:鍵括弧閉じるの位置はママ。]。之、おこぜを欺きつゝ、崇拜する奇風と云ふべし。

   *

この「後狩詞記」(のちのかりことばのき)は柳田国男が明治四一(一九〇八)年に著者が宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。題名は『群書類従』所収の「狩詞記」(就狩詞少々覚悟之事)に由来するもの。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。原本のそれも短いので、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の当該部を視認して示す(私は、近々、これを電子化したいと考えている)。掲載箇所は「狩ことば」の十五項目。【二〇二二年五月十三日追記】ブログ・カテゴリ「柳田國男」で同作を電子化注し終えた(分割六回)ので参照されたい。

   *

一五 オコゼ。 鯱(シヤチ)に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ。山獵には海オコゼを祭るを效驗多しと云ふ。祭るには非ず責むるなり。其方法はオコゼを一枚の白紙に包み。告げて曰く。オコゼ殿。オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまへ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ參らせんと。次て幸にして一頭を獲たるときは。又告げて曰く。御蔭を以て大猪を獲たり。此上猶一頭を獲させたまへ。さすれば愈世の明りを見せ申さんとて。更に又一枚の白紙を以て堅く之を包み。其上に小捻を以て括るなり。此の如く一頭を獲る每に包藏するが故に。祖先より傳來の物は百數十重に達する者ありと云ふ。此のオコゼは決して他人に示すこと無し。

[やぶちゃん注:総てが句点のみなのはママ(以下も同じ)。「小捻」「こびねり。「括る」「くくる」。以下、原本では全体が二字下げでポイント落ち。]

△椎葉村にオコゼを所持する家は甚稀なり。中のオコゼを見たる者は愈以て稀有なるべし。鯱に似たる細魚なりは面白し。中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何。オコゼは一子相傳にして家人にも置所を知らしめず。或者の妻好奇心のあまりに。不思議の紙包みを解き始めしに。一日掛りて漸くして干たるオコゼ出でたりと云ふ話あり。一生涯他人のオコゼ包みを拾ひ取らんと心掛くる者もありと云ふ。此村にては吝嗇なる者を「おこぜ祭」と云ふ。

   *

ちょっと、この「中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何」という言いかけの意味が判らぬ。「山オコゼ」については、私はてっきり淡水産のゴリなどの魚を指すかと思ったのだが、「南方熊楠記念館」のブログ の「 山オコゼ」によれば、『郷土研究』四巻七号初出の南方熊楠の「山オコゼのこと」を部分引用した上で、そこでは、『キセルガイの殻を人に見せないように持ち歩くと、利益を得られると述べています。ただし、種類が多いためどれかを明確にせねば、どれが「山オコゼ」というかわからなかったそうです』とあり、さらに、『日本大百科全書によるオコゼに関する民俗の解説では、「山の神が好むオコゼには山オコゼと海オコゼがあり、山オコゼとは、陸産のキセルガイやイタチ、マムシ、毛虫など気味の悪い動物をさす場合もある。」としています。山の神は自分より醜いものを好むという伝承からきているのですが、キセルガイは醜いと言われると疑問符がつきます。可愛らしいと思います』とある。「キセルガイ」は腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidae のキセルガイ類を指すが、確かに、オニオコゼに比して、見るも醜悪という感じの動物では、確かに、ない。その熊楠の「山オコゼのこと」は、「私設万葉文庫」の平凡社「南方熊楠全集」第三巻の「雑誌論考Ⅰ」で電子化されており、短いので、以下にそのまま引用して示す。

   *

   山オコゼのこと

     柳田国男「土佐高知より」参照

     (『郷土研究』四巻七号四四四頁)

 大正三年の予の日記に、「四月二十二日朝、下芳養《しもはや》村大字堺の漁夫一人来たり、山オコゼという物を欲しいと言う。子細を問うに答えけるは、山オコゼは北向きの山陰のシデの木などに付く長さ一寸ばかりの小介、殻薄きものなり。かの村にこの介を持ち、常に漁利また博奕利を獲る者あり。袋に入れて頸に掛け、人に見せず。二年ほど前、そこの駐在巡査谷口某のみこれを見得たり、と。予それは定めてキセルガイの一種であろう。予が熊野で集めただけでも十余種はあり。現に田辺町のこの住宅のはね釣瓶《つるべ》の朽ちたる部分にも棲《す》んでおる。今少し委細にその形状を言わねば、いずれの種が山オコゼか分からぬ、と言うて返した」と記してある。

 さて、この八月十三日に、『南国遺事』を著者寺石君から受けて山オコゼの記事を見、それはキセルガイのことであろうと書き送ると、同三十日付で返書あり、山中の林藪に生ずる小螺なりとて略図を示されたのを見れば、あまり大ならず、また小ならざる、一寸ばかりのキセルガイだった。土佐方言ゴウナとも謂う、と付記せられた。『和漢三才図会』によると、ゴウナとは小螺中に蟹が棲むもの、東京でいわゆるキシャゴノオバケである。紀州でゴンナイと呼ぶは水流に住む蜷《みな》のことだが、とにかくかかる小螺をすべてゴウナと呼んだものらしい。(十月二日) (大正五年十一月『郷土研究』四巻八号)

   *

添え辞にある「土佐高知より」というのは、書誌情報では、筑摩書房の『定本柳田國男集』の第十八巻(昭和三八(一九六三)年刊)の「『郷土研究』小通信」のパートに認めるが、生憎、所持する文庫本同全集には所収しないので内容や関連性は判らぬ。「和漢三才図会」云々は私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の末の方にある、「寄居蟲(かうな かみな)」を参照されたい。しかしこれは海産のヤドカリ類であるから、これは「山オコゼ」からは除外するべきであろう(浜辺に上がってくることもあり、奇形(きぎょう)と言えば、そうだろうからして、資格はあるが、それを「山オコゼ」と呼ぶのは、私はちょっと無理な気がするのである)。「南国遺事」は寺石正路(慶應四(一八六八)年~昭和二四(一九四九)年:高知県生まれの教師で郷土史家)著で、大正五(一九一六)年聚景園武内書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションにあるので調べたところが、当該部と思しいここでは(太字は底本では傍点「○」、下線太字は傍点「ヽ」)、『山田(やまだ)等に成長する田螺(たにし)(ヲコゼ)を所持して山海の狩の幸(さち)を願ふといふ事これ又諸國に多し余等が幼時に老いたる山賤(やましづ)が竹籠(たけかご)に田螺を入れて市中を呼びあるき思ひ事叶ふ山ヲコゼは要らぬかといひて賣り廻りたることを記憶せり日向(ひうが)薩摩(さつま)の國には山獵師(やまりようし)皆オコゼの干物(ひもの)を澤山の白紙に包み一獵ある每に其包紙を剝ぎ全部盡く剝ぎ取る程の大獵あらば其オコゼを奉らんと山神に祈る習あり但』(ただし)『土佐國にては昔舊藩の嘉永(かえい)前後の頃にオコゼ組と呼ばれたる政黨あり反政黨より相結托して利をなすといふ義によりて命名せられ一時大獄を起して大騷動を致せることありオコゼおいへる言葉は何となく土佐人には特別の響(ひゞき)ある如くなれど元來オコゼを用ひて幸福を祈るといふ事は土佐一國の特風にあらず』とあり、そこでは「山オコゼ」は「田螺」と明記されてある。熊楠がそれをここで一例として出さないのは、私は甚だ不当と感じるものである。

