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2022/06/28

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。] 

 

      二、

 〇小兒の陰腫を蚯蚓の所爲とし、火吹竹を逆まにして吹き、又蚯蚓一匹掘出し、水にて洗ひ淸めて放つときは治ると云ふ。

[やぶちゃん注:「陰腫」「いんしゆ」。陰茎が腫れること。不潔な場所で立小便してはいかんということで亡き母もよく言われた。今、考えれば、これもフレーザーの言う類感呪術であろう。太いミミズは炎症を起こしたそれにミミクリーする。

「所爲」「選集」は『しわざ』と振る。]

 ○見た者烏といふ諺あり。烏の如く欲き物を斟酌なく進んで取る事を云ふ。日高郡由良浦の人言ふ、烏が食物を獲て、雲を目標に其下に置て、後に食を求めに往き、還つて前の食物を求めると、雲が動き去て、その食物を失ふて仕舞ふと。

[やぶちゃん注:「見た者烏」「みたものか(が)らす」だろうが、こんな話は私は聴いたことがない。カラスは賢い。こんなことはあるまいよ。

「欲き」「ほしき」。

「日高郡由良浦」現在の日高郡由良町(グーグル・マップ・データ)由良港がある湾(国土地理院図)。

「獲て」「えて」或いは「とりて」「とつて」。

「置て」「おきて」或いは「おいて」。

「去て」「さりて」或いは「さつて」。]

 〇田邊あたりで、人死して四十九日目に餅つく、其音を聞て、死人の靈魂が、家の棟の上を離れ去る。この餠を寺え供え、鹽を付けて食うふ故に、鹽と餅と竝べ置くを忌む(昨年八月人類學雜誌予の鹽に關する迷信參照)。

[やぶちゃん注:「昨年八月人類學雜誌予の鹽に關する迷信」先行する「俗傳」パート内の『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鹽に關する迷信」』。]

 〇同じく田邊あたりの諺に、栗一つに瘡八十と云ふ。黴毒その他の腫物に、栗の毒甚しきをいふ。南瓜、蓮實亦「あせぼ」等の腫物に惡しと云ふ。

[やぶちゃん注:「瘡」「かさ」。

「黴毒」「ばいどく」。梅毒。

「腫物」「しゆもつ」。劇症型の重い腫れ物。

「南瓜」「かぼちや」。「選集」は『とうなす』と振る。恐らくはフレーザーの言う類感呪術で、保存したカボチャの表面は、ひどい「あせぼ」(汗疹(あせも))のそれに似ている。

「蓮實」「はすのみ」。これもフレーザーの言う類感呪術で、ハスの花托(かたく)の蜂の巣状に実がある、その様のミミクリーである。]

 〇田邊で齒痛を病む者、法輪寺と云ふ禪寺の入口の六地藏の石像に願を立て、其前へ豆を埋め置くと、豆が芽を出さぬ内は齒が痛まぬ。因て芽が決して出ぬ樣に、炒豆を埋め立願する、丸で詐欺其儘な立願だ。

[やぶちゃん注:「法輪寺」和歌山県田辺市新屋敷町にある曹洞宗撃鼓山(ぎゃっくざん)法輪寺。六地蔵は現存する。同寺公式ブログ「法輪寺山内のつれづれ」の「お地蔵さんのよだれかけ」を参照されたい。地図のサイド・パネルの寺の説明版にも熊楠のことが記されてある。なお、同寺の本尊は観世音菩薩で、その脇仏の一つも地蔵菩薩である(公式サイトのこちらを見られたい。なお、次の条の和歌山藩重臣牧野兵庫頭の墓(五輪塔・田辺市重要文化財の写真もあるので見られたい)。]

