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2022/06/30

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、答なし。追記雀戰】~(1)鳩有三枝之禮

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。標題の割注にある通り、馬琴の質問への答えは、ない。]

 

      △著作堂問

實語敎といふものに見えし、鳩有三枝之禮、烏有反哺之孝てふ語は、三尺のわらべなりともしらぬはなし。しかれどもこの語は、何の書より出たりといふものを見ず。解がわかゝりし時、この義をもて、一老先生に問しに、そは譙周が法訓にあり。說郛を見よといはれしかば、いと欲しくて、そのゝち說郛の法訓の條下を披閱せしに、たゞ羊有跪乳之禮、雞有識時之候、鴈有庠岸序之儀、人取ㇾ法焉、といふ語あるのみ【淵鑑類函四百三十六獸部八羊の一にも、亦此語のみを載たり。】。彼先生はこれらの語を覺たがへしにやあらん。そは諳記の失なること疑ひなし。按ずるに、唐書【五十九。】藝文志に譙周法訓八卷、五敎五卷と見えたり。さるを說郛に收めたる法訓は、纔に七則凡二百六十有四言、その楮數一頁半に過ざるのみ。全書既に傳らねば、考索によしなけれども、おそらく法訓より出たる語にはあるべからず。實語敎はむかし叡山の法師の作れりといひ、或は空海の作也ともいへば、件の語は、必佛典より出しにやあらんとばかりにして、何の佛敎に有やしらず。烏に二種あり。はしふとゝ唱るものには反哺の事なし。はしほそは漢名を慈鳥といふ是なり、こは反哺するものゝよし、本草及諸書にいへれど、鳩に禮讓あるよしは、いまだ管窺を得ざるなり。此語の出處をきかまほし。解問、

[やぶちゃん注:「實語敎」(じつごけう)は平安末期から明治初期に至る、まさに約七百年間に亙って使用されてきた道徳の教科書で、弘法大師作とも伝えられるものの、作者・著作年代ともに不明である。五言絶句四十八連から成る。「山高きが故に貴からず」で始まり、行動によって獲得された知識の価値を不朽のものと高揚し、また、学問の必要性を説いている。江戸時代に到って刊本となり、寺子屋の発達に伴って、広く普及した。但し、以下「といふものに見えし、鳩有三枝之禮、烏有反哺之孝てふ語」と続くのだが、実は国立国会図書館デジタルコレクションで、古い注釈附き版本(江戸前期。但し、抄本)を始めとして、三種の全篇の載る活字本(「空海全集」を含む)を見たが、この文字列は、ない。「女実語教」や「童子教」も見たが、ない。これは正直、馬琴に誤りではあるまいか? ともかくも探してみると(多くの辞書は以上の漢文訓点もので引用し、引用元を「学友抄」とするのだが、この「学友抄」なり書物、これ、いくら調べても書誌に当たれない。なんじゃこりゃあ!?)、「慈元抄」という室町後期に書かれた教訓書(著者不詳)にあるのを発見した。国立国会図書館デジタルコレクションの「日本教育文庫 家訓篇」(同文館編輯局編・明治四四(一九一一)年)のここ(左ページ五行目)にあった(但し、「鳩に三枝の禮有、烏に反哺の孝あり」と漢文ではない)。因みに、前者は「さんしのれい」で、「鳩は親鳥のとまっている枝から三本下の枝にとまる」という言い伝えから(そんなことは実際にはしない)、子が親を敬う態度を喩えたもので、後者は「はんぽのかう」(「反」は「応ずること」で、「哺」は「口移しに餌を与えること」)で同じく、「烏(からす)は情け深く、自身が幼い時、六十日の間、口移しに餌をくれた恩を忘れず、老いた親に同じ六十日の間、口移しで餌を与える」という伝承から(同前で、そんなこと、やりません!)、子が親の恩に報いて孝養を尽くすことや親孝行の喩えである。後者は「慈烏反哺」(じうはんぽ:「慈烏」はこの話に基づくカラスの異名)或いは「反哺之羞」(はんぽのしゅう)と言う。カラスの方の出典は、現行では、一般に南北朝時代の南朝梁の初代皇帝武帝(蕭衍(しょうえん) 五〇二年~五四九年)の「孝思賦」を出典とする。但し、彼は仏教を厚く信仰し、菜食主義者であったことから「皇帝菩薩」とも呼ばれ、後に示すように、カラスの方の出典は仏典が元である可能性は皆無ではない。

「譙周」(しやうしう)譙周(しょうしゅう 一九九年~二七〇年)は三国時代から西晋の学者で政治家。

「說郛」(せつぷ)は随筆「輟耕録」で知られる元末明初の学者陶宗儀が、先秦から元までの経・史・小説類千余種を要約した叢書 (全百巻) 。これによって完全な散佚を免れた書も多い。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの版本の巻五十九で、「譙周法訓」が視認出来、ここ(単体画像)の六行目がそれ。

「羊有跪乳之禮、雞有識時之候、鴈有庠序之儀、人取ㇾ法焉」「羊に跪乳の禮有り、雞(にはとり)に識時の候有り、鴈(がん)に庠序(しやうじよ)の儀有り。人、法(はふ)として取るなり。」。羊のそれは、母からお乳を飲むに際して膝まづいてする礼があり、鷄のそれは、時を正確に認識してそれを告げ知らす任務を成し遂げの意であろう。雁の「庠」(現代仮名遣「ショウ」)は学校・学び舎の意であるから、学ぶ者の段階に応じた序列が厳然としてある(雁の渡りの群飛の順序のミミクリーか)という謂いと思う。

「淵鑑類函四百三十六獸部八羊の一にも、亦此語のみを載たり」清の康熙帝勅撰に成る類書(百科事典)。「漢籍リポジトリ」の当該巻のガイド・ナンバー[441-3a]の部分を参照。

「彼」「かの」。

「楮數」「ちよすう(ちょすう)」ページ数。馬琴先生、「大蔵経データベース」で検索してみました。すると、鳩の方は、「鳩」と「三枝」のフレーズ検索では、一つも掛かって来ませんでしたから、仏典説はちょっと厳しいように思います。しかし、「烏」+「反哺」では、以下が挙がりました。

「宗鏡録」(すぎょうろく:五代十国の呉越から北宋初の僧の永明延寿が撰した仏教論書。九六一年成立)『別如何知父母等如慈烏反哺猫狗識人知人嗔喜答此不是……』

「弘明集」(ぐみょうしゅう:南朝梁の僧祐編になる中国の仏教と道教の二教間の論争に関する文章を集めた論書。五一八年成立)『寧有是乎客答但聞慈烏反哺耳相乃悵然自愧失言今子處……』

「廣弘明集」(こうぐみょうしゅう:唐の道宣の編纂になる仏教護法のために書かれた文章を集成。六六四年成立)『紀靈蛇銜珠以酬德慈烏反哺以報親在蟲鳥其尙爾況三才之令人治本歸於三大……』

「北山錄」(ほくさんろく:梓州慧義寺神清撰。儒仏道三教一致の立場に立った論集。八〇六年成立)『土假水土爲増上緣也烏反哺梟反噬蓋前生之行逆順之餘習也橘榮南而枳蕃北……』

「續一切經音義」(遼の希麟著。九八七年成立)『都反說文孝烏也純黑而反哺者曰鳥小而不哺者鵶也下疾溜反考聲云黑色鳥也……』

「妙法蓮華經釋文」(和仏典。平安中期の法相家の学僧仲算撰)『云孝鳥也爾雅云純黑而反哺者也惠雲云亦名老鵶隨口中……』

「理趣經開題」(空海の著)『四印等噵聞林烏微禽有反哺之志泉獺愚獸致祭魚之誠何……』

この内、「弘明集」が最も古く、「孝思賦」を書いた蕭衍は五〇二年生まれであるから、それよりも早い。但し、以上の通りの内容であるから、必ずしも、仏典由来と断定は出来ない。

「必」「かならず」。

「佛典より出しにやあらんとばかりにして、何の佛敎に有」(ある)「やしらず」前々注参照。

「はしふと」スズメ目カラス科カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos「和漢三才圖會第四十三 林禽類 大觜烏(はしぶと) (ハシブトガラス)」を参照。次のリンクの項とともに、本文で良安は「本草綱目」の引用で反哺の有無を述べている。

「はしほそは漢名を慈鳥といふ是なり」スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」を参照。]

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「三」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

      三、

 〇師走狐(鄕硏一卷一二一頁)に就て上芳養村の人の說に、昔し狐が十二支の何と後へ己を加へて吳れと望んで拒絕された。十三支では月を數えることが成ぬからだ。之を哀んで新年が近づく每に狐が鳴く。これを師走狐と言ふので、別に境大字の一老狐に限た事で無いと。

[やぶちゃん注:「鄕硏一卷一二一頁」本「紀州俗傳」の「一」の冒頭の条を指す。

「上芳養村」(うへはやむら)は前回の中芳養村の東北に接する旧芳養地区一番の内陸部。ここ(「ひなたGPS」)。]

 〇田邊町に接近せる湊村に、昔し金剛院てふ山伏有り、庚申山と云ふ山伏寺で山伏の寄合有るに、神子濱の自宅から赴く、途上老狐臥し居る、其耳に法螺を近づけ大に吹くと、狐大に驚き去る。其返報に彼狐が、鬪鷄權現社畔の池に入り、荐りに藻を被り金剛院に化る、庚申山へ行く山伏ら、この次第を睹、扨は今日狐が金剛院に化て寺へ來る積りだ、早く待受て打懲しやれと走り往て俟つと、暫くして金剛院殊勝げに來るのを、寄て圍んで散々に打擲しても化の皮が顯れず、苦しみ怒るのみで、遂に眞正の金剛院と解つた。全く法螺で驚された仕返しに、狐が惡戲をしたのだつた。熊楠謂ふ、此話と似た奴が支那の呂覽卷廿二、疑似篇に出て居る、梁北の黎丘部に奇鬼有り、善く人の子弟の狀を爲る、邑の丈人市に之て醉歸る所へ、其子の狀して化出で、丈人を介抱して歸る途中夥く苦めた、丈人家に歸て其子を誚ると、昔に東邑人に貸た物の債促に往て居た、何條父を苦むべき、僞と思はゞ彼人に聞玉へと云ふ、父ぢや屹度彼鬼の所爲だ、仕樣社有れと、明日復た市に之て飮み歸る所を、子が案じて迎へに行た、其れ鬼が來たと用意の劍を拔て、殺して視ると眞の吾子だつたと有る。

[やぶちゃん注:「湊村」現在の田辺の中心部である和歌山県田辺市湊(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。本篇発表当時(大正二(一九一三)年六月)は田辺町に接する湊村であったが、大正一三(一九二四)年に田辺町に編入されている。

「庚申山と云ふ山伏寺」現在の甲賀(こうか)市水口町(みなくちちょう)山上(やまがみ)にある真言宗庚申山(こうしんざん)広徳寺。山伏や甲賀忍者の修行の地として古くから知られる。

「神子濱」田辺市神子浜(みこはま)。

「鬪鷄權現社」既出既注。田辺市東陽にある鬪鷄(とうけい)神社。熊楠の夫人は当時の同社の宮司田村宗造の四女松枝さんである。

「荐りに」「しきりに」。

「化る」「ばける」。

「睹」、「み」。

「待受て打懲しやれ」「まちうけて、うちこらしやれ」。

「打擲」「ちやうちやく」。

「眞正」「選集」に従うなら、「ほんたう」。

「惡戲」「いたづら」。

「呂覽」「りよらん」は戦国末期の秦の丞相呂不韋(りょふい ?~- 紀元前二三五年)が食客を集めて共同編纂させた「呂氏春秋」の別称。秦の始皇八年(紀元前二三九年)に完成した。当該ウィキによれば、全二十六巻百六十篇で、『その思想は儒家・道家を中心としながらも』、『名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされ』、『天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる』とある。当該部は「中國哲學書電子化計劃」のこちらから、その影印本を視認されるのが良い。

「梁北の黎丘部」現在の河南省開封(かいほう)市の西北の旧地名。

「狀」「なり」又は「かたち」或いは「さま」。

「爲る」「まねる」。

「丈人」「ぢやうじん」。年寄を敬って言う語。「選集」では『おやかた』と振る。

「之て」「ゆきて」。

「醉歸る」「ゑひかへる」。

「化出で」「ばけいで」。

「夥く」「おびただしく」。

「誚る」「せむる」。

「昔に」「選集」に従い、「さきに」。

「東邑人」「ひがしむらのひと」と訓じておく。

「貸た」「かした」。

「債促」「催促」に同じ。

「往て居た」「ゆきてをつた」。

「何條」「なんぜう」。どうして。

「苦む」「くるしむ」。

「僞」「いつはり」。

「彼人」「かのひと」。

「聞玉へ」「ききたまへ」。

「父ぢや屹度彼鬼の所爲だ」「ちち、『ぢや、あのおにのしわざだ。』」。

「仕樣社有れ」「しやうこそ、あれ。」。仕返ししてやる方法が、これ、あるわい!

「拔て」「ぬきて」。

「眞」「まこと」。]

 〇鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲と少しく違ふのが、紀州田邊邊で行はれる、「ほーたる來い、ほーたる來い、彼方の水は苦い、此方の水は甘い、ほーたる來い、ほーたる來い、ほーたる來い、行燈の光で蓑着て來い」(又は行燈の光を見懸て來)。田邊町と殆ど町續きなる神子濱では、「ほー、ほー、ほーたる來い、彼方は云々」と云たあとで、「ほー、ほー、ほーたる來い、行燈の光で蓑きて笠きて飛でこい」と云ふ、有田郡津木村抔では、單に「螢來い、螢來い天河の水呑さう」と云ふ。

[やぶちゃん注:「鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲」当該雑誌は全くネット上では見られないので、不詳。南方熊楠の記事ではないようだ。「遠州橫須賀地方」は現在の静岡県掛川市横須賀のことであろう。

「彼方」「あつち」。

「此方」「こつち」。

「有田郡津木村」和歌山県有田郡の旧村で、現在の同郡広川町の東半分、広川の上流域に相当する。「Geoshapeリポジトリ」の「 歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。]

 〇田邊近傍の里傳に、昔し雀と燕姉妹の所に親が臨終と告來つた、燕は衣を更え盛粧して行たので、親の死目に逢ず、雀は鐵漿付て居たが、事急也と聞て忽ち其儘飛往て死目に逢た。故に體色美ならず頰に黑き汚斑有れど、始終米粒其他旨い物多く食ふ、燕は全身光り美しけれど、不孝の罰で土斗り食ふと。去年死んだ英國昆蟲學大家「ウヰリアム、フオーセル、カービー」は廿年斗り前予が西印度で集めた蟲類を每々調べて吳れた在英中知人だつた、專門の方に大英博物館半翅蟲目錄等多く大著述が有た傍ら古話學に精通し、故「バートン」が亞喇伯夜譚の全譯を濟せた時も、特に「カービー」氏の亞喇伯夜譚諸譯本及び模作本の解說を請て卷末に附した程の名人だった。氏の著「エスソニア英雄傳」(一八九五年板)卷貳に「エスソニア」の燕の緣起を說て云く、常醉漢の妻が膝邊に子を載せ布を織る、其日の出立ちは頭に黑布、頸に赤切れ、白い下衣に黑い下裳だった、所へ醉た夫が還來て妻を押排け、斧で織を斷ち、拳で兒を殺し、序に妻を打て氣絕させた。大神之を憐れみ卽座に妻を燕に變ぜしめたが、逃んとする鳥の尾を夫が小刀で截たから兩岐に成た。爾來燕は當時の不幸を悲み、鳴き止ずに飛行くが、他鳥と異り人を怖れず、家内に來り巢ふと有る。本條に多少關係ある故、知人の記念に一寸附記す。

[やぶちゃん注:「逢ず」「あへず」。

「鐵漿」「かね」(「選集」)或いは「おはぐろ」。

「飛往て」「のびゆきて」。

「逢た」「あへた」。

「汚斑」「選集」は『よごれ』と振る。

「罰」「選集」は『ばち』と振る。

「斗り」「ばかり」。

『去年死んだ英國昆蟲學大家「ウヰリアム、フオーセル、カービー」』「ロンドン自然史博物館」で働いたイギリスの昆虫学ウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)。当該ウィキによれば、『昆虫学の著作の他に少年向けの博物学の著書を執筆し』『フィンランドの民族叙事詩』「カレワラ」『など北欧神話の翻訳も行った』とある。『ロンドンの銀行家の家で生まれ』、『家庭教師から教育を受けた。子供時代から蝶などに興味を持ち』、僅か十八歳で、‘Manual of European Butterflies’『という著作を出版した』。一八六七年に王立ダブリン協会の博物館の学芸員となり、「昼行性鱗翅目のシノニム目録」(Synonymic Catalogue of Diurnal Lepidoptera :初版一八七一年・補遺版 一八七七年)『を出版した』。一八七九年、没した昆虫学者フレドリック・スミス(Frederick Smith)の後を継いで、『ロンドン自然史博物館の学芸員の仕事を』担当し、一九〇九年まで『その仕事を続けた』。彼は『自然科学の著作』がある『他に、北欧やオリエントの神話、民話に興味を持ち、フィンランドの民族叙事詩、カレワラなどを英訳し、同時代や後代の作家に影響を与えた』とある。

「大英博物館半翅蟲目錄」この書名相当のものを見出せなかったが、彼の著に成る‘Catalogue of the described Hemiptera Heteroptera and Homoptera of Ceylon’ (「記載されたセイロンの半翅目・異翅目及び同翅目の目録」:一八九一年)があった。半翅目はカメムシ目に同じ。

「古話學」「選集」では『ストリオロジー』のルビが振られてある。これは“Storyology”らしいが、通常の辞書には載らず、ネットでは、中国語で「故事学」と訳されている。所謂、「古譚考証学」という意味であろうか。何のことはない、邦文でこの単語を調べると、掛かってきたのは「私設万葉文庫」の「南方熊楠全集」第三巻の「ダイダラホウシの足跡」(明治四一(一九〇八)年四月発行の『東洋學藝雜誌』初出)の一節で、『世界通有の俚伝を Benjamin Taylor,Storyology,1900,p.11 に列挙せる中に』とある。この作者の事績はよく判らぬが、ロンドンで出版された同書の副題は‘Essays In Folk-Lore, Sea-Lore, And Plant-Lore’(「民間伝承と海洋伝承及び植物の伝承に関するエッセイ」)で、思うに、各種の伝承や民話中の核になっている広く見られるプロトタイプを探究する学問という意味で、或いはこのベンジャミン・テイラーなる研究者が造語したものかも知れない。

「バートン」「亞喇伯夜譚」(「選集」では『アラビアン・ナイツ』とルビする)既出既注

「請て」「こひて」。

『氏の著「エスソニア英雄傳」(一八九五年板)』‘The hero of Esthonia, and other studies in the romantic literature of that country’(「エストニアの英雄、及びその国のロマン的文学その他の研究」・一八九五年刊)。当該原本の当該部を「Internet archive」で発見した。ここからである。

「常醉漢」「選集」を参考にするなら、『ゑひどれ』。

「下衣」前注の原文を見ると、“shift”で、これは「ワンピース」或いは古語で「スリップ」のこと。以下と区別する上半身の「したぎ」と読んでおく。

「下裳」「したも」。同前で“petticoat”。ペティコートで、スカートの下に穿く下着である。熊楠なら「ゆまき」「ゆもじ」とでも訓じているかも知れない。

「醉た」「ゑふた」。

「還來て」「かへりきたつて」。

「押排け」「おしのけ」。

「織」「はた」。

「打て」「うつて」。

「大神」「選集」は『ウツコ』と振る。原文にある神名“Ukko”である。ウィキの「ウッコ」によれば、『ウッコ(フィンランド語 : Ukko、エストニア語 : Uku)は、フィンランド神話で、天空・天気・農作物(収穫物)とその他の自然の事象を司る神で』、『フィンランド神話・エストニア神話』『の中で最も重要な神でもあり、フィンランド語の「雷雨(ukkonen)」はこの神の名前から派生した言葉である。『カレワラ』では、全ての事物の神であるかのように「絶対神(ylijumala)」とも呼ばれており、神話で自然絡みの話となると大抵ウッコが登場する』。『ウッコの起源は恐らくバルト神話』『の「ペールコンス(Perkons)」と、古代フィンランド神話の空神「イルマリネン(Ilmarinen)」である』。『ウッコが天空神としての地位を得た事で、イルマリネンは人間の「鍛冶屋の英雄」となった』とする。『ウッコの武器は、「ウコンバサラ」と呼ばれる、稲光を発する事が出来るハンマー(もしくは斧・剣)であった。ウコンバサラはボートのような形をした(戦闘用の)石斧だったろうと言われるが、鉄器の時代が来て石器が使われなくなるうちに、石の武器の起源は謎になった。だが』、『人々は、それを先端の石の部分から稲光を出して攻撃するウッコの武器であると信じていた』。『ウッコが妻「アッカ(Akka)』『」と連れ添っている時には雷雨が起こり、二輪戦車で空を駆けても雷雨が起こった』。『ノコギリ型のヘビのイメージは、雷のシンボルである。ヘビと稲光の両方の特徴を持った石の彫刻もある』(現物の写真有り)とある。

「逃んと」「にげんと」。

「小刀」「選集」は原文通り、「ナイフ」とルビする。

「截た」「たつた」或いは「きつた」。「選集」は前者。

「兩岐」「ふたまた」。

に成た。

「飛行く」「とびゆく」。

「異り」「選集」に合わせるなら、『かはり』。

「巢ふ」「すくふ」。]

 〇田邊邊で家に子供多く、今生れた子限り又生るるを欲せざる時は、其子に澄、留、桐抔の名を付く。是で勘定濟み、是切り出產が留れてふ意だ想な。

[やぶちゃん注:「桐」音通の「きり」(切り)。松本清張の「霧の旗」を中一の時に読んで以来、桐子って名前、ムチャ好きだったんですけど。]

〇この邊で白僵蠶を希品とし、蠶の舍利と呼ぶ。之を穫る家、當年蠶の收利多しと云ふ。近江にても「おしやり」と云ふ由、重訂本草啓蒙卷卅五に見ゆ。

[やぶちゃん注:「白僵蠶」(はくきやうさん)は、菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ目ノムシタケ科白僵菌属白僵菌(ムスカルジン)Batrytis bassiana に消化器官が自然感染して死んで硬化したカイコガ(鱗翅目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori)の幼虫を指す。白僵菌は昆虫病原糸状菌(Entomopathogenic fungus)の内、昆虫の体から水分を奪って殺し、体を硬化させるものを特に「僵病菌(きょうびょうきん)」と呼び、それによる病気を「僵病」「硬化病」と呼ぶ。感染した昆虫の死骸は乾燥してミイラ状になる。「白僵蠶」は日中の漢方薬名としても知られる。グーグル画像検索「白僵蠶」をリンクさせておく(虫が苦手な方は見ない方がまあよいかと存ずる)。なお、これについては、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 白殭蠶」の私の注でかなりディグしてあるので参照されたい。因みに「殭」は「僵」の異体字である。また、「堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 木乃伊」にも登場する。

「穫る」「うる」。

「當年蠶の收利多しと云ふ」蠶場で発生し、他の個体への感染拡大を考えれば、これは頗るクエスチョンである。

「重訂本草啓蒙卷卅五に見ゆ」国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四(一八四七)年版本のここの、右丁の後ろから四行目以降。]

 〇又月の八日に旅立せぬ古風が有た。

[やぶちゃん注:根拠不詳。暦注や九星術などで、七日や八日の旅立ちや、帰還を忌むとするものがあるようであるから、そうしたものがズレて発生したものか。]

 〇西牟婁郡新庄村大字鳥巢邊では、以前正月禮に廻り來る人が是非家の中に蹴込まねば入り得ぬ樣、閾の直外に夥く神馬藻を積だ、藻を蹴込む(儲け込む)という欲深い洒落だ。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡新庄村大字鳥巢」「二」で既出既注

「閾」「しきい」。

「直」「すぐ」。

「夥く」「おびただしく」。

「神馬藻」「じんばさう」。不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae或いはその下位タクソンのホンダワラ属 Sargassum のホンダワラ類を指す。何故、種を示さないかは、「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラの仲間)」の私の注を参照。]

 〇湊村磯間浦夷の鼻と云ふ磯の前に旗島有り。田邊權現船に乘り此浦に來りし時、旗立たる所と云ふ。夷の鼻邊に大波到れば鐘聲する所有り。鬪雞社(舊稱田邊權現)内に以前松雲院てふ寺有り、其に釣んとて鐘二つ作り、船に積來りしに、此處で雄雌の内一つ沈んだ、其が海底で鳴ると云ふ。扨殘る一つを寺に懸たが、偶を求めて鳴ぬ、八十貫目も有る物が不要と來たので、永く境内白身の木の下に雨曝しに伏置たのを、今は片付て仕舞た。

[やぶちゃん注:「湊村磯間浦」(いそまうら)「夷」(えびす)「の鼻という磯の前に旗島有り」国土地理院図でここ。グーグル・マップ・データで見ると、浜に「磯間浦安神社」があり、ここは恵比寿を祀っている。「夷の鼻」は現在の地名にないが、「ひなたGPS」で戦前の地形を見ると、「鼻」=岬上に突き出ていることが判るから、ここを指していると考えてよい。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、防波堤が形成されて、浜もかなり新しい人口海浜であることがわかり、その浜のド真ん中に「三壺崎」と場違いな名所表示があることから、ここは嘗ては、まさに「磯」の「鼻」だったことが理解出来る。

「鬪雞社(舊稱田邊權現)内に以前松雲院有り」別当寺であろう。廃仏毀釈で無くなったものと思われる。「ひなたGPS」で同神社を見ると、戦前には明らかに同神社に並んで寺の記号がある。ここは間違いなく、現在の同神社の南東直近であるが、現在の地図では寺など、影も形も、ない。

「偶」「とも」。

「鳴ぬ」「ならぬ」。

「八十貫目」三百キロ。

「白身」「びやくしん」。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属イブキ Juniperus chinensis の異名「ビャクシン」(柏槇)だろう。大きくなると、幹が捩じれたようになり、幹の表面が裂けるところから、禅宗寺院で好んで植えられる。

「伏置た」「ふせおいた」。]

〇日高郡龍神村大字龍神は古來溫泉で著名だが、其地に本誌卷一、一一七頁に載た德島縣の濁が淵同樣の話が有る。但し所の者は之を隱して言ぬ。昔し熊野詣りの比丘尼一人此所へ來て宿つたが、金多く持てるを主人が見て、徒黨を組で、雞が栖る竹に湯を通し、夜中に鳴せて、最早曉近いと紿き、尼を出立せ途中で待伏て殺し、其金を奪ふた。其時尼怨んで、永劫此所の男が妻に先立て死する樣と咀ふて絕命した。其所を比丘尼剝と云ふ。其後果して龍神の家每、夫は早死し、寡婦世帶が通例と成て今に到る、其尼の爲に小祠を立て齋込たが、頓と祟は止まぬ想ぢや。十年斗り前に、東牟婁郡高池町から船で有名な、一枚岩を觀に往た時、古座川を鳶口で筏を引て、寒い水中を引步く辛苦を傷み問しに、此働き嚴く體に障り、眞砂と云ふ所の男子は悉く五十以下で死するが常なれど、故鄕離れ難くて皆々斯く渡世すと答へた。龍神に男子の早死多きも、何か其譯有る事で、比丘尼の咀に由ぬは勿論乍ら、此邊昔しの熊野街道で、色々土人が旅客に不正な仕向も度々有つた事と思ふ。第一卷一二一頁に出せる熊野詣りの手毬唄なども、實は、新しく髮結ふて熊野へ詣る娘を途上で古寺へ引込み、强辱する體を隱微の裏に述たものらしい。明治八年頃和歌山の裁縫匠予が父の持家に住んだ者が熊野の或村で、村中の人悉く角力見に行た所へ往合せ、大石で頭を碎かれ、所持品悉く奪はれて死だ事も有た。西鶴の本朝二十不孝卷二「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋」の一章など、小說乍ら據ろ有たのだらう。序に云ふ、龍神邊の笑話に或寡婦多分現存の人だが、夏日麥を門外に乾し、私室徒然の餘り單獨祕戲を弄し居たるに忽ち驟雨到り、麥流ると兒童の叫聲に驚き、角先生(ガウデ・ミヒ)を足に結付けた儘走り出しを見て、この暑きに主婦は足袋を穿りと、兒童一同彌よ叫んだと云ふ。虛實は知ず、似た境遇は似た傳說を生ずる者で、印度にも二千年已上の昔し既に斯な事が有た。唐の義淨譯根本說一切有部苾芻尼毘奈耶卷拾七に云く、吐羅難陀苾芻尼、因行乞食、往長者家、告其妻曰、無病長壽、知夫不在、問曰、賢首、夫既不在、云何存濟、彼便羞恥、默而不答、尼乃低頭而出、至王宮内、告勝鬘妃曰、無病長壽。復相慰問、竊語妃曰、王出遠行、如何適意、妃言、聖者既是出家、何論俗法、尼曰、貴勝自在、少年無偶、實難度日、我甚爲憂、妃曰、聖者、若王不在、我取樹膠、令彼巧人而作生支、用以暢意、尼聞是語、便往巧匠妻所報言、爲我當以樹膠作一生支、如與勝鬘夫人造者相似、其巧匠妻報言、聖者出家之人、何用斯物、尼曰、我有所須、妻曰、若爾我當遣作、卽便告夫、可作一生支、夫曰、豈我不足、更復求斯、妻曰、我有知識、故來相憑、非我自須、匠作與妻、妻便付尼、時吐羅難陀、飯食既了、便入内房、卽以樹膠生支、繫脚跟上、内於身中、而受欲樂、因此睡眠、時尼寺中忽然火起、有大喧聲、尼便驚起、忘解生支、從房而出、衆人見時、生大譏笑、時諸小兒見唱言、聖者、脚上何物、尼聞斯言、極生羞恥、佛之を聞て、尼を波逸底迦罪犯とした。   (大正二年六月『鄕土硏究』一卷四號)

[やぶちゃん注:「日高郡龍神村大字龍神」現在の田辺市龍神村龍神

「本誌卷一、一一七頁に載」(のつ)「た德島縣の濁」(にごり)「が淵」この話、ネット上では纏まって電子化されたものがない。禁忌的隠蔽度が高いのかと思いきや、比較的メジャーな出版物の目録等には載っていたりするのだが、話の中身がまるで語られていない。昨夜から検索して今朝、やっと発見した。大正六(一九一七)年日本伝説叢書刊行会刊の民俗学者で小説家(児童文学)でもあった藤沢衛彦(もりひこ 明治二二(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は、日本の小説家、民俗学者、児童文学研究者)氏執筆になる編「日本傳說叢書 阿波の卷」のここである。以下に電子化する。読みは一部に留めた。割注は二行丸括弧入りだが、本文同ポイントで【 】で示した。太字は底本では傍点「﹅」。踊り字「〱」は正字化した。頭書に「金鷄呪咀傳說」とある。藤沢衛彦は熊楠も他で言及しているから、本記事も或いは彼のものかも知れない。

   *

    濁 り が 淵(那賀郡桑野村)

 桑野川を、桑野村から十五六町北東に下ると、樹木鬱蒼と生ひ茂つてゐる山の端(は)に、奇岩突出した絕壁があつて、その丁度眞下に、物凄く濁つた暗黑の淵がある。

 桑野川の水は川上も川下も水晶のやうに透き通つて、淸い淸い流(ながれ)であるのに、こゝばかりは、どんよりと濁つて、水もどよみがちなのは不思議である。あゝ、濁りが淵、淸い流の間(あひ)にあつて物凄い傳說を傳へてゐる濁りが淵はこゝである。

 世紀を幾つ重ねた昔であつたか、確かな言ひ傳へがないので、時代はわからないが、然しなんでも、よつぽど以前の事であつたと言はれてゐる。桑野五箇村(そん)【その頃、桑野村、答島村、橘浦、山口村、内原村を、古くからかう呼んでゐた。何でも「神風抄」に出た桑野御厨の地であらうと言はれる位、古い村である。】の長者の宅へ、とある日、一人の修驗者(しうけんじや)が泊り合はした。桑野の長者と修驗者は、諸國の噂話から始まつて、修驗者は、諸國で見聞(みきゝ)した寶物の話をし出した。すると長者は、とてもの事に自分の家の寶物も見て欲しい。そして又諸國修行の旅の間に、桑野の長者の寶物の噂をして貰ひたいと、種々(いろいろ)の寶物を見せるのであつたが、修驗者が、これはと思う珍寶は、それら多くの寶物の中に一つも見當らなかつた。

『なるほど、貴尊のものゝやうには見うけますけれども、これらの寶物も、まあまあ、ありの物に過ぎないやうです。かりそめにも、珍寶として噂されるだけのものには、何か普通と變つたところがなければなりません。これを御覽なさい。』

 かう言つて、修驗者は、携へてゐた櫃(ひつ)の中から、桐三重(きりみかさね)の箱に入れた黄金(わうごん)の盃(さかづき)を取り出して見せた。【盃ではなく、黃金の鷄と、一寸四方箱に收まる蚊帳(かや)とを持つてゐて、鷄と一所に出して見せたともいふ。

『へえ、これがその世にも珍らしい寶だとお言ひのですか。え、こんな小(ちいさ)い金の盃が何です。それ、そこらには、もつと大きな純金(こがね)の置物が、いくらでもあるではありませんか。』

 長者は、嘲(あざけ)り口調で、取散らかされて居ら自分の家の寶物の幾つかを指した。

『はゝ、御主人、理由を聞かないで、さうけなしては困ります。かう見えましても、この盃は、決して唯(たゞ)の黃金(こがね)の盃ぢやアありませんよ。まアまア見てゐらつしやい。それ。」

 修驗者は、薦められてゐた御馳走(おふるまひ)のお酒を取つて、稀代(きだい)の寶物だといふ、その黃金(きん)の盃の中に、なみなみと注ぎ更(か)へた。

『はゝアヽなるほど、そのお盃で飮むと、素敵もなく甘いとでも言ふのでせう。』

 長者は、よくある話だと言はぬばかり、自分で、自分の言ひ當てを感心したやうに言つたが、修驗者は、首を振つて、

『どうして、そんなつまらないことぢやアありません。』

 と打ち消しながら、零れさうになつてゐる盃のお酒を、何か言ひながら、一口ふうと吹いた。すると、驚くではないか、忽ち何處(どこ)かからともなく、黃金の鷄が現はれ出して、『こけこつこう。』と唄(うた)を唄ひ出した。立派に驚かされてしまつた桑野の長者を微笑(ほゝえみ)の眼で見やりながら、修驗者は、その溢れるばかりの盃を手にして、一息に飮みほし、

『あゝ、甘露、甘露。』

 とヽ舌皷(したつゞみ)を打つ。すると例の黃金の鷄も、酒が飮み干(ほ)されると同時に、どこともなく消え失せてしまつた樣子、長者は、たゞ呆氣(あつけ)に取らるゝばかりであつた。

『不思議、不思議。』

 と、間のあたりに見た靈事(くしごと)に感じ入つてゐた長者は、さうした珍らしい寶物を、どうしてどこから得られたかと尋ねたけれども、修驗者は、たゞ、祖先傳來の物とばかりで、詳しくは語らなかつた。

 そのうちに、桑野の長者は、無性に、その修驗者の黃金の盃が欲しくなつて來たので、修驗者に、いろいろに說(と)いて、交換(かうくわん)、讓渡(ゆづりわたし)のことを、くどくどと賴んだけれども、勿論、さうした珍寶を修驗者の易々(やすやす)と交換(とりかへ)や、讓渡(ゆづりわたし)の承知をしやうがない。手を換へ、品を換ヘて、長者は、どうかして其奇代(きだい)の珍寶を手に入れたいとしたけれども、其願ひはことごとく謝絶されてしまつた。かうなると、長者は、どうしても其珍寶が欲しくてたまらなくなる。惡い人間でもかかつたのであつたが惡魔に魅(み)せられたか、長者は、ふと氣が變つて、よしそれでは、修驗者を殺してでも、彼(あ)の珍寶を奪ひ取らうと決心してしまつた。修驗者も、どうも怪しく思はれだしたので、事があつてはめんどうと、そつと、其夜のうちに、斷りもせずに、長者の家を脫(む)けて出で、桑野川に添うて逃げて行つた。間も無く、修驗者の逃亡に氣の付いた長者は、獲物を提(と)つて、修驗者の跡を追ひ懸けて行つた。暫くすると、後(あと)から追ひかけて來る者があるやうなので、驚いた修驗者は、一生懸命になつて逃げ出したけれども、今の濁りが淵のところまで來ると、岩が川中(かわなか)へ突き出してゐるので、いよいよ絕體絕命、途方(とはう)に暮れてゐるところへ、早くも追ひ着いたのは桑野の長者であつた。『おのれツ。』と言ひさま、迫ひかゝりざまに斬り下げた一太刀は、うまく、修驗者を眞(まつ)二つにしてしまつて、まんまと、例の黃金の盃を奪ひ取る事が出來た。死體は、淀みがちな淵の中へ投げ込み、黃金の盃ばかりを懷中(ふところ)にして歸つては來たものゝ、肝心の黄金の鷄を呼び出す呪文を盜み取ることを忘れてゐたので、たゞ黄金の盃の酒を吹くだけでは、到底、黄金の鷄を呼び出すことは出來なかった。長者は、いまいましいので、『鷄出ろ。』『黃金の鷄さん出て下さい。』『これ、おでなさい、鷄さん。』『出て來(こ)よ、黃金の鷄。』『黃金の鷄現はれ出でよ。』などと、種々(いろいろ)にしてやってみたけれども、咒文は、全く違う文句であつたと見えて、どうしても言ふことを聞かなかつた。で、長者も、もてあまし、終(しまひ)には、庭先目がけて投(ほふ)り出したりなどしたけれど、そんな事をいくらしたって、黃禁の鷄を出す手段(てだて)にはならなかった。で、今(いま)桑野村の某家(ぼうけ)に傳はつて來た黃金の盃は、其(その)家の先祖が、桑野の長者から、やけの餘りに讓り受けたものものだといふ事だ。【黃金の鷄は、六部を殺した時逃げ去り傳へられたのは蚊帳ばかりであつたともいふ。】

 其後(そのご)、桑野の長者は、修驗者が殺された何回忌かに、修驗者の怨みで、修驗者の死體を投げ入れた濁りが淵に、ふらふらと迷つて來て、投身して果てたとも言ひ傳へられてゐる。

 濁りが淵の、今のやうに濁り出したのは、全く、桑野の長者が、修驗者を殺した日からの事で、以前は、桑野川の上流下流のやうに、透き通つた奇麗(きれい)な水であつたといふことである。(口碑)【六部を切つた長者の家は、今に蒸した餅を搗かない。搗けば必ず餅の中に血が混るので、其家では其代りにひき餅を用ゐてゐる。】

   *

「那賀郡桑野村」現在の徳島県阿南市桑野町(ちょう)内。北部を桑野川が南北に貫流する。全国的に見られる異人(まれびと)である「六部殺し」型で(当該ウィキを参照されたい)、餅搗きの禁忌(血染めの餅)もポピュラーな汎伝承である(小学館「日本大百科全書」の「餅なし正月」を引く。『家例として正月用の餅を搗』『かず、または餅を食べないという禁忌。餅精進』『ともいう。特定の家や一族で守られており、もし餅を搗くと血が混じるなどという。先祖が戦』さ『に負けて落ち延びてきたのが大晦日』『で、餅を搗く暇がなかったなどの由来譚』『を伴う。日本の農業は弥生』『時代から稲作を取り入れ、米を主食とする方向に進み、また儀礼食としては餅を重視してきたが、稲作以前の形態も一部に根強く残っていた。焼畑耕作による雑穀や』、『いもの利用である。雑煮』『にしてもサトイモを重視する例がある。正月には餅を用いることが一般化したため、古風を守っている家々が例外視されるようになったのである。』とある)。

「言ぬ」「いはぬ」。

「組で」「くんで」。

「雞」「にはとり」。一応、「鷄」の正字。

「栖る」「とまる」。

「曉」「選集」では『あけ』と振る。

「紿き」「あざむき」。

「出立せ」「いでたたせ」。

「待伏て」「まちぶせて」。

「先立て」「さきだちて」。

「咀ふ」「のろふ」。「詛」の異体字。

「比丘尼剝」「びくにはぎ」。

「家每」「いへごと」。

「早死」「選集」では『わかじに』と振る。

「小祠」同前で『ほこら』。

「齋込た」「選集」では『斎(いわ)に込めた』とする。

「頓と」「とんと」。

「想ぢや」「さうじや」。当て字。

「斗り」「ばかり」。

「東牟婁郡高池町」現在の和歌山県東牟婁郡古座川町(こざがわちょう)高池(たかいけ)。

「一枚岩」国指定天然記念物「古座川の一枚岩」。古座川町の古座川左岸にある、高さ約百五十メートル・幅約八百メートルの一枚の巨岩。当該ウィキによれば、『一枚の岩盤としては佐渡島の大野亀』(高さ約百六十七メートル)『や屋久島の千尋の滝』(高さ約二百メートル、幅約四百メートル)『などとともに日本最大級とされる』ものである。ここ。そのサイド・パネルや引用元に写真がある。

「眞砂と云ふ所」同町のここ(古座川の上流)。

「男子」「選集」には『おのこ』と振る。歴史的仮名遣は「をのこ」。

「由ぬ」「よらぬ」。

「仕向」「しむけ」。も度々有つた事と思ふ。

「第一卷一二一頁に出せる熊野詣りの手毬唄」本篇「一」のこと。甚だ腑に落ちる。

「詣る」「まゐる」。

「引込み」「ひきこみ」。

「體」「てい」。

「明治八年」一八七五年。

「裁縫匠」「選集」に『したてや』と振る。

「角力」「すまふ」。

「往合せ」「ゆきあはせ」。

「死だ事も有た」「しんだこともあつた」。この書き方だと、その熊楠(当時なら満八歳頃)も知る仕立て屋が殺害されたということで、ちょっと読みながらそのリアルさと近代であることから、聊かドキッとした。

『西鶴の本朝二十不孝卷二「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋」の一章』国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系」第三巻(昭和四(一九二九)年国民図書刊)のここから視認出来る。

「據ろ」「よんどころ」。実際に起こった事件が素材であうということ。

「單獨」「選集」は『ひとり』とルビする。

「祕戲を弄し居たる」自慰行為をすることを言っている。

「驟雨」同前で『ゆうだち』。歴史的仮名遣では「ゆふだち」。

「兒童」同前で『こども』。

「叫聲」同前で『叫び声』。

「角先生(ガウデ・ミヒ)」「つのせんせい」と訓じておく。古く本邦では「張形」(はりかた・はりがた)或いは「こけし」などと言ったそれで、勃起した男性器を擬したそれ。世界的には紀元前より存在した。「角先生」は中国語。中文の「Baidu百科」のこちらに写真入りであり、少なくとも明末清初には「明角先生」と呼ばれて知られていたとある。また、別称として熊楠の引く経典に出る「生支」も出ている。現代では英語の“Dildo”(ディルド)の名で知られるが、「ガウデ・ミヒ」は如何にもドイツ語ぽい。私はドイツ語が分からぬが、所持する辞書をつまびらくに、“Gaudi Mich”(ガオディ・ミッヒ)ではないか? “Gaudi”は“Gaudium”で「冗談・楽しみ」、“mich”は「私を」である。「私を楽しませるもの」で腑に落ちるのだが。

「主婦」同前で『おえはん』と振る。関西方言で「大奥様・女主人」を指す語である。

「穿り」「はけり」。

「唐の義淨」(ぎじやう)「譯」の「根本說一切有部苾芻尼毘奈耶」(現代仮名遣:こんぽんせついっさいうぶびなや)の引用部は、のっけから、漢字表記に不審があったので、底本ではなく、「大蔵経データベース」のものを用いた。同経典は全五十巻。初唐の長安三(七〇三)年、義浄(六三五年~七一三年:法顕・玄奘の風を慕い、六七一年に広州から、海路でインドに渡り、ナーランダ(那爛陀)寺で仏教の奥義を究め、各地を遊歴の後、六九五年に梵本四百部を持って洛陽に帰還、「三蔵」の号を受けた)によって漢訳された部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に教訓物語を挿入した大部な経典である。「選集」の訓読を参考にしつつ、訓読を試みる。

   *

 吐羅難陀苾芻尼(とらなんだびしゆに)、行(ぎやう)して乞食(こつじき)せるに因りて、長者が家に往き、其の妻に告げて曰はく、

「無病にして長壽たれ。」

と。

 夫(をつと)の在らざるを知り、問ひて曰はく、

「賢首(おくがた)よ、夫、既に在(あ)らず。何(いか)にして存-濟(くら)すや。」

と。

 彼、便(すなは)ち、羞恥し、默して答へず。

 尼、乃(すなは)ち、低頭(ていとう)して出で、王宮の内に至りて、勝鬘(しやうまん)が妃に告げて曰はく、

「無痛にして長壽たれ。」

と。復(ま)た、相ひ慰問して、竊(ひそか)に妃に語りて曰はく、

「王、出でて遠く行く。如何にして意(おもひ)を適(かな)へしや。」

と。

 妃、言はく、

「聖者は、既に、是れ、出家なり。何ぞ俗法を論ぜんや。」

と。

 尼曰はく、

「貴(そなた)の勝(まうけ)は自在たり。少-年(わか)くして、偶(つれあひ)なく、實(げ)に日を度(わた)り難し。我れ、甚だ憂いと爲す。」

と。

 妃曰はく、

「聖者よ、若(も)し、王、在らざれば、我れは樹膠(じゆこう)[やぶちゃん注:樹脂。]を取り、かの巧人(さいくにん)をして生支(せいし)を作らしめ、用ひて、以つて、意(おもひ)を暢(のびのび)せし。」

と。

 尼、是の語を聞きて、便ち、巧-匠(たくみ)の妻の所へ往き、報(つ)げて曰はく、

「我が爲に、樹の膠を以つて一つの生支を作れ。勝鬘天人(しやうまんてんにん)の造り與へたる者と相ひ似るがごとく。」

と。

 其の巧匠の妻、報(こた)へて曰はく、

「聖者は出家の人なり。何ぞ斯かる物を用ひん。」

と。

 尼曰はく、

「我れ、須(もち)ふる所、有り。」

と。

 妻曰はく、

「若(も)し、爾(しか)らば、我れ當に作らしむべし。」

と。

 卽ち、夫に、

「一つの生支を作るべし。」

と告ぐ。

 夫、曰はく、

「豈に我れにては足らず、更に、復た、之れを求むるか」。

と。

 妻曰く、

「我れに、知識のもの有り、故(ことさら)に來たりて、相ひ憑(たの)めり。我れの自ら須(もち)ふにあらず。」

と。

 匠は作りて、妻に與へ、妻は、便ち、尼に付(わた)せり。

 時に吐羅難陀は、飯食、既に了(をは)り、便ち、内房に入り、卽ち、樹膠の生支を以つて脚の跟(かかと)の上に繫ぎ、身中に内(い)れ、慾樂を受けて、此れに因つて睡眠せり。

 時に、尼の寺の中(うち)に、忽然として、火、起こり、大喧聲、有り。

 尼、便ち、驚起(きやうき)し、生支を解(と)くを忘れ、房より、出づ。

 衆人、見、時に、大きに譏笑(きしやう)を生(しやう)ず。

 時に、諸(もろもろ)の小兒(こども)、見て、唱(はや)して言ふ、

「聖(ひじり)よ、脚の上にあるは何物なりや。」

と。

 尼、斯かる言を聞きて、極めて羞恥を生ず。

   *

熊楠はカットしているが、以上の直後に「作男根形」の文字列もはっきり出ている。因みに、上田天瑞氏の論文「有部律について―特に密教との關係―」(『密教研究』千九百三十二巻所収。サイト「123deta」のここでダウン・ロード可能)の十五ページに、「有部毘奈耶雑事」三十三巻に『吐羅難陀尼が能く警巫をなし鈴をふつて人家に至り男女の身體を洗浴して吉凶禍福を談じ病のあるものはこれによつて癒えた、この爲に人々は彼の尼を信じ専門の巫卜の人 が利養を失つたことを說いてをる。』とあった。なかなかいろんな意味でお盛んな尼さんだったわけだな。

「波逸底迦罪犯」「選集」は『フアーツチツチアざいはん』と振る。「波逸底迦」は「はいつていか」で「波逸提」(はいつだい)とも呼び、サンスクリット語「プラーヤシュチッティカ」の漢音写。これは仏教の出家者(比丘・比丘尼)に課される戒律(具足戒)の中の日常に諸々の禁戒の総称。比丘には九十二条が、比丘尼には百六十六条が課される。それを破戒した罪として指弾されたというのである。]

2022/06/29

多滿寸太禮卷第四 上杉藏人逢女强盜事

 

        上杉藏人(くらんど)、女の强盜(ごうだう)に逢ふ事

 

 過《すぎ》し亨德《きやうとく》年中に、上杉憲忠の一族に、上杉藏人國忠といふ者あり。

 憲忠、討死の後、鎌倉を辭して、播州赤松に、よしみあれば、

『うちこへ、一先(ひとまづ)、賴まばや。』

と思ひて、ひそかに旅の用意して、供をもぐせず、只一人、住みなれし里を立ち出《いで》て、足にまかせて、急ぎける。

 元來(もとより)、智謀すぐれて、弓矢・打物《うちもの》に達し、廿(はたち)あまりの若者なれば、人を人とも思はず、世の乱れの最中なれば、山賊・海賊の、道にあふれて、更に往來もたやすからねども、これを事ともせず、唯一人登りける心のほど、いと恐ろし。

[やぶちゃん注:「亨德《きやうとく》」一四五二年から一四五五年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。底本版本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」・宝永元(一七〇四)序版・PDF)は「こうとく」と振る。「享徳の乱」(享徳三年十二月二十七日(一四五五年一月十五日)~文明十四年十一月二十七日(一四八三年一月六日))は、二十八年間に亙って関東を中心に断続的に続いた内乱。第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に騒乱が拡大した。現代の歴史研究では、この乱が関東地方に於ける戦国時代の始まりに位置付けられている)で知られ、まさに本篇もそれ絡み。

「上杉憲忠」(永享五(一四三三)年~享徳三(一四五五)年)は関東管領で足利持氏執事であった上杉憲実の子。永享の乱で主君であった鎌倉公方足利持氏を滅ぼした後、父とともに出家したが、長尾景仲らの要請により還俗、文安五(一四四八)年、関東管領となった。後、持氏の子成氏が公方に就任すると対立、成氏邸で結城成朝(ゆうきしげとも)らに暗殺された。

「上杉藏人國忠」不詳。山内上杉氏の系図を見たが、見当たらない。

「播州赤松」現在の兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)赤松(グーグル・マップ・データ)。]

 ある山路《やまぢ》にさしかゝり、日は既に暮れかゝる。

 足にまかせて、麓に急ぎけるに、とある片岸(かたぎし)に、六尺あまりの大(だい)の法師、ざいほうを引《ひつ》さげて、仁王立《にわうだち》に、つゝたち、跡につゞきて、五、六人、おなじさまなる大のおとこ、得もの得ものを持ちて、つゞきたり。

 藏人、すかし見て、

「すは。くせもの、ござんなれ。」

と、中々、恐るゝけしきもなく、

「道を急ぐ旅のものなり。速(すみや)かに、そこをひらきて、通されよ。」

と、詞(ことば)をかけたりけるに、法師云ふやう、

「我々は、人の物をわが物にして世をわたる者共なれば、命おしくば、太刀・かたな・衣裝をぬぎて、通られよ。」

と、

「ひしひし」

と、取りまはす。

 藏人、云《いふ》やう、

「わが身は一人なれば、敵對すべきやう、なし。命こそ寶なれば、ちかふよつて、面々に、取給へ。」

と、ちかぢかと、つめかけ、ひそかに太刀をぬき持つて、大の法師の眞向(まつこう)、ふたつに、

「さつ」

と、わりつゝ、いで立つたる男の、左の耳の際より、肩先へ切り付けたり。

 しばしも、こらへず、左右に倒れけるに、

「すは、しれ者よ。」

と、跡の男、腰なる貝を吹きければ、四方(よも)の山々より、同じく貝を合《あはせ》て、手に手に、松明(たいまつ)ふつて、いくらともなく、蒐(か)け來(きた)る。

 藏人、

『大勢に取り篭(こ)められては、叶はじ。』

と思ひければ、あたりの者ども、蒐(か)けちらし、足を計(ばかり)に落ちたりけるに、思ひもよらぬちか道に先(さき)をまはられ、せんかたなく、松の大木《たいぼく》のしげりたるに、よぢのぼり、梢に身をかくし、息をとゞめてゐたり。

[やぶちゃん注:「片岸(かたぎし)」「きし」は「断崖」の意。片方が高く切り立って、崖になった所。

「六尺」一メートル八十二センチ弱。

「ざいぼう」底本では「ざいほう」。シチュエーションから「ざいぼう」で、「尖棒・撮棒・材棒」などと漢字表記する。「さきぼう」の音変化。本来はヒイラギなどで作った災難除けの棒であるが、ここは、武器として用いる堅木の棒のこと。恐らくは法師体(てい)の盗賊に持つそれであるから、地獄の獄卒のアイテムとして知られる鉄尖棒(かなさいぼう)で、打ち振って相手を倒す、太い鉄棒の周囲に多くの鋭い突起があるものであろう。

「しれ者」「癡(痴)れ者」であるが、ここは「手に負えない者・乱暴なもてあまし者」或いは「その道(武芸)に打ち込んでいる強(したた)か者」の意である。

「跡の男」後ろにいた男。

「貝」法螺貝。

「蒐(か)け」この場合の「蒐」は「狩りあつめる」で、捕えるために駈け参ずることを意訳的に訓じたものであろう。以下の「蒐(か)けちらし」の主語は国忠で「返り討ちにし」の意。

「足を計(ばかり)に落ちたりけるに」足早に襲撃から逃れたが。]

  かくて、數(す)百人よせ集まり、草を分けて尋ね求むるに、行き方、なし。

 大將と覺しき男、

「よしよし、一人などをめがけて、詮なき骨を折るものかな。兼ねて示せし信元(のぶもと)が家《いへ》に、こよひ、おし入《いる》べし。手配(てくばり)せんまゝ、しばらく、よせ集まるべし。」

とて、大幕《おほまく》引《ひき》、大づゝ、あまた、すへならべ、かゞりを燒上(たきあげ)たりければ、日中(につ《ちゆう》)のごとし。

 藏人がのぼり居(ゐ)たる松の木を、眞中(まんなか)になしてぞ、あつまりける。

 

Uesugikunitada

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版の挿絵をトリミング補正して用いた。]

 

 かくて、大將と覺しき者は、色白く、尋常に、容貌、いつくしく、としの比(ころ)、廿あまりにして、かね、くろく、まゆをつくり、髮をからわにゆひ上げ、立(たて)ゑぼしを引《ひつ》こみ、かりぎぬの下に腹卷(はらまき)して、大口《おほぐち》のそば、高々と、さしはさみ、誠(まこと)に、器量・こつがら、千萬騎の大將とも、みえたり。

 床肌(しやうぎ)[やぶちゃん注:「肌」はママ。]に腰をかけたるをみれば、女なり。

 十八、九斗りなる女二人、おなじ裝束したるが、左右に候す。

 そのほか、ありとあらゆる、鬼とも人とも見えぬ山賊ども、數(す)百人、並びゐて、とりどり、評定しける。

『哀れ、是れは、日比(ひごろ)聞きつたへたる女强盜(《をんな》ごうだう)『今巴(《いま》ともへ)』といへる成るべし。器量といひ、姿といひ、いかにもして吾が妻として、暫く世に出《いづ》るまでの助けともせばや。』

と思ひて、なりを靜めて居(ゐ)たりける程に、酒宴、事(こと)終はり、亥の尅(こく)計りにも成りければ、

「時分、よきぞ。」

と、云ほどこそあれ、數(す)百人の者共、吾おとらじと、打立《うつたち》けり。

[やぶちゃん注:「信元(のぶもと)」不詳。当地(場所不詳)の豪族であろう。

「かね、くろく」「鉄漿、黑く」。お歯黒を黒々と塗っているさま。ここは一種の相手への威嚇のためであろう。

「からわ」「唐輪」髪の結い方の一つ。髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂きで二つの輪に作るもの(ここは実戦用で、本文及び挿絵で彼女は立烏帽子を被っているから、後頭部にそれを垂らしていると読むべきである)。鎌倉時代の武家の若党の髪形であった。「唐輪髷」(からわまげ・からわわげ)とも呼ぶ。後に児童や女の髪型となったそれのルーツではある。

「腹卷(はらまき)」中世甲冑の一様式。但し、中世初期の諸記録や軍記物語などに見られる腹巻は、右脇で引合せる甲冑であったが、後に名称に混乱が発生し、「胴丸」(どうまる)と称されていた背面を引合せ(背割(せわ)り)とする甲冑と名称が交替し、右引合せ様式を「胴丸」、背面引合せ様式を「腹巻」と称するに至った。大鎧(おおよろい)や胴丸より遅れて出現したもので、鎌倉時代以前の遺物にないことなどから、鎌倉末期頃の発生と推測される。軽快で機能性に優れ、引合せを背面に設け、しかも隙間が出来ることを特色とする。原則として兜・袖具を伴わない(非常に詳しい小学館「日本大百科全書」の頭の部分を主文に用いた)。但し、「吾妻鏡」の実朝暗殺の朝の大江広元の進言に、実朝に「腹卷」の着用を促すシーンがある(頼朝の東大寺供養の際に「腹卷」を着されたという前例を広元は添えた。しかし、文章博士源仲章が口を挟んで、「大臣大將に昇るの人、未だ其の式、有らず。」と咎めた結果、装着しなかった。私の若書きの小説「雪炎」を御笑覧あれ)。しかし、「吾妻鏡」は再編集版であって、成立時期は鎌倉末期の正安二(一三〇〇)年頃とされているから、寧ろ、この「腹卷」の出るが故に、その成立の後代であったことが判るとも言えよう。

「大口《おほぐち》」「大口袴(おほくちばかま)」。裾の口が大きい下袴。元は、平安以降に公家が束帯の際に表袴(うえのはかま)の下に用いたもので、紅又は白の生絹(すずし)・平絹(ひらぎぬ)などで仕立ててある。鎌倉以後は、武士が直垂・狩衣などの下に着用した。ここは無論、後者。

「今巴(《いま》ともへ)」言わずもがな、「巴」は女荒武者として知られた木曽義仲の妻。

「亥の尅(こく)」午後十時前後。]

  藏人も、木より下(おり)て、跡につきて行くほどに、さも、おびたゞしき屋形《やかた》におし入《いり》、右往さをうに、おし破り、込み入ける程に、屋形の内に、思ひよらぬ事なれば、ねおびれたる男女(なん《によ》)ども、うちふせ、切りたふし、猶、奧へぞ切《きつ》て入《いり》にける。

 亭(あるじ)の男と覺えて、大長刀(《おほ》なぎなた)を引《ひつ》そばめ、込み入《いる》ものを、散々に切りちらし、八方(はつぱう)を、なぐり立《たち》けり。

 盜人(ぬす《びと》》共も肝をけし、表をさして崩れ出けるに、大將、これをみて、白柄(しらゑ)の長刀、かいこふで、既に馳せ向かふ。

「爰(こゝ)ぞ、能き所。」

と、藏人、

「つ」

と出て、袖にすがり、

「爰を、吾れにまかせ給へ。年比(としごろ)思ひかけ侍りつるに、よも御承引(せういん)あらじと、いひも出ださず、侍る。かくて戀しなんも同じ命(いのち)なれば、かれと討死して、君(きみ)が命に、かはり侍らん。」

とて、太刀、ぬきそばめ、はしりより、長刀(なぎなた)に、しとゞ、合付(《あひ》つけ)めぐりて、引《ひき》はづし、右の腕(かいな)を、打おとし、ひるみ、たゞよふ所を、やがて、首を打おとし、

「入《いれ》や、者共。」

と下知(けぢ)しければ、

「我れ、おとらじ。」

と亂入《みだれいつ》て、財宝、悉く、うばい取つて、手負を、かこみ、歸るをみれば、遙かに、もとの山奧(《やま》のおく)に、人もかよはぬ深谷(みたに)の洞(ほら)に入《いり》ける。

 藏人も、おなじく、續きて入てみれば、洞の内、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]少《ばかり》行きて、さも、けつかうなる屋形(やかた)ありて、數(す)ヶ所の家數《いへかず》あり。

 をのをの、をのが内に入、奪ひ來る財宝を、分かちあたへける。

 藏人にも、人なみに、わかちとらしけるを、藏人、云やう、

「さきに申《まをし》つる、御命《おんいのち》にかはり奉(たてまつ)る者也。いかで、財產を、たうべき。」

と、いへば、外(ほか)の者共に與へとらしぬ。

 かゝるほどに、をのがさまざま、かへりぬ。

 女性(《によ》しやう)、藏人が手を取《とり》て、遙かに、いく間(ま)ともなく過ぎて、寢殿とおぼしき所にともない、

「さるにても、いかなる人にて、おはすぞ。」

と、とへば、

『今は。つゝみても、よしなし。』

と思ひ、初終(はじめをはり)を語りければ、

「さればこそ、只人(たゞ《びと》)とも覺えね。わが身は、都(みやこ)ちかき、こはたの里、何某(なにがし)と申《まを》者の娘成りしが、十七の春、忍びの男を吾れを戀ふる者にうたせ、その敵(かたき)を打ち、所(ところ)のすまひも叶(かな)はずして、そことなく、まよひ出、さきに討たれ候へつる法師にいざなはれ、此の所にかくれ、そのほか、あまたの女を、かどはし、かやうにあらぬ事に世を送り侍る。此の近邊に住居(すまゐ)する山賊ども、皆、わがけんぞく也。吾れ、妻を持つ事、數(す)十人、然(しか)れども、心に叶ふ夫《をつと》、なし。みな、世を早くす。君(きみ)、かはらぬ心ましまさば、千代かけて契るべし。」

とて、酒など取り出し、食をすゝめ、

「夜(よ)も更けぬらん。」

とて、手をとりて閨(ねや)へいりぬ。

 かくて、打ちとけ、いねけるに、すべて、此世の人とも、おぼえず、心地まどひておぼえければ、

『是れにぞ、おほくの者は、死にけん。』

と、おぼゆ。

[やぶちゃん注:「ねおびれたる」「寝おびれたる」「ねぼける」或いは「怯えて目醒める」の意。後者が相応しい。

「わが身は、都(みやこ)ちかき、こはたの里、何某(なにがし)と申《まを》者の娘成りしが、十七の春、忍びの男を吾れを戀ふる者にうたせ、その敵(かたき)を打ち、所(ところ)のすまひも叶(かな)はずして、そことなく、まよひ出」ここはちょっと文脈に躓く。私は、不埒にも私の閨に「忍び」込んだ憎っくき「男」があったの「を」、他に私「を戀ふる者に」命じて、その男を「うたせ」て、「その敵(かたき)を打」ったものの、そのことが露見して、実家に住まうておることも「叶(かな)はず」なって流浪した、という意味であろう。或いは、その忍び込んだ男は土地の相応の家の者であったからであろう。或いは、敵を討たせた彼女を恋した男が犯人として搦めとられ、女の父が真相を知って困ったからかも知れない、などと推量して、個人的には理解した。

「さきに討たれ候へつる法師」国忠が真っ二つに斬り殺した法師である。「今巴」は、この法師の死には、何らの憐憫も感じていないところが(即座に酒宴を開いているではないか)、やはり、この女、恐ろしい、と私は思ったことを述べおく。

「妻」「夫」の意。]

 天性(てんせい)、此藏人は、人にすぐれて、すくやか者なりければ、更にまどはず、とし月を送りける。

 女も、

『此人ならでは。』

と、世になき事、思へり。

 藏人、つくづく思ひけるは、

『一旦、かく、世を世とも思はず、何に不足もなく、月日を心安く暮らすは、さる事なれども、さすがに氏(うぢ)ある家を、山賊・强盜(ごうだう)と呼ばれんも、口をし。ひそかに忍び出ばや。』

と思ひ、あらましを書き置きて、都をこゝろざして登りけるに、鳴海繩手(なるみなわて)にさしかゝりて、日も漸々(やうやう)暮れければ、

「熱田まで。」

と、心急ぎてゆくに、片原(かたはら)に人を葬(さう)する塚原あり。

[やぶちゃん注:「鳴海繩手(なるみなわて)」天白川左岸の愛知県名古屋市緑区鳴海町(グーグル・マップ・データ)であろう。江戸時代には鳴海宿(尾張藩は東の押さえとして重視した)として栄えた。「繩手」(田圃(道))とあるが、近代まで鳴海の東西は広大な田圃(道)である(「今昔マップ」)。「熱田」熱田神宮(グーグル・マップ・データ)は、そこから北西に五キロ弱の位置にある。]

 いくらともなき白骨(はつこつ)ども、

「むくむく」

と起きあがりて、藏人にとりつくを、踏みたふし、けちらしけるに、限りもしらず、むらがり集まり、いやがうへに重なりければ、せんかた、つきはて、怖ろしくおぼえ、逸足(いちあし)を出して逃げたりけるが、漸々、熱田の御社(みやしろ)の前にかけ上《あがり》、ため息をつぎて、休(やす)らひ、夜(よ)も更けければ、社の拜殿に、しばらくまどろみけるに、曉方(あかつき《がた》)に、かの白骨ども、さも怖ろしき形(かたち)と成りて、をのをの、御階(みはし)の本《もと》によりて、

「此御社に、われわれ裟婆の敵(かたき)、こもり居(ゐ)侍る。哀れ、給はりて、修羅の苦患(くげん)をも、たすからばや。」

と、一同に訴へければ、暫くして、神殿の御戶(みと)を開きて、衣冠正敷(たゞしき)神人、出向(《いで》むか)ひて、

「汝らが申《まをす》所、その斷《ことわり》有《ある》に似たりといへども、此者、已に發心(ほつ《しん》)の志(こゝろざし)を、まふく。たとへ、下し給はるとも、よも修羅の業(ごう)は、やむべからず。とくとく、退散すべし。」

と仰ければ、

「此上は、力、なし。」

とて歸ると覺えて、夢、さめぬ。

  藏人、思ふやうは、

『このとし月、よしなき事に組(くみ)して、多くの者の命を、とりぬ。今、目前に報ふべきを、明神、助けさせおはします事の、有がたさよ。』

と、感淚をおさへかね、夜も漸々(やうやう)明ければ、則ち、本髻(もとゞり)切《きつ》て發心し、諸國修行しけるが、猶も、むかし、覺束なく、東國行脚の折ふし、有りつる方を尋ねけるに、いつしか、屋形のかたちもなければ、誰(たれ)にとふべきよすがもなくて、草のみ茂りて、その所とも、みえざりければ、

 あはれなりこゝはむかしの跡かとよ見ざりし草に秋風ぞふく

盛者必衰無常迅速の斷《ことわり》、始めておどろくべきにあらずといへ共、一生の間に六道を經たる心地して、猶も、諸國を、めぐりける。

 我が一期(ご)の行業《ぎやうごふ》を思ふに、惡事をのみ好みて、殖《うゑ》たる善根、なし。よはひ已にたけて、冥途の旅(たび)に近づきぬ。何事を賴みてか、黃泉(くわうせん)の道の糧(かて)とせん。始めて習ひおこなふとも、佛法の理(り)もさとりがたし。いかなる計(はかりごと)をしてか、淨土(じやうど)の因(ゐん)ともせまほしくて、つらつら、案じけるが、

『世に、人の難義をすくふほどの、大きなる善根、なし。山賊・强盜は、人を殺し、世に恐るゝ事、上なき事なれば、我れ、强盜の身にまじわりて、人を助《たすく》る計(はかりごと)をして、ひそかに念佛して、往生の素懷(そくわい)をとげん。』

と思ひしたゝめて、京都にのぼりて、

「强盜にまじはらん。」

といふに、さる名人(めいじん)なれば、悅びて、伴ひける。

 扨、人のもとへ入《いる》時は、眞先(まつ《さき》)にうち入《いり》て、

「しばし、しばし。」

とて、或は、人をにがし、物をかくさせて、うわべは、はしたなくみせて、ひそかに人を助けけり。

 かくして、物を分くる時は、

「入事《いること》あらば、申《まをす》べし。當時は、用、なし。」

とて、物を、とらず。

 友も、恥ぢ、思ひけり。

 かくて、念佛の功、他念、なかりけり。

 有る時、からめとられて、檢非使《けびいし》のもとに預け、いましめらる。

 奉行の者共の夢に、金色(こんじき)の阿彌陀の像をしばりて、柱に結ひ付たりとみるに、驚きて、あやしく思ひて、先《まづ》、此法師を解きゆるして、

「御坊の强盜する心は、いかに。」

といふに、

「御不審にや及び候。つたなく不道(ふだう)にして、只、物のほしさにこそ仕候《つかまつりさふら》へ。」

といへば、

「唯、すぐに、いはれよ。用ありて、とふ也。」

といへども、只、おなじ體(てい)にぞ、たびたび、こたへける。

 檢非使、夢の樣を語りて、

「あまりのふしぎさに、かく問ひ侍る。」

といへば、此法師、

「はらはら」

と泣きて、

「もとは子細あるものゝふにて候へども、何となく、後世(ごぜ)の事、恐ろしく覺え、武勇のみちに馴れたる故、『同じくは、此道を以て善根ともせばや。』と思ひ侍る。强盜の、徒(いたづら)に人を殺し、幾許(そくばく)の物を掠(かす)めとる事、不便(ふびん)におぼへ、命をも助け、物をも、かくさせてまはり、此外は、一向念佛を申さむと思ひ立て、かゝる業《ごふ》をなん、仕るなり。此事、心斗りに思ひよりて、人にも語る事、侍らざりしが、扨は。佛の御心に叶ひては、し候にや。」

と、淚を流し、隨喜しける。

 此義、上に奏聞(そうもん)して、ゆるし給ひけるが、其後は、終るところを、しらず。

 その、群類に交じはりて、衆生を濟度しけるも、ひとへに菩薩の誓願に、ひとし。誠(まこと)にきどく成《なり》し事共也。

[やぶちゃん注:最後の展開は。ちょっと珍しく面白いと思う。

「あはれなりこゝはむかしの跡かとよ見ざりし草に秋風ぞふく」和歌嫌いなれば、原拠や参考歌は不詳。]

2022/06/28

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。] 

 

      二、

 〇小兒の陰腫を蚯蚓の所爲とし、火吹竹を逆まにして吹き、また蚯蚓一匹掘出し、水にて洗ひ淸めて放つときは治ると云ふ。

[やぶちゃん注:「陰腫」「いんしゆ」。陰茎が腫れること。不潔な場所で立小便してはいかんということで亡き母もよく言われた。今、考えれば、これもフレーザーの言う類感呪術であろう。太いミミズは炎症を起こしたそれにミミクリーする。

「所爲」「選集」は『しわざ』と振る。]

 ○見た者烏といふ諺あり。烏の如く欲き物を斟酌なく進んで取る事を云ふ。日高郡由良浦の人言ふ、烏が食物を獲て、雲を目標に其下に置て、後に食を求めに往き、還つて前の食物を求めると、雲が動き去て、その食物を失ふて仕舞ふと。