「紀州日高郡丹生川」合併と吸収が重なり、行政地名としては残っていないが、地元の神社・学校名等で確認出来る。ここ

「居常」常日頃。

 以下の段落は底本では、全体が一字下げである。]

 

 上述、日向村民「オコゼ」を紙に包み、如し獲物を與え吳(くれ)なば、世の明りを見すべしと祈り、獲物ある後も紙を開かず、每度誓言し、每度違約するは、不斷闇中に靈物を倦苦(けんく)せしめ、且つ之を紿(あざむ)き通すもの也、淵鑑類函、卷四四九、 倦遊雜錄曰、熙寧中、京師久旱、按古法令、坊巷以甕貯水、揷柳枝泛蜥蜴、小兒呼曰、蜥蝪蜥蝪、興雲吐霧、降雨滂沱、放汝歸去、下略《「倦遊雜錄」に曰はく、煕寧(きねい)中、京師、久しく旱(ひでり)す。古への法令を按ずるに、坊巷にて甕を以つて水を貯へ、柳枝を揷し、蜥蜴(とかげ)を泛(うか)べて、小兒、呼んで曰はく、「蜥蜴よ、蜥蜴、雲を興し、霧を吐き、雨を降らすこと、滂沱(ばうだ)たれば、汝を放ちて歸り去らしめん。」と。(下略)》、又酉陽雜俎卷十一に、蛇醫(ゐもり)を水甕中に密封し、前後に席を設け、香を燒き、十餘の小兒をして、小靑竹を執り、晝夜甕を擊(うつ)て止まざらしめしに、雨大いに降れりと有り、是又靈物を倦苦せしめて雨を祈りし也。至極けしからぬことの樣なれど、凡て蒙昧の民のみならず、開明を以て誇れる耶蘇敎國にも、近世迄、鬼神を欺弄(ぎろう)し、甚しきは脅迫して、利運を求(もとめ)し例少なからず、佛國サン、クルーの橋の工人之を仕上(しあぐ)る能はず、渡り初(そむ)る者の命を與ふべしと約して、魔を賴みて竣功し、扨最初に一猫を放ち渡せしかば、魔不滿十分ながら、之を收め去れりと傳え(Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ tom.ii, p.446, Paris, 1821)、十六世紀頃迄、ナヷル王國の諸市に、久(ひさし)く旱する每に、奇妙な雨乞ひ式あり。河岸へ彼得(ペテロ)尊者の像を舁出(かつぎだ)し、民衆同音に、吾れ吾れを助けよと三囘呼び、何の返事も無ければ河水に浸せと詈(ののし)るに及び、僧之を制止し、彼得(ペテロ)必ず雨を與ふべしと保證す。斯くする後、廿四時内に必ず雨降ると云(いへ)り(lbid., p.434)。支那にも、博物志卷八に、止雨祝曰、天生五穀、以養人民、今天雨不止、用傷五穀、如何如何、靈而不幸、殺牲以賽神靈、雨則不止、鳴鼓攻之、朱綠繩縈而脅之《雨を止むる祝(のりと)に曰はく、「天は五穀を生(そだ)て、以つて人民を養ふ。今、天、雨(あめふ)ること止まず、用(も)つて五穀を傷(そこな)ふ、如何、如何。」と。靈、幸ひせざれば、牲(いけにへ)を殺して以つて神靈を賽(まつ)り、雨、則ち、止まざれば、鼓を鳴らして之れを攻め、朱綠の繩を縈(めぐら)して之れを脅かす。》と載せたり。「タイラー」の「ブリミチヴ・カルチユル」篇、第二板、卷二、十四章に、斯(かか)る例多く見え、幸運を祈るとて、神靈の像を縛り脅かすさえ有る世の中に、「オコゼ」や山神を紿(あざむ)きて、獲物を求むる邦民の迷信は、比較的輕少也と謂(いふ)べし。

[やぶちゃん注:「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。南方熊楠は、この本が結構、好きで、他の論文でもしばしば引用元として挙げている。原文は「漢籍リポジトリ」のこちらを参考にした。

「熙寧」北宋の神宗の治世で用いられた元号。一〇六八年 から千七十七年まで。

「酉陽雜俎」唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで当該部の影印本が視認出来る

「サン、クルー」次注のリンク先を参照されたいが、「‘Saint-Cloud」とあり、サン=クルー。ここ。パリに西でセーヌ川を挟んで接する都会近郊で、田舎ではない。

Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ tom.ii, p.446, Paris, 1821」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は「遺物と奇跡のイメージに関する評論的辞書」。一八二一年刊。「Internet archive」で原本が見られ、当該部はここ

「ナヷル王國」「ナバラ王国」(Kingdom of Navarra)。スペインの北東部、ピレネー山脈の西寄りに南北に亙って存在した中世国家。フランス語では「ナバール王国」。十二世紀後半までは「パンプロナ王国」として知られていた。九世紀初頭、フランク王カルルⅠ世(大帝)が設置したエブロ川北方辺境領の一つナバラ辺境領をもとに,サンチョⅠ世(サンチョ・ガルセスⅠ世)の頃、本格的な王国として現れた。十一世紀サンチョⅢ世(大王)のもとに全盛期を迎え、カタルニャやカスティリアをも征服した。大王の死後、王国からカスティリアとアラゴンが独立して王国を築いた。一〇七六年、アラゴンのサンチョⅤ世(サンチョ・ラミレス)に併合されたが、一一三四年、ガルシアⅤ世が独立を回復した。その後、フランス王家の血統を引く王に統治され、シャルルⅢ世(在位:一三八七年~一四二五年) の時、最も繁栄を誇った。一五一二年、王国のスペイン側はフェルナンドⅡ世(カトリック王)に占領されたが、フランス側の王国はアンリⅣ世がフランス王となる一五八九年まで続いた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。位置は当該ウィキ地図を見られたい。現在バスク地方のフランスとの国境附近に相当する。

「彼得(ペテロ)尊者」「新約聖書」でイエス・キリストに従った使徒の一人であったペトロ(?~六七年?)。初代ローマ教皇とされる。

lbid., p.434ここ

「博物志」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物誌。散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本に拠った。