 〇此法輪寺の墓地の棟樹の下に、牧野兵庫頭の墓有り、銘字磨滅して殆ど讀み得ぬ。賴宣卿の時此人一萬五千石を領す。彼卿の母方三浦が米で一萬石を稟け、今川家以來の舊家久能が伊勢の田丸城主として一萬石領せしに比べては、中々の大分限だつた。帝國書院刊行「鹽尻」卷四三に、紀公に寵用され、男と成ても權勢有し者が、牧野兵庫男色より出頭して其右に出るを不快で、公に最期の盃を請ひ、高野に隱れた話を載せ居る。依て考ると、兵庫は男寵より出頭して、破格の大身と成たらしい。然るに大科に付き慶安四年新宮へ預けられ、承應元年四月田邊え移され、十一月十日病死、月霜院殿圓空寂心大居士と號す(田邊町役場古記錄と、法輪寺精靈過去帳を參取す)。所謂大科とは、賴宣卿由井正雪の亂の謀主たりし嫌疑を、兵庫頭が一身に引受たのだと云ふ。其時賴宣卿謀主たりと評判有りし事は、常山紀談等にも屢々見え、執政が賴宣卿を詰る面前で、罪を身に受て自害し果てた侍臣のことも世に傳え居れり。一六六五年ローマ出板、フィリツポデマリニの「東京及日本史譚篇」卷一、十五頁にも、明曆の大火は、家光薨後二年固く喪を祕し有りしに、家綱の叔父亂を作ん迚作したとも、天主敎徒が付たとも、西國で風評盛んだつたと載て居る。この叔父とは多分賴宣卿で、家光在世の時より每も疑はれて居たから、正雪亂の砌も重き疑を受け、牧野氏が其咎を身に蒙りて幽死した者と見える。予の知れる絲川恒太夫とて、七十餘歲の老人、先祖が兵庫頭に出入りだつた緣に依て、代々件の墓を掃除する、他人が掃除すると忽ち祟つたと云ふ。昔より今に至て土の餅を二つ、恰も檐で荷ふ體に串の兩端に貫き、種々雜多の病氣を祈願して、平癒の禮に餅一荷と稱して捧ぐるのが、墓邊に轉り居る。察する所ろ、兵庫頭は生存中至つて餅を好たので、此樣な事が起つたのだらう。去年二百六十年忌に、子孫とても無き人の事、殊に才色を以て英主に遭遇し大祿を食だ人の忠義の爲に知らぬ地に幽死し、家斷絕して土の餅しか供ふる者無きを傷み、寺の住持と相談して、形許りの追善を營んだ。

[やぶちゃん注:「棟樹」「せんだんのき」。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。「栴檀」とも書くが、香木のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album とは全くの別種である。

「牧野兵庫頭」牧野兵庫頭長虎。下総国関宿藩初代藩主牧野信成(のぶしげ (天正六(一五七八)年~慶安三(一六五〇)年)の弟山成(たかしげ)の子孫で、初代山成の時、越前松平家から紀州徳川家に転属し、紀州藩の初期の家老として重きを成した。

「賴宣卿」徳川家康の十男徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)。当該ウィキによれば、「慶安の変」の際、『由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため、幕閣(特に松平信綱・中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ』、実に十年もの間、紀州へ帰国出来なかった。また、『同時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また、将軍家光の叔父で頼宣の兄である尾張藩主徳川義直が死去し、格上の将軍家綱が幼少であることから』、彼が『徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格』も災いして、『幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。その後』、「慶安の変」に『絡む疑いは晴れて無事帰国し』ている。その『疑惑が出た際、幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があれば』、『ただちに捕らえるつもりで』、『屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書』を『前に正雪との関係を詰問したが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした』。『外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度』、『騒乱を迎え、当該大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけがないだろう』、『という意味である』とある。

「彼卿の母方三浦」頼宣の母の実父は正木頼忠で、実兄は紀州藩家老の三浦為春。彼は慶長八(一六〇三)年に妹於万が産んだ家康の子長福丸(後の頼宣)の傅役(もりやく)となっている。