[やぶちゃん注:「見た者烏」「みたものか(が)らす」だろうが、こんな話は私は聴いたことがない。カラスは賢い。こんなことはあるまいよ。

「欲き」「ほしき」。

「日高郡由良浦」現在の日高郡由良町(グーグル・マップ・データ)由良港がある湾(国土地理院図)。

「獲て」「えて」或いは「とりて」「とつて」。

「置て」「おきて」或いは「おいて」。

「去て」「さりて」或いは「さつて」。]

 〇田邊あたりで、人死して四十九日目に餅つく、其音を聞て、死人の靈魂が、家の棟の上を離れ去る。この餠を寺え供え、鹽を付けて食うふ故に、鹽と餅と竝べ置くを忌む(昨年八月人類學雜誌予の鹽に關する迷信參照)。

[やぶちゃん注:「昨年八月人類學雜誌予の鹽に關する迷信」先行する「俗傳」パート内の『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鹽に關する迷信」』。]

 〇同じく田邊あたりの諺に、栗一つに瘡八十と云ふ。黴毒その他の腫物に、栗の毒甚しきをいふ。南瓜、蓮實亦「あせぼ」等の腫物に惡しと云ふ。

[やぶちゃん注:「瘡」「かさ」。

「黴毒」「ばいどく」。梅毒。

「腫物」「しゆもつ」。劇症型の重い腫れ物。

「南瓜」「かぼちや」。「選集」は『とうなす』と振る。恐らくはフレーザーの言う類感呪術で、保存したカボチャの表面は、ひどい「あせぼ」(汗疹(あせも))のそれに似ている。

「蓮實」「はすのみ」。これもフレーザーの言う類感呪術で、ハスの花托(かたく)の蜂の巣状に実がある、その様のミミクリーである。]

 〇田邊で齒痛を病む者、法輪寺と云ふ禪寺の入口の六地藏の石像に願を立て、其前へ豆を埋め置くと、豆が芽を出さぬ内は齒が痛まぬ。因て芽が決して出ぬ樣に、炒豆を埋め立願する、丸で詐欺其儘な立願だ。

[やぶちゃん注:「法輪寺」和歌山県田辺市新屋敷町にある曹洞宗撃鼓山(ぎゃっくざん)法輪寺。六地蔵は現存する。同寺公式ブログ「法輪寺山内のつれづれ」の「お地蔵さんのよだれかけ」を参照されたい。地図のサイド・パネルの寺の説明版にも熊楠のことが記されてある。なお、同寺の本尊は観世音菩薩で、その脇仏の一つも地蔵菩薩である(公式サイトのこちらを見られたい。なお、次の条の和歌山藩重臣牧野兵庫頭の墓(五輪塔・田辺市重要文化財の写真もあるので見られたい)。]

 〇此法輪寺の墓地の棟樹の下に、牧野兵庫頭の墓有り、銘字磨滅して殆ど讀み得ぬ。賴宣卿の時此人一萬五千石を領す。彼卿の母方三浦が米で一萬石を稟け、今川家以來の舊家久能が伊勢の田丸城主として一萬石領せしに比べては、中々の大分限だつた。帝國書院刊行「鹽尻」卷四三に、紀公に寵用され、男と成ても權勢有し者が、牧野兵庫男色より出頭して其右に出るを不快で、公に最期の盃を請ひ、高野に隱れた話を載せ居る。依て考ると、兵庫は男寵より出頭して、破格の大身と成たらしい。然るに大科に付き慶安四年新宮へ預けられ、承應元年四月田邊え移され、十一月十日病死、月霜院殿圓空寂心大居士と號す(田邊町役場古記錄と、法輪寺精靈過去帳を參取す)。所謂大科とは、賴宣卿由井正雪の亂の謀主たりし嫌疑を、兵庫頭が一身に引受たのだと云ふ。其時賴宣卿謀主たりと評判有りし事は、常山紀談等にも屢々見え、執政が賴宣卿を詰る面前で、罪を身に受て自害し果てた侍臣のことも世に傳え居れり。一六六五年ローマ出板、フィリツポデマリニの「東京及日本史譚篇」卷一、十五頁にも、明曆の大火は、家光薨後二年固く喪を祕し有りしに、家綱の叔父亂を作ん迚作したとも、天主敎徒が付たとも、西國で風評盛んだつたと載て居る。この叔父とは多分賴宣卿で、家光在世の時より每も疑はれて居たから、正雪亂の砌も重き疑を受け、牧野氏が其咎を身に蒙りて幽死した者と見える。予の知れる絲川恒太夫とて、七十餘歲の老人、先祖が兵庫頭に出入りだつた緣に依て、代々件の墓を掃除する、他人が掃除すると忽ち祟つたと云ふ。昔より今に至て土の餅を二つ、恰も檐で荷ふ體に串の兩端に貫き、種々雜多の病氣を祈願して、平癒の禮に餅一荷と稱して捧ぐるのが、墓邊に轉り居る。察する所ろ、兵庫頭は生存中至つて餅を好たので、此樣な事が起つたのだらう。去年二百六十年忌に、子孫とても無き人の事、殊に才色を以て英主に遭遇し大祿を食だ人の忠義の爲に知らぬ地に幽死し、家斷絕して土の餅しか供ふる者無きを傷み、寺の住持と相談して、形許りの追善を營んだ。

[やぶちゃん注:「棟樹」「せんだんのき」。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。「栴檀」とも書くが、香木のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album とは全くの別種である。

「牧野兵庫頭」牧野兵庫頭長虎。下総国関宿藩初代藩主牧野信成(のぶしげ (天正六(一五七八)年~慶安三(一六五〇)年)の弟山成(たかしげ)の子孫で、初代山成の時、越前松平家から紀州徳川家に転属し、紀州藩の初期の家老として重きを成した。

「賴宣卿」徳川家康の十男徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)。当該ウィキによれば、「慶安の変」の際、『由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため、幕閣(特に松平信綱・中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ』、実に十年もの間、紀州へ帰国出来なかった。また、『同時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また、将軍家光の叔父で頼宣の兄である尾張藩主徳川義直が死去し、格上の将軍家綱が幼少であることから』、彼が『徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格』も災いして、『幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。その後』、「慶安の変」に『絡む疑いは晴れて無事帰国し』ている。その『疑惑が出た際、幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があれば』、『ただちに捕らえるつもりで』、『屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書』を『前に正雪との関係を詰問したが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした』。『外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度』、『騒乱を迎え、当該大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけがないだろう』、『という意味である』とある。

「彼卿の母方三浦」頼宣の母の実父は正木頼忠で、実兄は紀州藩家老の三浦為春。彼は慶長八(一六〇三)年に妹於万が産んだ家康の子長福丸(後の頼宣)の傅役(もりやく)となっている。

「稟け」「うけ」。

「今川家以來の舊家久能が伊勢の田丸城主として一萬石領せし」紀州藩田丸城代家老久野家初代当主久野宗成(くのむねなり 天正一〇(一五八二)年~寛永二(一六二五)年)の祖父は、元、今川氏真家臣で徳川家康に仕えた久野宗能であった。熊楠は、この祖父の名の「能」を「野」と誤って表記したものかと思われる。遠江久野城城主であった付家老久野宗成は、当時、駿府藩主であった徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封の際にもそのまま付随となり、紀州へ移った。頼宣はこの宗成に一万石を与え、田丸城城主として田丸領六万石を領させた。久野氏は家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。久野氏はその後、八代続いて、明治維新に至っている。

『帝國書院刊行「鹽尻」卷四三に、紀公に寵用され、男と成ても權勢有し者が、牧野兵庫男色より出頭して其右に出るを不快で、公に最期の盃を請ひ、高野に隱れた話を載せ居る』「鹽尻」は江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該原本が国立国会図書館デジタルコレクションで視認でき、その目次では「紀公に寵せられし少年」がそれ。ここの左ページ上段中央から。なかなか、いい話である。

「男寵」「だんちやう」。頼宣から男色の相手として寵愛されたこと。

「出頭」「しゆつとう」。頭角を現わすこと。

「大科」「おほとが」。

「慶安四年」一六五一年。この年の七月に兵学者由井正雪の幕府顛覆計画が発覚、正雪は駿府で二十六日早朝、自決した(「慶安の変」)。

「新宮」「しんぐう」。熊楠が単にこう書く以上は熊野新宮であろう。

「承應元年」一六五二年。

「常山紀談」江戸中期の湯浅常山の随筆・史書。正編二十五巻・拾遺四巻、付録に「雨夜灯(あまよのともしび)」一巻がある。。元文四(一七三九)年の自序があるので、原型はその頃に成ったものと思われるが、刊行は著者没後三十年ほど後の文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)であった。戦国から江戸初頭の武士の逸話や言行七百余を、諸書から任意に抄出して集大成したもの。内容は極めて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や、平明簡潔な文章と相俟って多くの読者を集めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。私も岩波文庫で愛読している。当該部は巻之十八の「由井正雪反逆の時賴宣卿出仕の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年有朋堂刊のこちらで読める。

「執政」幕府の老中。

「詰る」「なじる」。

「受て」「うけて」。

『一六六五年ローマ出板、フイリツポデマリニの「東京及日本史譚篇」』「東京及日本史譚篇」には「選集」では、『ヒストリア・エト・レラチオネ・デル・ツンキノ・エ・デル・ジヤポネ』とルビする。「日文研図書館」内の「日本関係欧文史料の世界」のこちらによれば(原本画像有り)、ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・マリーニ(Giovanni Filipo de Marini 一六〇八~一六八二年)はジェノヴァ出身のイエズス会士で、一六四七年から一六五八年までトンキンの布教に従事し、『その後、日本管区代表プロクラドール(ヨーロッパ各地において聖俗界の権力と交渉し、布教に必要な人的・経済的支援を獲得する職務)に就任し、マカオからローマに派遣され』た。そして、『このプロクラドール就任中の』一六六三年、『マリーニはアレクサンドル』Ⅶ『世への献呈もかねて』「トンキンを中心とするイエズス会日本管区布教史」(原題(イタリア語):Historia et relatione del Tunchino e del Giappone )を『ローマで執筆・刊行し』たとあるのがそれで、『管区の現況を扱う本書冒頭の約』三十『ページに』亙って『日本関係の記述が認められ、そこでは、日本におけるキリシタン迫害、アントニオ・ルビノ一行のフィリピン経由による日本渡航と殉教、長崎におけるオランダ人の交易、シャム在住日本人による日本情勢に関する証言などが見られ』、『また』同書の『扉には、日本管区各地域の人々がキリストの光背に照らされている様子を描いた図像が掲載されてい』るとある(画像有り)。

「明曆の大火」明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)まで、江戸の大半を焼いた大火災。延焼面積・死者ともに、江戸時代最大であることから、「江戸三大大火」の筆頭とされる。火元の出火の原因は不明であるが、 当時、実際に由比正雪の残党による放火の噂もあった。

「家光薨後二年」家光は慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)に四十八歳で没した。脳卒中と推定されている。

「作ん迚作した」「なさんとて、なした」。

「付た」「つけた」。

「每も」「いつも」。

「砌」「みぎり」。

「幽死」幽閉されて死ぬこと。

「絲川恒太夫」詳細事績は不明だが、『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』に既出。因みに、それを、かの文豪泉鏡花が遺稿の中で記している

「去年二百六十年忌」これは大正五(一九一六)年の記事であるから、一六五六年で、明暦二年に牧野長虎は亡くなっていることが判る。

「食だ」「はんだ」。]

 〇西牟婁郡五村、又東牟婁郡那智村湯川の獵師に聞たは、獵犬の耳赤きは、山姥を殺し、其血を自ら耳に塗て、後日の證とした犬の子孫として貴ばると。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡五村」(ごむら)は、現在の有田川町の中部、有田川の支流・四村川の流域、和歌山県道百八十一号下湯川金屋線の沿線に当たる。ここ

「東牟婁郡那智村湯川」(ゆかは)は現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町湯川(ゆかわ)。

「山姥」「やまうば」。「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「貴ばる」「たふとばる」。]

 〇閾の上踏む罪、親の頭を踏むに同じ、と紀州到る處で言ふ。

[やぶちゃん注:いろいろな説があるが、居住空間としての結界説や、家が主人及び先祖を象徴するという説は、いかにも自然で腑に落ちる(畳の縁と同じ忍者攻撃予防説もお盛んだが私としては退場して貰いたい)が、それよりも、私は縄文(前期以降)の竪穴式住居遺跡の入り口の地下から出産時の胞衣(えな)・臍の緒を入れたと推定される甕や、妊娠した婦人をモチーフとした絵を表面に描いたと思しい甕(その場合、逆さまに埋めてある)出土している事実に思い致す。これは、例えば、「山梨県」公式サイト内の埋蔵文化の用語「埋甕(うめがめ)」及びウィキの「埋甕」で確認出来るが、何よりも「東洋英和女学院大学学術リポジトリ」の古川のり子氏の論文「子どもの魂と再生 ――神話・儀礼・昔話から――」(『死生学年報』巻十七・二〇二一年三月発行・PDFダウン・ロード可能)が新しく詳しいので、是非、読まれたい。その古川氏の論考の中に、この『胎児を包んでいた胞衣を家の出入り口の敷居の下やその付近、あるいは床下などに埋める習俗は』(歴史時代に入ってから近代まで)、『北海道から沖縄まで日本各地で広く行われていた』。『近世初期の武家産式書や女性向けの礼式書・便利書などにも、武家や庶民が胞衣を桶などに入れて敷居下、床下などに埋めたことが記されている』とされ、この意味については、『各地の言い伝えでは、多くの人に踏まれると生まれた子が丈夫に育つ、胞衣の上を最初に通ったものをその子は生涯恐れるので父親に踏ませる、男の子なら筆と墨、女の子なら針と糸などを一緒に埋めて技術の上達を願うなどという』とあり、そして、『胞衣を埋める場所は、便所の出入り口やその付近、家畜小屋、屋敷や庭の隅なども多いが、家の出入り口、床下とするものがもっとも多い。家の出入り口へ埋設することは、縄文時代の埋甕が竪穴住居内の出入り口に埋められたことと一致する』。『竪穴式住居のような古来の地床式の住居だけでなく』、『高床式の住居が普及していくにつれて、胞衣を「床下」に埋めるやり方も増えていったのだろう。縄文時代の埋甕が埋設された家の出入り口が、大地母神の胎内へ通じる入り口であったとすれば、床下もやはり、地下世界と床上の人間世界との中間点であり、大地の母の国に接する出入り口として相応しい位置である』と述べておられる。私は、敷居の下が、大地母神の胎内や死者の行く異界へと通ずるトンネルであったとする見解に激しく同意する。さればこそ、この「敷居を踏んではならない」という禁忌は真に民俗社会的な意味に於いて完全に納得出来るからである。]

 〇婦女卵の殼を踏まば、白血長血を煩ふと田邊で言ふ。

[やぶちゃん注:「婦女」「をんな、」。

「白血」「しらち」。「こしけ」のこと。女性生殖器からの血液を含まない分泌物(広く「おりもの」(下り物)と呼称する)。「帯下(たいげ)」とも言う。

「長血」「ながち」。子宮から血の混じった「おりもの」が、長期間に亙って出ること。赤帯下(しゃくたいげ)とも呼ぶ。]

 〇同地で白花の紫雲英を袂に入置ば狐に魅されずと言ひ、小兒野に草を摘む時、吾れ一と之れを覓む。

[やぶちゃん注:「紫雲英」「げんげ」。「選集」は『れんげばな』と振る(前の「白花」とあるのだから、「れんげさう」ならまだしも、屋上屋で私はとらない)。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。花の色は、普通、紅紫色であるが、稀に白色(クリーム色)の株もあり、さればこそ、この「吾れ一と之れを覓」(もと)「む」という謂いが腑に落ちる。読者の中には、マメ目マメ科シャジクソウ属 Trifolium亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repensの花を想起してしまった人もあろうが、あれば、普通に白いのだから、呪力はないのである(ゲンゲは中国原産。シロツメクサ(クローバー)はヨーロッパ原産。江戸時代にオランダからの献上品が送られてきた際、緩衝材として本種の草体が使用されていたことから「白詰め草」と和名がついた。後、明治になって家畜飼料として盛んに輸入され、帰化し、全国に広まった。花期でない時のゲンゲとの識別は葉の中央に白い曲線が入っているのがシロツメクサである。また、ゲンゲは比較すると花弁の数が有意に少ない)。……ああ、私の好きな「げんげ」の花……長いこと、「げんげ畑」を見ていないなぁ……

「入置ば」「いれおけば」。

「魅」「み」。魅入られる。悪さ(化かすこと)をされる。]

 〇田邊付近稻成村等で、井え落ちた子は雪隱えも落る癖付くと云傳ふ。又雪隱え落た子は、必ず名を替る。

[やぶちゃん注:「稻成村」「いなりむら」。現在の和歌山県田辺市稲成町(いなりちょう)。

「井」戸と「雪隱」(せつちん)は民俗社会では、やはり、冥界への通路である。魔(死)に魅入られた者ということであり、さればこそ、名を替えて言上(ことあ)げされることを避けるわけであろう。]

 〇東西牟婁郡に跨れる大塔峯は、海拔三八七〇呎、和歌山縣で最も高き山と云る。所の者傳ふるは、此山に大塔宮隱れ御座せし時、山より流れ出る川下の住民が、水邊に燈心草生えたるを見、これは泔汁の流るゝ所にのみ生ず、川上に必ず人有るべしとて、宮を搜し出しに懸つた故、宮は他所え落延給ふと。

[やぶちゃん注:「大塔峯」(おほたふざん(おおとうざん))は和歌山県田辺市と古座川町の境界にある標高千百二十一・九メートル(国土地理院図の数値)の紀伊半島南部の中心的な山である。ここ

「海拔三八七〇呎」(フィート)千百七十九・五七メートルでサバ読み過ぎ。「ひなたGPS」の戦前に地図でも千百二十八・八メートルである。

「和歌山縣で最も高き山と云」(いへ)「る」誤り。永く和歌山県最高峰とされてきたのは、ずっと北北西の護摩壇山(千三百七十二メートル。「ひなたGPS」の戦前のそれでも千三百七十メートルとある)であった。但し、ここは奈良県十津川村と和歌山県田辺市との境界上にピークがあった点で、ちょっと問題があった。しかし二〇〇〇年、この護摩壇山の東方約七百メートル地点の標高が千三百八十二メートルであることが、国土地理院の測量により判明し、ここ「龍神岳」(ここはピークが和歌山側で間違いない)が和歌山県最高峰に変更されている(「国土地理院図」のここを参照されたい)。孰れにせよ、この護摩壇山から龍神岳の附近が和歌山県の最高標高地域であったことは、戦前よりの事実であったから、この熊楠に謂いは当たらないのである。

「大塔宮」(延慶元(一三〇八)年~建武二年七月二十三日(一三三五年八月十二日))は後醍醐天皇第一皇子護良(もりなが/もりよし)親王のこと。通称を「大塔宮」(正式には「おほたうのみや(おおとうのみや)」で、俗に「だいたうのみや(だいとうのみや)」とも呼ぶ)。落飾して「尊雲」と称して天台座主となったが、「元弘の乱」で、還俗、護良と名乗って父帝に協力し、討幕運動の中心人物となったが、中興政府では父帝と相容れず、建武元(一三三四)年には鎌倉に幽閉され、翌年の「中先代(なかせんだい)の乱」(北条高時の遺児時行が御内人の諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した事件)に乗じて、足利直義に首を斬られて殺された。さて、弘元(一三三一)年八月、「元弘の乱」は事前に計画が漏洩し、先手を打った鎌倉幕府軍が比叡山を攻め、護良は楠正成の赤坂城(現在の大阪府千早赤阪村)へと逃れる。しかし同十月に赤阪城は落城、父帝の笠置山も陥落して隠岐に配流となる。そこで、護良は熊野を目指して逃れた。これは「太平記気」にも記されてある。而して、この紀伊半島潜行の伝承の一つが、これである。ただ、こうした逃避行伝説は義経のそれと同じく、必ずしも事実として無批判に信ずるわけにはいかない。そこで、調べてみたところ、元「生石高原の麓の住人」氏のブログ「生石高原の麓から」の「大塔村と大塔宮護良親王」に、「社団法人日本土木工業協会」(現在は他団体と合併して「一般社団法人日本建設業連合会」)関西支部の広報誌『しびる』第十八巻(二〇〇一年発行)」の特集「大塔村 水呑峠」にある、南方熊楠も目を見張るであろう興味深い記事(「餅つかぬ里」等)が引用されているのを見つけた。長いので、そちらを読まれたいが、そこで引用元の筆者は、この熊野潜行には、当然に如く、所謂、彼の「影」を演じた者がいたはずであるとしている。これは当然、承服出来る。それが、紀伊半島の嶮しい山岳地帯に広範に、同時に目撃されて報告されたとすれば、追手が非常な困難を受け、本当の親王が受けるリスクは低減されるからである。この大塔山の名前由来の伝承もそうした中で考察すると、非常に面白い。

「御座せし」「おわせし」。

「流れ出る」「ながれいづる」。

「燈心草生えたる」「選集」では「燈心草」に『ほそい』を、「生」に『は』と振る。単に「燈心草」(とうしんさう)ならば、単子葉植物綱イネ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus decipiens を指すが(藺草(ゐぐさ))、この「ほそい」だと、イグサに姿が似た同属の別種で、分布もイグサより遙かに限定的なイグサ属ホソイ Juncus setchuensis var. effusoides (細藺(ほそゐ))を指す。珍しいことが目についた理由と考えれば、これはイグサではなく、ホソイであったととって初めて腑に落ちる。

「泔汁」「しろみづ」。「泔(ゆする)」。「泔」は昔、「頭髪を洗い、梳ること」を指した語で、また、それに用いる湯水のことも言った。そして古くはそれに「米のとぎ汁」などが用いられたのである。

「生ず」「しやうず」。

「他所」「よそ」

「落延給ふ」「おちのびたまふ」。]

 〇田邊附近で、鵁鶄の嫁入と云ふは、此鳥醜き故、夜嫁入りて曉に歸る、嫁入て直還さるゝを鵁鶄の嫁入で還されたと云ふ。

[やぶちゃん注:「鵁鶄の嫁入」「ごゐのよめいり」。「鵁鶄」は「五位」でペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax のこと。博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を参照されたい。

「直」「ただちに」。]

 〇稻成村より來たりし下女曰く、蚤を精細に捕る人は多く蚤に咬れ取らぬ人は蚤に咬れずと、村人一汎に信ずとて、此下女一向蚤を取らず。

[やぶちゃん注:「稻成村」三条前で既注。]

 〇夜爪切れば父母の死目に逢ず、但し七種の日(正月七日)爪切たる者は、夜切るも難無しと、田邊等で云ふ。

[やぶちゃん注:「夜爪切れば父母の死目に逢」(あへ)「ず」古くから言われ、亡き母もよく言っていた。嘗つては灯火の油は貴重で、普通は極力、灯さなかったから、手元が狂って指を切ることを憚ったのが実際の理由であろう。爪自体、それを焼くと火葬の臭いと通じた(皮膚の変形物であるから当然と言えば当然)ことも関連するか。

「七種」(ななくさ)「の日(正月七日)爪切たる者は、夜切るも難無し」昔からよくお世話になっているサイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「七草爪・七種爪」が異様に詳しい。この日は、『「七草爪(ななくさづめ)(七種爪)」または「菜爪(なつめ)」「七日爪(なのかづめ)」などといって初めて爪を切る日でもあり』、『この日に爪を切ると、邪気を払うことが出来て、一年間』、『風邪を引いたり』、『病気になったりしないとされ』とあり、また、「支那民俗誌」(昭和一五(一九四〇)年に永尾龍造が著した日本人による中国民俗研究書)第二巻二三八頁に『次のようにあると、東洋文庫「荊楚歳時記(けいそさいじき)」の「人日」』(じんじつ:七草の日の正式な五節句の名称)『の項の注釈に書かれてい』るとして、『七草のとき、七草を切って「唐土の鳥の渡らぬ先に」と歌いながらトントン調子を取りながら打つという。その鳥は鬼車鳥(きしゃちょう)(「きしゃどり」とも)という鳥で「ふくろう」の属である。この鳥が人家に入ると凶事があるし、人の爪を好むから、人々はこの夜、爪を切って庭の地面に埋める。この鳥が鳴くと凶事の前兆である』とあって『この鬼車鳥の言い伝えが、「夜爪を切るな」という俗信の根拠の一つにもなっているとも言われ』るとあった。しかし、この田辺の伝承は汎用万能で、この日に切れば、一年中、夜の爪切りもOKという、ちょっと禁忌例外としては都合が良過ぎる感じはする。]

 〇又子より親に傳へた感冒は重く、親が子に傳へたのは輕いといふ。

[やぶちゃん注:「感冒」「かぜ」。以上は孝心の教訓に基づくものと考えてよい。]

 〇又姙婦が、高い處に在る物取んとて手を伸すと、盜兒を生むと云ふ。

[やぶちゃん注:「取ん」「とらん」。

「伸す」「のばす」。

「盜兒」「選集」は『ぬすみご』と振る。「偸児・盗児」で「とうじ」と読み、「広辞苑」に『他人の持ちものをぬすみとる者。ぬすびと。泥棒。』とある。この場合の「児」は半人前の若者の卑称の添え辞であろう。]

 〇西牟婁郡新庄村大字鳥巢の邊では、刀豆を旅行出立の祝ひに膳に供える。刀豆の花は先づ本より末へ向て咲き、次に復び末より本へ咲き下る。本え還るといふ意味で、祝ふのださうな。

[やぶちゃん注:「新庄」(しんじやう)「村大字鳥巢」(とりのす)南方熊楠が守った無人島神島(かしま)のある、現在の田辺市新庄町の鳥巢半島一帯の旧村名。「ひなたGPS」のこちらで、半島に「鳥巣」という村名が確認出来る。

「刀豆」「なたまめ」。マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiata 。現行では福神漬に用いられることで知られる。但し、当該ウィキによれば、食用品種でないものには『サポニン・青酸配糖体・有毒性アミノ酸のコンカナバリンAやカナバリンなどの毒素が含まれている』ので食べることは出来ない、とあるので、注意が必要。

「旅行出立」「選集」では四字に対して『たびだち』と振る。

「本より末へ向て」「もとより、すゑへ向つて」。

「復び」「ふたたび」。

「下る」「くだる」。

「本え還る」「もとへかへる」。]

 〇田邊で黑き猫を腹に載れば、癪を治すと云ふ。明和頃出板?壺堇と云ふ小說に、鬱症の者が黑猫を畜ふと癒ると有た。予曾て獨逸產れの猶太人に聞しは、鬱症に黑猫最も有害だと。又猫畜ふ時年期を約して養ふと、其期限盡れば何處かえ去る。又猫長じて一貫目の重量に及べば祝ふ、何れも田邊の舊習也。(大正二年五月鄕硏第一卷三號)

[やぶちゃん注:「載れば」「のすれば」。

「癪」(しやく(しゃく))は多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部或いは腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。

「明和」一七六四年から一七七二年まで。第十代征夷大将軍徳川家治の治世。

「壺堇と云ふ小說」同題の寛政七(一七九五)年刊の源温故(あつもと)なる人物の書いた怪奇談集があり、苦労をしたが、「新日本古典籍総合データベース」の同書の画像で発見した。「巻之三」の「梅の下風」の中で、43コマ目左丁の二行目(「氣のむすぼほれ」)から五行目(「黑き猫こそよけれ」)が、板行は二十三年ほど後だが、それである。或いは、同書には先行する明和版があるのかも知れない。

「鬱症」「選集」では『きやみ』と振る。

「畜ふ」「かふ」。

「有た」「あつた」。

「猶太人」「ユダヤじん」。

「聞しは」「ききしは」。

「又猫畜ふ時年期を約して養ふ」「また、ねこ、かふとき、ねんきを、やくして、かふ」。

「盡れば」「つきれば」。

「何處」「どこ」。

「一貫目」三・七五キログラム。]

2022/06/27

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「一」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇では、「選集」では、異様に多くのルビが振られている。その中には、「全集」(「選集」の底本)編者によるものとは思われない特異な読みが有意に見られ、或いは、初出誌・原稿で確認したとも思われるものが散見されるので、その内、こうは普通読まないと思う、気になるものは、概ね注に出した。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、最後の初出書誌は時に月が書かれていないので、使い勝手が非常によくない。そこで「選集」で総て月を入れた。]

 

     紀 州 俗 傳

 

       

 〇西牟婁郡中芳養村境大字、三十戶斗り塊り立つ、墓地が池の傍に有る。村の人死する每に、老狐が池の藻を被て袈裟とし、殊勝な和尙に化て池邊を步いた、每年極月に及ぶと、「日が無い、日が無い」と鳴く。正月迄日數少なしとの譯だ。之を師走狐と稱へた。此二月迄予の宅に居た下女(十八歲)の母、少い時祖母の方に燈油を運ぶに、この狐出るかと怖ろしくて、度々油を覆し叱られたが、今は迺ち狐も無く成た。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡中芳養」(なかはや)「村境大字」ここは現在の和歌山県田辺市芳養町のこの附近(グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)である。「ひなたGPS」のここに旧「境」の地名を見出せ、「国土地理院図」では、この中央附近に相当すると読めることから、同定出来た。

「被て」「かぶりて」。

「化て」「ばけて」。

「師走狐」「しはすきつね」。

「少い」「ちひさい」。

「覆し」「くつがへし」或いは「ひつくりかへし」又は「こぼし」。最後がよかろう。

「迺ち」「すなはち」。

「無く成た」「なくなつた」。]

 〇除夜に湯に浴らねば梟に成ると、紀州一汎に言ふ。西牟婁郡秋津村で昔は、足に黑き毛密生すと云、田邊では足の裏に松の木生ると聞き傳えた人も有た。

[やぶちゃん注:「浴らねば」「いらねば」。

「西牟婁郡秋津村」和歌山県田辺市上秋津(かみあきづ)であろう。或いはその北の秋津川地区も含まれるか。

「云」「いひ」。

「生る」「はえる」。

「有た」「あつた」。]

 〇田邊等の俗傳に、雨ふる日吃を擬す可らず。忽ち吃になると云ふ。拙妻其父より聞たは、雨ふる日に某の方角に向て吃りの眞似す可らずと有たが、只今忘れて了つた。

[やぶちゃん注:「吃」「どもり」。吃音(障碍者)。

「擬す可らず」「まねすべからず」。

「聞たは」「きいたは」。

「某」「ぼう」。実際の一定の方角を指していたが、「妻」はその方角が何方であったかを「只今忘れて了つた」というのである。

「向て」「むきて」。]

 〇田邊邊の子供が傳ふ熊野詣の手毬唄、「私の隣の松さんは、熊野へ參ろと髮結て、熊野の道で日が暮れて、跡見りや怖しい、先見りや畏い、先の河原で宿取うか、跡の河原で宿取うか、先の河原で宿取て、鯰一疋押えて、手で取りや可愛し(又酷し)、足で取りや可愛し(同上)、杓子で把ふて、線香で擔ふて燈心で括て、佛樣の後で、一切食や旨し、二切食や旨し、三切目に放屁つて、佛樣え言て行たら、佛樣怒つて遣うと仰つた」。

[やぶちゃん注:「田邊邊」「たなべあたり」或いは「たなべへん」。

「髮結て」「かみゆふて」。

「畏い」「こわい」。

「宿取うか」「やどとらうか」。

「宿取て」「やどとつて」。

「可愛し」「をかし」。

「酷し」「むごし」。

「把ふて」「すくふて」。

「擔ふて」「になふて」。

「括て」「くくりて」或いは「くくつて」。

「一切」「ひときれ」。

「食や」「くらや」。「選集」に従った。

「旨し」「うまし」。

「屁放つて」「へひつて」。「選集」は「へへって」で一貫するので、「へへつて」が正しいか。

「言て」「いふて」

「行たら」「いつたら」。「選集」は「いたら」。手毬唄であるから、後者か。

「怒つて遣うと仰つた」「おこつてやらうとおつしやつた」。]

 ○異傳には、「燈心で括つて田邊へ賣りに往て、賣なんで、内へ持て來て煮て、一切食や旨い、二切食や旨い、三切目に放屁て、田邊え聞えた」。又、「西の宮へ聞えて、西の宮の和尙樣が、火事やと思ふて、太鼓叩いて走つた」。

放屁のことを附たは、主として童蒙を面白がらせたのだ。亞喇伯夜譚抔大人に聞す物だが、回敎人が基督敎徒を取て擲るに、多くは基督敎徒が放屁すと有る。其所を演ずる每に、聽衆歡極つて大呼動すと「バートン」の目擊談だ。四十年斗り前迄、和歌山市の小兒、夕時に門邊に集つて「岡の宮の巫女殿は、舞を舞ふ迚放屁て、鍋屋町へ聞えて、鍋三つ破て、鍋屋の爺樣怒つて、ヨー臭い臭いよ」と唄つて舞た物だ。岡の宮は聖武帝行宮の跡で、刺田彥を祀り、市中に今も社有り。鍋屋町は昔し鍋釜作る者のみ住し町で有る。

[やぶちゃん注:「往て」「いつて」。

「賣なんで」「うれなんで」。

「持て」「もて」。

「煮て」「選集」は「たいて」と読んでいる。

「西の宮」不詳。兵庫県西宮市のことか。「西の宮の和尙樣」とくるのであれば、寺もどこの寺か判りそうなものだが、私はよく知らないので、不明。或いは神仏習合時代の名残となら、最早、当該別当寺は最早ないかも知れぬ。

「附た」「つけた」。

「童蒙」道理にくらいがんぜない子ども。

「亞喇伯夜譚」「選集」は『アラビアン・ナイツ』と振る。イギリスの軍人・外交官で探検家にして作家・翻訳家のリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton  一八二一年~一八九〇年)の翻訳(バートン版英訳は一八八五年から一八八八年にかけて刊行された)で知られる「千夜一夜物語」(One Thousand and One Nights /英語通称 Arabian Nights )。

「聞す」「きかす」。

「取て擲る」「とつてなげる」。

「放屁す」「ほうひす」。

「歡極つて」「くわんきはまつて」。

「大呼動」「だいこどう」。

「小兒」「こども」。

「巫女殿」「選集」は『いちとん』と振る。

「迚」「とて」。

「破て」「選集」は『破れて』とする。だと、「やぶれて」か。「こはれて」と読みたいが。「舞た」「まつた」。

「岡の宮は聖武帝行宮」(あんぐう)「の跡で、刺田彥」(さすたひこ)「を祀り、市中に今も社有り」和歌山県和歌山市片岡町(かたおかちょう)にある刺田比古(さすたひこ)神社当該ウィキによれば、『「岡の宮」の通称があるとあり、『刺田比古神社は数々の兵乱により古文書・宝物等を失っているため、古来の祭神は明らかとなっていない』「紀伊続風土記」『(江戸時代の紀伊国地誌)神社考定之部では刺国大神・大国主神とされており、明治に入って変更があったと見られている』。『社名は古くから「九頭明神」とも称されたと言い』、「紀伊続風土記」『所収の「寛永記」や』、天正一七(一五八九)年の『棟札に「国津大明神」』、慶安三(一六五〇)年の『石燈籠に「九頭大明神」』、延宝六(一六七八)年の『棟札に「国津神社」ともある』こと『から、この「九頭」は「国主」の仮字であり、本来は地主の神とする見解がある』。『神社側の考察では、祭神さえもわからないほど荒廃した刺田比古神社を氏子が再興した際、氏子が「国を守る神」の意で「国主神社」としたとして、また大国主命を祭神とする伝承も生まれたとしている』。『一方』、『本居宣長による説では、刺田比古神を』「古事記」の『出雲神話における「刺国大神」』(さしくにのおおかみ)『と推定している』。この神は「古事記」に『よると、大国主神を産んだ刺国若比売』(さしくにわかひめ)『の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。そして』、「紀伊続風土記」では、『刺国若比売を「若浦(和歌浦)」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘している』。『そのほか「さすたひこ」の音から、刺田比古神を猿田彦神や狭手彦神と見る説もある』とある。なお、ウィキには記載がないが、「和歌山県神社庁」の同神社のページに、『一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられる』とあった。

「鍋屋町」和歌山県和歌山市鍋屋町(なべやまち)として現存する。

「住し」「すみし」。]

〇西牟婁郡で螻蛄(ケラ)は佛の使ひ者で御器洗ふと云ふ。又蜥蜴は毒烈しく指すと忽ち其指が腐る迚、不意指た時、「蜥蜴ちよろちよろ尾の指(汝の指?)腐れ、己の指金ぢや」と咒ふ。東牟婁郡勝浦邊には、菌を指せば指が腐ると心得た老人も有た。田邊で家の入口人の多く履む處に、寬永四文錢抔を一文釘で地に打付有る。齒の痛みを防ぐ爲だ。又白紙を一二が二と唱へて橫に折り、二三が六と唱へて縱に折り、又二四が八と唱へて橫に折る。扨之を家の南の柱に釘で留置き、齒痛む時、鐵鎚で其釘を打つ時は、輙く治ると云ふ。   (大正二年四月鄕硏第一卷第二號)

[やぶちゃん注:「螻蛄(ケラ)」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis 。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」を参照されたい。「佛の使ひ者で御器洗ふ」の異名の起原は私にはよく判らない。鳴き声もこれとは一致しない。但し、ケラは捕まえて横腹を強く摘まむと、目立つ土掘り用にトゲトゲした前脚を広げ、緩めると合わせ閉じる。これは昔はよく子ども遊びでやったものだが、或いはこれが合掌の仕草に似るから「佛の使ひ者」とミミクリーしたのかも知れぬと私は思った。

「指す」「ゆびさす」であろう。

「不意」「ふと」。指た時、

「汝」「選集」では『うぬ』とルビする。

「己」同前で『わし』。

「金」同前「かね」。

「咒ふ」「まじなふ」。

「菌」「選集」では『くさびら』とルビする。茸(きのこ)のことである。

「履む」「ふむ」。

「寬永四文錢」同グーグル画像検索をリンクさせておく。

「一文」銭一枚の意。

「打付有る」「うちつけある」。

「一二が二」「いんにがに」。

「留置き」「とめおき」。

「鐵鎚」「かなづち」。

「輙く」「たやすく」。

「治ると云ふ」この咒文の原義は不明。識者の御教授を乞うものである。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「ウジともサジとも」 / 「俗傳」パート~了

 

[やぶちゃん注:本論考は大正六(一九一五)年二月発行の『鄕土硏究』第四巻十一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。

 さらに、本篇は「うじともさじとも」の語源として、不当に差別された旧被差別民「穢多」(えた)を語源説とする言及(誤り)があり、注で引いた南方熊楠の過去記事でも、現在は廃語とされている差別用語が出現する。そうした旧弊の差別意識に関しては批判的視点を忘れずに読まれたい。「ブリタニカ国際大百科事典」から、「穢多」の解説を引いておく(コンマは読点に代えた)。『封建時代の主要な賤民身分。語源はたかの餌取(えとり)という説があるが、つまびらかでない。南北朝時代頃から卑賤の意味をもつ穢多の字があてられるようになった。鎌倉、室町時代には寺社に隷属する手工業者、雑芸人らを、穢多、非人、河原者、散所(さんじょ)などと呼んだが、まだ明確な社会的身分としての規定はなく、戦国時代に一部は解放された。江戸時代に入り』、『封建的身分制度の確立とともに、没落した一部の住民をも加えて、士農工商の身分からも』、『はずされた』、『最低身分の一つとして法制的にも固定され、皮革業、治安警備、清掃、雑役などに職業を制限された。皮多、長吏、その他の地方的名称があったが、非人よりは上位におかれた。職業、住居、交際などにおいて一般庶民と差別され、宗門人別帳』『も別に作成された』。明治四(一八七一)年八月二十八日の『太政官布告で』、『その身分制は廃止され、形式的には解放されることになった。幕末には』二十八『万人を数えた』とある。

 なお、底本の「俗傳」パートは、この後に「葦を以て占ふこと」(前出同題の追記)があるが、これは既に『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「葦を以て占ふこと」』にカップリングしてある。而してこれを以って底本の「俗傳」パートは終わっている。]

 

     ウジともサジとも

 

 と云ふことを、紀州邊で穢多を稱せしより起つた如く、傳說のまゝ記しおいたが(三卷一八八頁)、もとは唯「甲も乙も」と云ふ程の意で、南北朝の頃既に行はれた成語と見える。今より五百六十九年前の貞和四年のことを記した峯相記に曰く、欽明天皇御宇百濟より持戒の爲に惠辨惠聰二人渡り、守屋が父尾輿の連播磨國へ流しぬ云々。後には還俗せさせ、惠辨をば右次郞(うじらう)、惠聰をば左次郞(さじらう)と名付、又播磨國へ流し安田の野間に樓を造て籠置けり。每日食分には粟一合あてけり。然れども二人戒を破らじと、日中以後持來る日は少分の粟をも食せず、經論を誦しけり。守門者共口に經を誦し候と大臣に申しければ、是は我をのろふ也とて彌よ戒めけり。さらば向後物言はじとて無言す。右次左次(うじさじ)物言ずと云ふ事は是より初りけり下略。(大正六年鄕硏第四卷第十一號)

[やぶちゃん注:「ウジともサジとも」「と云ふことを、紀州邊で穢多を稱せしより起つた如く、傳說のまゝ記しおいたが(三卷一八八頁)」「選集」に『(『郷土研究』三巻三号一八八頁〔「紙上問答」答(七)〕)』とある。サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)・一九七一年平凡社刊底本)から当該部を、原則。そのまま引用するが、傍線指示の部分はその指示を略して下線を施した。『?』は作成者のサイト主による表記不能字。

   *

七 いわゆる特殊部落の名称

  問。いわゆる特殊部落には、地方によっていろいろちがつた名称および風習があるようである。自分は久しくこの問題を調べておる。どうか諸君の近村に居住する彼らの名称、生業、その他特殊の事項をお知らせください。(沼田頼輔) (大正二年四月『郷土研究』一巻二号)

 和歌山市辺で旧えたを「よつ」と言った。四足《よつあし》の義とも、また彼輩は東京人と同じくの音を発しえずと言うから、四《し》の訓を取って「よつ」と呼ぶのだとも聞いた。 (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)

 紀州田辺で喧嘩の仲裁などする時、「ウジともサジとも言わずに仲直れ」と言うが、何のこととも分からず。しかるに古老の伝えに、ウジもサジもえたの別称で、この言句の起りは、むかし別処のえた男と女がおのおの真人間と婚せんと志し、大阪に出てある商店に奉公を励んだ甲斐あって、年季満ちて夫婦になり店を出し、おのおの満足、家業繁昌、子まで儲けたのち、ある日夫が妻に向かい、?《なんじ》われに嫁して子までできたに国元から祝い状の一本も来ぬは不審だ、まさかウジでもあるまいにと言うと、妻ござんなれという顔つきで、御身もこの年ごろ郷里から手紙一つ著いたことない、サジでないかと疑念が断えなんだと打ち返し、双方相問い詰めて到頭えた同士の夫妻と判り、素性は争われぬもの、せっかく出世して志を達したと思うたが、やはりえたはえたと縁が定まっておる、この上はウジともサジとも言わずに天の定めた分際に安んじ、和楽して家業を励むのほかなし、と協議が調うたということだ。『風来六六部集』や『嬉遊笑覧』に見えた「一つ長屋の佐治兵衛殿、四国を巡って猴《さる》となるんの」という唄の佐治兵衛など、猟師また屠者が猴を多く殺した報いに猴となったということらしく、サジとは古くこの輩を呼んだので、佐治兵衛という戯名もこれから生じたのかと惟う。 (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)

   *

『もとは唯「甲も乙も」と云ふ程の意で、南北朝の頃既に行はれた成語と見える』小学館「日本国語大辞典」では「うじさじ」を「右事左事・右次左次」とし、副詞で『あれやこれや。あれこれ。』の意とし、使用例を「玉塵抄」(漢籍の類書「韻府群玉」の講釈本。室町後期の永禄六(一五六三)年成立)の巻九の「吾は右事左事(ウじさじ)しらいで」を引くが、一方、同じ辞書の「うじさじ【右次左次】 物(もの)言(い)わず」の項を見ると、『甲とも乙とも言わない。あれこれ文句を言わない。転じて、全く口をきかない。』とあり、使用例を、「名語記」(鎌倉時代の辞書で経尊の著。増補本は文永一二・建治元(一二七五)年成立)の巻九の「うじさじ物もいはずなどいへる、如何。これは、右じ左じやらむと存せり。みぎせり、ひだりせりの心歟」を引いている。されば、「うじさじ」は南北朝ではなく、鎌倉後期には既に使われていたと考えないとおかしい。

「貞和四年」南北朝時代の北朝方が用いた年号。一三四八年。室町幕府将軍は足利尊氏。

「峯相記」(みねあひき)は「ほうそうき」「ぶしょうき」とも読む。作者は不明だが、貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山鶏足(ほうそうざんけいそく)寺(現在の兵庫県姫路市内にあったが、天正六(一五七八)年、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちに遇つて廃寺となった)に参詣した旅僧が同寺の僧から聞書したという形式で記述されている。中世(鎌倉末期から南北朝にかけて)の播磨国地誌となっており、同時期の社会を知る上で貴重な史料とされる。中でも柿色の帷子を着て、笠を被り、面を覆い、飛礫(つぶて)などの独特の武器を使用して奔放な活動をしたと描かれてある播磨国の悪党についての記述は有名である。兵庫県太子町の斑鳩寺に永正八(一五一一)年に写された最古の写本が残っている(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。以下は「国文学研究資料館」の電子データの、ここから読める(左丁後ろ二行目末から次の丁まで。写本と思われるが、訓点と本文平字が混在するものだが、非常に読み易い)。

「欽明天皇御宇」宣化天皇四年十二月五日(五三九年十二月三十日)?~欽明天皇三十二年四月十五日( 五七一年五月二十四日)?。

「惠辨」「ゑべん」。

「惠聰」「ゑさう」。

「守屋が父尾輿の連」物部尾輿(もののべのおこし 生没年未詳)は古墳時代の豪族。安閑・欽明両天皇の頃の大連。中臣鎌子とともに廃仏を主張したことで知られる。

「安田の野間」兵庫県多可郡多可町の安田地区の内と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「造て籠置けり」「つくりてこめおけり」。

「日中以後持來る日は少分の粟をも食せず」仏教徒は原則、食事は午前中に一度しか摂らない(それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際にはそれでは身が持たないので「非時」と称して午後も食事をした)。それをこの二人は見事に守ったのである。

「守門者共」「しゆもんしやども」。見張りの番人たち。

「彌よ」「いよいよ」。

「戒めけり」「いましめけり」。厳しく読経をさえも制限させたのである。以下、写本を見ると。守屋が「丁未の乱」(ていびのらん:用明天皇二(五八七)年七月)で。仏教の礼拝を巡って崇仏派の大臣蘇我馬子に守屋が殺された後は、再び剃髪、僧衣を許されたとある。]

2022/06/26

サイト「鬼火」開設十七周年記念テクスト 泉鏡花「繪本の春」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)公開

2005年6月26日のサイト「鬼火」開設の17周年記念テクストとして泉鏡花「繪本の春」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)を、「心朽窩旧館」に公開した。
【※昨日、以上を投稿をしようとしたが、ブログ接続がサーバー元の不具合によって投稿出来なかったため、昨夕刻の投稿しようとした時刻に遡って時間を設定して投稿したことをお断りしておく。】

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 小螺・米螺・メシツブ貝・ヲモイ貝 / 同定不能(微小貝類の複数種群)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

  

小螺 「福州府志」

     「米螺」

      「メシツブ貝」

      「ヲモイ貝」

Wommohigahi

 

「大和本草」に『小螺の極めて小にして米粒ほどのなる者』と云ふは、則ち、是れなり。

 

[やぶちゃん注:微小貝類四個体であるが、例えば、左上のそれや、中央の個体は、明らかに丸みを帯びており、殻頂が尖ってはいないように見えることから、或いは、

腹足綱古腹足目リュウテン科リュウテン属 Turbo

の中の種の稚貝とも見える。

 反して、左下の個体は有意に尖がっていることから、

腹足綱吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis

の稚貝のようにも見えなくはない(ただ螺状が丸みを帯びているのはやや気になる)。

 一方、右上の個体は小振りながら、全体がしっかりとした円錐形を成しており、

腹足綱前鰓亜綱盤足目タマキビ超科タマキビガイ科Littorinidae

の一種のように見える(昔、この科のモザイク風の殻に憧れてよく拾い歩いたものだった)。この程度で、私の推理は底をついた。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。

「米螺」同書の巻之二十六に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本で起こした)、

   *

米螺【「萬歷府志」、『小粒如米、又有蓼螺、大如拇指、有刺。味辛如蓼。梭螺、殼細而長、文如雕鏤。味佳。竹螺、殼文粗而尾脆。味淸香。泥螺、軟殼、大如指、多涎有膏。醋螺、出洪塘江、去殼、醃之味佳。田螺・溪螺、生水田中。莎螺、尾脆、味微苦。油螺、形如花螺、殼柔。鹽之味美。」。】

   *

とあって、夥しい種を含む総称に過ぎないことは明らかになった。中文サイトの「~米螺」の学名を調べると、微小貝どころか、十センチを超える巻貝も含まれており、この「米螺」は単に十分な主食たり得る巻貝というニュアンスであろうと私は考える。なお、「萬歷府志」というのは、本書に先行する明の作者不詳の福建省の地誌で、別に「福州府志萬歷本」と呼ばれる。

「メシツブ貝」微小貝の本邦での古い呼称であろう。

「ヲモイ貝」個人的には歴史的仮名遣が誤っているものの、微小貝群は二枚貝でも、小さく可憐で風情があり、古くからそれらが「思ひ貝」と通称総称されていたとして、はなはだ腑に落ちるものである。

『「大和本草」に『小螺の極めて小にして米粒ほどのなる者』と云ふは、則ち、是れなり』

「大和本草卷之十四 水蟲 介類 螺(巻貝類総説)」の末尾に、『小螺ノ極小ニシテ米粒ホトナルアリ其類多』とあるのを指す。種同定の役には全くたたない。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「時鳥の傳說」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十一月発行の『鄕土硏究』第三巻第八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     時 鳥 の 傳 說

 

 予も角田高木二君等の書共を引いて、今年四月倫敦で發表した(Kumagusu Minakata, “ Cuckoo in Folk-lore, ” Notes and Queries, 12th ser., i, p.338, April 22, 1916)。其内に載せた通り、吾邦の兄が弟を殺し悔ゐて時鳥に成つたのと類似の譚がマセドニアにも有る。云く、昔兄弟相嫉みて爭鬪止まず。母見兼ねて、汝等斯く相凌ぎ續けなば必ず天譴を得て二人永く離るゝに及ばんと諭せど從はず。益す相鬩ぎければ、天其不道を怒り其一人を亡ふたと有つて、歐州諸國語の常習通り兄も弟も同語で書いて居るから、どちらが失迹したか分らぬ(わが邦に味噌も大便も一舐めに歐州諸語を東洋の諸語に遙か勝つた者の樣に言散す輩が多いが、兄も弟もプラザー、姉も妹もシスター、甥も孫もネポテ、伯父も叔父もアンクル、夫の兄弟も妻の兄弟もブラザー、イン、ロー等、制度彝倫に大必要な名目が一向亂雜なるを、阿非利加の未開民さへ每々笑ふ由なるに、臭い物身知らずの歐人は姑く措き、本邦で學者迄も餘り氣附ず、歐州に無くて濟むことは日本でも無い方が便利など心得居る樣なるは氣が知れぬ)。さて兄か弟か別らぬが、跡に殘つた一人が悔悲めど及ばゞこそ、終に「緣が有るなら羽根はえて飛んで來い」の格で、翼を生じて亡人を尋ね出さんと祈り、天帝之を聽して鳥に化せしめると、ギオンギオンと亡き兄弟(どちらか分からぬ)の名を呼で尋ね飛ぶに、每唱必ず嘴から血を三滴落とすとは、どうも杜鵑色慘黑赤口なるより、異苑云、有人山行、見一群〔杜鵑〕聊學之、嘔血便殞、人言、此鳥啼、至血出乃止、故有嘔血之事とある支那說に似て居る。件の鳥がギオンギオンと鳴くより、ギオン鳥とマセドニア語で之を呼ぶ。ハーンの說にアルバニアにも類似譚有りて、其にはギオンを兄クツクーを妹とするさうだから、ギオンも時鳥に似た者らしい。爰に一寸辯じ置くは、英語クツクーを時鳥と心得た人少なからぬが、クツクーは時鳥(學名ククルス・ポリオケファルス)と同屬ながら別物で、邦名かつかうどり、又かんこどり又かつぱうどりなど稱へ、學名ククルス・カノルス、是は亞細亞巫來[やぶちゃん注:「マレー」。]諸島阿非利加歐州と廣く分布し、冬は南國夏は北地へ移りありく。三月末四月初め頃阿非利加より地中海を越えて歐州諸方に達し、雄が雌を慕ふて競鳴するを詩人も野夫も夥しく持囃す事、邦俗陰曆五月を時鳥の盛とするに同じ。本草啓蒙に、支那の鳲鳩一名郭公をカツコウドリに宛て、此鳥四月時分にカツコウと鳴く聲甚だ高く淸んで山谷に震響す。即ち郭公と自呼なりと云るは中つて居る。本草綱目には、鴶鵴という異名をも出す。是も獨逸名クツクツク和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]名ケツケツク同樣其鳴聲に基いた名だ。兎に角時鳥もククルス屬の者ながら、英語でクツクー拉丁[やぶちゃん注:「ラテン」。]語でククルス希臘語でコツクツクスは、吾邦にも在るカツコウドリに正當す。其から杜鵑一名杜宇一名子規はモレンドルフ等之をヨダカだと云つた。其說聞くに足る者有れど、居他巢生子と有れば、正しく時鳥(ほとゝぎすの和字)に相違無い。柳田氏は時鳥弟殺しの本邦諸譚、皆この罪惡の起因だつた食物を薯蕷(やまのいも)[やぶちゃん注:珍しい熊楠によるルビ。]としたのは、必しも此鳥の季節が薯蕷の發芽期だからと言て了ふ可らず、何となれば此鳥は山家では殆ど秋初迄鳴續く故にと言はれたが、氏も又氏が咎め立てした中村君と同じく、後世の心もて古人を忖度する者と言なければならぬ。十年許り前迄熊野山間に薯蕷屬諸種を栽えて專ら食用した所が多かつたが、今日は左迄に無い。米穀の產出運輸交易の便宜乏しかりし世には、薯蕷を常食した地方が多かつたゞらう。從つて其發芽期を生活上の緊要件として居常注意し、時鳥の渡來初鳴と聯想するを習とした事、恰かも古希臘ヘシオドスの詩に檞樹間郭公唱ふ時農夫正に地を鋤くと言ひしは、南歐で郭公は仲春から盛夏迄唱ひ續くれど、此詩意は郭公唱ひ初むる時が耕地の初の時だと謂ひたるが如し。時鳥の鳴聲と連想せられた食物は必ずして薯蕷のみで無い。紀州龍神地方では時鳥「ホツポウタケタカ」と鳴くと云ふ。ホツポウはウバユリの方言で、道傍に此物多きが、時鳥が斯く鳴く時丁度此草長ず。雄本は葉綠に線條有り、雌本は紫條有り、雌本の味優る。其根を掘り小兒等燒いて食ふ。惟ふに古は大人も之を食ひ生活上の必要品としたので時鳥の鳴聲に迄注意したのであらう。本草綱目に郭公二月穀雨後始鳴、夏至後乃止、其聲如俗呼阿公阿㜑割麥插禾脫却破袴之類、布穀獲穀共因其鳴時、可爲候、故名之耳。 ‘Encyc, Brit,’ 22th ed., vol.vii, pp. 608-610 にも、時と處に從ひ郭公の唱聲同じからぬ由見える。予頃日遠江からカジカ蛙を貰ひ畜ふに、一日夜間にも時刻の異なるに倣て聲が差ふを知つた[やぶちゃん注:「倣て」はママ。「選集」ではひらがなで『よって』とする。とすれば、これは「依」「仍」など誤字と思われる。]。時鳥も那智で季春晝間聞いたと田邊で夏夜聞くとは大に違ふ。されば時鳥が春夏の交から初秋迄鳴くにしても、薯蕷の芽が出る頃、尤も薯蕷に因んだ辭に似て聞えるのであらう。支那にも商陸(やまごばう)[やぶちゃん注:熊楠のルビ。]の子熟する時杜鵑鳴き止むと云ひ、本邦で郭公を地方によりムギウラシ、アワマキドリ、マメウヱドリなど異稱する。甚しきは、今も蜻蜓が飛ぶ高さを見て蕎麥の蒔き時を知るさへ有り(一卷六號三七二頁)。頒曆不行屆きの世には誠に些細な事に迄氣を付けて季節を確めんと心懸けたものぢや。   (大正五年鄕硏究第四卷四號)

[やぶちゃん注:「選集」では冒頭の添え辞が改行下方インデントで二行あり、『中村成文「時鳥の伝説」参照『(『郷土研究』四巻三号一六二頁)』とある。中村成文氏は詳細事績は判らぬが、名は「せいぶん」と読み、八王子の民俗研究家と思われる(『郷土研究』等に投稿論文が多数ある)。大正四(一九一五)年には文華堂から「高尾山写真帖」を出版しており、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。 また、「時鳥」(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus )の博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を、まず、参照されたい。そちらでは中国起源の伝説が中心になってしまったが、私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五〇~五三 花や鳥』の「五三 郭公(クワツコウ)と時鳥(ホトヽギス)とは昔ありし姊妹(アネイモト)なり」と始まるそれもリンクさせておく。

「角田」既注だが、再掲しておくと、詩人・北欧文学者・文芸評論家で新聞記者であった角田浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく 明治二(一八六九)年~大正五(一九一六)年)。本名は角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成し、世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遙と並び称された。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「高木」神話学者でドイツ文学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。熊本生まれ。東京帝大ドイツ文学科を卒業後、五高・東京高等師範・松山高等学校・大阪外国語学校でドイツ語を教え、文部省在外研究員としてドイツへ出発する直前に病没した。柳田国男と協力して『郷土研究』誌を編集(大正二(一九一三)年から翌年)するなど、日本民俗学の発展にも功績があったが、日本に於ける近代的な神話考究の学者としての業績が大きい。主要な業績は大学在学中の明治三二(一八九九)年から、大正三(一九一四)年の間に集中している。

「今年四月倫敦で發表した(Kumagusu Minakata, “ Cuckoo in Folk-lore, ” Notes and Queries, 12th ser., i, p.338, April 22, 1916)」英文の「Wikisource」のこちらで、投稿された雑誌原本と起こされて活字化された本文が読める。こういう資料を見るにつけ、日本のユビクタスは「ユ」の字一字にさえ達していない驚くべき貧しさにあることを痛感する。日本文学では教育機関や研究団体の公的紹介がないと閲覧出来ないパブリック・ドメインの電子データがごろごろあり、国立国会図書館の「デジタルコレクション」に対して出版社業界が電子画像の公開をやめろと申し入れたりするなど、呆れ果てること、これ、甚だしい。熊楠が今の世を見たら、象牙の塔に反吐を吐きかけること、間違いない。なお、熊楠はこの英文投稿に基づいて以下の文の一部を書いているので、まず、必ず、そちらを読まれたい。

「甥も孫もネポテ」英語で「甥・姪」、或いは、現行では廃語とされているが、「孫・子孫」の意がある「nephew」(ネフュー)の語源はラテン語の「孫,子孫,甥」の意を示す語根「nepōt-」であるから、その語源形を熊楠は示したらしい。但し、ここは並列している例からは「甥も姪も」の方がしっくりくる。

「彝倫」「いりん」。「彝」は「常」(つね)の、「倫」は「人の行うべき道」の意で、「人が常に守るべき道」。人倫に同じ。

「姑く」「しばらく」。

「悔悲めど」「くいかなしめど」。

「聽して」「ゆるして」。

「杜鵑色慘黑赤口」李時珍「本草綱目」の巻四十九の「禽之三 林禽」の「杜䳌」(䳌=鵑」の項の「集解」の最後で時珍が言っている一節。

   *

時珍曰、杜䳌、蜀中に出づ。今、南方に亦、之れ、有り。狀(かたち)、雀鷂(つみ)[やぶちゃん注:タカ科Accipitridaeの最の種であるタカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis 。]のごとくにして、色、慘黑(ざんこく)なり。赤口(しやくこう)にして、小さき冠、有り。春の暮れ、卽ち、鳴く。夜、啼きて、旦(たん)に達す。鳴くに、必ず、北に向ふ。夏に至りて、尤も甚だし。晝夜、止まず、其の聲、哀切なり。田家、之れを候(うかが)ひて、以つて農事を興(おこ)す。惟だ、蟲蠧(きくひむし)を食ふ。巢居(さうきよ)を爲すこと、能はずして、他の巢に、子を生む。冬月に、則ち、蔵(かく)れ蟄(ちつ)す。

   *

「慘黑」は、人間から見て、痛ましいほどに惨めな黒色であることを言うか。

『異苑に云、有人山行、見一群〔杜鵑〕聊學之、嘔血便殞、人言、此鳥啼、至血出乃止、故有嘔血之事』「〔杜鵑〕」は熊楠の補塡。「異苑」は六朝時代の宋の劉敬叔の著になる志怪小説集(全十巻。当時の人物についての超自然的な逸話・幽霊・狐狸に纏わる民間の説話などを記したものだが、現存するテクストは明代の胡震亨(こしんこう)によって編集し直されたもので、原著とはかなり異なっていると考えられている)だが、熊楠は「本草綱目」から孫引きしたものと推定する。「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[114-15a]以下が、「杜䳌」の項で、その「集解」の中の李珍の叙述の前にある。訓読する。

   *

異苑に云はく、『人、有り、山行(さんかう)して、[やぶちゃん注:杜鵑の。]一群を見る。聊か、之れに學んで、血を嘔(は)きて、便(すなは)ち殞(し)したり。人の言ふ、「此の鳥、啼きて、血の出づるに至りて、乃(すなは)ち、止(や)む。故に、血を嘔く事、有り。」と。』と。

   *

この付説、実は馬鹿な奴が、啼いて血を吐くような痛烈なホトトギスの鳴き声を見聞きして、それを真似をして、その者はこともあろうに死んでしまった、ということを言っているのである。これは怪談なのであって、博物誌ではないことに注意しなくてはいけない。

「ハーンの說にアルバニアにも類似譚有りて、其にはギオンを兄クツクーを妹とするさうだ」昨日、一読、「ハーン」を小泉八雲のことか?! と、びっくらこいて、来日以前の作品の中に(私はブログ・カテゴリ「小泉八雲」で来日後の作品は訳文を総て電子化し終えている)それを探そうとする、とんでもない無駄な作業を一時間余りもやらかしてしまった。英文テクストをAlbaniaで検索するも、痕跡さえ見い出せず、取り敢えず、本文を最初から読み始めて、先に示した英文の「Wikisource」の熊楠の英文投稿に行き当たり、そこに「ハーン」が出てきて、これ、とんだ「ハーン」違いの大馬鹿早合点であることが判明したのであった。その以下の部分(ギリシャ文字らしい表記部分は字起こしが不全であり、私が起こすのも面倒なので(発音さえ出来ない)「*」に代えた。原雑誌画像を確認されたい)、

   *

" Bernhard Schmidt compares the name of the bird (* *****, or *******) with the Albanian form (****** or ****), and refers to Hahn's Tales  for an Albanian parallel, in which the gyon and the cuckoo are described as brother and sister."

   *

ここに出た「Hahn's ‘Tales’ 」とあるのが、それであるのである。「‘Tales’」はこの表記法から「Hahn」(ハーン)なる人物が書いた「話譚」という本の名前としか思われないのだが、人物も書名も遂に調べ得なかった。因みに、小泉八雲の以前の名は「Lafcadio Hearn」で綴りが違う。

「時鳥(學名ククルス・ポリオケファルス)」冒頭注で綴りを示してある。

「邦名かつかうどり、又かんこどり又かつぱうどりなど稱へ、學名ククルス・カノルス」カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)」を参照。なお、「和漢三才図会」には、悩ましいことに、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 加豆古宇鳥(かつこうどり) (カッコウ?)」が別にある。

「競鳴」「きそひなき」。

「持囃す」「もてはやす」。

「盛」「さかり」。

「本草啓蒙に、支那の鳲鳩」(しきう)「一名郭公をカツコウドリに宛て、此鳥四月時分にカツコウと鳴く聲甚だ高く淸んで山谷に震響」(しんきやう)「す。即ち郭公と自呼」(みづからよぶ)「なりと云」(いへ)「るは中」(あた)「つて居る」小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」(蘭山の講義を孫の職孝(もとたか)が筆記・整理したもの。享和三(一八〇三)年~文化三(一八〇六)年刊)のこと。国立国会図書館デジタルコレクションの原版本(非常に状態がよく、印字も読み易い)のここで視認出来る。

「本草綱目には、鴶鵴」(かつきく)「という異名をも出す」「杜鵑」と同じ巻に「鳲鳩」で出る。「漢籍リポジトリ」のこちら[114-2b]を参照されたいが、その「釋名」に別名として「布穀」「鴶鵴【音、「戞」、「匊」。】」「獲穀」「郭公」「布穀」を並べている。

「モレンドルフ」ドイツの言語学者で外交官であったパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff 一八四七年~一九〇一年)のことであろう。十九世紀後半に朝鮮の国王高宗の顧問を務め、また、中国学への貢献でも知られ、満州語のローマ字表記を考案したことでも知られる。朝鮮政府での任を去った後、嘗ての上海で就いていた中国海関(税関)の仕事に復し、南の条約港寧波の関税局長官となり、そこで没した。

「等之を」「ら(は)、これを」。

「ヨダカ」ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ(夜鷹)亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蚊母鳥 (ヨタカ)」を見られたい。実際に挿絵で蚊を吐いている。

「居他巢生子」私の先の正式な訓読の終りの部分を参照。

「柳田氏は時鳥弟殺しの本邦諸譚、皆この罪惡の起因だつた食物を薯蕷(やまのいも)としたのは、必しも此鳥の季節が薯蕷の發芽期だからと言て了ふ可らず」(いふてしまふべからず)「、何となれば此鳥は山家では殆ど秋初迄鳴續く故にと言はれたが、氏も又氏が咎め立てした中村君と同じく、後世の心もて古人を忖度する者と言なければならぬ」(いはなければならぬ)の「薯蕷(やまのいも)」は音「シヨヨ(ショヨ)」で狭義には所謂、「自然薯(じねんじょ)」=「山芋」=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica を指し、ここもそれと限定してよい。「日本薯蕷」とも漢字表記し、本種は「ディオスコレア・ジャポニカ」という学名通り、日本原産である。なお、ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya とは別種であるが(中国原産ともされるが、同一ゲノム個体は大陸で確認されておらず、日本独自に生じた可能性がある。同種は栽培種であるが、一部で野生化したものもある)、現行では一緒くたにして「とろろいも」と呼んだり、同じ「薯蕷」の漢字を当ててしまっているが、両者は全く別な種であり、形状も一目瞭然で異なるので注意が必要である。因みに、ウナギの産卵と稚魚の発生地が永く判然としなかったことから、古くより「ヤマノイモがウナギになる」というトンデモ化生説(但し、「絶対にあり得ないこと」の喩えとしての使用も古くからある)はご存知だろう。では、私の「三州奇談續編卷之二 薯蕷化ㇾ人」はいかがかな? 閑話休題。さて、この全体の「柳田」による批判部分だが、『郷土研究』上の柳田論考の一節か、或いは書簡で熊楠に向けて批評したものか「選集」の南方と柳田の往復書簡や、「ちくま」文庫版の「柳田國男全集」を調べては見たが、よく判らなかった。見つけたら、追記する。孰れにせよ、本篇の発表は大正五年七月であるが、この年の十二月を以って、南方と柳田が絶縁するのと、この熊楠の反撃口調は、遠くリンクしているように感ずるものである。

「居常」「きよじやう」。「日常生活に於いて常に」の意。

「習」「ならひ」。

「ヘシオドス」古代ギリシアの叙事詩人。紀元前七百年頃に活動したと推定されている。「神統記」「仕事と日々」の作者として知られる。当該ウィキによれば、後者の著作は『は勤勉な労働を称え、怠惰と不正な裁判を非難する作品で』、『同書には世界最初の農事暦であると考えられる部分のほか』、パンドラと五つの『時代の説話、航海術、日々の吉兆などについて書かれた部分がある。農事暦については、同書で書かれる程度のことは当時の聴衆にとっては常識であり、指南用のものではなく』、『農業を題材に取ったことそのものに意味があるとも考えられている』とある。

「檞樹」(かしはのき)ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata

「唱ふ」「うたふ」。

「唱ひ初」(はじ)「むる時が耕地の初」(はじめ)「の時だ」。

「ウバユリ」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ウバユリ属ウバユリ Cardiocrinum cordatum 。当該ウィキによれば、「姥百合」で、『花が満開になる頃には葉が枯れてくる事が多いため、歯(葉)のない「姥」にたとえて名づけられた』とある。サイト「BOTANICA」の「ウバユリ(姥百合)とは?特徴・花言葉から育て方や食べ方まで解説!」で、食用となることが確認出来る。『野山にたくましく咲く花として紹介してきたウバユリですが、実は山菜としても食べられる植物です。ほかの種類のユリと同じように、球根』(正しくは地下茎の一種で鱗茎と呼ぶ)『を食用にします。ゆり根のようにホクホクとした食感が特徴で、ゆり根よりも若干』、『苦みを感じます。普通のゆり根に比べて球根が小さいので、食用で採集するときは多めに採るのがおすすめです』とあって、各種の料理法が載る。

「雄本は葉綠に線條有り、雌本は紫條有り、雌本の味優る」と熊楠は言っているが、誤りである。ウバユリは雌雄異株ではない。サイト「図鑑.net モバイルブログ」松沢千鶴氏の「ウバユリには、雄株と雌株とがある?」 を読まれたい。そこに、『オオウバユリ』(ウバユリ属ウバウリ変種オオウバユリ Cardiocrinum cordatum var. glehnii )『は、ウバユリの変種です。名のとおり、普通のウバユリより大きいです。日本の中部地方以北に自生します。普通のウバユリは、関東以南に自生します』。『アイヌの人たちは、伝統的に、オオウバユリに、「雄株と雌株とがある」と考えてきました。花を付けているのが雄の株で、花がなく、葉だけが茂るものを雌の株とします』。『ところが、実際には、オオウバユリは、雄株と雌株とに分かれていません。普通のウバユリも、そうです』(☜ ☞)。『他の多くの植物と同じく、一つの株で、雄と雌とを兼ねます』。『では、なぜ、アイヌの人たちは、このような区別をしたのでしょうか?』 『これは、その鱗茎を食べる都合上のようです。アイヌの人たちは、「雌」と見なしたオオウバユリの鱗茎しか、食べません。花が付いた株』――『アイヌが言うところの雄株』――『は、花に栄養を回すために、鱗茎が痩せてしまうからです』。『おそらく、元は、実用上の都合から、花の付いた株と、そうでない株とを区別したのでしょう。それを、わかりやすく、雄・雌と表現したのだと思います』(以下略)とあったからである。熊楠にはアイヌの血も流れていたか。素敵!

