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2022/06/13

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「幽靈の手足印」(2)

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年九月発行の『人類學雜誌』三十巻第九号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本文中の仏典引用は「大蔵経データベース」で経典原文を確認したが、一部に表記の誤りがあり、また、熊楠は途中を一部、略して改変している。最小限で誤りを訂したが、底本と比較すれば一目瞭然なので、その箇所は特に指示しない。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、他に比してやや長く、注も必要なので、底本の三段落で分割して公開する。

 

 扨予幼少の時亡母に聞たは、攝津の尼ケ崎の某寺堂の天井に夥しく幽靈の血付の足跡が付たのを見た。戰爭とか災難とかで死で浮ばれぬ輩が天井の上を步く足跡と聞たと云れた。幽靈が天井の上を步くなら下から見える筈が無いから、幽靈の足跡に限つて板を透して下に現はれるのだらうか。但し近松門左の戲曲傾城反魂香中之卷「三熊野かげろう姿」に、狩野元信己が繪きし三山の襖戶に見入る内、其神遊んで彼の境に入り「我畫く筆とも思はれず、目塞ぎ南無日本第一大靈驗三所權現と伏拜み、頭を擧げて目を開けば南無三寶、先に立たる我妻は、眞逆樣に天を蹈み兩手を運んで步み行く、はつと驚き是れ喃、淺ましの姿やな、誠や人の物語、死したる人の熊野詣では、或は逆樣後ろ向き生きたる人には變ると聞く」と言ふ處有り。幽靈が逆樣に步くと云話明和九年に出た、武道眞砂日記三、又其より前團水(四十九歲で正德五年歿す)の序有る一夜船貳にも出居るが、其は逆磔に懸られた女が逆まに步んだのだ。逆磔に懸りもせぬ世間並の死を遂た者の靈が逆樣に天を踏で步むてふ俗說は本佛敎から出たのだらう。例せば正法念處經三に、何者邪行、所謂有人、破他軍國、得婦女已、若或自行、若自取已、給與多人、若依道行、若不依道、彼人以是惡業因縁。身壞命終、於惡處合大地獄、生忍苦處云々。閻魔羅人、懸之在樹、頭面在下、足在於上、下燃大火。燒一切身、從面而起云々、其他地獄の衆生倒懸の苦を受くる由說た經文頗る多い。耶蘇敎徒も中古倒懸地獄有りと信じたは Paul Lacroix, ‘Military and Religous Life in the Middle Ages,’ London,Bickers & Son, p.485 なる十二世紀の古圖を見れば判る。西晉の安法欽譯阿育王傳四に、摩突羅國の一族姓子、尊者優波毱多に從ひ出家せしが、眠を好んで得道せず。林中に坐禪せしむるに復た眠る。尊者化作七頭毘舍闍、頭毘舍闍倒懸空中、卒覺見已極大怖畏、尊者言、毘舍闍者能害一身、睡眠之患害無量身、之を聞て悟り阿羅漢果を得たと見ゆ。毘舍山闍(ピサーチヤの音譯、Eitel, ‘Hand-Book of Chinese Buddhism,’ 1888, p.118 に、歐州のヴアムパヤー、吸血鬼に當つ)、名義集鬼神篇二四に、此云啖精氣、噉人及五穀之精氣、梁言顚鬼と有るから足を上に頭を下に顚倒して步く鬼で、吾邦の見越し入道に較近い。それから苻秦の時衆現三藏が譯した鞞婆沙論一四に、人死して生地獄者、足在上、頭向下、生天上者、頭上、足在下と有れば、地獄の道中する亡魂は皆な逆立ちに步み行くのだ。斯く地獄の衆生も毘舍闍鬼も、地獄へ生るべき中陰の衆生も、皆倒懸又逆立して步むとしたには種々原因もあらうが、槪括して考へると、ヴヲルテールが、神が神の身相に擬して人を作つたでなく、全く人が人體を摸して神を造つたと云へる如く、人が人や鳥獸を倒懸して殺戮する事有るより、地獄にも倒懸の刑有りとしたなるべく、又蝙蝠晝間暗窟中に倒懸し、その時窟中に昔死人を葬つた事夥しい處から耶蘇敎の畫に惡鬼に蝙蝠の翼を添ふる如く、インドでは毘舍闍が墓塚に棲で逆立して步み人の精氣を食ふと云出たのだろ(Spencer, ‘Principles of Sociology,’ 3rd ed, vol.i, pp.329-331 參照)。扨善因乏しくて浮まれぬ亡魂が足を天に向けて步むと云ふは、無論、上述の二理由より出たものの、予が人類學雜誌二九一號三三二頁に述べた通り、淋しい山中の濃霧に行人の反影が逆さまに映つたり、又不二新聞大正三年一月十八日分に說た如く、大地の微動等、一寸人が感覺せぬ小震盪に伴れて、或家の天井が異樣に鳴る抔から起つた事と思ふ。從つて天井板に手足の跡に多少似た紋斑が見えると其れを幽靈が逆立して步いた跡と信ずるに及んだゞらう。

