「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「水の神としての田螺」(全二回)
[やぶちゃん注:本論考は大正三(一九一四)年四月発行の『人類學雜誌』二十九巻四号及び、「追記」が同年八月の同誌(二十九巻八号)に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した(「一」「二」の後に纏めて注した)。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
水の神としての田螺 一
(人類二九一號三四一頁三二一號二四頁參照)
紀州諸處に田螺を「たにし」で無く「たぬし」と呼ぶ人が有る。田主の意に聞える。田邊の近村丘陵間の草叢中何の譯と知れず田螺の殼を積上げ置るあり、野中近露等の深山にも有り、大蛇の所爲と言ふ人が有る。又鳥類の所行とも言ふ。予一向見し事無いから薩張り判斷が付かぬ。淵鑑類函四四三に捜神記曰謝端侯、官人少孤貧、至年十七八、恭謹自守、後于邑下、得一大螺如許、(尋常の物の十倍大)取貯甕中、每早至野、還見有飮飯湯火、端疑之、於籬外窺見、一少女從、甕中出、至竈下燃火、便入問之、女答曰、妾天漢中白螺素女、天帝哀卿少孤、使我權相爲守舍炊煮、待卿取婦當還、今無故相伺、不宜復留、今留此殼貯米穀、可得不乏、忽有風雨而去。又夷堅志曰、吳湛居臨荆溪、有一泉極淸澈、市人賴之、湛爲竹籬遮護、不令汚入、一日吳于泉側得一白螺、歸置甕中、後每自外歸、則厨中飮食已辦、心大驚異、一日潜窺、乃一女子自螺中而出、手能操刀、吳急趨之、女子大窘、不容歸殼、乃實告曰、吾乃泉神、以君敬護泉源、且知君鰥居、上帝命吾爲君操饌、君食吾饌、得道矣、言訖不見。兩つ乍ら御伽草子の蛤機織姬に似た話だ。白き淡水生の螺を神物とする事支那にも有る證據だ。日本紀に葛城の圓大臣あり圓を「つぶら」と訓ず、田螺をツブといふから見ると此名も田螺を人名としたので、吾邦に古く田螺をトテムとし崇めたのであるまいか。北凉譯大般涅槃經十二に、復次迦葉、如轉輪王、主兵大臣、常在前導、王隨後行、亦如魚王蟻王螺王牛王、商主在前行時、如是諸衆悉皆隨從、無捨離者、と有れば、梵土にも古く螺の王有ると信じたのだ。又奇異雜談下に祖庭事苑から引いた、閩州の任氏の子螺を得しに、其中から女が出來て龍鬚布を織り、任氏を富した譚は尤も蛤機織姬に似て居るが是は龍女が螺中に寓し居たのだ。
(大正三年四月人類第二九卷)
水の神としての田螺 二 (人類學雜誌廿九卷四號一五九頁に追加す)
甲子夜話續篇卷十五に「信州に不動堂あり、須賀の不動と稱して靈像なりとぞ、眼を患ふる者祈誓して田螺を食せざれば必ず驗ありて平癒す。遠方にても須賀の不動と寶號を唱へて立願するに必ず應驗あり。啻に田螺を食するを止るのみならず、之を殺す事をも慮りて礫を田中に投ずるを爲ざる程なれば、効驗彌々速かにして眼疾平快すと。昔し此堂火災有し時寺僧像を擔ひ出し其邊の田中に投じて急を免れたり、火鎭て其像を取上ぐれば、田螺夥しく衆まり像を圍んで有りしと云々」。本草綱目四六に、田螺、目の熱、赤痛を治すと有て處方を詳載し居る。實際藥功有るのか知れぬが、多分は例の似たものが似た場所の病を治すてふ理屈で、田螺も眼も圓いから割出した藥方だらう。
(大正三年八月人類二十九卷)
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。最後の初出記は、最終行下方インデントであるが、改行して引き上げた。なお、平凡社「選集」では、添え辞は次行下方インデントポイント落ち三行で、『南方「本邦における動物崇拜」(『東京人類学会雑誌』二五巻二九一号三四一頁)、柳田国男「水の神としての田螺」(『人類學雜誌』二九巻一号二四頁)参照』とある。前者は狭義には、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(27:田螺)」に相当する。後者では、所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」に載らず、親本である同社の「定本柳田國男全集」も調べたが、やはり載らず、現行の新たな一九九九年刊の同社の「柳田國男全集」二十九巻に収録されていることが判った。但し、「j-stage」のこちら(PDF)で初出を見出せたので、本電子化注を終えた後、電子化する【二〇二二年五月二十六日に電子化注を公開した。】。ここに見られるそれは、本邦の民話「田螺長者」の原形である。当該ウィキをリンクさせておく。