「稟け」「うけ」。

「今川家以來の舊家久能が伊勢の田丸城主として一萬石領せし」紀州藩田丸城代家老久野家初代当主久野宗成(くのむねなり 天正一〇(一五八二)年~寛永二(一六二五)年)の祖父は、元、今川氏真家臣で徳川家康に仕えた久野宗能であった。熊楠は、この祖父の名の「能」を「野」と誤って表記したものかと思われる。遠江久野城城主であった付家老久野宗成は、当時、駿府藩主であった徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封の際にもそのまま付随となり、紀州へ移った。頼宣はこの宗成に一万石を与え、田丸城城主として田丸領六万石を領させた。久野氏は家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。久野氏はその後、八代続いて、明治維新に至っている。

『帝國書院刊行「鹽尻」卷四三に、紀公に寵用され、男と成ても權勢有し者が、牧野兵庫男色より出頭して其右に出るを不快で、公に最期の盃を請ひ、高野に隱れた話を載せ居る』「鹽尻」は江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該原本が国立国会図書館デジタルコレクションで視認でき、その目次では「紀公に寵せられし少年」がそれ。ここの左ページ上段中央から。なかなか、いい話である。

「男寵」「だんちやう」。頼宣から男色の相手として寵愛されたこと。

「出頭」「しゆつとう」。頭角を現わすこと。

「大科」「おほとが」。

「慶安四年」一六五一年。この年の七月に兵学者由井正雪の幕府顛覆計画が発覚、正雪は駿府で二十六日早朝、自決した(「慶安の変」)。

「新宮」「しんぐう」。熊楠が単にこう書く以上は熊野新宮であろう。

「承應元年」一六五二年。

「常山紀談」江戸中期の湯浅常山の随筆・史書。正編二十五巻・拾遺四巻、付録に「雨夜灯(あまよのともしび)」一巻がある。。元文四(一七三九)年の自序があるので、原型はその頃に成ったものと思われるが、刊行は著者没後三十年ほど後の文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)であった。戦国から江戸初頭の武士の逸話や言行七百余を、諸書から任意に抄出して集大成したもの。内容は極めて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や、平明簡潔な文章と相俟って多くの読者を集めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。私も岩波文庫で愛読している。当該部は巻之十八の「由井正雪反逆の時賴宣卿出仕の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年有朋堂刊のこちらで読める。

「執政」幕府の老中。

「詰る」「なじる」。

「受て」「うけて」。

『一六六五年ローマ出板、フイリツポデマリニの「東京及日本史譚篇」』「東京及日本史譚篇」には「選集」では、『ヒストリア・エト・レラチオネ・デル・ツンキノ・エ・デル・ジヤポネ』とルビする。「日文研図書館」内の「日本関係欧文史料の世界」のこちらによれば(原本画像有り)、ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・マリーニ(Giovanni Filipo de Marini 一六〇八~一六八二年)はジェノヴァ出身のイエズス会士で、一六四七年から一六五八年までトンキンの布教に従事し、『その後、日本管区代表プロクラドール(ヨーロッパ各地において聖俗界の権力と交渉し、布教に必要な人的・経済的支援を獲得する職務)に就任し、マカオからローマに派遣され』た。そして、『このプロクラドール就任中の』一六六三年、『マリーニはアレクサンドル』Ⅶ『世への献呈もかねて』「トンキンを中心とするイエズス会日本管区布教史」(原題(イタリア語):Historia et relatione del Tunchino e del Giappone )を『ローマで執筆・刊行し』たとあるのがそれで、『管区の現況を扱う本書冒頭の約』三十『ページに』亙って『日本関係の記述が認められ、そこでは、日本におけるキリシタン迫害、アントニオ・ルビノ一行のフィリピン経由による日本渡航と殉教、長崎におけるオランダ人の交易、シャム在住日本人による日本情勢に関する証言などが見られ』、『また』同書の『扉には、日本管区各地域の人々がキリストの光背に照らされている様子を描いた図像が掲載されてい』るとある(画像有り)。