「惟ふに」「おもふに」。

古は大人も之を食ひ生活上の必要品としたので時鳥の鳴聲に迄注意したのであらう。

「本草綱目に郭公二月穀雨後始鳴、夏至後乃止、其聲如俗呼阿公阿㜑割麥插禾脫却破袴之類、布穀獲[やぶちゃん注:底本も「選集」も「穫」とするが、以下のリンク先の影印本で訂した。]穀共因其鳴時、可爲農候、故名之耳」これ、「漢籍リポジトリ」のこちら[114-2b]の「鳲鳩」を参照されたいのだが、正直、以上の熊楠のそれは引用とは言えない、操作したものである。全体を示すと(一部の表記を推定で判り易く変えてある)、

   *

鳲鳩【「拾遺」。】

釋名 布穀【「列子」。】・鴶鵴【音戞匊。】・獲穀【「爾雅」註。】・郭公。【蔵器曰、「布穀」、鳲鳩也。江東呼爲「獲穀」。亦曰、「郭公」。北人名「撥穀」。」。時珍曰、「布穀」、名多、皆各因其聲似而呼之如俗呼「阿公」・「阿」・「割麥」・「插禾」・「脫却破袴」之類、皆因其鳴時、可爲農候故耳。或云、「鳲鳩」、即「月令」鳴鳩也。「鳴」乃「鳲」字之訛。亦「通禽經」及方言並謂「鳴鳩」即「戴勝」。郭璞云、非也。】

集解 蔵器曰、「布穀」似鷂長尾、牝牡飛鳴以翼相拂擊。時珍曰、按「毛詩疏義」云、「鳲鳩」大如鳩而、帶黃色。啼鳴相呼而不相集。不能爲巢多居樹穴及空鵲巢中哺子。朝自上下暮自下上也。二月穀雨後始鳴、夏至後乃止。張華「禽經註」云、仲春鷹化爲鳩、仲秋鳩復化爲鷹。故鳩之目、猶如鷹之目。「列子」云、鷂之爲鸇、鸇之爲布・穀布・穀久、復爲鷂是矣。「禽經」又云、鳩生三子一爲鶚。

肉 氣味 甘、温、無毒。 主治 安神定志令人少睡【汪頴。】。

 脚脛骨 主治 令人夫妻相愛、五月五日收帶之、各一男左女右云置水中自能相隨也【蔵器。】

   *

下線部が一致する部分である。熊楠は適当な箇所を切り刻んで繋げて、あたかも「本草綱目」にそう書いてあるかのように作文したのである。「共因其鳴時」の「共」、「故名之耳」の「名之」に至っては勝手な挿入である。まあ、言っている内容に変化ないとは言えはするけれども。取り敢えず、訓読しておく

   *

郭公は、二月、穀雨[やぶちゃん注:現在の四月二十日頃。]の後、始めて鳴き、夏至の後、乃(すなは)ち、止む。其の聲は、俗に「阿公」・「阿㜑」[やぶちゃん注:孰れも年上の男子やお婆さんへの呼びかけ。]、「麥を割(か)れ」・「禾(いね)を插(う)ゑよ」・「破れ袴(ばかま)を脫-却(ぬ)げ」[やぶちゃん注:「田畑に出る仕度をせよ」の意か。]と呼ぶ類(たぐゐ)のごとし。「穀を布(ま)く」・「穀を獲(か)る」は、共に其の鳴く時に因りて農候と爲すべく、故に之れに名づくるのみ。

   *

「頃日」「ちかごろ」。

「カジカ蛙」両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri 。迂遠を厭わずに、考証をした「日本山海名産図会 第四巻 河鹿」の本文及び私の注を参照されたい。

「差ふ」「ちがふ」。

「交」「かひ」と読んでおく。

「辭」「ことば」。

「商陸(やまごばう)」

「子」「み」。

「蜻蜓」「とんぼ」。

「一卷六號三七二頁」「選集」に『『郷土研究』一巻六号三奈七二頁』とし、割注で『「紀州俗伝」四節』とある。この次の次から始まる「紀州俗傳」の第「四」章の最後の方にある「そばがきとんぼ」の話を指す。ここの右ページ九~十行目である。

「頒曆」近世から有料頒布された農事曆(のうじごよみ)。]

2022/06/24

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 姫螺(ヒメサヽヒ)・山椒貝(サンシヨガイ) / サンショウガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

Sansyugai

 

姫螺【「ひめさゞひ」。】二種。

 

  山椒貝

  さんしよがい

 

[やぶちゃん注:図が如何にも小さく、細部が判らない。しかも梅園は「二種」とし、右個体を「姫螺」とし、「ヒメサヽヒ」なる和名をも添える。そちらが白いのが気にはなるが、取り敢えず、

腹足綱前鰓亜綱古腹足上目古腹足目ニシキウズ超科リュウテンサザエ科サンショウガイ亜科サンショウガイ属サンショウガイHomalopoma nocturnum

としておく。左の個体はまず本種かと思われ、右は同種の白化個体か、単に摩耗して表面の色が残っていないものかも知れぬ。そもそもアップで描いていないのは、損耗して梅園の絵心を誘わなかったからだとすれば、腑に落ちるからである。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「子供の背守と猿」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十一月発行の『鄕土硏究』第三巻第八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 なお、添え辞の「(人類三卷四六八頁參照)」の「人類」は「鄕硏」の誤りである。後注の冒頭を参照されたい。

 太字は底本では傍点「○」である。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     子供の背守と猿 (人類三卷四六八頁參照)

 

 中古男子の烏帽子や女房の頭に付けた物忌、近世小兒の衣に附ける背縫、守り縫、背紋など、何れも視害(印度語ナザール)や邪視(英語イヴル、アイ)を避ける本義に出た由を、明治四十二年五月の東京人類學會雜誌に書いて置いた。括り猿を奉納するは此邊では庚申・淡島・藥師等、何の神佛へもした事で、子安地藏に限らぬ。是も印度で殿堂辟邪の爲に斯る物を諸種掛けると同理由なる上に、本邦では猿を去るの意に取て婚儀や遊女屋などで大に忌むと同時に、まさる(滋殖)の義に比べて農家には大に敬愛し、猿舞しを持囃すは決して例の狙[やぶちゃん注:「さる」。]は馬を健にすの一事に止まらぬ。又和歌山などでは猿は山王の使物で甚だ出產の安い獸とて之を祀り、痘瘡の輕き物とて之を祭る所も有る。現に今日も紀州で女兒が立つて遊び出す時、第一に與ふる物は淡紅の布に古綿を詰めて作つた猿像で、三四五歲の間は他の玩具無くとも、必ず之を負ひ又懷いて遊ぶ。公事根源の「あかちこ」、伊勢守產所記等の「はふこ」又伽婢などの遺意で、詰り之を持つて遊ぶ子の罪禍を猿の像に負はせる事かと惟ふ。降つて彈き猿、幡猿、釣する猿、繫がり猿、水挽猿、米搗猿、桃核や蜜柑の猿(嬉遊笑覽六下)、猿の力持(守貞漫稿二十五)など、猿の翫具が多い。書紀に、「猿田彥大神、口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醬、卽遣從神往問。時有八十萬神、皆不得目勝相問と有り、古事記を見るに此神比良夫貝を取らんとて手を貝に挾まれ溺死せし樣子、近頃迄熊野の僻地で猿が海邊に群至して蟹や貝に手を挾まれて泣くを目擊せる老人多かりしに參すれば、猿田彥大神は大なる猿で、その赩面炯眼よく一切の邪禍を壓倒擊退すと信ぜられたなるべし。甲子夜話卅に、著者靜山侯が備中で薩侯の息女江戶上りに行遇ひたるに、其調度の長櫃幾箇も持行く内飾り著けたる有り、竹を立てた上に又橫に結び絲を張り小さき鼓又括り猿などを下げ、竹の末三所には紅白の紙を截懸け長く垂れたる事神幣の如し、或は紅の吹貫小旗など結び附けたるも有り、華やかなりしと出づ。是はアラビア人が女子を駱駝に乘せて移す時の駱駝の飾りに似た事で、括り猿も旗幟も主として邪視を避ける本意に出た事だ。   (大正四年鄕硏三卷九號)

[やぶちゃん注:「選集」は標題の添え辞が改行下方インデント二行で『平瀬麦雨「背守のこと、および子供と猿」参照』『(『郷土研究』三巻八号四六八頁)』とある。

「中古男子の烏帽子」(えぼし)「や女房の頭に付けた物忌」本邦に於いて、上古より、公事・神事に先立って、一定期間、飲食・言行などを慎んで(特定の禁忌行為を行わない)、心身を清めることを指す「物忌み」があり、これは日常的に頻繁に行われた。宮中にあっては、「物忌み」であることを周囲に示すために、柳の木札や紙に、「物忌」と書いた物を、冠や烏帽子や衣服、居室の簾などに附けた。例えば、「枕草子」の「說經の講師は顏よき。……」に、

   *

烏帽子(えぼうし)に物忌(ものいみ)つけたるは、『さるべき日なれど、功德のかたには障(さは)らずと見えんむ』とにや。

   *

清少納言の、かの毒を含んだ評で、「烏帽子に物忌の札をつけているのは、わざと、『今日は物忌みに籠っておるべき日であるが、善根を積むためには構わぬのであるとこれみよがしに人に見せつけよう』というつもりなのかしら?」の意で、また、女房のケースでは、「節(せち)は、五月にしく月はなし。……」に、

   *

御節供(おほむせく)まゐり。若き人々、菖蒲の腰插(こしざし)、物忌(ものいみ)つけなどして、さまざまの唐衣(からぎぬ)・汗衫(かざみ)などに、をかしき折り枝ども、長き根に村濃(むらご)の組(くみ)してむすびつけたるなど、めづらしういふべきことならねど、いとをかし。

   *

とある。「御節供まゐり」は一語で名詞。節句の供えの御膳(おもの)を御前にお運び申し上げること。服装も特別でかなり雅やかなものであったという。「菖蒲の腰插(こしざし)、物忌(ものいみ)つけ」『新潮社日本古典集成』の「枕草子 上」(昭和五二(一九七七)年刊・萩谷朴校注)の頭注によれば、「延喜式」に「菖蒲珮(しょうぶのおもの)」とあり、『菖蒲の蔵人』(くろうど)『といって、若い女蔵人が腰に勝負の薬玉を佩(お)び、頭に菖蒲の蘰(かずら)[やぶちゃん注:髪飾り。]をつけた』。ここでは、そ『の菖蒲珮を「腰插」、菖蒲蘰を「物忌(ものいみ)」と記したのである』とある。則ち、この場合の「物忌み」は晴れの神事の非日常の潔斎のシンボルということになる。「唐衣・汗衫」成人女官の正装が前者、後者は童女のそれで衵(あこめ:女子の中着(なかぎ)。表着(うわぎ)と単(ひとえ)との間に着用した物)や打衣(うちぎぬ:表着の下、重ねの袿(うちき)の上に着用した物。貴族の女性の正装の際の着用着で、地質は平絹又は綾で、色は紅が多い)の上に着た正装着。「汗衫」の音「かんさん」の音変化したもの。平安以降、後宮に奉仕する童女が表着の上に着た。脇が空き、裾を長く引く。この服装の時には同時に濃(こき)の袴に表袴(うえのはかま)を重ねて穿いた。「晴」(はれ)の他に「褻」(け)の着装があり、着方が異なった。「をかしき折り枝ども、長き根に村濃(むらご)の組(くみ)して」季節の花の咲くついた枝などを、菖蒲の長い根に、濃淡を交互に染めつけた組み紐で結び附けて。

「背縫」(せぬひ)は、通常は衣服を背筋の所で縫い合わせること、またその縫目の所を指すが、嘗つては、その縫い目に魔除けの力があると信じられ、背後から忍び寄る魔を防ぐ力があると考えられていた。しかし、赤子の着る産着は、非常に小さく背縫いがなかったため、子どもに魔が寄りつかぬように背縫いの代わりとなる魔除けのお守りをを縫い附けた。「背守り」とも言う。始まりは定かではないが、鎌倉時代に成立した絵巻「春日権現験記」には、すでに背守りを縫い附けた着物を着ている子供が描かれてあり、かなり古い風習であることが判る。参照した「和樂web」のマキタミク氏の『魔除けの刺繍「背守り」とは?意味やデザインの種類、歴史を解説!』に多様なそれが写真で載っているので、是非、見られたい。

「守り縫」サイト「ワゴコロ」の「【背守り】子供を守る魔除けの刺繍!歴史や模様、作り方などを紹介!」(こちらも多数の写真が載る)に『基本の「守縫」』として、『背中の中心に沿って縦と斜めに縫い目をつけたシンプルな背守りで、「守縫もりぬい」「糸じるし」などと呼ばれています』。『男女による区別があり、男児は縦に』七『針と、襟下から右斜め下に』五『針縫い目を付け、女児は縦に』七『針と、襟下から左斜め下に』五『針縫い目を付けます』。『針目の数は』一年十二ヶ月『にあやかり、合計が』十二『針となるよう縦』七『針と斜め』五『針、または縦』九『針と斜め』三『針と決まって』おり、また、『糸の色は、赤、紅白、五色(赤・青・黄・黒・白)などさまざまで』、『また、縫い目をつけ終えたら』、『糸をそのまま長く垂らして』あるのが『特徴で、これには「子供が危険な目に遭いそうになった時、天の神様がその糸を引っ張って子供を引き上げてくれる」という意味が込められています』。『子供を神様に助けてもらいたいと願う、親の気持ちが込められた、呪術的な初期の背守りです』とあった。

「背紋」同前のページに、『手芸としての「背紋飾り」』に、『時代がたつにつれ、背守りは凝った図案の刺繍が施される手芸作品となっていきました』。『これを「守縫」と区別して、「背紋(せもん)」または「背紋飾り」と呼んでいましたが、現在では背守りというと、この背紋・背紋飾りのことを指します』。『図案となるモチーフは、昔からある縁起の良い吉祥文様が使われることが多く』、『図案集』も『販売されていました』とある。

「視害(印度語ナザール)や邪視(英語イヴル、アイ)を避ける本義に出た由を、明治四十二年五月の東京人類學會雜誌に書いて置いた」「選集」では「印度語」は『ヒンズー語』となっている。以上は先行電子化した「小兒と魔除」(リンク先はPDF一括版。ブログ版はカテゴリ「南方熊楠」で六回分割で載せた。なお、この論考の初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」で「J-Stage」のこちらPDF)で初出原本が見られる)。

「庚申」庚申信仰。或いはその信仰対象たる庚申塔(庚申塚)や、その信仰形態である庚申講などを指す。

「淡島」淡島信仰。和歌山市加太(かだ)に鎮座する淡島神社の祭神に関わる信仰。祭神は住吉大神の妃神(きさきがみ)で、婦人病のため、当地に流されたと伝えられるが、それは住吉大社の御厨(みくりや)があったことによる付会である。婦人病・縁結び・安産・海上安全などの信仰を集めるが、婦人病の信仰が顕著であり、子の安全を祈ることと強い親和性がある。戦国末期天文二一(一五五二)年跋のある説話「塵塚物語」(全六巻。作者は明らかではないが、序に藤原某とあり、また、巻一の冒頭の「前飛鳥井(さきのあすかゐ)老翁、一日、語られていはく」とあるので、藤原氏のある公家の手になるものと考えられる。上梓は永禄一二(一五六九)年の序があるので、その頃か。内容は「宇治拾遺物語」に似た体裁をとり、主として鎌倉から室町時代に及ぶ故事・見聞・逸話など六十五編が収められてある。特に室町末期の公家・武家の風俗や、動向・信仰に関するものが多く、史料的にも価値がある)によって、当初の縁起や、この信仰を説いて回る半僧半俗の者の存在が知られる。これらの活動により、ほぼ全国に淡島神社が祀られたと考えられるが、岩手県では性神信仰と結びつくなど、各地で種々の信仰や伝承を伝える例もある。祈願のために雛人形などを奉納したことが「紀伊続風土記」(幕末の紀伊藩の地誌。本編九十七巻、付録に古文書と神社が十七巻、高野山が六十巻、高野山総分方(附属寺社等の地誌)二十一巻、聖方(高野山中核部の地誌)からなる。文化三(一八〇六)年に幕府の命を受け、紀伊藩は儒者仁井田好古(にいだこうこ)を編纂主任に任命して編纂を始め、一時中断の後、天保一〇(一八三九)年に仁井田が序文を書いた。各郡の総論に続いて、古郷名・村名・田畑総数などを挙げ、ついで各荘名毎に当時の凡ての村々の村高・戸数・沿革・旧家などに至るまで編述する)に見えるが、現在も雛人形や身の回りの物品を納める風習が残っている(「塵塚物語「紀伊続風土記」の解説も含め、概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「藥師」東方の浄瑠璃世界の主宰で、除病安楽・息災離苦など十二の誓願を起こし、生ある凡てのものを救うとされる薬師如来への信仰。天武天皇九(六八〇)年頃から盛んになった。

「持囃す」「もてはやす」。

「例の狙」(さる)「は馬を健」(すこやか)「にすの一事」厩猿(まやざる)信仰。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま) (ウマ)」の「猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く」」の私の注を参照されたい。また、『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(30) 「猿舞由緖」(2)』も参考になるはずである。

「山王」「さんわう」。山王権現(さんのうごんげん)。滋賀県大津市坂本にある日吉大社の祭神。最澄が中国の天台山国清寺の山王祠に象って、比叡山の守護神として山王祠を建立したことから起こったもの。本地垂迹説によって大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭神とし、二十一社から成る。猿を神の使者とする信仰があり、山王祭・日吉祭などの祭礼も、近世までは陰暦四月の中の申の日に行なわれた(小学館「日本国語大辞典」に拠った。)

「今日も紀州で女兒が立つて遊び出す時、第一に與ふる物は淡紅の布に古綿を詰めて作つた猿像で、三四五歲の間は他の玩具無くとも、必ず之を負ひ又懷」(いだ)「いて遊ぶ」いろいろなフレーズの組み合わせで調べたが、和歌山での、この習慣は、ネット上では見出せなかった。現存していることを御存じの方は、御教授願いたい。なお、後の『「はふこ」又伽婢子』の引用の「☞」部を参照されたい。

「公事根源」「公事根源」(くじこんげん)は「公事根源抄」とも呼び、朝廷の年中行事を 十二ヶ月に分けて、それぞれの由来を解説した書。一条兼良撰。応永二九(一四二二)年成立。現存しない行事や、これを通しての民俗信仰を窺い得る好史料とされる。「あかちこ」は恐らく「六月」の頭にある「御贖物(ミアガモノ)」に出る「あがちこ」であろう。関根正直校注の「公事根源新釋」下巻(明治三六(一九〇三)年六合館刊)のここで、関根氏は注釈して、『「贖物」は、実の禍を祓ふ料』(れう)『の物なれば然』)しか)『いふ。「あかちご」は贖物を持參女子をいふ。年中行事秘抄に御巫(みかんこ)東宮年中行事には「畧してみかんとある是なり』とある。当初、巫女の袴の色から「赤稚兒」かと思ったが、「贖巫女(あがかんなぎ)」の縮約のようである。

「伊勢守產所記」室町中期から戦国時代にかけての幕臣で故実家でもあった伊勢貞陸(さだみち 寛正四(一四六三)年~永正一八(一五二一)年)の著「產所之記」であろう。

『「はふこ」又伽婢子』(とぎばうこ)は、元は「這子」(はふこ(ほうこ))。小学館「日本大百科全書」の斎藤良輔氏の解説がここに相応しい。『這(は)う子にかたどった布製の信仰的人形。婢子とも書く。白絹の縫いぐるみで絹糸の黒髪をつけ、金紙で束ねてあり、平安朝時代の官女に似た顔だちをしている。当時』、『貴族階級の間で、幼児の守りとして天児(あまがつ)という人形を枕頭(ちんとう)に置き、幼児にふりかかる災厄を、それに身代りさせることが行われたが、この天児と同じ意味で使用された。伽(とぎ)這子、御伽ともいった。室町時代には這子のことも天児とよんだ。これがしだいに変化して、天児と這子を男女一対の人形とする立ち雛(びな)形式が生まれ、雛人形の根元となった。江戸時代に入ると』、『貴族階級の天児に対して、庶民の間では同じく這子を幼児の祓(はらい)の具として用いるようになり、犬張り子なども添えて置き、雛祭には雛段に飾った。幼児の髪置(』三『歳)の宮参りにこれを持って行くこともあったが、江戸中期には天児(男)と這子(女)とを対(つい)の物として扱い、嫁入りにも持参した。家庭で婦人の手細工としてつくられた。また』、『頭だけ』を『人形屋で求めてきて、衣装は裁縫の初歩用に嫁たちが』作ったりした(☞)。『これがさらに玩具』『化されたものに猿子(さるこ)がある。桃色の木綿布でつくった人形で、中に綿を詰めて仕上げたもの。負い猿、お猿さんなどともよばれ、幼女の遊び相手にされた』(明らかに先の熊楠が言っている内容に完全に合致する)。『現在』、『岐阜県高山市産の郷土玩具「猿ぼぼ」などに名残』『をとどめている。また這子から転化した郷土玩具には、香川県高松市産の「ほうこさん」、鳥取県倉吉(くらよし)市産の「はこた人形」などがある』とある。

「遺意」「いい」。習俗の名残。

「詰り」「つまり」。「所謂」の意。

「之を持つて遊ぶ子の罪禍を猿の像に負はせる」則ち、熊楠は、この玩具はお守りというよりも、児童が受けるべき災厄の身代わりとなる呪的な形代(かたしろ)が原形であると断じていることになる。

「惟ふ」「おもふ」。

「降つて」「くだつて」。

「彈き猿」「はじきざる」。前掲辞書の同じ斎藤良輔氏の記載。『棒に紅布製の括(くく)り猿を抱きつかせ、下から竹ばねをはじいて』、『猿を昇り降りさせる玩具』。『猿弾きともいう。江戸時代の明和』(一七六四年~一七七二年)『の末に出現した幟猿(のぼりざる)(五月節供の外飾りにつける猿)の着想から生まれた。江戸中期以後、外飾り幟が室内飾りに転移し、幟猿が』次第に『衰退したのに』代わって『流行した。ことに「はじきざる」の語呂(ごろ)が、災いを「弾き去る」という俗信に結び付き、縁起物として迎えられた』。『かつては郷土玩具として全国各地にみられたが、その多くがすでに姿を消している。現在では、宮城県気仙沼』『市唐桑(からくわ)町御崎(おさき)神社の祭礼』(一月十四日~十五日)『に売られる唐桑の弾き猿、東京都葛飾』『区柴又帝釈天』『の弾き猿、三重県松阪(まつさか)市の厄除』『け観音岡寺山(おかでらさん)継松寺で、旧暦初午』『の日』(三月中旬)『に露店で売られる松阪の猿弾きなどが代表的である』とある。なお、これ以下が、後に示される「嬉遊笑覽」(国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立)の「卷之六 下」所収のものである。国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここからである。以下もそちらをまず見られたい。

「繫がり猿」小型の猿人形が手を繋いで連なったものであろう。ネットに画像はないが、想像は出来る。欲しい。

「水挽猿」「みづひきさる」。小学館「日本国語大辞典」に「うすひきさる」(「臼挽猿」)があり、『人形の猿の下に車をつけ、水』(☜)『の吹き出す力によって水車が回転し、これにつれて猿が臼を引く仕掛けのおもちゃ』とある。以下の「米搗猿」(こめつきさる)も同じようなものと思われる。「嬉遊笑覧」の記載も同様である。

「桃核」(もものたね)「嬉遊笑覧」によれば、売り物ではなく、個人が手すさびに桃の種を彫琢して作った猿像とある。

「蜜柑の猿」同前で、『是今も柑瓤(ミカンノフクロ)を髮毛にて括りて猴に作るなり』とある。一寸、想像出来ないのだが。

「猿の力持(守貞漫稿二十五)」同書は「守貞謾稿」とも書く。江戸時代後期の三都(京都・大坂・江戸)の風俗・事物を説明した類書(百科事典)。著者は喜田川守貞(本名は北川庄兵衛。浪華生まれの商人)。起稿は天保八(一八三七)年で、実に約三十年の間、書き続けて全三十五巻(「前集」三十巻・「後集」五巻)を成した。刊行はされず、稿本のまま残されたが、明治になってから翻刻された。千六百点にも及ぶ付図と詳細な解説によって近世風俗史の基本文献と見做されている。私は別名の「近世風俗志」の岩波文庫で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部「猿の力持蝙蝠」が視認出来るが、その僅かな記載から、守貞自身、いかなる形状の玩具であるか判らなかったようである。

『書紀に、「猿田彥大神、口尻明耀、……」底本では、「猿田彥大神、口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然」以下の「似赤酸醬、卽遣從神往問。時有」までない。猿田彦の神が降臨した天孫を迎え奉るシークエンスである。訓読する。

   *

猿田彥大神(さるたひこのおほかみ)、口、尻(かく)れ、明(あ)かり耀(て)れり、眼(まなこ)は八咫(やた)の鏡のごとくして、赩然(てりかがや)けること、赤酸醬(かがち)に似たり。八十萬(やをよづる)の神、皆、目勝(まが)ちて相ひ問ふことを得ず。

   *

「赤酸醬」ホオヅキの熟して赤くなった実。「目勝ちて」目が眩(くら)んで。

「古事記を見るに此神比良夫貝を取らんとて手を貝に挾まれ溺死せし」原文は以下。

   *

故其猿田毘古神、坐阿邪訶時、爲漁而、於比良夫貝其手見咋合而、沈溺海鹽。故其沈居底之時名、謂底度久御魂、其海水之都夫多都時名、謂都夫多都御魂。

   *

角川文庫の武田祐吉訳注版を参考に訓読する。

   *

故(かれ)、其の猿田毘古神(さるたひこのかみ)、阿邪訶(あざか)に坐(ま)しし時、漁(すなど)り爲(し)て、比良夫貝(ひらぶがひ)に其の手を咋(く)ひ合(あ)はさえて、海鹽(うしほ)に沈み、溺れたまひき。故、其の底に沈み居(ゐ)たまふ時の名を、「底(そこ)どく御魂(みたま)」と謂ひ、其の海水のつぶたつ時の名を、「つぶたつ御魂」と謂ふ。

   *

「阿邪訶」地名。三重県松阪市に小阿坂町と大阿坂町があり、孰れにも阿射加(あざか)神社がある。ここ(北が大阿坂町、が小阿坂町)。「比良夫貝」斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ亜科ツキヒガイ属ツキヒガイ Amusium japonicum 説、タイラギ説があるが(日本産タイラギは、一九九六年、アイソザイム分析の結果、有鱗型と無鱗型と個体変異とされていたものが、全くの別種であることが明らかとなった。学名は現在も混迷中で早急な修正が迫られている。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ」の私の注を参照されたい)、まあ、後者の方が溺れ死にとは合うんだろうが(大真面目にこれをタイラギに断定している(その御仁はシャコガイ説を『お笑い』として一蹴しておられる)ページを見て、私は正直、タイラギの冤罪には微苦笑せざるを得なかった)、私は未だ嘗つてタイラギに手を挟まれて亡くなった人というのを知らないね。そんなことは太古でもあるまいと思う。しかも、かの天狗の原型ともされる国津神の猿田彦が、おめおめと貝に挟まれて死ぬはずがなかろうに。おう、或いは、……天孫の送り込んだ女の暗殺者で……「貝」だったのかもね……なお、瀬戸内海で潜水服でタイラギ漁をしていた漁師さんが亡くなったのは知っているが(一九九二年)、その事件の真相はサメに襲われたものと推定されているね。

「甲子夜話卅に、著者靜山侯が備中で薩侯の息女江戶上りに行遇ひたるに、……」事前にこちらで電子化注しておいたので、まず、そちらを読まれたい。

「旗幟」「はた・のぼり」。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷之三十 24 大名女子の旅裝

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「子供の背守と猿」の注に必要となったため、急遽、電子化する。]

 

30-24 大名女子の旅裝

 予少年より東武往還の道中多の人の旅行にも遇しが、その行装小々の殊なることは有れど、まづは似たるものなり。備中にて薩州の息女江都に上るに遇たり。調度の長櫃幾箇も持行うち、飾著たるあり。其さま竹を立、上に又橫に結び、糸を張り、小き鼓又はくゝり猿などを下げ、竹の末三處には紅白の紙を截かけにして長く垂れたること神幣の如し。或は紅の吹貫、小幡など付たるも有り。いと華やかなることにて女子の旅裝と見ゆる者なりき【「東行筆記」。】。

■やぶちゃんの呟き

「予少年より東武往還の道中多の人の旅行にも遇」(あひ)「しが、その行装」(かうさう)「小々の殊なることは有れど、まづは似たるものなり。備中にて薩州の息女江都に上るに遇」(あひ)「たり」松浦(静山)清の父であった政信は、静山の祖父誠信の跡を継ぐはずであったが、明和八(一七七一)年八月に三十七歳で家督を継がずに早世した。宝暦十(一七六〇)年一月に江戸藩邸で生まれた清は、政信の長男であったが、側室の子であったため、それまで松浦姓を名乗れず、松山姓を称していたが、同年十月十二歳の時、祖父誠信の養嗣子となり、安永三(一七七四)年四月、将軍徳川家治に御目見し、同年十二月、従五位下・壱岐守に叙任、翌安永四年二月の祖父の隠居により、十三歳で家督を相続、同年三月、藩主としての初めての帰国許可が出ている。

「長櫃」「ながびつ」。

「幾箇」「いくこ」。

「持行」「もちゆく」。

「飾著たる」「かざりつけたる」。

「立」「たて」。

「鼓」「つつみ」。

「くゝり猿」「括り猿」。四角な布に綿を縫い込み、四隅を足として一ヶ所に集めて括り、頭をつけて猿の形に作(な)した玩具。江戸時代に流行し、「幟猿」(のぼりざる:端午の幟の下につけた括り猿。風で上下する玩具)やお守りや各種の装飾に用いた。遊郭などでは客の足止めをする咒(まじな)いにもした。

「三處」「みつどころ」。

「截かけ」「きりかけ」。

「神幣」「ごへい」と当て訓しておく。

「吹貫」「ふきぬけ」。「吹き流し」に同じ。

「小幡」「こばた」。小旗。

「東行筆記」静山の藩主時代の寛政期(一七八九年~一八〇一年)の随筆「寛政東行筆記」。

2022/06/23

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「熊野の天狗談に就て」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十月発行の『鄕土硏究』第三巻第八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     熊野の天狗談に就て

 

 田村君の天狗の話(鄕硏三卷三號一八三頁)を讀んで居る處へ、新宮生れで東牟婁南牟婁兩郡の珍事活法とも云ふべき山本鶴吉ちふ人が來たので聞いて見ると、元津野と田村君が書いたのは廣津野を正しとす。宇久井生れで廣津野に移住した者が山爺と成つたので、最近に鹽を貰ひに歸つたのは二十年程で無く三十年程前のことだつた。又「一人娘をわけ村にやるな」と唄はるるは南牟婁郡の和氣村下和氣で、此處新宮から三里半程、人家四五軒あるのみ、川を隔てゝ東牟婁郡の能城山本に、ヰノシヽグラとて野猪も滑り落るてふ高い崖がある。又川の中に大石磊砢と集まつて、水の減つた時遠望すると恰も味噌を延し敷いたやうに見える暗礁があつた。之をミソマメと呼んだが、明治二十二年の大水で川原の下に埋まつてしまうたと語られた。

      (大正四年鄕硏第三卷第八號)

[やぶちゃん注:「田村君」「選集」割注によれば、田村吉永とある。日本史学者田村吉永(明治二六(一八九三)年~昭和五二(一九七七)年)であろう。奈良師範卒。生地の奈良県で中学校教員などを努める傍ら、歴史研究に励み、大正一二(一九二三)年に『大和史学会』を、昭和六(一九三一)年には『大和国史会』を創設、昭和九年には雑誌『大和志』を発刊している。後に梅光女学院大教授となった。著作に「天誅組の研究」などがある。

「天狗の話(鄕硏三卷三號一八三頁)」ネット上では読めない。されば、後の「一人娘をわけ村にやるな」とい意味も判らぬ。僅かに「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「天狗」・「石」のカードが、当該論考に基づくものであることが判っただけである。そこの「要約」に『和気村というところがある。そこには今でも天狗が住んでいて、曇天の日などには、山から大きな石を投げてくるという。』とあった。いや、そもそも、何で、この短い訳の分からぬ話の題名が「熊野の天狗談に就て」となるんじゃい! と少々突っ込みたくなる。単に、熊楠は、その話柄の中の記載の誤りを天狗の鼻捕ったように言いたかっただけなんじゃないの? と皮肉を言いたくなる私がいる(そういう誤りの論いに偏執して、しかも批評対象の論考と同じ題名で書いたりするから、結局、後に柳田國男から絶交されちゃうことにもなったんでしょ? 熊楠先生?)。

「珍事活法」「活法」は「活用する方法・有効に働かす手段」で、所謂、諸事に就いてのハウトゥ書・手引書を謂う。例えば、漢詩を作るのに韻を手軽に調べる本に「詩韻活法」がある如くである。されば、ここは、珍事に就いての信頼出来る知恵者或いは情報屋という謂いである。

「山本鶴吉」不詳。

「元津野と田村君が書いたのは廣津野を正しとす」和歌山県新宮市新宮に廣津野神社(グーグル・マップ・データ。以下指示しないものは同じ)があるが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、ここの地区の旧名として、ズバり、「廣角」(「ひろつの」であろう)と出る。

「宇久井」「うぐゐ」。「選集」で『うぐい』と振るのに拠った。これは、新宮の南に近い和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井(うぐい)であろう。

「山爺」「やまをぢ」。「選集」に『やまおじ』と有るのに従った。これは妖怪のそれではなく、山に分け入って、住民との接触を極力断ち、隠棲する老人の謂いであろう。ともかくも、田村氏の論考が読めないのでそう解釈しておく。

「わけ村」「南牟婁郡の和氣村下和氣」現在の三重県熊野市紀和町(きわきちょう)和気(わき)であろう。「ひなたGPS」で「下和氣」を発見した。新宮からの距離も一致する。航空写真で拡大してみたが、現在は村落らしきものは見当たらない。

「川を隔てゝ東牟婁郡の能城」(のき)「山本」前注の「ひなたGPS」で二つの地名を確認出来る。現在は新宮市熊野川町能城山本(のきやまもと)として地区が合併している。

「磊砢」「らいら」岩石が重なり合っているさま。

「延し敷いた」「のばししいた」。

「明治二十二年の大水」一八八九年。この辺り、2011年の台風十二号による大水害が記憶に新しい。グーグル・マップ・データ航空写真の「紀伊半島大水害の碑」をリンクさせておく。まさに、この場所の対岸北方が旧下和気である。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「生駒山の天狗の話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年二月発行の『鄕土硏究』第二巻第十二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部を訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     生駒山の天狗の話

 

 昨夜奇異の事を聞く。長島金三郞と云ふ元大和郡山の藩士、當地に來り花と茶を敎へ又金魚屋を營み居る。五十五歲なり。此人云ふ、十四の時生駒山に預けられ寺に居る。例年四月一日には大法會あり、護摩を修し士女麕集す。此前年、前鬼の和尙さんとて五十餘歲で眼深く仙人顏なる和尙、每夜此寺へ來ることあり。洞川の寺から夕食を濟ませて後高下駄を履き來り、十時過頃迄話して又洞川へとて去る(洞川は生駒山より十何里あるか知らず、兎に角遠方なり。吉野郡天川村大字洞川)。或時寺の小僧等此和尙に向ひ、法會の時天狗を連れ來り見せよと言ひしに連れ來る。尋常七八歲の子供數人にて、松の樹の上に遊び居る。是れ天狗なりと云ふ。子供の天狗は面白からず、大人の天狗を連れ來たれと云へば、それは難事なり、然し試むべしと云ふ。其翌年卽ち長島生駒山に居りし年の法會に彼和尙一人來る。貴僧は約束を忘れ天狗を連れ來たらざりしことよと云ふに、連れ來りてそこに有るではないかと護摩壇を指す。其方を見るに何も無し。何も無しと言へば、成程汝らに見えぬは尤も也とて、和尙自分の衣の袖をかざしてそれを隔てゝ見せしむ。長島等其袖を透して見るに、護摩壇の邊に天狗充盈す。確かには覺えねど(熊楠曰く、幽靈始めかゝる鬼形の物は皆見ても慥に覺えるを得ず)、頭は坊主で男女ありしやうなり。衣袈裟等尋常の僧に異ならぬ者多く、中には鼻至つて高きあり、其鼻は上の方へ又は下の方へ鉤りてあり。其常人と異ならざる者も、和尙の袖を透かさずに見れば一向見えぬにて天狗なることを知りしと云ふ。   (大正四年二月鄕硏第二卷第十二號)

[やぶちゃん注:「長島金三郞」「五十五歲なり。此人云ふ、十四の時」当該人物は不詳だが、数えであるから、生年は一八一六年で、万延元年十一月二十一日から万延二年を経て文久元年二月十九日から文久元年十二月一日までとなる。十四の年は一八三一年で、文政十三年十一月十八日から天保元年十二月十日から同二年十一月二十九日となる。

「生駒山」現在の奈良県生駒市菜畑町(なばたちょう)にある生駒山(やま/さん)。標高六百四十二メートルの生駒山地の主峰で、麓から奥の院まで持つ真言律宗生駒山寳山寺(ほうざんじ)で知られる。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「四月一日には大法會あり」現在も大護摩会式が修される。公式サイトのこちらを参照されたい。

「麕集」「きんしふ」。群がり集まること。

「前鬼の和尙さん」ウィキの「前鬼・後鬼」によれば、『「前鬼・後鬼」(ぜんき・ごき)は、修験道の開祖である役小角が従えていたとされる夫婦の鬼。前鬼が夫、後鬼が妻である』。『役小角を表した彫像や絵画には、しばしば(必ずではないが)前鬼と後鬼が左右に従う形で表されている。役小角よりは一回り小さい小鬼の姿をしていることが多い』。『名は善童鬼(ぜんどうき)と妙童鬼(みょうどうき)とも称する。前鬼の名は義覚(ぎかく)または義学(ぎがく)、後鬼の名は義玄(ぎげん)または義賢(ぎけん)ともいう』。『役小角の式神であったともいい、役小角の弟子とされる(実在性および実際の関係は不明)義覚・義玄と同一視されることもある』。『夫の前鬼は陰陽の陽を表す赤鬼で鉄斧を手にし、その名の通り』、『役小角の前を進み』、『道を切り開く。笈を背負っていることが多い。現在の奈良県吉野郡下北山村出身とされる』。『妻の後鬼は、陰を表す青鬼(青緑にも描かれる)で、理水(霊力のある水)が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多い。現在の奈良県吉野郡天川村出身とされる』。『前鬼と後鬼は阿吽の関係』にあるが、『本来は、陰陽から考えても、前鬼が阿(口を開いている)で後鬼が吽(口を閉じている)だが、逆とされることもある』。『元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた。役小角は、彼らを不動明王の秘法で捕縛した。あるいは、彼らの』五『人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えた』。二『人は改心し、役小角に従うようになった。義覚(義学)・義玄(義賢)の名は』、この時、『役小角が与えた名である。彼らが捕らえられた山は鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にある』。『修験道の霊峰である大峰山麓の、現在の下北山村前鬼に住んだとされ、この地には』二『人のものとされる墓もある。また、この地で(生駒山のエピソードと時間順序が矛盾するが)』、五『人の子を作ったと』されており、『さらに、前鬼は後に天狗となり、日本八大天狗や四十八天狗の一尊である大峰山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)になったともされている』とあって、天狗との相性が強い。ここで、この和尚がかく呼ばれるのは、山岳修験道の祖たる役小角の弟子の称号として、敬意を込めた通称であると考えられる。次の注も合わせて参照のこと。

「洞川」(どろかは)「の寺」「洞川は生駒山より十何里あるか知らず、兎に角遠方なり。吉野郡天川村」(てんかはむら)「大字洞川」現在もこの地名である。ここ。まさに、前の注に出る修験道のメッカの一つ大峰山(おおみねさん)寺がある。地図上に「女人結界門」が指示されてあるが、現在も女人禁制が守られている。ここから生駒山までは、直線でも五十キロメートルを超える。ウィキの「大峰山」を見ると、如何にも天狗の巣窟っぽい。

「充盈」「じゆうえい」。満ち満ちていること。充満。

「鬼形」「きぎやう」。

「鉤りて」「まがりて」。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」PDF縦書版公開

昨日、ブログで公開した「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」であるが、なまじっか、珍しく熊楠が引用漢文に訓点を打っているため、横書では却って本文が甚だ読み難い。そこで、今朝、PDF縦書版を作成し、サイト版として「心朽窩旧館」に公開した。こちらである。

2022/06/22

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年一月発行の『鄕土硏究』第二巻第十一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部の誤記を訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 太字は底本では傍点「○」である。

 「法苑珠林」の巻数は「卷九二」とあるが(「選集」も同じ。そのままにしておいた)、これは誤りで、巻第七十五が正しい。「十惡篇第八十四之三」の「邪婬部第六此別三部」の「感應緣【略引十二驗】」の中の「宋時弘農人感得冥婚怪」である。「漢籍リポジトリ」のこちらを用いて本文を校訂した。また、底本の訓点には不全な箇所が有意にあるため、それも独自に補正した。

本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。然し乍ら、訓点附き漢文が長々とあり、横書では甚だ読み難いため、本篇は特異的に後で縦書PDF版を成形して別に公開することとした。暫くお待ちあれ。

 

     河 童 の 藥 方

 

 此例夥しく柳田氏の山島民譚集の六頁已下に出居る。甲子夜話六五に、「訓蒙圖彙に、河太郞水中に在る時は小兒の如くにして、長さ金尺八寸より一尺二寸有り。本草網目云、水虎河伯」と。予は本草網目に水虎と河伯と一物として居るか否かを記臆せぬが、兎に角カツパを河伯の訛りとした說が古く有つたらしい。夜話續篇三五に、河伯の假面を圖し、日本紀や神名帳和名類聚鈔蜻蛉日記等を引き、本邦に古く河伯(和名加汲乃賀美)の崇拜あった由述べおる。蜻蛉日記に「はらからの陸奧守にて下るを、長雨しける頃、其下る日晴たりければ、かの國にかはくと云ふ神有りとて歌に云々」と序べて、かはく(河伯)を乾くの意に通はせた歌を出せるを見ると、其名を音讀して呼んだらしい。カツパは川童[やぶちゃん注:読みは「選集」を参考にするなら、「かはわつぱ」。]を縮めて成つた名か、其より早く河伯と云たのを後にカツパと訛たかは一寸分らぬが、カツパの俗說に支那の河伯の譚が多少混じ居る證據らしいのを見出だした故書付くる。法苑珠林卷九二に、搜神記を引て云く、宋時弘農華陰潼鄕陽首里人也。服シテ八石水道仙、爲河伯。幽明錄、餘杭縣上湘、湘中央ㇾ塘。有一人、乘リテㇾ馬。戲レニヰテ三四人、至岑村ㇾ酒。小シクヒテ。時炎熱。因ㇾ馬入水中ㇾ石。馬斷ツテ。從フモノ又悉ㇾ馬。至リテモㇾ暮不ㇾ反。眠覺ムルニ日已ハントスㇾ晡。不ㇾ見人馬。見一婦タルヲ。年可十六七、云女郞再拜シテ、日既ニ向ハントスㇾ暮。此間、大イニㇾ畏。君作ストヲカ。問ヒテ女郎ゾヤ。那ント相問スルヲ。復年少ノモノ、年可十三四、甚了了ト乄レリシキ。車後ヨリ二十人至。呼ビテゲテㇾ車、大人暫エント。因リテㇾ車而去。道中路駱驛トシテ、把火アリ、尋城郭邑、車、至ルニ便ㇾ城、進廳事。上信幡。題河伯。見一人年三十許、顏容如ㇾ畫クガ。侍衞繁多ニシテ、相シテ欣然タリ。勅ヒテ酒炙、僕有小女聰明タリ。欲セント箕帚。此人知リテㇾ神、敬畏ヘテ詎逆。便サニ郞中。承リテヘタリト。送絲布單衣及袷・絹裙・紗衫・褌・履屐。皆精好ナリ。又給十小吏・靑衣數十人。婦年可十八九、姿容婉媚ナリ。便リヌ。三日イニㇾ客ㇾ閤。四日ニシテ、禮既ㇾ限。當べシ二發遣一。婦以金甌麝香ヘテㇾ婿別泣洟而分。又與ヘテ錢十萬・藥方三卷、可シトㇾ功一ㇾ。復、十年ニ乄ベシト二。此人歸リテㇾ家、遂ヘテ、辭シテㇾ親出家道人。所ㇾ得三卷方者、一卷脈經、一卷湯方、一卷丸方ナリ。周ヒテ救療スルニ皆致神驗。後母老邁シテ兄喪。因リテリテシテ。龍樹大士が大乘經典を龍に獲、孫思邈が千金方の要素を涇陽の水府に得た樣な譚だ。右の文に據ると、司馬晋の頃は特殊の人が死して河伯となり得ると信じたらしく、此點は日本のカツパと違ふが、河伯の女が人と婚し得ると信じたのは、カツパが人間の婦女を犯す事有りと言うに近く、又藥方を傳ふる一件は河伯、カツパ相同じ。最も搜神記の河伯と異なり、日本のカツパは口や作例で傳へたのみで、書物を授けた事を聞ぬが、以前はカツパにも隨分小六かしい奴も有つたと見え、鞍馬の僧正坊の向ふを張つて兵法を人に傳へたのが有る。關八州古戰錄十四に、飯篠山城守家直入道長意は下總國香取郡の鄕士也、鹿伏刑部少輔より刺擊の法を傳授す、刑部少輔が先師は天眞正とて海中に住する河童といふ獸也、然れども、流義に於てはその名實を顯はさず、香取大明神の應身より傳授せりと詢へ來ると云へり云々。序に云ふ、四十年ばかり前迄は和歌山市で河童をドンガスと言ふ、カツパと云へば分らぬ人多かつた。亡母言く、大阪から下る人は此物を河太郞、江戶より移つて來た士族はカツパと呼ぶと。ドンガスは泥龜を訛つたのか。

     (大正四年一月鄕硏第二卷第十一號)

[やぶちゃん注:「此例夥しく柳田氏の山島民譚集の六頁已下に出居る」正確には原本本文の「五頁」以降と言うべきと思う。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」では、

『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(2) 「非類靈藥ヲ知ル」』に始まり、

『「河童駒引」(3) 「河童家傳ノ金創藥」(1)』

『「河童駒引」(4) 「河童家傳ノ金創藥」(2)』

『「河童駒引」(5) 「河童家傳ノ金創藥」(3)』

まで続く。

『甲子夜話六五に、「訓蒙圖彙に、河太郞水中に在る時は小兒の如くにして、長さ金尺八寸より一尺二寸有り。本草網目云、水虎河伯」と』事前にここで電子化注しておいたので、そちらを読まれたい。

「予は本草網目に水虎と河伯と一物として居るか否かを記臆せぬ」そちらで指摘した通り、「本草綱目」には「水虎」は立項されてあるが、「河伯」はなく、「水虎」を「河伯」とする記載自体もない。

「話續篇三五に、河伯の假面を圖し、日本紀や神名帳和名類聚鈔蜻蛉日記等を引き、本邦に古く河伯(和名加汲乃賀美』(かはのかみ)『)の崇拜あった由述べおる。蜻蛉日記に「はらからの陸奧守にて下るを、長雨しける頃、其下る日晴たりければ、かの國にかはくと云ふ神有りとて歌に云々」と序べて、かはく(河伯)を乾くの意に通はせた歌を出せるを見ると、其名を音讀して呼んだらしい」これも事前にここで電子化注しておいたので、そちらを読まれたい。

「法苑珠林卷九二」(冒頭注で述べた通り「卷七五」の誤り)「に、搜神記を引て云く、……」訓読する。

   *

 宋の時、弘農(こうのう)[やぶちゃん注:現在の河南省西部に位置する三門峡市・南陽市西部及び陝西省商洛市附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の馮夷(ふうい)は、華陰の潼鄕(とうきやう)陽首里(やうしゆり)の人なり。八石(はつこく)を服(ぶく)し、水道仙(すいだうせん)を得て、河伯となる。」と。[やぶちゃん注:八十斗もの丹薬を服用して、水界で仙人となる術を会得し、遂に水神河伯となった。]

 「幽明錄」に曰はく、

『餘杭(よかう)縣[やぶちゃん注:浙江省余杭区。]の南に上湘(じやうしやう)あり、中央に塘(つつみ)を作る。

 一人有り、馬に乘りて、看る。戲れに三、四人を將(ひき)ゐて岑村(しんそん)[やぶちゃん注:ここに現存する。この北にある堤が貫通する湖が上湘湖っぽい。]に至り、酒を飮む。少しく醉(ゑ)ひて、暮れに還らんとす。時に炎熱す。因りて馬より下(お)り、水中に入りて、石に枕して、眠る。馬、斷(なはた)ちて[やぶちゃん注:手綱を切って。]、走り歸る。從ふもの、又、悉(ことごと)く馬を追ふ。暮れに至りても、反(かへ)らず。眠覺(めざ)むるに、日、既に晡(ひぐれ)に向はんとす。人馬を見ず。

 一婦の來たるを見る。年十六、七許(ばか)りにして、女郞(ぢやらう)、再拜して云はく、

「日、既に暮れに向かはんとす、この間(あたり)、大いに畏るべし。君、何の計(けい)をか作(な)す。」

と。

 問ひて、

「女郞の姓は何ぞや。那(なん)ぞ、忽ち、相聞(さうもん)するを得ん。」

と。[やぶちゃん注:婦人が男子にぶしつけに声を掛けたことを咎めたものであろう。]

 復(ま)た、一(ひとり)の年少のものあり、年十三、四計り、甚だ了々として[やぶちゃん注:見るからに明晰な感じのする人物で、]、新しき車に乘れり。

 車の後(あと)より、二十人、至る。

 呼びて、車に上(あ)げて云はく、

「大人(だいじん)、暫く、相ひ見(まみ)えんと欲す。」

と。

 因りて、車を迴(めぐ)らして去る。

 道中の路(みち)、駱驛(らくえき)として[やぶちゃん注:人馬の往来などが絶え間なく続くさま。繁華な感じで。]、把火(たいまつ)あり[やぶちゃん注:つぎつぎと松明が点灯するのであろう。異界へのエントランスである。]。

 城郭・邑(むら)を尋ね、至るに、便(すなは)ち、城に入り、廳事(ちやうじ)[やぶちゃん注:役所。]に進む。

 上に信幡(しんぱん)[やぶちゃん注:官職名を印した旗。]有り。題して「河伯」と云ふ。

 一人を見る、年三十許り、顏容、畫(ゑが)くがごとし。

 侍衞、繁多にして、相ひ對して、欣然たり。

 勅して酒炙(しゆしや)を行ひて[やぶちゃん注:酒肴を勧めて。]、云はく、

「僕、少女、有り。乃(すなは)ち聰明たり。以つて、君が箕箒(きしう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「きしゅう」。妻となって仕えることを言う。元は塵取りと箒で妻の謙称。]に給(きふ)せんと欲す。」

と。

 此の人、

『神なり。』

と知りて敬畏して、敢へて詎逆(きよぎやく)[やぶちゃん注:逆らって反問すること。]せず。

 便ち、勅して、備(つぶ)さに辨(したく)して、郞中の婚に就かしめ[やぶちゃん注:この男の婚礼の仕度を部下に命じると。]、承りて、

「已に辨(ととの)へたり。」

と白(まを)す。

 絲布(しふ)[やぶちゃん注:絹。]の單衣(ひとへ)、及び、紗(しや)の袷(あはせ)、絹の裙(くん)[やぶちゃん注:ズボン。]、紗の衫(さん)[やぶちゃん注:上半身の下着。]、褌(こん)[やぶちゃん注:下半身の下着。]、履屐(りげき)[やぶちゃん注:履き物。]を送る。皆、精好なり。

 又、十の小吏[やぶちゃん注:家来。]、靑衣[やぶちゃん注:侍女。]數十人を給す。

 婦(つま)は年十八、九可(ばか)り、姿容、婉媚なり。

 便ち、成りぬ。

 三日の後(のち)、大いに、客を會(くわい)し、閤(こう)を拜す[やぶちゃん注:婿入りの披露がされた。]。

 四日にして曰はく、

「禮、既に限り有り。當に發-遣(おく)り去るべし。」

と。

 婦、金甌(きんおう)[やぶちゃん注:黄金の盆。]と麝香(じやかう)の囊(ふくろ)を以つて婿に與へ、涕泣して分(わ)かる。

 又、錢十萬、藥方(やくはう)三卷を與へて云はく、

「以つて、功を施し、德を布(し)くべし。」

と。復た、云はく、

「十年にして當に相ひ迎ふべし。」

と。

 此の人、家に歸りて、遂に肯(あ)へて別に婚せず、親を辭し、出家して、道人(だうじん)となる。

 得る所の三卷の方は、一卷は「脈經(みやくけい)」、一卷は「湯方(たうはう)」[やぶちゃん注:煎じ薬の処方。]、一卷は「丸方(ぐわんはう)」なり。

 周(あまね)く行ひて救療するに、皆、神驗を致す。

 後に、母、老邁
(らうまい)となり、兄、喪(さう)す。因りて、還りて婚して宦(くわん)せり。』と。[やぶちゃん注:最後は母が年老いた上、家を継ぐべき兄が亡くなったので、実家に帰り、妻を貰い、役人にもなった、という中国の小説の御約束の文末である。十年後に河伯の後継ぎとして迎えるという話はどうなったかと訝る無かれ。異界の時間は人間界とは異なり、遙かに長い。ずっと後に主人公の男は仙化して、懐かしい河伯の娘の所へ還って行くのである。]

   *

この「幽明錄」は「世説新語」の撰者として知られる劉義慶(四〇三年~四四四年:南朝宋の皇族で臨川康王。武帝劉裕は彼の伯父)の志怪小説集。散逸したが、後代のかなりの諸本の採録によって残った。なお、引用元の「搜神記」は六朝時代、四世紀の晋の干宝(?~三三六年)の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る。「幽明録」と比較したが、殆んど忠実に引いてある。なお、頭の短い話は、確かに「搜神記」の以上の話の直前に置かれてあるのと似た話なのであるが(但し、そこでは馮夷は八月上庚の日に黄河を渡ろうとして溺れ死に、それを見た天帝は彼を河伯に任命した云々という話になっている)、「宋」というのは六朝時代の南朝の最初の王朝である宋(四二〇年~四七八年)だが、これは著者干宝の百年近く後の時代であるから、後人によって混入されたものであり、史料的価値ががっくり下がることに注意されたい。

   *

「龍樹大士」龍樹は二世紀に生まれたインド仏教の僧。サンスクリットの「ナーガールジュナ」の漢訳名。当該ウィキによれば、『天性の才能に恵まれていた龍樹は』、『その学識をもって有名となった。龍樹は才能豊かな』三『人の友人を持っていたが、ある日』、『互いに相談し』、『学問の誉れは既に得たから』、『これからは快楽に尽くそうと決めた。彼らは術師から隠身の秘術を得、それを用い』、『後宮にしばしば入り込んだ』。百『日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた。この事態に驚愕した王臣たちは対策を練り』、『砂を門に撒き、その足跡を頼りに彼らを追った衛士により』三『人の友人は切り殺されてしまった。しかし、王の影に身を潜めた龍樹だけは惨殺を免れ、その時、愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、もし宮廷から逃走することができたならば』、『出家しようと決心した』。『事実、逃走に成功した龍樹は山上の塔を訪ね受戒出家した。小乗の仏典をわずか』九十『日で読破した龍樹は、更なる経典を求め』、『ヒマラヤ山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた。これを学んだ後、彼はインド中を遍歴し、仏教・非仏教の者達と対論し』、『これを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないところがあるから』、『仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えた』。『しかしマハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の龍宮に連れて行って』、『諸々の大乗仏典を授けた。龍樹は』九十『日かけて』、『これを読破し、深い意味を悟った』とある。

「獲」「え」。

「孫思邈」(そんしばく 五八一年或いは六〇一年~六八二年)は隋から唐にかけての医家。孫真人(そんしんじん)とも称される。七歳の時から学問を始め、二十歳頃には、老子・荘子や百家の説を論じ、合せて仏典も好んだ。陰陽・推歩(天文・暦算)・医薬に精通していた。太白山に隠居し、隋の文帝や唐の太宗・高宗が高位を約して招いたが、受けなかった。著書「備急千金要方」(ここに出る「千金方」に同じ)の自序に、「幼時に風冷にあい、たびたび医者にかかり、家産を使い果たした。ゆえに学生のときから老年に至るまで医書を尊び親しんでいる。診察・薬方などを有識者に学び、身辺の人や自身の疾病を治すようになった。薬方や本草を学ぶのはよいが、薬方書は非常に多く、緊急時に間に合わない。そこで、多くの経方書から集めて簡易につくったものがこの三十巻である。人命は貴く、千金の価値がある」と書いている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。さて、サイト「道院 日本総院」の彼の記載によれば、『ある日、牧童に傷つけられ』、『血を流す小蛇を見つけ』、孫『真人は衣を脱ぎ、小蛇を救った。その後、十日ほど外出した時のこと、白衣の一少年が下馬し』、『孫真人に拝謝し、「我が弟を道者(孫真人)が蒙し(傷を覆い)、救われました。家に招待いたします。我が馬を使い、皆で早く行きましょう」と述べる。そして城郭につくと、王の住まいの如くであった。絳(深紅)衣を着た人が出迎え、謝して曰く「あなたの手当てに深く感謝します。故に息子を迎えに行かせました」と。一人の青衣の子供を指して曰く「あなたが救った子です。牧にて傷を作り、それにより衣を脱ぐことで、贖い救われ、不死を得るのです」と述べ、青い衣の子に拝謝をさせた。真人は初めて今回のことを悟った。周りを窺うと、涇陽の水府(水神や龍神の宮殿)にいることを知り、三日』、『居した。絳衣』(こうい:深紅の衣服)『の王が軽綃(絹)、金珠を真人に送るが』、『受け取ることはなかった。乃ち』、『その子に命じ、龍宮の奇方(奇なる漢方)三十首を送り、「是を以て、道者(孫真人)は世と人を救うことができる」と。真人は帰り、たびたびこれを試すと』、『皆』、『効があった。のちに著作「千金方」』にその処方が記されてある旨の記載がある。

「司馬晋」この場合は、先の「幽明録」の作者の生没年から、東晋(三一七年~四二〇年)を指しているようである。東晋は司馬炎が建国した西晋王朝(二六五年~三一六年)が劉淵の漢(後の前趙)より滅ぼされた後、西晋の皇族であった司馬睿(えい)によって江南に建てられた。

「藥方を傳ふる一件は河伯、カツパ相同じ」私は河伯≠河童説に立つが、う~ん、こういわれると、確かにその辺りは似てはいるなぁ。……

「鞍馬の僧正坊」牛若丸に剣術を教えたという伝説で知られる鞍馬山の奥の僧正ヶ谷に住むと伝えられる大天狗。

「關八州古戰錄」江戸時代の軍記物。享保一一(一七二六)年成立。全二十巻。著者は槙島昭武。参照した当該ウィキによれば、『戦国時代の関東地方における合戦や外交情勢について記されており』、天文一五(一五四六)年の「河越夜戦」から天正十八年の『後北条氏滅亡までの関東における大小の合戦を詳細に扱っている』とある。

「飯篠山城守家直入道長意」「いひざきやましろのかみいへなほにふだうながおき」。下総国香取郡飯笹村(現在の千葉県香取郡多古町(たこまち)飯笹(いいざさ))から起こった千葉氏の族で、室町中期に起こった香取神刀流始祖。

後に名乗りを「伊賀守」に改めており、入道名は飯篠長威斎(ちょういさい)。「長意」は本名で、法号はその音に漢字を当てて作ったものであろう。

「下總國香取郡」旧域は当該ウィキの地図を参照されたい。

「鹿伏刑部少輔」「かぶとぎやうぶせういう(かぶとぎょうぶしょういう)」。実際に前記の飯篠の師とする説がある。

「刺擊」「しげき」。「突き」を主体とした武術。香取神刀流は剣術・居合・柔術・棒術・槍術・薙刀術・手裏剣術等に加え、築城・風水・忍術等も伝承されている総合武術で、甲冑着用を想定した形が多く見られ、斬り突きでは、甲冑の弱点である首・脇・小手の裏などを狙う、と当該ウィキにある。

「天眞正」「選集」の表記を参考にすると、読みは「てんしんしやう」である。

「應身」「わうじん」。本来は仏語。仏が衆生を教化するために現れる身体。仏・菩薩などの人の目に見ることの可能な仏身を指す。

「詢へ」「となへ」。

「ドンガス」「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに「ドンガス」(河童絡みらしく、薬方との関係もある)がある。大阪市中央区での採取。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷之三十五 5 河神靈面圖

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し(カタカナのそれは珍しい静山の振ったルビで、本篇には異様に多い)、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミングして適切と思われる位置に挿入した。下線は底本では二重右傍線である。]

 

35―5 河神靈面圖

 この春【庚寅[やぶちゃん注:文政一三(一八三〇)年。]。】も亦、與淸《ともきよ》の贈《おくる》に、

【火災・水難、祓除《はらひのぞく》。】河神靈面眞圖【武藏國多麻郡高畑不動尊別當金剛寺盛雅開眼《かいげん》。】。

 

Kasinkimen

[やぶちゃん注:この彫琢された河神霊面は現存しないようである。]

 

 諾樂(ナラ)西藥師寺は、天武天皇白鳳九年[やぶちゃん注:私年号(「日本書紀」に現われない元号)で六八〇年。]に創建たまひしより、後奈良院天皇享祿二年[やぶちゃん注:一五二九年。]まで、囘祿(ヒノワザハヒ)に罹(カヽ)れること、三度(ミタビ)なれど、天武の時の東塔(トフタフ)、長屋王(ナガヤノオホキミ)の建立(タテ)られし東金堂(トウコンダウ)【東禪院堂といふ、これ也。】及(マタハ)、佛足石碑は、災(ヒ)に免(マヌカ)れて、往昔(ムカシ)のまゝなるぞ、奇(クス)しく妙(タヘ)なるや。此東金堂の天井(テンジヤウ)の上(ウヘ)に、古き彫物(ヱリモノ)など、多く存(ノコ)れる中、鬼(オニ)神の假面(メン)ありとて、護法院の密道法師がおこせたるをみれぱ、水火の難(ナン)を祓除(ハラヒノゾク)といへる河伯《かはく》の古面(フルキカタ)なりけり。

 河伯、又は、河神《かはのかみ》といふ。

 「神代記」【上卷。】に、伊弉册尊(イザナミノミコト)川を生(ウミ)たまふとある、これ也。「仁德記」【十一年四月の條。[やぶちゃん注:機械換算で三二三年。]】に、「河伯」とも、「河神」とも書き、「神名帳《じんみやうちやう》」【下卷・「陸奧國」「亘理(ワタリ)《の》郡《こほり》」の部。】に、阿福麻河伯神社(アフクマノカハノカミノヤシロ)、「倭名類聚抄」【寶生院本・「神靈」の部。】〕に、「兼名苑」云、『河伯、一名水伯、河ナリ也【和名「加波乃賀美(かはのかみ)」。】など、みゆ。「蜻蛉日記」【附錄。】には、

はらがら(同腹兄)[やぶちゃん注:「はらがら」に対する静山に左ルビ。以下、同仕儀。]の陸奧守(長能《ながとう》)にてくだる(下向)を、長雨しけるころ(頃)、そのくだる(其下)日、はれ(晴)たりければ、かの(彼)國に「かはく(河伯)」といふ神ありとて、歌に、

〽わがくにの神のまもり(守)やそへ(添)りけんかはくけありし天つ空かな(指陸奥國)【藤原長能。】

返し、

〽かく(斯)ぞしる(知)かはく(河伯)ときけ(聞)ば君がためあまてる(天照)神の名にこそ有けれ【右大將道綱母。】

とも、よめり。

 「壒囊抄《あいなうしやう》【十の卷。】に、毘沙門(ビシヤモン)の鎧前(ヨロヒノマヘ)の鬼面(オノニメン)は河伯(カハク)面にて、大國(タイコク)の鎧具(グ)なり。佛師がカハヌといふも、河伯面(カハメ)を誤(アヤマ)れる歟(カ)。秦皇の裝束にもありて、オビクヒとよぶ。字(モジ)は「帶食」「帶頭」など、書けり。河伯は「抱朴子」・「靑金傳」などに出て、花陰潼鄕《くわいんとうきやう》の馮夷《ひようい》といふ者(モノ)、八月上《じやう》庚《かのえ》の日、河に溺死(オボレシニ)たるを、天帝、署(シル)して、「河伯」とせるよし、論(アゲツラヒ)たり。

 「魚龍河圖《ぎよりゆうかと》」【「史記」、「封禪書《ほうぜんしよ》」所ㇾ引。】・「搜神記」・「西溪叢語」・「下學集」などの說、はた、鄰(チカ)し。

 「淮南子《えなんじ》」【「氾論訓《はんろんくん》」。】には、河伯、人を溺死(シナ)しむるゆゑ、羿(ゲイ)、その左目を射(イル)といひ、「漢書」【「王尊傳」。】・「穆天子《ぼくてんし》傳」・「易林」・「續博物志」などをはじめて、所見、擧(アグル)に遑(イトマ)なし。

 花陰潼鄕隄首《ていしゆ》人にて、姓(ウヂ)「呂」、名「公子」。夫人「馮」、名夷とも。又、一人にて、姓「馮」、名「夷」、字「公子」ともいひ、「水仙」と號(ナヅク)とも、いへり。

 さて、此古面、千百餘年の神靈の物なれば、八月初(ハジメ)の庚日(カノエノヒ)、酒漿《しゆしやう》を捧(サヽゲ)て祭る人、必(カナラズ)、水火(ヒミヅ[やぶちゃん注:ママ。])の災難(ワザハヒ)を免(マヌカ)るゝこと、「易林」・「續博物志」の說にて、疑(ウタガヒ)なし。文政十二年[やぶちゃん注:一八二九年。]八月上庚九日、江戸松屋主人小山田與淸識。

■やぶちゃんの呟き

「與淸」「江戸松屋主人小山田與淸」国学者・故実家であった小山田与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)。号は松屋 (まつのや) 。江戸の高田氏の養子となり、漕運業を営み、後に隠居して小山田の本姓に復し、学問に専念した。村田春海門下であるが、漢籍にも造詣が深く、博覧を以って知られ、特に考証に力を尽した。蔵書五万巻に及び、「群書捜索目録」の編纂に心血を注いだ。平田篤胤・伴信友とともに春海・加藤千蔭以後の大家と称される。「考証随筆松屋筆記」(文化末年(一八一八)頃から弘化二年(一八四五)頃までの約三〇年間に和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在知られているものは八十四巻)は著名(概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「武藏國多麻郡高畑不動尊別當金剛寺」東京都日野市高高幡にある真言宗智山派別格本山明王院金剛寺(グーグル・マップ・データ)。「高幡不動尊」の通称で知られる。本尊は大日如来。大学生の時に訪ねた。平安時代後期の木造不動明王及び二童子像(向かって右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)。左に制吒迦童子(せいたかどうじ)が脇侍)が重要文化財。不動堂のそれは当時の私が見惚れるほど素晴らしかった。但し、実物は奥殿にある。不動堂のものはレプリカなので注意。公式サイトの不動三尊の画像のあるページをリンクさせておく。

「盛雅」恐らくは当時の、同寺の第二十七貫主。

「天武の時の東塔(トフタフ)」事実、薬師寺東塔は創建当初から回禄などを受けず、唯一現存するもので、平城京最古の建造物とされて今にある。参照した公式サイトのページをリンクさせておく。

「長屋王(ナガヤノオホキミ)の建立(タテ)られし東金堂(トウコンダウ)【東禪院堂といふ、これ也。】現行では「東院堂」と呼ばれている。養老年間(七一七年~七二四年)に長屋王正妃であった吉備内親王が、母の元明天皇の冥福を祈って建立したもの。但し、後の弘安八(一二八五)年に正面七間・側面四間の入母屋造本瓦葺で南向きに再建され、また、建造物全体を享保一八(一七三三)年に西向きに変えている。鎌倉後期の和様仏堂の好例とされる。参照した公式サイトのページをリンクさせておく。

「佛足石碑」「仏足石」は側面の銘文により、天平勝宝五(七五三)年に作られたことが判明している。古代の仏足跡は例が少なく、この薬師寺仏足石は現存する最古の仏足跡とされる。「仏足跡歌碑」は『奈良時代に彫られた歌碑で、仏足跡への賛歌や仏教道歌』二十一『首刻まれてい』る。無論、仏足跡歌は「五七五七七七」の一首三十八文字から成る「仏足跡歌」体で詠まれているが、『この歌体は』この『仏足跡歌碑のほか』には「古事記」・「万葉集」などに『数点のこるだけで、極めて貴重で』、二十一『首はすべて万葉仮名で書かれ、奈良時代の人びとの信仰と文化の高さを今に伝えてい』るとある。孰れも国宝。参照した公式サイトのページをリンクさせておく(仏足石及び歌碑の写真もある)。

「護法院の密道法師」不詳。現在の薬師寺の塔頭にはこの名はない。

「神名帳」神社名・神名を記した名簿。「しんめいちやう」と読んでもよい。公的には特に延喜式」の巻九・巻十に載せる「神名式」の上・下を「延喜式神名帳」と呼ぶ。律令制下の官社を国・郡毎に挙げて、社格(大社・小社)・祭儀の種類を記す。二千八百六十一社・三千百三十二座に及び、記載される神社は「延喜式内社」(式内社)と呼ばれる。早く中世には写本が作られ、研究が始まっていた。

『「陸奧國」「亘理(ワタリ)《の》郡《こほり》」の部。】に、阿福麻河伯神社(アフクマノカハノカミノヤシロ)」国立国会図書館デジタルコレクションの昭和四(一九二九)年大岡山書店刊の皇典講究所・全国神職会校訂「延喜式」上巻(全二巻)の「卷十 神祇十 神名下」のここに、『安福河伯神社』とある。安福河伯神社として、宮城県亘理郡亘理町(わたりちょう)逢隈田沢(おおくまたざわ)字(あざ)堰下(せきした)に現存する。ここ当該ウィキによれば、主祭神は速秋津比売神(はやあきつひめのかみ:水神)とし、景行天皇四一(機械換算一一一)年八月六日、『日本武尊により勧請されたと伝わる。清和天皇の御世の貞観』四(八六二)年六月二十五日に『官社に列し、正五位上を授けられた。往古は旧田沢村一円が神領地に指定されていたが、天正時代に戦乱が相次いだ影響で神領地は廃絶した』。『境内の由緒書によれば、安福河伯神社は阿武隈川の治水用水・大和朝廷の北辺守護のために創建されたという。創建当初は、現在の鎮座地から東の逢隈田沢字宮原の阿武隈川のそば(常磐線の線路の西』二百メートルの『堤防下)に鎮座していた。その後、現在の鎮座地である水上山の上へ遷座されたという』。『代々の領主からも篤く崇敬され』、『寄進が行われた』とある。

『「倭名類聚抄」【寶生院本・「神靈」の部。】〕に、「兼名苑」云ク、『河伯、一名ハ水伯、河ノ神ナリ也【和名「加波乃賀美(かはのかみ)」。】』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の版本で起こす。二十巻本の巻二の「鬼神第五」「神靈類第十六」の以下である。

   *

河伯(カハノカミ) 「兼名苑」に云はく、『河伯、一(いつ)に「水伯」と云ひ、河の神なり【和名「加波乃加美(かはのかみ)」。】』と。

   *

『「蜻蛉日記」【附錄。】』これは右大将藤原道綱の母の「蜻蛉日記」本文とは全く別のもので、彼女の没後十年前後の寛弘年間(一〇〇四年~一〇一二年)に作者に所縁のある人物によって日記以外の歌を伴う断片が集められたもので、成立後に、誰かの手によって(例えば藤原定家辺りか)「日記」本文に附録されたものである。

「はらがら」親族の同胞(はらから)。

「陸奧守(長能《ながとう》)藤原長能」不審。小山田与清の附したものであろうが、所持する岩波「日本古典文学大系」版(一九五七年刊)の鈴木知太郎氏の頭注によれば、実は本当に長兄長能かどうかは実は判っていない。今一人の次兄理能(まさとう)の孰れかであるが、二人の任官は孰れも陸奥守ではなかったからである。

『かの(彼)國に「かはく(河伯)」といふ神あり』先の安福河伯神社を指す。

「指陸奥國」「陸奥(みちのく)の國を指して云ふ」。

「〽わがくにの神のまもり(守)やそへ(添)りけんかはくけありし天つ空かな」「かはく」は「河伯」に晴れ渡った門出を言祝ぐ「乾く」を掛けたもの。

「〽かく(斯)ぞしる(知)かはく(河伯)ときけ(聞)ば君がためあまてる(天照)神の名にこそ有けれ」鈴木氏の頭注に、『阿武隈の河伯の神は、君にとって天照る御神にもあたるあらたかな神の名だ。』と通釈がある。

「壒囊抄」「塵添壒囊鈔」(じんてんあいのうしょう)。単にかくも呼ぶ。十五世紀室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書。同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻十の「十七」条「毘沙門ノ鎧のノ前ニ。鬼面アリ。其名如何」である。そこでは痘瘡の流行にニラとネギとを食すことで効果があった旨の記載がある。小山田は後半に考証を認めずに記していないが、最後に、『或書云。河伯面是海若(アマノシヤク)云』とあって、河伯と天邪鬼の連関性を言う説が既にあったことが判り、興味深い。

「抱朴子」晋の道士で道教研究家の葛洪(かつこう 二八三年~三四三年)の書いた神仙思想と煉丹術に関する彼の著になる理論書。

「靑金傳」不詳。

「花陰潼鄕」「隄首」「花陰」縣は現在の陝西省内だが、以下の地名は不詳。

「馮夷」中国の神話にみえる水神。冰夷とも記す。「山海経」の「海内北経」に『馮夷は人面にして兩龍に乘る』と見え、人面魚身の河伯が黄河の神であるのに対し、馮夷は竜形の神である。司馬相如の「大人賦」(たいじんのふ)、曹植の「洛神賦」に女媧(じょか)と並称され、また郭璞(かくはく)の「江賦」に、江妃と男女神とされることもあり、南方の水神である。女媧と並称されるのは、伏羲(ふっき)から分化した水神であろう。「荘子」の「大宗師篇」には、道を得て大川に遊ぶもの、とされている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「八月上庚の日」旧暦八月の最初に「庚」となる日。

『「魚龍河圖」「ぎよゆうかと」【「史記」、「封禪書」所ㇾ引。】』原本は失われているようである。「封禪」は中国古代に帝王が行なった報天の祭儀で、最重要の秘儀とされた。「封」は天を祀る儀式で、泰山の上に土壇を設えて行い、「禪」は地神を祀るもので、麓の地で成された。秦の始皇帝が紀元前二一九年に泰山に於いて始皇帝が執行したのが始まりとされ、漢の武帝、後漢の光武帝、魏の明帝、唐の玄宗、宋の真宗ら多くの帝王によって盛大に営まれている。封禅の意義は、当初は山神・地神に不老長寿や国運の長久を祈願するところにあったが、莫大な国費を投じて行われる国家的祭儀であったため、後には、次第に帝王の威武を誇示する政治的な祭儀へと形を変えていった(主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「搜神記」四世紀の東晋の干宝が著した志怪小説集。

「西溪叢語」南宋の姚寛の随筆。

「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的は、その語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「淮南子」本邦の学者間では「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。

「羿(ゲイ)」中国古代神話の伝説中の弓の名人。「春秋左氏伝」によると、夏王から支配権を奪って有窮国(現在の山東省地方)に君臨した羿は、狩猟に耽溺して悪政を敷いたため、家臣に殺されたとする。しかし「淮南子」では、堯帝の時、十個の太陽が同時に出たため、地上が炎熱の世界となったので、堯の命を受けた羿は、そのうちの九個を射落としたとする。また、「山海経」によれば、羿は天帝の命令によって怪物を退治するなど、民衆の苦しみを救ったとある。元来、東方民族の英雄神であったものが、後の中原(ちゅうげん)の神話の中で、巧みな弓を奢って狩猟に溺れた悪徳君主として姿を変えたものであろう。他に仙女西王母から与えられた不死の薬を、妻の恒娥に盗まれたという別伝承もあり、羿神話の体系化は困難である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「王尊傳」王尊(生没年不詳)は前漢の官僚。当該ウィキを読まれたいが、そこに紀元前二十七年頃、東郡太守であった時、『黄河で大水があり、東郡でも害を成していた。王尊は河の神を祀り、自分の身をもって洪水を鎮めようとした。民や役人が王尊を止めても』、『王尊は去ろうとせず、堤防が決壊しそうになっても微動だにしなかったが、水は次第に引いていった。この功績で王尊には中二千石の秩と黄金が与えられた』とあるのが、その記事であろう。

「穆天子傳」当該ウィキによれば、周の穆王の伝記を中心とした全六巻から成る歴史書。「周王遊行」とも呼ばれる。穆王在位五十五年間の南征北戦(外征)について詳しい。その記録は崑崙山への九万里の西征で西王母と会い、帰還後は盛姫という美人に対する情愛についての記録で終わっている。「春秋左氏伝」の歴史記述様式と異なり、穆王を中心とした描写風の随筆になっている、とある。

「易林」「焦氏易林」か。前漢の宣帝(紀元前八十年)の頃に易学者の孟喜(もうき)が「周易」に暦を配置し、弟子の焦延壽(しょうえんじゅ)が「周易」の六十四卦を累乗発展させて「四千九十六卦」とした。一卦ごとに四言絶句の詩を当てて、約七万四千字なったものがそれである(サイト「綾小路 蘭堂先生」のこちらに拠った)。

「續博物志」宋の李石が、晋の張華が著した幻想的博物書「博物志」に倣って、諸種の異聞を集め、天象・地理等の順に分類配列した書。

「八月上庚九日、江戸松屋主人小山田與淸識」与清、お洒落だねぇ!