[やぶちゃん注:「攝津の尼ケ崎の某寺堂の天井に夥しく幽靈の血付の足跡が付たのを見た」この寺、尼ケ崎という限定では、不詳。

「近松門左の戲曲傾城反魂香」(けいせいはんごんかう)「中之卷」』「三熊野かげろう姿」に、狩野元信己が繪きし三山の襖戶に見入る内、……』近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、宝永五(一七〇八)年、大坂竹本座初演。狩野元信の百五十回忌を当て込んで書かれた企画物で、絵師狩野元信(文明八(一四七六)年?~永禄二(一五五九)年:室町時代の絵師。狩野派の祖狩野正信の子)と恋人「銀杏の前」(いちょうのまえ)の恋愛に、正直な絵師又平(「吃又」(どものまたで知られる戦国末から江戸初期の絵師岩佐又兵衛がモデル)の逸話と、名古屋山三(さんざ:桃山時代のかぶき者として知られ、出雲のお国の愛人となって、「お国歌舞伎」の演出家と役者を兼ねたと伝えるが、架空の人物との説もある。実在説では、加賀藩名越家の出で名越山三郎と称し、天正一八(一五九〇)年、蒲生氏郷の「奥州攻め」に小姓として従ったが、氏郷の没後、浪人したと伝えられ、慶長八(一六〇三)年に没したとされる。「鞘当(さやあて)」などの歌舞伎に好男子として以下の不破と一緒にしばしば登場する)と不破伴左衛門(モデルは豊臣秀次に仕えて寵愛された尾張生まれの美少年の小姓不破万作とされる)との争いから来るお家騒動を絡ませたもの。後に歌舞伎でブレイクした。詳しくは参照した当該ウィキや、そのリンク先を見られたい。なお、熊楠は「中之卷」の「三熊野かげろう姿」は襖絵を前にしての道行の段であるが、これは「竹本筑後掾正本」版のものである。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一三(一九二四)年春陽堂刊の「近松門左衞門全集」第五巻のこちらの左ページに活字化されてあり、当該部は後ろから四行目から終行までがそれである。以下の読みはその本文及びルビを参考にした。