『「タイラー」の「ブリミチヴ・カルチユル」篇』イギリスの人類学者で「文化人類学の父」と呼ばれる、宗教の起源に関してアニミズムを提唱したエドワード・バーネット・タイラー(Sir Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)が一八七一年に発表した「原始文化:神話・哲学・宗教・芸術そして習慣の発展の研究」(Primitive Culture, researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Art and Custom )。原本当該部は「Internet archive」のここ。標題はズバり、「ANIMISM」である。]

 

 二年前、西牟婁郡近野(ちかの)村にて、予が創見せる奇異の蘚(こけ)Buxpaumia Minakatae S.Okamura は其後復た見ず。因て昨年末、當國最難所と聞ゑたる安堵峰に登り、四十餘日の久しき間、氷雨中に之を索めしも得ず。終(つひ)に、誠に馬鹿氣た限り乍ら、山人輩の勸めに隨ひ、山神に祈願し、若し之を獲(え)ば「オコゼ」を獻ぜんと念ぜしに、數日の後、忽ち彼(かの)蘚群生せる處を見出(みいだし)たり、去れば山神は兎も角、自分の子供に渝誓(ゆせい)の例を示すは、父たるの道に背く者と慮(おもんぱか)り、田邊に歸りて直ちに彼魚を購ひ、山神に贈らんとて乾燥最中也、其の節、販魚婦に聞きしは、山神特に好む「オコゼ」は、常品と異なり、之を山の神と名け、色殊に美麗に、諸鰭、殊に胸鰭勝れて他の種より長く、漁夫得る每に乾し置くを、山神祭りの前に、諸山の民爭ふて買ひに來る、海濱の民は、之を家の入口に懸て惡鬼を禦ぐと。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡近野村」「ひなたGPS戦前の地図のここ

Buxpaumia Minakatae S.Okamura」叙述に従えば、二年前(但し、この謂いは本論考発表の明治四四(一九一一)年二月から事実上のほぼ二年前で、恐らくは明治四十一年の十一月から十二月に敢行した熊野への植物採集旅行を指すものと思う)に南方熊楠が発見し、日本の蘚苔学の草分けであった岡村周諦(明治九(一八七七)年~昭和二二(一九四七)年:和歌山県生まれ。漢方医の父の影響を受けて本草学・植物学、特に鮮苔類の研究を行った。東京帝国大学で理学博士を授与されている)に新種として報告して貰った、種小名に南方の名を持つ蘚類の新種、マゴケ植物門マゴケ綱キセルゴケ亜綱キセルゴケ目キセルゴケ科キセルゴケ属クマノチョウジゴケ Buxbaumia minakatae S.Okamura であり、熊楠は属名を誤っている(追加注参照)。生体画像は、蘚苔類の研究者であられる左木山祝一氏のブログ「そよ風のなかで Part2」の「クマノチョウジゴケ」(別にこちらにもある)で素晴らしい鮮やかな写真(顕微鏡写真も含む)が見られる。貝類同定でかなりお世話になっている「レッドデータブックあいち」の同種のデータ(PDF)も見られたい。【二〇二二年五月五日追記】本未明、南方熊楠の研究者で南紀生物同好会の先に引用させて戴いた大和茂之氏より、御自身の論考を、複数、頂戴した。その中の南方熊楠顕彰会機関誌『熊楠ワークス』第五十九号(二〇二二年 四月 一日発行)の「クマノチョウジゴケの補足――学名の誤記と熊楠による最終経緯の脚色――」(同会の土永浩史氏との共著)の中で、初出の『東京人類学会雑誌』での誤植が現在まで続いてしまった経緯を細かく考証された上で、熊楠の『日記の記述と照合させていくと』、「山神オコゼ魚を好むということ」の一部は、『事実に反する創作や脚色がなされていることに気がつく』とされ、実際には十一月十二日から十二月二十七月までの兵生(ひょうぜ)(ここ)での『滞在中に、少しずつではあるが、継続して標本を採集して』おり、『この滞在の最後の方の』十二月二十一日に、『待望していた大量の標本』『が得られたことは間違いないが、それが「山神に祈願し、もしこれを獲ばオコゼを献ぜんと念ぜしに、数日の後、たちまちかの蘚群生せる処を見出だした」というのは、少し脚色を加えているように読み取れる』とある(なお、この時の山神祭は十二月九日に行われている、とある)。『希少なコケを探し求める熊楠の気持ちと、大量のコケと出会うまでの間に、山神に祈願するという民俗を差し挟むことで、コケの発見が劇的なものになっている。熊楠からすれば、科学的な記述以外のところでは、多少の創作を混えることは構わないということだったのだろうか。そう考えると、『牟婁新報』掲載の採集経過についても、日記の記述と食い違う所が多数ある』と指摘され、明治四一(一九〇八)年に『拾い子谷で最初に本種を発見したときに、「陰徳の一事」ということで、躓いた僵木を後から来る人のために取り除こうとした際に見つかったという話も、少し脚色が入っているように見えてくる』と述べておられる。私も、どうも脚色の疑いを抱いていたが、これで腑に落ちた。大和氏に心より感謝申し上げるものである。

「安堵峰」『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照。地図をリンクさせてある。]

 

 人類學會雜誌二七八號、三一〇頁と、二九二號、三二八頁に、予が、古えわが邦に狼を山神とせる由の考說を載せたり。隨(したがつ)て勘(かんが)ふるに、諸種の「オコゼ」魚、外に刺(とげ)多けれど、肉味美にして食ふに勝(たへ)たり、以て山神を祭るは其基(もとづ)くところ、狼が他の獸類に挺(ぬきんで)て、之を啖ひ好む事、猫の鼠に於るが如くなるにや有らん、切に望むらくは世間好事の士、機會有らば、生(いき)たる狼に就(つい)て實際試驗されん事を。

[やぶちゃん注:「人類學會雜誌二七八號、三一〇頁」明治四二(一九〇九)年五月発行の同誌(但し、『東京人類學會雜誌』が正式誌名)に載せた論考『出口君の「小兒と魔除」を讀む』で、「J-STAGE」のここPDF)で初出画像が見られるが、これが、既に電子化注を終えた南方熊楠「小兒と魔除」PDF)となった。特に狼への言及が集中するのは、終わりの部分で、そこだけでよければ、ブログ版のこちらがある。

「二九二號、三二八頁」同じく明治四十三年六月発行の同誌に載せた論考『本邦における動物崇拜(追加)』がそれで、「J-STAGE」のここPDF)で初出画像が見られるが、これが、既に電子化注を終えた南方熊楠「本邦における動物崇拜」PDF)となった。こちらの私のブログ版の「狼」パートはここで読める。

『諸種の「オコゼ」魚』ここではハオコゼ亜科 Tetraroginae・オニオコゼ亜科 Synanceiinae 辺りを中心とする広義の棘を持つところの種が含まれるカサゴ目 Scorpaenoidei の総称として「オコゼ」を用いていると考えられる。