2022/06/21

フライング単発 甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。四図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミング補正して適切と思われる位置に挿入した。]

 

65-5 福太郞の圖

 先年、領國に、あやしき版施《はんせ》のものを到來す。後、思ひ出《いで》て、是を尋索《たづねもとむ》るに、有る處を審《つまびらか》にせざりしが、この頃【乙酉《きのととり》[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年]。】、ふと篋裡《けふり》よりその故紙を獲《え》たり。その圖。

 

Kappagohu

[やぶちゃん注:護符に記されたそれは「水難除」(すいなんよけ)・「福太郎」・「疱瘡除」(はうさうよけ)。「疱瘡」は天然痘。頭部がもっさりと髪で覆われている。身体はミイラに近い感じである。]

 

 前圖に小記を添ふ。最《もつとも》鄙文《ひぶん》なれど、其旨《むね》を述ぶ。

「訓蒙圖彙」に云《いはく》、『川太郞。水中に有時は小兒の如くにして、長《た》け金尺《かねじやく》八寸より一尺二寸あり。「本草綱目」云、『水虎。河伯。』。

 出雲國に「川子《かはご》大明神」といふ。豐後國には「川太郞」。山國には「山太郞」【「山」の下、「城」の字を脫するか。】。筑後國には「水天狗」。九州には「川童子《かはどうじ》」。

 これ、恩返しに福を授く。因て「福太郞」と謂ふ。抑《そもそも》その由來は、相州金澤村の漁者重右衞門の家に持傳《もちつたへ》たる箱に、「水難・疱瘡のまもり」と記し有て、そのまゝ家内に祭り置くに、享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]五月十五日夜、重右衞門の姊、夢中に童子來り、

「我、この家に年久しく祭らるれども、未だ能く知る者なし。願くは、我が爲めに一社を建給るべし。然らば、水誰・疱瘡・麻疹《はしか》の守神として應護あらん。」

と見へて、忽《たちまち》、夢、覺《さめ》たり。姊、訝《いぶか》しく思ひ、親類に告《つげ》て相集り、共に箱を啓《ひら》き見るに、異形のもの、あり。面《おもて》は猿の如く、四支に水かきありて、頭には凹《くぼ》かなる所あり。因て、前書の說にきわめ、夢告の故を以て、「福太郞」を稱す。後、又、某侯の需《もとめ》にて、その邸《やしき》に出《いだ》すに、某侯にも同物ありて、同じく夢告により、「水神」と勸請し、江都、その領國に於《おいて》も、屢々、靈驗ありとぞ。又、云《いはく》、今、この祠を建立に因て、「水神」と唱ふ。信心の輩は、この施版《せはん》を受《うけ》て、錢《ぜに》十二孔《こう》を寄せんことを請ふ。

  南八丁堀二丁目自身番向《むかひ》    丸屋久七

 又、この後に圖を附す。是は他人の添《そへ》る者なり。これも亦、こゝに載す。

 

Kappa31

[やぶちゃん注:以上の図にはキャプションがあり、「長ケ三尺」(約九十一センチメートル)・「重サ拾六貫目」(六十キログラム)とある。]

 

Kappa32

 

Kappa33

 

【重さ、圖の所記、信じ難し。されども、第十卷に記する、室賀氏の僕、辨慶堀にして岡へ引上んと爲《せ》しに、その力、盤石の如くにして、少も動かずと云へば、重さの如ㇾ此《かくのごとき》も、誣《しふ》ベからず[やぶちゃん注:「ありもしないことを事実のように言っていると断ずることは出来ぬ」の意。]。又、この圖を以て見れば、第三十二卷に所出の河童の圖は眞寫にして、全く一物のみ。この圖は甚《はなはだ》拙《つたな》し。】

 總じて、川童の靈あることは、領邑《りやういふ》などには、往々云《いふ》ことなり。予も先年、領邑の境村にて、この手と云《いふ》物を見たり。甚だ猿の掌に似て、指の節、四つありしと覺ゆ。又、この物は、龜の類《たぐひ》にして、猿を合せたる者なり。

 或は、

「立《たち》て步することあり。」

と云。

 又、鴨を捕るを業《なりはひ》とする者の言を聞くに、

「水澤《みづさは》の邊《あたり》に窺居《うかがひゐ》て見るに、水邊を步して、魚貝を取り、食ふ。」

と。又、

「時として、水汀《みぎは》を見るに、足跡あり。小兒の如し。」

と。

 又、漁者の言には、

「稀に網に入ること、あり。漁人は、この物、網に入れば、漁獵なし迚、殊に嫌ふことにて、入れば、迺《すなは》ち、放捨《はなちす》つ。網に入《いり》て擧《あが》るときは、其形、一圓、石の如し。是は藏六の體《てい》なればなり。因て、廼ち、水に投ずれば、忽《たちまち》四足・頭尾を出《いだ》し、水中を行去《ゆきさ》ると。然れば、全く龜類なり。

■やぶちゃんの呟き

「版施」御札として施される刷られたもののことであろう。

「訓蒙圖彙」儒学者・本草学者中村惕斎(てきさい 寛永六(一六二九)年~元禄一五(一七〇二)年:京の呉服屋の子。店が零落しても意に介さず、学問に専心し、ほぼ独学で朱子学を修めた)によって寛文六(一六六六)年)に板行された図入りの類書(百科事典)。しかし、ネット上で異なる原本を三種見たが、以下の文字列は遂に見出せなかった。「~訓蒙圖彙」という似たようなものは後に複数出ているが、それらも管見した限りでは、見出せなかった。不審。

『「本草綱目」云、『水虎。河伯。』』とあるが、明の李時珍(一五一八年~一五九三年)の「本草綱目」(一五七八年に完成したが、板行は作者の死から一三年後の一五九六年であった)には「水虎」は出るが、「河伯」は出ない。「水虎」は巻四十二の「蟲之四」の「溪鬼蟲」の項の「集解」の末尾に出、それを説明するために直後の「附錄」に載る。「溪鬼蟲」というのは、正体不明の怪虫で、容易にはモデル生物(或いは、何らかの人体に有害で、時に致命的に作用する「現象」と言うべきかも知れない。当初、私はフィラリア症を考えていたが、それでは総てを説明し難い)を同定出来ない。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈」の私の注を読まれたい。その初出部分は、

   *

又、「水虎」あり。亦、水狐の類(たぐひ)なり。「鬼彈」有り、乃(すなは)ち、溪毒の類なり。葛洪(かつこう)が所謂(いはゆ)る「溪毒」なり。射工(しやこう)に似て、而して無物の者、皆、此の屬なり。並びに之れを附す。

   *

とあって、以下に続いて「水虎」と「鬼彈」が略述される。

   *

附錄水虎【時珍曰はく、「襄沔記(じやうべんき)」に云はく、『中廬縣に涑水(そくすい)有り、「注」に『沔中(べんちゆう)に、物、有り、三、四歲の小兒のごとく、甲(かふら)、鱗鯉(せんざんかう)のごとし。射(い)るも、入(い)る能はず。秋、沙の上に曝(さら)す。膝頭(ひざがしら)は虎の掌(てのひら)の爪に似て、常に水に沒す。膝を出だして、人に示す。小兒、之れを弄(もてあそ)べば、便(すなは)ち、咬(か)む。人人、生(しやう)にて得る者(もの)、其の鼻を摘(つま)みて、小小、之れを使ふべし。名づけて「水虎」と曰ふ。】

   *

この形状と最後の部分の意味不明さで、私が一筋縄ではいかないと言っている理由がお判りだろう。なお、「河伯」はしばしば河童のルーツのように言われるが、私は全く関係ないと考えている(九州の河童伝承には河伯との意味付けがなされてあるものがあるが、私は後付けと疑っている。本邦の河童伝承は中国の河伯などとは形態も属性も異なっている)。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『中国の神話にみえる北方系の水神』。「山海経(せんがいきょう)」の「大荒東経」に、『殷の王亥が有易(狄(てき))に身を寄せて殺され、河伯も牛を奪われたが、殷の上甲微が河伯の軍をかりて滅ぼした。そのことは』「楚辞」の「天問」篇にも『みえ、殷と北狄との闘争に河伯が殷に味方したことを示す。卜辞に河の祭祀をいうものが多く、五十』もの『牛を犠牲』(いけにえ)『として沈めることがあり、水神と牛との関係が注意される』「楚辞」の「九歌」篇にある「河伯」は、『その祭祀歌である』とある。当該ウィキによれば、「河伯」は中国音「ホーポー」で、『中国神話に登場する黄河の神』とし、『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こす』。『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)によ』って、『左目を射抜かれた』とある。而して、『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり』、『河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六『世紀末から』七『世紀にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この』ことから、『研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』とある。というのを読んでも、私の無関係説は変わらない。悪しからず。

『出雲國に「川子大明神」といふ』現在の島根県仁多郡奥出雲町下阿井にある河童伝承のある川子神社である。「奥出雲町」公式サイトの「奥出雲町遺産 第1回認定」の「【遺産認定No4】川子神社と河童伝説(推薦:阿井地区川子原自治会)」に、『川子神社は、古来より玉日女命』(たまひめのみこと:当該ウィキによれば、「出雲国風土記」にのみ見られる神名で、『仁多郡の条に』ただ『一度だけ登場する』神名とある)『を祭神とし、古老の伝えによれば、阿井川の下流よりワニが恋い慕って登ってくるので、困った玉日女命が大きな石を投げ込み塞ぎ、現在地にお座りになったという伝説を残しています。また、有名な伝説に河童伝説があります。その昔、川子原の竜が淵にカワコ(河童)が棲んでおり、馬を淵の中へ引きずり込もうと馬の尻尾をつかんだが、馬の力にかなわず』、『長栄寺』(ここ)『の境内まで引きずられていったという。カワコは頭の皿の水も少なくなり、和尚さんに簡単に捕まり、「私が悪かったです。命だけは助けてください」と一生懸命に頼んだので、和尚さんは、「そんなに頼むなら許してやろう。だが、竜が淵の岩に文字を刻みつけ、その文字が消えるまでは決して悪さをしてはならないぞ」といって、淵に逃がしてやりました。それ以来、カワコは姿を見せなくなったと伝えています。興味深い伝説を残す神社として地域で親しまれています』とある。

「川太郞」「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「かはたらう 川太郎」を参照されたい。十二年も前の古い電子化物であるが、かなりリキを入れて注してある。

「相州金澤村」横浜市金沢区

「重右衞門の家に持傳たる箱に、……」この伝承、意外にもネット上には、この「甲子夜話」本篇以外のヒットがない。静山がこれだけ詳しい記事を書いているからには、他にもソース元の記事があると考えるの自然なのだが?

「錢十二孔」江戸時代を通じて汎用された穴開き銅銭である寛永通宝には一文銭と四文銭があったが、ここは通常の前者で十二文であろう。

「南八丁堀二丁目」江戸切絵図と対照し、現在の中央区新富一丁目のこの中央附近に断定出来る。

「自身番」江戸時代、江戸・大坂などの大都会で、市中の警備のために各町内に置かれた番所。当初は地主自ら、その番に当たったが、後、町民の持ち回りとなった。

「丸屋久七」不詳。

「第十卷に記する、室賀氏の僕、辨慶堀にして岡へ引上んと爲しに、その力、盤石の如くにして、少も動かず」この電子化に先立って「フライング単発 甲子夜話卷之十 19 室賀氏の中間、河童に引かれし事」として電子化しておいた。

「第三十二卷に所出の河童の圖」同前で「フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖」。河童の絵図はこれ

「全く一物のみ」「見るからに、全く以って、同一の生物体と言わざる得ぬ」という感嘆。

「領邑の境村」村名としてかなり探してみたが、不詳。

「この物は、龜の類にして、猿を合せたる者なり」この「河童の手」と称するものは、カメの手(四肢)に猿の腕(かいな)のミイラを接(つ)き合わせたものである、と静山は鋭く河童、ならぬ、喝破しているのである。

「稀に網に入ること、あり。漁人は、この物、網に入れば、漁獵なし迚、殊に嫌ふことにて、入れば、迺ち、放捨つ。網に入て擧るときは、其形、一圓、石の如し」もう、これは幻想の妖怪河童なんぞではなく、明らかに実際に網に掛かって甚だ困る、海生哺乳類のアシカやアザラシの類、或いは、次注にように、大形の淡水カメやウミガメの類である。静山はこれを以って最終的には河童の正体はカメ類だと断定しているようである。

「藏六」四本の足と頭と尾の「六」つを甲の内に蔵(=隠)「かくす」ところから、カメの異称。

フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に副次的に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミング補正して適切と思われる位置に挿入した。]

 

32―9 河太郞幷圖

 對州《たいしう》には河太郞あり。浪よけの石塘《いしども》に集り、群《むれ》をなす。龜の石上に出《いで》て甲を曝《さらす》が如し。その長《たけ》二尺餘にして、人に似たり。老少ありて、白髮もあり。髮を被《かぶ》りたるも、又、逆に天を衝《つ》くも、種々、ありとぞ。人を見れば、皆、海に沒す。常に人につくこと、狐の人につくと同じ。國人の患《わづらひ》をなすと云。又、予、若年の頃、東都にて捕へたると云《いふ》圖を見たり。左にしるす。

 

Kappa1

 

 これは享保中、本所須奈村の芦葦《ろゐ/あし》の中、沼田の間に子をそだてゐしを、村夫、見つけて、追出し、その子を捕《とらへ》たるの圖なり。太田澄元《ちやうげん》と云へる本草家の父岩永玄浩《げんこう》が鑑定せし所にして、

「水虎なり。」

と云。

 又、本所、御材木倉《おざいもくぐら》取建《とりたて》のとき、芦藪を刈拂しに狩出して獲たりと云【「餘錄」。】。

■やぶちゃんの呟き

「對州」対馬。

「石塘《いしども》」加藤清正が熊本の井芹(いせり)川を高橋方面に向ける治水事業を行った際に分流のために築いた堤の名称の読みを用いた。ここは石を積み敷いた防波堤。

「天を衝《つ》く」「天」は「あたま」或いは「かしら」と当て読みしているかも知れない。要するに、尖って頭髪がない頭を言う。この辺り、何らかの海産哺乳類、アシカやアザラシのように感じられる。

「つく」「憑く」。河童が人に憑依するというのは、東日本ではあまり聴かないが、九州ではポピュラーである。「和樂web」の鳩氏の記事「河童とはどんな妖怪?伝説と正体を調べてみた!」の『九州の「河童憑(かっぱつき)」』に、『九州地方には古くから「河童は人間に取り憑く」という言い伝えがあります』。『例えば、熊本県では河童が若い女性に取り憑く言い伝えがあり』、『「河童が棲む水辺ではふしだらな様を見せないように」と戒められ、河童に取り憑かれると、甘ったるい声で言い寄るようになると言われていました』。『また、大分県では河童は少女を狙って取り憑き、一度取り憑かれてしまうと、心身ともに消耗し』、『記憶喪失のようになり』、『ふらふら行動するようになってしまうと言われています。同じように長崎県でも、河童に取り憑かれると譫言(うわごと)を喋り』、『食事も取らなくなると伝えられてきました』とある。

「享保中」一七一六年から一七三六年まで。

「本所須奈村」サイト「長崎県の河童伝説」の本篇の紹介記事「対州の河太郎」の注に、『須奈村について、河童村村議会の河童に、お尋ねしましたところ、以下の回答を得ました』として、『江東区に亨保年間以前から砂村新田という地名が有りました』(現在の『江東区砂町、北砂町)』。『この村は新田という名前からも開拓地であり、砂村新四郎と言う人が開拓したことから砂村新田という名前が付いたという説と、砂地で有ったので砂村と言う説の二説あります』。『しかし、須奈村では無くて砂村です』。『音をあわせて須奈村と書き記したのではないでしょうか』とあった。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「太田澄元」(享保六(一七二一)年~寛政七(一七九五)年)は江戸出身の本草家。実父岩永玄浩に学び、後に幕府奥医師多紀氏の医学館「躋寿(せいじゅ)館」で教えた。その講義の筆記録「神農本経紀聞」があり、他に「本草綱目示蒙」「救荒本草臆断」などの著作がある。

「岩永玄浩」(生没年未詳)は本草家で医師。松岡恕庵に学んだ。享保一九(一七三四)年頃、和人参の栽培を試みている。元文元(一七三六)年には「詩経」等に記載されている動植物名を考察した「名物訳録」を編集している。名は「元浩」とも書く。

「本所、御材木倉」御竹蔵の前身。後に猿江御材木蔵へ移った。

「取建」建造すること。

「餘錄」「感恩斎校書餘錄」で「感恩斎」は松浦静山の別号。一種の手控えの随筆か。

フライング単発 甲子夜話卷之十 19 室賀氏の中間、河童に引かれし事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。]

 

10―19 室賀氏の中間、河童に引かれし事

 御留守居、室賀山城守は小川町に住《すめ》り。其中間《ちゆうげん》、九段辨慶堀の端《はた》を通りしに、折ふし、深更、小雨ふりて闇《くら》かりしが、水中より、その中間の名を、呼ぷ。因《よつ》て、見るに、小兒、水中にありて、招くゆゑ、

『近邊の小兒、誤《あやまり》て陷《おい》たるならん。』

と思ひ、

『救はん。』

とて、手をさし延《のばし》ければ、卽《すなはち》、その手に取つくゆゑ、

『岡へ引上《ひきあげ》ん。』

と、しけるが、その力、盤石の如くにして、少《すこし》も不ㇾ動《うごかず》、却《かへつ》て、中間、次第に水中に引入らるゝゆゑ、始《はじめ》て恐れ、力を極めて、我が手を引取《ひつとり》、直《ただち》に屋敷に馳歸《はせかへ》り、人心地なく忙然となりけり。

 人々、打より見るに、衣服も沾濕《てんしつ》して、その上、臭腥《しうせい》の氣《き》たへがたき程なりければ、寄集《よりあつまり》て、水、かけ、洗《あらひ》そゝげども、臭氣、去らず。

 その人、翌朝にいたり、漸々《やうやう》に人事を辨《わきまへ》るほどにはなりしが、疲憊《ひばい》、甚しく、四、五日にして常に復せり。腥臭《せいしう》の氣も、やうやうにして脫《ぬけ》たりとなり。

「所謂、河太郞なるべし。」

と、人々、評せり。

■やぶちゃんの呟き

「室賀山城守」幕臣室賀正頼。個人ブログ「寛政譜書継御用出役相勤申候」のこちらに、『文政元戊寅年正月二十日御留守居被仰付』とあり、参考文献に本話が挙げられてある。文政元年は一八一八年。幕府の留守居役は老中支配で、奥の取締りや通行手形の管理、将軍不在時の江戸城の留守を守る業務を担当した。

「小川町」現在の千代田区神田小川町(おがわまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「九段辨慶堀」「辨慶堀」はここだが、「九段」は現在の皇居の外の北部で、不審。

「沾濕」ぐっしょりと濡れているさま。

「臭腥」「腥臭」孰れも、「ひどく腥(なまぐさ)い臭い」を言う。これは、河童自身の粘液質の肌や体臭や、また、河童が触れた物について、しばしば言われる特徴である。

2022/06/20

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童に就て」

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四五(一九一二)年一月発行の『人類學雜誌』第二十八巻第一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」を底本として、九年前にブログで電子化注しているが、今回は正規表現として本文は零から起こした。但し、注はそちらのものを元にしつつ、ブラッシュ・アップした。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

    河 童 に 就 て

 

 熊野地方に河童を「カシヤンボ」と呼ぶ、火車坊の義か。川に住み、夜厩に入て牛馬を惱す事、歐州の「ヱルフ」等の如し。其譚を聞くに全く無根とも思はれず、南米に夜間馬の血を吸ひ、甚く之を困憊せしむる蝙蝠二種有りと聞けど(大英類典二七卷八七七頁)、吾邦に其樣な物有るべくも非ず。五年前五月、紀州西牟婁郡滿呂村で、每夜「カシヤンボ」牛部屋に入り、涎を牛の全身に粘附し、病苦せしむる事甚しかりければ、村人計策して、一夕灰を牛舍邊に撒き、晨に就て見れば、蹼を具せる足跡若干を印せり、因て其の水鳥樣の物たるを知れりと村人來り話せり。頃日滕成裕の中陵漫錄を讀むに「薩州の農家にては、獺を殺さば、若し殺す時は馬に祟を爲す。祟る事七代にして漸く止むと云、大に恐れて敢て殺す者無し云々」と有り。予曾て獺を畜ひしを見るに、頗る惡戲を好む者なれば、時に厩舍に入て家畜を惱ますを河童と心得るに至りしにて、少なくとも滿呂村の一例は獺の行爲たる事疑ひ無しと思ふ。

    (明治四十五年一月人類第二十八卷)

[やぶちゃん注:『熊野地方に河童を「カシヤンボ」と呼ぶ』現代仮名遣「カシャンボ」。別に「カシャボ」とも。ウィキの「カシャンボ」によれば(注記号部分は略した)、紀伊南部(現在の和歌山県周辺)などで伝承される妖怪で、『山に移り住んだ河童が進化したものとする説が有力』である。六、七歳『ほどの子供程度の背丈で、頭に皿を被り(頭は頭は頂部のみに頭髪を残した、いわゆる芥子坊主のようであるともいう)、青い衣を身に着けているといわれる一方で、犬はその姿を見ることが出来るが、人間の目には見えないとも言われる。人間の唾を嫌うとされる』。『柳田國男は』「山島民譚集」で、『河童に関する「夏は川にいて、冬は山へ籠る」生態を紹介する際、九州の、「山にいる場合も河童と称する」という話や、「冬季には山で山ワロと呼ばれるものになる」と比較し、和歌山県東牟婁郡高田村(現・新宮市)のある家では、毎年の秋、新宮川を遡って来た河童が挨拶に訪れ、姿は見えないが家に小石を投げ込んで知らせ、山へ入ってカシャンボになるという例を挙げている』(二〇一九年二月六日公開の私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)』が当該部であるので、参照されたい)。『性質は河童と変わらず』、『悪戯者で、山中で作業をしている馬を隠したり、牛小屋にいる牛に涎のようなものを吐きかけて苦しめるという。牛小屋の戸口に灰を撒いておいたところ、そこに残されていたカシャンボの足跡は水鳥のようだったという』(ウィキでは引用元を上記「山島民譚集」としているが、上記リンク先で柳田が注している通り、南方熊楠がソース元であり、柳田國男の「山島民譚集」の初版は大正三(一九一四)年七月で、本篇の初出の後である以上、この注は不全で不正確である)『南方熊楠は、汎世界的な妖怪祓いの儀礼で、魔物の「足型をとる」というものがあった点を指摘する際、ある村落でカシャボ(河童にこのルビが振られる)による、牛の被害があったために各農家の牛舎で灰を撒いた、という話を引いている。なお、南方はこの村落での「カシャボ」とされる悪戯は、カワウソの行った可能性があるといっている』(本篇を指す)。『また、山で木を切り倒す音を出す等、音による怪異を成すとされる』(これは天狗の仕業としての方がポピュラーである。私の「怪奇談集」にも数多出る)。『この妖怪について「青い衣を着た子供」であるとする南方は柳田國男宛書簡の中で、「馬には見えるが、人には見えない」と言っている』(明治四四(一九一一)年九月附書簡)。『和歌山県西牟婁郡富里村(現・田辺市)では、カシャンボは雪の降った翌朝に一本足の足跡を残すもので、人に相撲をとろうと持ちかけるが、唾をつけてやると勝つことができるなどと、河童と一本だたらが混同されたかのように伝承されている』。二〇〇四年『春、和歌山県白浜町富田の田畑で謎の足跡が発見され』、四『本足の動物では有り得ない足跡であったことから、カシャンボの仕業と地元の新聞などで報道された』。『南方は、「青い碁盤縞の着物」で』、七~八『歳程の子供の形をするとされるカシャボの伝承が能登にあったという事例をあげ、この妖怪がかつてはもっと広い範囲に分布していた可能性を指摘している』(昭和四(一九二九)年十一月発行の『民俗学』に載せた短文「カシヤンボ(河童)のこと」)。『國學院大學民俗学研究会が』昭和五二(一九七七)年に発刊した雑誌『民俗採訪』に『よれば、紀伊では河童のことをゴウライ、あるいは五来法師と呼び、冬の間は山篭りをしておりその間はカシャンボと呼ばれる』とある(「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらを参照されたい)。民俗学者『石川純一郎は、夏に川で悪さをする河童「オンガラボーシ」(和歌山県西牟婁郡熊野川村)、ゴランボ(和歌山県西牟婁郡本宮町)、ドンガス(日高町)が、冬に山でカシャボになるといっている』。ライターで妖怪好きの『村上健司は、カシャボ、カシャンボの異称として、上述のヒトツダタラの他、ガシャンボウ、カシランボ、カシラを上げている』。『カシャンボの名称は、悪戯者であることから「くすぐる」を意味する方言の「かしゃぐ」』、『火車、頭(かしら)などを由来とする説』等、複数の語源説があり、また、『いくつかの文献では、河童以外にもカシャンボとして言及している資料があり、複数の説が存在する』として、まず、『山姥、ゴウラ』を挙げ、『東洋大学民俗研究会が』昭和五六(一九八一)年に刊行した和歌山県日高郡南部川村の民俗誌「南部川の民俗」では、『カシャンボは夏はゴウラ、冬にはカシャンボとなり、毛深い人間のような姿のものとあ』り、『また』、『同書による別説では、山姥のこととされる』とある。次に『マヘンのもの』を掲げ、『近畿民俗学会が』昭和六〇(一九八五)年に発行した雑誌『近畿民俗』では、『冬は山へ、春は川へ行く移動性の魔物であることが記されている』(「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらを参照されたい。前の者とは別である)とある。そして最後に『カシャンポ』を再掲し、『郷土研究社が』大正五(一九一六)年二月発行の『郷土研究』の山田角人の論考「河童の話二つ」に『よれば、カシャンポは山に棲むもので、河童とは違うと記されて』あると極論もあるようだ。

「火車坊」「火車」は頗るポピュラーな怪異で、これもの「怪奇談集」では枚挙に遑がない。しかし、それと河童の接触点は一点もなく、私は単なる音の類似からの駄説と断ずる。

「ヱルフ」英語の“elf”(エルフ)。ゲルマン神話に起源を持つ、北欧の民間伝承に登場する種族である。本邦では「妖精」或いは「小妖精」と訳されることも多い。本来は自然と豊かさを司る小神族だった。エルフはしばしば、とても美しく若々しい外見を持ち、森・泉・井戸・地下世界などに住むとされる。また、彼らは不死或いは長命であり、魔法の力を持っている(名称は印欧祖語で「白い」を意味する“albh”に由来すると考えられており、この単語は、また、ラテン語で「白い」を意味する“albus”(アルブス)、ポルトガル語・英語等の「アルビノ」(白化体)の語源でもある。参照したウィキの「エルフ」の記載の中では、本篇の河童との相似性に於いては、ドイツのそれが興味深い。『ドイツの民間伝承では、エルフへは人々や家畜に病気を引き起こしたり、悪夢を見せたりする、ひと癖ある』、『いたずら者だとされる。ドイツ語での「悪夢(Albtraum)」』(アルブトラオム:現行綴りでは“Alptraum”が一般的あるが、この綴り形もある)『には、「エルフの夢」という意味がある。より古風な言い方、Albdruck』(アルブトォク)『には、「エルフの重圧」という意味がある。これは、エルフが夢を見ている人の頭の上に座ることが、悪夢の原因だと考えられていたためである』とある。詳細は引用元を参照されたい。

「南米に夜間馬の血を吸ひ、甚く之を困憊せしむる蝙蝠二種有りと聞けど(大英類典二七卷八七七頁)」獣亜綱コウモリ目陽翼手亜目ウオクイコウモリ下目ウオクイコウモリ上科チスイコウモリ科チスイコウモリ属ナミチスイコウモリ Desmodus rotundus などを指す。参照したウィキの「ナミチスイコウモリ」によれば、『本種は人間の血液も吸うことがあるが、外界から遮断された人家に侵入することは困難であることなどから、人を襲うことはまれである。獲物を死に至らしめるほどの大量の血液を吸うわけではないが、家畜を複数匹で襲って衰弱させることに加え、咬み傷から狂犬病などのウイルスや伝染病を媒介することもあるため、害獣とされる』とある。信用し得るネット上の記載では、吸血性コウモリは全世界でも南米に三種しかいないともある。

「西牟婁郡満呂」(まろ)「村」ウィキの「田辺市」に、昭和二五(一九五〇)年に万呂村その他が田辺市に編入されたとする記載がある。サイト「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらを参照されると、その村域がはっきりと判る。現在の田辺市内の田辺駅東北直近である。

「晨」「あした」。翌朝。

「蹼」「みづかき」。

「頃日」「このごろ」。

「滕成裕」(とうせいゆう)「の中陵漫錄」「滕成裕」は水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。その「卷之十二」に以下のようにある(底本は国書刊行会昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成 第三期第3巻」所収のものを用いたが、恣意的に正字化した)。

   *

   〇獺祟ㇾ馬

薩州の農家にては、獺を殺さず。若し殺す時は馬に祟りを爲す。祟る事、七代にして漸く止むと云。大に恐れて敢て殺す者なし。案るに、獺は水に屬す。故に水より火を克するは自然の理なり。其馬に祟るは同類を求む事、眞に信ずべし。

   *

「獺」本邦のそれは日本人が滅ぼした日本固有種であった食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon である。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」の私の注を見られたいが、彼らは永く、狐狸に次いで、鼬(いたち:食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ Mustela itatsi(日本固有種。「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」参照)と双璧を成す、人を騙す妖怪と信じられてきた民俗的生物でもあったことを忘れてはならない。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「親の言葉に背く子の話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正七(一九一八)年一月発行の『人類學雜誌』第三十三巻第一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いたが、「j-stage」のこちらで初出画像をダウン・ロードでき(PDF)、その他、初出も誤っている部分は平凡社「選集」も参考にした(それらで冒頭の初出誌の巻数の誤り(誤植か)や、鍵括弧の不全、漢字の誤字等を、複数、修正した。それは特に断っていない)。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     親の言葉に背く子の話

 

 明治四十一年七月二十三日の大阪每日新聞に、能登の一地方の傳說を載た。多分故角田浩々歌客の筆で、其後ち漫遊人國記とか云物にまとめて出された續き物の中に在たと記憶する。云く、梟は本と甚だ根性曲つた子で其母川へ往けと命ずれば山へ、山へ往けと言ば川へ往た。母臨終に吾死體を川端へ埋めよと遺言した。是は萬事親の言に反對する子故、斯く言置たら定て陸地へ埋め吳るだろと思ふてで有た。然るに子は母の死するを見て忽ち平生の不孝を悔い、生來始て母の詞に隨つて其尸を川端へ埋めた(熊楠謂ふ、此處に扨不孝の咎で其子終に梟と成たと有た筈)。其より雨降りさうな折每に、川水氾濫して母の尸を流し去りはせぬかと心配して梟が鳴くのだと。已上予が英譯しおいたのを復譯したのだから、多少原文と合ぬ所も有らうが、大意は失ひ居ぬ筈。右は支那で古く梟は不孝の鳥で成長の後ち其母を食ふと云のと、邦俗梟天晴る前に糊磨り置け、雨ふる前に糊取り置けと鳴くといふを取合せて作つたに相違無いが、不孝の子が親の死後悔て其尸を水邊に葬つたてふ一件は、今より凡そ一千一百年前唐の段成式が筆した酉陽雜俎續集卷四に見る次の話を作り替た者歟。云く、昆明池中に塚有り、俗に渾子と號す、相傳ふ昔し居民、子に渾子と名くる者有り、嘗て父の語に違ふ、若し東と云ば則ち西し、若し水と云ば則ち火を以てす、病で且に死せんとし陵屯處に葬られん事を欲す。矯り謂て曰く、我死なば水中に葬れ、死に及んで渾泣て曰く、我れ今日更に父の命に違ふ可らずと、遂に此に葬ると。盛弘之が荊州記に據るに云く、固城洱水に臨む、洱水の北岸に五女の墩有り、西漢の時に人有り、洱に葬る、墓將に水の爲に壞られんとす、其人五女有り、共に此墩を創めて以て其墓を防ぐ。又云く、一女陰縣の佷子に嫁す、子家貲萬金、少きより長ずるに及んで父の言に從はず、死に臨んで意山上に葬られんと欲す、子の從はざるを恐れて乃ち言ふ、必ず我を渚下磧上に葬れと、佷子が曰く、我れ由來父の敎を聽ず、今當に此一語に從ふべしと、遂に盡く家財を散じ、石塚を作り土を以て之を繞らし遂に一洲を成す、長さ數步、元康中に始て水の爲に壞られ、今石を餘して半榻を成す、數百枚計り、聚つて水中に在りと。

[やぶちゃん注:「明治四十一年」一九〇八年。

「角田浩々歌客」(かくだ こうこうかきゃく 明治二(一八六九)年~大正五(一九一六)年)は詩人・北欧文学者・文芸評論家で新聞記者。本名は角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成し、世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遙と並び称された。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「漫遊人國記」大正二(一九一三)年東亜堂書房刊の紀行随筆。国立国会図書館デジタルコレクションで原本を発見、当該部は「北陸」パートの「(一六)舟子の童話傳說」の一節。ここ(右ページ四行目下方から)。その男子が梟と変じたという叙述はないが、そのようには読める。

「予が英譯しおいた」本篇の第三段落参照。

「支那で古く梟は不孝の鳥で成長の後ち其母を食ふと云」(いふ)「のと、邦俗梟天晴」(はる「る前に糊」(のり)「磨り置け、雨ふる前に糊取り置けと鳴くといふ」孰れも私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照されたい。

「酉陽雜俎續集卷四に見る次の話」同巻は「貶誤」と標題する。「東洋文庫」の今村与志雄氏は意訳して『誤りをたどる』と添え辞されておられる。伝承の誤りを比較批評する章である。「中國哲學書電子化計劃」のこちらから影印本で当該部を視認出来る。

「昆明池」漢の武帝が長安城の西南に掘らせた人工の池。周囲四十里。この池で水軍を訓練したとされる。現存しない。

「渾子」「こんし」。

「且に」「まさに」。

「陵屯處」「りやうとんしよ」。今村氏は『小高い丘』と訳されておられる。

「矯り」「いつはり」。

「今日更に父の命に違」(たが)「ふ可」(べか)「らず」同前で『今日』(きょう)『だけは父の命令にさからえない』とある。

「盛弘之」(せいこうし)「が荊州記」盛弘之(生没年未詳)南朝の劉宋の臨川王の侍郎。同書は湖北地方の民俗誌で四三七年成立。なお、これ以下も「酉陽雑俎」の続きである。

に據るに云く、

「固城洱水」(じすい)今村氏の注に、し「水経注」の記載から『湖北省襄陽県西北』附近と推定され、「洱水」は恐らく沔水(べんすい)のことであろうとされる。

「五女の墩」五女墩(ごじょとん)。「選集」では「墩」に『どて』とルビする。堤(つつみ)。

「西漢」前漢。

「壞られん」「やぶられん」。

「創めて」「はじめて」。創(つく)って。

「陰縣」不詳。

「佷子」「こんし」。

「子家貲萬金」「し、かし、ばんきん」。今村氏の訳に『佷子の家は、巨万の財産があった』とある。

「少き」「わかき」。

「意山上」「意、山上に葬られんと欲す」で、「内心、山の上に葬られることを望んだ」の意。

「乃ち」「すなはち」。

「渚下磧上」「しよかせきじやう」。「渚(なぎさ)のところの砂州の上」の意。

「由來」今まで。

「繞らし」「めぐらし」。

「數步」「步」は距離単位。一歩は約一・八メートル。六掛けで十一メートル前後。

「元康中」二九一年~二九九年。

「石を餘して」その遺跡の石が残っており。

「半榻」「はんとう」。台の半分。以下の叙述から、元の大きさの半分の大きさの人口の石組が水中にあることであろう。

「枚」「個」に同じ。]

 以上の文を英譯して一九〇八年十一月二十一日のノーツ、エンド、キーリスに出し、和漢の外亦斯種の傳說ありやと問たが、答ふる者無く今に至つた。余も只今迄西漢外の例を一つも見出さぬが、近頃内田邦彥氏の南總俚俗を見るに此類の話二有り。其百四頁に云く、「天のじやくは意地惡の神樣也。神達人間を創造する際に其祕所を何處にせむ、胸にては惡し背にても良らず、目に立ぬ股間にこそと衆議一決しぬ、されどかの天のじやくは必ず人目に立つ額にと云なるべし。よしさらば法こそあれ迚、皆の決議は額にと成ぬと告たるに、果して意地わるの神は反對して股間にせむと言出せしかば皆の思ふが如くなりぬ」と。曾て外題不詳の零本百首に此の意の話を續き畫にしたるを見た。繪本に委しき宮武外骨氏說に、年代は寶曆頃畫者は北尾辰宣と鑑定すと。然らば、斯る傳說は其頃已に世に存したのだ。内田氏の著百六頁に、雨蛤[やぶちゃん注:「あまがへる」。]常に親の言を聽ず、右と云ば左し、山と云へば川と云ふ、母遺言す、我死せば屍を川邊に埋めよと。蓋し母の思ふに、斯云へば必ず山に埋るならんと、終に死たり、雨蛤、己れ今迄母に反きたり、此度許りは命に從はむとて母を川邊に埋めたり、されば雨の降むとする時は墳墓の流れもやするとて常に啼くと有て、好で人の言に反對する人を筑前にては山川さんといふと頭注し、筑前にも亦同じ童譚有り、彼地にては雨蛤を「ほとけびき」と云ふ、金澤市では雨蛤を山鳩に作り、テテツポツポ親が戀しと鳴くといふ。又雨蛤を蟬に作り、墓が見えぬ見えぬと鳴くともいふと有る。是にて此の類の話は廣く吾邦諸國に行れ居ると知る。

[やぶちゃん注:「以上の文を英譯して一九〇八年十一月二十一日のノーツ、エンド、キーリスに出し、和漢の外亦斯種の傳說ありやと問」(とふ)「た」‘Notes and Queries’(『ノーツ・アンド・クエリーズ』。「報告と質問」)は南方熊楠御用達の一八四九年にイギリスで創刊された読者投稿の応答に拠ってのみで構成された学術雑誌。熊楠の投稿記事は「Internet archive」で確認したが、どうもクレジットに誤りがあるようで、当該クレジットのそこには確かに熊楠の投稿があるものの、この内容ではなかった。

「内田邦彥氏の南總俚俗」既出既注だが、再掲しておくと、内田邦彦(明治一四(一八八一)年~昭和四二(一九六七)年)は千葉県長生郡二宮本郷村(現在の茂原市)の医家に生まれ、「真名(まんな)の医者どん」と呼ばれ、親しまれた。彼はこの「南總の俚俗」(これが正しい書名。大正四(一九一九)年桜雪書屋(おうせつしょおく)刊)や「津輕口碑集」(昭和四(一九二九)年)などで知られる民俗学者でもあった。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本が読める。当該箇所は、前者は「□天邪鬼」でここ、後者が「□雨がへる」で、ここ

「零本」一揃いの本の大半が欠けているもの。 端本(はほん) 。

「宮武外骨氏」(がいこつ 慶応三(一八六七)年~昭和三〇(一九五五)年)は文化史家でジャーナリスト。本名は外骨(とぼね)で「がいこつ」の読みはペン・ネームであるが、表記は実際の表記である。香川県出身。川柳・江戸風俗・明治文化などを研究した人物で、考現学の先駆者である。「東大明治新聞雑誌文庫」の初代主任も務めた。反権力的な文筆で、しばしば筆禍事件を起こした。収集マニアとしても有名であった。私の好きな作家である。

「寶曆」一七五一年から一七六四年まで。

「北尾辰宣」(生没年未詳)江戸中期の浮世絵師。大坂の周防町に住んだ。美人画に優れ、延享から安永(一七四四年~一七八一年)頃、多くの絵本や教訓書などの挿絵を描いた。

「斯云へば」「かくいへば」。

「好で」「このんで」。

「山川さん」「やまかはさん」。

「ほとけびき」「佛蟇」か。

「蟬に作り、墓が見えぬ見えぬと鳴く」この「蟬」はミンミンゼミか。]

 此序に言ふ、川底に死人を葬る事、吾邦で武田信玄の屍を石棺に容れて水中に沈めたと、飯田氏の野史か何かに在たと記憶する樣なれど確かならず。支那には河南の紅山在楡林縣北十里、環拱若屛、上皆紅石、落日返照、霞采爛然、山之兩崖、爲紅石峽、楡溪獐河、滙流其中、俗傳爲李主墓、昔李繼遷葬其祖彝昌、障水別流、鑿石爲穴、既塟復引水其上、疑卽此峽也(大淸一統志卷一四六)。一九〇九年五月十三日のネーチユール三一八頁に其頃クリーヴドン博物會でボブスコツト氏がジプシイの風俗等に就て演べた說を引て、此民族にも川を堰て他へ流し、其底に尸を埋めた後川を前通りに流れしむる事有たと載せ有た。西曆四一〇年ゴツト王アラリク死せし時、其臣下多數の俘囚をしてブセンチウス川の流れを他に向はしめ、其底に王の墓を營み埋め、流れを其上に復し、盡く從工俘囚を殺して永く其墓の所在を秘密ならしめたは讀史者の知り及んだ所で有る。

[やぶちゃん注:「此序に」「このついでに」。

「飯田氏の野史」幕末の徳山藩出身で後に有栖川宮に仕えた国学者・歴史家の飯田忠彦(寛政一〇(一七九九)年~万延元(一八六〇)年)の書いた、後小松天皇から仁孝天皇までの二十一代の帝の治世を紀伝体で記した歴史書「大日本野史」の略称。嘉永四(一八五一)年完成。全二百九十一巻。当該ウィキによれば、『徳川光圀による歴史書』「大日本史」が南北朝統一(明徳三(一三九二)年)をもって締めくくられていた『ため、飯田がその続編執筆を志し』、三十『年余りの月日をかけて完成さ』せた労作。『原本は漢文体で書かれている。後に飯田が』、「桜田門外の変」に『関与したとの容疑で逮捕されたことに抗議して自害したという事情もあって、原本は散逸して現存していないが、完成後に飯田が人に乞われて印刷に付されたものを元に』明治一四(一八八一)年に『遺族の手で刊行された』。『戦国武将や大名などの列伝が充実している。特に江戸幕府への配慮を必要とした江戸時代の部分よりも』、『室町時代の記事の方が優れているといわれており』、「応仁の乱」から『封建制の再構築の過程の執筆に力が入っている。しかし、信頼性を欠くとされる史料を引いていること』『や、飯田個人による執筆であるため、史料的な制約は免れず』、史家からは『正確さにやや欠けると指摘されている』とある。熊楠は「か何かに在たと記憶する樣なれど確かならず」と言っているので、探すのはやめた。

「支那には河南紅山在楡林縣北十里、……」引用元の「大淸一統志」は清代に政府事業として編集された地理書。全領土の自然と人文地理を、行政区画別に記述し、終わりに朝貢各国として殆んど全世界のことを付説してある。三度作られ、第一版は一七四三年に完成、第二版は一七六四年から二十年をかけて作られた。第三版は一八四二年に完成したが、内容は一八二〇年で終わっているため「嘉慶重修一統志」と呼び、これは全五百六十巻で、最も体裁が整い、内容も充実している。少し異なるが(より詳しい)、信頼出来るその第三版の影印本の当該部が「中國哲學書電子化計劃」のこちらで視認出来る(三行目の「紅山」)。訓読を試みる。

   *

環拱若屛、上皆紅石、落日返照、霞采爛然、山之兩崖、爲紅石峽、楡溪獐河、滙流其中、俗傳爲李主墓、昔李繼遷葬其祖彝昌、獐水別流、鑿石爲穴、既塟復引水其上、疑卽此峽也(卷一四六)。

   *

 河南の紅山(こうざん)は楡林(ゆりん)縣の北十里に在り。環拱(かんきよう)[やぶちゃん注:取り巻いて守ること。]すること、屏(びやう)のごとく、上は、皆、紅石(こうせき)にして、落日の返照(はんしやう)、霞(か)[やぶちゃん注:朝やけと夕やけ。]の采(いろど)り、爛然たり。山の兩崖、「紅石峽」と爲(な)し、「楡溪(ゆけい)」・「獐河(しやうが)」、滙(あつ)まりて其の中を流る。俗傳に「李主の墓」と爲す。昔、李繼、其の祖彝昌(いしやう)を遷(うつ)し葬(はうふ)らんとして、水を障(さえぎ)りて流れを別にし、石を鑿(うが)ちて穴を爲(つく)れり。既に塟(はうふ)[やぶちゃん注:「葬」の異体字。]りて、復た、其の上に、水を引く。疑ふらくは、卽ち、此の峽ならん。

   *

場所は河南省焦作市修武県にある紅石峡(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。よく判らぬ。「李繼、其の祖彝昌」は信頼出来る論文から、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(寧夏回族自治区)に建国した王朝西夏(一〇三八年~一二二七年)の王族の嫡流である。

「一九〇九年五月十三日のネーチユール三一八頁」『ネイチャー』(Nature:一八六九年(明治二年相当)にイギリスで、太陽観測で知られる天文学者ジョセフ・ノーマン・ロッキャー(Joseph Norman Lockyer 一八三六年~一九二〇年)によって創刊された自然科学雑誌。創刊当時から現在に至るまで、世界で最も権威のある自然科学雑誌の一つである。当該部は「Internet archive」のここ

「堰て」「せいて」或いは「せきて」或いは「せきとめて」。

「ゴツト王アラリク」西ゴート族の最初の王アラリックⅠ世(三七〇或いは三七五年~四一〇年/在位:三九五年~四一〇年)。当該ウィキによれば、その名は彼が成した四一〇年の「ローマ略奪」で最も知られ、西ローマ帝国の衰退を決定づける事件であった、とある。また、この「ローマ略奪」の『後、アラリックはカラブリア』(現在のイタリア南部)『へと南下していった。アラリックはアフリカ属州』と『イタリアを掌中に収めるための要石としてみなし、かの土地を征服しようとした。しかし、嵐がアラリックの艦隊を襲い、船舶もろとも多くの兵士を奪い取った』。『まもなくアラリックは、恐らくは熱病と思われる病に倒れ』、イタリアの『コゼンツァに没した』。『アラリックの軍勢は、彼らの王を讃えて特別な墓を築いて埋葬した。その埋葬地はブゼント川とクラーティ川の合流点』(ここ)『であったと伝えられている。ブゼント川の水を迂回させ、アラリックを征服地から集めた財宝のすべてとともに納めるのに十分な大きさの墓穴を掘る工事には、多くの奴隷が動員された。墓が完成すると、川の水は本来の流路に戻され、墓は水底に眠ることとなった。そして、墓の場所の秘密を守るために、奴隷たちはみな殺害されたという』とある。

「ブセンチウス川」Bucentius。ブゼント川のラテン名。英文ウィキの‘Busento’参照。]

追 記

右書き終りてトマス、テーラー英譯パウサニアスの希臘廻覽記(西曆二世紀の著)六卷十八章を見るに、歷山王[やぶちゃん注:「アレクサンドルスわう」。アレキサンダー大王。]ラムプサクス城を攻し時、城中の民歷山王の舊知アナキシメネスを王に使はし降を請はしむ。王其意を察し、アが城民の爲に來り請ふ所の者は悉く反對に實行せんと誓ふ。ア之を知り、王に見えてラ城を全壞し其神廟を燒盡し其兒女を奴隷とせよと請ひければ、王今更誓言を渝る能はず、全くアの請に反しラ城を保全しその民を安んぜしと云ふの此譚、本話と同類異趣な所が面白い。   (大正七年一月人類第三十三卷)

[やぶちゃん注:「トマス、テーラー英譯パウサニアスの希臘廻覽記」イギリスの翻訳家で新プラトン主義者にしてアリストテレスとプラトンの全作品を最初に英訳したトーマス・テイラー(Thomas Taylor 一七五八年~一八三五年)の ‘Pausanias's Description of Greece’(「パウサニアスによるギリシャの案内記」:一七九四年初版・一八二四年二版)。パウサニアス(一一五年頃~一八〇年頃)はギリシアの旅行家で地理学者。この本は当時のギリシアの地誌・歴史・神話伝承・モニュメントなどについて知る貴重な手掛かりとされている書である。

「ラムプサクス城」(ラテン文字転写:Lampsakos)小アジアのヘレスポントス(現在のチャナッカレ)海峡沿岸にあった古代ギリシアの植民市(アポイキア)。良港に恵まれ、富裕で、「デロス同盟」の一員として多額の貢納金を納めていた。アテネの衰退とともにアケメネス朝ペルシアの支配下に入ったが、起源前四世紀には自治を行い、その繁栄はローマ帝政期に至まで続いた。ワインの産地としても名高かった。

「降」降伏。

「アナキシメネス」不詳。

「見えて」「まみえて」。

「渝る」「かふる」。]

2022/06/19

ブログ・アクセス1,760,000アクセス突破記念 泉鏡花「茸の舞姬」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)

ブログ・アクセス1,760,000アクセス突破記念として、

泉鏡花「茸の舞姬」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)

「心朽窩旧館」に公開した。かなりマニアックな注を附してある。御笑覧あれかし。

昨晩ブログ・アクセス1,760,000アクセスを突破、「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫」にアクセス集中


昨晩、午後八時前、ブログ・アクセスが1,760,000を突破した。今月に入って、毎日、900から1000アクセス超えで、異様。因みに、特異点アクセス・ベスト1は、2014年5月4日の「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫」。今月の半月だけで、1571アクセスもあった。またぞろ、高校か大学の芥川龍之介の小説「酒蟲」辺りの研究課題が出たんだろうなぁ。なお、気がついたら、ルビを入れたリッチ・テキスト形式で投稿したのだが、不具合があってある二行が重なってしまっていたので、先ほど、修正した。記念テクストは鋭意作成中。今日中には公開できるだろう。

2022/06/17

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「蛇を驅逐する咒言」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正七(一九一八)年一月発行の『人類學雜誌』第三十三巻第一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用い、平凡社「選集」も参考にした。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、標題の「咒言」は「じゆげん・じゆごん」と読んでおく。「まじなひ」と当て訓してもよかろう。]

 

     蛇を驅逐する咒言

 

 人類學雜誌三二卷十號二二三頁に佐々木繁君言く、「蛇に逢ひ蛇が逃げぬ時の咒、天竺の茅萱畑に晝寢して蕨の恩顧を忘れたか、あぶらうんけんそわか、と三遍稱ふべし。斯すれば蛇は奇妙に逃去と也」と。其れ丈けでは何の意味とも分らねど、内田邦彥君の南總俚俗百十頁に『或る時、蝮病でしの根(茅の根の事なれどこゝは其鋭き幼芽の事)の上に倒れ伏したれど、疲弊せる爲め動く能はざりしを、地中の蕨憐れに思ひ、柔かな手もて蛇の體を押し上てしの根の苦痛より免れしめたり、爾後山に入る者は「奧山の姬まむし、蕨の御恩を忘れたか」と唱ふれば其害を免る』と載せたるを見て始めて釋き得る。   (大正七年一月『人類學雜誌』三三卷一號)

[やぶちゃん注:『人類學雜誌三二卷十號二二三頁に佐々木繁君言く、「蛇に逢ひ蛇が逃げぬ時の咒」(まじなひ/じゆ)「天竺の茅萱畑」(ちがやばたけ)「に晝寢して蕨の恩顧を忘れたか、あぶらうんけんそわか、と三遍稱ふべし。斯すれば蛇は奇妙に逃去」(にげさる)「と也」と』佐々木喜善の「陸中遠野鄕の說話數種」。「J-Stage」のこちらからその初出が読める。PDF1コマ目である。「茅萱」は単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica で、「茅花(つばな)」という異名がよく知られる。私の『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 春日』の「柴草」の注を参照されたい。]

「内田邦彥君の南總俚俗」内田邦彦(明治一四(一八八一)年~昭和四二(一九六七)年)は千葉県長生郡二宮本郷村(現在の茂原市)の医家に生まれ、「真名(まんな)の医者どん」と呼ばれ親しまれた。彼はこの「南總の俚俗」(これが正しい書名。大正四(一九一九)年桜雪書屋(おうせつしょおく)刊)や「津輕口碑集」(昭和四(一九二九)年)などで知られる民俗学者でもあった。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本が読める。当該箇所はここ

「釋き得る」「ときうる」。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「山の神に就て」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正六(一九一七)年五月発行の『人類學雜誌』第三十二巻第二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いたが、「j-stage」のこちらで初出画像をダウン・ロードでき(PDF)、その他、初出も誤っている部分は平凡社「選集」も参考にした(それらで冒頭の初出誌の巻数の誤り(誤植か)や、鍵括弧の不全、漢字の誤字等を、複数、修正した。それは特に断っていない)。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。太字は底本では傍点「○」である。]

 

     山の神に就て

 

 人類學雜誌三十二卷三號八八頁に、佐々木繁君がオコゼ魚の話を述た中に、山神海神と互に持ち物の數を誇り語る時、山神自分所有の植物を算えて勿ちにセンダン、ヤマンガと數へ、海神色ひるむを見て得意だつたが、海神突然オクゼと呼たるにより山神負たと有る。是は二九九號一九一頁に予が書いた熊野の安堵峯邊で傳ふる、山祭りの日山神自ら司る山の樹木を算うるに、可成木の多き樣算へん迚每品異名を重ね唱え『赤木にサルタに猿スベリ(姬シヤラの事)、マツコウ、カウノキ、カウサカキ(シキミの事)』抔讀む。此日人山に入れば其内に讀込るとて怕れて往ずと有たと同源から出たらしい。木の内に讀込るれば忽ち死して木となると云事だらう。本邦に昔し草合せの戯有た事古今要覽稿等に見え、吾等幼時熊野の串本邊の小兒も之を爲た。乃ち支那で云ふ鬪草だ。『劉賓客嘉話錄』に『晉謝靈運髭美、臨刑因施爲南海祗洹寺維摩詰像髭、寺人寶惜、初不虧損、中宗朝、安樂公主五日鬪草、欲廣其物色、令馳騎取之、他恐爲他所得、因剪棄其餘、今遂無」と有り。『古今著聞集』に宮中の菖蒲合せ花合せ前栽合せ抔を記せるを併せ攷ふるに、和漢とも草合せの小戯が大層な共進會と成り遂に音樂遊宴を雜ゆるに及んだのだ。佐々木君の所謂ヤマンガは山桑てふ山茱萸科の木、熊野では初夏白花咲き秋實紅熱して食ふべき物で有う。勿ちにセンダンの勿ち、もしくはアフチの誤植か[やぶちゃん注:初出も「選集」もこうなっているが、これでは意味が通らない。後者の「勿ち」は「忽ち」の誤字ではなかろうか?]。果して然らばアフチ、センダン一物異名なれば、山神所有の一木を異稱もて重ね呼ぶ事、安堵峯邊で赤木にサルタ云々と重ね呼ぶてふに同じかるべし。扨予が安堵峯邊の傳說を本誌に寄た後、彼山より遠からぬ日高郡龍神村の人々より聞たは、山祭りの日(陰曆十一月初めの申の日)猴が木を算ふる迚人々怕れて山に入らずと。隨て考ふるに彼邊では本と猴を山神としたので、扨こそ其顏の色と其名にちなんで、赤木にサルタにサルスベリとヒメシヤラの一木を三樣に言ひ重ねると傳えたのだらう。又山神女身で甚だ男子が樹陰に自瀆するを好むと傳ふるも、昔し山中猴多き地には牝猴不淨期至り慾火熾盛なるを見て言出た事か。予壯歲にしてサーカスに從ひたりき。屢ば黑人抔が牝牡の猴に種々猥褻な事をして見せると、或は喜んで注視し或は妬んで騷擾するを見た。類推するに昔し牝猴に自瀆する處を見せ悅ばせた事も山民中に行はれたものか。『神異經』に、𧳜と云ふ大猴善く木に緣り、純牝にして牡なく、要路に群居し男子を執へ之と合して孕む抔有るも類似の話だ。猴の經立は能く人に似て女色を好み里の婦人を盜み去る事多しと佐々木君の話し柳田氏の遠野物語三六頁に見え、猴殊にゴリラ、一たび自瀆を知れば每度之を繰り返し行ひ、遂に衰死するを予幾度も見た。De Chambre, ‘Dictionnaire Encyclopédique des Sciences Médicares,’ 2me série, tom.xiv, p.363, 1866 にも、犬や熊もするが猴類殊に自瀆する例多しと記す。

 其から二九九號一九二頁已下に予が全文を出した「山神繪詞」は、一昨春米國のスヰングル氏來訪された砌り、其繪を見て殊の外望まれた。因て畫工に寫させ予其詞を手筆し贈ると、非常に珍重し大枚二十五圓程投じて金泥銀粉で美裝させ持歸つた、と白井博士から文通が有た。此繪には山神を狼とし居り、今も熊野に狼を名いはず山の神と呼ぶ村が有る(例せば西牟婁郡溫川)。獵師に聞たは鹿笛は錢二つ重ねて小兒が吹き弄ぶ笛に似、婦女の笄櫛等を盜みて作り、盜まれた婦女が搜し求むれば求むる程效著し。二三聲シユーシユーと吹て止める、其より多く吹ず。吹き樣種々有て上手に成るは六かし。之を吹て第一に來るは狼で、狼來れば直ちに吹く人の頭上を二三度飛ぶ。爾時他の諸獸悉く、近處に來り有りと知ると。其他種々聞いた事共から推すと紀州の山神に猴と狼と有り、猴神は森林、狼神は狩獵を司ると信じたらしく、オコゼ魚を好むは狼身の山神、自瀆を見るを好むは猴體の山神に限るらしい。

 末筆ながら述ぶるは人類學雜誌三十二卷二號五九頁を子細を知らぬ人々が讀むと、本邦吉野の柘の仙女や歌に詠まれた山姬や、女形の山神、山婆山女郞等が希臘古傳のニムフスに相當すとは佐々木君が言出された樣合點する向も有るべきも、右の說は本と同誌二九九號一九二頁に予が明記し置たので決して佐々木君の創見で無い。

     (大正六年五月人類第三十二卷)

[やぶちゃん注:「人類學雜誌三十二卷三號八八頁に、佐々木繁君がオコゼ魚の話を述た」初出論考はネット上では読めない。「佐々木繁」は、かの「遠野物語」の原作者佐々木喜善のペン・ネームの一つ。

「センダン」栴檀(せんだん)。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。

「ヤマンガ」後文で「佐々木君の所謂ヤマンガは山桑てふ山茱萸科の木、熊野では初夏白花咲き秋實紅熱して食ふべき物で有」(あら)「う」と熊楠は言っているので、これは、モクレン綱バラ上目バラ目クワ科クワ属ヤマグワ(山桑)Morus australis の異名となる。ウィキの「クワ」によれば、『養蚕に使われるクワに対する、山野に自生するクワという意味でよばれている』。『中国植物名(漢名)は鶏桑(けいそう)という』。『学名の』シノニムの『Morus bombycis は、カイコの学名である Bombyx に由来する』。樹高は十メートル、幹径は六十センチメートルにまで『生長する』。『日本、南千島、樺太、朝鮮半島、中国、ベトナム、ミャンマー、ヒマラヤに分布』し、『樹皮は灰褐色で、縦方向に不規則な筋が入る』。『葉は卵形や広卵形であるが』、『不整な裂片を持つものもあり、形は様々である』。『開花期は』四月で、殆んどが『雌雄異株であるが、ときに雌雄同株』も見られる。『花は小さくて目立たず、花後につく果実は』一センチメートル程の『集合果で「ドドメ」ともよばれており、はじめ赤色であるが』、『夏に熟すと』、『黒紫色になり、食用にされる』。『完熟果実を食べると』、『唇や舌が紫色に染まり、昔は子供たちのおやつによく食べていた』。『養蚕用に栽培されることも多い』が、『日本では一般には養蚕には用いられていない種であるが、栽培桑の生育不良で飼料不足となるときに用いられた』。『霜害に強く、栽培桑が被害を受けたときに備えて』、『養蚕地帯では霜害が割合的に少ない山地に植えて置き、栽培桑の緊急時の予備とした』。『しかし、ヤマグワの葉質は栽培桑よりも硬いため、カイコの成長が遅くなり、飼料として』の『性質は劣る』。『北海道では、栽培種のクワの生育が困難だったため、開拓初期に各地で様々な試行錯誤が行われ、ヤマグワを用いて養蚕が行われた時もあった』とある。私も幼少期、裏山のヤマグワの実が好きで、よく食べた。最後の一樹は三十年程前まで命脈を保っていたが、最早、住宅化され、消えてしまった。甘く美味しかったが、実の間の糸のような毛が舌に刺さるのが、一寸、難儀であったのを懐かしく思い出す。「ヤマンガ」は思うに「山ん桑(ぐわ)」の転訛であろう。

「オクゼ」オコゼに同じ。

「負た」「まけた」。

「二九九號一九一頁に予が書いた熊野の安堵峯邊で傳ふる、山祭りの日山神自ら司る山の樹木を算うるに、可成」(かなり)「木の多き樣」(やう)「算へん迚」(とて)「每品異名を重ね唱え『赤木にサルタに猿スベリ(姬シヤラの事)、マツコウ、カウノキ、カウサカキ(シキミの事)』抔讀む。……」以上は『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』を指す(PDF縦書版はこちら)。この「赤木にサルタに猿スベリ(姬シヤラのこと)」の三つの名は、熊楠の言うように、「姫沙羅」、ツツジ目ツバキ科ナツツバキ属ヒメシャラ Stewartia monadelpha の異名で、現行でも「赤栴檀」「アカラギ」「サルナメリ」「サルタノキ」の異名がある。「マツコウ、カウノキ、カウサカキ(シキミの事)」同前で、これはマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum の異名である。仏事に於いて抹香線香として利用されることで知られ、そのためか、別名も多く、「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」などがある。最後の「カウサカキ」は「香榊」で、ウィキの「サカキ」によれば、上代にはサカキ(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica )・ヒサカキ・シキミ・アセビ・ツバキなどの『神仏に捧げる常緑樹の枝葉の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、本種が標準和名のサカキの名を獲得した』とある。サカキは神事に欠かせない供え物であるが、一見すると、シキミに似て見える。名古屋の義父が亡くなった時、葬儀(曹洞宗)に参列した連れ合いの従兄が、供えられた葉を見て、「これはシキミでなく、サカキである。」と注意して、葬儀業者に変えさせたのには、感銘した。因みに、シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されていることも言い添えておく。

「讀込る」「よみこまる」。

「怕れて往ずと有た」「おそれてゆかずとあつた」。

「草合せ」「くさあはせ」平安時代の遊戯で、「物合せ」(左右に分かれて物を比べ合わせ、その優劣を競う遊びの総称)の一つ。五月五日の節句に種々の草を集め、その種類や優劣を競った。宮廷でも行われ、負けると衣服を脱いで、勝った者に与える風習があったとされる。鎌倉時代でも子供の遊戯として残ったが、その後、衰えた。本来は「薬狩り」(山野での薬草採集)から起ったもので、「競狩」(きおいがり)・「草くずし」等とも称した。「闘草」とも言うが、これは「荊楚(けいそ)歳時記」(中国南方の荊楚地方(長江中流域)の年中行事を記した「月令」(がつりょう)の一種で、六世紀の南朝梁の宗懍(そうりん)によって書かれ、隋の杜公瞻(とこうせん)によって注釈が加えられた)に、五月五日に行われた「闘草」についての記述が見え、それとの関連が想定されている。次の次の注のリンク先を参照されたい。

「戯」「たはむれ」と訓じておく。

「古今要覽稿」(ここんえうらんかう)は類書。幕臣で国学者であった屋代弘賢編。文政四(一八二一)年に幕命により全一千巻の予定で編纂を開始し、天保一三(一八四二)年までに五百六十巻を調進したが、弘賢没後は編纂が中絶した。後の明治三八(一九〇五)年から翌翌年にかけて全篇が出版された。事項は神祇・姓氏・時令・地理など二十部門別に意義分類して、その起源や沿革などに関して、先ず、総説を述べ、古文献の記述や本題に因む詩歌を引用し、別名などを示しており、引用が豊富で、しかも詳しい。日本初の本格的な百科事典と言える。かなり手間取ったが、国立国会図書館デジタルコレクションの明治四〇(一九〇七)年国書刊行会刊の活字本のこちらで見出した。挿絵もあるので、以下に画像で、そのままトリミングせずに掲げる。

