多滿寸太禮卷第四 上杉藏人逢女强盜事
上杉藏人(くらんど)、女の强盜(ごうだう)に逢ふ事
過《すぎ》し亨德《きやうとく》年中に、上杉憲忠の一族に、上杉藏人國忠といふ者あり。
憲忠、討死の後、鎌倉を辭して、播州赤松に、よしみあれば、
『うちこへ、一先(ひとまづ)、賴まばや。』
と思ひて、ひそかに旅の用意して、供をもぐせず、只一人、住みなれし里を立ち出《いで》て、足にまかせて、急ぎける。
元來(もとより)、智謀すぐれて、弓矢・打物《うちもの》に達し、廿(はたち)あまりの若者なれば、人を人とも思はず、世の乱れの最中なれば、山賊・海賊の、道にあふれて、更に往來もたやすからねども、これを事ともせず、唯一人登りける心のほど、いと恐ろし。
[やぶちゃん注:「亨德《きやうとく》」一四五二年から一四五五年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。底本版本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」・宝永元(一七〇四)序版・PDF)は「こうとく」と振る。「享徳の乱」(享徳三年十二月二十七日(一四五五年一月十五日)~文明十四年十一月二十七日(一四八三年一月六日))は、二十八年間に亙って関東を中心に断続的に続いた内乱。第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に騒乱が拡大した。現代の歴史研究では、この乱が関東地方に於ける戦国時代の始まりに位置付けられている)で知られ、まさに本篇もそれ絡み。
「上杉憲忠」(永享五(一四三三)年~享徳三(一四五五)年)は関東管領で足利持氏執事であった上杉憲実の子。永享の乱で主君であった鎌倉公方足利持氏を滅ぼした後、父とともに出家したが、長尾景仲らの要請により還俗、文安五(一四四八)年、関東管領となった。後、持氏の子成氏が公方に就任すると対立、成氏邸で結城成朝(ゆうきしげとも)らに暗殺された。
「上杉藏人國忠」不詳。山内上杉氏の系図を見たが、見当たらない。
「播州赤松」現在の兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)赤松(グーグル・マップ・データ)。]
ある山路《やまぢ》にさしかゝり、日は既に暮れかゝる。
足にまかせて、麓に急ぎけるに、とある片岸(かたぎし)に、六尺あまりの大(だい)の法師、ざいほうを引《ひつ》さげて、仁王立《にわうだち》に、つゝたち、跡につゞきて、五、六人、おなじさまなる大のおとこ、得もの得ものを持ちて、つゞきたり。
藏人、すかし見て、
「すは。くせもの、ござんなれ。」
と、中々、恐るゝけしきもなく、
「道を急ぐ旅のものなり。速(すみや)かに、そこをひらきて、通されよ。」
と、詞(ことば)をかけたりけるに、法師云ふやう、
「我々は、人の物をわが物にして世をわたる者共なれば、命おしくば、太刀・かたな・衣裝をぬぎて、通られよ。」
と、
「ひしひし」
と、取りまはす。
藏人、云《いふ》やう、
「わが身は一人なれば、敵對すべきやう、なし。命こそ寶なれば、ちかふよつて、面々に、取給へ。」
と、ちかぢかと、つめかけ、ひそかに太刀をぬき持つて、大の法師の眞向(まつこう)、ふたつに、
「さつ」
と、わりつゝ、いで立つたる男の、左の耳の際より、肩先へ切り付けたり。
しばしも、こらへず、左右に倒れけるに、
「すは、しれ者よ。」
と、跡の男、腰なる貝を吹きければ、四方(よも)の山々より、同じく貝を合《あはせ》て、手に手に、松明(たいまつ)ふつて、いくらともなく、蒐(か)け來(きた)る。
藏人、
『大勢に取り篭(こ)められては、叶はじ。』
と思ひければ、あたりの者ども、蒐(か)けちらし、足を計(ばかり)に落ちたりけるに、思ひもよらぬちか道に先(さき)をまはられ、せんかたなく、松の大木《たいぼく》のしげりたるに、よぢのぼり、梢に身をかくし、息をとゞめてゐたり。
[やぶちゃん注:「片岸(かたぎし)」「きし」は「断崖」の意。片方が高く切り立って、崖になった所。