「明曆の大火」明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)まで、江戸の大半を焼いた大火災。延焼面積・死者ともに、江戸時代最大であることから、「江戸三大大火」の筆頭とされる。火元の出火の原因は不明であるが、 当時、実際に由比正雪の残党による放火の噂もあった。

「家光薨後二年」家光は慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)に四十八歳で没した。脳卒中と推定されている。

「作ん迚作した」「なさんとて、なした」。

「付た」「つけた」。

「每も」「いつも」。

「砌」「みぎり」。

「幽死」幽閉されて死ぬこと。

「絲川恒太夫」詳細事績は不明だが、『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』に既出。因みに、それを、かの文豪泉鏡花が遺稿の中で記している

「去年二百六十年忌」これは大正五(一九一六)年の記事であるから、一六五六年で、明暦二年に牧野長虎は亡くなっていることが判る。

「食だ」「はんだ」。]

 〇西牟婁郡五村、又東牟婁郡那智村湯川の獵師に聞たは、獵犬の耳赤きは、山姥を殺し、其血を自ら耳に塗て、後日の證とした犬の子孫として貴ばると。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡五村」(ごむら)は、現在の有田川町の中部、有田川の支流・四村川の流域、和歌山県道百八十一号下湯川金屋線の沿線に当たる。ここ

「東牟婁郡那智村湯川」(ゆかは)は現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町湯川(ゆかわ)。

「山姥」「やまうば」。「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「貴ばる」「たふとばる」。]

 〇閾の上踏む罪、親の頭を踏むに同じ、と紀州到る處で言ふ。

[やぶちゃん注:いろいろな説があるが、居住空間としての結界説や、家が主人及び先祖を象徴するという説は、いかにも自然で腑に落ちる(畳の縁と同じ忍者攻撃予防説もお盛んだが私としては退場して貰いたい)が、それよりも、私は縄文(前期以降)の竪穴式住居遺跡の入り口の地下から出産時の胞衣(えな)・臍の緒を入れたと推定される甕や、妊娠した婦人をモチーフとした絵を表面に描いたと思しい甕(その場合、逆さまに埋めてある)出土している事実に思い致す。これは、例えば、「山梨県」公式サイト内の埋蔵文化の用語「埋甕(うめがめ)」及びウィキの「埋甕」で確認出来るが、何よりも「東洋英和女学院大学学術リポジトリ」の古川のり子氏の論文「子どもの魂と再生 ――神話・儀礼・昔話から――」(『死生学年報』巻十七・二〇二一年三月発行・PDFダウン・ロード可能)が新しく詳しいので、是非、読まれたい。その古川氏の論考の中に、この『胎児を包んでいた胞衣を家の出入り口の敷居の下やその付近、あるいは床下などに埋める習俗は』(歴史時代に入ってから近代まで)、『北海道から沖縄まで日本各地で広く行われていた』。『近世初期の武家産式書や女性向けの礼式書・便利書などにも、武家や庶民が胞衣を桶などに入れて敷居下、床下などに埋めたことが記されている』とされ、この意味については、『各地の言い伝えでは、多くの人に踏まれると生まれた子が丈夫に育つ、胞衣の上を最初に通ったものをその子は生涯恐れるので父親に踏ませる、男の子なら筆と墨、女の子なら針と糸などを一緒に埋めて技術の上達を願うなどという』とあり、そして、『胞衣を埋める場所は、便所の出入り口やその付近、家畜小屋、屋敷や庭の隅なども多いが、家の出入り口、床下とするものがもっとも多い。家の出入り口へ埋設することは、縄文時代の埋甕が竪穴住居内の出入り口に埋められたことと一致する』。『竪穴式住居のような古来の地床式の住居だけでなく』、『高床式の住居が普及していくにつれて、胞衣を「床下」に埋めるやり方も増えていったのだろう。縄文時代の埋甕が埋設された家の出入り口が、大地母神の胎内へ通じる入り口であったとすれば、床下もやはり、地下世界と床上の人間世界との中間点であり、大地の母の国に接する出入り口として相応しい位置である』と述べておられる。私は、敷居の下が、大地母神の胎内や死者の行く異界へと通ずるトンネルであったとする見解に激しく同意する。さればこそ、この「敷居を踏んではならない」という禁忌は真に民俗社会的な意味に於いて完全に納得出来るからである。]

