「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡人及死人の魂入替りし譚」の「一」
[やぶちゃん注:本論考は「一」が大正三(一九一四)年七月発行の『人類學雜誌』二十九巻七号に初出され、「二」が同年十月の同じ『人類學雜誌』二十九巻十号に、「三」が翌大正四年一月の『人類學雜誌』三十巻一号に初出されたもので、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
実は、本篇は「選集」版を「睡人および死人の魂入れ替わりし譚」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。「一」は例によって、南方熊楠の文章はベタで続くので、「選集」を参考に段落を成形し、そこに注を挟んだ。不審な箇所は引用原本や「選集」で訂したが、それはいちいち注記しなかった。ブログ版では「一」と「二」・「三」を二分割した。]
睡人及死人の魂入替りし譚 一
(人類二七卷五號三一三頁參照)
倭漢三才圖會卷七一に、伊勢國安濃郡内田村長源寺。相傳曰、昔當地人與日向國旅人、會避暑於堂之檐、互不知熟睡日既暮、有人倉卒呼起之、兩人周章覺、其魂入替而各還家、面貌其人而心志音聲甚異也、家人不敢肯、兩人共然、故再來于此復熟睡、則夢中魂入替如故、諺曰伊勢也日向之物語者是也。或紀曰、推古天皇三十四年三月壬午日五瀨國黃葉縣、佐伯小經來死、三日三夜而蘇、日向國小畠縣謂依狹晴戶者同日死同日蘇、不知妻子及所柄鄕村名、五瀨者語日向、日向者語五瀨、父子鄕村名分明、其子弟互至、相問符合、何以然也、兩人同時死、共至冥府、黃泉大帝議曰、兩人命未、宜還於鄕、冥使率之來誤差其魂尸、兩家子弟深不審之問焉縣社、明神託巫告曰、冥使通明、何有所誤、人不知魂鬼、又多疑冥府、冥帝知之、證之敎之、如此而已、其身雖我等父、心卽非我實父、心非父身無由、父亦以不爲子、願欲替父、朝廷下府任父子願、仍小經來至於日向、晴戶至五瀨如故、而行業 鄕名亦替之。
[やぶちゃん注:「選集」では、標題の添え辞として、二行で、『南方「睡眠中に靈魂拔け出づとの迷信」一節参照』/『『人類學雜誌』二七巻五号三一三頁』とある。これは、先に電子化注した「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」のことで、本篇の頭の「和漢三才図会」のそれは、そこで、もう既に触れている内容である。『「和漢三才圖會」卷第七十一「伊勢」の内の「當國 神社佛閣各所」内の「長源寺」の記載』として電子化注もしてある。しかも、熊楠の引用にはひどい誤りがあって、そのまま読むと、意味が分からなくなる箇所があるので、そこは、私の所持する原本で修正してある。そんなわけで、訓読文はそちらにあるので、今回は本文挿入していない。]
此後話の方は死人の魂他人の尸[やぶちゃん注:「しかばね」。]に入替りて蘇生後身邊の事を一切知らず、故鄕の事のみ語りし、と言へるに反し、前話の方は睡中兩人の魂入替り乍ら、その體各[やぶちゃん注:「おのおの」。]異人の魂を具して故鄕へ歸れりとする者なれば、此話を作り又信ぜし人々は、人體自ら特異の方角識を有し、萬一他人の魂本來の魂と入替りて之に寄るとも、其體は在來の方角識の儘に故鄕を指して歸り去る筈と心得たるを證す。事頗る奇怪なる如きも、狂人の精神夢裡の思想全く別人同樣變り果たるも、尙ほ身體の動作は多少本人在來の通りなる例多きを參すれば、此前話は精神變態學上の面由き材料たりと思はる。
[やぶちゃん注:「方角識」「選集」では以上に『センス・オヴ・ジレクシヨンス』のルビを振っている。Sense of Direction。
次の段の漢文は後に推定訓読を附した。]
