「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「田螺を神物とする事」
[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年十一月発行の『人類學雜誌』二十七巻八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
田螺を神物とする事 (人類二八八號二二一頁、二九一號三四一頁參照)
保科正之撰會津風土記に、會津郡二間在家端村九々生、有若宮八幡祠、祠外有二沼、名田蠃沼人有取此田蠃、則及夜寢而呼曰、返之、不返則付止矣、患瘧疾者取之、祈而曰、疾愈則倍以返之、則有驗焉、八幡神田螺を愛すと見えたり。但し、今も此土俗有りや否を知らず。
(明治四十四年十一月人類第二十七卷)
[やぶちゃん注:平凡社「選集」では、添え辞が次行で下方インデントのポイント落ちで三行に及び、
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山中笑「本邦における動物崇拝」(『東京人類学会雑誌』二五巻二八八号二二一頁)、南方「本邦における動物崇拝」(同誌二五巻二九一号三四一頁)参照
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とある。この『山中笑「本邦における動物崇拝」(『東京人類学会雑誌』二五巻二八八号二二一頁)』は、既に『山中笑「本邦に於ける動物崇拜」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」の執筆動機となった論文)』として電子化済みであり(但し、山中に指摘は、『田螺 藥師佛に眼病を祈る者、食せず。』とあるのみである)、南方「本邦における動物崇拝」の方は、狭義には、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(27:田螺)」に相当する。後者で私が注したことは繰り返さないので、まずは、そちらを読まれたい。
「保科正之撰會津風土記」「保科正之」(慶長一六(一六一一)年~寛文一二(一六七三)年)は第二代将軍徳川秀忠の子で、徳川家光の異母弟。保科正光の養子となり、寛永八(一六三一)年に信濃高遠藩主保科家第二代となった。後、出羽山形藩を経て、陸奥会津藩藩主保科家初代となった(二十三万石)。第四代将軍家綱を補佐し、幕政を主導、「会津家訓十五箇条」を作るなど、藩政の基礎も固めている。「會津風土記」は彼が儒者で神道家としてとみに知られる山崎闇斎(播磨生まれ)に命じて編集させた会津藩内四郡の地誌。寛文六(一六六六)年成立。近世に於ける地誌編纂の嚆矢。以上の田蠃沼の話は、探すのにかなり苦労したが、発見した。ここである。「和泉組」の「二件在家(にけんざいけ)村 橋村 九九生」で本文では「九九生」に「ククリフ」の読みが振られてある。その後に、「若宮八幡宮」の解説に出る。二つの沼の名が「雌沼」と「雄沼」であることも判明する(逆に「田蠃沼」の名は見えない)。なお、そこには、界村の「鹿島神社」への「見よ割注」があるが、ここであるが、特に田螺の話は載らず、雨乞いの一致を両社に見られるからであろう。
「會津郡二間在家端村九々生」福島県南会津郡只見町(ただみまち)二軒在家九々生(くぐりゅう)(グーグル・マップ・データ)。画面では外だが、同地所地名で若宮八幡神社がある。但し、沼らしいものは残念ながら見えない。但し、ごく小さなものとして残っているのかも知れない。以下、上記原本を参考に推定訓読文を示す。
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會津郡二間在家(にけんざいけ)端村(はしむら)九々生(くぐりふ)、に、若宮八幡の祠(ほこら)あり。祠の外(ほか)に、二つの沼あり。「田蠃沼(たにしぬま)」と名づく。人、此の田蠃を取る有らば、則ち、夜、寢るに及びて、呼びて曰はく、「之れを返せ。」と。返さざれば、則ち、止まず。瘧疾(おこり)[やぶちゃん注:マラリア。]を患ふ者、之れを取り、祈りて曰く、「疾ひ、愈ゆれば、則ち、倍にして、以て、之れを返さん。」と。則ち、驗(しるし)有りと。
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或いは、漢文書きの原「會津風土記」が別に有るのかも知れない。]
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