「靈驗」「りやうげん」。

「伏拜み」「ふしをがみ」。

「頭」「かうべ」、

「開けば」「ひらけば」であろう。

「南無三寶」「なむさんぼう」。

「立たる」「たつたる」。

「我妻」「わがつま」。

「眞逆樣」「まつさかさま」。

「蹈み」「ふみ」。

「是れ喃」「これなう」。「喃」は現代仮名遣「のう」で呼びかけ・同意を求める感動詞。もしもし。

「熊野詣で」原本を見ると、「では」ではなく「は」しか送っていないから、「くまのまうで」の「で」を送ったものと見做す。

「云話」「いふはなし」。

「明和九年」一七七二年。

「武道眞砂」(まさご)「日記」は月尋堂作の浮世草子。「文武さゞれ石」の改題本。月尋堂(?~正徳五(一七一五)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作者。後者では「鎌倉比事(けんそうひじ)」が知られる。当該話は巻之三冒頭にある「紅葉(もみぢ)の雨にぬれたが手抦(てがら)【おもひ入ちがひたる古今集の歌 時ならぬ山吹は儀兄弟の仲(なか)だち】である。国立国会図書館デジタルコレクションの明治三六(一九〇三)年博文館刊「珍本全集」下のここから読め、当該箇所はここ(左ページ一行目「すでに川岸をおりける時岸のうへに何ものにや。女のさかばり付ありて。ふく風身にしむとおもふに、此はり付木をはなれて。さかさまにあゆみをり。我をみてたのみ度といふ」とある)。入間川で逆立ちした女の幽霊に遭遇したのである。逆立ちする幽霊の話は、結構、ポピュラーで、私の怪奇談集内にも枚挙に遑がない。一つだけ挙げておくと、絵入りの「諸國百物語卷之四 一 端井彌三郎幽靈を舟渡しせし事」がよかろう。そちらの話では、殺害されて逆さに埋められた結果ではある。なお、陰気の亡者が通常の陽気に人間とは行動が逆転するというのは、如何にも判り易い話柄とは言える。

「團水(四十九歲で正德五年歿す)」没年は誤り。北条団水(だんすい 寛文三(一六六三)年~正徳元(一七一一)年)は俳人・浮世草子作者。京都生まれで、井原西鶴の門人で、師の遺稿を刊行した。

「一夜船」(ひとよぶね)「貳にも出居」(いでを)「る」著者団水が没した翌年に刊行された怪奇談集。改題本に「怪談諸國物語」がある。当該話は、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和三(一九二八)年博文館刊の「珍本全集」前の巻二の「第二 詞(ことば)をかはせし磔女(はりつけをんな)」である。これらの復讐型の逆立ち女の怪談はかなりの人気があり、多くの怪奇談集にごろごろしており、私などは食傷気味の感さえある。

「遂た」「とげた」。

「本佛敎から」「もと、ぶつきやうから」。

「正法念處經三に、何者邪行、……」訓読を試みる。

   *

何者(いか)なる邪行(じやぎやう)ぞや。謂ふ所は、人、有りて、他(ほか)の軍國を破り、婦女を得(え)已(をは)り、若(もし)くは或いは自ら行ひ、若くは自ら取り已(をは)りて、多くの人に給與(きふよ)し、若くは道に依りて行ひ、若くは道に依らずば、彼(か)の人は是の惡業の因緣を以つて、身、壞(やぶ)れ、命、終はり、惡處合大地獄(あくしよがふだいぢごく)に墮ち、忍苦の處に生まる云々。閻魔、人を羅(あみ)し、之れを懸けて、樹頭に在(お)く。面(おもて)は下に在りて、足は上に在り。下より大火を燃やし、一切の身を燒き、面よりして起(はじ)まり云々。

   *

「惡處合大地獄」は「八大地獄」の「衆合地獄」と同じであろう。殺生・偸盗に邪淫が加わって落とされる地獄。私の好きな「刀葉林(とうようりん)地獄」があることで知られる。

Paul Lacroix, ‘Military and Religous Life in the Middle Ages,’ London,Bickers & Son, p.485なる十二世紀の古圖を見れば判る」フランスの作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)の英訳本「中世の軍事的宗教的生活」。原本は‘Vie militaire et religieuse au Moyen Áge et à l'époque de la Renaissance’(「中世とルネッサンス時代の軍事的宗教的生活)。英訳本は「Internet archive」のこちらで見られる。その図を保存したものを下に掲げておく。最上段に逆さ吊りにされた地獄の亡者が、複数、描かれてある。

 

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「西晉」二六五年から三一六年。

「安法欽」古代イランの王朝パルティア(紀元前二四七年~紀元後二二四年)出身の僧で、二八一年に洛陽に来たって、この「阿育王傳」等を訳出した。

「摩突羅國」「まとらこく」。古代インドの都市国家マトゥラー。デリーの南方のガンジス川の支流ヤムナー川の中流西岸にあり、古くからの宗教都市で「神々の街」としてローマにも知られていた。

