多滿寸太禮卷第三 强盜河邊惡八郞が事
强盜(ごうだう)河邊(かはべの)惡八郞が事
元享(げんこう)年中に、和州三輪郡(みわこほり)に、川邊惡八郞といへる强盜の大將、有《あり》。
かれ、幼(いとけな)き比《ころ》、父母にをくれ、叔父に養はれ、おさなき時より、生れつき、余の者に勝(すぐ)れ、强力(ごうりき)にして、身、かろく、足、はやき事、鳥の飛(とぶ)がごとく、いかなる駿馬(しゆんめ)もつゞきがたし。
十一歲にて、叔父(おぢ)の供して、南都に赴(おもむ)く。
路(みち)にて山賊にあひ、叔父、已に組みしかれ、危(あやう)く見へしに、賊(ぬすびと)の喉笛に喰付(くひつき)て、終可(つひ)に、くらいはなし、叔父を助けたりしかば、世に「惡八郞」とぞ呼(よば)れける。
從弟なる者と妻を諍(あらそ)ひ、打ち殺したれば、所の住ひ、成《なり》がたく、浪牢の身となりて、爰《ここ》かしこ、さまよひけり。後には、强盜(ごうだう)、數(す)十人したがへ、宇治大路、小幡(こわたの)山中(やまなか)に出《いで》て、切取(きりとり)・追剥(おひはぎ)して、世を世ともせず、をくりけり。年、いまだ三十をこへず、せいは七尺に及び、色、白く、にうはにして、常に、好むで、立烏帽子(たてゑぼし)を着たりければ、世の人、「立ゑぼし」と異名して、怖れあへり。
[やぶちゃん注:「河邊惡八郞」不詳。この「悪」は「強い」の意であって「悪い」の意味はない。平安後期以降、武士の通称によく用いられた。頼朝の異母兄源悪源太義平など。
「元享」一三二一年から一三二四年まで。天皇は後醍醐天皇、鎌倉幕府執権は北条高時。鎌倉最末期。
「美輪郡」行政地名として奈良の美輪地区(現在の奈良県桜井市三輪はここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に鎌倉時代に「美輪郡」が置かれていた形跡はない。
「宇治大路」宇治橋から三室戸(みむろど)に至る道の通称。この辺り。
「小幡(こわたの)山中」前注の北方の、現在の宇治市木幡(こばた)の東方部(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「切取」切取り強盗。人を斬り殺して、金品を奪い取ること。]
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]
或る時、うちつゞき、仕合《しあはせ》も惡(あし)ければ、奈良にうち入《いり》、興福寺の、ある寺院に忍び入て、天井に上り、息をとゞめて、人の靜まるを待居《まちゐ》たり。
あるじの僧、夜(よ)、更(ふく)るまで、兒(ちご)・同宿(どうしゆく)に、もの敎へ給ひしが、「法華經」を習ふ兒のありしに、「今此(こんし)三界《さんがい》皆是(かいぜ)我(が)其中(ごちう)衆生悉是(しつぜ)吾子(ごし)」と云《いふ》文に至り、老僧、和訓して、
「『今、この三界は、みな、これ、わが國也。その内の人間は、悉く、是、わが子なり。』と、敎主釋尊の說き置《おか》せ給ひつるぞ。」
と語り給へば、八郞、一々、天井にてこれを聞《きき》、
「三界の衆生、みな、佛の子ならば、吾れも、佛の子、成《なる》べし。此者共も、佛の子なれば、吾れも、まさしき兄弟の物を盜みとらんは、不道の上の、重罪なるべし。」
と、忽ちに發起(ほつき)して、其の寺より、歸りけり。
其後《そののち》、いくほどなくて、頓(とみ)に死けり。
[やぶちゃん注:「興福寺」ここ。
「仕合」巡り合わせ。運。事の成り行き現行では「幸せ」と書いて、専ら運の良いことしか言わぬが、古くは上義で、運は良い場合にも悪い場合にも用い、「しあはせよし」とか、「しあはせわろし」のように言い表わした。
「今此三界皆是我其中衆生悉是吾子」同経の譬喩品(ひゆほん)第三の一節。以下、「而今此處唯我多師諸患難一人能爲救護」(にこんししよゆいがたしげんなんいちにんのうゐくご)と続く。「今、此の三界は、皆、是れ、我が有(いう)なり、其の中(うち)の衆生は、悉く、是れ、我が子なり。而(しか)も、今、此の處は、諸々(もろもろ)の患難(げんなん)多し。唯だ、我れ一人のみ、能く救護を爲す」で、「現存在の総ては、これ、私が完全な大安心に導いてゆく世界である。即ち、そこに生きている総ての人々は、これ、一人残らず、 私の子どもである。 しかも、今の世界は、ありとあらゆる、身体と心の苦悩に満ち溢れている。唯だ、私一人だけが、 そこから衆生を救い導き、 守ることが出来る。」の意。]
