甲子夜話卷之七 3 千宗左、眞臺司上覽。茶器を賜り歸京の事
7ー3
紀の藩中に千宗左と云あり。京住にして利休の末なり。享保の頃關東に召され、其家傳せし眞臺司の手前を上覽あり。御暇のとき御茶盌を下さる。宗左發足の前、相率たる從者を還し、御茶盌を袋に納め、自ら首に懸て、僅に殘せる僕一二人と發す。京の家内門人の輩、先立歸着せるものに其事を聞き、宗左が歸を待つ。不日にして宗左歸り、江都の云云を話し、恩賜の御茶盌を以て、一會を催さんと門人に云ふ。因て門人等、茶室露次を洒掃して、事既に成れども來客誰と云を不ㇾ知。故に誰をか招給ふと宗左に問へば、妻を客とせんと云。門人妻に告ぐ。妻驚て辭退す。宗左曰。辭すべからず。我は此家に聟養子として入り、其方は先人の女なれば、家の統は其方なり。吾祖先の餘薰に依り、今度の大惠を蒙ること、其本は汝が身に由れり。然れば祖恩に報ぜんには、其方をぞ客禮にて待遇すぺし。必辭すべからずと云。妻も其理に伏し、會席に赴く。宗左彼の御茶盌を上器とし、妻を一客とし、茶禮式の如く畢り、御茶盌は門生等にも示さず、其まゝ匱藏せりと。宗左が爲ㇾ人かくの如し。信に祖先の利休に恥ずと云べし。
■やぶちゃんの呟き
「千宗左」(せんのそうさ 慶長一八(一六一三)年~寛文一二(一六七二)年)の初代は江戸初期からの表千家の当主。宗旦の第三子。初代紀州侯徳川頼宣に仕えた。但し、ここには「享保の頃」(一七一六年~一七三六年)とあり、「聟養子」とあるから、初代ではない。時代が正しいとすると、第七代千宗左(宝永二(一七〇五)年~寛延四(一七五一)年)が相当するが、彼は第六代家元覚々斎原叟宗左の実子であるから、違う。養子となると、第九代(安永四(一七七五)年~文政八(一八二五)年)が茶人久田宗渓の長男で、第八代の婿養子となって家元を継いでいるが、彼は松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)と同時代人であり、彼と間違えるというのは、ちょっとおかしい。なお、第八代も紀州徳川家の茶頭となっている。しかし、確信犯で本篇は綴られていることから、この「享保」というのは、享和(一八〇一年~一八〇四年)の誤りなのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。【同日15:50/削除・追記】いつも御教授を戴くT氏より、只今、メールを頂戴し、表記の千宗左は第六代覚々斎原叟宗左(延宝六(一六七八)年~享保一五(一七三〇)年)であるとの御指摘を受けた。サイト「茶道本舗 和伝.com」の「三千家の誕生」の「表千家六代」「覚々斎原叟宗左」を紹介して下さった。彼は久田家三代久田徳誉斎宗全の子であったが、表千家第五代随流斎良休宗左の婿養子となったとあり、彼の妻はその養父の三女で、彼は、享保八(一七二三)年十月八日に第八代将軍徳川吉宗より唐津焼の茶碗を拝領したとある。茶碗の銘は「桑原」。最速の修正が出来た。T氏に心より感謝申し上げるものである。
「眞臺司」「しんのだいす」。「真台子」とも書く。「真」は台子(正式の茶の湯に用いられる四本柱の棚。風炉(ふろ)・茶碗・茶入れ・建水(けんすい:茶碗を清めたり、温めたりした際に使った湯や水を捨てるために使う椀)などの諸道具を載せておくもの。他に及台子・竹台子などの種類がある)を飾る基本的な方式。「真の台子」の点茶法は、点前(てまえ)の最上位に有り、その伝授を得て、宗匠となる。
「上覽」徳川吉宗のそれ。
「京住」「きやうずみ」。
「御暇」「おいとま」。
「御茶盌」「おちやわん」。
「相率たる」「あひつれたる」。
「先立」「さきだちて」。
「不日」「ふじつ」。日ならずして。
「江都」底本の東洋文庫に従い、「えど」と読んでおく。
「洒掃」「さいさう」「洒」は「水を注ぐ」意。掃除。
「女」「むすめ」。
「統」「とう」。血統・血筋。
「其本」「そのもと」。
「必」「かならず」。
「其理」「そのことわり」。
「匱藏」「ひつざう」。箱に入れて秘蔵すること。
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