 〇婦女卵の殼を踏まば、白血長血を煩ふと田邊で言ふ。

[やぶちゃん注:「婦女」「をんな、」。

「白血」「しらち」。「こしけ」のこと。女性生殖器からの血液を含まない分泌物(広く「おりもの」(下り物)と呼称する)。「帯下(たいげ)」とも言う。

「長血」「ながち」。子宮から血の混じった「おりもの」が、長期間に亙って出ること。赤帯下(しゃくたいげ)とも呼ぶ。]

 〇同地で白花の紫雲英を袂に入置ば狐に魅されずと言ひ、小兒野に草を摘む時、吾れ一と之れを覓む。

[やぶちゃん注:「紫雲英」「げんげ」。「選集」は『れんげばな』と振る(前の「白花」とあるのだから、「れんげさう」ならまだしも、屋上屋で私はとらない)。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。花の色は、普通、紅紫色であるが、稀に白色(クリーム色)の株もあり、さればこそ、この「吾れ一と之れを覓」(もと)「む」という謂いが腑に落ちる。読者の中には、マメ目マメ科シャジクソウ属 Trifolium亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repensの花を想起してしまった人もあろうが、あれば、普通に白いのだから、呪力はないのである(ゲンゲは中国原産。シロツメクサ(クローバー)はヨーロッパ原産。江戸時代にオランダからの献上品が送られてきた際、緩衝材として本種の草体が使用されていたことから「白詰め草」と和名がついた。後、明治になって家畜飼料として盛んに輸入され、帰化し、全国に広まった。花期でない時のゲンゲとの識別は葉の中央に白い曲線が入っているのがシロツメクサである。また、ゲンゲは比較すると花弁の数が有意に少ない)。……ああ、私の好きな「げんげ」の花……長いこと、「げんげ畑」を見ていないなぁ……

「入置ば」「いれおけば」。

「魅」「み」。魅入られる。悪さ(化かすこと)をされる。]

 〇田邊付近稻成村等で、井え落ちた子は雪隱えも落る癖付くと云傳ふ。又雪隱え落た子は、必ず名を替る。

[やぶちゃん注:「稻成村」「いなりむら」。現在の和歌山県田辺市稲成町(いなりちょう)。

「井」戸と「雪隱」(せつちん)は民俗社会では、やはり、冥界への通路である。魔(死)に魅入られた者ということであり、さればこそ、名を替えて言上(ことあ)げされることを避けるわけであろう。]

 〇東西牟婁郡に跨れる大塔峯は、海拔三八七〇呎、和歌山縣で最も高き山と云る。所の者傳ふるは、此山に大塔宮隱れ御座せし時、山より流れ出る川下の住民が、水邊に燈心草生えたるを見、これは泔汁の流るゝ所にのみ生ず、川上に必ず人有るべしとて、宮を搜し出しに懸つた故、宮は他所え落延給ふと。

[やぶちゃん注:「大塔峯」(おほたふざん(おおとうざん))は和歌山県田辺市と古座川町の境界にある標高千百二十一・九メートル(国土地理院図の数値)の紀伊半島南部の中心的な山である。ここ

