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2022/05/20

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 二」 / ブログ版「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」~了

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が明治四四(一九一一)年八月発行の『人類學雜誌』二十七巻五号に初出され、「二」が大正元(一九一二)年八月発行の同じ『人類學雜誌』二十八巻八号に初出されて、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。この「二」の初出は「j-stage」でPDF版で見られる。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが「二」の冒頭)で視認して用い、以上の初出画像も参考にした。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。例によって、南方熊楠の文章はダラダラと長いので、「選集」を参考に段落を成形し、そこに注を挟んだ。不審な箇所は「選集」で訂したが、それはいちいち注記しなかった。漢文表記の部分は直後に《 》で推定訓読文を添えた。]

 

    睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 

 

 人類學雜誌二七卷五號三一二頁に拙文出て後ち[やぶちゃん注:本篇の「一」のパートを指す。]、石橋臥波君其著「夢」の一篇を贈らる。其五三、九一、一〇七、二〇〇等諸頁に、本題に關する例多く載たり。今少しく引て管見を添んに、先づ伊勢物語に、情婦の許より、今霄夢になん見え給ひつると云へりければ、男、

  思ひ餘り出にし魂の有ならん

    夜深く見えば魂結びせよ

と詠みしと有り。和泉式部が、男の枯れ枯れに成にける頃、貴船に詣でたるに、螢の飛ぶを見て、

  物思へば澤の螢もわが身なり

    あくがれ出づる魂かとぞ見る

と詠めりと古今著聞集に見えたる。(沙石集卷五には、澤の螢を澤邊の螢とせり。彼女の家集には全く載せず)。また拾芥抄に、「玉は見つ主は誰とも知らねども結び留めつ下かへの裙」、見人魂時、吟此歌、可結所著裙(男左女右)《人魂(ひとだま)を見し時、此の歌を吟じ、著(き)る所の衣裙(男は左、女は右)を結ぶべし。》と有る抔と攷合[やぶちゃん注:「かうがふ」。]して、中古本邦に、靈魂夢中、又心勞甚き時、又死亡前に身を離れて他行[やぶちゃん注:「たぎやう」。]するを、他の眼に火の玉と見ゆると信ずる、俗習有りしを知り得。

[やぶちゃん注:「石橋臥波」『其著「夢」』石橋臥波(いしばしがは 生没年未詳)は民俗学者。明治四五(一九一二)年の「日本民俗学会」の創設に携わり、同学会の機関誌『民俗』や、学術雑誌『人性』の編集を務めた。「夢」は明治四〇(一九〇七)年二月宝文館刊。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本が読める(裁定公開であるから、没年は未詳のようである)。その「五三」ページはここ。以下、「九一」はここ「一〇七」はここ「二〇〇」はここである。

「伊勢物語に、情婦の許より、今霄夢になん見え給ひつると云うへりければ、……」第百十段。

   *

 むかし、男、みそかに[やぶちゃん注:秘かに。]通ふ女ありけり。それがもとより、「今宵、夢になむ見えたまひつる。」と言へりければ、男、

  思ひあまりいでにし魂(たま)のあるならむ

   夜深(よぶか)く見えば魂結(たまむす)びせよ

   *

「魂結び」肉体から離れ出た魂をもとに戻すための咒(まじな)い。遠く、しかも、魑魅魍魎の跳梁する夜更け、暁前の完全なる深夜にあくがれ出でてしまった魂は双方にとって危険である。

「和泉式部が、男の枯れ枯れに成にける頃、貴船に詣でたるに、……」「古今著聞集」のそれは巻第五「和歌 第六」の以下(一七四)。

   *

   和泉式部貴布禰(きぶね)に詣でて詠歌の事

 和泉式部、をとこのかれがれになりける比(ころ)、貴布禰にまうでたるに、螢のとぶをみて、

  物思へば澤のほたるも我身よりあくがれ出(いで)る玉かとぞみる

とよめりければ、御社(みやしろ)のうちに忍びたる御聲(おんこゑ)にて、

  おく山にたぎりておつる瀧つ瀨の玉ちるばかりものな思ひそ

其しるしありけるとぞ。

   *

「後拾遺和歌集」巻二十では、この二つ歌の後に、

   *

     この歌は貴舟の明神の御返しなり。

     男の聲にて、和泉式部が耳に聞こえ

     けるとなん、いひ傳へたる。

   *

と記されてある。「其しるしありけるとぞ」という附文からは、明神の慰めは「必ずや、男の訪れは復活するから、そんなにひどく悩んではいけない。」というお告げであったわけである。

「沙石集卷五には、澤の螢を澤邊の螢とせり」同書同巻の「二十 行基菩薩御歌事」の中の作者の評言中の附文の一節。

   *

佛の御敎へのみにあらず、神慮もかくこそ敎へ給ひぬれ。和泉式部、夫(をとこ)とかれがれになりける比、貴船禰に籠りて、螢のとぶをみて、

 物思へばさはべの螢も我身よりあくがれ出づる玉かとぞみる

かくながめければ、御殿の中より忍たる御聲にて、

 奥山にたぎりておつる瀧津瀨の玉ちるばかりものな思ひそ

   *

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は南北朝に成立した類書。「拾芥略要抄」とも呼ぶ。鎌倉時代には原形が出来ていたものを、洞院公賢(きんかた)撰で、その玄孫の実熙(さねひろ)が増補したとされる。歳時・文学・風俗・諸芸・官位・典礼など九十九部に分け、漢文で簡略に記述。全三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長の版本のここが当該部。「上ノ本」の「諸頌」の右丁の六行目。