 

Kusaawase

 

「爲た」「した」。

「鬪草」「くさあはせ」。

「劉賓客嘉話錄」「劉賓客」は中唐から晩唐初期の知られた詩人で政治家の劉禹錫(うしゃく 七七二年~八四二年)の官位に基づく別称。彼が晩唐の官僚韋絢(七九六年 ~?)に語った話を記したもの。「維基文庫」のこちらで、全文が示されてある。以下の引用には不審な箇所があり、それで訂した。

「晉謝靈運髭美、……」訓読する。晉謝靈運髭美、臨刑因施爲南海祇洹寺維摩詰像髭、寺人寶惜、初不虧損、中宗朝、宗樂公主五日鬪草、欲廣其物色、令馳騎取之、他恐爲他所得、因剪棄其餘、今遂無」と

   *

 晉の謝靈運(しやれいうん)は、髭(くちひげ)、美なり。刑に臨み、因りて、施すに、南海祗洹寺(ぎをんじ)の維摩詰(ゆいまきつ)の像の髭と爲せり。寺人(じじん)、寶惜(ほうせき)し、初め、虧損(きそん)せず。中宗の朝(てう)に、安樂公主(あんらくこうしゆ)、五日、鬪草(くさあはせ)し、其の物色(ぶつしよく)を廣めんと欲して、騎を馳(は)せて、之れを取らしむ。他(たにん)の得る所と爲ることを恐れ、因りて其の餘(のこ)りをも剪(き)り棄(す)つ。今、遂に無し。

   *

「謝靈運」(三八五年~四三三年)は東晋から南宋にかけての詩人・文学者。魏晋南北朝時代を代表する名詩人で、山水を詠じた詩が名高く、「山水詩の祖」とされる。当該ウィキによれば、『六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は』『前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将であ』った。四〇六年の二十歳の時に当主となったが、四二〇年、『東晋に代わって南』『宋が建てられると、爵位を公から侯に降格された。少帝の時代に政争に巻き込まれ、永嘉郡(現在の浙江省温州市)の太守に左遷させられるも、在職』一『年で辞職、郷里の会稽に帰って幽峻の山を跋渉し、悠々自適で豪勢な生活を送った。この時に他の隠士とも交流し、多くの優れた詩作を残した』。四二四年、『文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ』、「晋書」の『編纂などに従事した。その後、侍中に遷った。しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、病気と称して職を辞し、再び郷里に帰った』。『再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。特赦により臨川郡内史に任ぜられるが、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。その後、武器や兵を募って流刑の道中で脱走を計画したという容疑をかけられ、市において公開処刑の上、死体を晒された。享年』四十八であった、とある。「南海祗洹寺」不詳。「維摩詰」サンスクリット語「ビマラキールティ」の漢音写「毘摩羅詰利帝」の縮約で単に「維摩」とも。「浄名」「無垢称」などと漢訳される。「維摩経」に登場する主人公(恐らく架空)で、古代インドの毘舎離(びしゃり)城に住んだとされる大富豪。学識に富み、在家のまま菩薩の道を行(ぎょう)じ、釈迦の弟子としてその教化を助けたとされる人物。「中宗」は唐の第四代(在位:六八四年一月三日 ~二月二十六日)・第六代皇帝(七〇五年二月二十三日~七一〇年七月三日)。当該ウィキによれば、彼は最初の『即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞(元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。この発言を理由に、即位後わずか』五十五『日で廃位され、均州・房州に流された』。『代わって同母弟の李旦(睿宗)が即位したが』、六九〇『年に廃位され、武則天が自ら即位して武周』朝を建国した。『その末期の』六九九年、彼は『武則天により再び立太子され』、七〇五『年にクーデタで退位を余儀なくされた武則天は』彼に譲位した(唐の復興)という経緯がある。「安樂公主」(六八四年~七一〇年)は唐の中宗の娘。彼女は後、母韋后と共謀し、中宗の殺害と唐朝の簒奪を企て、七一〇年七月三日、中宗が両者により毒殺されるのだが、臨淄王(りんしおう)李隆基(後の玄宗)が直ちに兵を挙げて韋后を殺害(七月三日)、さらに逃亡した安楽公主も七月二十一日に殺害されている。懲りない連中だな。従って以上は中宗第六代在位中の十一年弱の閉区間の出来事となる。

「『古今著聞集』に宮中の菖蒲合せ花合せ前栽合せ抔を記せる」「古今著聞集」(伊賀守橘成季編。(建長六(一二五四)年頃に原型成立)の巻第十九の「草木 第二十九」の中の複数の条。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年有朋堂書店刊の同書で、熊楠の言った順に示すと(標題は所持する「新潮日本古典集成」のそれを使用し、検索の便とした)、「菖蒲合せ」は、正確には「菖蒲(あやめ)の根合(ねあは)せ」で根っこの長さを競うもので(私はちょっと失笑した)、「永承六年五月、内裏にして菖蒲根合せの事」(ここの左ページ八行目以降)、「花合せ」は「序」の後にある巻頭の「延喜十三(一九一三)年十月、新菊花合せの事」に始まり、「天暦七(九五三)年十月、殿上残菊合せの事」、及び、「長治二(一一〇五)年後(のちの)二月(閏二月)、殿上花合せの事」や、「順徳院の時(一二一〇年~一二二一年)、内裏花合せに非蔵人孝道大きなる桜の枝を奉る事」(右ページ五行目の「同御時内裏にて花合せありけり」以下。「孝道」はそこに出る孝時の実父)などがあり、「前栽」(せんざい)「合せ」(「前栽」は草木を植え込んだ庭で、寝殿造では正殿の前庭を指し、「前栽合せ」はその実際の樹や花、或いは、それらを読み込んだ和歌の優劣を競うもの)は、「天禄三(九七二)年八月、規子内親王野宮に前栽をゑて管弦の事」(個人的には、この話、ヴィジュアルに楽しく好きである)の他、「嘉保二(一〇九五)年八月、白河上皇鳥羽殿にして前栽合せの事」(これはしかし、洲浜である)などがある。

「小戯」「こあそび」と訓じておく。

「共進會」(きようしんくわい)近代語。産業の振興を図るために産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会。明治初年代より各地で盛んに開催された。「競進會」とも書く。

「雜ゆる」「まぢゆる」。

「寄た後」「よせたあと」。

「彼山」「かのやま」。

「日高郡龍神村」ここ

「猴」「さる」。

「迚」「とて」。

「本と」「もと」。

「自瀆」初出及び「選集」では総て「手淫」となっている。

「牝猴」「めすざる」。

「不淨期」生理期間。但し、猿の♀の発情期は思う以上に短く、メンスでなくても♂を近づけず、強力に歯向かう時期さえある。

「言出た」「いひだした」。

「壯歲」壮年に同じ。

「サーカスに從ひたりき」アメリカ放浪時代の一八九一(明治二四)年の五月以降一年半に亙って、彼は、フロリダ州ジャクソンヴィルから、九月にはキューバのハヴァナへ渡り、翌年一月には、再びジャクソンヴィル市に移っている(ジャクソンヴィルでは中国人江聖聡が経営する八百屋に住み込みで雇われ厄介になっている)。多様な生物調査の中で新発見の緑藻や地衣類を発見する一方、事実、ハヴァナではサーカスの書記係で糊口を凌いでいたらしい。

「神異經」中国の古代神話に基づく「山海經」(せんがいきょう)に構成を倣った幻想地誌。著者は漢の武帝の側近東方朔とする説があるが、現在は後世の仮託とされている。

「𧳜」(しう)「と云ふ大猴」(おほざる)私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「玃(やまこ)」の本文にも出る。私の注も参照されたい。なお、ユニコード以前の電子化であったので、「𧳜」他が表示出来なかったことから、ここでは正規表現に直す。

   *

やまこ    玃父  猳玃(かくわく)

【音、却(きやく)。】

      【和名、夜麻古。】

キヤ

「本綱」に、『玃は老猴なり。猴に似て、大きく、色、蒼黑。能く人行(じんかう)して、善く人・物を攫持(かくじ)し、又、善く顧盼(こへん/こはん)す。純牡(じゆんぼ)にして牝(めす)無し。善く人の婦女を攝し、偶を爲して、子を生む。』と。

𧳜(しう)は、「神異經」に云はく、『西方、獸有り。𧳜と名づく。大いさ、驢(ろば)のごとく、狀(かた)ち、猴のごとし。善く木に縁(よ)る。純牝(じゆんひん)にして、牡(をす)無し。要路に群居し、男子を執り、之れと合(がふ)して孕む。此れも亦、玃の類にして、牝牡(ひんぽ)相反する者なり。』と。

   *

「猴の經立」(ふつたち)「は能く人に似て女色を好み里の婦人を盜み去る事多しと佐々木君の話し柳田氏の遠野物語三六頁に見え」私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 四四~四九 猿の怪』を参照。但し、「遠野物語」では、それよりも前の「三六~四二 狼」に出てきている。後者の当該ウィキの引用を読まれたいが、「経立」(ふったち)は青森県(そちらでは「へぇさん」とも呼ぶ)・岩手県に伝承される妖怪或いは魔物で、生物学的な常識の範囲を遙かに越えて生き、甲を経た狼・猿・鶏・鱈といった動物が変じたものとされる変化(へんげ)を指す語である。

De Chambre, ‘Dictionnaire Encyclopédique des Sciences Médicares,’ 2me série, tom.xiv, p.363, 1866」医師アメデェ・ドシュンブル(Amédée Dechambre 一八一二年~一八八六年)。

『二九九號一九二頁已下に予が全文を出した「山神繪詞」』初出はこの(「J-stage」のPDF4コマ目。ブログ版では終りの、「山ざくらは、わがすむあたりの詠(ながめ)なれば、」以下。PDF一括版では20コマ目以降。読み易さから、最後のものをお勧めする。

「スヰングル氏」アメリカ合衆国の農学者・植物学者ウォルター・テニソン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)。『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照。

「白井博士」植物学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。

「有た」「あつた」。此繪には山神を狼とし居り、今も熊野に狼を名いはず山の神と呼ぶ村「西牟婁郡溫川」(ぬるみがは)。現在の和歌山県田辺市中辺路町(なかへちちょう)温川(ぬるみがは)

「弄ぶ」「もてあそぶ」。

「笄櫛」「かうがい・くし」。

「吹て」「ふきて」。

「吹ず」「ふかず」。

「吹き樣」「ふきざま」。

「成るは六かし」「なるはむつかし」。

「爾時」「このとき」。

「猴體」「さるてい」。

「人類學雜誌三十二卷二號五九頁」論考及び筆者不詳。佐々木の冒頭の前号だし、以下の熊楠のブイブイから、彼の論考らしい。私は佐々木喜善が好きだ。柳田國男に「遠野物語」を体よく剽窃され、今、又、熊楠から「俺の説の又出しじゃ!」と罵られる彼を考えると、私には、激しくやりきれない気がするのである。

「吉野の柘」(つみ)「の仙女」「柘」、則ち、「山桑」(「柘」を「やまぐは」とも読む)の変じた仙女柘枝仙媛(つみのえのやまひめ)。「國學院大學デジタル・ミュージアム」の「万葉神事語辞典」にある辰巳正明氏の「やまひめ」の解説がネット上で最もよく纏まっている。詳しくはそちらを読まれたいが、それによれば、以下に示す「万葉集」の三首、及び、「懐風藻」に載る『吉野の詩に「美稲逢槎洲」(紀男人)、「尋問美稲津」(丹墀広成)、「美稲逢仙月」(同)のように詠まれていて、吉野の美稲(味稲)が仙人に逢ったという伝説があった』のだが、残念ながら、第一次資料としての同伝説を記したものは現在に伝わっていない(「万葉集」の第一首の後書には「柘枝傳」とあるが、中西進氏の後段社版脚注に、これは『浦島伝などと同じく奈良末期に行われた漢文伝』だが、『現存せず』とある)。以下、「万葉集」の巻第三にある仙柘枝(やまひとねのえ)の歌三首を前記中西版のものを恣意的に漢字を正字化して示す(三八五~三八七番)。

   *

    仙柘枝(やまひとつみのえ)の歌三首

 あられふる吉志美(きしみ)が岳(たけ)を險(さが)しみと草とりはなち妹(いも)が手を取る

   右の一首は、或は云はく。「吉野の人、

   味稻(うましね)の柘枝仙媛(つみのえ

   のやまひめ)に與へし歌なり」といへり。

   但し、「柘枝傳(つみのえでん)」を見る

   に、この歌あることなし。

 この夕(ゆふべ)柘のさ枝の流れ來(こ)ば梁(やな)は打たずて取らずかもあらむ

  右の一首は、[やぶちゃん注:以下作者名は脱落。中西氏は『あるいは山部赤人か』とする。ともかくもこの三首は全く異なった作者のものであり、この時点で組歌ではないことが判然とする。

 古(いにしへ)に梁打つ人の無かりせば此處にもあらまし柘の枝はも

  右の一首は、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)の作。

   *

先のリンク先で辰巳氏は、この伝説の内容を略述され、『昔、吉野に味稲という漁師があり、川に梁を仕掛けて夕方に漁をしていると、柘(桑)の枝が流れて来て、突如、桑の枝が女性に変成し、味稲はその女性(仙媛)を手に入れたということらしい。その味稲という漁師が詠んだ歌が』第一『首目で』、この『「あられふる」の歌は』「逸文肥前国風土記」の「杵島(きしま)」の杵島山(きしまやま)の『条に、春秋に歌垣があり』、『その歌に「あられふる杵島が岳を峻しみと草採りかねて妹が手を取る」と見え、これは杵島曲』(きしまぶり)『だという。歌の内容はほぼ類同する』。(中略)『九州の杵島曲という歌曲が、歌垣の基本曲として広く流伝していたことが知られ』、漢詩集「懐風藻」(天平勝宝三(七五一)年成立)には『吉野の詩に「美稲逢槎洲」(紀男人)、「尋問美稲津」(丹墀広成)、「美稲逢仙月」(同)のように詠まれていて、吉野の美稲(味稲)が仙人に逢ったという伝説があったことが知られる』とあり、また、辰巳氏は、かなり古くに中国の仙女譚が流入して形成されたものと述べておられれる。

「歌に詠まれた山姬」例えば、「古今和歌集」(成立は延喜五(九〇五)年以降)の「巻第十七 雑歌上」の伊勢の一首(九二六番)、

 裁ち縫はぬ衣着(きぬき)し人もなきものをなに山姬の布(ぬの)さらすらむ

曾根好忠(生没年未詳。延長(九二三~九三一)初年頃の出生か)の「曾丹集」(そたんしゅう)(七九番)の、

 山姬の染めてはさほす衣かと見るまでにほふいはつつじかな

「後撰和歌集」(天暦九(九五五)年から天徳二(九五八)年の間に成立)の「巻第七 秋下」のよみ人知らずの(四一九番)、

 わたつみの神にたむくる山姬の幣(ぬさ)をぞ人は紅葉(もみぢ)といひける

「千載和歌集」(文治四(一一八八)年、後白河院上覧)の「巻第五 秋歌下」の左京大夫顕輔の一首、

  歌合し侍りける時、紅葉の歌とてよめる

 山姬に千重(ちへ)のにしきをたむけてもちるもみぢ葉をいかでとゞめん

など。「新編国歌大観」では「山姫」は二百十首、「やまひめ」の表記では三十七首を数える。

「女形」「ぢよけい」。

「山婆」「やまんば」。

「本と」「もと」。

「同誌二九九號一九二頁」は『山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』初出の当該ページPDF4コマ目)を指す。]

2022/06/15

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「眼と吭に佛有りと云ふ事」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正五(一九一六)年二月発行の『人類學雜誌』三十一巻第二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。なお、老婆心乍ら、「吭」は「のど」と読む。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いたが、平凡社「選集」も参考にし、また前記初出を「j-stage」のこちらでダウン・ロード出来たので(PDFこれ)、それも参考にした。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     眼と吭に佛有りと云ふ事

 

 禪僧問答の笑話今日の落語家が蒟蒻問答と云ふ者の本邦と瑞西國の例を去年七月一日の「日本及日本人」に出し、其原話は印度邊に生じただらうと述た所、八月一日の同誌に鈴木眞靜君より斯る譚が印度のカリダーサ傳に附屬する由明答を得て、迺ち鈴木君の全文を十一月十三日のノーツ、エンド、キーリスに譯載した。其結果、十年前「英領中央亞非利加」を著して人種學者民俗學者を益した、アリス、ワーナー女史等よりザンジバール等にも斯る話行はるると知され其梗槪を譯して寄せ置いたから、多分二月中に「日本及日本人」へ出るだらう。其内に載せなんだが鈴木君の文と俱に英國で出し置た通り、此話の異態を先年紀州西牟婁郡へ京都から來た說敎僧より傳聞せるは次の如し。云く、本山より末寺へ客僧を遣し無言で問答して、住持が滿足に應對し得ずば寺を追はるゝ定めで、其時節が迫り近づき住持大弱りの所へ出入りの餅屋來り、住持の身代りに立つべし迚其法衣を着し威儀を正して鹿爪らしく俟つと、果たして客僧やつて來り、卽座に兩手の拇指と拇指食指と食指とを連ねて圜狀を成し示すと、餠屋扨は斯程大きな餅一つの價を問ふと心得、十文と云ふ代りに十指を展べ示すと、客僧叩頭す。次に客僧三指を出すを見て、餅屋十文は高値なれば三文で賣れと云ふ意味と曉り、一指を眼下に加へベカカウして見せると、客僧九拜して去た。或人客僧に、何故斯迄彼の(僞せ)住持に敬服したかと問ふと、吾れ先づ圜狀を示して大日如來は如何と問ひしに彼十指を展べて十方世界を遍照すと對へ、更に彌陀の三尊は何處に在りやと問ひしに彼れ其眼に指を加へて眼に在りと示したは眞に悟り捷い住持で、吾輩が企て及ぶ所でないと言つたさうだ。按ずるに天文九年頃成た守武獨吟千句に、「吾身ながらも尊くぞある」「目の佛かしらの神を戴きて」貞德の油粕に「今は二尊の中間ぞかし」「鼻の上に黑まなこ程痣出來て」、斯く人の眼中に佛ありと云たは、もと神と髮と同訓なるより正直の頭に神宿る抔言ひ出し、其に對して人の眼瞳に對座する者の顏貌が映るを眼中に佛があると想ふたのだらう。紀州西牟婁郡の俗今も瞳孔を女郞と呼ぶ。是亦右と同樣の想像に起つたらしい。予未見の書 Sir Everard im Thum, ‘Among the lndians of Guiana,1883, p.343 より友人が抄し示されたるを見ると、南米ギアナのマクシ人は、人の瞳中に小さき人像あり、其人死して魂身を離るればこの小像滅して見えずと云ふ由、是は眼曇りて最早や對する人が映らぬを斯く云ふらしく、斯る俗信は日本に限らぬと見える。

[やぶちゃん注:「禪僧問答の笑話今日の落語家が蒟蒻問答」(こんにやくもんだう)「と云ふ者の本邦と瑞西國の例を去年七月一日の「日本及日本人」に出し、其原話は印度邊に生じただらうと述た」「蒟蒻問答」は落語の演目。俄か住職になった蒟蒻屋の主人が旅僧に禅問答を仕掛けられ、口もきけず、耳も聞こえない振りをしていると、旅僧は無言の行(ぎょう)と取り違え、敬服、身振り手振りのジェスチャーが悉く公案の明答と勘違いする仕方噺の代表的なもので。幕末の落語家二代目林屋正蔵の作とされるが、異説もある。この落語の題名から、「とんちんかんな問答・見当外れの応答」の意で広く慣用される。さて、加工データとして使用させて戴いているサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(一九七二年平凡社刊「南方熊楠全集5(雑誌論考Ⅲ)」底本)にあるので、そこから当該論考を引用する(但し、電子化者の配したノンブルは除去し、記号の一部は除去・変更した)。

   *

 

    禅僧問答の笑話

 

 三十年ほど前、下六番町に大きな邸を構えおった故津田出氏(当時元老院議官)方へ遊びに行き、氏の次男安麿という人から種々珍譚を聞いた内に、このようながあった。いわく、どことかに禅寺あって住持一向愚物だった。ところが寺の制規で何年目とかに一度本山から高僧が来て、いきなり法問を仕掛けるに口舌をもってせず手振りばかりでする。住持よく手振りでこれを解答せば続いてその寺に座し得るが、それができずば直ちに追い出さるるはずだった。ある時高僧が押し懸け来る日取りが迫って来たので、住持到底難問を答え得る見込みなく、逃支度で弱り入りおるところへ出入りの餅屋入り来たり、あまりに顔色が悪いのを見て何を憂いてかく青ざめおるかと問うと、住持裹(つつ)まず右の次第を明かした。すると餅屋いわく、手振りなどは先方の取りようでどうとも解し得るものゆえ、大胆出任せにやりなさい、貴僧自身で做(な)しかぬるなら私が当日御身代りに立ってもよい、と。聞いて住持大いに悦び、ともかくも頼むとのことで、その日になってかの餅屋に剃髪させ、自分の袈裟法衣を著せ、よい加減に作法一通り教えて待ち受けると、果然本山の高僧がやって来てすぐさま手振り問答を始めた。一番に、高僧、一手の指一本をもって天を指す。餅屋、これを見て透かさず一手の指二本で天を指す。二番、高僧、二指をさし揚ぐると、餅屋、後れずたちまち四指をさし揚ぐる。三番に、高僧、三指を突き出すに即応して、餅屋の贋(にせ)住持、掌を開いて五指を示した。これを見届けた高僧、大いに感じ入り、われ諸多の寺院を巡廻せること多きも、この住持ほどの偉人に逢いしことなしとて、礼拝賛歎して去った。住持、餅屋を命の親と厚く礼して、さてかの問答の時の手振りは一体何ごとを演(の)べたのかと尋ぬると、餅屋いわく、高僧まず指一本出したは、僕が営業する餅一箇の価を問うたものと合点して、二指で二文と示した、すると、かれ二指を出して二箇の価を問うたから、もちろん四文の由を四指で答えた、さて三指出して三箇の価を尋ぬるゆえ、二三が六文のところを五文に負けて進じょうとて、五指を出して見せたのだ、と対えたそうじゃ。予にこの話をした安麿氏は、ハーリー、ブラックを始め、種々の落語家、芸人と広く交わった人ゆえ、たぶん件の話は当時寄席などで演ぜられた物と惟う[やぶちゃん注:「おもう」。]。

 予、多年この話が何か和漢の書に出でおるだろうと探索したが見当たらず、その類話くらいはありそうなものと一切経を通覧せしも一つもなかった。しかるに頃日[やぶちゃん注:「このごろ」。]不図(ふと)仏人ベロアル・ド・ヴェルヴィルの『上達方(ル・モヤン・ド・バーヴニル)』を閲すると、これと全く同趣向の話が見当たった。この書の著者は一五五八年生まれ一六一二年ごろ死んだ学僧で、命終前二年ほどにこの書始めて世に出たという。ソクラテス、プラトン、ルーテル、カルヴィン以下、古今の賢哲数十人、『昔語質屋庫』[やぶちゃん注:「むかしがたりしちやのくら」。曲亭馬琴の読本。]風に大一座して放談、快話したところを書き留めた物で、スウェーデン女皇クリスチナ、これを侍婢に読ませ聴いて大いに悦んだと言い伝う。

 その第一〇〇章にいと可笑(おか)しき譚あり。ピエル・ルーヴェー(一五六二年ごろ生まれ八十二歳で死す。仏国で有名な法学者また考古家談(かた)る。夫婦、法庭で不和の理由を陳ずるに、詳しく言説せずにもっぱら手真似をもってする者あり。その男が妻の秘処について述ぶるとて、「これほどだったら」と栂指と食指を曲げ合わせ、「またせめて」と言いながら、両手の拇指と栂指、食指と食指を曲げ合わせ、「しかるにこれだから」と言うと同時に、帽子を仰向けて判官に示すと、妻も何条黙止せん、まず自分の腿を指ざし、次にその臂を示し、さて小指を示して不満を訴えたは面白かつたと言うを聞いて、アルシャト(十六世紀の伊人。カルヴィンの法敵たり)語るよう、それに似た珍事がゼネヴァにあった。ゼネヴァへ大学者が来て、言語せずに手真似で学論をやろうと申し込むと、一同恐れ入って応ずる者なし。折からモンタルギスより漂浪し来たつた大工、それは気の毒なり、われ往って論議せんと言う。市人みな大いに悦び僧の冠服を大工に著せ、公衆の観る前でかの学者と立ち合わしめると、学者、拳をもって天を指し一指を露わすを見て、大工、たちまちその二指を示す。次に学者、三指を出すと、大工、握り拳を進む。そこで学者、林檎を取って大工に見せると、大工「隠し」から麪包(パン)の破片を摂り出して彼に対えた。その時大学者大工を敬仰して座を却き、この大工こそ世界一の賢人なれと称讃した。それからゼネヴァは学者の淵藪だと大評判となった。さて、ある人かの大工を招き、私(ひそ)かにかの法論問答の次第、手真似の意義を聞くと、これはしたり、「全体かの学者の野郎は人がよくない。まず一指を示して僕の一眼を抜こうと脅したものだから、しからばおれは汝の眼を双つながら抜いてやろうと二指を示した。よって怒って今度は僕の眼二つと鼻一つと合わせて三つを抜いてやろうとて三指を出して来た。その上はいっそ打ち殺すぞと僕が拳を出して見せた。そこで恐れ入って小児を賺(すか)すように林檎を見せたから、そのような物は入らぬ、一番好い物を持っておるとて、麪包(パン)の破片を示したまでで御座る」と大工が言った、と出ず。

 予の考えでは、日本の餅屋の禅問答の話と、右に述べたスイスの大工の学論の話はあまりよく相似ておるので、箇々別々に自然に生じた物でなく、たぶんインド辺にあった一話が東西に別れ伝わりて同軌異体のものとなったらしい。さてインドより日本に入るには、たぷん支那を経ただろうから、支那の多くの書籍や伝説中には必ず原話もしくは類話があることと思えど、自力で今まで見出だし得なんだ。よって本誌紙面を拝借して、このことを広告し、大方の教示を竢つ。

 ただし予は多少相似たものは必ず一方より他方へ移って変化したと謂わぬ。現に件の『上達方』の一書の八九章に、ゼネヴァでカーム節会に遊び興じて頭に鉄の壺を冒(かぶ)り踏(おど)り舞える者、鼎深く入って頭を抜き出すこと成らず、一同この上は壺を破る外に救助の道なしと歎くところを、イグナセ上人の頓智で履箆(くつべら)を挿し入れて鼻を扁(ひら)め低くし、何の苦もなく頭を抜き出したとあるなんどは、『徒然草』の鼎を冒つて踊った男の話に似ておるが、それには履箆で救うた一件ないから、まずは二話自然に別境に生まれ出たものと惟う。(六月十六日)   (大正四年七月一日『日本及日本人』六五八号)

   *

ここに出る「上達方」は十七世紀フランスの作家フランシス・ベロアルド・ド・ヴェルヴィル(Francois Beroalde de Verville 一五五六年~一六一二年)の艶笑譚集‘Le moyen de parvenir’(「出世の道」)。一六一〇年刊。「ゼネヴァでカーム節会」「ゼネヴァ」はジュネーヴ(フランス語: Genève)であろうが、「カーム節会」は不詳。

「鈴木眞靜君より斯る譚が印度のカリダーサ傳に附屬する由明答を得て、迺」(すなは)「ち鈴木君の全文を十一月十三日のノーツ、エンド、キーリスに譯載した」「鈴木眞靜」は「すずきましづ/しんせい」と読み、明治六(一八七三)年丹波篠山生まれで、アメリカ・印度に留学し、アジア大陸・南米大陸の探検旅行をした人物である。「カリダーサ」は四世紀後半から五世紀前半にかけて生きた古典サンスクリット文学爛熟期のインドの詩人。グプタ朝の最盛期チャンドラグプタ二世の宮廷詩人であったとされ、優雅な文体で伝説・恋愛・冒険の詩や劇を書いた。代表作「シャクンタラー」は王に恋した天女の娘の運命を物語り、カルカッタ滞在の裁判官ウィリアム=ジョーンズによって十八世紀末英訳され、ゲーテらに影響を与えた。他に郷土に残してきた妻への思いを伝える叙情詩「メーガドゥータ」等が知られる(「旺文社世界史事典」に拠った)。「ノーツ、エンド、キーリス」Notes and Queries。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(「報告と質問」)は一八四九年にイギリスで創刊された読者投稿の応答に拠ってのみで構成された学術雑誌。熊楠の投稿記事は「Internet archive」のここ(右の387ページの左の下方の“In  consequence  of  my  public  inquiry  into a  probable  source  of  these  stories,  Mr. Shinsei  Suzuki  wrote  as  follows  in  the  Japan and  the  Japanese,  Tokyo,  1  Aug.,  1915, p.  143  :—”(「これらの物語の出所と思われるものへの私の一般への問い合わせの結果、鈴木真静氏が『日本及日本人』で次のように記した。」)以下がそれ)で読める。

『十年前「英領中央亞非利加」を著して人種學者民俗學者を益した、アリス、ワーナー女史』アリス・ワーナー(Alice Werner 一八五九年~一九三五年)はドイツ生まれでイギリスに定住したバントゥー語(アフリカの広い範囲で話される言語群。言語系統的にはニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群に含められる)の作家・詩人で、同書は一九〇六年刊の ‘Native Races of British Central Africa’ (「イギリス領中央アフリカの現地人種」)であろう。イギリス中央アフリカ保護領は一八九一年から一九〇七年まで現在のマラウイ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に存在した。

「ザンジバール」アフリカ東海岸のインド洋上にあるザンジバル諸島の地域名。現在はタンザニア連合共和国に属する。

『其梗槪を譯して寄せ置いたから、多分二月中に「日本及日本人」へ出るだらう』調べて見たが、掲載された事実は見出せなかった。「南方熊楠全集」には所収しないようであるが(収録されていれば、「選集」に割注が入るはずであるが、ない)、殆んどが訳文だとすれば、載らないだろうとは思う。

「高値」「かうぢき」と訓じておく。

「曉り」「さとり」。

「ベカカウ」現代仮名遣は「べかこう」で、現行では概ね「べかっこう」「べっかっこう」と発声することが多い。「めかこう」(「目赤う」の変化した語ともされるが、語源は未詳。但し、私は腑に落ちる)の変化した語で、指で下瞼を引き下げて裏の赤い部分を見せること。からかいや、拒否の気持を表わす時などにする仕草。また、その仕草をする時に同時に言う台詞。加えて同時に舌を出すこともある。所謂「あっかんべー」である。

「去た」「さつた」。

「彼の」「かの」。

「(僞せ)住持」贋物とは言えないところを熊楠が補助したもの。

「捷い」「すばやい」。

「天文九年」一五三九年。

「守武獨吟千句」「守武千句」。戦国時代の伊勢内宮神官で連歌・俳諧作家であった荒木田守武(文明五(一四七三)年~天文一八(一五四九)年)の俳諧連句集。天文五(一五三六)年正月に独吟の俳諧千句を立願(りゅうがん)したが、史上初の試みでもあり、一時、挫折、四年後、再挑戦し、大神宮法楽(ほうらく)の俳諧として遂に完成させた。江戸初期の慶安五(一六五二)年になって板行され、広く知られるようになった。彼は山崎宗鑑と並んで「俳諧の祖」と呼ばれる。しかし、不審なことに、「日文研」の「俳諧データベース」の「守武千句」(一ページに異同句も含む)には、この「吾身ながらも尊くぞある」と「目の佛かしらの神を戴きて」の句は見当たらない。似通った句さえないのである。他の俳諧集の誤りか。発見次第、追記する。

「貞德の油粕」(あぶらかす)は江戸前期の京の俳人・歌人で歌学者でもあった松永貞徳(元亀二(一五七一)年~ 承応二(一六五四)年)の俳諧集だが、当該本を確認出来ないので、以下の二句の確認も不能。

「痣」「あざ」。

「正直の頭」(かうべ)「に神宿る」「正直者には必ず神さまのお助けがある」という諺。

「眼瞳」「がんどう」或いは二字で「ひとみ」と読んでいよう。

Sir Everard im Thum, ‘Among the lndians of Guiana, 1883, p.343」エヴァラード・フェルデイナンド・イム・サーン(Everard Ferdinand im Thurn 一八五二年~一九三二年)はロンドン生まれの作家・探検家・植物学者・写真家にして英国植民地管理書記官。一九〇四年から一九一〇年 にはフィジーの知事ともなっている。原本当該部は「Internet archive」のここで読める。

 「マクシ人」原本では‘Macsis’とある。いかなる民族かはよく判らないが、調べた限りでは、南米の旧イギリス領ガイアナの南西部に暮らす先住民族で、毒矢を製することが判った。検索過程でたまたま見たサイト「Medical Tribune」の「男性の浮気防ぐなら女性少ない環境が重要? 米研究」の調査対象が彼らであった。

は、人の瞳中に小さき人像あり、其人死して魂身を離るればこの小像滅して見えずと云ふ由、是は眼曇りて最早や對する人が映らぬを斯く云ふらしく、斯る俗信は日本に限らぬと見える。]

 序に言ふ。源平盛衰記四五に平重衡斬らるゝ時、土肥實平が鎌倉で善き便宜の候ひしになどて御自害は候はざりけるやらんと問ひしに重衡答へて、人の胸には三身の如來とて佛おはします。怖れ悲しと思ひて身より血をあへさん事は佛を害するに似たり、されば自害はせざりきと言たと見ゆ。今も此邊で人の吭に佛有りと云ひ、火葬跡を搜りて佛を拾へりとて親族が持ち歸り佛壇に納むるを見るに、行燈のカキタテ狀の小骨片で、見樣次第で佛の座像の如く見えぬでも無い。實は第二頸椎骨、解剖學者がアキシス(樞軸)と呼ぶ者だ。扨過る明治四十二年、英國のジー・エチ・リーセムなる人より來書に、其前旅順攻擊に從軍したアシユメツド・バートレツトの近著「旅順攻圍」に二百三高地を日軍が占領した時の記事中次の言有り。云く、「日軍の戰死者一々點檢され、姓名判りし分は早速山より運び下されて火葬を竢つ。この際軍醫戰死者每に其結吭(アダムス、アツプル)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]を截取り置く。是れ故鄕の遺族に送るが爲なり」と。斯る事實際行はれしやと問はれ、熊楠其場に在なんだから何とも答ふる術を知らず。然し、斯る忩劇中に無數の結吭軟骨を截取て保存する抔は有得可らざる事と惟ひ、多分バートレツトは實際親ら覩ぬ事を覩た樣に書たので、全く戰死の屍體を火葬して其第二頸椎骨等を拾うて鄕里へ送る由傳聞したが、言語十分通ぜずして骨片を結吭と誤解し、骨拾ひを截取りと訛傳したのだらうと答へ置いたが、西人が東洋の事を十分呑込まずに種々異樣の事を書立るは每度乍ら不快極まる。其と同時に、從軍記者抔に對しては今少しく言語の能く通ずる邦人をして接待せしめられたい事だ。扨て四年經つて大正二年リーセムより書信有て、誠に熊楠の言の如く、バートレツトは躬ら覩ぬ事を覩たように吹たので有らう。但しバの法螺も多少の所憑は有る。其後種々調べて印度ベンガルのサンタル人は死人の結吭を截取てダムダてふ聖河へ持行き抛入ると知た。バは此サンタル人の事を、等しく喉に關する事とて、日本戰死者に附會したのだらうと述べられた。

       (大正五年二月人類三十一卷)

[やぶちゃん注:「選集」では本文の末尾に『(一月十九日夜)』という日付が記されてある。

「源平盛衰記四五に平重衡斬らるゝ時、土肥實平が鎌倉で善き便宜の候ひしに……」国立国会図書館デジタルコレクションの明治四五(一九一二)年有朋堂刊の石川核校訂「源平盛衰記 下」のここ。右ページ後ろから五行目以降で、後ろから六行目以降。「虜(いけどりの)人々流罪 附(つけたり)伊勢(いせの)勅使改元有否(あらんやいなやの)事」の一節。

「あへさん」上記原文で判る通り、「あえさん」が正しい。「あえす」は「落す・零す」で、ここは血を「したたらす」の意。「零(あや)す」の変化した語か。

「此邊」田辺近辺。というより、本邦一般で今も言う。

「人の吭」(のど)「に佛有り」現在でも火葬後の遺族への御骨の解説で、極めて高い確率で「咽喉仏(のどぼとけ)の骨」として紹介される。但し、近年は実際には喉頭隆起(甲状軟骨の張り出し)は軟骨で残らず、熊楠の言うように、脊椎骨の上から二番目の「軸椎」(頭蓋骨の直下にある)骨であるとする科学的な補足をするケースも多い。その形状はサイト「トレンドの樹」の「anatomy of Axis(Epistropheus)軸椎(第2頸椎)の解剖(用語、名称、写真)」が非常に判り易く、医学的説明も完備している。それを見ると、恰も手を合わせた仏の像にシミュラクラすると言ってよい。キリスト教では、この「咽喉仏」を後で熊楠が言うように「アダムのリンゴ」(Adam's apple)と呼ぶ。言わずもがなであるが、禁断の木の実を齧っているところを神に見られたアダムが慌てて飲み込もうとして咽喉に詰まらせたのが、その元だと言われる。

「行燈」(あんどん)「のカキタテ」行灯の内部には油皿を置き、そこに菜種油などの植物性油を注ぎ、灯心を入れて点火するが、この油皿の中の灯心を押さえ、また、灯心を掻き立てるために「掻立(かきたて)」というものが用いられる。金属製や陶製などで、いろいろあるが、その形がちょっと軸椎に似ているというのである。

「アキシス(樞軸)」Axis。アックシス。

「扨過る」「さて、すぐる」。

「明治四十二年」一九〇九年。

「ジー・エチ・リーセム」不詳。

「旅順攻擊」「日露戦争」中の、ロシア帝国の旅順要塞を日本軍が攻略・陥落させた「旅順攻囲戦」は一九〇四(明治三七)年八月十九日から一九〇五(明治三八)年一月一日にかけて戦われた。

『アシユメツド・バートレツトの近著「旅順攻圍」』イギリスの従軍記者エリス・アッシュミード・バートレット(Ellis Ashmead-Bartlett 一八八一年~一九三一年)の ‘Port Arthur the siege and capitulation’ (「旅順の包囲と降伏」:一九〇六年刊)。彼は後の第一次世界大戦で活躍した。

「竢つ」「まつ」。「俟」の異体字。

「結吭(アダムス、アツプル)」「結吭」「けつこう」と音読みしておく。

「在なんだから」「あらなんだから」。

「術」「すべ」。

「忩劇」(そうげき)は「怱劇」とも書く。非常に忙しく慌(あわただ)しいこと。

「截取て」「きりとつて」。

「有得可らざる」「ありうべからざる」。

「惟ひ」「おもひ」。

「親ら」「みづから」。

「覩ぬ」「みぬ」。

「訛傳」「くわでん」。誤って伝えること。

「大正二年」一九一三年。

「躬ら」「みづから」。

「吹た」「ふいた」。

「バ」アシユメツド・バートレツト。

「所憑」「よりどころ」。

「印度ベンガルのサンタル人」インドのビハール州南部を中心に、オリッサ西ベンガルにかけて居住する原住民部族。人口三百万以上を数え(一九六一年現在)、山地の焼畑耕作部族と、平地のヒンドゥー農民との中間地域を、ほぼ居住空間としている。時に南蒙古人種の要素も指摘されるが、基本的には原オーストラロイド人種(オーストラリア大陸・ニューギニア・メラネシアを中心としたオセアニア州及びスンダ列島・スリランカと、ムンバイを中心としたインド西南部から南部などの南アジアにかけての地域に分布する人種)型を示す。固有の言語はサンターリー語であり、ムンダ族やオリッサ州山地部族民の言語とともにアウストロアジア語族に属する。サンタル族は基本的には同じくチョタ・ナーグプル高原に住むオラオン族やムンダ族などと、ほぼ同水準同内容の文化を持つ部族民であるが、取り分け、その部族主義的傾向で知られている(概ね平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「ダムダてふ聖河」ダモダル川インド東部の西ベンガル州を流れる川。この西ベンガル内に「ダーモーダル川」とあるのがそれであろう。

「持行き」「もちゆき」。

「抛入ると知た」「なげいれるとしつた」。]

2022/06/14

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鳴かぬ蛙」 (附・柳田國男「蛙の居らぬ池」)

 

[やぶちゃん注:本論考は大正五(一九一六)年三月発行の『鄕土硏究』三巻第十二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。

 文中、熊楠が引く「隱州視聽合記」(いんしふしちやうがふき:寛文七(一六六七)年に著された隠岐国地誌。全四巻地図一葉。著者不詳であるが、現在は松江藩の藩士斎藤勘介が隠岐郡代として渡島した折の見聞に拠ったものとする説が有力である)の「輟耕錄」からの引用は「東京大学附属図書館コレクション」の「南葵文庫」にある前書の写本をここから視認し、それと校合した結果、底本にはかなりの異同があることが判明した(これは熊楠の縮約とも、彼の見た「隱州視聽合記」の写本の相違ともとれ、判然としない)。そこで底本や「選集」に拠らず、その「隱州視聽合記」写本と「輟耕錄」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの承応元(一六五二)年訓点附和刻本)の当該部(巻一・巻二一括版PDF70コマ目)から文字に起こした。「隱州視聽合記」自体が「輟耕錄」のかなりの部分をカットしているので、必要と思われる箇所はわざと残した。注での訓読はその両方を参考にした。

 太字は底本では傍点「◦」である。]

 

     鳴 か ぬ 蛙

 

 川村氏は近江輿地誌略の一文に據つて、諸國の池の鳴かぬ蛙の俚傳は、神靈降臨するも歸り給うを見ぬの意で歸らずとを、蛙入らずと故事附けても、譯も無く反證が擧げられ得た爲、更に「居ても鳴かぬ義」に漕付て了つたのだらうと言つて反對論の有無を問はれた(鄕硏三卷六六八頁)。日本のばかりの解說は其でよいとして、全體鳴かぬ蛙の話は外國にも有る。プリニウスの博物志八の八三章に、キレネ島の蛙本來啞だつた處へ、後に大陸から鳴く奴を移した。但し今も鳴かぬ者が存在する。當時(西曆紀元一世紀)セリフヲス島の蛙も亦瘖だが他所へ移せば鳴く。テツサリアのシカンドルス湖の者亦然りと有る。是等は本邦の諸例の樣に偉人の爲に聲を封ぜられた沙汰は無い。J. Theodore Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.1 に、著者躬ら往き見しに、セリフヲス島の蛙は今はみな鳴くと有る。一生蛙に付添うて鳴く鳴かぬを檢する人も無からうが、昔右樣の說が行はれたるを考ふるに、里近く鳴かぬとか人が少しく近づけば鳴かぬとか、常の蛙と異なつた者が有つたか、又丸で鳴かぬのも全く無かつたに限らぬ事と想ふ。國により少しも吠えぬ犬有る事今日も聞及ぶ。扨本邦同樣聲を封ぜられた蛙の例は、隱州視聽合記四に、海部郡葛田山源福寺の庭の池畔に、後鳥羽上皇御遊の折り松風蛙鳴を聞て「蛙なく葛田の池の夕疊み、聞まじ物は松風の音」、是より今に至り蛙鳴ず、門を出て三五步せざるに常の如く鳴くと有つて、元之大德年間、仁宗在潛邱、日奉答吉太后駐輦、特苦群䵷亂喧、終夕無寐翼旦、太后命近侍、傳㫖諭之曰、吾毋子方憒憒、䵷忍惱人耶、自後其毋再鳴、故至今此地雖有䵷而不作聲、後仁宗入京誅安西王阿難答等迎武宗即位時大徳十一年也越四年而仁宗継登大寳と輟耕錄を引き居る。淵鑑類凾四四八、南史曰、沈僧昭少事天師道士、中年爲(ヲサム)山陰縣、梁武陵王紀爲會稽太守、宴坐池亭、蛙鳴聒耳、王曰殊廢絲竹之聽、僧昭咒厭十許口便息、及日晩、王又曰、欲其復鳴、昭曰王歡已闌、今恣汝鳴、卽便喧聒。輟耕錄曰、宋季城信州掘土南池、每春夏之交、群蛙聒耳、寝食不安、今三十八代天師張廣微、朝京囘、因以告天師朱書符篆於新瓦上、使人投池中、戒之曰、汝蛙毋再喧、自是至今寂然。又佛國のウルフ女尊者アミアン付近の小廬に住みし時、一朝ドミス尊者勤行を促がし其戶を敲きしも、蛙聲に紛れて聞えず眠り過した。ウルフ寤めて大に之を悔い基督に訴へしより、其處の蛙永く鳴き止んだ。リヲールとウアンの二尊者亦蛙が喧しくて說法と誦經を碍ぐるを惡み其鳴を永く禁じたと云ふ(Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ 1821-22, tom.i, p.39)。レグルスとベンノの二尊者傳亦同樣の事あり(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ 1872, vol.ii, p.375)。是等諸例、古希臘や西歐其から支那にも鳴かぬ蛙の話有るを示し、其國々に蛙を「歸る」と同似の名で呼ばぬから、歸らずの意味から鳴かぬ蛙の譚が出たと言ひ難い。さりとて日本の話だけは語意の取違へから生じ、外國のは地勢や蛙の生理上の影響から生じたと說かんとも鑿せるに似たりだ。   (大正五年三月鄕硏第三卷十二號)

[やぶちゃん注:「鳴かぬ蛙」両生綱 Amphibia無尾目 Anuraのカエル類は南極大陸を除いた全大陸及び多くの島嶼に棲息する(アカガエル類(無尾目カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属 Ranaの一部は北極線より北にも分布する)。彼らの発声器は鳴嚢(めいのう)を膨らませることによるが、鳴嚢が咽喉の前にある種類と、両側の頰にある種類とがある。さて、鳴かない蛙であるが、決して珍しいものではなく、そもそもが多くのカエルの♀は鳴かない(鳴く種もいる。但し、カエルの雌雄の識別は素人には難しいという)。また、無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae のヒキガエル類の多くは鳴嚢が持たず、♂が繁殖期に鳴くものの、大きさに反して「クックッ」といった想像以上に小さな声で、寧ろ、鳥の声に似ている(以上は複数のウィキ及びQAサイトの「鳴かないカエル」への回答を参考にした)。

「川村氏」「選集」の割注によれば、川村杳樹とある。本電子化で何度も注した通り、柳田國男のペン・ネームの一つ。同じく「選集」割注で、以下の論考元を「蛙のおらぬ池」(『郷土研究』三巻十一号六百六十八ページ)とする。この論考、所持する「ちくま文庫」版全集には所収されていないが、調べたところ、筑摩書房の旧全集「定本柳田國男集」の第二十七巻(一九六四年刊)にあることが判った。同巻は、サイト「私設万葉文庫」のこちらで電子化されてあるので、引用させて戴く。一部の漢字を正字化し、記号も一部で削除・変更を加えた。「(ノ)」は送り字と考え、上付き括弧なしとして処理した。「?」は表示不能字であろうが、「■」に代えた。「啞」(おし)或いは、その異体字、又は同義の別字か?

   *

 

   蛙の居らぬ池

 

 紀州小倉の七不思議の一に、寺の蓮池に住む蝦蟆、上人に叱られてより聲を出さずと云ひ(鄕土硏究三卷五六一頁)、伊豫松山城の濠の蛙も殿樣の沙汰で鳴かなくなつたと云ふ(同五六三、四頁)。上州太田の吞龍樣にも同じやうな話がある。かゝる譯も無い事柄が諸國に取囃されて居るのは、それこそ却つて不思議である。總別水に住む蛙は所謂妻を呼ぶ時の外は何處でも鳴かない。又遊牝(さかり)の季節になると集まる所があつて、どこの池でも躁ぐとはきまつて居らぬ。蛙の鳴かぬ池などは寧ろ七平凡の一に數ふべきものである。但し各地でそれを不思議と認むるに至つたのは、別に何等かの仔細が無くてはならぬ。近江野洲郡篠原村大字大篠原(おじのはら)の島橋の東に、不歸の池と云ふ東西に長い池がある。池の東の岡を夕日岡と謂ひ、同じく西を朝日岡と呼ぶ。齋藤實盛の首洗池と云ふ口碑もあるが、池の名の由來として傳ふるは、此郡兵主村大字五條の兵主の神、每日三度づつ此池へ影向あつて、歸りたまふを見ず、故に歸らずの池と呼ぶ。一說には此池神池にして蛙住まず、故に蛙不入池とも云ふ由(近江國輿地誌略六十八)。たつた一つの例では勿論斷定は能はぬけれども、事によると蛙が鳴かぬと云ふ各地の不思議は、右と同樣に歸らずの池の意味が不確かになつてからの後の造說であるかも知れぬ。歸らずと云ふ語の神靈降臨を意味するらしき事は、前に大和在原寺の一村薄(ひとむらすゝき)の由來に關聯して之を述べた(鄕土硏究二卷一九九頁)。卽ち業平が或朝吉野川の上に往つたまゝ歸つて來なかつた故に、塚を築いて薄を栽ゑたと云ふのである。橋占の場所を意味するらしき姿不見橋に出でて歸らざりし下部の話を傳へ(同二卷六〇三頁)、或は奧州三戶郡の淺水橋に、前夜來て宿つた旅人が朝になると見えぬと云うて居た如き(同上)、何れもこの簡單に失する地名の爲に、或は長者の寶埋め、或は一つ家の石の枕と云ふやうな意外の方面に話が移つて行つたが、實際は何れも神靈去來の跡の凡眼には認め難いことを意味したもので、自分は同じ例の中に數ふべきものと考へて居る。中にも蛙不入の如きは下手な解釋で譯も無く反證が擧げ得られた爲に、轉じては「居ても鳴かぬ」と云ふことに說き始めたのであらう。日每に三度づつと云ふのは食時の時と云ふことで、所謂朝饌問夕饌問(あさげとひゆふげとひ)の語の通り、神は祭を享けたまふ機會にのみ此世の人に應接せられるのが、日本の古い習であつたのである(鄕土硏究一卷二〇五頁)。同じ近江の地誌には兵主明神に就て又こんな話を記して居る。源の頼朝が平治の没落の際此地を過ぎた時、歸らずの池の畔に於てどうしても馬が進まぬのに不審し土地の者に聞くと、此神一日に三度づつ池へ影向あれば、今が或は其時であらうかとの答であつた。依つて下馬禮拜して武運を祈り、天下一統の後社殿を造營せられたと云ふ(近江國輿地誌略六十九)。巫覡を意味するヨリマシと云ふ語が、飛んでも無い地方に源三位賴政を神とする原因となつたことは曾て說いたが(鄕土硏究一卷五二一頁)それと同じ錯誤で神輿の前に立つ童兒を賴朝と云ふ實例も多いことである。又神を水邊に迎へて祭をすることも古來常の事であつた。此等の點に就ては更に證據を具へて又述べるつもりであるが、今は單に■の蛙の起源として此だけの推定を下し、反對論の有無を伺うて見る迄である。

   *

「近江輿地誌略の一文」「近江輿地誌略」(おうみよちしりゃく)は享保一九(一七三四)年に完成した近江国地誌。膳所藩主本多康敏の命により同藩士寒川辰清が編纂したものだが、寛政一〇(一七九八)年に藩主本多康完(やすさだ)から幕府に献上されるまで実に六十五年もの間、秘匿されていた書籍であった。以上の柳田の記載で巻号が判ったので、国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系」版でここに発見した。現在の滋賀県野洲(やす)市大篠原(おおしのはら)の蛙不鳴池(グーグル・マップ・データ。以下同じ。同書では「不歸(カヘラスノ)池」とする)で、ここの池の南東直近は源義経によって平宗盛の斬殺された場所とされ、「平家終焉の地」ともある。同書には、この池が「平宗盛が首洗池」と呼ばれたともある。記事には確かに神の影向(ようごう)してお帰りになる様子がないとあるのだが、これは寧ろ、宗盛と子の清宗が京に「帰らず」に殺された「池」という方が、噂としては遙かに説得力を持つように思うのだが。

「漕付て了つた」「こぎつけてしまつた」。「池」だから「漕ぐ」か。「こじつけて」の洒落だ。

「プリニウスの博物志八の八三章に、キレネ島の蛙本來啞だつた處へ、後に大陸から鳴く奴を移した。但し今も鳴かぬ者が存在する。當時(西曆紀元一世紀)セリフヲス島の蛙も亦瘖」(おし)「だが他所へ移せば鳴く。テツサリアのシカンドルス湖の者亦然りと有る」所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く。「主の地方的分布」の一節である。『キュレネではカエルは鳴かなかった。そして本土から鳴くカエルを輸入してきてもだまり種[やぶちゃん注:「だまり種」で一単語であろう。]はいなくならない。セリブス島のカエルも鳴かないが、その同じカエルもどこか他のところへ移されると鳴く。このことはテッサリアのシッカネア湖でも起るという。』。熊楠は「キレネ島」と言っているが、キュレネは島ではない。アフリカ大陸北岸の現在のリビア領内にあった古代ギリシャ都市である。「セリフヲス島」「セリブス島」は現在のギリシャの、エーゲ海にあるキクラデス諸島西部のセリフォス島。「テッサリアのシッカネア湖」テッサリアはギリシャのここだが、湖は判らない。

「是等は本邦の諸例の樣に偉人の爲に聲を封ぜられた沙汰は無い。J. Theodore Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.1 に、著者躬ら往き見しに、セリフヲス島の蛙は今はみな鳴くと有る。」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で原本が見られ、当該ページはここ

「元之大德年間、仁宗在潛邱日、……」冒頭注で述べた通りで、訓読を試みる。

   *

 元の大德年間、仁宗、潛邸(せんてい)に在りし日(ひ)、答吉太后(たうきつたいごう)を奉りて、輦(くるま)を懷孟(くわいまう)に駐(とど)む。特(ただただ)、群䵷(ぐんあ)の亂喧(らんけん)なるを苦しみ、終夕(しゆうせき)、寐(い)ぬること無し。翼旦(よくあさ)、太后、近侍に命じて、旨(むね)を傳へ、之れを諭(さと)して曰はく、「吾れらが母子、方(まさ)に憒憒(くわいくわい)たり。䵷、人を惱まするに忍びんや、自-後(これより)其れ、再び鳴く毋(な)かれ。」と。故に、今に至りて、此の地、䵷、有りと雖も、聲を作(な)さず。後、四年を越えて、仁宗、大寶(たいほう)に登る。

   *

「潛邸」は皇帝となる前の人物の居場所或いは太子となる前の地位を指す。ここは後者であろう。「懷孟」現在の河南省焦作市一帯に設置された州名。「䵷」蛙の異体字。「憒憒」ごたごたとして、乱れるさま。「地雖有䵷而不作聲」の後には、「後仁宗入京誅安西王阿難答等迎武宗卽位時大德十一年也」が入って、「越四年而仁宗継登大寳」となっている。実はこれが入っていないと、歴史的事実を誤ることになる。則ち、「大德十一年」に先々代の成宗テムルが崩御し、武宗カイシャンが次ぐが「四年後」の至大四年に急死し、アユルバルワダが「大寳」(皇帝)仁宗となるからである。「答吉太后」アユルバルワダには皇后が二人おり、一人はダルマシリ「答里麻失里皇」というが、彼女であろう。

「淵鑑類凾四四八、南史曰、……」「淵鑑類凾」はさんざん出た熊楠御用達の清の康熙帝勅撰に成る類書(百科事典)。原文との校合は「漢籍リポジトリ」のこちらに拠った。ガイド・ナンバー[453-28b]を見られたいが、かなり途中を省略している。訓読する。

   *

「南史」に曰はく、『沈僧昭(ちんそうしやう)、少(わか)くして天師道士に事(つか)へ、中年にして山陰縣を爲(をさ)む。梁の武陵王紀(き)、會稽の太守たり。池亭に宴坐するに、蛙、鳴くこと、耳に聒(かまびす)し。王曰く、

「殊に絲竹の聽(ちやう)を廢(めつ)す。」

と。僧昭、呪-厭(まじなひ)すること十口(じつく)許(ばか)りにて、便(すなは)ち、息(や)む。日の晚(く)るるに及び、王、又、曰はく、

「其れ、又、鳴くを欲す。」

と。昭曰はく、

「王の歡、すでに闌(たけなは)なり。今、汝の鳴くに恣(まか)す。」

と。

 卽-便(たちま)ちに喧-聒(かまびす)し。』と。

   *

「天師」道教の一派である天師道。五斗米道(ごとべいどう)とも呼ぶ。後漢末に起こった初期道教の宗教結社。二世紀後半に張陵が老子から呪法を授かったと告げて創始し、自らを「天師」と称し、祈禱によって病気を治し、信者に謝礼として米五斗を納めさせた。孫の張魯に至って教説が大成し、組織も確立して一大宗教集団を築いたが、魏の曹操の征伐を受け、弱体化した。

「輟耕錄曰、宋季城信州掘土南池、……」「輟耕錄」は元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆。中文サイトのこちらの電子化原文と校合した。やはり省略があり、熊楠の引用には一部に不審箇所があったので訂した。訓読する。

   *

「輟耕錄」に曰はく、『宋の季城、信州の南池は、春夏の交(かは)り每に、群蛙(ぐんあ)、耳に聒(かまびす)しく、寢食、安(やす)んぜず。今、三十八代の天師張廣微、京に朝(てう)して囘(かへ)るや、因りて朱書を以つて新しき瓦の上に符篆(ふてん)し、人をして池中に投ぜしめ、之れを戒(いまし)めて曰はく、「汝ら、蛙、再び喧(かまびす)しきこと、毋(な)かれ。」と。是れより、今に至るまで、寂然たり。』と。

   *

「佛國のウルフ女尊者」引用元の「Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ 1821-22, tom.i, p.39」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は「遺物と奇跡のイメージに関する評論的辞書」。一八二一年刊。「Internet archive」で原本が見られ、当該部はここで、そこに“Ulphe”の名があり、「ドミス」も“Domice”と出る。前者はカトリック教会によって聖人として認められている女性のサント・ウルフェ(Sainte Ulphe 七一一年~七八九年)で、後者は彼女ともに朝の礼拝をせんとした人物である。仏文の彼女のウィキに、“La légende du miracle des raines”(「蛙の奇蹟の伝説」)の項がある。機械翻訳でも十分に意味が採れるので、参照されたい。それによれば、ドミスがその泉のカエルを鳴かぬようにしたのは聖ドミスとするが、別なヴァージョンではウルフェ本人が祈って黙らせたともあって、熊楠の記すのは後者である。

「アミアン」Amiens。フランスの北部の現在のソンム県の県庁所在地。

「小廬」「せうろ」或いは「いほり」。

「寤めて」「さめて」。

「レグルスとベンノの二尊者」「Gubernatis, Zoological Mythology, 1872, vol.ii, p.375」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」のこちらで当該原本が見られ、そこの右ページ中央に、“St. Regulus and St.Benno”と出て、以下にカエル絡みの話が出る。]

2022/06/13

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「幽靈の手足印」(3) / 幽靈の手足印~了

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年九月発行の『人類學雜誌』三十巻第九号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、他に比してやや長く、注も必要なので、底本の三段落で分割して公開する。

 

 心安い人の說に、すべて寺の本堂の廻り椽の天井は、年を經ると必ず大小種々手足の印相を多く現出する。手足を柿澁で塗て押付た如く、指紋掌紋の微細なる迄も現然たり。此小い田邊町にも四ケ寺迄斯樣の印相ある天井板歷と存在すと。所が其人の娘言く、寺に限らず、此地の小學校の廻廊の天井にも近頃同樣の斑紋を生出したとの事で、多分木の質により自然に其樣な斑紋あるか、雨風の作用で脂汁が流れ出て成るか、微細の菌類が生えて多少手足印に似た紋相を作るか、何に致せ顯微鏡を持往て檢査するが第一と思ひながら延引する内、此事を書いた拙文不二新聞に載ったを讀で、押上中將より來信有り曰く「新築工事中、大工の内脂手の者が取り扱ひたる部分は、新築當時は不明なるも、段々年を經るに從ひ、其脂手にて觸れられたる處が黑くなり、あたかも血の付きたる手を接したる如く相成る者に候。足跡は右の如き事の機會少なしとは存じ候え共、之も接觸の機會絕無には無之候。現に小生現住の家も約二十年前の新築なりしが、數年前より右樣の手痕を顯し申候。小生他所に於ても如此者を見る事多く御座候。御參考迄に申上げ候」。此敎示を得て大いに曉り、老巧の大工を招き問ふに、其人言く誠に中將の言の如し。凡て天井板は無闇に釘を打つと正しく入らず。故に下より手で板を受けて釘を打つ事多し。其人の手脂多き時は手形が多く付く。當時は目に見えぬが、寺の廻廊など風當り烈しき處の天井板は、他の室内等の者よりはずつと速く削減され往くも、脂が付た部分は左樣は削られずに殘るから、丁度手の形だけ遺ると。又言く、幽靈には足の無いが定法故、「やもり」の如く手で這ひ步くとは云べく、足跡の有るべき筈無しと。兎に角是等の說明で所謂血天井の原因は分つたから、其内親しく當町の寺々及び學校に就て、所謂血天井には足印なく手印斗りか、足印も有らば手印に比してどれ程少きかを檢せんと欲す。 (大正四年九月人類第三〇卷)

[やぶちゃん注:「椽」「緣」。

「塗て押付た」「ぬりておしつけた」。

「此小い」「このちひさい」。

「言く」「いはく」。

「生出した」「はへだした」。

「脂汁」「やにじる」或いは「やに」と訓じていよう。

「持往て」「もちゆき」。

「此事を書いた拙文不二新聞に載った」(2)で触れた大正三(一九一四)年一月十七日から二十日に亙って『日刊不二』に連載した固定連載コラム「田邊通信」に載せた「櫻島爆發の餘響」。サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(一九七三年平凡社刊「南方熊楠全集6(新聞随筆)」底本)の「桜島爆発の余響」を見られたい。

「讀で」「よんで」。

「押上中將」『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「睡人及死人の魂入替りし譚」の「二」』参照。

「脂手」(あぶらで)「の者」脂性の大工。

「曉り」「さとり」。「悟り」。

「檢せん」「けみせん」。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「幽靈の手足印」(2)

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年九月発行の『人類學雜誌』三十巻第九号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本文中の仏典引用は「大蔵経データベース」で経典原文を確認したが、一部に表記の誤りがあり、また、熊楠は途中を一部、略して改変している。最小限で誤りを訂したが、底本と比較すれば一目瞭然なので、その箇所は特に指示しない。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、他に比してやや長く、注も必要なので、底本の三段落で分割して公開する。

 

 扨予幼少の時亡母に聞たは、攝津の尼ケ崎の某寺堂の天井に夥しく幽靈の血付の足跡が付たのを見た。戰爭とか災難とかで死で浮ばれぬ輩が天井の上を步く足跡と聞たと云れた。幽靈が天井の上を步くなら下から見える筈が無いから、幽靈の足跡に限つて板を透して下に現はれるのだらうか。但し近松門左の戲曲傾城反魂香中之卷「三熊野かげろう姿」に、狩野元信己が繪きし三山の襖戶に見入る内、其神遊んで彼の境に入り「我畫く筆とも思はれず、目塞ぎ南無日本第一大靈驗三所權現と伏拜み、頭を擧げて目を開けば南無三寶、先に立たる我妻は、眞逆樣に天を蹈み兩手を運んで步み行く、はつと驚き是れ喃、淺ましの姿やな、誠や人の物語、死したる人の熊野詣では、或は逆樣後ろ向き生きたる人には變ると聞く」と言ふ處有り。幽靈が逆樣に步くと云話明和九年に出た、武道眞砂日記三、又其より前團水(四十九歲で正德五年歿す)の序有る一夜船貳にも出居るが、其は逆磔に懸られた女が逆まに步んだのだ。逆磔に懸りもせぬ世間並の死を遂た者の靈が逆樣に天を踏で步むてふ俗說は本佛敎から出たのだらう。例せば正法念處經三に、何者邪行、所謂有人、破他軍國、得婦女已、若或自行、若自取已、給與多人、若依道行、若不依道、彼人以是惡業因縁。身壞命終、於惡處合大地獄、生忍苦處云々。閻魔羅人、懸之在樹、頭面在下、足在於上、下燃大火。燒一切身、從面而起云々、其他地獄の衆生倒懸の苦を受くる由說た經文頗る多い。耶蘇敎徒も中古倒懸地獄有りと信じたは Paul Lacroix, ‘Military and Religous Life in the Middle Ages,’ London,Bickers & Son, p.485 なる十二世紀の古圖を見れば判る。西晉の安法欽譯阿育王傳四に、摩突羅國の一族姓子、尊者優波毱多に從ひ出家せしが、眠を好んで得道せず。林中に坐禪せしむるに復た眠る。尊者化作七頭毘舍闍、頭毘舍闍倒懸空中、卒覺見已極大怖畏、尊者言、毘舍闍者能害一身、睡眠之患害無量身、之を聞て悟り阿羅漢果を得たと見ゆ。毘舍山闍(ピサーチヤの音譯、Eitel, ‘Hand-Book of Chinese Buddhism,’ 1888, p.118 に、歐州のヴアムパヤー、吸血鬼に當つ)、名義集鬼神篇二四に、此云啖精氣、噉人及五穀之精氣、梁言顚鬼と有るから足を上に頭を下に顚倒して步く鬼で、吾邦の見越し入道に較近い。それから苻秦の時衆現三藏が譯した鞞婆沙論一四に、人死して生地獄者、足在上、頭向下、生天上者、頭上、足在下と有れば、地獄の道中する亡魂は皆な逆立ちに步み行くのだ。斯く地獄の衆生も毘舍闍鬼も、地獄へ生るべき中陰の衆生も、皆倒懸又逆立して步むとしたには種々原因もあらうが、槪括して考へると、ヴヲルテールが、神が神の身相に擬して人を作つたでなく、全く人が人體を摸して神を造つたと云へる如く、人が人や鳥獸を倒懸して殺戮する事有るより、地獄にも倒懸の刑有りとしたなるべく、又蝙蝠晝間暗窟中に倒懸し、その時窟中に昔死人を葬つた事夥しい處から耶蘇敎の畫に惡鬼に蝙蝠の翼を添ふる如く、インドでは毘舍闍が墓塚に棲で逆立して步み人の精氣を食ふと云出たのだろ(Spencer, ‘Principles of Sociology,’ 3rd ed, vol.i, pp.329-331 參照)。扨善因乏しくて浮まれぬ亡魂が足を天に向けて步むと云ふは、無論、上述の二理由より出たものの、予が人類學雜誌二九一號三三二頁に述べた通り、淋しい山中の濃霧に行人の反影が逆さまに映つたり、又不二新聞大正三年一月十八日分に說た如く、大地の微動等、一寸人が感覺せぬ小震盪に伴れて、或家の天井が異樣に鳴る抔から起つた事と思ふ。從つて天井板に手足の跡に多少似た紋斑が見えると其れを幽靈が逆立して步いた跡と信ずるに及んだゞらう。

[やぶちゃん注:「攝津の尼ケ崎の某寺堂の天井に夥しく幽靈の血付の足跡が付たのを見た」この寺、尼ケ崎という限定では、不詳。

「近松門左の戲曲傾城反魂香」(けいせいはんごんかう)「中之卷」』「三熊野かげろう姿」に、狩野元信己が繪きし三山の襖戶に見入る内、……』近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、宝永五(一七〇八)年、大坂竹本座初演。狩野元信の百五十回忌を当て込んで書かれた企画物で、絵師狩野元信(文明八(一四七六)年?~永禄二(一五五九)年:室町時代の絵師。狩野派の祖狩野正信の子)と恋人「銀杏の前」(いちょうのまえ)の恋愛に、正直な絵師又平(「吃又」(どものまたで知られる戦国末から江戸初期の絵師岩佐又兵衛がモデル)の逸話と、名古屋山三(さんざ:桃山時代のかぶき者として知られ、出雲のお国の愛人となって、「お国歌舞伎」の演出家と役者を兼ねたと伝えるが、架空の人物との説もある。実在説では、加賀藩名越家の出で名越山三郎と称し、天正一八(一五九〇)年、蒲生氏郷の「奥州攻め」に小姓として従ったが、氏郷の没後、浪人したと伝えられ、慶長八(一六〇三)年に没したとされる。「鞘当(さやあて)」などの歌舞伎に好男子として以下の不破と一緒にしばしば登場する)と不破伴左衛門(モデルは豊臣秀次に仕えて寵愛された尾張生まれの美少年の小姓不破万作とされる)との争いから来るお家騒動を絡ませたもの。後に歌舞伎でブレイクした。詳しくは参照した当該ウィキや、そのリンク先を見られたい。なお、熊楠は「中之卷」の「三熊野かげろう姿」は襖絵を前にしての道行の段であるが、これは「竹本筑後掾正本」版のものである。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一三(一九二四)年春陽堂刊の「近松門左衞門全集」第五巻のこちらの左ページに活字化されてあり、当該部は後ろから四行目から終行までがそれである。以下の読みはその本文及びルビを参考にした。

「靈驗」「りやうげん」。

「伏拜み」「ふしをがみ」。

「頭」「かうべ」、

「開けば」「ひらけば」であろう。

「南無三寶」「なむさんぼう」。

「立たる」「たつたる」。

「我妻」「わがつま」。

「眞逆樣」「まつさかさま」。

「蹈み」「ふみ」。

「是れ喃」「これなう」。「喃」は現代仮名遣「のう」で呼びかけ・同意を求める感動詞。もしもし。

「熊野詣で」原本を見ると、「では」ではなく「は」しか送っていないから、「くまのまうで」の「で」を送ったものと見做す。

「云話」「いふはなし」。

「明和九年」一七七二年。

「武道眞砂」(まさご)「日記」は月尋堂作の浮世草子。「文武さゞれ石」の改題本。月尋堂(?~正徳五(一七一五)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作者。後者では「鎌倉比事(けんそうひじ)」が知られる。当該話は巻之三冒頭にある「紅葉(もみぢ)の雨にぬれたが手抦(てがら)【おもひ入ちがひたる古今集の歌 時ならぬ山吹は儀兄弟の仲(なか)だち】である。国立国会図書館デジタルコレクションの明治三六(一九〇三)年博文館刊「珍本全集」下のここから読め、当該箇所はここ(左ページ一行目「すでに川岸をおりける時岸のうへに何ものにや。女のさかばり付ありて。ふく風身にしむとおもふに、此はり付木をはなれて。さかさまにあゆみをり。我をみてたのみ度といふ」とある)。入間川で逆立ちした女の幽霊に遭遇したのである。逆立ちする幽霊の話は、結構、ポピュラーで、私の怪奇談集内にも枚挙に遑がない。一つだけ挙げておくと、絵入りの「諸國百物語卷之四 一 端井彌三郎幽靈を舟渡しせし事」がよかろう。そちらの話では、殺害されて逆さに埋められた結果ではある。なお、陰気の亡者が通常の陽気に人間とは行動が逆転するというのは、如何にも判り易い話柄とは言える。

「團水(四十九歲で正德五年歿す)」没年は誤り。北条団水(だんすい 寛文三(一六六三)年~正徳元(一七一一)年)は俳人・浮世草子作者。京都生まれで、井原西鶴の門人で、師の遺稿を刊行した。

「一夜船」(ひとよぶね)「貳にも出居」(いでを)「る」著者団水が没した翌年に刊行された怪奇談集。改題本に「怪談諸國物語」がある。当該話は、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和三(一九二八)年博文館刊の「珍本全集」前の巻二の「第二 詞(ことば)をかはせし磔女(はりつけをんな)」である。これらの復讐型の逆立ち女の怪談はかなりの人気があり、多くの怪奇談集にごろごろしており、私などは食傷気味の感さえある。

「遂た」「とげた」。

「本佛敎から」「もと、ぶつきやうから」。

「正法念處經三に、何者邪行、……」訓読を試みる。

   *

何者(いか)なる邪行(じやぎやう)ぞや。謂ふ所は、人、有りて、他(ほか)の軍國を破り、婦女を得(え)已(をは)り、若(もし)くは或いは自ら行ひ、若くは自ら取り已(をは)りて、多くの人に給與(きふよ)し、若くは道に依りて行ひ、若くは道に依らずば、彼(か)の人は是の惡業の因緣を以つて、身、壞(やぶ)れ、命、終はり、惡處合大地獄(あくしよがふだいぢごく)に墮ち、忍苦の處に生まる云々。閻魔、人を羅(あみ)し、之れを懸けて、樹頭に在(お)く。面(おもて)は下に在りて、足は上に在り。下より大火を燃やし、一切の身を燒き、面よりして起(はじ)まり云々。

   *

「惡處合大地獄」は「八大地獄」の「衆合地獄」と同じであろう。殺生・偸盗に邪淫が加わって落とされる地獄。私の好きな「刀葉林(とうようりん)地獄」があることで知られる。

Paul Lacroix, ‘Military and Religous Life in the Middle Ages,’ London,Bickers & Son, p.485なる十二世紀の古圖を見れば判る」フランスの作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)の英訳本「中世の軍事的宗教的生活」。原本は‘Vie militaire et religieuse au Moyen Áge et à l'époque de la Renaissance’(「中世とルネッサンス時代の軍事的宗教的生活)。英訳本は「Internet archive」のこちらで見られる。その図を保存したものを下に掲げておく。最上段に逆さ吊りにされた地獄の亡者が、複数、描かれてある。

 

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「西晉」二六五年から三一六年。

「安法欽」古代イランの王朝パルティア(紀元前二四七年~紀元後二二四年)出身の僧で、二八一年に洛陽に来たって、この「阿育王傳」等を訳出した。

「摩突羅國」「まとらこく」。古代インドの都市国家マトゥラー。デリーの南方のガンジス川の支流ヤムナー川の中流西岸にあり、古くからの宗教都市で「神々の街」としてローマにも知られていた。

「優波毱多」「うばきくた」。「優婆崛多」(うばくった)に同じ。サンスクリット語の「ウパグプタ」の漢音写。付法蔵(釈迦から付嘱された教え(法蔵)を次々に付嘱(ふぞく)し、布教していった正法時代の正統な継承者とされる人々。「付法蔵因縁伝」では二十三人を挙げるが、「摩訶止観」では阿難から傍出した末田地(までんじ)を加えて二十四人とする)の第四。紀元前三世紀頃の人。古代インドのマトゥラーの崛多長者(くったちょうじゃ)の子とされ、商那和修(しょうなわしゅ)に師事した。衆生教化第一とされ、「無相好仏」とも呼ばれた。提多迦(だいたか)に法を付嘱した(日蓮宗関連サイトの「教学用語検索」を使用した)。

「眠」「ねむり」。

「尊者化作七頭毘舍闍、……」訓読する。

   *

尊者、化(け)して七頭の毘舍闍と作(な)り、空中に倒懸(たうけん)す。卒(にはか)に覺めて、見已(みをは)るに、極めて大きに怖畏す。尊者言はく、「毘舍闍は、能(よ)く一身を害(そこおな)ふ。睡眠の患(わざはひ)は無量身を害ふ。」と。

   *

「無量身を害ふ」自身の身だけでなく、寧ろ、より大切な、一切の衆生を済度して浄土に往生させようと願う心を「無量身の願(がん)」と呼ぶ。「毘舍闍」(びしやじや(びしゃじゃ))ヒンズー教の「ピシャーチャ」が仏教に取り入れられたもの。「毘舍闍鬼」のほか、足が反り返っているとされるところから、「反足」(はんそく)「反足羅刹」(らせつ)」、人肉或いは人の精気を食べるとされることから、「食肉」(じきにく)「食血肉鬼」「癲狂鬼」(てんきょうき)など、様々な名前で仏典に登場する。「八部鬼衆」に「持国天」の眷属として、また、「二十八部衆」の一人として列されるほか、「胎蔵界曼荼羅」の外金剛部院(最外院)では男性形の「ピシャーチャ」を「鬼衆」(きしゅう)、女性形の「ピシャーチー」を「鬼衆女」(きしゅうにょ)として南方に配置する(サイト「神魔精妖名辞典」のこちらに拠った)。

Eitel, ‘Hand-Book of Chinese Buddhism,’ 1888, p.118」ドイツ生まれのプロテスタントで、中国で著名な宣教師となり、その後、イギリス領香港で官吏となったエルンスト・ジョン・アイテル(Ernest John Eitel 一八三八年~一九〇八年)。「Internet archive」のこちらで、一九〇四年版だが、当該箇所は変わらずにあった。PIS'ÂTCHA」の見出しで、「略舍闍」「臂奢柘」「畢舍遮」「略舍遮」の漢字を当て、

   *

A class of demons (vampires), more powerful than Prêtas. The retinue of Dhritarâchṭra.