「海拔三八七〇呎」(フィート)千百七十九・五七メートルでサバ読み過ぎ。「ひなたGPS」の戦前に地図でも千百二十八・八メートルである。

「和歌山縣で最も高き山と云」(いへ)「る」誤り。永く和歌山県最高峰とされてきたのは、ずっと北北西の護摩壇山(千三百七十二メートル。「ひなたGPS」の戦前のそれでも千三百七十メートルとある)であった。但し、ここは奈良県十津川村と和歌山県田辺市との境界上にピークがあった点で、ちょっと問題があった。しかし二〇〇〇年、この護摩壇山の東方約七百メートル地点の標高が千三百八十二メートルであることが、国土地理院の測量により判明し、ここ「龍神岳」(ここはピークが和歌山側で間違いない)が和歌山県最高峰に変更されている(「国土地理院図」のここを参照されたい)。孰れにせよ、この護摩壇山から龍神岳の附近が和歌山県の最高標高地域であったことは、戦前よりの事実であったから、この熊楠に謂いは当たらないのである。

「大塔宮」(延慶元(一三〇八)年~建武二年七月二十三日(一三三五年八月十二日))は後醍醐天皇第一皇子護良(もりなが/もりよし)親王のこと。通称を「大塔宮」(正式には「おほたうのみや(おおとうのみや)」で、俗に「だいたうのみや(だいとうのみや)」とも呼ぶ)。落飾して「尊雲」と称して天台座主となったが、「元弘の乱」で、還俗、護良と名乗って父帝に協力し、討幕運動の中心人物となったが、中興政府では父帝と相容れず、建武元(一三三四)年には鎌倉に幽閉され、翌年の「中先代(なかせんだい)の乱」(北条高時の遺児時行が御内人の諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した事件)に乗じて、足利直義に首を斬られて殺された。さて、弘元(一三三一)年八月、「元弘の乱」は事前に計画が漏洩し、先手を打った鎌倉幕府軍が比叡山を攻め、護良は楠正成の赤坂城(現在の大阪府千早赤阪村)へと逃れる。しかし同十月に赤阪城は落城、父帝の笠置山も陥落して隠岐に配流となる。そこで、護良は熊野を目指して逃れた。これは「太平記気」にも記されてある。而して、この紀伊半島潜行の伝承の一つが、これである。ただ、こうした逃避行伝説は義経のそれと同じく、必ずしも事実として無批判に信ずるわけにはいかない。そこで、調べてみたところ、元「生石高原の麓の住人」氏のブログ「生石高原の麓から」の「大塔村と大塔宮護良親王」に、「社団法人日本土木工業協会」(現在は他団体と合併して「一般社団法人日本建設業連合会」)関西支部の広報誌『しびる』第十八巻(二〇〇一年発行)」の特集「大塔村 水呑峠」にある、南方熊楠も目を見張るであろう興味深い記事(「餅つかぬ里」等)が引用されているのを見つけた。長いので、そちらを読まれたいが、そこで引用元の筆者は、この熊野潜行には、当然に如く、所謂、彼の「影」を演じた者がいたはずであるとしている。これは当然、承服出来る。それが、紀伊半島の嶮しい山岳地帯に広範に、同時に目撃されて報告されたとすれば、追手が非常な困難を受け、本当の親王が受けるリスクは低減されるからである。この大塔山の名前由来の伝承もそうした中で考察すると、非常に面白い。

「御座せし」「おわせし」。

「流れ出る」「ながれいづる」。

「燈心草生えたる」「選集」では「燈心草」に『ほそい』を、「生」に『は』と振る。単に「燈心草」(とうしんさう)ならば、単子葉植物綱イネ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus decipiens を指すが(藺草(ゐぐさ))、この「ほそい」だと、イグサに姿が似た同属の別種で、分布もイグサより遙かに限定的なイグサ属ホソイ Juncus setchuensis var. effusoides (細藺(ほそゐ))を指す。珍しいことが目についた理由と考えれば、これはイグサではなく、ホソイであったととって初めて腑に落ちる。

「泔汁」「しろみづ」。「泔(ゆする)」。「泔」は昔、「頭髪を洗い、梳ること」を指した語で、また、それに用いる湯水のことも言った。そして古くはそれに「米のとぎ汁」などが用いられたのである。