「優波毱多」「うばきくた」。「優婆崛多」(うばくった)に同じ。サンスクリット語の「ウパグプタ」の漢音写。付法蔵(釈迦から付嘱された教え(法蔵)を次々に付嘱(ふぞく)し、布教していった正法時代の正統な継承者とされる人々。「付法蔵因縁伝」では二十三人を挙げるが、「摩訶止観」では阿難から傍出した末田地(までんじ)を加えて二十四人とする)の第四。紀元前三世紀頃の人。古代インドのマトゥラーの崛多長者(くったちょうじゃ)の子とされ、商那和修(しょうなわしゅ)に師事した。衆生教化第一とされ、「無相好仏」とも呼ばれた。提多迦(だいたか)に法を付嘱した(日蓮宗関連サイトの「教学用語検索」を使用した)。

「眠」「ねむり」。

「尊者化作七頭毘舍闍、……」訓読する。

   *

尊者、化(け)して七頭の毘舍闍と作(な)り、空中に倒懸(たうけん)す。卒(にはか)に覺めて、見已(みをは)るに、極めて大きに怖畏す。尊者言はく、「毘舍闍は、能(よ)く一身を害(そこおな)ふ。睡眠の患(わざはひ)は無量身を害ふ。」と。

   *

「無量身を害ふ」自身の身だけでなく、寧ろ、より大切な、一切の衆生を済度して浄土に往生させようと願う心を「無量身の願(がん)」と呼ぶ。「毘舍闍」(びしやじや(びしゃじゃ))ヒンズー教の「ピシャーチャ」が仏教に取り入れられたもの。「毘舍闍鬼」のほか、足が反り返っているとされるところから、「反足」(はんそく)「反足羅刹」(らせつ)」、人肉或いは人の精気を食べるとされることから、「食肉」(じきにく)「食血肉鬼」「癲狂鬼」(てんきょうき)など、様々な名前で仏典に登場する。「八部鬼衆」に「持国天」の眷属として、また、「二十八部衆」の一人として列されるほか、「胎蔵界曼荼羅」の外金剛部院(最外院)では男性形の「ピシャーチャ」を「鬼衆」(きしゅう)、女性形の「ピシャーチー」を「鬼衆女」(きしゅうにょ)として南方に配置する(サイト「神魔精妖名辞典」のこちらに拠った)。

Eitel, ‘Hand-Book of Chinese Buddhism,’ 1888, p.118」ドイツ生まれのプロテスタントで、中国で著名な宣教師となり、その後、イギリス領香港で官吏となったエルンスト・ジョン・アイテル(Ernest John Eitel 一八三八年~一九〇八年)。「Internet archive」のこちらで、一九〇四年版だが、当該箇所は変わらずにあった。PIS'ÂTCHA」の見出しで、「略舍闍」「臂奢柘」「畢舍遮」「略舍遮」の漢字を当て、

   *

A class of demons (vampires), more powerful than Prêtas. The retinue of Dhritarâchṭra.

   *

訳すと、「プレイタよりも強力な悪魔(吸血鬼)の位階。ドゥリタラーシュトラの配下。」であろう。「プレイタ」(preta)で原文は複数形。本来はインド神話に於いて「彷徨(うろつ)く亡霊」とか「往生していない幽霊」(wandering or disturbed ghost)を指す。無論、サンスクリット語由来。単に「鬼」とも漢訳するが(中国では本来の「鬼」という漢字はフラットな「死者」を意味する文字である)、後、仏教の六道輪廻思想の餓鬼道の餓鬼に対して、これが当てられてしまった。また、「ドゥリタラーシュトラ」は四天王の一人「持国天」を指す。

「名義集」(みやうぎしふ)は「翻譯名義集」が正式書名。南宋代に書かれた一種の梵漢辞典。七巻或いは二十巻。法雲編。一一四三年に成立した。漢訳仏典の重要梵語二千余を六十四目に分類し、各語について訳語・出典を記す。