   *

見人魂時歌

 玉ハミツ主ハタレトモシラ子(ね)トモ結留メツシタガヱノツマ

 誦此歌結二所著衣妻一【男ハ左ノシタガヒノツマ 女ハ同右ノツマヲ結

   *

「衣裙」は「もすそ」。次の次の段落のフライング注になるが、『「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈火(ひとだま)」』に、この咒文が載る。この電子化注は私の好みから昨年の三月に公開したもので、本篇のためのものではない。

 以下の一二つの段落は、底本では二つで一段落を成形しており、しかも全体が一字下げで、熊楠お得意の附記挿入である。長いけれど。]

 式部の歌の外に、苦悶極る時、火の玉外出すと信ぜるを證すべき者、義殘後覺卷三、「人每に人玉と云ふ物の有る由を、歷々の人歷然の樣にの給へども、聢と[やぶちゃん注:「しかと」。]受け難く候ひしが、北國の人申されしは、越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介攻め申さゝ程に、城にも强く禦ぐと雖も、多勢の寄て手痛く攻申さるゝ程に、城中弱りて、既にはや明日は打死せんと、追々暇乞しければ、女童部泣悲む事類ひなし。誠に哀れに見え侍りし。斯る程に、已に早日も暮れ懸りぬれば、城中より、天日程なる光り玉、いくらと云ふ數限りもなく飛出ける程に、寄せ衆之を見て、すはや城中は死に用意しけるぞや、あの人玉の出づる事を見よとて、吾も吾もと見物したりけり。斯るに因て、降參して城を渡し、一命を宥め[やぶちゃん注:「なだめ」。]候樣にと樣々あつかひを入られければ、内藏介此義に同じて事調うたり。扨は迚上下悅ぶ事限り無し。斯て其日も暮ければ、昨日飛し人玉又悉く何處[やぶちゃん注:「いづく」。]よりかは出けん、城中さして飛び戾りけり。之を見る人幾許と云ふ數を知らず、不思議なる事共也」と有り。

[やぶちゃん注:「義残後覚」(ぎざんこうかく)は十六世紀末に成立したとされる世間話集。全七巻八十五話。編者は愚軒(事績不詳であるが、豊臣秀次の側近衆に関わりのあった御伽衆の一人であったとも思われている)。原本の成立は文禄年間(一五九二年~一五九七年)と奥書があるものの、実際の今に伝わるそれは、それよりもやや下るものと見られている。国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧」第七冊のこちらで、原文が読める。また、ずっと昔に、「柴田宵曲 妖異博物館 人魂」で、電子化してあるので、そちらの方が読み易いかも知れぬ。]

 死する前に人玉出る事、倭漢三才圖會卷五八に見ゆ。歐州にも爾く[やぶちゃん注:「しかく」。左様に。そのように。]云ふ由、例せば Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, vol.ii, p580 に見ゆ。丁抹[やぶちゃん注:「デンマーク」。]にて、小兒の人玉は小くて赤く、大人のは大なれど淡赤く、老人のは靑しと云ひ、「ウールス」では、大人のは大にして赤く、小兒のは小さくして淡靑しと云ふ(拙文 “Life-Star Folk-lore,” Notes and Queries, Luly13, 1907, p.34 を見よ)。ギリシア海島には、火の玉を、空中の鬼が、死人の魂天に上るを妨ぐる現象とする民有り(Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.48)。支那の葬法に復の式あり。復は魂を取り戾すの義也。死人の衣を更るに先ち[やぶちゃん注:「かふるにさきだち」。]、淨衣を持て屋棟に上り、北に向て還り玉へと三呼し、斯くて魂を包める衣を持下り、絹紐もて括りて魂去るを防ぎ、飮食を奉ずる事生時の如くし、日數經て尸[やぶちゃん注:「しかばね」。]を葬る。此法今も行はるゝ所有りとぞ。日本紀卷十一、大鷦鷯尊、菟道稚郞子自殺して三日なるに、自ら髮を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果して薨じ玉へる由を載す。但し魂を結び留めし事見えず。「ホス」人、「バンクス」島人、「フジー」島人等も、死人の魂を呼び戾して葬りし由なれど、今も然るや否を知らず(予の “On Chinese Beliefs about the North,” Nature, vol.li, p.32, 1894)。Geo.Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, p.399 に、南洋の「ヨルク」公島人、人玉を幽靈とすと有れど、魂結びなどの事を記せず。本邦に嫉妬酷き妻の生魂、火の玉と成て、夫の亡妾の墓に赴き、その火の玉と鬪ひ勝し談有りしと記憶すれど、出所を忘れたり。又晉書に、東海王越死、帝哀痛、越柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒、中宗以爲非禮、乃下詔曰、夫冢以藏形、廟以安神、今世招魂葬者、是埋神也、其禁之《東海王、越、死す。帝、哀痛す。越の柩は焚かれ、乃(すなは)ち、魂を招きて、越を丹徒(たんと)[やぶちゃん注:現在の江蘇省鎮江市丹徒区。]に葬むる。中宗、以つて「禮に非ず。」と爲(な)し、乃ち、詔を下して曰く、「夫(そ)れ、冢(つか)は以つて形を藏(かく)す。廟は以つて神を安んず。今の世の招魂葬なる者は、是れ、神を埋(うづ)むるなり。其れ、之れを禁ぜよ。」と。》と見ゆ。

[やぶちゃん注:「死する前に人玉出る事、倭漢三才圖會卷五八に見ゆ」既注の『「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈䰟火(ひとだま)」』を参照。

Hazlitt, Faiths and Folklore, 1905, vol.ii, p580」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著「信仰と民俗学」。「Internet archive」のここだが、ちょっと不審な部分がある。即ち、以下のデンマークのそれは、ここではなく、次の注の熊楠の記事で、別の人物からの提供であることを述べているからである。

「“Life-Star Folk-lore,” Notes and Queries, Luly13, 1907, p.34「Internet archive」のここで原本の当該部が読める。「『生きている星の如く光る物(=人魂)』の民間伝承」。

Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.48」イギリスの探検家・考古学者・作家であったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。原本当該部は「Internet archive」のここ

「支那の葬法に復の式あり。復は魂を取り戾すの義也」サイト「EMORIAL CEREMONY SOU・SEN」内の「中国の古代葬儀」のページの「魂呼び」に以下の「復(ふく)の式」記載がある。

   《引用開始》

 人が奥の室で亡くなると、はじめに死者に掛けふとんを掛け、着ていた服を脱がせる。そして小臣が死者の口を開き、歯にさじを噛ませる。またひじかけで両足をはさみ、足が曲がるのを防ぐ。次に干した肉と塩辛と酒を死者の右側に供える。これが終わると堂にカーテンを垂らして室のなかを隠す。

 復者(魂招きをする者)が一人呼ばれ、死者の礼服を左肩にかけて屋根に昇り、屋根の中央に北を向いて立ち、衣服を振りながら死者に呼びかける、「ハーア、某(死者の名)よ、帰り来たれ」

 3度そのようにして招いたあと、庭に向かい衣服を投げ下ろす。それをかごで受けとめ、東の階段から堂に昇って、死者にそれを着せ掛ける。招いた衣服には魂がつつまれており、それを着せれば魂がもとに戻ると考えられていた。この魂呼びの風習はどこにおいても行われたもので、旅館で死ぬと旅館、戦場で死ぬと戦場で矢をもって復を行ったという。

 この招魂の儀式を行なっても死者が生き返らぬことがわかったら、葬送の準備が始められる。

 葬送儀礼の目的は、死者の身体を大切に扱うことと、その魂に仕えることである。歯にさじをかませ足を固定するのは身体を大切に扱うことであり、肉や酒を供えるのは魂に仕えることである。

   《引用終了》

なおここに出る、衣服を死者の屋根の上で振って「魂呼び」をする習俗については、私が大学時代、唯一人、尊敬した吹野安先生の実体験談を忘れない。先生は茨城県西茨城郡大原村(現在の笠間市)の御出身だったが、御母堂の死に際して、講義を終えた後(御母堂との約束で、万一、亡くなっても、仕事を終えてから戻るようにと厳命されておられたのである。「親族からは、死に目に逢わなかったことを非難されたが、俺は、平気だったね。」とおっしゃっておられた。その時、まず、やったのが、実家の屋根の上に登って、母の普段着を、西に向かって、三度、大きく振りながら、「お~い! お~い! お~い!」と、「魂呼び」をした、とお話になられたのを、私は非常に印象深く覚えているのである。

「日本紀卷十一、大鷦鷯尊、菟道稚郞子自殺して三日なるに、自ら髮を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果して薨じ玉へる由を載す」「大鷦鷯尊」は「おほささぎのすめらみこと」で後の仁徳天皇、「菟道稚郞子」は「うぢのわきいらつこ」で第十五代応神天皇皇子(本「日本書紀」では皇太子)にして第十六代仁徳天皇の異母弟で、彼のウィキによれば、『父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊』『に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる』但し、これは「日本書紀」に『のみ記載された説話で』、「古事記」では『単に夭折と記されて』おり、これら記紀の『郎子に関する記載には』、『多くの特異性が指摘されるほか』、「播磨国風土記」には『郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である』とある。原文は以下。訓読は、概ね、昭和六(一九三一)年岩波書店刊の黒板勝美編「日本書紀」に拠った)、

   *

太子曰「我知、不可奪兄王之志。豈久生之、煩天下乎。」乃自死焉。時大鷦鷯尊、聞太子薨以驚之、從難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊、摽擗叨哭、不知所如、乃解髮跨屍、以三乎曰「我弟皇子。」乃應時而活、自起以居。爰大鷦鷯尊、語太子曰「悲兮、惜兮、何所以歟自逝之。若死者有知、先帝何謂我乎。」乃太子啓兄王曰「天命也、誰能留焉。若有向天皇之御所、具奏兄王聖之、且有讓矣。然聖王聞我死、以急馳遠路、豈得無勞乎。」乃進同母妹八田皇女曰「雖不足納采、僅充掖庭之數。」乃且伏棺而薨。於是大鷦鷯尊、素服爲之發哀哭之甚慟。仍葬於菟道山上。

(太子曰はく、

「我れ、兄王(いろねのきみ)の志しを奪ふべからざることを知れり。豈に久しく生きて、天下を煩はしむや。」

と、のたまひて、乃(すなは)ち自ら死(をは)りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、『太子、薨(みまか)れましぬ。』ときこしめして、以つて驚きて、難波(なには)より馳せて、菟道宮(うぢのみや)に到ります。爰(ここ)に太子薨れまして三日に經(な)りぬ。時に大鷦鷯尊、摽(みむね)[やぶちゃん注:「御胸」か。]、擗(う)ち、叨(おら)ひ哭(な)きて、所(せ)む如(すべ)を知らず。乃ち、髮(みくし)を解き、屍(かばね)に跨(またが)り、以つて三たび呼びて曰はく、

「我は弟皇子(いろとのみこ)。」

とのたまふ。乃ち、時に、應(こた)へて活(いきい)でたまひ、自ら起きて以つて居(ゐ)ます。爰に大鷦鷯尊、太子に語りて曰はく、

「悲しきかも、惜しきかも、何の所以(ゆゑ)にか、自ら逝(す)ぎましし。若(も)し、死者、知(さとり)有らば、先帝、我(やつが)れを何(いか)が謂(おは)せむや。」

と。

 乃ち、太子、兄王に啓して曰はく、

「天命(いのちのかどり)なり。誰(たれ)か能く留めむ。若し、天皇(すめらみこと)の御所(おもと)に向(まうでいた)ること有らば、具さに兄王の聖(せい)にして、且つ、讓り有(まし)ますことを奏さむ。然(しか)るに、聖王、我は死を聞こしめし、以つて遠き路より急ぎ馳(い)でませり。豈に勞(いた)はれる無きことを得んや。」

