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2022/06/04

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「葦を以て占ふこと」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正三(一九一四)年十一月発行の『鄕土硏究』二巻九号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。なお、平凡社「選集」では本篇を「一」とし、その後に「二」として、三年後の大正六年二月発行の同誌四巻十一号に発表した本論考の続編が載るが、これは底本では「俗傳」パートの最後に同題で追加収録されている。短く、分離する価値がないので、特異的にここで一緒に電子化することとした。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     葦を以て占ふこと (鄕硏二卷一九六頁)

 

 諏訪神社で元日に薄を供して占ひを行ふた記事に付て連想せらるるは、吾邦に古く葦を以て占ふ式があつたらしい-件だ。新撰姓氏錄卷十、和泉國皇別葦占連、大春日同祖、天足彥押人命後也。和泉國神別巫部連、又大和國に在りし漢靈帝の後と云へる石占忌寸などの例で、葦占を世職としたから葦占連と云つたらしい。其頃どうして葦で占ひ、又葦の何れの部を占ひに使ふたか分らぬが、若くは其遺風かと思はるゝ者後世まで行はれた證は、甲子夜話續篇卷九十七、享保三年東南洋の無人島に流され、十一人の内三人生存して二十二年目に本國遠州へ歸つた舟人の口上書に、二十二年目に大阪船一艘十八人乘りて又其島へ漂着し共に住んだが、船頭萬一を期して乘り出さば本國に歸ることもあらうと云ふに一同贊成し、「各々垢離を取り、伊勢大神宮を始め奉り、三島・秋葉山・伊豆・箱根其他諸神諸佛を拜し大願を掛け、葦の葉に朔日より晦日までの日を書付け、御祓を以て之を摩で候に、葦の葉一枚上り候に付き見候へば、九日と申候附け有り」。乃ち九日の朝出船して終に八丈島へ八日日に着したとある。

     (大正三年鄕硏究第二卷第九號)

[やぶちゃん注:「選集」では、添え辞が標題の後の改行下方インデント二行で、『川村杳樹「片葉蘆考」参照』『(『鄕土硏究』二巻四号一九六頁)』とある。川村杳樹というのは、柳田國男のペン・ネームの一つで、広く「七不思議」等として各地に見られる「片葉(かたは)の蘆(あし)」の考証論考である。そこで、柳田が触れているのが、本篇冒頭で熊楠が示した「諏訪神社で元日に薄を供して占ひを行ふた記事」である。当該部を以下に示す(「ちくま文庫」版全集第七巻に拠った)。

   *

諏訪の穂屋野[やぶちゃん注:「ほやの」。]の神事は近世までも厳重に行われていた。毎年旧暦の七月二十六日に、社から一里ばかり離れた御射山(みさやま)という処に往って、山野の尾花を苅り取って小屋を葺(ふ)き、その中に入つて精進をする。一の小屋は神職、二の宇(う)は社僧、三の宇は巫女の居る處と定める。薄の穂を以て葺き渡すがゆえにこれを穂屋と名づく。市人(いちびと)も各穂屋を構えて雨露を凌(しの)ぐ便とすと云ふ(遊囊賸記(ゆうのうしょうき)所引木曾乃山布美(きそのやまぶみ))。一本の薄を苅り取って神前に立てる儀式は、穂屋の花やかなる光景に消押(けお)されて人が注意しなくなったが、この神事の中心はむしろこれにあったようである。たとえば『諏訪旧跡志』が引用した上社記に、七月二十六日は五官の祝(ほふり)等前宮溝上社に詣でて芒藻(ぼうそう)の幣ありといい、同二十七日には毛髪萱穂を以て奉幣ありとも見えている。さらに遡っては『諏訪明神絵詞(えことば)』の祭礼の巻にも、正月元日深更(しんこう)に及びて御室に還り、まず萩組の座にして神長御占を行う。薄の穗一束掌内に奉る。大祝(おおほふり)対して誦文(じゅもん)あり、外人に聞かしめずとも書いてあつて、薄を神代とする由來の久しきことを示している。これがすなわち片葉の蘆の真の根原かと自分は思う。

   *

「新撰姓氏錄」弘仁六(八一五)年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の名鑑録。

「葦占連」「選集」に従うと(現代仮名遣)、『あしうらのむらじ』。

「天足彥押人命」同前で『あめたらしひこおしひとのみこと』。

「巫部連」同前で『みかなぎべのむらじ』。

「漢靈帝」後漢の第十二代皇帝霊帝。在位は一六八年から一八九年。

「石占忌寸」同前で『いしうらのいみき』。

「甲子夜話續篇卷九十七、享保三年東南洋の無人島に流され、……」事前にこちらで全文を電子化しておいた。そこで注しておいたが、静山の「享保三年」というのは、享保四年の誤りなので、注意されたい。

 以下、冒頭注で述べた「俗傳」パートの最後に載る同題の追加記事。実は分離して「俗傳」の一番最後に載ることには、かなり後になって気がついたので、今は、本文内の表記注記のみに留めさせて貰う。悪しからず。

 

 

     葦を以て占ふこと (鄕硏二卷五四二頁參照)

 

 其後予往年大英博物館で抄し集めた物を見た中に、一八四〇年板ベンガルの亞細亞協會雜誌卷九グランジ中尉實踐記に、印度のナガ人は槍で軟かい蘆を削つて占ふ。蘆の薄片が落ちると反對の方角に向ひ事を行へば幸あり。隨つて薄片が多く落ちる方が、それだけ多く不吉と判ずるとあつた。又バルフオールの印度事彙第三版二卷五四八頁に、印度のクハムプチ人小さい火と蘆一把を持つて占ふ。先づ數節ある一本の蘆を炙る[やぶちゃん注:底本も「選集」も「灸る」であるが、これは「炙る」の誤字と断じて訂した。後も同じ。]と一つの節が爆裂し、破片の兩端に細かい纖緯[やぶちゃん注:「選集」では『繊維(すじ)』とする。]が多く出る。其を仔細に檢め收去り[やぶちゃん注:「選集」に従ええば、「あらためとりさり」。]又一本炙る。一時ばかり斯やつて[やぶちゃん注:「かうやつて」。]、さて一同が待つ所の酋長は三四日内に來ると判じたのを、ハンネイ大佐が目擊したとある。

      (大正六年鄕硏第四卷第十一號)

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