「此云啖精氣、噉人及五穀之精氣、梁言顚鬼」「此(こなた)にては、『精氣を啖(くら)ふ』と云ふ。人及び五穀の精氣を噉(くら)ふなり。梁(りやう)にては『顚鬼(てんき)』と言ふ。」。この「梁」は唐末の混乱期に唐朝廷を掌握した軍閥の首魁朱全忠が、九〇七年に唐の哀帝から禅譲を受けて中国中央部に建国した五代の最初の王朝後梁。都は開封(汴(べん)州が府に昇格した地名)。南北朝時代の後梁(西梁)と区別して「朱梁」とも呼ぶ。

「見越し入道に較」(やや)「近い」私には、本邦では珍しい巨人妖怪「見越し入道」に、これが近似しているとは思われない。ただ、当該ウィキに、『見越し入道に飛び越されると死ぬ、喉を締め上げられるともいい、入道を見上げたために後ろに倒れると、喉笛』『をかみ殺されるともいう』という記載を読みながら、ハタと膝を打った。「見越し入道」が、見越しながら、ぬっと頭部を前方に現わした時には、寧ろそれはつり下がった巨人のように見えるであろうこと、また、後ろに反ってそ奴を見続ける時は、一定以上の角度で反り返ったところから、見かけ上の上下が反転する錯覚を起こし、その時、「足を上に頭を下に顚倒して步く鬼」という認知がなされると思ったのである。

「苻秦」(ふしん)「の時」五胡十六国時代の一つである前秦(三五一年~三九四年)。氐(てい)族(紀元前二世紀頃から中国西北部に居住した半農半牧のチベット系民族)の中の有力豪族苻(ふ)氏の族長苻健が初代皇帝となった。

「衆現三藏」以下の漢訳経典は「大蔵経データベース」の画像を見ると、原著者が「尸陀槃尼撰」とあり、漢訳者としてを「符秦罽賓三藏僧伽跋澄譯」とあって、この訳は三八三年に成立していることが中文サイトで判った。罽賓(けいひん)は嘗つて北インドのカシミール地方或いはガンダーラ地方に在ったとされる国の名であり、その出身の渡来僧で、さらに「衆現」は信頼出来る学術論文中に『僧伽跋澄(衆現)』とあったので、彼の別名であることが判った。

「鞞婆沙論」「ぎばしやろん」或いは「びばしやろん」。

「人死して生地獄者、足在上、頭向下、生天上者、頭上、足在下」「人、死して、地獄に生まるれば、足は上に在り、頭は下に向(むか)ふ。天上に生まるれば、頭は上にして、足は下に在り。」。

「生るべき」「うまるべき」。

「ヴヲルテール」(Voltaire)はかのフランスの哲学者・文学者・歴史家で啓蒙主義を代表する人物。本名はフランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet 一六九四年~一七七八年)。

「身相」「しんさう」。

「摸して」「もして」。

「墓塚に棲で」「はかつかににすんで」。

「云出た」「いひだした」。

Spencer, ‘Principles of Sociology,’ 3rd ed, vol.i, pp.329-331」エディションが違うかも知れぬが、「Internet archive」の当該部329ページ。但し、一致する内容はここより少し後の方に多い)に概ね一致する記載が読める。

「浮まれぬ」「うかまれぬ」。

「予が人類學雜誌二九一號三三二頁に述べた通り、淋しい山中の濃霧に行人の反影が逆さまに映つたり」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)」を指す。原初出で読みたければ、「j-stage」のここPDF)の七~八コマ目がそれである。私の全文縦書注釈版(PDF)はこちら

「不二新聞大正三年一月十八日分に說た如く、大地の微動等、一寸人が感覺せぬ小震盪に伴」(つ)「れて、或家の天井が異樣に鳴る抔から起つた事と思ふ」これは大正三(一九一四)年一月十七日から二十日に亙って『日刊不二』に連載した固定連載コラム「田邊通信」に載せた「櫻島爆發の餘響」である。サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(一九七三年平凡社刊「南方熊楠全集6(新聞随筆)」底本)の「桜島爆発の余響」を見られたい。本篇とのダブりもあるが、コラムで熊楠節爆発で面白い。お勧めである。]

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