と。

 乃ち、同じ母(はた)の妹(いろと)八田皇女(やたのひめみこ)を進めて曰はく、

「納(め)し采(い)るに足らずと雖も、僅かに掖庭(うちつみや)[やぶちゃん注:後宮。]の數(ひとかず)に充てたまへ。」

と。

 乃ち、且(ま)た棺に伏して薨れましぬ。是に、大鷦鷯尊、素服(あさのみそ)[やぶちゃん注:麻などの加工しない生地のままか白地の布で作った喪服。]たてまつりて、爲めに發哀(かなし)み、哭(みねな)きて甚だ慟(いた)みたまふ。仍(よ)りて、菟道の山の上に葬しまつる。)

   *

『「ホス」人』不詳。

『「バンクス」島人』現行の人口は少ないが(二〇一一年現在百十二人)、カナダ北部の北極諸島にあるバンクス島(Banks Island)か。ノースウエスト準州のイヌヴィック地域(Inuvik Region)に属する。位置などは当該ウィキを参照。

『「フジー」島』ここ(グーグル・マップ・データ)。

「予の “On Chinese Beliefs about the North,” Nature, vol.li, p.32, 1894)」英文サイト『nature』の驚くべきアーカイブズのこちらで(悲しいことに日本はこの手のサイトでは、致命的に後進国である)、当該記事をPDFでダウン・ロード出来る。「『北』に就いての中国の信仰に就いて」。

Geo.Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, p.399」ジョージ・ブラウン(一八三五年~一九一七年)はイギリスのメソジストの宣教師にして民族学者。若い頃は医師の助手などをしていたが、一八五五年三月にニュージーランドに移住し、説教者となり、一八五九年にフィジーへ宣教師として渡って、翌年、シドニーからサモアに向かった。一八六〇年十月三十日に到着してより一八七四年までサモアに住んだ(主にサバイイ島に居住)。布教の傍ら、サモアの言語・文化を学び、シドニーに戻り、その集大成として、後にメラネシア人とポリネシア人の生活史の概説と比較を試みたものが本書であった(英文の当該ウィキに拠った)。「Internet archive」で同原本が読め、当該ページはここ

『「ヨルク」公島人』不詳。マダガスカル諸島の一島の旧名か?

「本邦に嫉妬酷き妻の生魂、火の玉と成て、夫の亡妾の墓に赴き、その火の玉と鬪ひ勝し談有りしと記憶すれど、出所を忘れたり」この話、確かに私の「怪奇談集」の中に確かにある記憶が確かにあるのだが、熊楠よろしく、探し得ない。似たような話なら、私の「耳囊 巻之十 赤坂與力の妻亡靈の事」がそれにかなり近い。別に発見次第、追記する。

「晉書」とする以下の引用は、原本には類似した文字列はあるが、一致するものがない。思うに、「太平御覽」の「禮儀部三十四」の「葬送三」の以下の「晉中興書」(南宋の何法盛撰の史書で、諸史中では評価は高い)のそれが引用元ではないか(文字列がほぼ一致する)と推定する。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で起こす。

   *

「晉中興書」曰、『東海王越妃裴氏、痛越棺柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒。中宗以爲非禮、下詔曰、「夫冢以藏形、廟以安神。今世招魂葬者、是埋神也。其禁之。」』。

   *

【二〇二二年五月五十七日:追記】何時も御指摘を下さるT氏より、『この時期の熊楠の引く漢籍の殆どは、「淵鑑類函」を元にしています。今回の「晋書」以下の文章は、同書の三百二十一巻霊異部二魂魄の魂魄二です』とお知らせがあり、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を添付して下さった(右丁六行目「増」の後の部分が当該部)。「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、一七一〇年成立。確かに、熊楠はよく本書の名を挙げて引用していることは、古くの電子化で気づいていたのだが、これもそうだったことが判明した。以下、当該部を電子化する。

   *

「晉書」云、『東海王越、死。帝、哀痛。越柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒。中宗、以爲「非禮。」、乃下詔曰、「夫冢以藏形、廟以安神、今世招魂葬者、是埋神也。其禁之。」

   *

T氏に感謝申し上げるものである。

 以下は、底本では、本文の行頭に戻る。]

 石橋君、古今集の歌に「思ひやる境遙かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人の無き」と有るを、「是遠ければ夢に入らずとする者にて、近ければ靈魂肉體を離れて、夢に入るとする者也」と評せり。一兩年前歿せし英國稀有の博言家「ゼームス、ブラツト」曰く、支那人は、其幽靈が支那領土と他邦に於ける居留地の外に現ぜずと信ずと、五雜俎卷十五にも云く、江北多狐魅、江南多山魈(人の宅に據り婦女に婬する鬼)、鬼魅之事、不可謂無也、余同年之父、安丘馬大中丞巡按浙、直時、爲狐所惑、萬方禁之、不可得、日就尩瘵、竟謝病歸、魅亦相隨、渡淮而北、則不復至矣《江北には、狐魅(こび)、多く、江南には山魈(さんしやう)多し。鬼魅の事は、無しと謂ふべからざるなり。余の同年の父(ほ)、安丘の馬大(まだい)中丞、浙・直(ちよく)が巡按たりし時、狐の爲めに惑はさる。萬方(ばんぱう)、之れを禁(はらへ)すれども、得べからず。日に尩瘵(わうさい)に就く。竟(つひ)に「病ひ」と謝して歸る。魅も亦、相ひ隨ふ。淮(わい)を渡つて北すれば、則ち、復(ま)た至らざりき。》、是妖怪も自ら繩張り有て、其外に往き得ざる也。日本にも江談抄に、唐人吉備公を密室に幽殺せんとせし時、阿部仲麿の亡魂現はれ、一族子孫が故鄕に於ける近況を聞かん迚、現はるゝ每に、會ふ人驚死すと語り、公より阿部氏七八人、當時の官位形勢を聞知て大悅し、公に祕事を傳へて、其厄を脫せしめし由を筆せるは、幽靈も餘り遠方に到り得ずとせる證にて、石橋君の評說に照らして興味あり。