「野中」和歌山県田辺市中辺路町(なかのべちょう)野中(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「近露」中辺路町近露(ちかつゆ)。野中の西に接する。
「薩張り」「さつぱり」。
「淵鑑類函四四三に捜神記曰謝端侯、……」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」のこちらで、「欽定四庫全書」所収のものが電子化されており、影印本も見られる。同巻の「鱗介部七」の「螺二」である。ガイド・ナンバー[448-22a]を参照されたい。但し、これ、干宝の「捜神記」ではなく、陶淵明著の同書に倣った「捜神後記」のもので、「淵鑑類函」の誤記である。以下に訓読を試みる。巻五で、原題は「白水素女」(はくすいそじょ)。但し、「淵鑑類函」は抄録でカットが甚だ多い。前者の注の参考にした二〇〇六年明治書院刊「中国古典小説選」第二巻によれば、時代設定は晋の安帝の治世(三九七年~四一二年)である。後者の「夷堅志」は宋の説話集。南宋の洪邁 の著。元は四百二十巻であったが、現存本は二百巻ほど。一一九八年頃成立で、著者が各地に任官又は旅行の間に見聞した宋初からの民間に伝わる珍談・奇談・怪談の類を記録風に綴ったもの。「小説の淵海」とも称せられ、正式の史書には見られない宋代の社会や民衆の生活・風俗などを窺うことの出来る貴重な史料である。以下、訓読する。
*
「搜神記」[やぶちゃん注:以上の通り、「搜神後記」の誤記。]に曰はく、
『謝端は侯官[やぶちゃん注:福建省侯官県。現在の福建省福州市中心部及び閩侯県の一部に相当する。]の人、少(わか)くして孤貧たり。年十七、八に至り、恭謹にして、自(みずか)ら守り、後、邑(いう)の下(もと)[やぶちゃん注:村の外れ。]にて、一つの大螺(だいら)の、斗(と)[やぶちゃん注:「捜神後記」原本では「三升の壺のごとし」とする。「一斗」ならば当時のそれは二リットルであるが、「三升」ならば約六十ミリリットルとなる。]許りのごときを得(え)、取りて甕の中(うち)に貯(か)ふ。每早(まいあさ)、野に至りて[やぶちゃん注:野良仕事に行って。]還るに、飮飯(いんはん)の湯火(たうくわ)の有るを見る。端、之れを疑ひ、籬(まがき)の外に於いて窺ひ見るに、一少女の、甕の中より出でて、竈(かまど)の下(もと)に至りて火を燃やす。便(すなは)ち入りて之れに問ふ。女、答へて曰はく、
「妾(わらは)は天漢[やぶちゃん注:天の川。]中の白螺(はくら)の素女(そぢよ)なり。天帝、卿(なんぢ)が少(わか)くして孤なるを哀れみ、我をして、權(かり)に[やぶちゃん注:暫くの間。]、相ひ爲めに、舍(しや)を守り、炊煮(すいはう)せしめ、『卿が婦(よめ)を取るを待ちて、當(まさ)に還るべし。』とす。今、故なくして相ひ伺(うかが)へば、復(ま)た留まるべからず。今、此の殼を留む。米穀を貯ふれば、乏しからざるを得べし。」
と。
忽(たちま)ち、風雨有りて去る。』と。
又、「夷堅志」に曰はく、
「吳湛(ごかん)の居(きよ)は荊溪に臨めり。一泉有り、極めて淸澈(せいてつ)たり[やぶちゃん注:清らかで澄み渡っている。]。市人(いちびと)、之れを賴りとす。湛、竹の籬(まがき)を爲(つく)りて遮護し、汚きものをして、入れざらしむ。一日(いちじつ)、吳、泉の側(かたはら)にて、一つの白螺を得たり。歸りて甕の中に置く。後、外より歸る每に、則ち、厨中(はうちゆう)の飮食、已に辨(そなは)れり。心(こころ)、大きに驚異し、一日、潜かに窺ふ。乃(すなは)ち一女子、螺中より出でて、手(てぎは)よく刀(はうちやう)を操(つか)へり。吳、急に之れに趨(おもむ)くに、女子、大きに窘(くるし)めり。殼に歸るを容(ゆる)さず、乃(すなは)ち實(まこと)を告げて曰はく、