   *

訳すと、「プレイタよりも強力な悪魔(吸血鬼)の位階。ドゥリタラーシュトラの配下。」であろう。「プレイタ」(preta)で原文は複数形。本来はインド神話に於いて「彷徨(うろつ)く亡霊」とか「往生していない幽霊」(wandering or disturbed ghost)を指す。無論、サンスクリット語由来。単に「鬼」とも漢訳するが(中国では本来の「鬼」という漢字はフラットな「死者」を意味する文字である)、後、仏教の六道輪廻思想の餓鬼道の餓鬼に対して、これが当てられてしまった。また、「ドゥリタラーシュトラ」は四天王の一人「持国天」を指す。

「名義集」(みやうぎしふ)は「翻譯名義集」が正式書名。南宋代に書かれた一種の梵漢辞典。七巻或いは二十巻。法雲編。一一四三年に成立した。漢訳仏典の重要梵語二千余を六十四目に分類し、各語について訳語・出典を記す。

「此云啖精氣、噉人及五穀之精氣、梁言顚鬼」「此(こなた)にては、『精氣を啖(くら)ふ』と云ふ。人及び五穀の精氣を噉(くら)ふなり。梁(りやう)にては『顚鬼(てんき)』と言ふ。」。この「梁」は唐末の混乱期に唐朝廷を掌握した軍閥の首魁朱全忠が、九〇七年に唐の哀帝から禅譲を受けて中国中央部に建国した五代の最初の王朝後梁。都は開封(汴(べん)州が府に昇格した地名)。南北朝時代の後梁(西梁)と区別して「朱梁」とも呼ぶ。

「見越し入道に較」(やや)「近い」私には、本邦では珍しい巨人妖怪「見越し入道」に、これが近似しているとは思われない。ただ、当該ウィキに、『見越し入道に飛び越されると死ぬ、喉を締め上げられるともいい、入道を見上げたために後ろに倒れると、喉笛』『をかみ殺されるともいう』という記載を読みながら、ハタと膝を打った。「見越し入道」が、見越しながら、ぬっと頭部を前方に現わした時には、寧ろそれはつり下がった巨人のように見えるであろうこと、また、後ろに反ってそ奴を見続ける時は、一定以上の角度で反り返ったところから、見かけ上の上下が反転する錯覚を起こし、その時、「足を上に頭を下に顚倒して步く鬼」という認知がなされると思ったのである。

「苻秦」(ふしん)「の時」五胡十六国時代の一つである前秦(三五一年~三九四年)。氐(てい)族(紀元前二世紀頃から中国西北部に居住した半農半牧のチベット系民族)の中の有力豪族苻(ふ)氏の族長苻健が初代皇帝となった。

「衆現三藏」以下の漢訳経典は「大蔵経データベース」の画像を見ると、原著者が「尸陀槃尼撰」とあり、漢訳者としてを「符秦罽賓三藏僧伽跋澄譯」とあって、この訳は三八三年に成立していることが中文サイトで判った。罽賓(けいひん)は嘗つて北インドのカシミール地方或いはガンダーラ地方に在ったとされる国の名であり、その出身の渡来僧で、さらに「衆現」は信頼出来る学術論文中に『僧伽跋澄(衆現)』とあったので、彼の別名であることが判った。

「鞞婆沙論」「ぎばしやろん」或いは「びばしやろん」。

「人死して生地獄者、足在上、頭向下、生天上者、頭上、足在下」「人、死して、地獄に生まるれば、足は上に在り、頭は下に向(むか)ふ。天上に生まるれば、頭は上にして、足は下に在り。」。

「生るべき」「うまるべき」。

「ヴヲルテール」(Voltaire)はかのフランスの哲学者・文学者・歴史家で啓蒙主義を代表する人物。本名はフランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet 一六九四年~一七七八年)。

「身相」「しんさう」。

「摸して」「もして」。

「墓塚に棲で」「はかつかににすんで」。

「云出た」「いひだした」。

Spencer, ‘Principles of Sociology,’ 3rd ed, vol.i, pp.329-331」エディションが違うかも知れぬが、「Internet archive」の当該部329ページ。但し、一致する内容はここより少し後の方に多い)に概ね一致する記載が読める。

「浮まれぬ」「うかまれぬ」。

「予が人類學雜誌二九一號三三二頁に述べた通り、淋しい山中の濃霧に行人の反影が逆さまに映つたり」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)」を指す。原初出で読みたければ、「j-stage」のここPDF)の七~八コマ目がそれである。私の全文縦書注釈版(PDF)はこちら

「不二新聞大正三年一月十八日分に說た如く、大地の微動等、一寸人が感覺せぬ小震盪に伴」(つ)「れて、或家の天井が異樣に鳴る抔から起つた事と思ふ」これは大正三(一九一四)年一月十七日から二十日に亙って『日刊不二』に連載した固定連載コラム「田邊通信」に載せた「櫻島爆發の餘響」である。サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(一九七三年平凡社刊「南方熊楠全集6(新聞随筆)」底本)の「桜島爆発の余響」を見られたい。本篇とのダブりもあるが、コラムで熊楠節爆発で面白い。お勧めである。]

泉鏡花「蓑谷」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)公開

泉鏡花「蓑谷」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)「心朽窩旧館」に公開した。

2022/06/11

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「幽靈の手足印」(1)

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年九月発行の『人類學雜誌』三十巻第九号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、他に比してやや長く、注も必要なので、底本の三段落で分割して公開する。

 

     幽靈の手足印

 

 甲子夜話續篇卷八五に、天保三年京都大佛開帳の時「京都を通行せし者に聞きしは、彼の大佛の宮の殿内寶物を置きし間所々有る中、書院の緣側幅二間長さ十間斗りの所の板天障に血付たる手の跡足形又はすべりたるかと見ゆる痕有り。其色赤きもあり黑み付きたるも有り。板天障一面此の如し。人傳ふ。關白秀次生害の時隨從せし人、腹切り刺違へて死したる時の板鋪の板を、のちに此天障板にせし者と云ふ」と有り。明治十五年予高野山に登つた時、秀次一行が自殺した靑巖寺で右樣の物を見たが今も存するか知らぬ。蔀關月の伊勢參宮名所圖會三にも、伊勢度會郡山田上の鄕久留町の久留山威勝寺の條に、「本堂の天井には人の手足の形多く、赤き色にて一面に見えたり。是を俗に三好(下總守長秀孫三郞賴澄兄弟、永正五年四月十一日當所にて北畠中納言材親と戰ひ負け自殺)討死の時の血に染たるを天井とせしと云ふ。又洛の養源院にも桃山の血天井と云る物有り。又堺の寺にも此類有り。是を以て思ふに是木理自然の斑文にして血に染みたるには非るべし」と見ゆ。 是等らは所謂血附きの手形足形を事實自殺者の遺跡と傳へたのだが、木板に留めた足形を神異の物とした例もある。和漢三才圖會七三、大和大三輪寺、寺丑寅隅有人足跡、遺形於板、于今溫煖、相傳、明神見里人女、生子、其兒十歲入定去云々。吉原賴雄君言く「常陸國土浦在殿里に、產兒の足として小流上の石橋に恰度赤子の右の足程の跡が筑波山の方を向つて凹んで黑く殘つて居る。餘程古くから有るらしい云々。此足跡に溜つた水を夜泣きする子供に飮せると必ず泣止むと云ふので、其水を採りに來る者が多い。左の片方は筑波山麓の神郡とかに有るさうだ」と(鄕土硏究一卷三號一七七頁)。大三輪寺の小兒の足跡は木板に殘したものだが血痕では無く、殿里のはただ石に印された小兒の足跡で、共に血天井に緣薄いが、小兒の足跡は本朝で此二例しか見當らぬが珍しさに書付く。

[やぶちゃん注:『甲子夜話續篇卷八五に、天保三年京都大佛開帳の時「京都を通行せし者に聞きしは、……』これは松浦静山の当該巻の冒頭の、「大佛殿諸堂緣起【樓門、尊像、二王御丈門内高麗犬之圖 ◦殿門の間數 ◦三十三間堂之由來矢數之濫觴。】幷御寶錄 ○大佛殿再建之繪圖椽側板天障豐氏の威哀、又大坂の人心舊染を脫ざる等の話」であるが、これは所持する「東洋文庫」版(二段組)で十六ページ(八つの図を含む)もあり、とてもこれは今までのように手軽にすぐ電子化することは出来そうもないので、あきらめた。熊楠の引用は、終わりの方の付記っぽい一節である。以下に当該部のみを恣意的に正字で電子化して、お茶を濁す。カタカナ・ルビは珍しい静山が振ったものである。

   *

この開帳のとき、京都を通行せし者來りたるに聞しは、かの大佛の宮の殿内、寶物を置し間所々有る中、書院の緣側、幅二間[やぶちゃん注:三・六三メートル。]長さ十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]斗りの所の板天障(イタテンヂヤウ)に血つたる手のあと、足かた、又はすべりたるかと見ゆる痕あり。其色赤きもあり。黑みづきたるも有り。板天障一面この如し。人傳ふ。昔し關白秀次生害のとき、隨從の人、腹切り刺ちがへ抔して死したるときの板鋪の板を、後に此天障板に爲(セ)し者と云。

   *

これは、当時の京都東山の、例の因縁の方広寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)大仏の再建のための天保三(一八三二)年に行われた仮大仏殿の御開帳であり、その当時の同寺の宝物殿のそこに、そのような手足の跡があったというのである。しかし、思うに、これは、又聴きであり、実は方広寺から南に五百メートルほどの直近にある、後に注する養源院の血天井との混同ではないかと私には思われる。或いは、同様の血天井が方広寺にもあったのかも知れないが(しかし同寺は何度か地震崩壊や火災に遇っており、仮にあったとしても残っていたかどうかは怪しい)、よく判らぬ。

「明治十五年」一八八二年。

「靑巖寺」明治二(一八六九)年まで高野山上に存在した寺院。当該ウィキによれば、『現在の金剛峯寺境内の東部にあった寺院で、学侶方の寺務をつとめた中心寺院であったが、西隣にあって行人方の役寺であった興山寺(廃寺)と合体して金剛峯寺となっている。現在では高野山真言宗の管長・座主の住坊である』。文禄四(一五九五)年七月十日、『関白豊臣秀次は秀吉の不興をかって高野山に追放され、翌日、木食応其』(もくじきおうご)『に従って当寺で剃髪したが許されず、同月』十五日、『応其の勧めにより』、『青巌寺の柳の間で切腹し、雀部重政以下侍臣もみな殉死した』とある。その後に一度、青巌寺は焼失したらしく、熊楠の見たものも、これ、かなり怪しい。

「蔀關月の伊勢參宮名所圖會三にも、伊勢度會郡山田上の鄕久留町の久留山威勝寺の條に、「本堂の天井には人の手足の形多く、……」蔀関月(しとみかんげつ 延享四(一七四七)年~寛政九(一七九七)年)は絵師。本姓は柳原氏。大坂で書店千草屋を営む傍ら、絵を嗜み、月岡雪鼎に師事。この「伊勢参宮名所図会」(寛政九(一七九七)刊」や、「日本山海名産図会」(寛政十一年刊)などの挿絵を描いた。私は後者を、昨年、四十九回で全電子化注を終えている。「久留山威勝寺」は明治三(一八七〇)年に廃寺となり、現存しない。三重県伊勢市辻久留(つじくる)のこの中央にあった。「伊勢参宮名所図会」の板行本では何故か見つからなかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(「大日本地誌大系」大正五(一九一六)年刊)の「勢州度會(わたらい)郡」のここで見出せた。右ページの上段の「久留山威勝寺(クルサンヰシヤウジ)」の項の「○」解説の最初の部分に出る。

「永正五年」一五〇八年。

「北畠中納言材親」(きちか 応仁二(一四六八)年~永正一四(一五一七)年)は伊勢国司北畠政郷(まささと)の長男。材親の「材」の字は将軍足利義材の諱の一字。永正七(一五〇九)年に正三位、翌年には権大納言に任じられている。これに先立つ永正五年に、父政郷の死去を受けて国司家を継いだが、この頃、室町幕府は管領細川家が高国方と澄元方に分裂して激しく動揺していた。劣勢となった澄元の党類、三好長秀が伊勢山田に逃亡してくると、高国と結んだ材親は、永正六年、軍を送って、これを討ち滅ぼしている。

「養源院」京都府京都市東山区三十三間堂廻(まわ)り町(ちょう)にある浄土真宗南叡山養源院。寺名は浅井長政の院号から採られたもの(当初は天台宗)。三十三間堂(正式名称は「蓮華王院本堂」。同じ京都市東山区にある妙法院(天台宗)の飛地境内)。の東向かいに位置する。俵屋宗達作の重要文化財があり、これも伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、本堂の俵屋宗達作の重要文化財「襖絵」と象や唐獅子や麒麟などを図案化した「杉戸絵」で知られる。

「桃山の血天井」本堂の天井。「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」で鳥居元忠以下二千人余りが城を死守して最後に自刃した、廊下の板の間を、供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る八月から九月中旬まで放置されていたとされ、そのため、今も生々しい血の痕があちこちに残っている。前注とともに参照した当該ウィキによれば、『同様の血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもある』とある。私は京に冥く、行ったことがないが、グーグル画像検索「養源院 桃山の血天井」を見るに、これは……凄絶だな……

「堺の寺にも此類有り」よく判らないが、大阪府和泉市尾井町にある曹洞宗小林山蔭凉寺か。同じく「伏見城の戦い」由来の板による血天井がある。他の「血天井」も挙がっているが、グーグル画像検索「蔭凉寺 血天井」をリンクさせておく。

「木理」「もくり」木目(きめ)に同じ。

「自然の斑文にして血に染みたるには非るべし」う~ん、少なくとも、「養源院」のものは、画像を見る限り、そんなシミュラクラじゃないけどな。……

「和漢三才圖會七三、大和大三輪寺、……」所持する原本で訓読する。「大三輪寺」は「おほみでら」と訓じておくが、「大御輪寺(だいごりんじ)」が正しい。聖徳太子創建とされる、現在の桜井市の大神(おおみわ)神社の関連寺院(この寺を含めて三寺あった)であったが、廃仏毀釈で総て消え去った(後の一九七七年にその内の一寺は、曹洞宗三輪山平等寺として復興している)。

   *

大三輪寺   三輪社の近處(きんじよ)に在り。寺領三十石。

  開山 慶圓法師【法相[やぶちゃん注:法相宗の意。玄奘の弟子慈恩大師基(き)が開いた宗派。本邦では薬師寺・興福寺が知られる。]。】

丑寅の隅(すみ)に人の足跡、有り、形(なり)を板に遺す。今に。溫煖(あたゝ)かなり。相傳ふ、「明神、里人の女(むすめ)に見(まみ)えて、子を生(うま)す。其の子、十歲にして入定して去ると云云。

   *

「吉原賴雄君」民俗学研究者のようである。『郷土研究』の投稿に複数回の投稿を見る。

「常陸國土浦在殿里」「在」は地名ではなく、普通名詞の田舎を意味する「在」であろう。現在の茨城県土浦市殿里(とのさと)。

「小流上」一般名詞か同地の古い小字か判らない。「こながれうへ」とは読んでおく。

「恰度」「ちやうど」。

「神郡」「かんごほり」で、現在の茨城県つくば市の大字の神郡(かんごおり)のこと。

「殿里のはただ」「殿里のは、ただ」。珍しく表記が「たゞ」でも、「只」・「但」でもないので、ちょっと躓くかと思い、老婆心乍ら、注しておく。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問答三條【乞素壓狀、地口、八分、輪池問、馬琴答。】~(3)八分 / 問答三條~了

 

[やぶちゃん注:本来の底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここからだが、これも「曲亭雜記」巻第四・下のここから所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本とし、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。下線は底本では右二十傍線である。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。]

 

ハチブサレタとはいかなる義ぞ【輪池堂問。】

答、この俗語、ふるくは聞えず、寬政のはじめより、やうやくに耳にふれしを、今は鄙俗の常談(じやうだん)となれり。按ずるに、寬政二年、はじめて江戶に義倉(ぎさう)を建(たて)させられて、これを籾藏町會所(もみくらまちくわいしよ)といふ。江戶の町々、每月町入用の雜費のうち、無用のものを省きて、七分は籾藏へ納め奉り、一分はその町々なる居付地主等(ゐつきぢぬしら)、預りおきて、町内臨時、見つもり外なる費用に充(あつ)べしとなり。これを諸町内積金(しよちようないつみきん[やぶちゃん注:「ちよう」はママ。])八分といふ。【今は七分とのみいへど、その實は八分なり。】これ、みな、町入用中、無用の雜費を省き退(の)けたるものなれば、凡、一(ひと)むれのうちにて、はぶき除(のぞか)るゝことを、八分されるといふ。八分されるとは、八分にされるなり。すベて、さとび言(こと)は、急(きう)にして、語(ご)、つまれり。故に、にもじ[やぶちゃん注:「に」の文字。]を略せし歟。さらでも忌(いむ)よしなきにあらねば、わざと、にもじを略せしかもしらず。これより轉じて、人に物を乞ふことあるに、その人、拒(こば)みて遠ざくることをも、八分されたといひ、下郞の賤妓(せんき)にふらるゝをも、八分さるゝといふ。いづれも拒み退(しりぞく)るの義にて、彼雜費中の八分を省(はぶ)き退(の)けしより、出たることなるべし。寬政中、小人の小うたに、八分されてもつき出されても云云とうたへり。これ、八分といふことの、はやり出せしはじめなり。解云。

 再按ずるに、源氏物語に、はちふくといふこと、見えたり。卽、蜂吹(はちふく)にて、今、俗のあたまの蜂をはらふ、などいふにひとしき、むかしの俗語なるべし。しかれば、はちぶさるゝといへるには、その義たがへるに似たり。猶、考ふべし。

再考、源氏物語に、はちふくといふことあり、これならんかと思へども、古意を、今のはやり歌に、とり用ふべくもあらず、なほ考べし。[やぶちゃん注:この段は底本にないので、「新燕石十種」で補った。]

俳諧師嵐雪が歲旦の發句に、面々の蜂を拂ふや花の春、これもはちふくの意也。今、俗のはちぶさるゝといふも、蜂ふくより轉ぜしならんか。初按の八分云云は、なかなかに鑿說(けんせつ)なりき。宜しく蜂吹くの義を用ふべし。

[やぶちゃん注:驚いたのは、馬琴が「村八分」に全く言及していないことである。それは、江戸時代、確かに厳然として運命共同体として村社会に存在した制裁であったのに、である。それを馬琴が実際や知識として知らなかったというのは、私にはちょっと考え難い。「ブリタニカ国際大百科事典」の「村八分」引いておく(コンマは読点に代えた)。『村社会の秩序を維持するため、制裁として最も顕著な慣行であった絶交処分のこと。村全体として戸主ないしその家に対して行なったもので、村や組の共同決定事項に違反するとか、共有地の使用慣行や農事作業の共同労働に違反した場合に行われる。「八分」ははじく、はちるの意とも、また村での交際である冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の』十『種のうち、火事、葬を除く』八『種に関する交際を絶つからともいわれ、その家に対して扶助を行わないことを決めたり、村の共有財産の使用や村寄合への出席を停止したりする。八分を受けると、共同生活体としての村での生活は不自由になるため、元どおり交際してもらう挨拶が行われるが、これを「わびを入れる」という。農業経営の近代化に伴い、各戸が一応』、『独立的に生計が立てられるようになってからは、あまり行われなくなった』。私は何か心理的なトラウマか、何らかの個人的な理由から、馬琴は敢えて「村八分」の言及を避けたとしか私には思われない。不審である。

「寬政のはじめ」寛政は十三年まで(一七八九年~一八〇一年)。

「義倉(ぎさう)」中国で凶作の際、農民に食料と種子を支給するための貯蔵倉。社倉とも呼ばれた。隋の五八五年に二十五戸よりなる社に設けられ、社司(村役人)の管理のもとに、貧富の程度によって粟麦(ぞくばく)を納めさせたのが始まりらしい。隋末には衰え、唐はこれに倣ったが、地方官吏が財政不足に流用、「安史の乱」に至って廃れた。憲宗の時には復活が試みられている。宋は両税法により、税額一石につき一斗を課し、凶作のとき、種や食を給し、次いで貸付も行った。しかし、商業化の発展に伴い、都市及び近傍の人民への貸付が多くなり、北宋では置廃を繰り返した。遼や元も配置したが名のみで、金は置かず、明は社倉のみ配した。清は初期から置き、公選の有力者や商人に運営させ、民間の寄付その他によったが、「太平天国の乱」で廃れ、復活が試みられたものの、実効は上がらなかった。本邦では律令制下の各戸を貧富の差によって九等に分け、その等級に応じて一定額の粟(稲・麦・豆も可)を納めさせ、保管運用する制度が古くにあった。本来は、凶作に備えて食糧を貯蓄し、必要に応じて困窮者に給付するものであったが、実際には毎年賦課される付加税に変質した。奈良時代の農村で納税者の中核となるべき富裕者はごく少数で、大多数は救貧の対象となる貧窮者によって成り立っており、たとえば、現存する天平勝宝二(七五〇)年の安房国義倉帳によると、公規定の九等の基準にすら該当しない等外戸が全体の約八十%を占めているという有様で、そのため、義倉の収支は常に大幅な赤字とならざるを得ず、平安時代になると、ついに廃絶した。この制度は、江戸時代になって、再び、幕府や諸藩の備荒貯蓄として採用され、社倉・常平倉とともに三倉の一つとして復活していた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「籾藏町會所」「寛政の改革」の際、老中松平定信により完成四(一七九二)年に「江戸町会所」が設けられた。これは常設の窮民救済・備荒貯蓄・金融機関であり、具体的には「囲籾(かこいもみ)」・七分積金及び米・銭の給付や、土地家屋抵当の低利貸付などを行う事務所を「町会所」と称した。建物は浅草向柳原(むこうやなぎわら)に設けた籾蔵(もみぐら)の構内につくられた(これが「籾蔵町会所」という別称となった)。職員としては座人(ざにん・地主五人)・座人手付(ざにんてつき:家主六人。「座人」の下で働く)・用達(ようたし:十人。勘定所用達商人で金銭の出納を担当)・用達手代・肝煎(きもいり)名主(六人。積金の受理や町々への通達を担当)で、勘定奉行所と町奉行所の両町会所掛が監督した。囲籾は、始終。新米と古米とを詰め替え、町方推定人口五十万の三十日分を目標に貯蔵したことから、籾蔵は深川大橋向、神田筋違橋(すじかいばし)内、小菅(こすげ)村にも増設している。窮民への米・銭の交付は、名主の承認を得て、家主が申請して窮民に与えられた。大きな火災や水害などの折りは、「御救小屋(おすくいごや)」が建てられ罹災民を収容した。同所は明治五(一八七二)年に廃止されたが、それまで積み立てられていた多額の資金は、養育院の設立を始めとする社会救済事業や、道路・橋梁の営繕事業などに幅広く活用された(同前に拠った)。

「源氏物語に、はちふくといふこと、見えたり」馬琴に言う通り、「蜂吹」(はちふく/はちぶく)で、動詞。「ふくれ面をする・口をとがらせて抗弁する・不平をいう」の意である。「源氏物語」の「松風」の帖に、

   *

髭(ひげ)がちに、つなしにくき顏を、鼻など、うち赤めつつ、はちぶき言へば、

   *

と出る。前後は「源氏物語の世界 再編集版」のこちらの、ガイド・ナンバー「1.2.8」を参照されたい。同前の「若菜 下」の柏木と女三の宮の密通の章にも出る。こちらの「7.2.17」である。「蜂吹く」の語源は探し得なかったが、蜂が飛ぶ音を口を尖らして吹くブーという音にアナマトペイアしたものか、或いは、蜂が近くに飛んで来たのを嫌って「フーッツ!」と息を吹き出して追い払う仕草があったものか。識者の御教授を乞うものである。しかし、馬琴の「八分される」の語源を「蜂吹く」とするのは、これはちと、博覧強記の店開き、牽強付会の謗りを免れない気がする。

「嵐雪が歲旦の發句に、面々の蜂を拂ふや花の春」「面々の蜂を払ふ」は故事成句で、「他人のことをあれこれという前に、まず自分の欠点を反省しなければいけない。他人のことをかまうより自分を省みよ」という戒めである。松尾芭蕉の高弟服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:芭蕉はその才能を高く評価し、元禄五(一六九二)年三月三日の桃の節句に「草庵に桃櫻あり、門人に其角嵐雪あり」と讃えたが、「奥の細道」の際に嵐雪は送別吟を贈っておらず、晩年は関係が疎遠となっていた)の元禄一二(一六九九)年の「皮籠摺(かはこずれ)」(岩田涼莵編・其角序)の春の部で、冒頭に「蓬萊にきかばや伊勢の初便」という芭蕉の句の次に、

   *

 面々の蜂をはらふや花の春

   *

とある。

「初按の八分云云」籾蔵会所の町内積立金八分説を指す。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問答三條【乞素壓狀、地口、八分、輪池問、馬琴答。】~(2)地口

 

[やぶちゃん注:本来の底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここからだが、これも「曲亭雜記」巻第四・下のここから所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本とし、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。下線は底本では右二十傍線である。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。]

 

地口とはいかなる義ぞ【輪池堂問。】

答、地口(ぢぐち)はむかしのいはゆる秀句に似たり。近俗に常談(じやうだん)に、一句兩義を相かぬるものを、本歌俳諧にいひかけといひ、狂歌にもぢりといひ、平話にくちあひといふが如し。くちは言なり。猶片言(へんげん)をかたくち、陳狀(ちんじやう)をまうしぐちといふが如し。あひは相也。合也。一句兩義を兼ればなり。新内(しんない)節といふ艷曲(えんきよく)に、おとしばなしや、くちあひの云々(しかじか)とうたふはこれ也。されば狂歌にもぢりといひしは、いひかけくちあひとは聊(いさゝか)異(こと)にて、およそ猥褻(わいせつ)の意をふくみて、あらはにさしていはざる也。安永七年の春、もぢりづくしといふ繪草紙(ゑざうし)の、いたく行はれしことありけり。そが中に、おくさまのおねまへいつかそろそろとはいかけて來る朝顏の花、これらはもぢりの人がらよきものなり。甚しきに至りては、絕倒すること多かり。おのれわかゝりし時、地口はもぢりくちの略語にやと思ひしが、さにあらず。ぢぐちは持口(ぢぐち)なり。又地口なり。この地の字は、地酒、地本問屋(ぢほんとひや)の地の如く、只大江戶に限るの義にて、口は上に辨じたるごとく言葉也。これを地口といふよしは、およそ神社の祭禮に、地口行燈(ぢぐちあんどん)といふ物を出すことは、おそらく他鄕になし。よしや今はありとても、そはみな江戶ぶりをまなびたるなり。これ當地のくちあひといふべきを、略して地口といふ。その實は持口の義にもかよへり。すべて歌合(うたあはせ)、句合(くあはせ)の判者、左右一つがひの甲乙を定むるに、その優劣なきものを持(ぢ)とす。持口は一句兩義を兼るものにて、左右へ引はる意あり。譬(たとへ)ば歌合の左右に、甲乙なきが如く、兼る所の兩義、さらに甲乙を定むべきの理なし。よりてくちあひを持口といへり。今も俗間(よのなか)に、彼我(ひが)の損益なきを、持(ぢ)になつたなどいふも、この意をもてしるべし。しかれども文字には、地口とのみ書く故に、持口の說は迂鑿(うさく)に似たり。只當地のくちあひといふ略語なりとのみいはば、なかなかにおだやかなるべし。解云。

[やぶちゃん注:「地口(ぢぐち)」世間で普通に行なわれている成語に、語呂(ごろ)を合わせた言葉の洒落。当該ウィキに具体例が示されてある。

「新内(しんない)節」浄瑠璃の一流派。延享二(一七四五)年に宮古路加賀太夫が、宮古路節(豊後節)から脱退し、富士松薩摩を名乗ったのが、新内節の遠祖である。この富士松節から出た鶴賀若狭掾(わかさのじょう)の門弟に鶴賀新内がおり、その初代新内までは鶴賀節といわれたが、文化年間(一八〇四年~一八一八年)の二世新内から新内節と称するようになった。新内節は劇場から離れ、吉原その他の「流し」が中心となり、煽情的で江戸情緒を濃厚に伝えている。江戸では訛って「しんねいぶし」「しんねえぶし」とも呼ばれる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「安永七年」一七七八年。

「もぢりづくしといふ繪草紙」調べてみたが、当該書を発見できなかった。

「おのれわかゝりし時、地口はもぢりくちの略語にやと思ひしが、さにあらず。ぢぐちは持口(ぢぐち)なり。又地口なり」この断定にはやや不審がある。第一、「錑(もぢ)り口」が元であることは、私には殆んど疑いがないと思われる点、さらに「地口」を「持口」とする記載が調べた限りでは他には見られないことが挙げられ、また多くの「もぢり」のケースの中に御当地の地名を読み込んだそれが多く見られ、これは間違いなく正真正銘の「地口」であろうからである。確かに以下で馬琴が述べるように(傍線太字は私が附した)、「すべて歌合、句合の判者、左右一つがひの甲乙を定むるに、その優劣なきものを持(ぢ)とす。持口は一句兩義を兼るものにて、左右へ引はる意あり。譬ば歌合の左右に、甲乙なきが如く、兼る所の兩義、さらに甲乙を定むべきの理なし。よりてくちあひを持口といへり。今も俗間(よのなか)に、彼我(ひが)の損益なきを、持(ぢ)になつたなどいふも、この意をもてしるべし」と言っていることは事実であるのだが、ここを読みながら、洒落が本来の意味と等価で優劣がつきがたいから、「持」であるというのは、どうもすんなりとは、私は受け難いからである。さらに、気になって、国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆「嬉遊笑覧」は、本書の時制より数年後の文政一三(一八三〇)年に成立しているが、所持する岩波文庫版でみたところ、「おや?」っと、思わず、目がとまった箇所があったのである。以下、続けて馬琴は、「この地の字は、地酒、地本問屋(ぢほんとひや)の地の如く、只大江戶に限るの義にて、口は上に辨じたるごとく言葉也。これを地口といふよしは、およそ神社の祭禮に、地口行燈といふ物を出すことは、おそらく他鄕になし。よしや今はありとても、そはみな江戶ぶりをまなびたるなり。これ當地のくちあひといふべきを、略して地口といふ」と言っているのだが、国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 上」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここからその膨大な地口関連の記載があり(「秀句」の項で同巻之三の最後まで続く)、そこに「○山崎久卿云」として(左ページ九行目行末以降。一部で読み易くするために句読点・濁点を添えた)、

   *

○山崎久卿云、地口とは當地の口合といふべきを略したるにて、この地に作れる草子を地本といひ、きせるを地張、其他、地さけ[やぶちゃん注:「酒」。]、地𢌞りの地の如く、只、この江戶にかぎれるの義なり。もと、神事に、地口行灯と云ものをともすとは、他鄕にはさらにあることなし。今はありもすべし、それは江戶のふりのうつりたるなり。行灯にかけるを、繪地口といへり。玆[やぶちゃん注:「ここ」。]にてとけるもの、多し。又、語路といふあり、これも地口の變體なり。おもふに語路とは、菅相するめのつけ燒、丁子茶きつねの子ぢやもの、などの類なり。

   *

とあるのである。但し、岩波文庫版(著者自筆本)は、終わりの「これも地口の變體なり」以下の部分が有意に異なる。以下、漢字を正字化して示す。【 】は割注。

   *

これも地口の變躰也」[やぶちゃん注:岩波文庫の校訂者はここまでを山崎の言としている。]といへり。【むかし、語路萬句興行ありしに、語路萬たまごといふが、其時の秀逸にてありしと也。おもふに、古き地口の内に、菅相するめの付燒、丁子茶きつねの子じやもの、といへるたぐひ、みな語路なるべし。】

   *

この例として出る「菅相するめのつけ燒」は菅原の「すが」を「するめ」(鯣)に、「丁子茶」(紅色がかった茶色を呈する)をその色の「狐の子」に洒落たものであろう。さて、問題は、この「山崎久卿」の言いが、あまりに馬琴の言いと酷似している点である。私は一寸、ニンマりした。何故なら、「山崎久卿」とはつい先だって「けんどん爭ひ」で馬琴がキレて絶交した山崎美成のことだからである(久卿は彼の字(あざな))。或いは、本篇が書かれた直後に美成が、憤然と、秘かに馬琴の説を駁する形で書いたものかも知れぬが(喜多村の美成の引用元を見つけたら追記する)、この二つを比べてみると、私はどちらが腑に落ちるかと言えば、馬琴の歌合せの「持口」の方ではなく、やはり各種の「地」の「地口」の方が、遙かに腑に落ちるのである。

「迂鑿(うさく)」回りくどい穿った考え。謙遜の辞だろうが、正直、私はその通りだと思うのである。]

2022/06/10

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問答三條【乞素壓狀、地口、八分、輪池問、馬琴答。】~(1)乞素壓狀

 

[やぶちゃん注:本来の底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここからだが、これも「曲亭雜記」巻第四・下のここから所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本とし、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。下線は底本では右二十傍線である。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。]

 

   ○問目第一三ケ條

    △輪池堂問、著作堂答、

源平盛衰記(げんへいせいすいき)に、太政入道(だじやうにふだう)の新院に、御起請(ごきしやう)かゝせ申せし事を、通親卿の詞に、コツソアフ狀(じやう)といへり。文字は乞素壓狀と書きたり。此比(このごろ)參考本(さんかうほん)を比校(ひかう)せしかば、乞索献狀(こつさくけんじやう)と書して、索獻二字舊素壓と注せり。これにて先(まづ)聞えたれども、昔よりコツソアフ狀ととなへ來り、俗間(よのなか)にアフデウズクメなどいへるも、この事にやと思はれるぞ。唐書柳仲郢が傳に彈壓といへるは、其の政(まつりごと)の嚴明なるをいひたれば、壓の字は本のまゝにても通ずべきにや。然るに獻と改たるは據(よりどころ)ありや。きかまほし【輪池堂問。】

答、獻狀の出處(しゆつしよ)はいまだ詳(つばら)ならねども、參考本にしか改められしは、なかなかに誤りなるべし。貴案の如く、今のさとび言(こと)に、アフデウズクメ、又ムリアツ狀、又クビネコヲオサエテトルなどいへば、壓狀はおしてかゝする證文の事と聞ゆ。又献狀といへば、唐山(からくに)にいはゆる上書の類也。よしや手臂(しゅひ)、倒(さかしま)に置く世なりとも、太政入道臣として、新院にかゝし奉る起請文を、献狀といふべくもあらず。おもふに漢籍(からぶみ)に、壓と厭と、打まかして書たる例(ためし)多かり。漢書王莽傳に、乘其未ダニ一ㇾカラ、厭其未シヲ一ㇾ、杜鄴傳、折。又潘岳賦、厭焉、乃云、厭ハ猶ㇾ抑也とある是也。厭又狀に作り、獻も亦献に作る。こは省文(せいぶん)なり。この四字、傳寫の手に誤り易し。おそらくは盛衰記の異本に、原本の壓或は厭狀などありしを、誤りて獻献などに作りしより、參考に乞素壓狀(こつそあふじやう)といふ義を、得わきまへざりし故に、却つて献狀を正文(せいぶん)なりとして、且つ意をもて乞素の素字をも、索に改められしならん。しからばそはなまじひなる物そこねにこそあんなれ。只壓狀のみらで、此頃は怠狀(たいじやう)といふことあれども、献狀といふことは所見なし。今の學者、怠狀は後世のあやまり證文に同じといへるは、大かたのことにて、保元物語、左府賴長公の學問のうへをいへる段の怠狀は、今のあやまり證文より、その差(しな)かろきことのやうに聞ゆ。そはとまれかくまれ、今の俗語に、人をあやぶみて、叮嚀反復することを、怠狀乞(たいじやうこひ)をするといふ。こは壓狀(あふじやう)ずくめと對(たい)すべし。幷びに古言(こげん)の遣(のこ)れる也。かゝれば壓狀、怠狀は、むかしの儒者詞(じゆしやことば)なるべし。さればとて、漢籍(からふみ)に出處あるべきことにはあらず。譬へば今の曲學者のおとしばなしを落語といひ、地口(ぢぐち)を語路(ごろ)といふが如くなるべし。さて又乞素はやはり乞素にて、乞索の誤りにあらず。ゆゑいかにとならば、盛衰記に乞素と書たるは假字(かりじ)にて、コツソは隱密(いんみつ)の義なり。今も、しのびてすることをコツソといひ、女子の頭巾をオコツソ頭巾(づきん)といふ。おは敬の詞(ことば)、コソはコツソリにて、しのぶの義也。是れかつき代(かはり)の長頭巾(ながづきん)にて、途中の人目をしのぶものなれば、この名あり。よりて又按ずるに、コソコモ也。と連聲、コモはこもる也。文字には隱又陰にも當れり。よろづうちこもりてすることは、しのぶの義あるをもて、隱密をコソといふ。則是コソコモ橫音コモルの略辭にて、ひそかといふに同じ。コソは必古言なるべし。さてそのコソの間へツもじをそえて唱へしは、すなはち古俗の訛(なま)りにて、猶今俗のかたむくをカタビツコ、ほかをホツカ、あさてをアサツテなどいふが如し。かくて盛衰記の本文に據(よ)るに、太政入道、ひそかに平家の子孫後世(こうせい)の爲に、新院におして起請文をかゝし奉りしかば、通親卿のそれを譏(そし)りて、コツソ壓狀(あふじやう)といひし也。コツソは上に辨じたる隱密(いんみつ)の義にて、ひそか也。壓狀はおさえてかゝし奉りし狀也。地をうつ槌(つち)のはづるゝとも、この事のみは違(たが)ふべからずと思ふも、嗚呼(をこ)のひがごとかしらず侍れど、とにもかくにも參考本に誤り也といはれしは、なかなかに誤りにて、ふかく考へざりしによれり。かゝれば献字のよりどころを、たづねずして分明(ぶんみやう)ならん歟。

解云、かさねていふ、ひそかに退(しりぞ)くものを、俗にこそこそとにげてゆくといひ、又意中に思ふのみにてあらはにいひがたきを、こそばゆくなどいふコソも、皆ひそかの義にて、今の俗語に、こそといふこと多かれども、人のこゝろつかぬにや。いまだ注せしものを見ず。又おこそ頭巾は御高祖頭巾(おかうそづきん)にて、日蓮の綿帽子より出たりといふものあれど、附會なるべし。解再白。

[やぶちゃん注:「輪池堂」お馴染みの屋代弘賢。

「源平盛衰記に、太政入道の新院に、御起請かゝせ申せし事を、通親卿の詞に、コツソアフ狀といへり」同書第二十三巻の「新院、嚴島より還御。附けたり新院、御起請に恐る。附けたり落書の事」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四五(一九一二)年有朋堂刊の石川核校訂「源平盛衰記 上」のここ。右ページ後ろから五行目以降で、後ろから三行目に「乞素壓狀(こつそあふじやう)」の文字列で出る。時制は治承四(一一八〇)年の安徳天皇への譲位の翌月三月の厳島御幸から帰って後である。

「太政入道」平清盛。

「新院」高倉上皇。治承五(一一八一)年に二十一の若さで病没した。

「通親卿」(久安五(一一四九)年~建仁二(一二〇二)年)は当時は高倉帝の側近であった。彼は実に後白河天皇に始まり、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後白河院及び後鳥羽天皇・後鳥羽院及び土御門天皇という平安末期から鎌倉初期にかけて、夥しい数の天皇に仕えた。

「コツソアフ狀」現行の辞書類では「乞索壓状(こつさくあふじやう(こっさくおうじょう))」の方を正規表現としている。他人の所有物を無理に請い求め、譲渡書や契約書を書かせること。また、その文書。乞索状(きっさくじょう)とも。

「柳仲郢」(りゅうちゅうえい ?~八六四年)は晩唐の大臣。

「アフデウズクメ」歴史的仮名遣が合わないが、「壓狀盡め」か。

「ムリアツ狀」「無理壓狀」か。

「クビネコヲオサエテトル」歴史的仮名遣が合わないが、「首根つこを壓へて取る」か。

「手臂(しゅひ)、倒(さかしま)に置く」手と臂(ひじ)を転倒して言うことであろう。

「漢書王莽傳に、乘其未ダニ一ㇾカラ、厭其未シヲ一ㇾ、杜鄴傳、折。又潘岳「笙賦」、『厭焉、乃。』云、厭ハ猶ㇾ抑也とある是也」訓読しておく。

   *

「漢書」王莽(わうまう)の傳に、『其の未だに堅からざるに乘じ、其の未だしを登をせずして厭ず。』と。「杜鄴(とげふ)」の傳に、『衝(しよう)を折り、難を厭(えん)ず。』と。又、潘岳(はんがく)が「笙の賦」に、『厭焉(えんえん)、乃(すなは)ち、揚(あが)る。」の注に云はく、『「厭」は「抑」のごとし。』とある、是れなり。

   *

まず、「王莽」(おうもう 紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、紀元後八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。「漢書」の当該部は「維基文庫」のこちらで、原文が確認でき、以下の箇所であることが判る(コンマを読点に代え、一部、漢字表記・記号を変更・追加した。太字は私が施した(以下同じ))。

   *

當此之時、宮亡儲主、董賢據重、加以傅氏有女之援、皆自知得罪天下、結讎中山、則必同憂、斷金相翼、藉假遺詔、頻用賞誅、先除所憚、急引所附、遂誣往冤、更徵遠屬、事勢張見、其不難矣! 賴公立入、卽時退賢、及其黨親。當此之時、公運獨見之明、奮亡前之威、盱衡厲色、振揚武怒、乘其未堅、厭其未發、震起機動、敵人摧折、雖有賁育不及持刺、雖有樗里不及回知、雖有鬼谷不及造次、是故董賢喪其魂魄、遂自絞殺。人不還踵、日不移晷、霍然四除、更爲寧朝。非陛下莫引立公、非公莫克此禍。「詩」云、「惟師尙父、時惟鷹揚、亮彼武王。」、孔子曰、「敏則有功。」、公之謂矣。

   *

これは、とても私の手には負えない。ブログ「てぃーえすのメモ帳」のこちらに、当該部の現代語訳が載り、『まだ董賢らの計画が固まる前に未然に防ぎ、敵の企みはくじかれました。』とあるのが当該部である。次の「杜鄴」(?~紀元前二年)は前漢の官吏(成帝・哀帝の代の涼州刺史)で学者。以下の引用も「漢書」の「杜鄴伝」の一節。同じく「維基文庫」のここで原文が確認できる。以下である。同前の仕儀で示す。

   *

昔文侯寤大鴈之獻而父子益親、陳平共壹飯之篹而將相加驩、所接雖在楹階俎豆之間、其於爲國折衝厭難、豈不遠哉!

   *

現在の「折衝」に同じで、「厭難」は恐らく如何なる状況をも厭わなかったことを言うのであろう。「潘岳」(二四七年~三〇〇年)は西晋の文人。権勢家賈謐(かひつ)の門に出入りしたが、讒言にあって誅された。流麗な詩文を書き、亡妻を悼んだ「悼亡詩」が知られ、美男であったため、美男の代名詞に使われる。「笙賦」はやはり「維基文庫」のこちらで全篇が見られ、当該部は、

   *

厭焉乃揚

   *

とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「文選正文」(もんぜんせいぶん)(明三(一八七〇)年宝文堂刊・片山兼山訓点)を見ると(左丁五行目)、

   *

焉(えん)を厭(えん)すれば、乃(すなは)ち、揚(あが)る。

   *

とあるが、よく判らぬ。但し、「厭焉」という熟語は「隠す」の意であるから、対象を隠してしまうと、その対象への感懐は抑えられるという意か。識者の御教授を乞うものである。

「省文」省略した文字や文句。

「物そこね」「物損ね」。

「怠狀」この語自体の発生は古い。元は、古代・中世に於いて罪や過失を犯した者がそれを認めて差し出す謝罪状「おこたりぶみ」を指した後、平安末期には動詞として「過ちを詫びる・謝ること」となり、中世に入ると、「訴人(原告)が訴訟の係属中、訴訟の全部若しくは一部を取下げる際に裁判所に提出する書面」を指す法用語となった。

「保元物語、左府賴長公の學問のうへをいへる段の怠狀」同書上巻の「新院御謀叛(ごむほん)思し召し立つ事」の一節。大正三(一九一四)年国書刊行会刊「參考保元物語・參考平治物語」の当該部を視認して、カタカナをひらがなに直して電子化した(割注はカットし、一部の読点を句点に変え、追加もした。また一部の語に濁点を添えた。読みは推定で歴史的仮名遣で附した。その際、所持する「新日本古典文学大系」版を一部で参考にした。太字は私が附した)。

   *

 宇治の左大臣賴長と申(まをす)は、知足院の禪閤殿下忠實公[やぶちゃん注:元関白藤原忠実。当時、存命。]の三男にておはします。入道殿の公達の御中に、殊更愛子にておはしましけり。人がらも左右に及ばぬ上、和漢ともに人に勝れ、禮義を調へ、自他の記錄に暗からず。文才、世に知られ、諸道に淺深(せんじん)を探る。朝家、重臣・攝錄[やぶちゃん注:関白の唐名。]の器量也。されば御兄(おんあに)法性寺殿(ほつしやうじどの)[やぶちゃん注:藤原忠通。当時は関白。]の詩歌に巧(たくみ)にて、御手跡(ごしゆせき)の美しくおはしますをば、貶(そし)り申させ給て、

「詩歌は閑中(かにちゆう)の翫(もてあそび)なり。朝家の要事(えうし)に非ず。手跡は一旦の興也。賢臣、必しも是を好むべからず。」

とて、我身は宗(むね)と[やぶちゃん注:主に。]全經(ぜんきやう)[やぶちゃん注:四書五経を始めとした経書(けいしょ)。]を学び、信西(しんぜい)を師として、鎭(とこしなへ)に学窻(がくさう)に籠りて、仁義禮智信を正しくし、賞罰勳功をわかち給ふ。政務、きりとをしにして[やぶちゃん注:理非明快に処理して。]、上下(じやうげ)の善惡を糾(ただ)されければ、時の人、惡左大臣(あくさだいじん)[やぶちゃん注:「惡」は「鋭い」「苛烈な」の意。]とぞ申ける。

 諸人、加樣(かやう)に恐れ奉りしかども、眞實の御心(おんこころむき)は、極(きはめ)てうるはしくおはしまし、あやしの舍人(とねり)・牛飼(うしかひ)なれども、御勘當(ごかんだう)を蒙るとき、道理をたて申せば、こまごまと聞召(きこしめし)て、罪なければ、御後悔ありき。又、禁中、陣頭にて、公事(くじ)をおこなはせ給ふ時、外記(げき)官史(くわんし)等(ら)をいさめさせ給ふに、あやまたぬ次第を辨(わきまへ)申せば、『我(わが)僻事(ひがごと)』と思召(おぼしめ)す時は、忽(たちまち)に折れさせ給(たまひ)て、御怠狀(おんたいじやう)を遊ばして、彼らに、たぶ。恐(おそれ)をなして給はらざる時は、

「我、好(このみ)思召(おぼしめす)怠状也。只、給り候へ。一(いち)の上(かみ)[やぶちゃん注:左大臣。]の怠状を、以下臣下、取傳(とりつた)ふる事、家(いへ)の面目(めんぼく)に非ずや。」

と仰られければ、畏(かしこまつ)て賜(たまは)りけるとかや。

 誠(まこと)に是非明察(ぜひめいさつ)に、善悪無二におはします故也。世も是をもてなし奉り、禪定殿下も、大切の人に思召けり。

   *

「差(しな)」そのものが持つ質の違いを言う。

「地口(ぢぐち)」世間で普通に行なわれている成語に、語呂(ごろ)を合わせた言葉の洒落。次の条で考証されてある。

「連聲」「れんじやう」。平安末期から室町時代まで日本語にあった音韻現象。「三位(さんみ) 」「因縁 (いんねん) 」「雪隠 (せっちん) 」のように、ア行・ヤ行・ワ行音が、「m」音に続く時はマ行音に、「n」音に続く時はナ行音に、「t」音に続く時はタ行音に替ること。室町時代には撥音の「m」と「n」の区別が失われたので、マ行音に替る連声は殆んど見られなくなった。連声は、まず、上例のような漢字熟語の内部で起ったが、次第に「今日は (こんにった)」のように和語との結合にも及んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「橫音」意味不明。「わうおん」で「普通でない発音」の意か。

「必古言なるべし」「かならず、こげんなるべし」。]

2022/06/09

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「孝行坂の話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年七月発行の『鄕土硏究』三巻第五号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

    孝 行 坂 の 話

 

 鄕土硏究二卷四七四―六頁に、越原君が大宮邊から來たらしい下婢より聞いたとて、孝女が奉公中朝夕其母に似せ作つた假面を拜した話を出されたが、不幸にも君は其話の後の方を忘れたさうで、結めが一向分つて居無い。予は君の彼文を讀むと直ぐ斯話の出處を憶出したが、其書が半年歷た今日(四月十八日)やっと手に入つた故、大意を抄記して寄書とする。

 此話は湖東駒井光闡寺の僧南溟著續沙石集(寬保癸亥の自序有り延享元年京都板)卷四の第二章、孝行坂得名事と題した者で、四葉半に涉れる長譚たるに依て、出來る丈縮めて話の筋を演る。云く、丹後國に孝行坂と云ふ所有り、往古は隣村の名で呼んだ。其が孝行坂と成た譯は、昔し此坂の奧なる、小家に貧な母子有て、子は女で二十歲計り、自村で生活六かしい故、村人勸めて母一人は介抱しやるから汝は他へ奉公に出よと云ふ。因て坂を踰て三里離れた地の或大百姓方で一年程勤める中、朝夕針凾の蓋を開けて拜するを傍輩の女注意して見ると、けしかる女の面一つあり。主人之を聞き鬼の面を拵へ、密かに彼女の面と替置いた。其日の暮に女例の通り箱を開き鬼の面を見て吃驚し、强て主人に暇を乞ひ風呂敷持て自村へ還る。坂の峠で大男二人立出で其風呂敷を奪ひ見るに、假面の樣な物の外に何も無いから抛歸し、今夜は仕合せが惡い切て此女を連れ往き茶でも焚さうと云て引立行く。山奧の小家に五六人居る所へ入つて博奕する内、女は茶を焚て持運ぶ中にも在所の母は死で鬼に成た者か、我拜した母の面が鬼に化たと極て心配の餘り、風呂敷から鬼の面を出し、拜しては眺め又自分の顏に掛けなどす、賊輩又茶を持つて來いと喚ぶから氣付かずに件の面掛けた儘茶を運ぶと、一同肝を消し何か打捨て散々に遁去つた。女自分の掛居る鬼の面に氣が附かず不思議な事と思い居ると、老僧一人來て、汝在所へ歸りたくばわれ案内してやらうと云つて、賊が捨置いた金銀悉く風呂敷に包み是は汝の物だと云ふ。女誰の物やら分らぬを取るべき樣無しと云ふと、更に苦しく無い我是を汝に與ふとて女に持せ坂越る迄附添て去た。女其邊を顧ると頓かに見失うた。女里に歸つて母を訪ふと、夜中何事有つて歸たかと急ぎ戶を明け見れば娘で無くて鬼女だから母氣絕した。娘心得ず、こはいかにと騷ぐ内始て氣が付き、鬼の面を脫ぎ水を注いで母正氣附いた。扨母が何故夜中歸つて來たかとの問に娘答へて奉公に出てより每朝夕拜した母の面が突然鬼の面と化たので不祥が生じたと察し、暇貰ふて還る途中斯樣の難に遭うたと物語つて、金銀を母に渡す。母驚いて何角の歡びに一兩日休息せよとて里人を賴み主人へ告る。主人其は氣の毒な事をした、母の面が鬼と化たは全く余が摺替へたのだ。仔細も云ず暇を乞れたので其事を忘れ居た。何に致せ女の至孝を感じ天道が賊難を遁れしめた上財寶を賜ふたので、其老僧は化人だらうと主人頻りに感心し、直に母親に面會に往て其子の妻に彼娘を貰受け、里の母には下女一人添へて萬事不自由無く暮させたから、母も娘も夢の心地と思ふ程悅んだ。其から件の坂を誰言しむとも無く孝行坂と號けた事ぢや。

       (大正四年鄕硏第三卷五號)

[やぶちゃん注:本電子化に先立ち、ここで熊楠が紹介した「續沙石集」の当該話を『「續沙石集」巻四「第二 孝行坂得名事」』としてブログで電子化しておいた。熊楠の読みにくい箇所は、その私の電子化を先に読めば、すんなり読めるはずであるので、まずは、そちらを読まれたい。されば、縮訳部の読みはここではつけない。

「越原君が大宮邊から來たらしい下婢より聞いたとて、孝女が奉公中朝夕其母に似せ作つた假面を拜した話を出された」「選集」の割注によれば、『塚原宮雄』氏の『松山鏡の話』という記事らしい。作者の事績は不詳。

「結め」「とじめ」。話の結末。

「彼文」「かのぶん」。

「斯話」「かのはなし」。

「憶出した」「おもひだした」。

「寄書」「よせがき」。

「湖東駒井光闡寺」寺名は「くわうせんじ(こうせんじ)」と読む。現在の滋賀県草津市新堂町(しんどうちょう)に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。浄土真宗ではあるが、作者南冥が在住したかどうかは確認出来なかった。

「寬保癸亥」一七四三年。

「延享元年」一七四四年。

「演る」「のべる」。]

「續沙石集」巻四「第二 孝行坂得名事」

 

[やぶちゃん注:本書は鎌倉時代の無住の仏教説話集「沙石集」を範として、江戸後期浄土真宗仏光寺の僧南溟が書いたもの。全六巻・六十二話。延享元(一七四四)年京都で板行された。

 底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらから映像を視認して起こした。カタカナをひらがなに代え、読みは送り仮名で出すなどして(そのため一部の踊り字は正字化した)、一部に留めた。句読点・濁点は私が、適宜、附し、段落も成形した。「*」は、以下が、筆者評言となるので、挿入した。歴史的仮名遣の誤りはママである。漢字表記は最も一致するものを選び、字体で迷ったものは正字を用いた。踊り字「〱」「〲」は総て正字化した。]

 

 第二 「孝行坂(かうかうざか)」得名(とくめう)の事

 丹後の國に「孝行坂」と云ふ所あり、往古(わうご)は隣村(りんそん)の名を以つて呼びたるなり。

 後に此の坂の奥なる山家(やまが)に貧なる母子あり。其の子は女にて、年の程、廿歳(はたち)ばかりなるが、方々と百姓の家にやとはれありき。少しの米・錢を取りて、母を養育するに、女の事なれば、はかばかしき事もなき故に、村の者ども、云はく、

「何方(いづかた)へなりとも奉公すべし。母一人は、いかにもし、介抱しあたふべし。」

と。

 此の娘、孝心ありて、

「母を、一人指し置き侍らん事、本意(ほい)ならず。」

といへども、頻りにすゝめて、坂をこえ、里中(りちゆう)の大百姓の方(かた)へつかはしけり。

 一年程も勤めける中(うち)に、朝夕、張函(はりばこ)の盖(ふた)をあけ、拜する業(わざ)あり。傍輩(ほうばい)も是れを不審に思ひ、主人も听(き)きて[やぶちゃん注:「聽」の異体字。]、いぶかしく思ふ。されば、

『守りとする佛像もや有らん。』

と察するに、又、心を付けて、傍輩の女、見るに、外(ほか)に佛像と思ふものなく、けしかる女の面(めん)、ひとつ、見ゆ。

 弥(いよいよ)不審に思ひ、主人につげぬ。

 主人、この女の野邊(のべ)に往きたる時、右の張函を見るに、彼(か)の靣(めん)より外に、物、なし。されども、亦、もとの如くして、置きぬ。

 後(のち)、主人、試みに鬼の面を調へて、人しらぬ樣(やう)に、彼の女の靣と取り替へ置きたり。

 右の女、其の日のくれ方に、又、張箱をあけて拜せんとして、鬼の面を見て、きもをけし、忽ちに淚をながせしが、それとも得(え)いはずして、主人に對して云はく、

「今夜(こよひ)、御暇(をいとま)玉はりたし。在所に遯(のが)れがたき用事侍る。」

と。

 主人云はく、

「用事あらば、つかはすべし。然(しかれ)ども、二、三里もへだゝりたる在所、ことに坂路(さかみち)なり。斯(か)く暮れに及んでは、いかゞ。明朝(めうてう)の事にすべし。」

と。

 女、重ねて、

「明日(あす)は、とく歸るべし。常に通ひなれたる坂路、夜とても、苦しからず。何とぞ。」

と云ふにぞ、主人も、

「さらば、兎も角も。」

と、いひてけり。

 女、風呂敷、手に持ちて出(いで)て往くに、日(ひ)、已に沒(もつ/いる[やぶちゃん注:右/左のルビ。]坂の樹(き)の陰(かげ)、星の光り、初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時頃。]も過ぎがてに、峠にかゝるに、大なる男、二人、立ち出でて、

「何(なに)にても持ちたるものを渡すべし。」

と云ふ。

 女、驚きて云はく、

「われは奉公人なり。此の末(すえ)の村に母を置き侍るが、用事ありて往く身の、何も進(まいら)する物、なし。」

と。

 男、猶(なを)も、きかず、其の風呂敷を奪ひぬるに、面の樣(やう)したるものより外、なり。男の云はく、

「此れは取りても无益(むやく)ならん。」

と、なげかへす。

 女、うれしく、取りてゆかんとするを、二人の男、云はく、

「今夜(こよひ)は仕合(しあは)せあしゝ。せめて、此の女を連れゆき、茶にてもたかせ侍らん。」

とて、引きたてゆく。

 女、ことはりをいへども、聽きいれず、山の奥、十町ばかりも連れゆくかと覺ゆる處に、小家(こいえ)あり、其の家に入るに、五、六人も男ども居て、

「今夜(こよひ)の仕合せ、いかゞ。」

と問ふに、兩人、こたへて云はく、

「不埒(ふらち)なり。女、一人、通りける程に、せめて茶を燒かせ侍らんと召し連れたり。」

と。

 男共、

「よくこそ。」

と云ひて、やがて、皆々、博奕(ばくえき)をせしほどに、金銀・錢、多く取りちらしけり。

 女は、茶をたきて、是非なく持ちはこびて、彼等に、のませける中にも、

『在所の母の𣦹(し)し玉ひて、鬼になり玉はんしるしにや。此の面の函(はこ)の中にありて、我が拜(はい)したる面のなきは。』

と淚をながし、右の鬼の靣を取りいだし、拜しては、又、ながめ、或は、我が顔に掛け、案じ、わづらひたる處に、男ども、

「茶を持ち來たれ。」

と呼びければ、何意(なにごゝろ)もなく、面を掛けながら、茶を持ちゆきたり。

 男共、これを見て、肝をけし、何かを[やぶちゃん注:何もかも。]、打ち捨て、散々(ちりじり)に、にげ去りけり。

 此の女、

『不思議の事かな。』

とのみ思ふて、彼の鬼の面を掛けたる事は㤀(わす)れて、一人居たる所に、老僧一人、來たつて、

「汝、在所へ歸りたきや。」

と。

 女の云はく、

「在所へ歸りたきは、やたけに思ふことに侍れども、夜中にて、方角は、しれず、ことに、山路(やまぢ)のけはしき。仕方(せんかた)もなく候ひぬ。」

と。

 老僧、

「さらば、我れ、案内せしむべし。其の風呂敷を。」

とて、取り、かの捨て置きし金銀、ことごとく、取りあつめ、風呂敷に、つゝみ、

「是れは汝に備はりたる世財(せざい)なり。持ち來たれ。」

と、なり。

 女、云はく、「是れは何者の財寳ともしれず、取るべき樣(やう)あらじ。」

と。

 老僧の云はく、

「さらに苦しからじ。我れ、是れを與(あた)ふ。」

とありて、持たさしめ、路(みち)を案内し玉ふに、ほどなく、本道(ほんみち)出でつゝ、坂を越ゆるまでも、いたはり玉ふて、

「是れより、能く路をしらめ。」

と、わかれてかへり玉ふ。

 女、あまりの嬉しさに、『あとを見をくらん』と顧みるに、見失ひたり。

 さて、在所にいたり、母親の宿(やど)に音信(をとづれ)ければ、母の聲として、

「何物ぞ。」

と。娘、

「かへり侍る。」

といへば、母、立ち居(ゐ)も心にまかせぬほどなれど、娘の來たる嬉しさ、又、夜中に來たる氣づかはしさに、いそぎ、出でて、戸を明けぬるに、娘にはあらぬ、鬼女(きぢよ)なり。

 母、驚きて、仆(たふ)れ、頓(にはか)に生き絶えたり。

 娘、こゝろえず、

「こは、いかん。」

と、さはぎぬる間(ま)に、鬼の面をかけたるを思ひ出し、

「此れに驚き玉ひけん。ことはり。」

と思ひて、此れを取りすてゝ、水をそゝぎ、呼びいけゝるに、母は正氣づき、扨(さて)、みれば、我が娘なり。

 母の云はく、

「いかなれば、遠方より、夜更けて來たりたる事や。いかなれば、娘の顔の鬼と見えたるや。」

と。娘云はく、

「奉公に出でたる節(せつ)より母を拜する心地にて、女の面を、一つ、とゝのへ、張函に入れ置きて、朝夕、拜し上(たてまつ)る處に、この鬼の面に替はりたり。『扨は母人(ははびと)の御身に不吉の事あらん』と思ふとひとしく、胸、うちさはぎて、主人に暇(いとま)をもらひて、立ち歸(がへ)り侍るに、途中にて、ケ樣(かやう)ケ樣の難に遭ひ侍りし。」

と委細に物語りいたし、金銀をも、母に相ひ渡し侍るを、母、驚きて、

「先(ま)づは不思議なる事どもなり。何角(なにか)のよろこびに、一兩日も休息あるべし。主人の御もとへは里人(さとびと)をたのみて、御ことはり申すべし。」[やぶちゃん注:「何角(なにか)」「何角」は通常は「なにかと」と読み、「何彼と」の当て字。「あれこれと・なんやかやと・いろいろと」の意。]

と、それぞれに取りはからひけり。

 主人方には、斷りの者、往きてより、

『實(げ)にも。』

や、思ひて、

「扨々、それは難儀をかけたる事かな。靣の事は、さもあるべし。其の節(せつ)、思ひいたさば、不審なる事、なかれ。『面のかはりたるは、我が業(わざ)なり。』と、いひ聞かすべきを、急に隙(ひま)をねがひ候ふゆへ、其の事、打ちわすれたり。然れども、さほどまで、親に孝行なる者は、例(ためし)、まれなり。されば、天道のめぐりみによりて、難をのがれ、殊更、世財(せざい)を得ること、是れ、たゞ事に、あらず。老僧は、まさしく、是の化人(けにん)なるべし。」[やぶちゃん注:「化人」は天道の神仏の示現したものの意であろう。]

と、主人、頻りに感じて、直(ぢ)きに、母親の里にゆきて、

「この娘は、孝心深き者なれば、我が子の妻に、もらひ申したし。すなはち、我が子も得心(とくしん)せるなり。」

とて、其の日、主人は右の女をつれてかへり、約束の通り、

「輕(かろ)き者なれども、孝心ゆへに。」

といへば、家内、みな、同心して、彼の家の妻となる。

 里の母には、下女一人、指しそへて、何か不自由ならざる樣にこしらへければ、母子ともに、夢の心地と思ふほどに、よろこびけり。

 是れによりて、件(くだん)の坂を、誰(たれ)も、いひはじむるともなく、「孝行坂」と、なづけたるなり。

   *

 古へより、男女(なんによ)ともに學問に志しある人、又、生(むまれ)ながらにして賢德(けんとく)ある人は、すなはち、孝行の其のきこえ、あり。

 これは、女の面を拜して、鬼面にかゆるをも、得(え)察知せぬほどの癡人(ちにん)なり。然れども、其の孝行に於いては、身をすてゝ、親をとひ、命(おのち)をすてて、親を思ふ。寔(まことに)に是れ、名を坂にのこし、呼ぶも尤も理(ことはり)なり。

 佛敎の中には、何(いづ)れをか、輕んじ、何れをか、重し、と、わかたずといへども、母の恩を報ぜんことを欲(ほつ)す。

 源信僧都(げんしんそうづ)は母堂の黒髪を螺髪(らほつ)に植えて、弥陀の尊像を畫(ゑがひ)て敬禮(けうらい)したまへり。

 又、或る僧は、十月(とつき)の間(あひだ)、母体を苦しめける事を思ふて、母の像を造りて、敬禮せんとして、又、おもへらく、末々(すえずえ)にいたりて、凡人(ぼんにん)の、形相(けうさう)は誰(たれ)ともしらぬ輩(ともがら)は、此れ蔑(ないがしろ)にせん事をかなしみて、觀音の像を造り、其の裙(くん)[やぶちゃん注:すそ。]の紐(ひほ[やぶちゃん注:ママ。])を高くあらはして、母の腹帶(はらをび)の質(かたち)を表(ひやう)し、日夕(あさゆふ)、これを敬禮せり。

 世間に「腹帶の觀音・地藏」などゝいへる、皆、是の類(るい)なり。

 その外の父母孝養(けうやう)の志しを以て、佛を泥木繡畫(でいもくしうぐわ)に造り、經を書寫し、名号を拜書(はいしよ)ありし。

 其の例(ためし)や、枚擧するに遑(いとま)あらぬが、されども、是れは、多く、博學とか、才德とか、凡夫のあさましきには、あらぬなり。

 かへすがへす、此の癡女(ちぢよ)、孝によりて、難をのがれ、孝によりて、世財(せざい)を得、孝によりて、美名を、のこす。かへすがへすも、有りがたき事なり。

[やぶちゃん注:少し調べてみたが、この坂の所在は判らなかった。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「琵琶法師恠に遭ふ話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年六月発行の『鄕土硏究』三巻第四号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