[やぶちゃん注:『石橋君、古今集の歌に「思ひやる境遙かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人の無き」と有るを、「是遠ければ夢に入らずとする者にて、近ければ靈魂肉體を離れて、夢に入るとする者也」と評せり』前掲書のここ(一〇七ページ)。この歌は「古今和歌集」巻第十一「戀歌一」にある詠み人知らずの〈夢に逢う恋〉四首の第一首(五二四番)。

「ゼームス、ブラツト」不詳。

「五雜俎卷十五にも云く、江北多狐魅、……」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上の熊楠の引用については、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政七(一七九五)年京都板行版の訓点附きのこちらで、当該部と校合し、それを参考にしながら、オリジナルに訓読した。

「山魈」については、「柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童」の私の「山魈」の注を参照されたい。

「父」男性への敬称。

「馬大」姓名で「大」は字(あざな)であろう。

「巡按」監察御史。

「尩瘵」身体が弱って病みつくこと。

「江談抄に、唐人吉備公を密室に幽殺せんとせし時、……」「江談抄」(がうだんせう(ごうだんしょう))は平安後期の説話文学。全六巻。大江匡房(まさふさ)の談話を藤原実兼などが筆録したもの。書名は「江」家の言「談」の「抄」出の意。天永二(一一一一)年頃の成立。公事・摂関事・仏神事・雑事・漢詩文に関わる故事や文学論。説話などを分類して載せる。以下は、「江談抄」第三の冒頭ある「吉備入唐(きびにつたう)の間の事」の一節。所持するが、長いので、調べたところ、サイト「龍神楊貴妃伝」のこちらに、原文と現代語訳が載るので参照されたい。

「阿部仲麿」阿倍仲麻呂(大宝元(七〇一)年~大暦五(七七〇)年)。奈良時代の遣唐留学生。養老元(七一七)年に吉備真備・玄昉(げんぼう)らとともに入唐、玄宗に仕え、李白・王維らの文人と交った。朝衡(ちょうこう)と唐名を称した。天平勝宝五(七五三)年に帰国しようとしたが、海難のため、果たせず、在唐五十余年、七十二歳で客死した。私は敦煌に旅した際、西安で「紀念碑」を詣でた。なお、「江談抄」の上記の記事では、彼が大臣として入唐したとか、吉備が閉じ込められた楼でずっと前に餓死したとか、ないことないことが、いろいろ書かれてあるので、注意されたい。

 歐州にも古へ夢中に魂拔出づるとせる例、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]にて二人暑を避けて小流邊に憩ひ、其一人眠りけるに、口より黑蜂程の物出て、苔を踏で、流れが急下する上に橫はれる枯草莖を步み對岸の廢舍に入るを、今一人覩て驚き搖起せしに、其人寤て[やぶちゃん注:「さめて」。底本は「寢」。「選集」で訂した。]面白き夢を破られつる、我れ眠中沃野を橫ぎ、宏河の邊に出で、瀧の上なる銀の橋を渡り、大宮殿裏金寶堆積せるを取んとせる所を起されきと怨めりてふ譚有り。又六世紀に「バーガンヂー」王たりし「ゴンドラン」、狩に憊れて[やぶちゃん注:「つかれて」。]小流側に睡りしを、一侍臣守りける内、王の口より一小獸出で、河を渡らんとして能はず。侍臣刀を拔いて流に架すれば、小獸輙ち渡て、彼岸の小丘麓の穴に入り、暫くして又出で、刀を踏で還て王の口に入る。是に於て王寤て語るらく、吾れ稀代の夢を見つ。譬へば磨ける鋼の橋を踏で、飛沫四散する急流を渡り、金寶盈足せる地下宮に入りしと覺ゆと。因て衆を集め、其所を掘て夥く[やぶちゃん注:「おびただしく」。]財物を獲、信神慈善の業に施せりと云ふ。(Chambers, The Book of Days,1872, vol.i, p.276)。

[やぶちゃん注:『「バーガンヂー」王たりし「ゴンドラン」』次注の原本には「king of Burgundy」、その前に「Gontran」とある。メロヴィング朝のブルゴーニュ王で、五三二年生まれで、五九二年或いは翌年に没している。英文のサイト「Encyclopædia Britannica」の彼の記載を参照した。

Chambers, ‘The Book of Days,’ 1872, vol.i, p.276」、スコットランドの出版業者にして地質学者・法学博士・進化論者・作家でもあったロバート・チェンバース(Robert Chambers 一八〇二年~一八七一年)の畢生の一作で、本邦では副題(a miscellany of popular antiquities in connection with the calendar, including anecdote, biography & history, curiosities of literature, and oddities of human life and character:逸話、伝記と歴史、文学への好奇心、人間の生活と性格の奇妙さなど、曆に関連する一般的古代遺物の雑記に就いて)の方を縮約して「創造の自然史の痕跡」などと訳されているようである。「Internet archive」の原本の当該部はここ

 以下の段落は、底本では全体が一字下げ。]