扨此話を英譯して、一九一二年十一月卅日のノーツ、エンド、キーリスに出し西洋にも斯る譚有りやと問ひしも一答文だに出ざりし。但し支那に類話あるを近日自分見出したれば爰に揭ぐ、酉陽雜俎(著者段成式は西曆八六三年死せり)續集三に云く、開元末、蔡州上蔡縣南李村百姓李簡癇疾卒、瘞後十餘日、有汝陽縣百姓張弘義、素不與李簡相識、所居相去十餘舍(一舍は卅五里[やぶちゃん注:唐代の一里は五百六十メートル。二十キロメートル弱。])、亦因病死、經宿却活、不復認父母妻子、且言我是李簡、家在上蔡縣南李村、父名亮、驚問其故、言方病時夢有二人、著黃齎帖、見追行數里至一大城、署曰王城、引入一處、如人間六司院、留居數日、所勘責事悉不能對、忽有一人自外來、稱錯追李簡可即放還、一吏曰李簡身壞、須令別處受生、因請却復本身、少頃見領一人至、通曰追到雜職汝陽張弘義、吏又曰弘義身幸未壞、速令李簡託其身以盡餘年、遂被兩吏扶持却出城、但行甚速、漸無所知、忽若夢覺、見人環泣及屋宇、都不復認、亮訪其親族名氏及平生細事、無不知也、先解竹作、因自入房、索刀具破篾成器、語音舉止信李簡也、竟不返汝陽、(南李村に歸り、父亮と共に棲し也)時成式三從叔父攝蔡州司戶、親驗其事、昔扁鵲易魯公扈趙齊嬰之心、及寤互返其室、二室相諮、以是稽之非寓言矣《開元[やぶちゃん注:盛唐の七一三年から七四一年。]の末、蔡州上蔡縣南李村の百姓李簡、癇疾にて卒す。瘞(うづ)めて後、十餘日、汝陽縣の百姓張弘義、素とより、李簡と相ひ識らず、居(を)る所も、相ひ去ること十餘舍にして、亦、病ひに因つて死し、宿(ひとよ)を經て、却(かへ)りて活(いきか)へる。復(ま)た父母・妻子を認(みし)らず、且つ言ふに、「我れは、是れ、李簡、家は上蔡縣南李村にあり、父の名は亮なり。」と。驚きて、その故を問ふに、言はく、「方(まさ)に病める時、夢に二人有り、黃なるを著け、帖を齎(もたら)す。追(ひつた)てられて行くこと、數里、一(ひとつ)の大城に至る。署して「王城」とあり。引かれて一處に入るれば、人間(じんかん)の六司院のごとし。留(とど)まり居ること、數日(すじつ)、勘責(かんせき)せらるること、悉く對(こた)ふる能はず。忽ち、一人の、外より來たる有り、稱すらく、「錯(あやま)りて李簡を追(ひつた)てり。即(ただち)に放還すべし。」と。一吏曰はく、「李簡の身は壞(こぼ)ちたり。須(すべか)らく別に生(しやう)を託すべし。」と。[やぶちゃん注:ここに引用の省略がある。「選集」ではそこがあり、引用原本では、「時憶念父母親族、不欲別處受生」で、「選集」では訓読されて、「時に父母・親族を憶念し、別處に生を受くるを欲せず。」となっている。]因りて復(ふたた)び本(もと)の身に却(かへ)らんことを請ふ。少頃(しばらく)ありて、一人を領(つ)れて至るを見る。通(まう)して曰はく、「雜職(ざふしき)の汝陽の張弘義を追てて到(いた)れり。」と。吏、又、曰はく、「弘義の身、幸ひに、未だ壞れず。速やかに李簡をして其の身に託して、以つて餘年を盡さしめよ。」と。遂に兩吏に扶持(かか)へられ、城より却(かへ)り出づ。但(ただ)、行くこと、甚だ、速やかにして、漸(やうやう)として知る所無し。忽ち、夢の覺(さ)むるがごとく、人の環(かこ)みて泣くと、屋宇(やう)とを見る。都(すべ)て復(ま)た認(みし)らず。亮、其の親族の名・氏及び平生の細事を訪(と)ふに、知らざる無し[やぶちゃん注:よく知っている人物であったのである。]。先に竹の作(さいく)を解(よ)くせり。因りて、自ら、房に入り、刀具を索(もと)め、篾(べつ)[やぶちゃん注:竹の表面。]を破(わ)りて器を成す。語音も擧止も、信(まこと)に李簡なり。ついに汝陽に返らず。時に、成式(せいしき)[やぶちゃん注:本書に著者段成式。]が三從(さんしやう)[やぶちゃん注:母方の叔父のことか。]の叔父は、蔡州の司戶を攝(か)ね、親しく素の事を驗(みきき)せり。昔、扁鵲(へんじやく)は、魯の公扈(こうこ)と趙の嬰齊(えいせい)との心を易(か)へ、寤(さ)むるに及びて、互ひに其の室に返り、二室、相ひ諮(はか)る、と。是れを以つて之れを稽(かんが)ふるに、寓言には非ざるなり。》。焉に言る[やぶちゃん注:「ここにいへる」。]扁鵲の故事は、現存此類話中最も古き者らしく、列子湯問篇に出たり。