元より、賊中の事なれば、あたりの野原に捨てける。いかゞしけん、犬・狼・鳥・獸(けだもの)も、くらはず、七日《なぬか》を過《すぎ》たり。
かれがけむぞく[やぶちゃん注:「眷屬」。]の盜人ども、行《ゆき》てみるに、忽《たちまち》に、よみがへり、起居(をきゐ)たり。
或は怖れ、或《あるい》は、よろこぶといへども、人に面《おもて》をむかふこともなく、物いふ事も、なし。
此者共、肝(きも)をけし、恐れて逃げ歸りぬ。
爰に、興福寺の僧、不淨觀を修(しゆ)せん爲に、每夜(まいや)、葬場・古墓(こぼ)をめぐりけるが、此者に逢ひぬ。
僧、
「何者ぞ。」
と問へば、
「我は、『立烏帽子』といへる賊(ぬすびと)也。近く、より給へ。物、申さむ。」
といへば、此僧、名を聞《きき》、
『哀れ、日比(ひごろ)聞及《ききおよ》びつる惡黨也。我を害せんとするにや。』
と思ひながら、近か付きて尋ぬるに、彼(か)の者、申《まうす》やうは、
「我は、是、天下第一の賊、『川邊惡八郞』と申《まうす》者也。はからず、死して、七日にまかり成《なり》さぶらふ。我、『死《しぬ》。』と思へば、鐵卒(てつそつ)と申《まうす》怖ろしき者、三人、來り。我を取りこめて、『車卒(しやそつ)』と云ふ者、火の車を持來《もちきた》り、吾れを、とつて、のせ、五體を火車に燋(こが)せば、熱苦(ねつく)忍びがたく、中々、人間《じんかん》の火は、かれになぞらへては、水のごとし。次に、『壷卒(こそつ)』と云《いひ》て、一人、來り、『神壷(しんこ)』と云《いふ》袋に、わが魂(たましひ)を取つて入《いれ》、又、繩にて、しばり、泣けども、淚、たらず、炎火(えんくわ)、面(おもて)をこがす。さけべども、聲、いでず。鐵丸(てつぐわん)、喉(のど)をやき、助くべき人も、來らず、哀れむべき人も、なし。苦患(くげん)、たとへむかたなし。普通の罪人は、廳前(ちやうまへ)にて、勘聞(かんもん)すといへども、大王を初め、冥官(みやうくわん)・冥衆(みやうしゆ)、出で會ひて、
『國中第一の惡人、深重(じんぢう)の罪人なり。無間地獄(むけんぢごく)におとすべし。但《ただし》、あまりに、にくきやつ也。爰にて、先《まづ》、さいなみ、うつべし。』
と、あれば、獄卒、鐵丈(てつぢやう)を以《もつて》、誠(まこと)に威を振(ふるう)て、うたむとする時、貴僧、壱人《ひとり》、來りて、
『不便(ふびん)なり。』
と仰られしかば、大王・冥官等(たう)、草の風に、ふすがごとく、皆、一統に平伏し、尊敬禮拜(らいはい)す。爰に貴僧の云はく、
『三界の衆生は、皆、是、我子なり。其中にも、此者は、我を父として、盜みの心をやめたる者也。父として、孝子(かうし)を哀れまずんば、有《ある》べからず。』
と、のたまひて、我を乞ひ請け給ひ、則ち、錫丈を以て、道を敎へて、
『速かに閻浮(ゑんぶ)に歸るべし。我は敎主釋尊なり。』
と仰らるゝと覺えて、今、爰に、蘇生したり。
けんぞく、來りて、
『いかん。』
と問へども、吾れ、生(しやう)を賊(ぬすびと)の中に受けて、惡業(あくごう)、多く作る故に、まさしく、無間地獄におつべしなれば、彼等をみるに付《つけ》ても、心、うかりしかば、返事もせず、面も、むけず。尺尊(しやくそん)の御助《おんたす》けなれば、御僧、なつかしく思ふゆへに、かやうに申《まうす》なり。急ぎ、我を、出家せさせて、たび候へ。」
とて、血の淚を流せば、僧も、ふしぎに、又、哀れにおぼえて、住所(ぢうしよ)の寺につれ歸り、出家させて、沙彌(しやみ)と成して、難行苦行して、「法華經」を讀誦(どくじゆ)しけるが、本《もと》より、勇猛精進にして、持戒持律の僧と成《なり》ぬ。
[やぶちゃん注:「不淨觀」観(法心に仏法の真理を観察し、明らかにせんとする修法)の一つで、修行者が執着心を除くために、肉体の死んで亡びゆくさまを想起したり、実際を観察して、その不浄の実際を悟ることを言う。
「車卒」以下の「壷卒」や「神壷」ともに、私は知らない。作者は前回の「秦兼美幽冥禄」と同じく、この手の想像設定が好きらしい。
「勘問」罪状を調べながら訊問すること。責め問うこと。