 人の魂死して動物と現ずる例、日本紀卷十一、蝦夷、田道を殺して後、其墓を掘りしに、田道大蛇となつて彼等を咋殺す[やぶちゃん注:「くひころす」。]、と載せ、今昔物語等に、女の怨念蛇に現ぜし話多し。新著聞集十一篇に、下女死して貯金に執着し、蠅となつて主人の側を離れざりし談有り。英國に蛾を死人の魂、又魅(フエヤリー)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]とする地有り。希臘語に蛾も魂も同名なるに似通へり(Keightley, ‘The Fairy Mythology,’ ed.Bohn, 1884, p.298, n.)。

[やぶちゃん注:「日本紀卷十一、蝦夷、田道を殺して後、……」「仁德天皇紀」の以下の一節。処理は前に同じ。

   *

五十五年、蝦夷叛之。遣田道令擊、則爲蝦夷所敗、以死于伊峙水門。時有從者、取得田道之手纏、與其妻。乃抱手纏而縊死、時人聞之流涕矣。是後、蝦夷亦襲之略人民、因以、掘田道墓、則有大虵、發瞋目自墓出以咋、蝦夷悉被虵毒而多死亡、唯一二人得免耳。故時人云、「田道雖既亡、遂報讎。何死人之無知耶。」。

(五十五年、蝦夷(えみし)、叛(そむ)きぬ。田道(たぢ)を遣はして、擊たしめたまふ。則ち、蝦夷の爲めに敗られて、以つて、伊峙(いし)の水門(みなと)に死(まか)りぬ。時に從者(つかひびと)有りて、田道の手纏(てまき)[やぶちゃん注:上代の装身具。玉や鈴にひもを通して手に巻いたもの。「くしろ」とも称する。]を取り得て、其の妻に與(あた)ふ。乃(すなは)ち、手纏を抱(いだ)きて縊死(くびりし)にたり。時の人、之れを聞きて流-涕(かな)しむ。是の後(のち)に、蝦夷、亦、襲ひて人民を略(かす)む。因りて以つて、田道の墓を掘るに、則ち、大なる虵(をろち)有りて、目を發-瞋(いから)して墓より出で、以つて咋(くら)ふ。蝦夷、悉くに虵の毒を被りて、多く死に亡(う)せぬ。唯(ただ)、一、二人、免かるることを得たるのみ。故に、時の人、云はく、

「田道、既に既に亡(みまか)ると雖も、遂に讎(あだ)を報ゆ。何ぞ死にたる人の知(さと)り無からむや。」

と。)

   *

「新著聞集十一篇に、下女死して貯金に執着し、……」『小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信訳) 附・原拠』の私の注で電子化してある。

Keightley, ‘The Fairy Mythology,’ ed.Bohn, 1884, p.298, n.」アイルランド生まれの作家・歴史学者トマス・カイトリー(Thomas Keightley 一七八九年~一八七二年)が一八二八年に最初に著した「妖精神話学」。]

 綠洲[やぶちゃん注:「グリーンランド」。]人、靈魂、睡中體を脫し、狩獵舞踏訪交すと云ふは、正しく斯る夢を見るに出づ。北米印度甸[やぶちゃん注:「インジアン」。]、夢に魂拔出て、物を求むる事有んに、覺めて後力めて[やぶちゃん注:「つとめて」。]其物を手に入れずば、魂遂に求め煩うて全く身を去り終ると云ふ。新西蘭[やぶちゃん注:「ニユージーランド」。]人は、魂夢に死人鄕に入り、諸亡友と話すと信じ、「カレンス」は、夢に見ること悉く魂が親く[やぶちゃん注:「したしく」。]見聞する所と信ず。濠州土人、「コンド」人等、其巫祝、夢に神境に遊ぶとす。「アウグスチン」尊者の書に、人有り、一儒士に難讀の書の解釋を求めしも、平素應ぜざりしが、或夜其人就牀に先ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]、儒士來て之を解き吳れたり。後日に及び、其故を問ひ、甫て[やぶちゃん注:「もとめて」。]儒士の魂が、夢に體を出で問ふ人の室に現じ、其未だ眠らざる間に之を敎へたるを知れりと載たり(Tylor, ‘Primitive Cultur,’ New York, 1888, vol.i, pp.437, 441)。「ニウーブリツン」島人は、靈魂、人形[やぶちゃん注:「ひとがた」。]を具し、常に其體内に棲み、眠中又氣絕中のみ、拔出ると信じ、眠たき時、予の魂他行せんと欲すと云ふ(和歌山市の俗、坐睡[やぶちゃん注:「ゐねむり」。]を根來詣り[やぶちゃん注:「ねごろまゐり」。]と稱す。寐と根、國音近きに出ずる洒落乍ら、本と[やぶちゃん注:「もと」。]睡中魂拔出ると想ひしに出るや疑を容れず)。サモア島民の信、粗[やぶちゃん注:「ほぼ」。]之に同じく、夢中見る所、靈魂實に其地に往き其事を行へりとす(Brown,op.cit., pp.192, 219)。

[やぶちゃん注:「Tylor, ‘Primitive Cultur,’ New York, 1888, vol.i, pp.437, 441」「原始文化」は、イギリスの人類学者で、宗教の起源に関してアニミズムを提唱した「文化人類学の父」と呼ばれるエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)の代表作で、一八七一年に刊行された彼の代表作。「Internet archive」(但し、一九二〇年版だが、一致する)のここと、ここ