「六尺」一メートル八十二センチ弱。
「ざいぼう」底本では「ざいほう」。シチュエーションから「ざいぼう」で、「尖棒・撮棒・材棒」などと漢字表記する。「さきぼう」の音変化。本来はヒイラギなどで作った災難除けの棒であるが、ここは、武器として用いる堅木の棒のこと。恐らくは法師体(てい)の盗賊に持つそれであるから、地獄の獄卒のアイテムとして知られる鉄尖棒(かなさいぼう)で、打ち振って相手を倒す、太い鉄棒の周囲に多くの鋭い突起があるものであろう。
「しれ者」「癡(痴)れ者」であるが、ここは「手に負えない者・乱暴なもてあまし者」或いは「その道(武芸)に打ち込んでいる強(したた)か者」の意である。
「跡の男」後ろにいた男。
「貝」法螺貝。
「蒐(か)け」この場合の「蒐」は「狩りあつめる」で、捕えるために駈け参ずることを意訳的に訓じたものであろう。以下の「蒐(か)けちらし」の主語は国忠で「返り討ちにし」の意。
「足を計(ばかり)に落ちたりけるに」足早に襲撃から逃れたが。]
かくて、數(す)百人よせ集まり、草を分けて尋ね求むるに、行き方、なし。
大將と覺しき男、
「よしよし、一人などをめがけて、詮なき骨を折るものかな。兼ねて示せし信元(のぶもと)が家《いへ》に、こよひ、おし入《いる》べし。手配(てくばり)せんまゝ、しばらく、よせ集まるべし。」
とて、大幕《おほまく》引《ひき》、大づゝ、あまた、すへならべ、かゞりを燒上(たきあげ)たりければ、日中(につ《ちゆう》)のごとし。
藏人がのぼり居(ゐ)たる松の木を、眞中(まんなか)になしてぞ、あつまりける。
[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版の挿絵をトリミング補正して用いた。]
かくて、大將と覺しき者は、色白く、尋常に、容貌、いつくしく、としの比(ころ)、廿あまりにして、かね、くろく、まゆをつくり、髮をからわにゆひ上げ、立(たて)ゑぼしを引《ひつ》こみ、かりぎぬの下に腹卷(はらまき)して、大口《おほぐち》のそば、高々と、さしはさみ、誠(まこと)に、器量・こつがら、千萬騎の大將とも、みえたり。
床肌(しやうぎ)[やぶちゃん注:「肌」はママ。]に腰をかけたるをみれば、女なり。
十八、九斗りなる女二人、おなじ裝束したるが、左右に候す。
そのほか、ありとあらゆる、鬼とも人とも見えぬ山賊ども、數(す)百人、並びゐて、とりどり、評定しける。
『哀れ、是れは、日比(ひごろ)聞きつたへたる女强盜(《をんな》ごうだう)『今巴(《いま》ともへ)』といへる成るべし。器量といひ、姿といひ、いかにもして吾が妻として、暫く世に出《いづ》るまでの助けともせばや。』
と思ひて、なりを靜めて居(ゐ)たりける程に、酒宴、事(こと)終はり、亥の尅(こく)計りにも成りければ、
「時分、よきぞ。」
と、云ほどこそあれ、數(す)百人の者共、吾おとらじと、打立《うつたち》けり。
[やぶちゃん注:「信元(のぶもと)」不詳。当地(場所不詳)の豪族であろう。
「かね、くろく」「鉄漿、黑く」。お歯黒を黒々と塗っているさま。ここは一種の相手への威嚇のためであろう。
「からわ」「唐輪」髪の結い方の一つ。髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂きで二つの輪に作るもの(ここは実戦用で、本文及び挿絵で彼女は立烏帽子を被っているから、後頭部にそれを垂らしていると読むべきである)。鎌倉時代の武家の若党の髪形であった。「唐輪髷」(からわまげ・からわわげ)とも呼ぶ。後に児童や女の髪型となったそれのルーツではある。
