「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「千年以上の火種」
[やぶちゃん注:本論考は明治四五(一九一二)年二月発行の『人類學雜誌』二十八巻二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
千年以上の火種 (人類二八卷一號五七頁二百年來の火種參照)
支那に祝融を火正黎と號し、又寒食に火を禁ずる事有り、孰れも火を重んずるに基きしと見ゆ。鄴中記に、寒食を介子推焚死の故事より始るとせるは牽强ならん。偖て、紀伊國續風土記第二輯に、日高郡比井崎村大字產湯浦八幡宮の事を述べて云く、比井浦の南四丁に在り、今に應神帝の產湯の井あり(熊楠謂ふ、日本紀に、神功皇后帝と紀州日高郡に會ひ玉ふ事有り)。村中古今難產の憂無しと云ふ。又皇子に產湯を奉りしより、其火を傳へて今に絕えず、故に村中火を打つ事絕て無し。若し偶々火の消し家は、鄰家に傳へしを取て用ゆ。只田畑に出るに、煙草抔を吸ふには、火を打つ事有りと云ふ。又神を祭るに湯立をなす事、當村に無し、是皆古の故事と云ふ。千五六百年を經て火を傳る事、最も珍しき風俗と云ふべしと、頃日予同村人浮津眞海師に聞合せしに、今は其樣な事も無く、其話さえ傳らずとなり。浮津氏は此社の合祀滅却に抗し、一昨年入監迄せし、熱心なる史蹟名勝保存論者なり。
(明治四十五年三月人類第二十八卷)
[やぶちゃん注:「祝融を火正黎と號し」「祝融」(しゆくゆう)は古代神話に登場する神で、黄帝の孫とされる顓頊(せんぎょく)の子或いは孫と伝えられている。湯王が暴君の悪名高い夏王朝最後の王桀を討ち滅ぼすために軍隊を進めた際、祝融は桀王の守る城に火災を引き起こして湯王を勝利に導いたとされる。このように、祝融は火と関係の深い神であり、同じく火の神である炎帝の配下とされたり、竈(かまど)の神とも考えられた。また、五行説が五つの元素を、それぞれ、中央と四方に当て嵌めた時、火を南方に配当したことから、南方を司る神であるともされた。他方、祝融を一個の神格としてではなく、火を取り扱う官職の名前とする伝承も存在している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「火正黎」は「北正黎」とも称し、祝融の異名であるとともに、前の最後に書かれた通り、漢代以後の官職名でもあるようである。
「寒食」(かんしよく/かんじき)は古く中国で、冬至から百五日目は、風雨の烈しい日として、「火断ち」をして煮焚きせずに食物を食べた風習やその日を指す。
「鄴中記」(げふちゆうき(ごうちゅうき))は五胡十六国時代の後趙(三一九年~三五一年)の第三代天王石虎(在位:三三四年~三四九年)の時代の鄴(石虎が三三五年に遷都した。現在の河北省邯鄲市臨漳県。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の宮殿や風俗等を記した歴史書。
「介子推」(?~紀元前六三六年)は春秋時代の晋の文公(重耳)の臣下。当該ウィキによれば、「十八史略」では、『介子推の具体的な行動として、亡命中』、『飢えた重耳に自分の腿の肉を食べさせた(「割股奉君」)話を書いている。さらに、文公が緜上から介子推を参上させるため』、『一本だけ』、『道をあけて』、彼のいる『山を焼き払ったところ、介子推は現れず』、『古木の中で母と抱き合って死んでいるの』が『発見された、とある。介子推の焼死を悼み、清明節の前日には』、『火を使わず』、『冷たい食事をとる風習が生まれた。これを寒食節といい、その日は家々の戸口に柳の枝をさし、介子推の魂を招いたという。多くの野の祭りなどで「紙銭」を焼く風習も、介子推の霊を慰めるためとも』されるが、『現在の中国で』は、『これらの風習は廃れている』とある。熊楠が牽強付会と一蹴するのは、民俗学者としては如何なものかと私は思う。
「紀伊國續風土記第二輯に、日高郡比井崎村大字產湯浦八幡宮の事を述べて云く、……」国立国会図書館デジタルコレクションのここの「產湯村」。現在の和歌山県日高郡日高町産湯(うぶゆ)。産湯八幡神社として現存する。
「消し」「きえし」。
「湯立」「ゆだて」。湯立て神事。但し、所謂、「盟神探湯」(くがたち)というのではなく、祓いのためのそれであろう。湯であろうが、水は火を消すから、忌むのである。
「古」「いにしへ」。
「頃日」「このごろ」。
「浮津眞海師」ここに書かれた神社合祀の反対者であること以外の事績は不詳。]
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