『「ニウーブリツン」島』パプア・ニューギニアのニュー・ブリテン島。ビスマルク諸島最大の島。火山・荒野と、長い植民地の歴史で知られる。

Brown,op.cit., pp.192, 219ここと、ここ

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

 熊楠按ずるに、靈魂不斷人身内に棲むとは、何人にも知れ切つた事の樣なれど、又例外無きに非ず。極地の「エスキモー」は、魂と、身と、名と三つ集りて個人を成す。魂常に身外に在りて、身に伴ふ事影の身を離れざる如く、離るれば身死す、と信ず(Rasmussen, ‘The People of the Polar North,1908, p.106)。神道に幸魂、奇魂、和魂、荒魂等を列し、支那に魂魄を分ち、佛典に魂識、魄識、神識、倶生神等の名有り。古埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]人は、「バイ」(魂)の外に「カ」(副魂)を認めたり(第十一板大英類典九卷五五頁)。是等は、魂の想像進みて、人身に役目と性質異なる數種の魂有りと見たるにて、其内に眠中死後體に留る魂と、拔出る魂と有りとせるやらん。近代迄、多島洋民中には、死後貴人の魂のみ殘り、下民の魂は全く消失すと信ぜる者ありたり(Waitz und Gerland, ‘Anthropologie der Naturvölker,’ 1872, Band VI, S. 302)。

[やぶちゃん注:「Rasmussen, ‘The People of the Polar North,’ 1908, p.106」グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年)。デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である。本書「極北の人々」はイヌイットの風俗を纏めた旅行記で同年に刊行された。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ

Waitz und Gerland, ‘Anthropologie der Naturvölker,’ 1872, Band VI, S. 302」ドイツの心理学者・人類学者テオドール・ウェイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)が書いたものに、人類学者・地球物理学者であったゲオルグ・カール・コルネリウス・ゲランド(Georg Karl Cornelius Gerland 一八三三年~一九一九年)が書き足して完成した「原始人類学」。「Internet archive」で原本が視認出来る(私はドイツ語は読めないので後者のリストのリンクに留めた)。]

 阿非利加の「イボ」族の人言く、祖先來の口碑の外に、靈魂が睡眠中拔出るを證するは、夢尤も力ありと(A. G. Leonard, ‘The Lower Niger and its Tribes,’ 1906, p.145)。「トマス」氏が大英類典十一板八卷に筆せる夢の條に云く、下等人種夢の源由を說くに二樣有り。一は魂が外出して、身外の地處生人死人を訪ふとし、一は死者等の魂が來て其人に會ふとする也と。孰れにしても、莊周が其夢也魂交、其覺也形開《其の寐(い)ぬるや、魂の交はり、其の覺(さ)むるや、形の開く。》と言へるに合り[やぶちゃん注:「あへり」。]、又云く、「デカルツ」[やぶちゃん注:デカルト。]の徒は、生存は考思に憑るとす。隨て心は常に考思すれば、睡中夢實に絕えずと說く。之に反して「ロツク」は人夢中の事を常に知る無し。覺醒中の魂、一考過れば忽ち之を記せず。無數の考思跡を留めず消失する程なるに、睡中自ら知らざる際、猶考思すとは受取れずと難ぜり。「ハミルトン」等又之を駁して、睡遊者、睡遊中確かに其識有り乍ら、常態に復れば直ちに之を忘る。故に睡中不斷夢有るも、寤れば多く忘失する也と論ぜりと。下等人種も「ハミルトン」同樣の見解より、睡中常に夢斷えず。隨て睡る每に必ず魂拔け出づと信ぜるも有り。又睡中必しも不斷夢見ざれども、睡人が或は夢み或は夢みずに居るを傍人正しく識別し能はず。但し夢見る時は必ず魂が拔出る者と心得たるもありて、兩說孰れより考へても、急に睡人を攪亂搖起するは、靈魂安全に身に還るを妨ぐる譯と、戒愼するに及びしならん。斯てこそ二七卷五號[やぶちゃん注:本考の「一」。]に、唐譯の佛敎律より引たる、古印度人、睡れる王を急に呼び寤さず、音樂を奏して漸く覺悟せしめたる風習

[やぶちゃん注:『「イボ」族』西アフリカのナイジェリア南東部のニジェール川とクロス川に挟まれた熱帯森林地帯に居住する部族。人口は三百万人に達し,人口密度も非常に高い。アフリカでも最も進取の気性に富み、活力に満ちた人々として知られ、商業活動などを通じて、ナイジェリア全土、特に北部地方で活躍した。北部のハウサ族や西部のヨルバ族とは異なり、イボ族は、元来、中央集権的な政治制度を持たず、村落連合的な纏まりを基とする民族であった。

A. G. Leonard, ‘The Lower Niger and its Tribes,’ 1906, p.145」「下ニジェールとその民族」はアメリカの地質学者アーサー・グレイ・レオナルド(Arthur Gray Leonard 一八六五年~一九三二年)のニジェールの民俗誌。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が読める

「大英類典十一板八卷」「ブリタニカ百科事典」(Encyclopædia Britannica)のこと。「Internet archive」のここから原本が読める

「ハミルトン」不詳。アメリカ合衆国憲法の実際の起草者として知られる哲学者・政治家アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton 一七五五年~一八〇四年)か。

 以下の二段落は底本では特異的に両方ともに全体が一字下げ。第一段落は御覧の通り、行頭一字下げがあるが、二段落目は、ない。但し、底本のページをめくると、二段落目の続きは行頭に上がっており、おかしい。前の句読点なしの断ち切れも不審感が強く、「選集では以下の部分は丸括弧で続いている。但し、初出では確かに補記形式でかくなっている。その後は「追記」であり、この二段落目の字下げは、無視しないと、本文が尻切れ蜻蛉となってしまう。事実、初出はそうなっている。]

 此譚 F.A. von Schiefner, ‘Tibetan Tales,’ trans. Ralston, 1906, ch.viii にも出でたれど、漸令覺悟《漸く覺悟せしむ》とは無くて、歌謠、銅鈸子、大鼓を以て寤すと有り。それでは安眠を暴かに擾す[やぶちゃん注:「にはかにみだす」。]譯にて、王者に對する作法に背く。西蔵[やぶちゃん注:「チベツト」。]譯經の不備か、譯者の麁漏か、何に致せ唐譯の方正義を得たりと思はる。