「腹卷(はらまき)」中世甲冑の一様式。但し、中世初期の諸記録や軍記物語などに見られる腹巻は、右脇で引合せる甲冑であったが、後に名称に混乱が発生し、「胴丸」(どうまる)と称されていた背面を引合せ(背割(せわ)り)とする甲冑と名称が交替し、右引合せ様式を「胴丸」、背面引合せ様式を「腹巻」と称するに至った。大鎧(おおよろい)や胴丸より遅れて出現したもので、鎌倉時代以前の遺物にないことなどから、鎌倉末期頃の発生と推測される。軽快で機能性に優れ、引合せを背面に設け、しかも隙間が出来ることを特色とする。原則として兜・袖具を伴わない(非常に詳しい小学館「日本大百科全書」の頭の部分を主文に用いた)。但し、「吾妻鏡」の実朝暗殺の朝の大江広元の進言に、実朝に「腹卷」の着用を促すシーンがある(頼朝の東大寺供養の際に「腹卷」を着されたという前例を広元は添えた。しかし、文章博士源仲章が口を挟んで、「大臣大將に昇るの人、未だ其の式、有らず。」と咎めた結果、装着しなかった。私の若書きの小説「雪炎」を御笑覧あれ)。しかし、「吾妻鏡」は再編集版であって、成立時期は鎌倉末期の正安二(一三〇〇)年頃とされているから、寧ろ、この「腹卷」の出るが故に、その成立の後代であったことが判るとも言えよう。
「大口《おほぐち》」「大口袴(おほくちばかま)」。裾の口が大きい下袴。元は、平安以降に公家が束帯の際に表袴(うえのはかま)の下に用いたもので、紅又は白の生絹(すずし) ・平絹(ひらぎぬ)などで仕立ててある。鎌倉以後は、武士が直垂・狩衣 などの下に着用した。ここは無論、後者。
「今巴(《いま》ともへ)」言わずもがな、「巴」は女荒武者として知られた木曽義仲の妻。
「亥の尅(こく)」午後十時前後。]
藏人も、木より下(おり)て、跡につきて行くほどに、さも、おびたゞしき屋形《やかた》におし入《いり》、右往さをうに、おし破り、込み入ける程に、屋形の内に、思ひよらぬ事なれば、ねおびれたる男女(なん《によ》)ども、うちふせ、切りたふし、猶、奧へぞ切《きつ》て入《いり》にける。
亭(あるじ)の男と覺えて、大長刀(《おほ》なぎなた)を引《ひつ》そばめ、込み入《いる》ものを、散々に切りちらし、八方(はつぱう)を、なぐり立《たち》けり。
盜人(ぬす《びと》》共も肝をけし、表をさして崩れ出けるに、大將、これをみて、白柄(しらゑ)の長刀、かいこふで、既に馳せ向かふ。
「爰(こゝ)ぞ、能き所。」
と、藏人、
「つ」
と出て、袖にすがり、
「爰を、吾れにまかせ給へ。年比(としごろ)思ひかけ侍りつるに、よも御承引(せういん)あらじと、いひも出ださず、侍る。かくて戀しなんも同じ命(いのち)なれば、かれと討死して、君(きみ)が命に、かはり侍らん。」
とて、太刀、ぬきそばめ、はしりより、長刀(なぎなた)に、しとゞ、合付(《あひ》つけ)めぐりて、引《ひき》はづし、右の腕(かいな)を、打おとし、ひるみ、たゞよふ所を、やがて、首を打おとし、
「入《いれ》や、者共。」
と下知(けぢ)しければ、
「我れ、おとらじ。」
と亂入《みだれいつ》て、財宝、悉く、うばい取つて、手負を、かこみ、歸るをみれば、遙かに、もとの山奧(《やま》のおく)に、人もかよはぬ深谷(みたに)の洞(ほら)に入《いり》ける。
藏人も、おなじく、續きて入てみれば、洞の内、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]少《ばかり》行きて、さも、けつかうなる屋形(やかた)ありて、數(す)ヶ所の家數《いへかず》あり。
をのをの、をのが内に入、奪ひ來る財宝を、分かちあたへける。
藏人にも、人なみに、わかちとらしけるを、藏人、云やう、
「さきに申《まをし》つる、御命《おんいのち》にかはり奉(たてまつ)る者也。いかで、財產を、たうべき。」
と、いへば、外(ほか)の者共に與へとらしぬ。
かゝるほどに、をのがさまざま、かへりぬ。
女性(《によ》しやう)、藏人が手を取《とり》て、遙かに、いく間(ま)ともなく過ぎて、寢殿とおぼしき所にともない、
「さるにても、いかなる人にて、おはすぞ。」
と、とへば、
『今は。つゝみても、よしなし。』
と思ひ、初終(はじめをはり)を語りければ、