「生たる狼に就て實際試驗されん事を」我々が絶滅させてしまった食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax(確実な最後の生息最終確認個体は、明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で捕獲された若いオスであった)。これは結果ではあるが、熊楠がまさにこんなことを提案している、真最中に、目と鼻の先で、ニホンオオカミは最早、絶滅の末期にあったということを知ったら、彼はどう思っただろう。本論考は最後の捕獲から四年後であった。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

 

 安堵峰邊に又言傳(いひつたふ)るは、山神女形にて、山祭りの日、一山に生ぜる樹木を總算するに、成るべく木の多き樣(やう)算(かぞ)えんとて、一品每に異名を重ね唱え、「赤木に「サルタ」に猿スベリ、抹香、香(かう)ノ木、香榊(かうさかき)」抔讀む。樵夫此山に入れば、その内に讀み込まるとて、懼れて往かず、又甚だ男子が樹陰に自瀆するを好むと、此の山神は、獸類の長として狩獵を司どる狩神と別物と見え、頗る近世希臘の俗間に信ぜらるゝ「ナラギダイ」に似たり、「ナラギダイ」は野原と森林に住み、女體を具し、人其名を避(さけ)て呼ばず、美婦人と尊稱す、常に群を成して谷間の樹下、寒流の邊に遊び、好んで桃花の艶色を以て美壯夫を誘ひ、情事を成す、若し人之を怒らせば、忽ち罰せられて不具醜貌に變ずと云ふ(Thomas Wright, `Essays on England in the Middle Ages,` 1846, vol.ii, pp. 283-284)。「アラチウス」謂(いは)く、「ナラギダイ」は古希臘の「ネレイダイ」より訛(あやま)り出づと、是れ「ニムフス」の一部なり。「ニムフス」は原(も)と童媛(どうゑん)の義、下等の自然神、女體にて森林洞窟河泉等、住處の異なるに隨ひ部類を別つ、好んで男神と戯れ、又人と媾(まぐはひ)す、而して其の一部「ドリヤヅ」の存在は、實に樹木盛枯の由る所と云へり(Seyffert, `A Dictionary of Classical Antiquities,` London, 1908, p.420)、和歌に詠みたる山姬、吉野の柘(やまぐは)の仙女(類聚名物考卷十八と三二一に出づ)抔、古え本邦に「ニムフス」相當の信念行はれしを證すべく、女形(ぢよけい)の山神、山婆、山女郞抔、今も傳話するは其遺風と見ゆ。

[やぶちゃん注:「自瀆」初出は「手淫」。マスターベーション。

「ナラギダイ」これは思うに、ギリシア神話に登場する山の谷間の森に住むニンフであるナパイアーの、複数形ナパイアイ(ラテン文字転写:Napaîai)のことではなかろうか。「Thomas Wright, `Essays on England in the Middle Ages,` 1846, vol.ii, pp. 283-284 イギリスの好古家で著作家のトーマス・ライト(Thomas Wright 一八一〇年~一八七七年)の著作。前「Internet archive」のそれらしいものを調べたが、見つからない。また、ページ数の誤りか?

「アラチウス」不詳。ラテン名なら「Arantius」 だろうが、以下は後に示す原本に出るのに、この名だけ、どうしても私には見出せなかった。

『古希臘の「ネレイダイ」』ギリシア神話に登場する海に棲む女神たち、あるいはニンフたちの総称であるネーレーイス(ラテン文字転写:Nērēïs)、複数形ではネーレーイデス(NērēÏdes)。

「童媛」少女。以下の項目名の後に「properly the youg maidens”」とある。

「ドリヤヅ」ギリシア神話に登場する、木の精霊(ニンフ)であるドリュアス(ラテン文字転写:Dryas)は、複数形はドリュアデス(Dryades)。

Seyffert, `A Dictionary of Classical Antiquities,` London, 1908, p.420」ドイツの古典哲学者でローマが専門であったオスカル・セイフェルト(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の著作。「Internet archive」で版は古いが(一八九五年)、同ページにあった。項目名は「Nymphs」。

「和歌に詠みたる山姬、吉野の柘(やまぐは)」バラ目クワ科クワ属クワ品種ヤマグワ Morus australis(養蚕用改良種)「の仙女(類聚名物考卷十八と三二一に出づ)」「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。前者「山姬」は国立国会図書館デジタルコレクションのここにある(右ページ上段)。一方、後者はこちらの「吉野柘枝(ツミエ)壱仙女」とあるのが、それ(右ページ下段中央)。

「山婆」「やまうば」「やまんば」と呼ぶ老女の妖怪。]

 

 人類學會雜誌二七八號三一〇頁に述たる通り、紀州田邊、湯川富三郞氏、屛風一對を藏す、一方は繪にて土佐風彩色細(くは)しく、一方は御家風の詞書也、狼形の山神「オコゼ」魚を戀ひ、遂に之を娶るを、章魚大に憤り、其駕を奪(うばは)んとせしも、「オコゼ」遁れて、終(つひ)に狼の妻と成る譚(ものがたり)にて、文章略(ほ)ぼ室町季世の御伽草紙に類せり、前半計(ばか)り存すと報ぜしは予の誤りで、全たき物也、前日全文を寫し得たれば、難讀の字に圈點を添え、遼東(れうとう)の豕(ゐのこ)の譏(そし)りを慮り乍ら、爰に書付(かきつ)く。

[やぶちゃん注:「人類學會雜誌二七八號三一〇頁に述たる通り」「南方熊楠 小兒と魔除 (7)」が当該部。

「遼東の豕」「後漢書」の「朱浮伝」の中で、遼東で珍しいとされた白頭の豚が、河東では珍しくなかったという故事から、「世間知らずであったために、つまらないことを誇りに思って自惚れること」の喩え。