[やぶちゃん注:「F.A. von Schiefner, ‘Tibetan Tales,’ trans. Ralston, 1906, ch.viii」ドイツの言語学者にしてチベット学者であったフランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)の「チベット譚」。]

往年英國官吏が緬甸[やぶちゃん注:「ビルマ」。]人を訪て、屢ば睡眠中とて謝絕され、魂の還らざるを惧れて搖起せざると云ふ理由に氣付かず、無闇に家人の無禮を憤りし事(‘Hints to Travellers,Royal Geographical Society, London, 1889, p.389)、非列賓[やぶちゃん注:「フイリピン」。]島の「タガル」人の、睡中魂不在とて、睡人を起すを忌む俗(Tylor, op.cit., vol.i, p.441)等が生じたるなれ。

[やぶちゃん注:「royal geographical society」イギリスの「王立地理学会」。]

 追記。吾邦の魂結びに似たる事、「ハーバート・スペンセル」の社會學原理三板、七七七頁に出たり。南洋「ロヤルチイ」島の古風に、人病重くなれば、魂醫(ソール・ドクトル)[やぶちゃん注:ルビ。]をして病體を脫せる魂を取戾さしむ。其醫二十友を隨へ、二十友[やぶちゃん注:底本・初出・「選集」ともに『二十女』とするが、以下の叙述と齟齬するので、かく、した。]と俱に、病家の墓地に赴き、男は鼻笛吹き、女は嘯きて遊魂を誘出し、時を經て、吹嘯行列して遊魂を病家に伴れ[やぶちゃん注:「つれ」。]歸る。衆、掌を開き、穩かに之を扇ぎて家に向はしめ、家に入るや忽ち一齊に呵して、病人の身に入しめしと云ふ。予の現住地紀伊田邊に、古來四國の船多く來る。二三十年前迄親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]見しとて、數人語りけるは、其船員此地で病死し、葬事終り商賣濟みて出立に際し、船に踏板を渡し、乘込人を待つ振りする事良[やぶちゃん注:「やや」。]久しくて後、死者の名を高く呼んで早く乘れと催し[やぶちゃん注:「うながし」。]、扨て其者已に乘りたりとて人數を算へ、乘員の現數を一人多く增して稱へて解纜せり。斯くせずば亡魂安處せず。船に凶事有りと傳へたりとぞ。

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンセル」イギリスの哲学者・社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。一八五二年にThe Developmental Hypothesis(発達仮説)を、一八五五年にPrinciples of Psychology(心理学原理)を出版後、「社会学原理」(Principles of Sociology)「倫理学原理」を含むA Systemof Synthetic Philosophy(『総合哲学体系』一八六二年から一八九六年までの三十五年をかけて完成させるなど、多くの著作をものした。これらの著作はかれの“evolution”(「進化」)という着想に貫かれており、現在のダーウィニズムの「進化」という概念や、我々がダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)は、の言葉と誤解している“survival of the fittest”(「適者生存」)という言葉は、実はダーウィンの進化論発表の直前に示された彼スペンサーによる概念及び造語である。一八八〇年から九〇年代の明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、『スペンサーの時代』と呼ばれるほどで、一八六〇年に出版されたEducation(教育論)は、尺振八の訳で明治一三(一八八〇)年に「斯氏教育論」と題して刊行され、『スペンサーの教育論』として人口に膾炙した。また、その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた(以上は主にウィキの「ハーバート・スペンサー」に拠った)。同版の英文はこちらで読める。

『「ロヤルチイ」島』ロイヤルティ諸島(英語:Loyalty Islands)又はロワイヨテ諸島(フランス語:îles Loyauté)及びプロヴァンス・デ・ジル・ロイヤルティ(同前:Province des îles Loyauté)或いはロワイヨテ諸島州(デ・ジル・ロイヤリティ州・離島州とも称する)は南太平洋の諸島で、フランス領ニューカレドニアを構成する三つのプロヴァンス(州)の一つであるが、地理的区分と行政区分とは異なる。ここ

 以下は行頭から記すが、初出も「選集」も追記の一部となっている。]

 人類學雜誌二七卷五號の拙文[やぶちゃん注:本篇の「一」。]差し立てゝ後、三重縣木本町近村の石工來り、予の忰五歲なるが夜分顏に墨塗り眠に就くを見、斯すれば必ず魘はる[やぶちゃん注:「おそはる」。うなされる。]と語りて去る。其夜忰屢ば寢言ひ安眠せず。妻、大に困れり。田邊近傍では斯すれば、阿房になると云ふ由。(同號三一三頁參照)

       (大正元年八月人類二十八卷)

[やぶちゃん注:「三重縣木本町」木本町(きのもとちょう)は三重県南牟婁郡にあった町。現在の熊野市木本町に当たる。ここ

「予の忰」南方熊楠の長男熊弥。明治四〇(一九〇七)年生まれ。満年齢で記している。これは不吉な予兆であった。彼は大正一四(一九二五)年三月、高知高等学校受験のために高知に赴いた際、精神異常を発症し(統合失調症と推定される)、自宅療養となったが、昭和二(一九二七)年五月に症状が悪化、熊楠の粘菌図譜を始めとした多くの書類を毀損するに至り、知人の勧めによって翌年の五月に京都の岩倉病院に入院させることとなった(昭和一二(一九三七)年三月に退院したが、病状は回復せず、現在の海南市藤白に家を借り、転地療養となった。後、父熊楠(昭和一六(一九四一)年十二月二十九日)、母松枝の死(昭和三〇(一九五五)年十一月六日)の後、昭和三五(一九六〇)年二月十八日、五十三歳で逝去した。発症素因としては、小学校時代の「いじめ」とも、また、父である巨人熊楠の精神的な重圧とも言われるが、定かでない。]

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