「さればこそ、只人(たゞ《びと》)とも覺えね。わが身は、都(みやこ)ちかき、こはたの里、何某(なにがし)と申《まを》者の娘成りしが、十七の春、忍びの男を吾れを戀ふる者にうたせ、その敵(かたき)を打ち、所(ところ)のすまひも叶(かな)はずして、そことなく、まよひ出、さきに討たれ候へつる法師にいざなはれ、此の所にかくれ、そのほか、あまたの女を、かどはし、かやうにあらぬ事に世を送り侍る。此の近邊に住居(すまひ)する山賊ども、皆、わがけんぞく也。吾れ、妻を持つ事、數(す)十人、然(しか)れども、心に叶ふ夫《をつと》、なし。みな、世を早くす。君(きみ)、かはらぬ心ましまさば、千代かけて契るべし。」
とて、酒など取り出し、食をすゝめ、
「夜(よ)も更けぬらん。」
とて、手をとりて閨(ねや)へいりぬ。
かくて、打ちとけ、いねけるに、すべて、此世の人とも、おぼえず、心地まどひておぼえければ、
『是れにぞ、おほくの者は、死にけん。』
と、おぼゆ。
[やぶちゃん注:「ねおびれたる」「寝おびれたる」「ねぼける」或いは「怯えて目醒める」の意。後者が相応しい。
「わが身は、都(みやこ)ちかき、こはたの里、何某(なにがし)と申《まを》者の娘成りしが、十七の春、忍びの男を吾れを戀ふる者にうたせ、その敵(かたき)を打ち、所(ところ)のすまひも叶(かな)はずして、そことなく、まよひ出」ここはちょっと文脈に躓く。私は、不埒にも私の閨に「忍び」込んだ憎っくき「男」があったの「を」、他に私「を戀ふる者に」命じて、その男を「うたせ」て、「その敵(かたき)を打」ったものの、そのことが露見して、実家に住まうておることも「叶(かな)はず」なって流浪した、という意味であろう。或いは、その忍び込んだ男は土地の相応の家の者であったからであろう。或いは、敵を討たせた彼女を恋した男が犯人として搦めとられ、女の父が真相を知って困ったからかも知れない、などと推量して、個人的には理解した。
「さきに討たれ候へつる法師」国忠が真っ二つに斬り殺した法師である。「今巴」は、この法師の死には、何らの憐憫も感じていないところが(即座に酒宴を開いているではないか)、やはり、この女、恐ろしい、と私は思ったことを述べおく。
「妻」「夫」の意。]
天性(てんせい)、此藏人は、人にすぐれて、すくやか者なりければ、更にまどはず、とし月を送りける。
女も、
『此人ならでは。』
と、世になき事、思へり。
藏人、つくづく思ひけるは、
『一旦、かく、世を世とも思はず、何に不足もなく、月日を心安く暮らすは、さる事なれども、さすがに氏(うぢ)ある家を、山賊・强盜(ごうだう)と呼ばれんも、口をし。ひそかに忍び出ばや。』
と思ひ、あらましを書き置きて、都をこゝろざして登りけるに、鳴海繩手(なるみなわて)にさしかゝりて、日も漸々(やうやう)暮れければ、
「熱田まで。」
と、心急ぎてゆくに、片原(かたはら)に人を葬(さう)する塚原あり。
[やぶちゃん注:「鳴海繩手(なるみなわて)」天白川左岸の愛知県名古屋市緑区鳴海町(グーグル・マップ・データ)であろう。江戸時代には鳴海宿(尾張藩は東の押さえとして重視した)として栄えた。「繩手」(田圃(道))とあるが、近代まで鳴海の東西は広大な田圃(道)である(「今昔マップ」)。「熱田」熱田神宮(グーグル・マップ・データ)は、そこから北西に五キロ弱の位置にある。]
いくらともなき白骨(はつこつ)ども、
「むくむく」
と起きあがりて、藏人にとりつくを、踏みたふし、けちらしけるに、限りもしらず、むらがり集まり、いやがうへに重なりければ、せんかた、つきはて、怖ろしくおぼえ、逸足(いちあし)を出して逃げたりけるが、漸々、熱田の御社(みやしろ)の前にかけ上《あがり》、ため息をつぎて、休(やす)らひ、夜(よ)も更けければ、社の拜殿に、しばらくまどろみけるに、曉方(あかつき《がた》)に、かの白骨ども、さも怖ろしき形(かたち)と成りて、をのをの、御階(みはし)の本《もと》によりて、
「此御社に、われわれ裟婆の敵(かたき)、こもり居(ゐ)侍る。哀れ、給はりて、修羅の苦患(くげん)をも、たすからばや。」
と、一同に訴へければ、暫くして、神殿の御戶(みと)を開きて、衣冠正敷(たゞしき)神人、出向(《いで》むか)ひて、