 さて、この屏風は現存する(以下の引用の湯浅家。但し、現在は東京に転居)。以下は、底本よりも「選集」の方が正確である。ここで特異的に底本とする「選集」では、末尾に編者注があり、『右の「山神絵詞」の用字、かなづかいは、湯川功四郎氏所蔵の現物により校訂し、読みにくい箇所には、『東京人類学会雑誌』所載の南方の論文の漢字を〔 〕内に付記した。南方が付した疑問のうち未解決のものは、圏点および括弧内注記の形でそのまま残した。』とあるからである。しかし、「選集」は漢字が新字体であるから、それを恣意的に概ね正字に直して以下に示した。これによって、遂に最も本来の屛風の詞書に近いものを復元し得たと私は考える。なお、以下の( )のルビは「選集」のものであり、歴史的仮名遣の誤りもママである。〔 〕は「選集」のものそのままであるが、ポイント落ちなのは本文と同じポイントにした。太字は底本では傍点「○」、「選集」では傍点「﹅」である。踊り字「〱」は正字化した。「栞」は「選集」は「グリフウィキ」のこの字体だが、表示出来ないので「栞」にしてある。本屛風は「選集」では本文上方に五枚の写真が掲載されているものの、小さく、画素も粗く、絵の愉快な雰囲気を摑むことは甚だ困難である。私の所持する書籍では、一九九〇年八坂書房刊の「南方熊楠アルバム」の一四二~一四三ページに載る四枚(但し、モノクロ)の屛風部分図が見るに堪える。ネット上では、「南方熊楠記念館」のブログの「 山の神の日」に、原屛風ではないが、祝言宴の部分の写本(同館の展示物と思われ、作品プレートには「山の神草紙写本」とある。ただ、この構図は完全に同屛風の御両人のそれと一致するので、恐らく後に熊楠が津人の画家広畑幾太郎に模写させたそれではないかと推察する)が見られる。因みに、そこにはオコゼの液浸標本もある(但し、写真位置が悪く、種は判らない。体体の側扁しており、胸鰭や背鰭が有意に長いのも気になる)。なお、本話は「山の神」を男の「狼」とし、「おこぜ」を姫とし、その結ばれる顛末を描く、変わり種の異類婚姻譚であるが、同様の展開の草紙絵は他にもあるらしい。なお、屏風絵の「おこぜ姬」は、ロケーションや彼女の描き用から、海産のカサゴ類であることは間違いない。【二〇二二年五月五日追記】先の大和氏から頂戴した論考の中の「南紀生物同好会」の二〇一九年十月刊の雑誌『くろしお』(第三十八号)の、大和氏と山内洋氏の共著論考「南方熊楠におけるオコゼという名称」には、冒頭で(コンマを読点に代えた。以下同じ)、『白浜町にある南方熊楠記念館』『に、ガラスの標本瓶に入ったオコゼの液浸標本』『が展示されている。この標本は、一見したところ、鰭が長くて、表面の模様なども、普通に食用にするオニオコゼとは大きく違っている。筆者らは、なぜこの標本がオコゼと呼ばれるのか』と疑問を持ったと枕を置かれ、熊楠の言う「オコゼ」の種同定と名称の考察がなされてあった。そこでは、熊楠の自筆資料から、熊楠の指すそれは『ミノカサゴと、カマキリ(アユカケ)ではないか』と推定され、さらに、熊楠の友人にして教師・博物学者・郷土史家であった宇井縫蔵の「紀州魚譜」(大正一四(一九二五)年)を引用されておられる。この本は、私がブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』(ここのところ更新をサボっている)で種同定に用いているもので、甚だ馴染みのある本である。著者の宇井縫蔵については、その『畔田翠山「水族志」 ヱビスダヒ (タイワンダイ)』の私の注を参照されたいが、同書(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)は、原本を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。論考では同書のミノカサゴからの引用があるが、原本ではここで、以下、原本から電子化する。方言としては、「ヤマノカミ」(紀州各地)・「オコゼ」(堅田・三輪崎)」・「ハナオコゼ」(湯浅・和深・木ノ本)・「ハネオコゼ」(二木島)を挙げており、最後に畔田の「水族志」では「ダイナンオコゼ」(本脇)・「ヨロヒウヲ」(網代浦)・「ヨロヒ」とあることが示された後に、

   *

體は長く側扁し、兩眼高く兩眼間隔は廣く凹形を呈する。背鰭及び胸鰭の鰭條は共に延長遊離して、その狀恰も簑をひろげたやうで、胸鰭の後端は尾鰭に達する。全體淡紅色で、暗褐色又は黑色の細き橫帶多く、胸鰭に黑斑を有する。體長七八寸。近海の岩礁の邊に多產し、釣り又刺網にて漁獲せられる。肉は美味。

この魚は西牟婁郡和深地方では山の神の第一の好物として、山商人や山稼ぎ人などは山の神に供へるるためといつて爭うてもとめるとの事である。[やぶちゃん注:この最後段落は原本ではポイント落ちである。「和深」は「わぶか」と読み、現在は和歌山県東牟婁郡串本町和深である。]

   *

それに続いて、論考では本篇の熊楠の記述との一致が示される。一方、『アイカケの方はやや複雑で』、『山神とオコゼについて調べていた』一九一〇年代の『熊楠は、カジカ Cottus pollux GüTHER, 1873 とカマキリ Cottus kazika JORDAN & STARKS, 1904 が区別されていたことを、知らなかったらしい。宇井の『紀州魚譜』では、カジカとカマキリは区別されているが、アイカケという方言名は、両者で混同されていたとある』。熊楠がこの誤りに気づいたのは後の昭和六(一九三一)年十月発行の『民俗學』(第三巻第十号)に初出される「ドンコの類魚方言に關する藪君の疑問に答ふ」を書いた際に宇井の上掲本を見、『はじめて別種と気がついたようだ。そして、23 年前に東牟婁郡請川村で乾品を得て、持ち帰ったものを改めて調べてみると、カジカとカマキリが混合していたとある』とあり、以上から、熊楠個人が諸論考で『オコゼと呼んでいた2 種の魚は、ミノカサゴとカマキリである』と断定されておられる。さらに私も先に疑問を持った、「南方熊楠記念館」の液浸標本(採集日の疑問まで考証されてある)のそれは、条鰭綱カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科ミノカサゴ亜科ミノカサゴ属ミノカサゴ Pterois lunulata であることが示されてあった。強い棘毒で知られるが、綺麗な裳のような胸鰭のさまは、「かさご姫」にまさに相応しいと、思わず、膝を叩いて合点した。さらに同論考では、『“オコゼ”の名称について』の項で、『このように山神に祀るものとしてのオコゼという名称は、様々な魚類にあてはめられていたようだ。熊楠も、田辺周辺のヤマノカミ(=ミノカサゴ)を海オコゼ、内陸部のアイカケ(カマキリ)を川オコゼと呼んでいる』とあり、続く『熊楠におけるオコゼという名称』で生物学的な種名・異名としての「オコゼ」(群)と、熊楠が民俗学上の対象物としての「オコゼ」(群)の異相を弁別され、

   《引用開始》

熊楠のいうオコゼは、山神-狼-オコゼと組み合わされた物語の影響を受けつつ、それぞれの地域で、その物語に見合った種類が選ばれた。また、山神自体も、実体が知れないものだから、現象や喩えをつなぎ合わせて理解される。熊楠の山神の説明でも、狼であったり、猴《さる》であったり、女体であったりする例が挙げられていて、どれが正解ということではない。このようなオコゼは、山神に関する知識や意味のつながりの中で、理解されるべきものだろう。このような名称は、オコゼという「物」の背後にある象徴的な体系を踏まえたものである。

   《引用終了》

と、胸の透く結論が示されてある。]

 