「吾は、乃ち、泉の神なり。君が泉の源を敬ひ護るを以つて、且つ、君が鰥居(やもめぐらし)なるを知りて、上帝、吾に命じて、君がために饌(さん)[やぶちゃん注:食事。]を操(つく)らしむ。君、吾が饌を食らはば、道を得ん。」
と。
言ひ訖(をは)りて、見えず』と。
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『日本紀に葛城の圓大臣あり圓を「つぶら」と訓ず』「日本書紀」の巻第十四「大泊瀨幼武天皇(おほはつせわかたけのすめらみこと) 雄略天皇」に二ヶ所出る。「圓大臣(つぶらのおほまへつぎみ)」。
「北凉譯大般涅槃經十二に、復次迦葉、……」「大蔵経データベース」を見たが、若干、引用に疑問があったが、取り敢えず、熊楠の引用そのままに訓読を試みる。
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又、次いで、「迦葉よ、轉輪王の、主兵・大臣、常に前導に在りて、王は後(うしろ)に隨ひて行くがごとく、亦、魚王・蟻王・螺王・牛王、商主[やぶちゃん注:仏語。人々を安穏に目的地に導く隊商の長のような方。]の前に在りて行く時のごとく、是(かく)のごとく、諸衆、悉-皆(ことごと)く隨從し、捨離する者、無し。」と。
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「奇異雜談下に祖庭事苑から引いた、閩州の任氏の子」(こ)「螺」(にな)「を得しに、其中から女が出來て龍鬚布」(りゆうしゆふ)「を織り、任氏を富」(とま)「した譚」「奇異雜談」は著者不詳で貞享四(一六八七)年板行の怪談集「奇異雑談(ぞうたん)集」。但し、それよりもずっと以前から写本が残されており、実際の編著は明暦・万治・寛文(一六五八年~一六七三年)期とされている。但し、熊楠の言っている話が判らない。「祖庭事苑」は宋の睦庵善卿撰の字典。全八巻。一〇九八年から一一一〇年にかけて刊行された。「雲門録」などの禅宗関係の図書から熟語二千四百余語を採録し、その典拠を示し、注釈を加えたもの。
「蛤機織姬」「はまぐりはたをりひめ」は「御伽草子」の中の一つ「蛤の草紙」のヒロイン(舞台はインドの魔迦多(まかだ)国で、現在のインド北東部ビハール州の州都パトナの南約百キロメートルのところにあるガヤー県(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の県都ガヤーに相当する。主人公の青年の名は「しじら」)。原話は大正一五(一九二六)年有朋堂文庫版「御伽草紙」のここから読める。古文が苦手という方は、個人サイト「お話歳時記」の「蛤の草紙。」の訳がよい。
『甲子夜話續篇卷十五に「信州に不動堂あり、……』事前にこちらで当該部総てを電子化したので、比較して読まれたい。
「本草綱目四六に、田螺、目の熱、赤痛を治すと有て處方を詳載し居る」「漢籍リポジトリ」の『欽定四庫全書』版の「本草綱目」の巻四十六の「介之二」の「蛤蚌類」にある「田蠃」(ガイド・ナンバー[108-29a]以下)の「主治」と「附方」を見られたい。かなりの分量がある。なお、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「田螺」も参考にされたい。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」もあるが、記載が痩せている。一番のお薦めは、「本朝食鑑 鱗介部之三 田螺」である。]
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