「汝らが申《まをす》所、その斷《ことわり》有《ある》に似たりといへども、此者、已に發心(ほつ《しん》)の志(こゝろざし)を、まふく。たとへ、下し給はるとも、よも修羅の業(ごう)は、やむべからず。とくとく、退散すべし。」
と仰ければ、
「此上は、力、なし。」
とて歸ると覺えて、夢、さめぬ。
藏人、思ふやうは、
『このとし月、よしなき事に組(くみ)して、多くの者の命を、とりぬ。今、目前に報ふべきを、明神、助けさせおはします事の、有がたさよ。』
と、感淚をおさへかね、夜も漸々(やうやう)明ければ、則ち、本髻(もとゞり)切《きつ》て發心し、諸國修行しけるが、猶も、むかし、覺束なく、東國行脚の折ふし、有りつる方を尋ねけるに、いつしか、屋形のかたちもなければ、誰(たれ)にとふべきよすがもなくて、草のみ茂りて、その所とも、みえざりければ、
あはれなりこゝはむかしの跡かとよ見ざりし草に秋風ぞふく
盛者必衰無常迅速の斷《ことわり》、始めておどろくべきにあらずといへ共、一生の間に六道を經たる心地して、猶も、諸國を、めぐりける。
我が一期(ご)の行業《ぎやうごふ》を思ふに、惡事をのみ好みて、殖《うゑ》たる善根、なし。よはひ已にたけて、冥途の旅(たび)に近づきぬ。何事を賴みてか、黃泉(くわうせん)の道の糧(かて)とせん。始めて習ひおこなふとも、佛法の理(り)もさとりがたし。いかなる計(はかりごと)をしてか、淨土(じやうど)の因(ゐん)ともせまほしくて、つらつら、案じけるが、
『世に、人の難義をすくふほどの、大きなる善根、なし。山賊・强盜は、人を殺し、世に恐るゝ事、上なき事なれば、我れ、强盜の身にまじわりて、人を助《たすく》る計(はかりごと)をして、ひそかに念佛して、往生の素懷(そくわい)をとげん。』
と思ひしたゝめて、京都にのぼりて、
「强盜にまじはらん。」
といふに、さる名人(めいじん)なれば、悅びて、伴ひける。
扨、人のもとへ入《いる》時は、眞先(まつ《さき》)にうち入《いり》て、
「しばし、しばし。」
とて、或は、人をにがし、物をかくさせて、うわべは、はしたなくみせて、ひそかに人を助けけり。
かくして、物を分くる時は、
「入事《いること》あらば、申《まをす》べし。當時は、用、なし。」
とて、物を、とらず。
友も、恥ぢ、思ひけり。
かくて、念佛の功、他念、なかりけり。
有る時、からめとられて、檢非使《けびいし》のもとに預け、いましめらる。
奉行の者共の夢に、金色(こんじき)の阿彌陀の像をしばりて、柱に結ひ付たりとみるに、驚きて、あやしく思ひて、先《まづ》、此法師を解きゆるして、
「御坊の强盜する心は、いかに。」
といふに、
「御不審にや及び候。つたなく不道(ふだう)にして、只、物のほしさにこそ仕候《つかまつりさふら》へ。」
といへば、
「唯、すぐに、いはれよ。用ありて、とふ也。」
といへども、只、おなじ體(てい)にぞ、たびたび、こたへける。
檢非使、夢の樣を語りて、
「あまりのふしぎさに、かく問ひ侍る。」
といへば、此法師、
「はらはら」
と泣きて、
「もとは子細あるものゝふにて候へども、何となく、後世(ごぜ)の事、恐ろしく覺え、武勇のみちに馴れたる故、『同じくは、此道を以て善根ともせばや。』と思ひ侍る。强盜の、徒(いたづら)に人を殺し、幾許(そくばく)の物を掠(かす)めとる事、不便(ふびん)におぼへ、命をも助け、物をも、かくさせてまはり、此外は、一向念佛を申さむと思ひ立て、かゝる業《ごふ》をなん、仕るなり。此事、心斗りに思ひよりて、人にも語る事、侍らざりしが、扨は。佛の御心に叶ひては、し候にや。」
と、淚を流し、隨喜しける。
此義、上に奏聞(そうもん)して、ゆるし給ひけるが、其後は、終るところを、しらず。
その、群類に交じはりて、衆生を濟度しけるも、ひとへに菩薩の誓願に、ひとし。誠(まこと)にきどく成《なり》し事共也。
[やぶちゃん注:最後の展開は。ちょっと珍しく面白いと思う。
「あはれなりこゝはむかしの跡かとよ見ざりし草に秋風ぞふく」和歌嫌いなれば、原拠や参考歌は不詳。]
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