    琵琶法師恠に遭ふ話

 

 阿波の耳切團一の譚(鄕硏二卷四號二四九頁)と同似のもの、曾呂利物語四に「耳きれ雲市が事」と題して、善光寺内の比丘尼寺へ出入りする越後の座頭雲市が、稍久く無沙汰して後行き、三十日程前に死んだ尼慶順の靈に其寮に伴れ行かれ、二夜外出を許されず大に餓困しむ。三日目に寺中の者戶口を蹴放して彼を救出し、馬に乘せて歸國せしむる途上、今にも後より取付かるゝやう覺え或寺に入り賴むと、僧共雲市の一身に等勝陀羅尼を書附けて佛壇に立て置く、尼の靈來つて可愛や座頭は石に成つたとて撫で廻し、耳に少し陀羅尼の足らぬ所を見出し、此に殘り分ありとて引ちぎつて持去つた。本國に歸つて耳切雲市とてながらへたと云ふ。

       (大正四年鄕硏第三卷第四號)

[やぶちゃん注:「阿波の耳切團一の譚(鄕硏二卷四號二四九頁)」「耳切團一」は「みみきれだんいち」と読む。「選集」に割注して『中島松三郎「耳切団一」』とある。中島松三郎氏は事績不詳だが、この論考の当該部が、遠田勝氏の論文『オリエンタリズムと「日本」を語る「民話」のメディア展開:Lafcadio Heamの“The Story of Mimi-Nashi-Hôïch i”を例として』(『国際文化学研究:神戸大学大学院国際文化学研究科紀要』(二〇一八年十二月発行)所収。こちらからPDF版がダウン・ロード可能)の中に引かれてあるので(六ページ。PDF版の7コマ目。歴史的仮名遣だが、漢字は新字体)、以下に漢字を恣意的に正字化して電子化しておく。

   *

○耳切團一   德島縣板野郡里浦村に昔團一と云ふ盲目の琵琶法師があつた。ある夜一人の官女らしい者が來て、今宵御殿で宴會が催されるに依つて是非出て貰ひたいとの言葉に、團市は其晚早速行つた。斯くして每晚其御殿に行つてゐる中に、次第に身の衰弱するのを覺えたが、あまり氣にも止めないでゐた。ある旅僧が此村の墓地を通ると、一人の瘦衰へた琵琶法師が一心不亂に琵琶を彈いてゐる、旅僧は樣子を聞いて、目と云はず、鼻と云はず、身體中をまじなひしたが、耳を忘れて居た。翌晚になると又例の官女らしいのが來て團一を伴れて出やうとしたが、團一の身體には禁厭(ましなひ)(ママ)[やぶちゃん注:前はルビ。後者は本文。]が施してあるから中々伴れて行くことが出來ずに耳を持つて行つてしまつた。耳切團一の話として土地の人は今でも話して居る。(中島松三郞)

   *

なお、遠田氏の論文は非常に興味深い。全文を読まれることをお薦めする。また、ご存知、小泉八雲の名怪談のそれは、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、「小泉八雲 耳無芳一の話 (戸川明三訳)」として八雲が原拠としたもの(一夕散人作の読本「臥遊奇談」の巻之二巻頭にある「琵琶祕曲泣幽靈」(琵琶の祕曲、幽靈を泣かしむ))も含めて、電子化してあるので、参照されたい。

『曾呂利物語四に「耳きれ雲市が事」と題して、善光寺内の比丘尼寺へ出入りする越後の座頭雲市が、……』これは、既に『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(9) 耳切團一』の私の注で挿絵とともに電子化してあるので、参照されたい。そちらの本文や拙注(かなり細かく注を施してある)も大いに参考になろうと存ずる。

「稍久く」「ややひさしく」。

「後行き」「のち、ゆき」。

「伴れ行かれ」「ともなはれゆかれ」。

「餓困しむ」「うゑくるしむ」。

「蹴放して」「けりはなして」。

「後より取付かるゝやう」「うしろより、とりつかるるやう」。

「等勝陀羅尼」「選集」もそのままであるが、上記リンク先の私の電子化を見られれば判る通り、ここは「曾呂利物語」では、「尊勝陀羅尼」となっており、等勝陀羅尼なるものは私は聴いたことがないので、恐らくは熊楠の誤記か、或いは、誤植であろうと思われる。]

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「猫を殺すと告て盜品を取戾す事」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年三月発行の『人類學雜誌』三十巻第三号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

    猫を殺すと告て盜品を取戾す事 (人類三〇卷一號二四頁)

 

 朝鮮に此事行はるとは予には初耳だがトランスカウカシアのオツセテ人も然する。竊盜に遇ふと方士に贈物して俱に心當りの家に赴き、方士一猫を擁へて、「汝此人の物を盜んで返さずば汝の祖先の魂此猫に苦しめらるゝぞ」と詛ふ。すると其家の人果して盜み居らば懼れて盜品を屹度返す。又盜人は誰と心當り無くば、家每に斯く行ひ廻れば、迚も遁れぬ所と盜人進で罪を自白する。オツセテ人は猫犬驢を怪畜とし、他人に困められて不平を訴へんとする者前方の祖先の墓上に猫か犬か驢を一疋殺し、彼の祖先某々の爲に殺すと喚はる。其上前方が何とか方付けずに置けば、名ざゝれた祖先共の魂が殺されたと同種の畜と成る。是れ子孫に取て大不祥なれば、斯くして祖先を詛はれた者急ぎ來たって損害を償ひ和平を求むると云ふ(Haxthausen, ‘Transcaucasia,Enng. trans., 1854, pp.398-399)。こんな譯か一五六六年に初て出版の Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ tom.i に、猫は裁判の識標故、イーヴ尊者(狀師の守護尊)の像に猫を伴ふと有る。   (大正四年三月人類第三〇卷)

[やぶちゃん注:「選集」では添え辞は改行下方インデントで二行で、『中島「朝鮮旧慣調査」参照』『(『人類學雜誌』三〇巻一号二四頁)』とある。ここに示された中島某の論考は「j-stage」のこちらで原本が見られるPDF)。正しくは「朝鮮舊慣調査(五)」で、筆者は『中島生』とする(事績不詳)。その当該ページ、PDF3コマ目を見られたい。

「トランスカウカシア」「南コーカサス」の英語。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「オセツテ人」オセット人(ОсетинOsetin)。カフカース地方(南コーカサスが含まれる)の山岳地帯に住むイラン系民族で、主な居住地域はカフカース山脈を跨いで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国及びジョージアの南オセチア自治州に分かれている。現在の総人口は凡そ六十万人。「オセチア人」とも呼ばれる。参考にした当該ウィキには、歴史や遺伝学的考察が載るので参照されたい。

「然する」「しかする」。

「竊盜」「せつたう」。「窃盗」に同じ。

「方士」呪術師。シャーマン。

「擁へて」「かかへて」。

「詛ふ」「のろふ」。

「進で」「すすんで」。

「驢」「ろば」。

「困められて」「くるしめられて」。

「前方」「せんぱう」。先方。

「某々」「なにがしかがし」と訓じておく。

「喚はる」「よばはる」。

「方付けず」「かたづけず」。

「取て」「とりて」。

Haxthausen, ‘Transcaucasia,Enng. trans., 1854, pp.398-399」ドイツの農学者・弁護士で作家のアウグスト・フォン・ハクストハウゼン(August Franz Haxthausen 一七九二年~一八六六年)。彼は一八四三年に六ヶ月間に亙ってロシアを旅した。ノヴゴロド・カザン・コーカサス・キーウを経てモスクワに至っている。翌年の春にドイツに戻って、印象を書き留めており、その体験の一部が後にこれとなったもののようである。「Internet archive」のこちらで英訳である当該原本がここから読める。

「初て」「はじめて」。

「一五六六年」「出版の Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ tom.i」作者は、フランスの古典学者・印刷業者アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:ラテン語名ヘンリクス・ステファヌスHenricus Stephanusでも知られ、特に一五七八年に出版した『プラトン全集』は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている)。ここに出るのは彼の著作中、最も知られるもので、正式には‘ Introduction au Traité de la conformité des merveilles anciennes avec les modernes, ou Traité préparatif à l'apologie pour Hérodote ’(「古代及び現代の驚異の一致に関する序論、又は、ヘロドトスの弁護のための詩論」)。

「イーヴ尊者(狀師の守護尊)」「狀師」は他人の訴訟の代理を仕事とする代言人・弁護士のこと。「イーヴ尊者」はブルターニュ出身のフランシスコ会士イーヴ・エロリー・ド・カーマルタンYves Hélory de Kermartin  一二五三年~一三〇三年)で、死後に聖人に列し、ブルターニュ及び弁護士の守護聖人として知られる。フランス語の幾つかのフレーズ組み合わせで画像検索かけたが、猫を伴う彼の聖人像は残念ながら見出せなかった。]

2022/06/08

ブログ・アクセス1,750,000アクセス突破記念 梅崎春生 紫陽花

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三〇(一九五五)年七月号『文芸』に連載を開始し、同十月号で完結した。後の作品集「紫陽花」(昭和三十年九月河出書房刊)に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。文中に注を添えた。

 本篇の前半部は梅崎春生にしては珍しく多くの段落が有意に長めである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日正午過ぎ、1,750,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   紫 陽 花

 

 貴島一策が死んだことを、僕は朝の十時頃知った。下宿に電話がかかってきたのだ。聞き知らぬ声が言っている。野田さんですか。野田三郎さんですね。貴島を御存じですね。貴島一策は死にました。ええ。死んだのは昨夜です。

 電話室は階段脇にあって何時もうすぐらい。そのよごれた壁はいろんな数字や、わけの判らない形の落書きでいっぱいだ。電話というやつは相手の顔が見えないから、話の間はどうしても視線がうろうろする。壁のあちこちを這(は)い廻る。這い廻るだけで、数字や形を読んだり確かめたりするわけではないが。電話の声に僕はあまりショックを受けなかった。声も初めてだったし、口調もたいへん事務的で、面倒くさそうだったから。それに僕の感じでは、まだ貴島一策が死ぬ筈がなかった。まだ当分は、二十年や三十年は(と言っても年月の実感でなく言葉の上だけでだが)、今のままで生きている筈だった。それが電話一本でかんたんに死んでしまうわけがない。だから僕は困感して、受話器を持たない方の手の爪で壁の数字を引っ搔きながら、貴下はどなたかと問い返そうとする前に、電話は突然切れてしまった。問い返す前に、ためらいの沈黙を寸時置いたせいだろう。僕は受話器をかけて電話室を出た。よく磨き上げられた玄関の床板が、光を照り返している。土間の向うに午前十時の日光がピカピカしている。僕はちょっと眩暈(めまい)を感じ、階段のとば口にうずくまった。外がまぶし過ぎたのだ。それから僕はヤッとかけ声をかけて立ち上った。眼が慣れて、もう外はまぶしくなかった。解放感に似たものが、その時ゆるゆると僕の身内にひろがってきた。あの電話の声にウソがないとするならば、いや、伊達(だて)や酔狂でそんないたずらをする奴はないから、やはり貴島一策氏は死んだのだろう。ほんとに死んだんだろう。もっとも歳が歳だからな、と僕は思った。貴島一策氏はたしか僕の親爺と同年生れだから、もう五十四五にはなっているだろう。あのくらいの年頃になると、僕らの予想出来ないような変化を時々おこすものだ。僕の親爺だって六年前、ある日突然たおれて、そのまま一箇月も経たないうちに死んでしまった。しかし、それはそうとしても、貴島一策の場合は少々突然過ぎる気がしないでもない。僕は一週間前に彼に逢っている。その時彼は病気でもなければ、怪我をしてもいなかった。ちゃんとした恰好(かっこう)で、欠けたところと言えば前歯が二本ぶっ欠けたままで、にこにこと籐椅子に腰をおろしていた。欠けた前歯は先月逢った時と全然同じだった。義歯代にこと欠くような身分ではなし、僕はへんに思って訊ねてみた。

「小父さん」僕は彼のことを小父さんと呼んでいる。それより他に呼びようがなかったからだ。「歯、前歯は修繕しないんですか」

「歯か」彼は左の中指で歯列の空洞をまさぐった。「直さないよ。面倒くさいからな」

「面倒くさいって、それじゃ食べるものに不自由するでしょう。たとえばタクアンとか南京豆だとか」と僕は言った。「面倒くさいというのは、僕たち若い者の言い草ですよ」

「なぜ若者の言い草だね?」

「つまり、若い者はですね、前歯が二本や三本欠けても」と僕は答えた。「他の歯が丈夫だから、当分はそれで間に合わせる。タクアソだって奥歯で噛んでしまう。小父さんはそういう具合には行かないでしょう」

「妙な論理だね」

 と彼は言って、余儀ないと言ったようなつくり笑いをした。笑うと欠けた前歯がことさら目立つのだ。それは醜悪というほどではないが、かなり異様な感じを与える。どういう事情で欠けたのか知らないが、彼は欠けたままで少くとも二箇月は放置している。先月、それに先々月会った時も、歯は二本欠けていた。他のところ、つまり頭髪(半白だ)や鬚(ひげ)や爪や、服装、そんなものはきちんと整備しているのに、歯だけを放置している気持が僕にはよく理解出来ない。(理解したいと、強くは思わないが)。しかし、鬚や爪や髪はある意味では消耗品で、歯は備品だ。眼球や舌や膝小僧と同じく備品だ。備品を欠かしたまま放って置くのはおかしい。しかし僕が彼の歯にそんなにこだわることの方が、もっとおかしいのかも知れぬ。僕は月に一度、第一日曜日にきちんと貴島一策宅を訪れる。そして彼から八千円の金を貰い、受領証を書く。そして何となく一日を貴島宅で過し、家事の手伝いをしたり、一策の将棋の相手をしたりする。一策と将棋を指すのは、あまり愉しいことではない。僕と彼とは、将棋においては腕前がほぼ互角だが、いや、僕の方がいくらか強いが、彼には闘志というものがない。つまり僕の王将を取ろうという気持が、彼には全然ない風(ふう)なのだ。闘志のない相手に闘志を燃やすほど困難なことはない。だから僕にも闘志は湧いて来ない。お互いに闘志のないところに勝負ごとは成立しないだろう。それにもかかわらず、彼は時折僕に勝負をいどむ。縁側に将棋盤を持ち出して、そして四回に三回は僕が勝つ。負けると彼は駒を盤に投げ、駒の形をめちゃめちゃにして、退屈そうに欠伸(あくび)をしたりする。よほど大儀なことをやってのけたようなやり方でだ。そしてまた駒を並べ始める。まるで全然時間をつぶすためにやっているような具合なのだ。彼が時間を、自分の時間を、自分だけでつぶすのなら、僕にも異存はない。しかし将棋というやつは相手が要る。彼は僕を踏台にして、僕の時間を道連れすることによって、自分の時間をつぶそうとしている。大層ぜいたくなやり方だと思う。彼が僕の時間を平気で道連れに出来るのは、ひょっとかすると彼が僕を全然バカにしているせいだろう。その貴島一策が昨夜死んだと言う。電話口の事務的な声がだ。

 僕は階段を一足飛びにかけ登り、自分の部屋に戻ってきた。

 貴島一策が死んだのなら、僕は直ぐにも貴島宅を訪ねる必要があるだろう。

 それには学生服が要る。

 学生服を着ないことには、貴島宅訪問は具合が悪いのだ。僕が毎月受領する八千円は学資という名目だし。

 その僕の学生服は、目下のところ質屋の土蔵に入っている。

 一週間前、貴島宅から戻ってきて、その夜入れてしまったのだ。

 金に困って相模屋質店に入れたわけではない。もちろんない。当日貴島から八千円受領したばかりだから。

 何故入れたかというと、今の僕に学生服は必要でなかったからだ。必要でないものが壁にぶら下っていることは面白くない。まるで自分がまだ学生であるような錯覚におちいってしまう。それが面白くない。

 僕は今年の三月限りでもう学生ではなくなっている。

 貴島一策がそれを知っていたかどうかは知らないが、僕はすでに学生じゃない。卒業をなぜ貴島に報告しなかったか。それは彼が僕に訊ねなかったからだ。訊ねたら報告するつもりだったが、彼はこの三箇月、僕にそのことについて何も質問をしなかった。質問もされないのに報告することは、僕にはとても物憂(う)いことだ。僕を物憂くさせるようなものが貴島に確かにあるのだ。貴島の風貌や表情や話しぶりや身のこなしや、その他一切の感じにおいてである。彼はまるでいつも何かを拒否しているみたいだ。その何かは僕にもまだはっきりは判らない。

 だからそんな貴島に、学生服を脱ぎ捨てた自分を、背広かジャンパー姿の自分を見せるのは、僕の本意でないし、また貴島の本意でもなかろう。その故に僕はムリをしても学生服を着て行く。学生服は今の僕にとっては学生服ではなく、訪問着だ。貴島宅専用の訪間着だ。

 その訪問着を僕はまず相模屋から出さねばならん。

 僕は身支度をして下宿の玄関を出た。好い天気で、街中はかっと明るかった。明る過ぎるほどだった。それから気温もかなり高かった。高過ぎるほどだった。つまり季節の割にはむしむしと暑かった。湿度も高いのだろう。日曜の町々はごたごたと混んでいた。日曜の午前というやつは、なにか解放感がある。田舎のお祭りみたいな感じがある。そういう日曜日の午前に貴島一策の訃(ふ)を聞いたのは、なにかピッタリした、これ以外にないといったような気分である。僕は町を歩きながら、先ほどの階段のとば口での解放感、ワラビの成長を高速度撮影機、いやあれは低速度撮影機というのかな、それで撮ったワラビのように内側からむずむずとほぐれてくる感じ、その解放感を思い出した。明るい町を往き来する若い女たちは総体に美しかった。いや、美しいというより、つやつやしていて、植物的でなく動物的だった。ワラビ的ではなくて、むしろ伸び縮みする青虫的だった。トレアドルパンツをはいているのもいた。僕は横丁に曲り込み、相模屋ののれんをくぐった。もしかすると第二日曜というやつは質屋の休日であるかなと懸念していたが、幸いにそうでなかった。僕は元金と利子を質札にそえて出し、学生服を受取った。貴島一策が死んだ以上は、学生服を着用しないでもいいのじゃないか、と僕はその時気が付いたが、でもそのまま服を小脇にかかえ外に出た。僕はそして空腹を感じた。朝飯をまだ食べていなかったし、電話のかかるまで僕はまだ寝床に横になっていたのだ。空腹感は一歩毎に強くなった。腹が減ると旨(うま)いものが食いたくなる。それが空腹の第一段階だ。折角おなかが空いたんだから、外食券食堂のボサボサ飯で腹を充たすのは勿体(もったい)ない。そういう感じが先に立つ。おなかが空いて、もう徹底的にぺこぺこになって、焼芋でも一昨日のコッベパンでもという具合になると、それは空腹の第三か第四段階になるのだろう。その第一段階の状態に僕はあった。僕は一歩毎に自分の空腹をたしかめ、且つそれをたのしんだ。この空腹を充たすべきあれこれの食べ物の形や匂いを空想してたのしんでいた。月一回の貴島家訪問、その昼食時にも僕はいつもその段階にあった。何故かというと、貴島家の昼食はたいへん旨くて、それを予想して僕は常に朝食ヌキで出かける習慣だったから。しかし単にそれだけの、旨いというだけの理由ではない。僕がその飢えの第一段階にあり、そして貴島宅の昼食をガツガツと嬉々としてむさぼり食べること、そのことを貴島の方で僕に要求していたからだ。もちろんはっきりと口に出して要求するわけではない。ある時刻において自分が空腹のどの段階にあるか、あるいは満腹や準満腹の状態にあるかは、僕の勝手であり、他人の指図を受ける筋合いのものではないのだ。だから僕は貴島から、朝飯ヌキでやって来いと要求されていたわけではない。ただ彼の家の昼飯を、さあさあと何杯も何皿も押し勧める方法により、あるいは僕が多量に詰め込む有様を喜色と同感をもって見守るという方法によって、貴島一策は僕にそのことを暗黙裡に要求していたのだ。そういう僕に反して、貴島一策の昼食の量はびっくりするほど少かった。同じく貴島夫人の量も。たったあれだけの量を口に入れるのは、昼食という名の行事に価いしないと思われるほどだ。彼等は手早く自分らの食事を済ませて、茶をすすったり楊枝(ようじ)を使ったりしながら、僕の食べるのをじっと眺めている。沢山食べれば食べるほど、貴島の顔にはしだいに満足の色が深まってくる。そして僕はだんだん判ってくる。その昼食を僕は僕のために食べているのではないことを。僕はもはや貴島のために食べているのだ。貴島を代理して僕はせっせと食べているのだ。貴島は自らの食慾を僕の口腹に仮託し、僕は自らの口腹をもって貴島の欲望の遂行者に化している。その瞬間僕は彼の代理人であると同時に、道具みたいなかたちにもなっているのだ。僕がたらふく食べ終えて箸(はし)を置く時、貴島はたいへん満足そうな、そして充足からくる倦怠の風情(ふぜい)をもって、しずかに言う。やさしく言う。いやらしいほどのやさしさで言う。[やぶちゃん注:「ワラビの成長を高速度撮影機、いやあれは低速度撮影機というのかな、それで撮ったワラビのように内側からむずむずとほぐれてくる感じ」低速度撮影が正しい。「トレアドルパンツ」toreador pants。足にぴったりした、膝より少し下までの長さのズボン。闘牛士が穿くズボンをヒントに作られた。]

「もういいのかね。もうおなか一杯かね」

 その貴島一策が死んだという。昨夜死んでしまったという。

 

 貴島宅専用の黒サージの訪問着なくしては、僕が訪問出来ないというのは、ひとつにはそこに理由があるのだ。いくら僕が従順でおとなしいとは言え、きちんとした背広でカレーライスを幾皿もおかわりをするわけには行かない。調和というものがある。芸当をやるには、背景や装置がきちんとしていなければ、とてもうまくは行かない。黒い制服ならば、黒制服の持つ一種の概念によりかかって、どうにかごまかせるのだ。[やぶちゃん注:「サージ」serge。綾織りの洋服地。羊毛・木綿・絹・ナイロン・混紡製などがある。学生服などに用いる。]

 この前の日曜日、つまり定例の訪問日だ、僕は貴島宅の庭の草むしりをした。貴島一策がそのことを僕に命令したからだ。いや、命令というより依頼というべきだろう。彼は僕に命令をしたことはない。いつも依頼という形式をとる。実質的には命令と同じことなのだが。

「三郎君。今日はうちの草むしりをやって貰えんかねえ。なんだか雑草が茂り過ぎたようだから」

 貴島宅の庭は約五十坪ほどある。ほぼ正方形で、紅葉とかサルスベリとか椿とか、そんなへんてつもない庭樹が七八本生えているだけで、あとは何にもない。花壇もなければ芝生もない。貴島夫婦には、草花趣味や盆栽趣味は全然ないようだ。だからこれは庭というより空地という方が適当だ。その空地にあまたの雑草が所狭しと茂っている。その雑草をむしって呉れというわけなのだ。僕は二つ返事で上衣をとり、ズボンをまくり上げて、庭に降りた。僕は草むしりということをあまりやったことはないけれども、それほど要領や熟練を必要とするものではなかろう。ただ引っこ抜けばいいのだから。甲斐々々(かいがい)しいいでたちになった僕に向って、貴島一策は縁側の籐椅子の上から声をかけた。前歯が抜けているから、声がそこから洩(も)って、ふにゃふにゃと聞き苦しい。[やぶちゃん注:「五十坪」畳で約百畳。]

 「草むしりは上っ面だけじゃダメなんだよ。根っこから引き抜くんだよ。地面が固けりゃ道具を使う。台所に行くと、竹のへらがあるだろう」

 僕は台所に廻り、貴島夫人から糊こね用の古竹べらを貰ってきた。そして庭の広さを目測し、仝体を四区画に分け、その一区画にしゃがんでむしり始めた。

 この日曜日、朝の十時頃からかかって夕方の六時半頃までに、この七間平方の空地の草をすっかりむしり終えたのだが、僕は草むしりという作業についていろんなことを知ることが出来た。草むしりというやつは、思ったより人間を疲労させるということ。それから草むしりというやつは、思ったよりたのしいものであることなどだ。ことに後者は僕にとっては意外だった。貴島一策相手の将棋などよりはるかに面白いし、やり甲斐がある。引き抜かれまいと抵抗するやつをぐっと引き抜く快感。むしり取った領域がだんだん目に見えて拡大して行くその感じ。一種の征服慾の充足、そんなものが基調になっているのではないかと思うが、意外だったのはそれだけでない。ふつうの作業、このような単調な繰返しの作業は、ぶっ通しにやれば倦(あ)きてしまうものだが、草むしりというやつはその反対で、どこか中毒症状的なところがあるのだ。つまり一庭をむしり終えても、一仕事をやってのけたという完了感がない。たかが雑草ごときにといった感じと同時に、意地きたない酒飲みみたいにもっともっとという気持、イライラした気持があとに残る。事実その日の黄昏(たそがれ)、貴島宅を辞し、バスの停留所でひとりバスを待つ間、僕はたいへん疲労をしていたが、またどうにもこうにも落着かない痛痒(いたがゆ)い気分になって、あたりに人気のないのを見澄まし、そっと標識柱の下にしゃがみ込み、そこらに生い茂った雑草をしきりに引っこ抜いて廻ったのだ。バスの来方が遅かったおかげで、そのバス停留所あたりの雑草は、すっかり僕の手でむしり取られて、きれいさっぱりになってしまったほどだ。そしてバスの中でも、僕は手にした雑誌の耳をしきりにむしっていたし、下宿に戻っても僕の指は何かむしるものを求めて、不随意的にびくびくと動いていた。そこで僕もやり切れなくなり、立ち上って相模屋にかけつけ、訪問着を質に入れ、そして屋台店で焼酎を飲んだ。定量以上に飲んだので、その不思議なイライラは消失したが、指や爪の間に染みこんだ青くさい草の色は、まだ二三日は残っていた。[やぶちゃん注:「七間」約十二・七三メートル。]

 一体どういうつもりで貴島一策は、僕に草むしりなんかをさせたのだろう。

 その日一日貴島一策は、縁側の籐椅子にぽんやりと腰をおろして、僕の仕事ぶりを眺めていたのだ。それは別段看視するというようなやり方でなく、ただ僕の仕事ぶりを眺めることによって時間をつぶしている、そんな風(ふう)に僕には感じられた。またしても僕は自分の労力の犠牲において、彼の時間つぶしにおつき合いさせられたわけだろう。そして午後一時頃、昼食にカレーライスが出た。僕はズボンや足がよごれていたので、植木屋みたいに縁側に腰かけて食事をすることにした。貴島夫妻も小さな折畳み小卓を縁側に据(す)え、僕のお相伴をすることになった。例のごとく彼等はすぐに食べ終り、僕が食べるのを眺めている。妙な論理だね、と貴島一策が答えてつくり笑いをしたのはその時のことだ。そこで僕は言った。

「庭の手入れするくらいなら、歯の手入れした方がいいんじゃないですか。庭はあまり人は見ないけれども、顔はしょっちゅう他人に見せるものだから」

「他人にしか見えないから、これでいいんだよ」と彼は言った。「歯を直しても、自分で見えなきゃつまらない」

 それこそ妙な論理だと僕は思う。妙というよりも何が何だか判らない。貴島夫人はうつむいてお茶をすすっていた。夫人は無口で、ほとんど会話の仲間入りをしないのだ。

「お庭だって草むしりするだけでなく」二皿目のおかわりをしながら僕は言った。「もう少し工夫をこらしたらどうですか。これじゃあまり殺風景ですよ」

「工夫って何だね?」

「草花を植えるとか」と僕は答えた。「農大に友達がいるから、種子や苗なら持ってきて上げますよ」

「草花か」彼はわらった。せせらわらった。「草花じゃ仕方がない」

「草花がダメなら、木はどうです?」と僕は食い下った。無駄に草むしりさせられてはたまらないという気持もあったのだ。「実のなる木。たとえばイチジクとか――」

「イチジクを植えると、家内から病人が出ると言いますね」無口な夫人が突然口を利(き)いた。「自然と生えてくるのなら、差支えないそうだけれど」

「じゃ、ビワはどうですか」

「ビワは、家内から死人が出ないと、ならないそうですね」と夫人が前と同じ口調で淡々と言った。「死人が出ないとね」

「死人が出ないとね」

 貴島一策が夫人の真似をしてそう繰返し、大口をあけてわらった。前歯がないから折角の笑いも、障子の破れを吹き抜ける風みたいに張りがない。そしてその笑いと共に、その話は終ってしまった。[やぶちゃん注:「イチジクを植えると、家内から病人が出る」私も知っている。私は実(実際には雌株の花嚢が肥大化した果嚢で花の集合体である)の色が爆ぜた人体の血や肉のように見えるからだと思っている。しかし「いちじく屋 佐藤勘六商店」の「いちじくは縁起が悪い!?中に虫がいる!?いちじくに関する俗説を調べてみた」によれば、漢字表記の「無花果」のイメージから「子宝に恵まれず、子孫が途絶える」という意味で縁起の悪い果物とする説があるとしつつ(これは個人的には大いに腑に落ちる)、『一つの木に多くの実をつけること』から、『いちじくの花言葉は「多産」「子宝に恵まれる」「実りある恋」』であるとあって、それも肯ずる気になった。さらに、『よく聞く迷信として「庭にいちじくの木を植えると病人が出る、害を招く」といったもの』を考察されて、『いちじくは実をもぐと白い樹液が出ます。この樹液をイボに塗布して治すという民間療法もありますが、この樹液に触れると』、『肌の弱い方は痒くなったりかぶれることがあります。また、いちじくは整腸作用があるため、食べ過ぎるとお腹がゆるくなることがあります』とまず指摘され、『野生動物や鳥』が好み、『いちじくの樹木の内部を食べてスカスカにしてしまう天敵カミキリムシも来る』他、昆虫類が集まり易いことが挙げられ、また、『いちじくの木は剪定しないとどんどん伸び、実を付けます。大人の手より大きな葉が広がるので』、『伸び放題にしておくと』、『日当たりや風通しは悪くなる』とされ、『以上のようなマイナス面から、庭木として向かない→病人が出たり害を招くといった方向に俗説ができていったと考えられます』とあった。イチジクのプロの話であるから、納得した。亡き私の母は大好物だったのを思い出す。「ビワは、家内から死人が出ないと、ならない」これも私は聴いたことがある。私はビワの果肉が死体の変色した色に似ているからであると思っていたが、「柴垣グリーンテック」のブログ「【庭に実のなる植木を植えてはいけない?】言い伝えを調べて検証してみた。~ビワ編」によれば、ビワの葉は薬効があるため、病人が採りに来る結果、病人の病気が感染するという説が載っていた。他にブログ主は「ビワの木は裂けやすい」ため、「登って落ちて怪我する」という説や、「ビワの葉っぱを売って儲けていた人が皆が育てると儲からないから流したデマ」という説を有力とされていた。]

 その貴島一策が、それから一週間後、夫子(ふうし)自らが死人になってしまったのだ。

 黒い学生服に着換えて、僕はふたたび町に出た。[やぶちゃん注:「夫子」ここは「その当人」の意。]

 路地から通りに出、通りをさらににぎやかな方にゆっくりと歩く。街は残酷なほどあかるくて、合いの詰襟服では少々暑過ぎるほどだった。飯を。まず飯を。僕は呪文(じゅもん)のようにつぶやきながら食べ物の店を物色(ぶっしょく)する。ふだんより僕はいくらか気取った歩き方をしているらしい。気取るには気取るだけの気持があるのだ。第一に僕は学生服を着ている。もう学生でないのに学生服を着ている。それが僕の気持をむずむずさせるのだ。贋(にせ)学生。学生姿に身をやつしているという感じ。そのことがうしろめたくもあると同時に、途方もなくいい気分でもある。ことに街なかはあかるい。あかるさの中でそんなことをやっているという自覚が、僕の内部のどこかにある核のようなものを、じわじわと無限に拡大させ、その結果が僕の足どりを気取った恰好にしているのだろう。飯を。まず飯を。僕はふわふわと、歩調に抑揚をつける。貴島が死んだ。貴島一策が死んだ。学生服を着ていても、空腹を辛抱することはない。空腹を示すべき相手は死んでしまったのだ。

 三町ばかり歩いて、街角のレストランに飛び込んだ。僕には初めての店だった。行きつけの飯屋は、服装の関係上具合が悪い。あまり顔馴染(なじみ)のない、広い店に限るのだ。そのレストランの二階は広かった。階段を登り切ったところに陳列棚があり、料理の見本がずらずらと並んでいる。僕はその前に立ち止り、皿をひとつずつ眺め、やがてそこを離れる。僕が腰をおろしたのは窓のそばの小卓だ。椅子の半数ぐらいは客で詰っていた。大きな窓ガラスから陽光はさし入り、僕の卓のツルツルした表面や胡椒(こしょう)や辛子(からし)入れの金具をピカピカさせた。僕は詰襟のホックを外し、煙草を吸いつけながら、窓から街筋を見おろした。頭でっかちの人々が歩道を往来する。頭でっかちの犬なども。ウエイトレスが水入りコップを持って、すぐに注文を取りに来た。僕は隣りの卓をちらと見た。隣りの卓の五十がらみの一見教師風(ふ)の紳士が、こめかみに青筋を立てて怒り始めている。よほど長い間押えていたと見え、手がぶるぶると慄(ふる)えているのだ。紳士はフォークをさか手に持ち、柄を卓上に押しつけてそこらをひっかき廻すようにした。眼がほとんど三角になっている。こもった声で、

「まだ出来ないのか。マカロニグラタン」

 フォークの柄で卓をかちんと叩く。

「一体いつまで待たせる気なんだ?」

「もう少しお待ち下さいませ」

 ウエイトレスはやさしくそう答えて、僕の前にコップを置いた。

「御注文は?」

 僕はおもむろにあたりを見廻した。客の大多数はナイフとフォークをあやつりながら、料理を口にせっせと運んでいる。飲物を飲んでいるのもいる。天井には扇風機の翼があるが、取りつけられているだけでまだ動いていない。紳士は三角の眼をほとんど白眼にして、その動かない翼をにらみ上げでいる。もちろん翼が動かないのに腹を立てているのではなかろう。きっとこの男も朝飯をぬいたのだろう。そしてこのレストランの階段をいそいそとのぼって来たのだろう。マカロニグラタンなんてものはテンピをつかう関係上、どうしても他の料理よりも遅くなる傾向があるのだ。紳士は草色の服を着け、同じ色のネクタイをしめ、こういう好い天気なのに、どういうつもりか絹張りの洋傘を持っている。その洋傘を膝の間に立て、両掌をその柄の上に組合わせている。慄えているのはその手であ  り、組合わさったその指なのだ。よほど腹を立てているらしい。空腹時に怒るのは僕にも経験があるが、と僕は思う。いくらか同情的に思う。あれは衛生的に良くないないなあ。胃液の分泌の調子が全然狂ってしまって、折角の空腹なのに、食べものの味もなくなってしまうんだ。紳士は天井から眼を僕のウエイトレスに戻して、ふたたび憤然とナイフをとり、柄で卓をたたいた。さっきよりはぐんと強目にだ。

「僕よりあとの者が、もう食べているじゃないか!」紳士が突然カマキリの顔になったので、僕はぎょっとした。

「客にえこひいきをするな。マカロニグラタン!」

「判っております。只今直ぐ持って参ります」ウエイトレスは紳士に顔を向けずに、そしていらだたしげに僕をうながした。「御注文は?」

「まさか今さらマカロニの買出しに行ったんじゃあるまいな」

 腹が減っていらいらしているくせに、草色紳士は余裕を示そうとして、こんなにまずい月並なあてこすりを言った。そして口に出してみて、あまりにも月並な冗談だったことが自分にも判ったのだろう。彼はたまりかねたようにいきり立ち、突然甲(かん)高い声を張り上げた。

「早く持ってこい。マカロニグラタン。何をぐずぐずしてるんだ」

 皆の視線が草色紳士にあつまった。紳士は怒鳴りつづける。

 「俺だけあとまわしとは何だ。支配人を呼べ!」

 「マカロニグラタン」と僕はウエイトレスに注文した。

「なるべく早いとこね」

 紳士は眼を吊り上げて、じろりと僕をにらみつけた。まるで悪事の現場を見付けたかのように。だって僕は仕方がない。にらみつけられるいわれはない。僕だってマカロニグラタンを食べる権利がある。『マカロニグラタン』ウエイトレスは伝票に書きつけて僕の卓に置いた。そのウエイトレスの後姿に紳士は憎々しげに口を開いた。

「あと三十秒だけ待ってやる。三十秒以内に持って来なきゃ、絶対に食ってやらないぞ。帰っちまうぞ。いいな!」

「はい」

 ウエイトレスはそばかすのある顔をそちらに向けようとせず、そう簡単に返事しただけで、腰を揺りながらそっけなく向うへ行ってしまった。紳士は腕を斜にかまえて、手首の時計をにらみつけた。十秒。二十秒。そして概略三十秒経った。紳士はぐっと鎌首をもたげ、調理場の方向、そして室内をぐるりと見廻した。皆の視線が彼にあつまっている。フォークやナイフの手を休め、見るような見ないようなやり方で、皆が彼の動向に注意をはらっているのだ。草色紳士はふと脅えたように頸(くび)をすくめ、僕を見た。動物園のどの檻(おり)の中だったかな、これと同じ眼付を僕は見たことがある。紳士は皆から見られているものだから、引込みがつかなくなったらしい。エイと癇癖(かんぺき)の強そうなかけ声をかけて、腰を浮かした。皆黙然として眺めている。ウエイトレスの連中もだ。紳士は腰を浮かしたまま、何を思ったか紙ナフキンを卓上からつまみ上げて、チンと鼻をかみ、それを団子のようにくるくる丸めて、力いっぱい床にたたきつけた。そして洋傘を大刀のように腰にたばさみ、胸を張ってとっとっと階段口へ出て行った。

(ああ。あれはつらいだろうな)と僕は思った。(ああいう気持の状態でここを退場し、そしてそのまま断食するわけには行かないから、別の食堂かレストランに入るだろう。そこで料理を注文しても、ここでの気分があとを引いているから、食べたって旨(うま)くはなかろう。食べること自体が自己嫌悪を誘発するだろう。彼は決してマカロニグラタンは注文しないだろうな。カツ丼かカレーライスを注文するだろう。そして別の品を注文したことにおいて、彼は更に自分を嫌悪するだろう。すくなくとも今日一日は、彼は自分の気持のやり場に困るだろう)

 階段口に紳士の姿が消えてしまったので、室内はかすかなざわめきを取戻した。よっぽど立ち上って紳士のあとをつけ、爾後(じご)の彼の行動を見たい、そういう気持が僕をそそのかしたが、やっとのことで我慢をした。ざわめきの中に、ナイフやフォークの音が混り始めた。ウエイトレスが紙ナフキンに包んだフォークを僕の卓に持ってきた。

 注文したマカロニグラタンは僕をほとんど待たせなかった。せいぜい二分か三分ぐらいなものだ。注文を受けてそんなに早く出来上る筈がない。言うまでもなくこれはさっきの紳士の注文したものだろう。そう思った時、ちょっとイヤな感じがしないでもなかった。しかし、誰が注文しようと、マカロニはマカロニだし、それ以外の味がするものではない。僕はフォークを取上げて、盛り上ったマカロニに突き刺した。このグラタンを待ち切れずにあの草色紳士は憤然と退場し、そのあとを僕が引受けることになった。ただそれだけの話だ。テンピに長く置き過ぎたらしく、焦げ色が濃いようだ。こういうことなら早いとこ取出して、あの紳士に供すればよかったのに。僕はフォークを口に運んだ。焦げ過ぎていてもそれは旨かった。なにしろ僕の空腹は、第一段階を通り越そうとしていたのだから。

 室内はすっかり元のざわめきに戻り、もう草色紳士のことなんかすっかり忘れ果てられていた。ベパーや辛子のひと撫での後味すら、室内には残さなかったように見える。僕もその例外でなく、ひたすらマカロニグラタンに没頭し始めていた。一皿の半分も食べかけた時、僕はふと僕をじっと眺めている巨大な眼のようなものを感じ、しずかに顔を上げた。眼? 紙ナフキンで口をぬぐいながらあたりを見廻した。もちろんその時僕は、僕を眺めているものが、現実の眼でないことは知っていた。あたりを見廻したのは、その幻の眼からのがれるためだった。それは貴島一策の、死んだ貴島一策の眼だったのだ。ここは貴島の家ではない。日曜日の正午近くのレストランだというのに、その幻の眼が僕を眺めているというのも、この黒い訪問着のせいなのか。僕はそれをふりはらうように頭を振り、ふたたびフォークを動かし始めた。しかしその遠くからの眼はもう僕につきまとって離れない。僕はもはや僕自身のためでなく、僕以外のある男のために、さも旨そうに舌つづみを打ちながら、舌つづみを打つことをわざとしながら、フォークをあやつっている。忌々(いまいま)しさが僕の全身をつつんだ。

(一週間前の日曜、おれはまるまる一日、あいつからたっぷり眺められたんだからな)

 あの日貴島一策は、便所行きと食事時間をのぞいて、終始縁側の籐椅子に腰をおろしていた。腰をおろして僕の草むしりをぼんやりと眺めていた。よくあんなにぼんやりと腰をおろしておれるものだ。そして三十分に一本、ふところから煙草を引き抜いて吸いつける。煙草は外国煙草で、名前は忘れたが、キングサイズの女用のやつだ。それを欠けた前歯の間にはさんで火を点(つ)ける。半分も吸わないうちに、火のついたままのそれをポイと庭先に投げ捨てる。視線はぼんやりと僕に向けたままだ。あの意志も感情も持たないような眼から、僕は朝から夕方までたっぷり眺められたのだ。ひとつの眼から絶えず眺められていることは、ラクなことでない。すくなからずつらいことだ。これがたとえば、看守と囚人なら、囚人の方が数が多いにきまっているから、看守の眼も分散される。しょっちゅう眺められているということはない。ところがその日の僕の場合は、一対一だったのだ。あの男はそんな風(ふう)に僕を眺めることによって、好天気の日曜をまるまるつぶしてしまったのだ。

(何ということだろう)

 そして貴島夫人は、貴島トミコは亭主の籐椅子のそばにきちんと坐って、きちんと身じろぎもせず坐って、その日の朝から夕方までせっせと縫物に没頭していた。似たもの夫婦という他はない。よくもまああんなに長時間、ひとつことに熱中出来るものだ。一策は一策で飽きもせず僕を眺めているし、トミコ夫人はトミコ夫人でせっせと縫物をしていた。もっとも僕だってその日は、日一日草むしりに没頭していたのだから、そんな彼等をわらったり非難したりは出来ないのだが。トミコ夫人が縫っていたのは、手拭い型の長方形の木綿布(もめんぎれ)を、その端と端とを縫い合わせてつくる一種の布の輪だ。草むしりをしながら僕がちらちら眺めたところによると、トミコ夫人はその布輪を二十余りもつくったようだ。あんなのをそんなに数多くつくって、一体何に使うつもりだろう。つくって積み重ねられた布に、貴島家の二匹の飼い猫、クロとミケがしきりにじゃれかかっていた。この二匹の猫は昼食のカレーライスの時も縁側にいて、ちょこんと坐って僕らの食事を眺めていた。僕は猫という動物を好きでない。爪を軟かな足肉の中にかくしていて、いざと言う時に引っかく点などが嫌いだ。それにあの毛が嫌いだ。あの毛はよく抜ける。抜けて飛び散って、人の口などに入る。口に入った毛は胃の中で丸くかたまってしまうという話だ。だから僕はなるべくカレーライスの皿を、猫の方から離すようにして食べていた。すると貴島一策が猿臂(えんぴ)を伸ばして、ミケの方の首筋をぐいとつまみ上げた。ミケは口をぽかんとあけ、後肢(あとあし)をだらりと垂らした。一策はそして夫人をかえりみた。

「こいつ、いつまで経っても鼠をとらないようだね。僕たちにすっかりよりかかり、甘えかかってるようだな」

 夫人は黙っていた。すると貴島は、猫をぶら下げたまま、左手で自分の皿の匙(さじ)をとり、食い残しのカレー肉をしゃくい上げた。そのままミケのあいた口にいきなり流し込んだ。

 ミケはぐっというような声を立てて、前肢でそれを払いのけようとした。

 貴島は頸(くび)筋から手を離した。

 ミケはやっとのことで肉ははき出したものの、カレーの汁が口腔内にべたっとくっついたものだから、奇妙な声であえぎながら後肢で立ち、前肢をかわるがわる口辺に持って行って、猫踊りのような恰好をした。よほど辛(から)かったのだろう。貴島は前歯の欠け目をむき出して笑いながら、クロの方にも手を伸ばそうとした。クロはその手を引っかいてパッと庭の方へ飛び出して行った。

 トミコ夫人がけたたましい声を立てて短くわらった。

 

 バスの停留所を降りた時は、もう正午を過ぎていた。

 僕につづいて若い女が一人降りた。

 バスは腰を振るようにしながら発車した。こういう発車の仕方をするバスを、僕は時々街頭に見かけることがある。後尾のタイヤ、車軸、それらと車体(ボディ)との連絡やつながり具合で、またウエイトのかかり具合で、ついそういう恰好になってしまうのらしい。それはへんになまめかしいのだ。

 僕は標識柱につかまって、ちょっとそのバスの背中を見送り、そして足下の地面を見おろした。一週間前の黄昏(たそがれ)にむしり取った雑草のあとを見たかったのだ。そして僕はすこしおどろいた。あの日すっかりむしり取ったつもりだったのに、地面のあちこちに雑草が青々と茂っている。僕がむしったあとかたなんか全然残っていないのだ。

 はて、停留所を間違えたのかな。そう思ったくらいだ。

 しかし停留所に間違いはなかった。

 僕は不審な気持でも一度あたりを見廻し、そして歩を踏み出した。そうそう雑草にかかり合ってはいられない。早いとこ貴島宅に着いて様子を聞かねばならん。

 なにしろ八千円の問題だからな、と僕はバスの中で考え続けていたことを、も一度ことあたらしく呟(つぶや)いてみた。

 貴島一策が死んだとなると、月々僕が貰っていた八千円は一体どうなるのか。その疑問が僕に来たのは、レストランでマカロニグラタンと更にメンチカツを食べ終り、ほっと一息をついた瞬間だった。その疑問は僕をどきりとさせた。

 電話口に出てからその瞬間まで、そのことに思い到らなかったこと、それも僕をどきりとさせる一因子になっていた。僕の貴島とのつながりは、月々の八千円以外には何もなかったのだから。本当なら貴島の死を聞いた瞬間に、八千円ということ仁考えを及ぼすべきであったのだ。それをそうしなかったのは、僕にそうさせなかったのは、空腹や好天気や、そんな外部の条件だったのだろう。気持がマカロニやメンチカツに一筋につながっていて、大切なところに空白が出来ていたのだろう。

 あの時僕はマカロニグラタンを食べ終り、まだ充たされないままあたりを見廻して、メソチカツを注文した。充たされないのは僕の口腹だったのか、それともあの幻の貴島一策の眼だったのか。運ばれてきたメンチカツを僕はさも旨そうに、舌つづみを打ちながら、つけ合わせのキャベツやパセリのたぐいまで全部平らげてしまった。そして煙草をふかしながら伝票をのぞいた時、八千円という金額がいきなり僕の頭にやってきたのだ。

(そうだ。この昼飯代は俺が俺の財布で支払わねばならないんだ)

 そう思った時、そう思ったためかどうかは知らないが、あぶらくさい曖気(おくび)が僕の咽喉(んど)にかすかにこみ上げてきた。すこし余計に詰め込み過ぎたのだ。[やぶちゃん注:「曖気(おくび)」げっぷ。]

 僕と同じバスを降りた若い女が、僕の前二十米ぐらいを、向うへとっとっと歩いて行く。

 その女は二十歳前後で、白っぽい洋装、何という布地か知らないが、目の荒いゴワゴワした感じのスーツをつけていた。バスでは僕の斜め前に掛けていたのだ。

 バスに果っている間、バスに乗っている時は何時もそうだが、僕の視線は、三つ乃至五つのものに、順々に移動する癖がある。移動してはまた元に戻り、移動してはまた元に戻るのだ。几帳面(きちょうめん)な巡礼みたいに、それは一から二へ、二から三へ、三から一ヘという具合に、何時の間にかそういう具合に自分の眼が動いていることに僕は気付くのだ。気付いてもその几帳面な巡礼は止まらない。

 そのバスでもそうだった。

 この若い女が、若い女の脚が、僕の視線のとまり場所のひとつになっていた。

 運転台のフロントグラスにぶら下った黒ん坊の人形、出入口の真鍮(しんちゅう)の手すり、それからこの女の脚。その三点を僕の視線はオートマティックに経(へ)めぐっていた。時々外の景色がその中に入る。

 女が掛けているところは、後尾の車輪が座席の下までふくれていて、つまり床がぐっとマンジュウ型に盛り上っていて、坐りにくい場所なのだ。どうしても膝が高くなり、したがって脚がスカートからむき出しになってしまう。

 しかしこの女は割に上手にその座席のあり方をこなしていて、ポーズとしてはそう悪い形ではなかった。しかし膝から下はすっかり眺められる状態になっていた。

 ソックスだけのその脚は、女には珍らしいほど毛が深かった。

 全体的に見ると、その女は女子学生か、なり立ての女事務員か、そんな感じに見える。ういういしい感じがどこかにあるのだ。

 そんなういういしい感じと、毛の深い脚の感じが、ちぐはぐなものとしてあった。

 僕が気がついた時から、女は膝の上に本をひろげて、ずっと読みふけっていた。停車毎にちらりと窓外に視線を走らせるだけで、あとは本に没頭している。すっかり没頭している証拠には、もっと坐りやすい席が空いたにもかかわらず、そちらに移動しようともしなかったほどだ。

(八千円。八千円)と僕は思っていた。脚と人形と手すりに視線を順々に回転させながら。(貴島一策が死んだとすると、八千円はどうなるのか。今度は夫人から支給されることになるのか。それともまさか打切りに――)

 僕は現在すでに学生でなく、ある職業についている。職業についていても、貴島からの八千円がないと困るのだ。打切られるとなると、僕の生活は大きく変ってしまうだろう。貧しい方に、悪い方にと変ってしまうだろう。

(しかし貴島一策が死んだとて、支給が打切られるのは不当だ)

 父親が死んで以来、僕は貴島からずっと学資の支給を受けている。どういうことでそうなっているのか、実のところ僕もよく知らないのだ。面倒くさくもあったし、またハッキリと知りたくない気分も僕に暗々裡(あんあんり)に動いていた。判っていないにもかかわらず、僕は彼から有難く支給を受けているのではなく、受取る権利があるという気持があったのだ。恵まれているのではなく、取り分があるといった気持。それがずっとあったし、今でもはっきりとある。学校を卒業しても、まだ引続き八千円を貰っているというのも、そういう気持からなのだ。その気持のよって来たる具体的な事実、それはない。具体的なものは何もない。あればもっと僕は強い気持になれるのだが、それがないばかりに、形式としては恵まれるという形になり、したがって僕は支給日毎に彼の将棋相手となったり、庭の草むしりをすることになってしまうのだ。なにか忌々しい感じがそこから生起してくる。僕もハッキリと知りたくないし、向うもハッキリと説明したくない(らしい)。そういうもやもやしたものがある。そういうもやもやを膜の中に閉じ込めて、月々八千円をやったり貰ったりするだけの関係、ただそれだけの関係を僕も望んだし、向うも望んでいるらしくふるまっていたのだが、その貴島一策が死んだ。突如としで死んでしまったのだ。

 若い女はカラタチ垣根の曲り角から、横丁に折れ込んだ。僕もそれにつづいて曲った。女をつけているのではなく、貴島宅がその方向にあったからだ。日は空にあって、日射しは強かった。空気は乾いていた。風もすこしあった。僕はしだいに足どりが重くなってくるのを感じた。

 

 貴島の家は満天星(どうだん)の垣根に囲まれ、へんてつもない木の門がちょんとついている。満天星の垣根というのはたいヘん高価なものだそうで、僕はそのことを貴島から教わった。ドウダンという名前もその時教えられたのだ。それまで僕はこの垣根を、なんと見栄(みば)えのしないつまらない垣根か、と思っていた。[やぶちゃん注:「満天星(どうだん)」ツツジ目ツツジ科 ドウダンツツジ亜科ドウダンツツジ属ドウダンツツジ Enkianthus perulatus 。元は「燈台躑躅」(とうだいつつじ)で、枝の分枝する形が、昔の「結び灯台」(昔の灯明台の一つ。三本の棒支柱を組み合わせて真ん中からやや上で結び、上下を開いて安定させ、その開いた頭部に油火の皿を載せるもの)に似ていることからで、「とうだい」の音が転じて「どうだん」になったとされる。私の好きな花である。]

「これまでになるには、二十年や三十年経っているんだよ」貴島は笑いながら言った。歯が欠ける前か後か、それは憶い出せない。「ばらして一本一本に売ったって、相当の値段になるんだよ」

 その満天星の切れ目につくられた木の門を、さっきの若い女が至極あたり前のように、ふっと入って行ったので、僕はちょっとまごついた。彼女も貴島宅の訪間者とは、その時まで考えてもいなかったからだ。

 僕もつづいて門に入ろうとして、門柱のところに立ち止った。

「え。おなくなりになったって?」

 その女のおどろきの声がした。門から直ぐの玄関の扉が半開きになっていて、女の姿は見えない。玄関の中に入っているのだ。それに答えるぼそぼそした男の声が聞えてきた。

「自殺?」

 その言葉が割にはっきりと僕の耳に飛び込んできた。前後の言葉は判じ取れず、それだけがはっきりと耳に入った。

「自殺?」

 僕はどきりとした。それは自殺という言葉に脅えたためで、貴島一策と自殺とが直ぐに結びついたわけではない。

(自殺なんだって? あれが?)僕は門柱によりかかったまま忙しく頭を働かせた。(一週間前の様子じゃ、そんな気配はなかったようじゃないか。あの貴島一策が自殺するなんて、一体どういうことだろう。あんな年寄りが、まるで無分別な若者のように死んでしまうなんて、おかしな話じゃないか。一体どういう具合にして自殺したんだろう?)

 玄関での会話がふっと途切れたようだった。僕は門柱から掌を引き剝がし、飛び石を踏んで玄関の前に立った。その足音で先客の女がふり返った。ふり返ったついでに下に落ちた本を拾い上げた。その本は彼女が先刻びっくりしたとたんに取落したものらしい。彼女が腰をかがめたので、玄関に立っている黒い服を着た男に、僕は短い間直接顔を合わせることになった。

「野田三郎ですが――」

 僕は名乗った。

 

 玄関からとっつきの応接間に僕らは通された。応接間に入る時、若い女は壁にへばりつくようにして、僕を先にした。僕が先に入り、女があとにつづいた。応接間はきちんとかたづいていた。しらじらしくかたづいていた。よく見廻すと、応接間の中は調度類だけになっていて、装飾品のたぐい、たとえば壁懸けやガラスケースの人形、そんなものがすっかり姿を消していた。白けたような感じはそこらから来ているらしい。

 黒服の男は窓を背にしたソファーに腰をおろした。それに向いあって、僕らはそれぞれの椅子に腰をおろした。腰をおろしてから気がつくと、絨毯(じゅうたん)も床から引き剝がされていて、角板を組み合わせた床がむき出しになっていた。黒服の男は左の掌を膝の上にひろげ、右手を拳固(げんこ)にしてそれをかるく叩(たた)きながら言った。

「貴島一策は昨夜死にました。トミコ夫人もいっしょです」

 黒服は手を打ち合わせながら、かわるがわる僕らの顔を見た。黒服男は四十がらみで、顔は青白く神経質らしく、こめかみに静脈を浮き出させている。声はシロホンをたたくような早口だ。[やぶちゃん注:「シロホン」xylophone。シロフォン。木琴と同義であるが、本邦の場合は一般的にはコンサート用シロフォンを指す。音板の材質にはローズウッド・紫檀・カリンのような堅い木材が用いられる。また、音板の下に共鳴管が取り付けられている。]

「自殺、ですか?」僕は訊ねた。「二人とも?」

「そうです」黒服はうなずいた。「覚悟の自殺です」

「どんな方法で?」

「青酸カリ」黒服は手を打ち合わせるのを止め、自分が腰をおろしているソファーを指差した。「場所はここです。ここに二人並んで、マスクをかけて、きちんと腰かけたまま」

「マスクをかけて、どうして青酸カリが呑めますの?」女が口を出した。女の手は膝の上で、さっきから白い手巾を四つ折りにしたり斜めに折ったり、そんなことばかりをし

ていた。女の口のききかたは何かなじるように響いた。

「マスクで、口をおおっているというのに!」

 黒服はじろりと女を見た。

「死んだ時の状況を、わたしは偽らずに話しているだけです。貴島氏も夫人も、ちゃんとマスクをかけていた。マスクはその前日夫人がこさえたものです」

 応接間の壁の向う側から、話し声がかすかに聞えてくる。庭に面した縁側あたりに、何人かの男女が集まっているらしい。

「それで――」何か言わなくてはいけないような気分に僕はなった。「マスクのことは判ったけれども、それは当人たちが自分でかけたのですか。つまり死んだあとで、誰か他の人がかけてやったのではないですか」

 黒服はだまって僕の口を見ている。また手を打ち合わせ始めた。

「それに、マスクだけじゃなく、その青酸カリも他の誰かから――」

「当人たちです」黒服はきんきんした声で言った。「遺書があった。その遺書の中に、自分たちの予定した死に方が、くわしく書かれてあった。マスクのこともだ」

「何故マスクをかけたんですの?」

「それは知らない。書いてなかった。見苦しいところを見せたくなかったんだろう」黒服の口のききかたは、すこしずつぞんざいに、また横柄になってきた。「トミコ夫人は十日ぐらい前から、通夜のお客のために、新しく枕カバーをたくさんつくったのだ。マスクはそのカバーの余り布だ。布地をしらべて見てそれが判った」

「ああ、それは」と僕は言った。「僕も見た」

 黒服はじろりと僕を見た。

「見たって、マスクを?」

「枕おおいの方です」

「どこで?」

「縁側で」僕はその方角を指した。「この前の日曜日、おうかがいした時、布の輪を夫人はたくさんつくっておられました。今考えると、それが枕カバーでしょう」

「日曜?」里一服は僕に眼を据(す)えた。「ああ、第一日曜か」

「そして今日が第二日曜ですわ」と女が口をはさんだ。

 黒服はそれに答えず、腕を組んだ。沈黙が来た。この黒服男は何者だろう、と僕は考えた。自己紹介もしないし、それにしだいに横柄になってくる。ちょっとそう考えただけで、それっきりだ。今朝の電話の声を僕は思い出そうとしていた。今朝僕に電話をかけてきたのはこの男か、また別の声か。早口なところは似ているが、声の質は違うようだ。もっとも電話というやつは、声の性質を狂わせることがあるからなあ。黒服は腕を解いて立ち上った。

「ここでちょっと待っていて下さい」黒服は扉の方に歩きながら言った。「お二人とも」

 黒服は応接間を出て行った。からっぽのソファーがあとに残った。残されたソファーには表情があった。昨夜このソファーで、黒服の言によれば、貴島夫妻は服毒したという。それもずっと前から計画したやり方で。弔問客のために枕カバーをたくさんつくるような、そんな莫迦(ばか)げた綿密さでだ。そして僕は突然、忌々しくなって来た。あの日一日草むしりをさせられたことを思い出したのだ。一体僕は何のために誰のために草むしりをしたのか。これも弔問客のためなのか。怒りはすぐに消えた。立腹したって仕方がないではないか。そのかわりに、けだるい倦怠が僕にやってきた。応接間の窓は閉めきってある。風が通らないので、室内の空気はどんよりと淀んでいる。気持だけでなく、身体もだるい。私は立ち上って窓のひとつをあけ、また元の椅子に戻った。乾いた風が入ってきた。

「ねえ」僕は傍の若い女に話しかけた。黙り合っているのは不自然だったから。「ローラーコースターってのを知ってる?」

「知ってるわ」女は僕に顔を向けて素直に答えた。「でも、まだ乗ったことはない。眺めただけ。あなたは?」

「僕は広告で見ただけです。どこの広告だったかな。駅のだったかしら」

「坂道にさしかかると、皆キャアキャアと騒いでたわ」女は足を組みかえた。生毛が濃すぎる。「乗ろうかと思ったけれど、行列して並んでいるのよ。学生が多かったわ。あなた、学生?」

「爺さん婆さんは乗らないだろうねえ。あんなの、生きている余りで乗るんだものね。爺さんや婆さんには余りがないんだ」

 女の質問をはぐらかすために、僕は我ながら妙なことを言った。何が余りなのか自分にもよく判らない。

「貴島の小父さんたちは何で死んだんだろう?」

「青酸カリでよ」

「そりゃ判ってるさ。何で、というのは、どういう理由で、という意味だ」

「余りがなくなったんでしょう」女は逆手を取るように強い口調で言った。「余りがなくなって、横にはみ出たんでしょう」

「シュークリームみたいだね」と僕は言った。僕たちは笑わなかった。「今日はバスで一緒でしたね。あの揺れるバス。君はタイヤのふくらみの席に腰をおろしていた」

 女は僕の顔をまじまじと見た。しかし思い出せなかったらしい。この女は人を見詰めると、かるい眇目(すがめ)になる。鼻翼にうっすらと汗をかいている。

「その時、君はまだ、貴島の小父さんが死んだことを知らなかったんだね」

「そうよ。あなたは知ってたの」

「知っていた。電話がかかってきたから」

「誰から?」

「誰からか判らない。そして僕はやって来たんだ。君は――」

「あたしは毎月、第二日曜に、ここにやってくることになってんの」

「金を貰いに?」と僕は訊ねた。そしてすぐに言い直した。「金を受取りに?」

 女は僕から視線を外らして、窓の方を見た。少し経って口を開いた。

「それはあなたと関係のないことでしょう」

「関係はない」と僕は答えた。「僕は毎月、第一日曜にここに来て、金を受取ることになっているんだ。だからさ、だから第二日曜と聞いて、そんなことを考えたんだよ」

 女は窓を向いたまま返事をしなかった。何か考え込む顔付になった。僕もそれ以上言葉を重ねることはせず、同じく窓の方に眼を向けた。窓にサルスベリの枝がのぞいている。つるつるした樹肌の、上側の方だけ、うっすらと砂ぼこりがかぶさっている。ぼんやりと時間が過ぎた。僕は椅子に深く背を落しながら、一週間前の樹木問答のことを思い出していた。イチジクとかビワを植えたらどうだというあの問答だ。それと同時に、貴島一策の笑いも。(ははあ)と僕は考えた。(死ぬつもりだったから、前歯を欠けたまま放置したんだな)その思いは、貴島一策の死をめぐって、もっともなまなましく僕の胸をついた。悲嘆とか哀傷というのではなく、その反対のもの、忌わしい頽廃として僕の胸をゆすぶってきた。

「許しては置けない。そんなことは許しては置けない」と僕は口の中でつぶやいていた。「それは許しては置けない。死ぬからといって二箇月にわたって欠け歯を治療しないなんて。たとえ死ぬにしても、その前に一応歯を直すべきだ。それじゃあまるで、ずり上ろうとするかわりに、ずり下ろうと努力するようなものだ。そういう形のずり下りは、これは許して置けない」

 扉が開かれ、大型ノートを小脇にかかえた黒服の男が、せかせかと入ってきた。ソファーにふたたび腰をおろして、ノートの頁をめくりながら言った。「これが貴島一策の遺言状です」

 僕らは思わず首を伸ばして、それをのぞき込む形になった。縦罫(けい)のノートに、インクの細字でぎっしり書き込まれ、ところどころ消したりまた書き足したりしてある。総頁の半分ぐらいがその細字で詰まっているらしい。二日や三日で書き上げたものではなかろう。口の中に溜まってきた唾を、はき出す場所もないから、僕は忌々しくごくりと呑みこんだ。僕らがのぞいているのに気付くと、黒服はノートを立てて、僕らから頁をかくした。

 「わたくしはあなた方が、貴島一策とどういう関係にあるのか、深くは知らない」黒服は低い声で言った。「ただ、あなた方に関して、遺言に記されていることだけをお知らせする」

 僕は貴島一策を、一策の気の抜けたような笑いを、じっと見詰めている視線を、ぼんやりと瞼の裡(うち)に感じていた。何日間かかったか知らないが、こんな長文の遺言を書き残す情熱とは、一体何だろう。何か忌わしいものがある。

 

「あなたが野田三郎君ですね」ノートを膝に立てたまま、黒服が僕をまっすぐに見た。僕はうなずいた。「あなたに月々渡っていた金、月額八千円でしたね、あれは貴島夫妻の死とともに打切られます」

「遺書にそう記してあるんですか」と僕は訊ねた。

 打切られたことにそれほどのショックはなかった。なかったけれども僕の反問は自ら詰問の響きを持った。

「そうです」黒服は探るような眼で、僕の顔や服装をじろじろと見た。「あなたはすでに学校を卒業しておられる。そうこれには書いてある。だから金を渡す必要はもうなくなっている、とまあこう書いてあるんですがね」

 僕は黙っていた。

「それに、私がつけ加えると、貴島氏の引受けていた仕事が、朝鮮の休戦でおもわく外(はず)れとなり、現在ではかなりの借財が残っているということです。これはあなたには関係のないことかも知れませんが」[やぶちゃん注:ここで初めて本篇内の時制が示される。朝鮮戦争は一九五三年七月二十七日、板門店で、北朝鮮・中国軍両軍と、国連軍の間で休戦協定が結ばれ、三年間続いた戦争は一時的終結をした。現在も停戦中である。本篇の発表は昭和三〇(一九五五)年七月であるから、その閉区間ということになる。]

「金の打切り、僕に関してはそれだけですか」僕はいらいらとしてさえぎった。「それだけですね」

「いや」黒服は頁に目を落した。「貴島氏の死が確認されたら、あなたに五千円を渡せとのことです。ただしこれは、葬儀やその他こまごましたことの手伝い、それをあなたがやるという条件においてです。なにか手助けする気持がありますか?」

 僕はまた黙っていた。貴島の風貌を思い浮べていた。貴島一策は今まで一度も僕になにかを命令したことはない。いつも依頼という形式をとるのだ。あの日の草むしりの時だってそうだった。草をむしっては貰えないかという持ちかけ方を彼はしたのだ。実質的には命令とそう変らないものだったけれども。

 黒服は女の方に向き返った。

「あなたが庄司ミドリさんですね」

 女はうなずいた。庄司ミドリの手はさっきから手巾を折ったり拡げたり、ほとんどオートマティックに動いている。条件とは何だ。死んでからも条件つきで僕を働かせるのか。いや、働かせるというより、おつき合いさせようというのか。

「あなたに月々渡っていた金」黒服は執行者の権威をこめて発言した。「あれも貴島夫妻の死によって、来月から打切られます」

 庄司ミドリの手巾(ハンカチ)を折る手がぴたりと止った。不快な感じが僕に来た。自分と同じ状況に他がいるということ、同じ状況を二人であわせ持っているということ、それが妙な嫌悪に僕を誘ったのだ。僕は不機嫌にせきばらいをして、わざと窓の方に眼を向けていた。サルスベリの枝を蟻が列をつくって、ぞろぞろ歩いている。僕は生れつき目がいいのだ。二・〇ぐらいは見える。

「ですから今月分の金は、今日お渡しします。例のもの。例のものは貴島の死によって不必要になったから、お持ち帰り下さい」そして黒服は顔を上げ、やや人間らしい口調で問いかけた。「例のもの。例のものって何ですか。例のものとだけしか記してないが」

「そうとしか書いてなければ、それでいいのです」庄司ミドリはぴしゃりと言った。金の打切りに対するしっぺ返しとも見られた。「それだけですか」

「手伝いの条件で五千円支給。これも野田君と同じです」

黒服はちょっと鼻白み、おとなしい口調になった。「やって呉れますか」

「手伝いって、どんなことをやるんです?」

「さあ、それはハッキリ決っていない。細々した仕事はあるでしょう」黒服はノートをぱたりと閉じて、小さな欠伸(あくび)を三つ四つつづけざまにした。「ああ、わたしは疲れた。昨夜からほとんど寝ていないんですよ。貴島から電報で呼び出されて、それからこのノート、あれやこれやでくたくただ。実際自殺というやつは人困らせですねえ。黙って自殺したら、それはそれで困るし、こんなに指図がましい遣言書――」

 黒服はノートをぱらぱらとめくった。「何から何まで指図してあるんだ。ほんとに何から何まで」黒服はうんざりしたように僕を見た。「たとえばあなたに、午前十時に電話かけろということまで、ちゃんと指定してあるんだ。死んでしまうというのに、何故そんなことまで指図する権利があるのか。アニの気持が判らない」

 アニと言うからには、これは貴島一策のオトウトかな、と僕が思った時玄関の扉ががたがたと鳴って、へり下った声が応接間に入ってきた。

「へえ。ごめんください。花屋でございます」

 黒服はソファーからぴょんとはね上るようにして、せかせかと玄関に出て行った。庄司ミドリは顔も動かさず、じっと腰をおろしたままでいた。僕は立ち上り、何となく黒服のあとにつづいた。こまごました手伝いを引受ける気持に、もう僕はなっていたのだろう。玄関には大きな花束をかかえたハッピ姿の老人が佇(た)っていた。

「へえ」と老人は頭をちょっと下げた。老人の口に歯はほとんどなかった。「花をお届けに上りました」

 花は紫陽花だった。紫陽花ばかりの大きな束だった。

「花?」黒服は両掌で自分の頭を揉み上げる仕草をした。

「謳が頼んだんだね?」

「へえ。こちらの奥様が昨日おいでになって」花屋は黒服と僕の顔をこもごも見くらべた。「明日の午後、これを束にして届けるようにと……」

 水を打って持ってきたらしく、復雑な色合いの花々から、雫(しづく)が土間にぽたりぽたりと落ちた。

 

 玄関に棒立ちになったまま、黒服の男はまじまじと花屋の顔を、そして花束を見守っていた。雫は点々と土間を濡らした。僕らがあまり黙っているので、花屋の老人はなにか不吉なものを見るような顔付になった。

「へえ。花まで自分で注文したのか。自分でね」

 黒服はうんざりした声を出した。よほどうんざりした証拠には、彼は右手を肩のうしろに廻し、そこらの筋肉をぐりぐりと揉みほぐすようにした。

「自分でねえ。それで代金は?」

「へえ。いただきましたよ」

 雫が僕の靴を濡らしている。僕は黒服のそばをすり抜けて、手を伸ばして花束を受取った。もう手伝う気持になっていたからだ。紫陽花は水を含んで、ぼったりと重かった。花弁の色はまだいくらか白っぽい。雫が廊下にしたたるので、僕は黒服の顔を見ながら少しうろうろした。

「合所!」

 黒服が僕に言った。もう命令するような口調になっている。

「へえ、ごめんなさい」

 老人は脅えたようにかるく頭を下げて、そそくさと玄関を出て行った。僕は花束を身体につけないようにしながら、台所の方に歩いた。台所もきちんと片付いていた。片付いていたというより、すっかり整理されていた。器具や道具類は百貨店の陳列棚のように、一列に配置されていた。死ぬからきれいに整頓したというわけだろう。僕は紫陽花の束を、どこに置きようもないので、そのままそっと流しの上に横たえた。いつの間に応接間から出てきたのか、庄司ミドリが僕の背から声をかけた。