 山ざくらは、わがすむあたりの詠(ながめ)なれば、めづらしからずや、春のうらゝかなるおりからは、濱邊こそ見どころおほけれ、めなみおなみ〔雌波雄波〕のたがひにうちかはし、岸のたま藻をあらふに、千鳥の浮しづみて、なく音もさら也、沖ゆく船の、風長閑(のどか)なるに、帆かけてはしる、歌うたふ聲かすかに聞えて、思ふことなくみゆるもいとおもしろし、鹽やくけぶりの空によこをるゝ(たはる?)は、たが戀ぢにやなびくらん、むかふの山より柴といふものをかりはこぶに、花を手をりてさしそへたるは、心なき海郞(あま)のわざにやさしうもおもほゆるかなと、やまの奧にてはみなれぬことども、山の神あまりの興にぜう〔乘〕じて、一首くはせたり、をかしげなれども心ばかりはかく〔斯〕なん、

  鹽木とる、海郞のこゝろも、春なれや、

  かすみ櫻の、袖はやさしも、

とうち詠じて、あそここゝをうそうそとまどひゆく、

 こゝにおこぜの姬とて、魚の中にほたぐひなきやさものあり、おもてのかゝりは、かながしら、あかめばるとかやいふらんものにゝ〔似〕て、ほね〔骨〕たかく、まなこ〔眼〕大にして、口ひろくみえしが、十二ひとえ〔一重〕きて、あまたの魚をともなひ、なみのうへにうかび出つゝ、春のあそびにぞ侍べる、あづま〔東〕琴かきならし、歌うたふ聲をきけば、ほそやかなれどもうちゆがみて、

  ひくあみの、めごと〔目每〕にもろき我なみだ、

  かゝらざりせばかゝらじと、後はくやしきうれし船かも、

とうたひつゝ、つまをと〔爪音〕たかくきこえ侍べり、

 山の神つくづくと立聞て、おこぜのすがたをみるよりも、はやものおもひの種らなみ(ならめ?)、せめてそのあたりへもちかづきてとはおもへども、水こゝろをしらねばそもかなほず、はまべ〔濱邊〕につくまりてこでまね〔小手招〕きしければ、あなこゝろ〔心〕うや、みるものゝありとて、水そこ〔底〕へがばがばとはいりぬ、

 さるにても山の神は、ひくやもすそのあからさまなる、おこぜのすがたいま一めみまほしく、たち歸り侍べれども、またも出ず、日もはや夕ぐれになりければ、しほしほとしてやまの奧にたちかへり、ねたりおきたり、ころ〔轉〕びをうてども、このおも影はわすられずして、むね〔胸〕ふくれこゝち〔心地〕なやみて、木のみ〔實〕かやのみ〔實〕取くらへども、のど〔喉〕へもいらず、ただ戀しさはまさり草の、露ときえてもとはおもへども、し〔死〕なれもせず、其夜もあけゝればまた濱邊に立いでゝ、もしやさりともうきあがるかと、沖のかたをみやれども、しら波のみうちよせて、その君は影も見えず、山の神はなみだのえだをりにて(を栞(しを)りにて?)、うとらうとらとまたもとのすみか〔棲家〕に立歸り、いかならむたま〔玉〕たれのひま、も〔洩〕りくる風のたよりもあれかし、せめては思ひのほどをしらせて、なからむ跡までも、かく〔斯〕とだにいひ出し侍べらば、後の世のつみ〔罪〕とがも、すこしはかろ〔輕〕くあるべきを、やまにすむ程のものは水のこゝろをしらず、また水にすむやから〔族〕は山へはきたらず、いかにとかせむことはと、大いき〔息〕つきて思案する、さればこそ、都のうち、因幡堂の軒の口なる鬼甍(瓦?)は、故鄕の妻がかほにゝ〔似〕て、都なれども、旅なれば戀しく侍るとて、さめざめとなきけん人の心にて、思出されはべり、こひ〔戀〕ぞせられ侍べる、

 かかるところへ獺(かわうそ)かけまゐり、たそやは、山の神のな〔泣〕くは、いかにもして、神の事しろしめしたりしかじかの事侍べり、文ひとつゝかば〔遣〕し侍べらんに、とゞけて給はれといふ、かわうそきいて、其おこぜはきわめてみめわろく侍べり、まなこ〔眼〕大にしてほね〔骨〕たかく、口ひろく色あかし、さすがに山の神などのうれし(かれら?)に戀をさせ給ふなんと、よそのきこ〔聞〕えもをこがましと申せば、山の神、いや〔否〕とよ、女の目にはすゞをはれといふこと有、目の大なるは美女のさう〔相〕也、ほねたかきは又貴人のさう也、口ひろきは知惠のかしこきしるし也、いづくにもけぢめなき姬なれば、誰のみ〔見〕させたまふとも、心をかけずといふことなからん、さや(左樣?)にあしくとりざたするは、世のならひぞかしとて、思ひいれたるありさま、まことにゑん〔緣〕あれば、いくち〔兎唇〕もえくぼにみゆるかなと、をかしさばかぎりなし、さらば御文かき給へ、つたへてまいらせんといへば、山の神よろこびつゝ、文かゝむとすれども紙はなし、木のかは〔皮〕を引むしりて、思ひのほどをぞかきたりける。

[やぶちゃん注:以下の山神の消息文は、段落末尾の「參らせ候、」まで、底本でも「選集」でも、すべて一字下げ。なお、以下の三ヶ所の「參候」は草書体であるが、漢字にした。]

あまりにたへかねて、御はづかしながら一筆參候(まいらせそろ)、いつぞや濱邊にたち出て、春のながめに海つら〔面〕を見まいらせゝつ〔節〕は、波のうへにうきあがらせ給て、あづま琴をかきならし、歌あそばせし御すがた、花ならば梅櫻、たをやかにして、柳の糸の風にみだるゝたとへにも、なをあきたらず、思ひ參らせ候、我身は深山のむも〔理〕れ木の、くちはてゆかむもちから〔力〕なし、おもひの末ののこりなば、君が身の上いかにせん、せめて手ふれししるし〔印〕とて、御返事給はらば、御うれしく參候、

とかきておく〔奧〕に、

  かながしら、めばるのをよぐ、波のうへ、

  みるにつけても、おこぜ戀しき、

とよみて獺にこそわたしけれ、げにも山かたおくふかくすみけるものとて、文のこと葉もいとゞふつゝかに、さるか可(かた? また歌?)のきたなげさよと(そ?)、かわうそもこゝろには思ひけらし、

 かくて獺は、いとゞはなうそやき(ぶき?)つゝ、濱邊にたち出で、海の底につぶつぶと水練し、おこぜの姬にたいめんして、しかじかとかたりければ、おこぜはこれをきゝて、おもひもよらぬ御事かなとて、手にも文をばとらざりけり、