(大正三年七月人類第二十九卷)
[やぶちゃん注:「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and Queries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。その投稿原本はは「Internet archive」のこちらで読める。左ページの左の中央から右上にかけてである。
「扁鵲」春秋戦国時代の伝説的な医者で中国医学の祖。インドの耆婆(ジーヴァカ)と並ぶ名医とされる。当該ウィキによれば、『扁鵲の活動の始まりは紀元前』六五五『年の虢』(かく)『という小国の滅亡で、活動の終わりは紀元前』三五〇『年の秦の咸陽への遷都であり』、これは彼が三百『年近く』も『生きていたことになる』とある。
「列子湯問篇に出たり」「列子」は生没年不詳で、中国古代の思想家。道家の代表者、又。その著作とされる書物を指す。名は禦寇(ぎょこう)。鄭(てい)の人で、老子の弟子或いは関尹子(かんいんし)の弟子、又は老商子(ろうしょうし)の弟子などと言われ、荘子の先輩ともされるが、その事績は不明。「列子」や「荘子」(そうじ)の書中に列禦寇の説話が見えるものの、孰れも事実とは認め難く、ために、人物の実在を疑う説もある。当該部は以下。訓読は所持する岩波文庫(一九八七年刊)の小林勝人(かつんど)氏の訳を参考にした。
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魯公扈、趙齊嬰二人有疾、同請扁鵲求治。扁鵲治之。既同愈。謂公扈、齊嬰曰、「汝曩之所疾、自外而干府藏者、固藥石之所已。今有偕生之疾、與體偕長、今爲汝攻之、何如。」。二人曰、「願先聞其驗。」。扁鵲謂公扈曰、「汝志彊而氣弱、故足於謀而寡於斷。齊嬰志弱而氣彊、故少於慮而傷於專。若換汝之心、則均於善矣。」。扁鵲遂飮二人毒酒、迷死三日、剖胸探心、易而置之、投以神藥、既悟、如初。二人辭歸。於是公扈反齊嬰之室、而有其妻子、妻子弗識。齊嬰亦反公扈之室、有其妻子、妻子亦弗識。二室因相與訟、求辨於扁鵲。扁鵲辨其所由、訟乃已。
(魯の公扈(こうこ)、趙の齊嬰(さいえい)の二人、疾ひ有り、同じく扁鵲がもとへ請(いた)りて治(ぢ)を求む。扁鵲、之れを治す。既に同(とも)に愈えたり。公扈・齊嬰に謂ひて曰はく、
「汝らが曩(さき)に疾む所は、外よりして府藏(ふざう)を干(おか)す者にして、固(もと)より藥石の已(い)やす所なり。今、偕生(かいせい)の疾ひ[やぶちゃん注:先天的疾患。]有り、體と偕(とも)に長(ちやう)ず。今、汝らが爲めに之れを攻(をさ)めんは、何如(いかん)。」
と。二人、曰はく、
「願はくは、先づ其の驗(しるし)を聞かん。」
と。
扁鵲、公扈に謂ひて曰はく、
「汝は、志(こころざし)、彊(つよ)くして、氣、弱し。故に謀(はかりごと)に足(た)りるも、斷(だん)に寡(すくな)し。齊嬰は、志、弱きも、氣は彊し。故に慮に少(か)けて、專(せん)に傷(やぶ)る[やぶちゃん注:独断専行して、失敗する。]。若(も)し汝らの心(しんざう)を換へなば、則ち、善(よ)きに均(ひと)しからん。」
と。
扁鵲、遂に、二人に毒酒を飮ましめ、迷死せしむること[やぶちゃん注:仮死状態にさせること。]、三日、胸を剖(さ)き、心を探(さぐ)り、易(とりか)へて、之れを置き、投ずるに、神藥を以つてす。既に悟(さ)むれば、初めのごとし。二人、辭して歸る。是(ここ)に於いて、公扈は齊嬰の室(いへ)に反(かへ)りて、其の妻子を有せんとせしが、妻子は識(みし)らず。齊嬰も亦、公扈の室に反りて、其の妻子を有せんとせしが、妻子も亦、識らず。二(ふたり)の室(つま)、因りて相ひ與(とも)に訟へて、辨(あかし)を扁鵲に求む。扁鵲、其の由(よ)る所を辨(あきら)かにして、訟へ、乃(すなは)ち、已みぬ。)
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