「無間地獄」サンスクリット語「アヴィーチ」の漢訳語。後には「むげんじごく」と濁っても読む。八熱地獄の第八番目で最下底の最悪の地獄である。我々の住む閻浮提(えんぶだい)の地下二万由旬(ゆじゅん:サンスクリット語「ヨージャナ」の漢音写。古代インドにおける長さで、換算値に諸説あるが、一説では一万三千三百キロメートル)にあるとされる。五逆罪(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢(サンスクリット語「アルハト」の主格形「アルハン」の漢音写。「尊敬を受けるに値する者」の意。声聞(しょうもん:仏弟子)の到達しうる最高の位。菩薩の下位)を殺すこと・僧の和合を破ること・仏身を傷つけること)の大罪を犯した者がここに落ち、一劫(いっこう:サンスクリット語「カルパ」の漢音写。通常は「非常に長い時間」という意であるが、数理学的に厳密な仏教では、上下四方四十里の巨大な城一杯に小さな芥子(けし)の実を満たし、三年ごとに一粒ずつ、その実を取り除き、それが総て無くなる時間を「一劫」と説明した「芥子劫」が一般的)の間、間断なく責苦を受ける所。「阿鼻地獄」と同じ。
「錫丈」「錫杖」のこと。]
或る年、南都北領(ほくれい)[やぶちゃん注:「領」はママ。]、遺恨をむすび、興福寺の衆徒(しゆと)、をのをの、戰場に赴きけるに、此入道も、さるものなれば、語(かた)らはれて、甲冑を帶し、已に打出《うちいで》けるが、
「我、一たび、たぐひなき黃泉(くわうせん)の責めをうけ、釋門(しやくもん)に入《いり》て、又、先業(せんごう)に歸る、あさましさよ。」
と、心に悔み、かなしみ、急ぎ、鎧をぬぎ捨て、宇治山の深洞(しんとう)にかくれて、おこなひすまし居《ゐ》けるに、或る夜(よ)、人、來りて、庵室をめぐり、入道を呼ぶ。
曉に至りて、音、なし。三夜、おなじごとくに呼ぶといへども、更に、いらへず。あまりによべば、
「吾れを呼ぶは、何者ぞ。入り來りて、云《いふ》べし。」
と、いへば、うちに入《いり》ぬ。
見れば、長(たけ)六尺有余[やぶちゃん注:二メートル超え。]の者、面の色、靑く、目を見はり、口、大きにして、耳のもとまできれ、黑き衣を着(ちやく)し、僧のまへに來りて、合掌しけり。入道、つらつら、みる事、やゝ久し。
「汝、寒きや。此火の本へよりて、身を、あたゝめよ。」
と、いへば、化物、則ち、座につゐて、火に、あたりぬ。
一言(いちごん)も、語らず、只(たゞ)、經をよみ居(ゐ)けり。
夜(よ)も五更に成《なり》ぬ。化物、火にや、よひけむ、口をひらき、目を閉ぢて、爐(ろ)のもとに打臥《うちふし》、いびきを、かく。
入道、そばに有《あり》ける杓子(しやくし)といふものに、あつき灰(はい)を救(すく)ひて、其口の中に埋《うづ》み入《いれ》たり。
妖物(ばけもの)、大きに叫び起きて、門をさして、走り出(いで)る。
つまづき、倒(たふ)れたる聲して、後(うしろ)の山に登ると覺えて、夜(よ)、已に明けたり。
入道、そのつまづきたる所をみれば、木の皮、一片、あり。いま、はぎたるものゝごとし。これを持ちて、山に登りてみるに、十四、五町[やぶちゃん注:十四、五キロメートル。]もゆきて、ある谷陰に、大きなる桐(きり)の木、有《あり》。幾世(いくよ)ふるともしらぬ老木(おひき)にして、其の木のもと、くぼみて、新らしく缺けたり。
入道、かの木の皮をつけて、くらぶるに、ぢやうと、あひて、透間(すきま)、なし。木の半ばに、疵(きず)、あり。落ち入《いり》たること、深さ、六、七寸に及ぶ。
かの妖物(ばけもの)の口にして、あつ灰(ばい)、そのうちにあり。久しく、猶《なお》、火氣(くわけ)、あり。入道、火を以て、その木を燒き倒(たふ)すに、此の後(のち)、ながく妖怪(ようけ)、なし。
入道も、二度(ふたゝび)この山を出《いで》ずして、行ひすましたりしが、其の終りを、しらず。
[やぶちゃん注:最後の古木の変化(へんげ)を唐突に配することで、怪談自体のリアリズムが、逆に、増している。この作者、なかなか侮れないとみた。
「興福寺の衆徒、をのをの、戰場に赴きけるに」ウィキの「興福寺」によれば、『鎌倉時代や室町時代には』、『武士の時代になっても』、『大和武士』及び『僧兵等を擁し』、『強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って』、『織豊政権に屈し』、文禄四(一五九五)年の『検地では、春日社興福寺合体の知行として』二万一千余石とされ、『江戸幕府からも寺領』として同じく二万一千石を『認められた』とある。
「宇治山」京都府宇治市の南東部にある喜撰山。喜撰法師の住居跡がある。標高四百十六メートル。]