 獺は、あゝつれなの御ことや、藻にすむ蟲のわれからと、ぬらすたもと〔袂〕のそのしたにも、なさけは世にすむ身の上に、なくてはいかになら〔楢〕柴の、かりのやどりの契りだに、おもひをはらすならひぞかし、ましてやこれはつねならぬ、後は契りの底ふかく、戀にしづみしそのこゝろを、いかでかたゞにはすごし給はん、しほ〔鹽〕やく海士(あま)のけぶりだに、思はぬかたになびくらん、春の靑柳風吹ば、かならずなびく枝ごとに、みだれ心のあはれさを、すこしはおぼししらせ給へなと、さまざまに申しければ、おこぜはつくづくとうち聞て、さすがに岩木ならねば、御はづかしく侍べれどもとて、

[やぶちゃん注:以下おこぜの消息文は、段落末尾の「參候。」まで、底本ではすべて一字下げ。なお、表記の通り、ここの末尾は山神の消息文と異なり、句點となっている。なお、「參候」は先に同じだが、漢字表記とした。]

おぼしめしよりたる水くき〔莖〕のすゑ、御こゝろのほどもあはれに思ひまいらせ候へども、たゞかりそめのうはべばかりに、空なさけかけられまいらせして、秋の草のかれがれに、候はん時は中中、後にはまくず〔眞葛〕が原に風さはぎて、恨み候はんもいかゞにて、御入候、とかくさも候はゞ、おもひすてさせしてたまわ(れ?)かし、あはぬむかしこそはるかのましにて、今のおもひにくらぶればと申すこと〔言〕も、御入候ぞや、まことにかく〔斯〕とおぼしいれさせ給はゞ、我身は靑柳の糸、君は春風にて、御入侯ほんとおもひをき參候。

とかきて、

  おもひあらば、たま藻の影に、ねもしなん、

  ひしきものには、波をしつゝも、

とうち詠じて(熊楠謂ふ、「ヒジキ」藻を敷物に言懸[やぶちゃん注:「いひかけ」。]たる也)、獺にわたしければ、よろこびて立歸り、山の神に見せければ、うれしな〔泣〕きになみだをこぼして、返事ひらき、よみてみれば、我身は靑柳の糸、君は春風と書給ひしは、なびき侍らんといふ事なるべし、さらば今宵おこぜの御もとへまいるべし、とて〔迚〕もの御事にみち〔道〕しるべして給はれといふ、やすき御事也、御とも〔供〕申さんといふ、かゝる處にたこ〔蛸〕の入道、このよしをつたへ聞て、さても無念のことかな、それがしおこぜのもとへたびたび文をつかはすに、手にだにもとらず、なげかへ〔投返〕し侍べるに、山の神のをくりし文に返事しけるこそ、やす〔安〕からね、法師の身なればとかくあなどりて、いかやうにやいたすらん、烏賊(いか)の入道はなきか、をしよせてそのおこぜふみころせとぞののしりける、

 烏賊の入道うけたまはり、おなじくは御一門めしあつめて、をしよせたまへと申ければ、しかるべしとて、蘆蛸(足長蛸?)、手なが章魚、蛛螵(蛸?)、飯だこ〔蛸〕、あをり烏賊、筒烏賊にいたるまで、使をたてゝめしよせ、はやをしよせむとひしめきたり、

 おこぜは此よし〔由〕きゝつたへ、このまゝこゝにあらむよりは、山のおくにもかくればやとおもひつゝ、波のうへにうきあがり、あかめばる、あかう、かながしらをともなひて、山の奧にわけいりければ、おりふし山の神、かわうそをともなひて、濱べら能遣(の去る?)所に候てはつたと行あふ〔逢〕たり、やま神みわあまりのうれしきにうろたへて、おはせて、山々にわおこたりし(?)、山の奧は海の上、川うそをおこせけりと(?)、らちもなきことゞもいひちらし、それよりうちつれて、をの〔己〕がすみか〔住家〕に急場(?)に歸ゑり、連理のかたら〔語〕ひをなしたるとぞきこ〔聞〕えし。

  (明治四十四年二月人類学第二十六卷)

[やぶちゃん注:「鹽木」「しほき」(「しほぎ」とも)は、塩釜で海水を煮つめるのに用いる燃料の薪(たきぎ)。昔は、松葉が燃料として最適のものとされていたが、他に萱(かや)・葭(よし)・篠笹・松の細枝などが用いられた。

「うそうそと」副詞。落ち着かない様子で、見回したり、歩き回ったりするさま。

「やさもの」「優者」。優れて美しい者。

「かながしら」棘鰭上目条鰭綱カサゴ目ホウボウ科カナガシラ属カナガシラ Lepidotrigla microptera「大和本草卷之十三 魚之下 金頭(かながしら)」で益軒は「カサゴ」に似ているなどとのたもうているが、誹謗中傷も甚だしい。似ているのはホウボウである。

「あかめばる」メバルSebastes inermis の流通名。俗に市場では「赤」とか「金(きん)」と呼ばれる。全体に黒味が強く、やや赤味がかる。沿岸・内湾性である。詳しくは、「大和本草卷之十三 魚之下 目バル (メバル・シロメバル・クロメバル・ウスメバル)」の私の注を参照されたい。違いを解説してある。

「あづま〔東〕琴」和琴(わごん)。

「ひくあみの、めごと〔目每〕にもろき我なみだ」海士(あま)の掛け引く漁網の「目」と、己が二つの「目每」に掛ける。

「かゝらざりせばかゝらじと」網に掛からずに済むことなら、どうか、掛からぬようにと祈って。それを受けての下句は、掛からずに済み、「後はくやし」いのは海士の方で、獲れずに「うれ」ふ(憂ふ)のであり、さらに「うれし船(ぶね)」は、助かった魚たちが「嬉(うれ)しぶ」を掛けたものであろう。

「水こゝろをしらねば」表向きは「水心(みづごころ)を知らねば」=水泳の心得がないと言いつつ、裏に「魚心(うをごころ)あれば水心」(魚に水と親しむ心があれば、水もそれに応じる心がある意から、「相手が好意を示せば、自分も相手に好意を示す気になる。相手の出方次第でこちらの応じ方が決まること」の喩え)を効かす。

「つくまりて」「つくまる」は「つくばふ(蹲ふ・踞ふ)」の転訛で、「しゃがみこんで」。

「こでまね〔小手招〕き」「こてまねき」とも。手先を振って招くこと。

「ひくやもすそのあからさまなる」「引くや、裳裾のあからさまなる」。オコゼの長い鰭をも掛けていて、ビジュアルにも効果的で上手い。

「かやのみ〔實〕」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera の実は食用となる。但し、アク抜きが必要。