「きれいな紫陽花ね」

「きれいじゃないさ」と僕は答えた。「もっと熟して、紫か淡紅色にならなきゃね。これじゃ紫陽花らしくない」

「花瓶に入れとくと、だんだん色も変るでしょ」そしてミドリは台所をぐるぐると見廻した。「花瓶、どこにあるのかしら。よく片付いているわね」

「君も手伝いする気になったのか」

 ミドリは流しに近づき、ぼったりした花に指を触れながら、ちらと僕の顔を見た。返事はしなかった。黒服が応接間から出てきた。れいの大型ノートを右手に持ち、左掌でその表紙をいらだたしげに叩(たた)いている。ミドリが黒服に訊ねた。

「花瓶は?」

「花瓶。さあ、どこだろう」黒服は花束に眼をおとした。疲れていると見えて、眼のまわりがうすぐろく隈取られている。「探してみよう。どこかにしまってあるんだろう。花束を買い込んだからには、花瓶が用意してない筈はないんだ」

「それに書いてはないんですか?」僕は大型ノートを指した。

「書いてない。書いてなかったようだ」

 黒服は手を伸ばして紫陽花にかるく触れた。庄司ミドリと同じやり方でだ。

「ああ、イヤな色だ。これは何て言う花だね?」

「紫陽花」

「自分の葬儀にかざるというのに、どうしてこんな気味のわるい花を選んだんだろう。アネの気持が判らない」

 黒服はそう言い捨てると、そのまま台所をすっと出て行った。花瓶を探しに行ったのだろう。僕ら二人は台所に残された。僕は水道の栓をひねり、蛇口の下に自分の口を持って行った。水はなまぬるく、カルキくさかった。僕は一口含んではき出した。

「あの人、紫陽花の名も知らないのね」ミドリが首をすくめてわらった。「あの人、きっと奥さんの弟ね。額の形が似ているもの」

「例のもの、って何だろう?」僕はぼんやりと訊ねた。

「君は答えたくないんだろうね。答えなきゃ、答えなくてもいいけれど」

「例のもの?」

「そら、ノートの書置きにあったでしょう。今月分の金は渡すから、例のものは持ち帰っていいってさ」

「ああ、あれ」ミドリはためらわず口を開いた。「日記よ。あたしの日記なのよ」

「日記?」

「そう。詳しい日記をつけて、毎月貴島に見せるのが、あたしの義務になっているのよ。しかし、もう今日から、あたしは日記をつけなくて済むわ」

「日記とは面白いね。小学生の夏休み日記みたいだ。あれは自分のために書くんじゃなくて、先生に見せるためだものね」

「そうよ。だからあたしも小学生みたいに、一週間分ぐらいをまとめて書くこともあったわ。どうせいい加減なものよ」

「いい加減の方を貴島の小父さんはよろこんだんじゃないか」思いついたままを僕は言葉にした。「ほんとのことじゃなくて、ウソッパチをさ」

「そうね」ミドリはちょっと暗い表情になってうなずいた。「あちらに行って見ましょうか。花瓶が見付かったかも知れないし。ここにいたって仕様がないでしょう」

 庭に面した広縁に五六人の男女がいたが、応接間と壁をへだてたこの六畳の部屋には、和服を着た四十女がひとり、まるで仲間はずれにされたみたいに、ぽつんと坐っている。この四十女が、僕を何と思ったのか知らないが、しきりになれなれしく話しかけてくる。あたりをはばかって、低い押し殺した声だ。この女が何者か、貴島とどんな関係にあるのかは、もちろん僕も知らない。

「なにしろ朝の六時でしょ、貴島さんが死んだと言うんで、大急ぎで身支度をしたんですよ。貴島さんと言うだけで、まさか夫婦そろってとは思わないし、また自殺だとは夢にも思わなかったしねえ。脳溢血か心臓麻痺か、まあ貴島さんの体質からして、心臓麻痺じゃないかと思いましてねえ……」

 女は膝の上に両掌を組み、黒い数珠(じゅず)をザラザラと鳴らしている。一々相槌(あいづち)を打つのも面倒くさいので、僕は黙って聞いている。聞きながら庭を眺めている。一週間前草むしりした庭は、もう不精鬚(ひげ)みたいに、あちこち緑の芽を立てているのだ。今が一番雑草の生長しやすい時季なのだろう。アカザ。あれは割にむしりやすかった。貴島の庭に生えている雑草で、僕が名を知っているのは、アカザというやつだけだった。名を知らないいろんな草があった。一番むしりにくかったのは、あれは何という草か、茎が四方に、地面と平行に伸びて行くやつだ。この草は、根は頑丈でしぶとい割に、茎は極度にもろくて、地表に出た部分が直ぐにポツリと切れてしまうのだ。しかしまあ、これは何という妙な草だろう。まだ人から踏まれもしないのに、もう踏まれでもしたかのように、地面にべったりと貼りついて伸びるのだ。初めから踏まれることを予期して、そんな形に伸びるのだ。何というあさましい、いやらしい草だろう。その草がもう寒のあちこちに、ちょびちょびと芽を這(は)わせかけている。僕は何かやり切れない、うんざりした気分になって、庭から視線を引き剝がした。女はまだしゃべりつづけている。しゃがれた、秘密めかした声音で。[やぶちゃん注:「茎が四方に、地面と平行に伸びて行くやつ」恐らくキントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ亜科ニシキソウ属コニシキソウ Chamaesyce maculata 或いはその近縁種である。地面にべったりと広がり、根を幾つも張るため、引き抜きにくい。]

「あたしが着いた時、まだ二人はソファーに坐っておられましたのよ。あたしゃその時もまだ貴島さんだけだと思ってさ、奥さんはそのショックで貧血でも起しておられるかと思ったんでね、奥さんの前を通る時、ちょっとごめんなすって、とそう声をかけたんですよ。マスクはかけているし、きちんと坐ってはおられるしねえ、間違えるのもあたりまえですよねえ。でも、奥さんは黙っているし、動かないし、なんだか様子が変なんで、ひょっと爪を見たら、もうすっかり紫色になってるんですよ。ええ、貴島さんの爪も、奥さんの爪もさ、紫色。すっかり紫色。いやになるじゃありませんか、あたしゃ死人(しびと)を生きているものとばかりカン違いしてさ」[やぶちゃん注:「紫色」不審。青酸を服用すると、細胞の呼吸機能が停止し、血液中の酸素が使われないままに循環するため、逆に血色が良くなって、唇や爪の色がピンク色になるのが特徴である。時間が経過すると、それが紫色に変ずるのだろうか。或いは、梅崎は不正確な事実(心臓病などに於いてチアノーゼを起こした場合、爪は青紫色を呈する)を青酸から誤認して紫陽花に合わせて使ってしまったものかも知れない。]

 女は興に乗ったのか、数珠を胸まで振り上げて、僕を打(ぶ)つ真似をした。そしてあわてて周囲を見廻して、数珠を膝の上に戻した。貴島夫妻の自殺よりも、死人を生者と間違えたことの方が、この女には重要らしい。しかしそれはこの女だけでない、と僕はぼんやりと考えた。僕だって庄司ミドリだって、同じような趣きがある。もちろんこれは僕らだけのせいでなく、貴島一策自身にもそうさせる要因みたいなものがあるのだ。欠け歯を欠け歯のまま放って置くことだって、仝然闘志のない将棋を指すことだって、ムダな草むしりをさせて眺めていることだって、すべて人間のつながりを物憂くさせるようなものが、たしかに貴島一策の中にあるのだ。たとえば動物で言えば、猫のような冷情と無関心。

「ああ」と僕は口に出した。「猫はどうしたんだろう。姿が見えないが」

「猫は二匹とも貴島さんがお殺しになったんですってさ」女は右手の小指でそっと庭の方を指した。「殺してあそこに埋めたんだって。やはり可愛がってたものを、人手にわたすのは、いやだったんでしょうねえ」

 僕は急に耐え難い気がした。今まぐ気がつかなかったが、庭のすみのサルスベリの樹の根元が、掘り返されたらしく新土になっていて、そこだけすこしべっとりと盛り上っている。僕はあの日の、カレーライスを口に押し込められた猫の形やその動作、それをありありと思い出した。猫は舌がヒリヒリと辛(から)いものだから、踊るような恰好(かっこう)で悶え、そして電光型に走って行ったのだ。

「どういう方法で殺したんだろう」

 あの時猫は貴島一策の手に爪を立てた。あの傷はまだ貴島一策の手に、屍体の手に残っているかしら。そんなことを考えながら、僕はそう口に出してみた。しかし、どういう方法で殺したかは、それほど興味のある問題ではなかった。屍体の手に引っ掻き傷があるかどうかの方に、その時の僕の関心は傾いていたのだ。あの掻(か)き傷を貴島は手当てしたかどうか。

「さあ、知りませんねえ」女は答えた。「やはり青酸カリかしら。オトウトさんに伺ってみなくちゃ」

 女は数珠をまさぐった。僕は落着きなく、うろうろと視線を動かしていた。空は晴れ、庭いっぱいに日光がさんさんとおちている。広縁の人々はこそこそ話を止めて、なにかこちらをじろじろと見ているようだ。女がまたしゃべり始めた。

「家の中をすっかり整理して、手紙や書類も全部焼き捨て、風呂の灰まできれいにさらってあったんだそうですよ。死ぬ前に着換えた自分たちの下着は、さっぱりと洗濯され、風呂場に乾してあった。あたし、先刻それに触ってみたら、まだすっかり乾いてませんでしたよ。イカの生乾しみたいにしとっていましたよ」

 貴島夫妻と猫がいない部屋のたたずまい、片付けられた家具や道具類、庭樹の葉の色、あかるい日の光、そこらのどこからかじっと見詰めている巨大な幻の眼を、その時僕はふたたびうすうすと感じ始めていた。その幻の視線は、しだいしだいに強くなってくる。僕はすこし息苦しくなってきた。僕は指を詰襟のカラーの中に差し込んだ。(貴島一策は死んだ。何故死んだか?)幻の眼を避けるために、僕はいそがしく頭を働かせた。(何故死んだか、その原因を、誰も話さないし、誰も質問しない。死ぬに際してのやり方や有様ばかりを話題にして、誰もその原因に触れようとしない。それはどういうわけか――)

「野田君。野田君」

 背後から黒服が僕を呼ぶ。黒服は花瓶をかかえている。かなり重そうな、濃紺色の花瓶だ。そばには庄司ミドリが立っている。僕はしぶしぶと立ち上る。

「花を持って来て呉れ。納戸(なんど)に」

 僕は台所にとって返し、流しから再び花束をかかえ上げる。納戸に貴島夫妻の屍体が置かれているのだろう。つまりその枕もとに花瓶を据え、紫陽花をかざろうというのだろう。花束を身体にくっつけないように支えながら、僕は黒服のあとにつづいた。皆の視線が僕に、僕というより花束に、一斉にそそがれる。これから何かが始まりそうなのだが、僕にはよく判らない。判らないまま侍従のように胸を張り、紫陽花をささげ持って、黒服と庄司ミドリのあとにつづいて歩む。

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「富士講の話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年二月発行の『鄕土硏究』二巻十二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     富 士 講 の 話 (鄕硏二卷四八七頁參照)

 

 食行・角行の「兩行は當時の高等遊民、卽ち旗本か御家人の隱居などで有たらうと思ふ云々、衣食に不安を感じ無い彼等が、退屈紛れに樣々の事を云出して、御有難やの迷信をそゝつたので有う」とあるが、甲子夜話六十七に載せた福井行智(夜話の筆者松浦靜山侯出入りの眞言僧で梵蘭諸語に達した人)の小册富士講起原由來に此宗の祖師系圖有て、元祖書行藤佛於人穴入定、次に大法濱旺、次に旺心、次に月旺、次に星旺、次に妙法日旺佛、其次に月心と月行※忡あり[やぶちゃん注:「※」=「曾」+「月」。]。村山光淸が月心に次ぎ、月行の次に日行藤仲と食行身祿の二人を出す。これによれば書行(中山氏の所謂角行か)より八代目が食行で食行乃ち身祿と見ゆ。又書行は肥前長﨑の長谷川民部大輔てふ浪人の子で天文十一年生る(家康と同年生れ)。八歲頃より世を厭ひ成長後奧州某山に入り、次いで富士に行て苦行し一派を開く。食行身祿は伊勢國川上の產、十八にて江戶に來り本町二丁目に住で商ひし、一代に巨萬を積む。名は富山淸兵衞年來富士行を信じ苦行を勤むる事度々也。老後に殘り無く財貨を親屬窮民に施し盡して赤貧と成り、小石川春日町の裏店を借りて居り、油を鬻で漸く妻子を養ひ、享保某年富士山にて三十一日の斷食して餓死すと有れば、書行食行共に旗本御家人の隱居でも無つたらしい。嬉遊笑覽七を見ると、此身祿名は伊兵衞、本町二丁目吳服店富山淸右御門に奉公せしが、十七にて店を出で武家に中間を勤め後水道町の油商山崎屋より油を受け擔ひ賣せりと有るから一生貧乏だつたので、行智は件の吳服店主富山淸右衞門と身祿と主從を混じて一人とし、曾て大富だつたよう筆したらしい。予の知る所では上方に古來富士登山の團體は無かつた。但し予の父の出た家代々長壽で、祖父の代迄皆八十以上で終つたが、父のみ六十四で死なれた。是は一代身上を起したから其入れ合せに天が命の方で、差引いたと人皆云ふ。因て予は若死せぬやう朝夕金の儲からぬ工夫斗り運らし居る。其先祖の中に一人九十餘迄生きたのが有つて、每度富士山へ上ると足の下から雲が起つたと村中言傳へた。其頃一人斯る事を遠路思立つ筈も無いから、或は以前は關西にも富士講風の者が有つたのかと思ふ。知た事は是限り故果して角行と書行と同人か、食行と身祿は同人か別人かを、中山太郞君竝に讀者諸君に伺ひ置く。   (大正四年鄕硏第二卷十二號)

[やぶちゃん注:「選集」では、添え辞が、改行下方インデント二行で、『中山丙子「富士講の話」参照』『(『郷土研究』二巻八号四八七頁)』となっている。中山丙子は柳田國男や折口信夫らと同時代に活躍した栃木県出身の民俗学者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)のペン・ネーム。本名は中山太郎治で、「日本売笑史」(明治三九(一九〇六)年)が知られる。本底本の跋文「私の知れる南方熊楠氏」を中山太郎名義で記している。無論、最後に電子化する予定である。

『食行・角行の「兩行は當時の高等遊民、卽ち旗本か御家人の隱居などで有たらうと思ふ云々、衣食に不安を感じ無い彼等が、退屈紛れに樣々の事を云出して、御有難やの迷信をそゝつたので有う」とあるが』記事を確認出来ないが、以上は中山氏の論考からの引用であろう。「食行」(じきぎやう)と「角行」(かくぎやう)は、事前に電子化注した、以下で熊楠が引く「甲子夜話卷之六十七 18 富士講ノ始末」を見られたい(そこで読みを示し注したものは、ここでは繰り返さない。悪しからず)。そこに示したように、この二人は、それぞれウィキで立項されてある。

「享保某年富士山にて三十一日の斷食して餓死す」当該ウィキによれば、享保一八(一七三三)年六月十日、六十三『歳の時、駒込の自宅を出立して富士山七合五勺目(現在は吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食行を行い』、三十五『日後にはそのまま入定した』とあるから、没したのは享保十八年七月十三日(一七三三年八月二十二日)である。

「嬉遊笑覽七を見ると、此身祿名は伊兵衞、……」何度も出した喜多村信節の随筆「嬉遊笑覽」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊の活字本のここで読める。

「江戶本町」「えどほんちやう」。現在の中央区日本橋本町二・三丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、日本橋室町二・三丁目、日本橋本石町二・三丁目に相当する。

「水道町」「すいだうちやう」。新宿区水道町

「或は以前は關西にも富士講風の者が有つたのかと思ふ」ウィキの「富士講」によれば、本来の江戸及び富士山周辺の「富士講」とは別に、『修験道に由来する富士信仰の講集団も富士講(浅間講)と名乗っている。中部・近畿地方に分布しているが、実態は上記のもの』(江戸を中心とした富士講)とは、『大きく異なり、初夏に水辺で行われる水行(富士垢離)を特徴とする。また、富士山への登山も行うが』、奈良県の南部にある『大峰山』(おおみねさん)『への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとる』とあった。]

フライング単発 甲子夜話卷之六十七 18 富士講ノ始末

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「富士講の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。二図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミング補正して適切と思われる位置に挿入した。( )のカタカナは数少ない原本のルビである。系図は例の縦線で縦に繋がるようになっているが、面倒なのでダッシュに代えて続けた。その間に入定記載が割注で縦線の右或いは左右に入るが、当該人物の下に【 】で挿入した。]

 

67―18 富士講始末

 世に「富士講」と稱《となふ》る一種の者あるを聞たれど、その委しきを知らざりしが、頃《このご》ろ修驗行智《ぎやうち》が筆記せし小册を見たり。成程、來者の豫めすべき種類にぞ。

  富士講超原由來

 近年、江戶御城下及び近在諸國にて、一類の黨徒あり。是を「富士講」と云ふ。其始めを尋るに、書行(カクギヤウ)藤佛《とうぶつ》と云者より始まれり。この書行と云るは肥前長崎の產にて、其父は長谷川民部大輔某と云て、浪士なりしが、同國平戶より來て長崎に住し、時の騷亂を憂ること有て、夫婦、天に祈て、一子を生む。これを竹松丸と云。實に天文十一年正月廿五日なり。是時、天より告《つげ》有て曰く、

「汝夫婦の願は世の英傑を生じて、天下の亂を定め、萬民を安んずべき宿志《しゆくし》なれども、亙に治世安民の主は此子と同年にして東國に生るべし。汝が一子は世外の者と成《なり》て、普《あまね》く萬民の疾苦を救ひ、又、世を治め、國を平ぐる敎《をしへ》を施して、天下の蒼生《たみ》を濟《さい》する者と成《なら》ん。盛長の後に至らば、自ら知ること有《あら》ん。」

と。

 因て、父母、深く鐘愛して、惠養、怠らず。竹松丸、八歲の頃より、殊に世を厭ひ、出遊《しゆついう》の望みあり。長盛の後、遂に父母に暇を乞て、東國に到り、始めは奥州某山に入て修行し、夢想の靈告を得て、初て、「富士の人穴」に入て苦行すること、日、あり。三七日の斷食して、穴中に四方の杭を樹《たて》、其上に立ち、角杖をつきて二十一日の間、立行《りつぎやう》を爲す。時に仙元菩薩《せんげんぼさつ》の告ありて、「富士行《ふじぎやう》」の一派を開く。其敎は佛道に似て佛道に非ず。神道に似て神道に非ず。富士山峯を巡禮し、哥を唱ヘて懺禮《せんれい》するのみ。曰、

「夫《それ》人間の生ずることは、天一眞水より始まり、穀と桑帛とに憑《つき》て身命を保つ。この三恩をば報ぜずんば有らず。この富士山と云へるは、一名「穀聚山」とも云て、其形も、穀を盛るに似たり。南に田子《たご》あり、三穗《みほ》あり、皆、穀に屬《ぞく》たる名なり。又、「土」に「米」を合すれば「桒《くは》」となる。日本「扶桑」の名も是より出たり。内八海、外八海の水あり。皆これ、人間出生の本源なり。又「御胎内」と云ふ處あり。仙元大菩薩、一切衆生を生じ給《たまふ》が故なり。然《され》ば富士と云ふは、世界の始《はじめ》、人間の本なり。因て富士を信仰する者は、子《ね》に臥し、寅に起て、自分自分の職業を克《よ》く勤め、御山《おやま》の御恩を報じ奉る也。」

抔、種々の敎ありて、一種の宗門を爲せり。

 又、この宗に一種の文字ありて、仙元菩薩より書行《かくぎやう》に傳へ給ふ所なりと云へり。

 

Hujikou1

 

 又。其派の系、左に記す。

●元祖書行《カクギヤウ》藤佛【於人穴入定。】――――大法濱旺(ハマグワン)――――【後改日旺。白糸瀧水定。】――――旺(グワン)心――――月旺――――星旺【以上五代、正統也。】――――妙法日旺(グワン)佛――――月心――――村上光淸

[やぶちゃん注:「村上光淸」で切れるが、ここで「妙法日旺(グワン)佛」と「月心」の間で系譜が「└」で分岐し、以下の「月行※忡(ソウデウ)」(「※」=「曾」+「月」)に続いている。]

――――月行※忡(ソウデウ)――――日行藤忡――――月行開眼(ガン)日生

[やぶちゃん注:「月行開眼(ガン)日生」で切れるが、やはり「月行※忡(ソウデウ)」と「日行藤忡」の間で「└」で分岐し、以下の最後の人物に繋がって終わっている。「*」は左から右へ「亻」+「木」+「勺」を並べた字。]

――――食(ジキ)行身祿*(ミロクー)

 この食(ジキ)行《ぎやう》と云は、伊勢國川上の產にて、十八歲にて江都に來り、本町二丁目に往て、商賣を業とし、一代の間に巨萬の富商となる。名は富山淸兵衞。年來《としごろ》、富士行《ふじぎやう》を信じ、苦行を勤ること、度々なり。老後に貯《たくはへ》る財貨を、殘なく親族・窮民に施盡《ほどこしつく》して赤貧の身となり、小石川春日町の裏店《うらだな》を借《かり》て居り、油を賣《うり》て、漸《やうや》く妻子を養ふ。享保某年、仙元の告ありて、富士山七合目の室《むろ》に入《いり》て、三十一日の斷食し、日日、說法して人間常行の道を敎へ、終《つひ》にその處に餓死す。

 この身祿*(ミロクー)の一派、當時、國々に滿て、黨を結び、衆を集《つどひ》て數十萬に及ぶ。

 其爲す所は、仙元大菩薩靈告の「御身拔(オミヌキ)」と稱する者を身に掛け、其前にて、火を焚きて、是を「御焚上(《オ》タキアゲ)」と謂ふ。

 水を咒《じゆ》して、病者に與へて、飮《のま》しめ、又、符字《ふじ》を書《かき》て與ふ。これを「御禦(オフセギ)」と謂ふ。病《やまひ》癒《いゆ》ることあれば、勸めて黨に入らしむる故に、年々と、その衆、倚增《よりま》す。

 その中に先達と云あり。黨衆の魁首なり。此人は、死しても、人穴の傍に葬し、墓を建つ。法名も釋氏の名付《なづく》るを用ひず、自《おのづか》ら一派の稱號あり。文字も一派の字あり。「※」・「忡」・「月」・「旺」等の如き、是なり。

 人穴の邊に、寺、あり。開藤開山光侎(コク)寺と云ふ。「侎」は「穀」と同じく門派の造り字なり。僧も住す。何宗なりや、審《つまびらか》にせず。專ら富士敎を演《のべ》て仙元祠に事《つか》ふ。其徒の身祿*(ミロクー)を尊重すること、一向宗の親鸞を敬ふが如く、仙元を崇(たつと)ぶことは彌陀に歸するが如し。身命をも惜まざれば、法の爲に定死《ぢやうし》するも多かりと。

 この書體は、專ら身祿*の筆法を摸して改めざるを善とし、先達老輩の者、書て授くる也。訓は何とも解し難く、その門派、口授ありて、他に漏すことを許さず。唯、その徒の隱字にして、宗外の者、知ざる所なり。是を本尊とし、又、旅行にも、身を離さず隨護して、日々に禮拜す。又、報恩法會を修すと云こと、其式を「御法會」と稱す。皆、隱語にして、他人、知ること、能はず。

 「書行(カクギヤウ)入定の圖」とて、江都(えど)、某の所に板刻の者あり。磨滅して分明ならざれども、行智の搨する者あり。こゝに再摸す。

 これ、富士の人穴にて入定の圖なり。

 

Kakugiyau

 

 この一類、殊の外に盛延なる故にや、官より、度々、禁斷の旨、下ると雖ども、暫時《しばらく》、忍びゐて、又、起り、倍々(ますます)增蔓《ぞうまん》して、今に及んでは、如何んとも爲べからざるに至れり。漢の張角、黃巾の賊も、始めは、かゝる者にや有《あら》ん。今の時に治《をさ》めずんば、後患、大ならん。是を治《ぢ》するに、策、あり。片言、盡し難し。且、我事に非ず。遂に閣筆す。嗚呼。

 智が策も、これ奈《いか》ん、是、たゞ、民間卑賤の所爲なり。釋徒、上堂の異端と孰(いづ)れ。

■やぶちゃんの呟き

・「富士講」ウィキの「富士講」を参照されたい。

・「行智」(安永七(一七七八)年~天保一二(一八四一)年)は山伏や修験道の教学者にして悉曇(梵学)学者。俗称を松沼、字を慧日、阿光房と称した。父の行弁の跡を継いで、江戸浅草福井町の銀杏八幡宮の覚吽院を住持した。祖父の行春と、父に就いて、内外の典籍を学び、冷泉家歌道や書道によく通じ、特に悉曇学に勝れ、かの平田篤胤に教授をしている。真言宗系修験道の当山派の惣学頭・法印大僧都に任ぜられてもいる。修験道の信仰や修行が衰退したため、それを復興しようとする意図のもとに、修験道の来歴・故事伝承・教学に関する著作を多く著している(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「書行(カクギヤウ)藤佛」(天文一〇(一五四一)年~正保三(一六四六)年)はウィキの「角行(富士講)」を参照されたいが、「藤」という字が入っているが、彼が藤原鎌足の子孫であると称したことによるものである。

「天文十一年正月廿五日」一五四二年。但し、上記のウィキでは、天文十年一月十五日(ユリウス暦一五四一年二月十日)となっている。これだと、家康の誕生年(天文十一年)とは合わないことになる。

「仙元菩薩」仙元大菩薩。富士山の女神木花咲耶姫(このはなさくやひめ:瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻)の神仏習合後の仏名。

「懺禮」懺悔(さんげ)。

「富士の人穴」静岡県富士宮市にある富士山の噴火で生じた溶岩洞穴。ここ(グーグル・マップ・データ)。古くから知られた。私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」や、「柴田宵曲 妖異博物館 風穴」を参照されたい。

「桑帛」植物起源の着衣。

「田子」田子の浦。

「三穗」三保。

「内八海」富士五湖を始めとする富士山周辺の八つの湖。は泉瑞(せんずい:泉水湖(せんづのうみ)。富士吉田市にある。但し、古くはこれではなく、沼津市と富士市に跨る須戸湖(すどこ:浮島沼(うきしまぬま))とされた)・山中湖・明見湖・河口湖・西湖・精進湖・本栖湖・四尾連湖(しびれこ)。ここを水行(すいぎょう)する「内八海巡り」がある。

「外八海」霞ケ浦・中禅寺湖・榛名湖・諏訪湖・芦ノ湖・二見ケ浦・桜ケ池(静岡)・琵琶湖を指す。同じく「外八海巡り」もあった。

「御胎内」富士山が噴火した際に生じた溶岩隧道の一種で、人体の内部に似ているところからかく称され、祀られた。現在の胎内神社(グーグル・マップ・データ)が後身。

「食(ジキ)行身祿*(ミロクー)」(「*」=左から右へ「亻」+「木」+「勺」を並べた字)(寛文一一年(一六七一)年~享保一八(一七三三)年)は本名は伊藤伊兵衛。詳しくはウィキの「食行身禄」を参照されたい。

「人穴の邊に、寺、あり。開藤開山光侎(コク)寺と云ふ」明治の神仏分離令で廃されて現存しない。代わりに、人穴浅間神社(グーグル・マップ・データ)が置かれた。

「漢の張角、黃巾の賊」張角(?~一八四年)は後漢末の「黄巾の乱」の指導者。鉅鹿(きょろく:現在の河北省藁城(こうじょう)県)出身。「大賢良師」と称して「太平道」を広め、朝廷の弾圧を機に衆徒を三十六方(一方は約一万人)に編成し、自ら「黄天」と号し、漢朝の打倒を鼓吹し、一八四年二月に一斉蜂起をしたが、数ヶ月後に病死した。

2022/06/07

泉鏡花「海の使者」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)公開

泉鏡花「海の使者」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)「心朽窩旧館」に公開した。言っておくが、私は文学評論家を自称する連中が虫唾が走るほど嫌いである。而して私の注は自ずと全く異なる。それは読んで戴ければ、よく判るであろう。それがまさに私の「オリジナル」を標榜する所以である――

2022/06/05

譚海 卷之五 天明六年江戶洪水の事 附流浪人御施行玉る事

 

○天明六年秋、關東大水にて難儀に及べり。六月中より時々雨氣にて、土用中も帷子(かたびら)など着たる事は、わづかに一二日ありしが、七月に至りて殊に雨はれず。十四日より十八日迄、去夜(いんぬるよ)五日大雨打つゞき、十九日に及(および)て快晴せしに、前夜より洪水押(おし)いで、淺草川の水(みづ)岸にあふれ、兩岸の陸地も舟にて通ふ事十日斗りは水中往來せり。御藏前は天王寺町の橋の邊より人のたけたゝず、萱寺(かやでら)の邊まで皆(みな)河の如し。淺草新堀ばたより下谷金杉千住をかけて、人家の床(ゆか)の上に水及べり。新吉原日本堤の向(むかひ)は、今戶新鳥越の邊まで、一望に海の如く、洪水堤をあまりて五丁町に押入床に及たり。中の町は床までには及ばず。本所囘向院邊も水(みづ)床をこゑ、三ツ目・四ツ目・龜井戶村に及(および)ては、水みな屋の棟に及びしゆゑ、萱屋根(かややね)を破りてはひ出(いで)、たすけ舟に乘(のり)てのがれたりといへり。三圍(みめぐり)の社の邊、秋葉權現のあたりもみなおなじ水の深さ也。平井・うけ地・木下川邊は、陸地水の高き事壹丈三尺に及べり。是は軒口(のきぐち)壹丈三尺の土藏あるによりて、水の高さを知(しり)たりと、其所の人(ひと)物がたりぬ。江戶にて水の及ばざる處は、馬喰町三丁目より、としま町をかけて、石町より芝邊に至るまで也。深川永代橋のむかひは水あふれず、仙臺河岸より北は皆水中に住居(すまゐ)せり。馬喰町四丁目半(なかば)まで水押入(おしいり)、柳原あたらし橋お玉か池なども、ひとつに水中となりたり。新大橋・永代橋押流(おしなが)され、其外深川・本所邊の橋所々落(おち)たり。兩國橋は眞中の橋くひ三本水に拔(ぬか)れたれども、漸々(やうやう)にて防(ふせぎ)とめ橋落(おち)ず、川上に懸(かかり)たる大川ばしも、水勢にひづみたる故(ゆゑ)しばらく往來を通(つう)ぜず。兩國橋の西廣小路へ公儀より窮人御救(きふにんおすく)ひの小屋三十間斗(ばか)り建(たて)られ、粥を賜りしが、後々(のちのち)にぎり飯に味噌をそへて賜りたり。此まかなひは、堺町ふき屋町の茶屋へ命ぜられて、上(かみ)より米をわたし置(おか)れ、焚出しを茶屋にてせし也。每日食物(くひもの)を車に載(のせ)て運(はこび)送る。馬喰町四丁目馬場にも小屋建(たて)て、伊奈半左衞門支配所の、水に逢(あひ)たる百姓男女(なんによ)數多(あまた)入集(いりあつま)り、騷敷(さはがしき)事大かたならず。此まかなひは半左衞門殿より賜はり、廿日程をへてみなみな本地へ歸りぬ。歸る時半左衞門一人に米三合錢五文づつを賜ひ、夫(それ)より後(のち)本地に就て、日々如ㇾ此賜たる事凡(およそ)二三ケ月に至れり。洪水川普請(かはぶしん)はじまりて此事止(やみ)ぬ。普請御手傳(おてつだひ)は皆(みな)中國西國の大名に仰付られ、金子(きんす)にて伊奈家へ上納有(あり)、御普請場所へは、御勘定御役人二三人に、川方手代付添(つきそひ)、半左衞門殿家來同道にて取行(とりおこなは)れしとぞ。同時(おなじとき)井のかしら上水も漲(みなぎ)りあふれて、目白不動の山崩れ落(おち)、山下に懸(かかり)たる上水を押(おし)つぶし、小石川水道の水絕(たえ)しゆゑ、江戶の井涸(かれ)て、樋(とひ)修覆の間(あひだ)壹月餘(あまり)井水(ゐのみづ)に難儀せり。是は三年前七月、淺間山燒出(やけいで)て沙(すな)の降(ふり)たるとき、關東の川々沙に埋(うま)りて、川筋かはりしゆゑ洪水に及び、奥道中(おくだうちゆう)幸手(さつて)・杉戶の際(きは)の堤切(きれ)て、江府(がうふ)の難儀に及べりとぞ。四五十年以前大水なりしが、其年よりは水の高き事四五尺勝(まさ)れり。江戶草創以來未曾有の洪水也と、古老驚きいへり。同時(おなじとき)常州筑波の麓に安場山といふより山津浪押出(おしいで)て、銚子の湊に及びしかば、銚子の町大かた押流され、わづかに人家二軒殘りたりといへり。江戶にても芝切通しの山、小石川冰川明神の山など風雨に崩れて、往來しばらく絕(たえ)たり。四谷より牛込の際も、一兩日出水たゝへて難儀せり。此あたりは高き地面なれども水害にあへる事珍敷(めづらしき)事どもに云へり。

[やぶちゃん注:「天明の洪水」として知られる天明六(一七八六)年七月に利根川水系で発生した大水害。当該ウィキによれば、「徳川実紀」の『中で、「これまでは寛保二年』一七四二年の旧暦七月から八月にかけて日本本州中央部を襲った豪雨による洪水と高潮による災害」『をもて大水と称せしが、こたびはなほそれに十倍」と言及する規模となった』とし、『利根川水系では』、天明三『年に浅間山が大噴火を起こし、吾妻川を火砕流が流下した。大量の土砂がさらに下流の利根川本流に流れ出し、河床の上昇を招いた。これが』三『年後の水害の遠因となった』。『関東地方は集中豪雨に見舞われ』、『利根川は羽根野(現茨城県利根町)地先で氾濫を起こし、江戸市中へ大量の濁流が流下した。「栗橋より南方海の如し」と伝えられるほどの惨状とな』り、『本所周辺では最大で』四・五メートル『程度の水深となり、初日だけでも』三千六百四十一『人が船などで救出されている』とある。サイト「日立市の歴史点描」の「史料 天明6年の洪水 大甕神社の記録から」が非常に優れているので、是非、参照されたい。標題は「天明六年江戶洪水の事 附(つけたり)流浪人御施行(おんせぎやう)玉(たまは)る事」と訓じておく。

「帷子」夏に着る麻・木綿・絹などで作った単衣(ひとえ)もの。

「七月」「十四日」天明六年七月十四日はグレゴリオ暦八月七日である。

「御藏前」現在の台東区蔵前(グーグル・マップ・データ)。

「天王寺町の橋」これは「天王町の橋」の誤りであろう。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「浅草御蔵前辺図(位置合わせ地図)」を拡大して「淺草御藏」の南西端を拡大すると、奥の川(現在は暗渠)沿いに「天王町」が見え、その東に二本の閉口した橋が見えるが、そこには「鳥越橋 里俗天王橋ト云」とあるのが見える。

「萱寺」前の「浅草御蔵前辺図(位置合わせ地図)」をそのまま東北方向に少しずらすと、御蔵が切れたごく北直近に「正覺寺 榧寺ト云」とあるのが、それである。現在のここであるから、凡そ六百メートルの浅草御蔵の陸側の大通りが一メートル半以上の水深で水没していたことが判る。

「淺草新堀ばた」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「浅草御蔵前辺図(Marker List)」(ここでは先と違って右が北となるので注意の、先の榧寺の内陸側を拡大すると、左右に走る堀がある(この左手の、この彫が合流して隅田川に流れるところに先の「天王橋」が確認出来る)が、その堀の左岸(図の堀の下)に「此川ヲ新堀ト云」とある(「新」の上にかかっているランドマーク記号は左下の不透明度を左端にすると見える)。

「下谷金杉千住」この中央の東北に向かう道が「金杉通り」で、この中央附近が旧金杉である。この東北の先の隅田川の左岸が千住である(グーグル・マップ・データ)。

「新吉原日本堤の向(むかひ)は、今戶新鳥越の邊まで、一望に海の如く」「江戸マップβ版」「江戸切絵図」「今戸箕輪浅草絵図(Marker List)」の中央の□なそれが新吉原(新吉原遊廓)で、そこから、東(下方)に延びる「山谷堀」の右岸が「日本堤」で、「今戸」は山谷堀が隅田川注ぐすぐ右手に、「新鳥越」は少し入った右岸から対岸を右斜めに続いている。

「五丁町」新吉原遊廓のこと。ここは江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町(すみちょう)の計五町からなっていることに由来する。この辺りは、切絵図でも田圃が多く、もともとが低湿地帯であったと考えられる。

「中の町」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「浅草御蔵前辺図(Marker List)」浅草寺の東の部分(図の下方)の東西の両「仲町」のことであろう。

「本所囘向院」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三ツ目・四ツ目・龜井戶村」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「本所絵図(Marker List)」を見られたいが、図の左下方に回向院(「囬向院」と表記)があり、そこから右手(東)に向って通りの名を見られたい。「御竹藏」の東端を突き抜けるそれが、「一ツ目通り」、六区画を置いて、「三ツ目通り」、さらにそのずっと先に「四ツ目通り」あるのを指す。そして、さらにその東、堀を挟んで「龜戶村」がある。

「三圍(みめぐり)の社」現在の墨田区向島にある三囲神社(グーグル・マップ・データ)。

「秋葉權現」同じ向島の秋葉神社(グーグル・マップ・データ)。同名の神社は東京には複数あるが、ここは元禄一五(一七〇二)年に大改築が行われ、江戸でも有数の著名な神社となっていた。境内には各大名から寄進された石灯籠が今も残っており、中でも大奥での信仰が篤く、物見遊山も兼ねた女中の参詣が盛んだったという(当該ウィキに拠った)。

「平井・うけ地・木下川」これは「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「隅田川向島絵図(Marker List)」によって、図(包囲逆転)左端に「平井村」が(現在の江戸川区平井)、川向こうの一画に「上」「下」の「木下川村」が確認出来る。グーグル・マップ・データで「切絵図」と合致するランドマークになる「万福寺」をポイントした。さらに、「今昔マップ」で両「木下川」の地名を発見出来た。さらに、「うけ地」というのは、「切絵図」の上部右寄りにある「請シ 臺ノ下村 秋葉山」と、その南北にある「請シ」ではないか? と推理した。そうして、同じく「今昔マップ」のここに相当すると思われる位置に、地名として「請地」を見出したのである。なお、「請地」は鎌倉・室町時代に、荘園において、地頭や荘官その他が、荘園領主に対して一定額の年貢の納入を請負っている場合、その請所の土地を「請地」と言ったと辞書にある。この地名の由来はそこまで遡るのであろう。

「壹丈三尺」三メートル九十四センチ。

「馬喰町三丁目」ここの中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「としま町」豊島町。その北西直近のこの中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「石町」「こくちやう」で、現在の中央区日本橋本石町三・四丁目、及び、日本橋室町三・四丁目、及び、日本橋本町三・四丁目付近。この範囲内(グーグル・マップ・データ)。

「芝」現在の港区芝

「深川永代橋」現在の永代橋の少し上流側に架けられてあった。ここが旧西詰(グーグル・マップ・データ)。

「仙臺河岸」現行の江東区清澄二・三丁目付近を広くかく通称したらしい(グーグル・マップ・データ)。

「馬喰町四丁目」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「柳原」「柳原通り」。神田川の右岸(グーグル・マップ・データ)。

「あたらし橋」「新橋」。上記のここで神田川に架かっていた橋(「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「日本橋北神田浜町絵図」)。現在の美倉橋附近(グーグル・マップ・データ)と推定される。

「お玉か池」「お玉が池」或いは「於玉ヶ池」。現存しない。当該ウィキによれば、『現在の東京都千代田区岩本町』二『丁目』五『番地の辺りにあった池』で、『伝承によると、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」からとされる』。「江戸名所図会」に『よると、あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られたとある。 人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池』『と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷』『を建立して彼女の霊を慰めたという』。『また、江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて、弘化』二(一八四五)年の『時点で池自体も存在し』ていなかったとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

なども、ひとつに水中となりたり。

「新大橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「兩國橋」現在のそれはここ(グーグル・マップ・データ)。但し、江戸時代のものはここよりも二十メートルほど上流にあった。

「大川ばし」現在の吾妻橋の異名(グーグル・マップ・データ)。

「兩國橋の西廣小路」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「日本橋北神田浜町絵図」の右上端。

「三十間」五十四・五四メートル。

「堺町」現在の台東区千束四丁目(グーグル・マップ・データ)。以下の葺屋町とともに歓楽街としてしられた。名称は堺出身の女性が多かったことに由来する。

「ふき屋町」「葺屋町」。中央区日本橋堀留町一丁目・日本橋人形町三丁目(グーグル・マップ・データ)。芝居小屋が多かった。

「伊奈半左衞門」【2022年6月6日改稿】公開時、誤ってずっと先代の伊奈家当主の人物を当ててしまっていたのを、何時も情報を戴くT氏が御指摘下さった。これは伊奈家最後の関東郡代であった伊奈忠尊(ただたか 明和元(一七六四)年~寛政六(一七九四)年)であるので、ここで修正した。T氏のご紹介下さった国立国会図書館デジタルコレクションの「寛政重脩諸家譜」第五輯のここに事績が記されてあり、そこにこの天明六年十二月二日に、『さきに洪水のとき、庶民賑救』(しんきふ:施し物をして貧民や被災者などを救うこと)『のことを沙汰せしにより、黃金五枚をたまひ、ことにこの事により、忠尊がはからひ、殊更によかりしとて、時服』(将軍から諸臣が褒美として賜った衣服)『二領を恩賜せらる』とあるのが、ここでの事績である。ただ、その後、家中家臣とのごたごたや、彼の養子が逐電したことを公儀に届けなかったこと等によって咎められ、寛政四年三月九日に採地没収の上、永蟄居の憂き目に遇っている。その辺りの経緯や背景は当該ウィキに詳しい。何時もながら、T氏に感謝申し上げる。

「目白不動」東豊山新長谷寺。戦前まで現在の東京都文京区関口にあった真言宗豊山派の寺院。金乗院に吸収合併されて現存しない。

「幸手・杉戶」埼玉県の江戸川(或いは古くは利根川もか)右岸の連続した地区(グーグル・マップ・データ)。

「安場山」不詳。

「芝切通しの山」この中央附近の切通しの旧称と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「小石川冰川明神」現在の小石川にある簸川(ひかわ)神社(グーグル・マップ・データ)のことであろう。嘗つては「氷川神社」と名乗っていた。]

多滿寸太禮卷第三 冨貴運數の辨 / 多滿寸太禮卷第三~了

 

  冨貴(ふうき)運數(うんすう)の辨 

 中比(なかごろ)、南都に、修理太夫何某(なにがし)とかやいひて、神職の者あり。いかなる故にや、究めて貧にして、朝三(てうさん)のいとなみも安からざりしかば、職を去つて、宇田(うだ)の郡(こほり)のほとりに引《ひき》しりぞき、山林に薪(たきゞ)を取り、田畠(でんはた)を耕やし、渡世とす。

[やぶちゃん注:「朝三」「荘子」の「斉物論」や「列子」(高校漢文は後者から採ることが殆んど)で知られる「朝三暮四」の橡(とち)の実の詐術に引っ掛けて、極めて貧しい食生活で、大事な朝飯まで、こと欠くことような極貧にあったことを言っている。

「宇田の郡」奈良の旧宇陀郡。現在の宇陀市附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 或る時、聊か、所用ありて、郡山(こほりやま)邊(へん)に赴きしに、はからざるに、日、暮れて、道にまよひ、そこともなく、とどまり、遙かの森(はやし)[やぶちゃん注:ママ。]の内に、燈火(とほしび)、ほのかにみへければ、嬉しく思ひ、それに便りて、行きみるに、大きなる社頭(しやとう)あり。

[やぶちゃん注:「郡山」現在の大和郡山市。]

 しんしんとして神さび、夜(よ)、靜かに、更に人跡(じんせき)なし。

「いかなる社(やしろ)やらん」

と、立《たち》めぐりみるに、爰(こゝ)に、ひとつの拜殿、金銀を以つて、みがき、色どり、

「冨貴發跡司(ふうきはつせきし)」

と、額、あり。

[やぶちゃん注:「冨貴發跡司」「發跡」は「身を起こす・出世する」の意であるが、本邦では聴いたことがない神名で、如何にも大陸風である。されば、これを調べてみると、本話は、「伽婢子」その他の本邦の怪奇小説の種本御用達として知られる明の瞿佑(くゆう)の撰になる志怪小説集「剪燈新話」の巻三「富貴發跡司志」(一三七八年頃成立)が元であることが判明する。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本のこちら(同巻一括PDF版)の冒頭から原文が読め、国立国会図書館デジタルコレクションの田中貢太郎訳(大正一五(一九二六)年新潮社刊)のここから、その現代語訳が読める。原話の話柄内時制は冒頭で「至正丙戌」とあり、一三四六年であることが判り、元代終末期の設定である(元が断絶して北へ逃げたのは一三六八年)。本話はほぼその話に拠って、本邦の話に改変しただけで、オリジナリティは極めて低いことが後者を通読すれば、お判り頂けるであろう。本篇の表現で躓く箇所は、概ね田中氏に訳で解明しはするのだが、インスパイアが上手くなく、展開上では、はっきりと鼻白むおかしな部分も、実は、あるので、まずは、本篇を通読してから、やおら訳本を見られることをお勧めするものである。なお、以下の注では幾つかは田中氏の訳を参考にした。

 太夫、もとより神主の職なれば、再拜拍手して、宝殿に手向(たむけ)し、祈り申けるは、

「某(それがし)、平生(へいぜい)、一冬(いつとう)一衣(いちゑ)、一夏(げ)一葛(いちかつ)、朝脯(てうほ)粥飯(しゆくはん)一盆(いつぼん)、初めより、用(よう)に過《すぎ》て、妄(みだり)におごる事、なし。然(しか)れども、身を置くにいとまなく、喉(のんど)をうるほすに、休息、なし。常に不足の患(うれへ)あり。冬、暖かなれども、『寒し』と、こゞへ、年(とし)、豊かなれども、飢に苦しむ。己《おのれ》をしるの心、なく、蓄へ、積むの守り、なし。妻子、一族にいやしまれて、伴ふに、交はりをたつ。飢難に苦しみて歎くに、所、なし。今、謀らずに、大神(おほかみ)、富貴の事を司どる權(けん)を、きく。是を扣(たゝ)けば、則ち、聞く事、あり。求《もとむ》るに得ざる事、なし。是、わが幸(さひはひ)に有《あり》。こひねがはくは、威嚴を新たに、告ぐるに、倘來(しやうらい)の事を以し、猶、未來の迷ひ、機(き)を指し示し、枯魚斗水(こぎよとすい)の活(くわつ)をかふむり、苦鳥(くてう)一枝(し)の易(やす)きに、つかしめ給へ。」

と、肝膽(かんたん)をくだき、再拜し、余りのつかれに、拜殿の片陰にうづくまりて、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「朝脯」「脯」は一般に「乾し肉」の意であるが、本邦であること、主人公は神職であることから、ここは今一つの意で、前の「朝三」とも齟齬しない「果物を乾したもの」の意で採る。

「一盆」椀に一杯。やはり「朝三」に合致する。

「用に過て」最低限度の命を繫ぐ以上には。

「冬、暖かなれども、『寒し』と、こゞへ」食物の摂取量が身体を暖めるに至っていないほど乏しいからである。

「己《おのれ》をしるの心、なく」自分のことを考えるゆとりさえなく。しかし、種本原文は「出無知已之投」で、これは「知り合いの施しを受けることも出来ず」という意である。

「倘來」これは「思いがけなく得た金銭・あぶく銭」の意で、やや躓く感じがないでもない。田中氏も恐らくそう感じられたのであろう、ここを「將來」(近い未来)と訳しておられる。

「機」この状態を抜け出す契機となる様態。

「枯魚斗水の活」干乾びて死にかけた魚が一斗の水を得て復活すること。]

  やゝ深更に及びて、東西の兩殿、左右の諸社、燈燭(とうしよく)、おびたゝしくかゝやき、人馬(にんば)、騷動せり。

 只(たゞ)、太夫がいのる所の社斗(ばかり)、人、見えず。又、燈(ともしび)、幽かにして、半夜(はんや)に及ばむとす。

 忽ち、殿中に聲す。

 初めは、遠く、次第にちかく、聞ゆ。

 諸司・判官(はんぐわん)、みな、出《いで》むかへて、渴仰(かつがう)するをみれば、文紗(もんしや)の輿(こし)、かきつらね、行烈(ぎやうれつ)[やぶちゃん注:ママ。]、はなはだ嚴重なり。

 輿の内より、符君(ふくん)、端正美容(たんしやうびよう)にして、威儀を正し、神殿の正面に座し給ふ。

[やぶちゃん注:「符君」原拠では「府君」。一般的には太守・尊者などの意であるが、田中氏は『城隍祠の府君』と訳しておられる。城隍神(じょうこうしん)は中国の民間信仰に於ける土地の守護神を指す。]

  諸衞(しよゑ)・判官、悉く拜謁し、皆、本座につく。

 政事を行ひ給ふ。

 發跡司(はつせきし)の官人(くわんにん)、殿上より來たる。符君を拜して、座に着す。皆、裝束(しやうぞく)、布衣(ほい)のごとく、赤衣(しやくゑ)を着たり。

[やぶちゃん注:「布衣」ここは、出版当時の読者向けの説明で、江戸時代の大紋に次ぐ武家の礼服を指し、絹地無文で裏のない狩衣を指している。]

 各(をのをの)、判斷する所を、のぶ。一人のいわく、

「駿州三保郡(みほこほり)浦上(うらかみ)の里の、何がしの長(ちやう)が藏米(くらまい)二千石(せき)、去(さんぬ)る比より、水損(すゐそん)して相續(あひつゞ)き、米(よね)高直(かうちよく)にして、隣境(りんをく)、飢渴、野(や)に餓死の骸(かばね)、みちみちたり。藏(くら)をひらき、是れを救ふ。ないし、賣り出だすに高利をとらず。又、粥を煮て、貧乏の者に施(ほどこ)し、活(くわつ)を蒙むる者、數へがたし。昨日(きのふ)、其の郡神(ぐんしん)、本司(ほんし)に申《まうし》上げ、符君に奏す。已に天庭(てんてい)にしられ奉り、壽命十二年をのべて、を六千四百石(せき)、賜ふ。」

[やぶちゃん注:「三保郡浦上」現在の静岡県清水市清水区内と思われるが、不詳。

「水損」水害。

「高直」「こうぢき」が一般的。売値が高騰すること。

「隣境」ここは村界の意ではなく、「その地方一帯」の意。

「天庭」 天上の天帝の宮廷。]

 又、一人の曰《いはく》、

「尾州知多郡(ちたこほり)野田の何某が妻、姑(しうと)につかへて、甚だ、孝あり。其の夫(おつと)、他國に有り。姑、おもき病ひを得、巫(ふ)・醫、しるし、なし。思ひに絕《たえ》かね、沐浴結斉(けつさい)して、香を燒(たき)、諸天に訴へ、

『願はくは、身を以つて代はらん。』

と、ちかひ、丹精をぬきむでしかば、則ち、愈ゆる事を得たり。昨日(きのふ)、天符(てんふ)、下行(げぎやう)して云く、

『某の婦(ふ)、孝、天地(てんち)に通じ、誠情(せいせい)、鬼神(きしん)を伏(ぶく)す。貴子(きし)二人を產ましめ、君(きみ)の祿をはむで、其の門(もん)を光影(くわうゑい)し、終《つひ》に位《くらゐ》をすゝめて、これに報ぜん。』

と。今、已に福籍(ふくせい[やぶちゃん注:ママ。])にしるす。」

[やぶちゃん注:「知多郡野田」愛知県知多郡美浜町野間野田

「巫」巫女或いは民間に咒(まじな)い師。

「福籍」幸福な人生を送ることを約定した天帝の人命帳簿。]

 又、一人のいわく、

「相州中村官主(くわんしゆ)某、爵位、尊(たつと)く、奉祿、又、厚し。國民に報ぜん事を思はず、只、鄕民を貧(むさぶ)り、錢(ぜに)千疋(びき)を受けて、法をまげて公事(くじ)に勝たしめ、銀五百兩を取つて、非理(ひり)に良民を害す。符君、上界(じやうかい)に奏し、則ち、罪(つみ)せんとす。本人、頗る宿福あり。此の故に、是非なく、數年(すねん)をふる。いまに滅族の禍ひに、あはず。早く命(いのち)を奉りて、凶惡を、しか、す。只、時の至るを、待つのみ。」

[やぶちゃん注:「相州中村」神奈川県足柄下郡下中村か(「歴史的行政区域データセット」。地図有り)。

「官主」代官の意か。]

 一人の云く、

「城州八瀨(やせ)の里の某、田(た)、數(す)十町あり。貪欲にして、猶、あく事、なく、隣田(りんでん)の境ひを論じ、『押(おさ)へて、わが數(すう)に合(あは)せん。』とて、價(あたひ)を賤(いや)しふして、是を奪ふ。剩《あまつさ》へ、其のあたひを返さず。此の故に、先(さき)の田主(たぬし)、怒りをふくみ、終に空しく成りぬ。冥符、本司に申(まふし)て、追尋(ついじん)して獄に入る。又、身を化(け)して牛(うし)となし、生(しやう)を隣家(りんか)の主(ぬし)に托(たく)して、その負(お)ふ所を、つぐのふ。」

[やぶちゃん注:「城州八瀨」京都府京都市左京区の八瀬地区

「價を賤しふして、是を奪ふ。剩へ、其のあたひを返さず」値切りに値切って安く奪うようにして買って、しかも、その代金をさえ払わず、踏み倒したことを言っている。

「獄」冥府の牢獄。原拠の天帝が道教であるから、地獄と訳すのは上手くない。畜生に生まれ変わるというのは別に六道思想を持ち出すまでもなく、中国の民間信仰にこうした転生思想は独自にある。]

 諸司の言談(ごんだん)、終はりて、本司、怱ち、眉をあげ、目を見はりて、衆司(しゆし)に謂ひて云く、

「諸公、各《おのおの》、其の職を守り、その事を治め、善を褒美(ほうび)し、惡を罰す。天地運行のかず、生靈(しやうれい)厄會(やくくわい)の期(ご)、國、漸くおとろふ。大難、まさに至らむ。諸司、よく政斷すといへども、それこれを、いかむ。」

[やぶちゃん注:「生靈厄會の期」魂を持った存在が災厄に邂逅する定まった時期。]

 諸司、おどろき、故をとふ。本司、申給はく、

「我、たまたま、符君にしたがひ、天帝の所に上朝(てう)し、諸聖(しよせい)の將來の事を論ずるを、きく。數年(すねん)の後(のち)、兵戎(へいじう)、大きに起り、五畿内の人民(にんみん)、三十余萬、死せむ。正(まさ)に、此ときなり。自(をのづか)ら、積善(しやくぜん)、仁をかさね、忠孝の者にあらずむば、まぬかるゝ事、ならじ。生靈(しやうれい)の助けなく、塗炭(とだん)におちん。運數、已に定まる。のがるべからず。」

[やぶちゃん注:「生靈の助けなく」どうも意味がとれない。田中氏はこの前後部分を『まして、普通一般に人民では天の佑(たすけ)が寡(すくな)いから』となっている。]

 諸司、色を失ひ、各、散じ去る。

 

Huukiunsuunoben

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」のそれをトリミングした。右幅の左上の木立の下に平伏した太夫がいる。以下の冒頭のシーンを切り取ったものととっておく。]

 

 太夫、初めより、つくづく、これを聞《きき》、身の毛、いよだち、ふるひふるひ、這い出でて、拜す。

 本司、つくづく見給ひ、小吏に命じ、薄札(はくさつ)を取りよせて、太夫に告げ給はく、

「汝、後(のち)に、大に、福祿、あらん。久しき貧窮に、あらず。今より、日々《ひにひに》に安(やす)かるべし。暗きより、明(めい)にむかふがごとくならん。」

 太夫、申けるは、

「願はくは、其の詳かなる事を、示し給へ。」

と申せば、則ち、朱筆(しゆふで)を取りて、大きに十六字を書して、是れを授けて云く、

「日に逢ひて康(やす)く、月にあふて發(はつ)す。雲に逢ふておとろへ、因《いん》によつて沒せん。」

[やぶちゃん注:「十六字」原拠では「遇日而康 遇月而發 遇雲而衰 遇電而沒」とある。後注参照。]

 太夫、これをいたゞき、懷中して、再拜し、出《いづ》ると思へば、夜、已に明(あ)く。

 いかなる社(やしろ)ともしらず、懷中を搜るに、朱書、なし。則ち、歸りて、妻子に告げて、悅びあへり。

 數日(すじつ)ならずして、同所日比野(ひゞの)何がしと云ふ者、太夫に神道の傳授して、月ごとに、三石(せき)の米穀を送る。

 是れより家居(いゑゐ)も安く、その館(たち)を作る。

 數年(すねん)にして、應仁の兵亂(へうらん)、出で來て、細川・山名、大に戰ひ、五畿七道、悉く、亂る。

 山名が軍族に、斯波(しば)の某、神道の士を好む。

 修理太夫、策(むち)を加持して獻ず。

 其の心に叶ひ、則ち、幕下に奉士(ほうし)して、馬(むま)・物具(ものゝぐ)・僕從、あたりをかゝやかし、一所懸命の地を領す。

 同役に、桃井雲栖齋(もゝのいうんせいさい)といふもの、太夫と、甚だ不和にして、さまざま、讒言して、遂に、斯波の領國、因州一郡の代官とす。太夫、心に、

『かの神詫(しんたく)の、「日(じつ)」・「月(げつ)」・「雲(くも)」の三字、みな、驗(しるし)あり。』

 深く、恐れつゝしみ、敢へて非義(ひぎ)をなさず。已に二とせを送る。

 或る時、太夫が支配の領地に、往來の道を造る。その領境(れうざかい)の札(ふだ)を書する事を乞ふ。

 則ち、太夫、筆を下して、

「因州何のさかい」

とかく内に、風、怱ちに吹きて、「因」の字の下に一尾(いつび)を曳き出だし、一の「因」の字を、なす。大きに心にかけて、下夫(しものふ)に命じて、かへざらしむ。

 此の夜(よ)より、疾ひを煩らひ、自(みづか)ら、愈《いえ》がたき事を知りて、湯藥(とうやく)を用ひず。家財・譜・寶を書き置きし、妻子にいとま乞ひし、遂に死す。

 神の述ぶる所は、聊かも違(たが)ふ事なし。將來の事、露斗(つゆばかり)も違はずして、應仁の兵亂(ひやうらん)うちつゞき、畿内近國の戰死の者、豈(あに)三十萬のみならんや。是れを以つて、つくづく思へば、普天(ふてん)の下(した)、率土(そつと)の濱(ひん)にして、一身(しん)の榮枯通塞(つうそく)、大いにして、一國の興衰治亂、みな定數(でうすう)あり。博移(ばくしや)すべからず。妄庸(まうよう)の者、則ち、智術を其間にほどこさむとす。いたづらに、みづから、くるしむもの、ならじ。

[やぶちゃん注:「日比野何がし」不詳。但し、この「日」が先の本司の示した「十六字」の「日」に当たる。

「山名が軍族」「斯波の某」この当時の斯波姓で山名方となると、斯波義廉(よしかど 文安二(一四四五)年~?)がいる。室町幕府管領にして越前・尾張・遠江守護。彼の母は山名宗全の伯父山名摂津守(実名不詳)の娘とされている。しかし、順序から言うと、この男の名に前述の「月」がなくてはならないのにそれがないのが、不審である。「あたりをかゝやかし」はあるが、これを「月」と採るのは、太夫の側の盛隆の表現であり、逆立ちしても、これは「月」ではない。なお、次の次の注で、彼ではないことが判る。

「桃井雲栖齋」不詳。但し、これが先の十六字の「雲」である。

「斯波の領國、因州一郡の代官とす」斯波義廉は御覧の通り、因幡を領地として持っていないから、彼ではない。なお、原拠では明白で、主人公(何友仁(かゆうじん))が出逢うのが、群の豪家「英」で、次に逢うのが、「大師達理沙」で、最後に絡む同僚の名が、「石不花」という人物である。作者は何故、適当な人物として「月」を含む名を出さなかったのか、甚だ不審である(「秋月」でもなんでもよかろうに)。それとも「斯波」という姓には「月」が隠れているんだろうか? 識者の御教授を乞うものである。なお、原拠は最後の死に至る予言では、先に示した通り、「遇電而沒」で、友仁は雷州の書記官に左遷されたが、ある時、上申書で「雷」の字を書こうとして、同じように風が吹いて、「電」の字になってしまい、ほどなく亡くなったというすこぶる判り易い話になっているのである。「日」・「月」・「雲」・「電」の自然現象としての親和性といい、「因」の字の書き間違いというヘンテコなオリジナルを接いだ作者は、完全に失敗しているとしか思えないのだが……

「非義」抗議。

『「因」の字の下に一尾(いつび)を曳き出だし、一の「因」の字を、なす』かったるい言い方で、「因」の字の下方に「因」の字に接して墨は一画入ってしまったような字になってしまったのである。

「譜」「譜寶」という熟語は私は知らないので、分けた。「譜」は「彼の家系譜」(を記す)という意味で採った。或いは、家財家宝のリストかも知れぬが、だったら、この文字列は私は不審である。

「博移」意味不明。

「妄庸」愚劣。]

2022/06/04

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「葦を以て占ふこと」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正三(一九一四)年十一月発行の『鄕土硏究』二巻九号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。なお、平凡社「選集」では本篇を「一」とし、その後に「二」として、三年後の大正六年二月発行の同誌四巻十一号に発表した本論考の続編が載るが、これは底本では「俗傳」パートの最後に同題で追加収録されている。短く、分離する価値がないので、特異的にここで一緒に電子化することとした。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     葦を以て占ふこと (鄕硏二卷一九六頁)

 

 諏訪神社で元日に薄を供して占ひを行ふた記事に付て連想せらるるは、吾邦に古く葦を以て占ふ式があつたらしい-件だ。新撰姓氏錄卷十、和泉國皇別葦占連、大春日同祖、天足彥押人命後也。和泉國神別巫部連、又大和國に在りし漢靈帝の後と云へる石占忌寸などの例で、葦占を世職としたから葦占連と云つたらしい。其頃どうして葦で占ひ、又葦の何れの部を占ひに使ふたか分らぬが、若くは其遺風かと思はるゝ者後世まで行はれた證は、甲子夜話續篇卷九十七、享保三年東南洋の無人島に流され、十一人の内三人生存して二十二年目に本國遠州へ歸つた舟人の口上書に、二十二年目に大阪船一艘十八人乘りて又其島へ漂着し共に住んだが、船頭萬一を期して乘り出さば本國に歸ることもあらうと云ふに一同贊成し、「各々垢離を取り、伊勢大神宮を始め奉り、三島・秋葉山・伊豆・箱根其他諸神諸佛を拜し大願を掛け、葦の葉に朔日より晦日までの日を書付け、御祓を以て之を摩で候に、葦の葉一枚上り候に付き見候へば、九日と申候附け有り」。乃ち九日の朝出船して終に八丈島へ八日日に着したとある。

     (大正三年鄕硏究第二卷第九號)

[やぶちゃん注:「選集」では、添え辞が標題の後の改行下方インデント二行で、『川村杳樹「片葉蘆考」参照』『(『鄕土硏究』二巻四号一九六頁)』とある。川村杳樹というのは、柳田國男のペン・ネームの一つで、広く「七不思議」等として各地に見られる「片葉(かたは)の蘆(あし)」の考証論考である。そこで、柳田が触れているのが、本篇冒頭で熊楠が示した「諏訪神社で元日に薄を供して占ひを行ふた記事」である。当該部を以下に示す(「ちくま文庫」版全集第七巻に拠った)。

   *

諏訪の穂屋野[やぶちゃん注:「ほやの」。]の神事は近世までも厳重に行われていた。毎年旧暦の七月二十六日に、社から一里ばかり離れた御射山(みさやま)という処に往って、山野の尾花を苅り取って小屋を葺(ふ)き、その中に入つて精進をする。一の小屋は神職、二の宇(う)は社僧、三の宇は巫女の居る處と定める。薄の穂を以て葺き渡すがゆえにこれを穂屋と名づく。市人(いちびと)も各穂屋を構えて雨露を凌(しの)ぐ便とすと云ふ(遊囊賸記(ゆうのうしょうき)所引木曾乃山布美(きそのやまぶみ))。一本の薄を苅り取って神前に立てる儀式は、穂屋の花やかなる光景に消押(けお)されて人が注意しなくなったが、この神事の中心はむしろこれにあったようである。たとえば『諏訪旧跡志』が引用した上社記に、七月二十六日は五官の祝(ほふり)等前宮溝上社に詣でて芒藻(ぼうそう)の幣ありといい、同二十七日には毛髪萱穂を以て奉幣ありとも見えている。さらに遡っては『諏訪明神絵詞(えことば)』の祭礼の巻にも、正月元日深更(しんこう)に及びて御室に還り、まず萩組の座にして神長御占を行う。薄の穗一束掌内に奉る。大祝(おおほふり)対して誦文(じゅもん)あり、外人に聞かしめずとも書いてあつて、薄を神代とする由來の久しきことを示している。これがすなわち片葉の蘆の真の根原かと自分は思う。

   *

「新撰姓氏錄」弘仁六(八一五)年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の名鑑録。

「葦占連」「選集」に従うと(現代仮名遣)、『あしうらのむらじ』。

「天足彥押人命」同前で『あめたらしひこおしひとのみこと』。

「巫部連」同前で『みかなぎべのむらじ』。

「漢靈帝」後漢の第十二代皇帝霊帝。在位は一六八年から一八九年。

「石占忌寸」同前で『いしうらのいみき』。

「甲子夜話續篇卷九十七、享保三年東南洋の無人島に流され、……」事前にこちらで全文を電子化しておいた。そこで注しておいたが、静山の「享保三年」というのは、享保四年の誤りなので、注意されたい。

 以下、冒頭注で述べた「俗傳」パートの最後に載る同題の追加記事。実は分離して「俗傳」の一番最後に載ることには、かなり後になって気がついたので、今は、本文内の表記注記のみに留めさせて貰う。悪しからず。

 

 

     葦を以て占ふこと (鄕硏二卷五四二頁參照)

 

 其後予往年大英博物館で抄し集めた物を見た中に、一八四〇年板ベンガルの亞細亞協會雜誌卷九グランジ中尉實踐記に、印度のナガ人は槍で軟かい蘆を削つて占ふ。蘆の薄片が落ちると反對の方角に向ひ事を行へば幸あり。隨つて薄片が多く落ちる方が、それだけ多く不吉と判ずるとあつた。又バルフオールの印度事彙第三版二卷五四八頁に、印度のクハムプチ人小さい火と蘆一把を持つて占ふ。先づ數節ある一本の蘆を炙る[やぶちゃん注:底本も「選集」も「灸る」であるが、これは「炙る」の誤字と断じて訂した。後も同じ。]と一つの節が爆裂し、破片の兩端に細かい纖緯[やぶちゃん注:「選集」では『繊維(すじ)』とする。]が多く出る。其を仔細に檢め收去り[やぶちゃん注:「選集」に従ええば、「あらためとりさり」。]又一本炙る。一時ばかり斯やつて[やぶちゃん注:「かうやつて」。]、さて一同が待つ所の酋長は三四日内に來ると判じたのを、ハンネイ大佐が目擊したとある。

      (大正六年鄕硏第四卷第十一號)

フライング単発 甲子夜話續篇卷之九十七 11 【享保三年】遠州新井村筒山某船無人嶋え漂着幷大坂船同斷之事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「葦を以て占ふこと」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。]

 

97―11 遠州新井村筒山某《なにがし》船《ふね》無人嶋《むじんたう》え漂着幷《ならびに》大坂船同斷之事

 或日、侍臣の「野藪談話」と云《いへ》る借し本にあり迚《とて》、示す者あり。

 見るに、享保三年、遠州の人、海船を吹流《ふきなが》され、洋中の孤嶋に棲《すん》で、元文四年に歸る二十二年の間の記にして、みな德廟治世の際《さい》なり。

 この記、詳《つまびらか》にして實《じつ》。然れども、讀《よむ》に、味ひなく、益なく、又、時の情態、委《くはし》きが如《ごとく》にして、又、盡《つく》さざること、有るか。但々《ただただ》孤嶋に月日歲暑《げつじつさいしよ》を歷《へ》るの間、その困苦悲艱《こんくひかん》の狀、察すべし。又、事に堪へ、物に忍ぶ。其得失を、玆《ここ》に觀《み》つべし。この孤嶋、何方《いづかた》何れの地に在る、予、辯ずること、能はず。識者の說を竢《ま》つ耳《のみ》。

   無人嶋え、漂着の談

爰に享保三年、遠州敷知郡《ふちのこほり》新井村筒山五平といへる者の船にて、船頭壱人、水主《かこ》十人、以上十一人乘《のり》し船、流失いたし候處、水主の内、三人、生殘《いきのこ》りて、元文四未《ひつじ》七月歸りける故、右水主共申上候口上書寫す事、左の如し。

一、廿二年已前、享保三戌年、新居湊出船致、豆州下田御關所御改を請、江戶え參り、暫《しばらく》滯留仕《つかまつり》、奧州え、下り、南部修理大夫殿御荷物積立、天氣を相待候處に、江戶え、風並能く、南部を出船し、海上半途迄も出候と存《ぞんず》る刻《きざみ》、俄に風替り、北風强く、南東の方え、吹流《ふきなが》され、日數《ひかず》七、八日もはしり候て、船、損じて、危く罷成候に付、小船に移り、粮米《らうまい》三俵、鍋二つ、其外、相應の道具を入れ、吹流され、やうやく小さき嶋見へ候に付、十一人共に彼嶋へ上り候。此嶋、人家は決してなく、嶮岨の岩山谷なんど有ㇾ之、四方、海にて、目の及ぶ處も無ㇾ之候間、無是非其嶋の岩の下をほり、住居仕候。

一、此嶋、給物《たべもの》、一圓、無ㇾ之、諸鳥《もろもろのとり》多く有ㇾ之候故、鳥を取、鹽を以、煮、食し、或は帆の絲を以、釣を仕《つく》り、魚を取、朝夕、給《た》べ申候。

一、海上にて小船に入候三俵の米、拾一人に而《て》わけ取、一日に十粒、廿粒づゝ、給申候。

一、月日《つきひ》の立《たつ》を不ㇾ存《ぞんぜず》、四季折々の譯《わけ》も無ㇾ之、其内、冬と存候節の日の出、あつさ、日本の土用よりは凌《しのぎ》難く存候。依て、朝の内は、日影、岩のかげに隱れ居《をり》申候。

一、諸