「なみだのえだをりにて(を栞(しを)りにて?)」熊楠の解読が正しい。滂沱と出ずる涙が彷徨する浜辺に垂れて、それが道しるべの代わりをするという意である。

「うとらうとら」「うつらうつら」の転訛であろう。

「いかならむたま〔玉〕たれのひま、も〔洩〕りくる風のたよりもあれかし」「如何ならむ、玉簾(たまだれ)の隙(ひま)、洩り來る風の便りもあれかし」で、「何んとか、入り口に掛けてある玉簾(たますだれ)の細い隙間から漏れて吹き来たる、ちょっとしたおこぜ姬にかかわる『風の便り』でも、切(せち)に欲しいものじゃ!」の意であろう。

「なからむ跡までも」「後の世のつみ〔罪〕とがも、すこしはかろ〔輕〕くあるべきを」狼男の山の神が後世を語るところがまことに面白い。

「都のうち、因幡堂の軒の口なる鬼甍(瓦?)」京都市下京区因幡堂町(いなばどうちょう)にある真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ)。「因幡堂」「因幡薬師」の名で親しまれている。ここ。狂言「鬼瓦」の舞台としても知られる。但し、同寺の鬼瓦は鬼形(きぎょう)の形象は全くないらしい。Tappy氏のブログ「自社巡礼.com」の「【因幡薬師】日本三如来に数えられる、がん封じのお薬師さま(因幡堂)」の、本堂前に置かれた鬼瓦の写真とその画像の中の解説を見られたい。

「獺(かわうそ)」我々がニホンオオカミとともに絶滅させてしまった、食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon 「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を参照。考えて見ると、このヒーロー「山の神」の「狼」も、その眷属の「獺」も、もうこの世には存在しないのだ。

「たそやは、山の神のな〔泣〕くは」「さて? 誰が泣いているだろう? おおっ! 山の神さまが泣いておられる! 如何がなされた?」。

「いかにもして、神の事しろしめしたり」とりあえず私は、前に続いて獺の台詞ととった。「どんなことでも、山の神さまのお世話を致しましょう。」。但し、「しろしめす」は「知る」の尊敬語だから、用法としてはおかしい。自敬表現ととって「なんとかして、我らの思うて(おられる)ところの」の意で下に続くと考えることも出来る。しかし以下では、「侍べり」「侍べらんに」「とゞけて給はれ」と丁寧語と尊敬語を「山の神」は獺に使っており、頭だけ自敬表現というのは話が通らないから、やはり獺の台詞である。

「よそのきこ〔聞〕えもをこがまし」「世間の聞こえもこれ、『如何にも馬鹿げた話じゃ』ということになりましょうぞ。」。

「女の目にはすゞをはれ」慣用句「男の目には糸を引け女の目には鈴を張れ」の後半。男の目はきりりと、真っ直ぐなのがよく、女の目はぱっちりと大きいのがよいということの喩え。

「けぢめなき」他の人と悪い意味での隔たりや違ったところ(「けじめ」)というものは、これ、全く、ない。山の神は「痘痕も靨(えくぼ)」状態である。

「心をかけずといふことなからん」反語。「心が惹かれないということがあろうものか!」。

「深山」「みやま」。

か可(かた? また歌?)」これは恐らく「哥」(うた:「歌」の異体字)の草書を上下で分離して起こしてしまった誤りと思う。

「かわうそもこゝろには思ひけらし」結構、狡猾な獺の内心が描かれて、これまた、笑いを誘うところである。

「いとゞはなうそやき(ぶき?)つゝ」「たいそう鼻を突き出して偉そうにしつつ」の意であろう。

「つぶつぶと」「ぼこぼこと音を立てて」か。或いは、それに、『何で、あの醜女(しこめ)のところへ行かにゃならんのじゃ?』 という内心の不満を「ブツブツ言いながら」もをも、掛けているように思われる。

「われから」節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類。『毛利梅園「梅園介譜」 ワレカラ』を参照。無論、「我から」(山の神自身、自ら)の意も掛ける。以下の懇請は、意外な獺の博識と風流を感じさせ、面白い。

「柳風吹ば」「やなぎ、かぜ、吹かば」。

「水くき〔莖〕のすゑ」恋文の筆跡、その内容。

「御入候」「おほんいりさうらふ」。丁寧語で「御座います」の意。

「たま藻」水中に生える藻の美称の古称。特定の藻類種を指す語ではない。

「ひしきもの」褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme。古くより食用とされ、平安の昔より歌にも詠まれた。「大和本草卷之八 草之四 鹿尾菜(ヒジキ)」を参照。この一首は、そこに示した「伊勢物語」の一首、

 思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつゝも

を典拠としている。さらに熊楠の指摘する通り、「ひしきもの」には閨(ねや)の「敷物」の意が重ねられている。

「法師の身なれば」「蛸入道」に引っ掛けたもの。

蘆蛸(足長蛸?)」頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目無触毛(マダコ)亜目マダコ亜目マダコ科マダコ亜科マダコ属テナガダコ Octopus minor であろう。福岡県柳川市では同種を「アシナガダコ」と現在も呼称している。

「手なが章魚」マダコ科Callistoctopus属テナガダコ Octopus minor

蛛螵(蛸?)」マダコ科Paroctopus 属クモダコ Paroctopus longispadiceus

「飯だこ〔蛸〕」マダコ属イイダコ Octopus ocellatus

「あをり烏賊」頭足綱鞘形亜綱十腕形上目閉眼目ヤリイカ科アオリイカ属アオリイカ Sepioteuthis lessoniana

「筒烏賊」十腕形上目ツツイカ目 Teuthida のツツイカ類。多数の種を含む。

「あかう」これはスズキ目スズキ亜目ハタ科ハタ亜科ハタ族マハタ属キジハタ Epinephelus akaara であろう。同種は現在でも「アコウ」の異名で呼ばれることが多い。

「濱べら能遣(の去る?)所」不詳。「浜邊」を「よく遣(い)ぬる(=「去ぬる」)所」か?

「はつた」「はた」の強調形。思いがけず出会うさま。ばったり。

「やま神みわ」「山神(やまがみ)は」。「み」は捨て読みで、「わ」は口語体。

「おはせて」「負はせて」であろう。おこぜ姬を獺に背負わせたのであろう。

山々にわおこたりし(?)」意味不明。「山々」ではなく、「山神」で、「わ」は同前であって、「山神には、怠りし」で、「山神には、このような事態となったことを、自分の失敗であったと、謝った。」の意ではなかろうか?

「山の奧は海の上、川うそをおこせけりと(?)」意味不明。但し、直後に「らちもなきことゞもいひちらし」と続くことから、図らずも、おこぜ姫と邂逅したことから、気が動転して、訳の分からないことを言ってしまったととると、「山の奥は……海の上……獺を背負った……」と、一種の語句・構文のゲシュタルト崩壊を起こしたととると、甚だ面白いと私は思う。

急場(?)に」意味不明。「急場」は「差し迫って直ぐに処置しなければならない場合」の意であるから、まあ、「差し当たって」の意でよかろう。]

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