「生ず」「しやうず」。

「他所」「よそ」

「落延給ふ」「おちのびたまふ」。]

 〇田邊附近で、鵁鶄の嫁入と云ふは、此鳥醜き故、夜嫁入りて曉に歸る、嫁入て直還さるゝを鵁鶄の嫁入で還されたと云ふ。

[やぶちゃん注:「鵁鶄の嫁入」「ごゐのよめいり」。「鵁鶄」は「五位」でペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax のこと。博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を参照されたい。

「直」「ただちに」。]

 〇稻成村より來たりし下女曰く、蚤を精細に捕る人は多く蚤に咬れ取らぬ人は蚤に咬れずと、村人一汎に信ずとて、此下女一向蚤を取らず。

[やぶちゃん注:「稻成村」三条前で既注。]

 〇夜爪切れば父母の死目に逢ず、但し七種の日(正月七日)爪切たる者は、夜切るも難無しと、田邊等で云ふ。

[やぶちゃん注:「夜爪切れば父母の死目に逢」(あへ)「ず」古くから言われ、亡き母もよく言っていた。嘗つては灯火の油は貴重で、普通は極力、灯さなかったから、手元が狂って指を切ることを憚ったのが実際の理由であろう。爪自体、それを焼くと火葬の臭いと通じた(皮膚の変形物であるから当然と言えば当然)ことも関連するか。

「七種」(ななくさ)「の日(正月七日)爪切たる者は、夜切るも難無し」昔からよくお世話になっているサイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「七草爪・七種爪」が異様に詳しい。この日は、『「七草爪(ななくさづめ)(七種爪)」または「菜爪(なつめ)」「七日爪(なのかづめ)」などといって初めて爪を切る日でもあり』、『この日に爪を切ると、邪気を払うことが出来て、一年間』、『風邪を引いたり』、『病気になったりしないとされ』とあり、また、「支那民俗誌」(昭和一五(一九四〇)年に永尾龍造が著した日本人による中国民俗研究書)第二巻二三八頁に『次のようにあると、東洋文庫「荊楚歳時記(けいそさいじき)」の「人日」』(じんじつ:七草の日の正式な五節句の名称)『の項の注釈に書かれてい』るとして、『七草のとき、七草を切って「唐土の鳥の渡らぬ先に」と歌いながらトントン調子を取りながら打つという。その鳥は鬼車鳥(きしゃちょう)(「きしゃどり」とも)という鳥で「ふくろう」の属である。この鳥が人家に入ると凶事があるし、人の爪を好むから、人々はこの夜、爪を切って庭の地面に埋める。この鳥が鳴くと凶事の前兆である』とあって『この鬼車鳥の言い伝えが、「夜爪を切るな」という俗信の根拠の一つにもなっているとも言われ』るとあった。しかし、この田辺の伝承は汎用万能で、この日に切れば、一年中、夜の爪切りもOKという、ちょっと禁忌例外としては都合が良過ぎる感じはする。]

 〇又子より親に傳へた感冒は重く、親が子に傳へたのは輕いといふ。

[やぶちゃん注:「感冒」「かぜ」。以上は孝心の教訓に基づくものと考えてよい。]

 〇又姙婦が、高い處に在る物取んとて手を伸すと、盜兒を生むと云ふ。

[やぶちゃん注:「取ん」「とらん」。

「伸す」「のばす」。

「盜兒」「選集」は『ぬすみご』と振る。「偸児・盗児」で「とうじ」と読み、「広辞苑」に『他人の持ちものをぬすみとる者。ぬすびと。泥棒。』とある。この場合の「児」は半人前の若者の卑称の添え辞であろう。]

 〇西牟婁郡新庄村大字鳥巢の邊では、刀豆を旅行出立の祝ひに膳に供える。刀豆の花は先づ本より末へ向て咲き、次に復び末より本へ咲き下る。本え還るといふ意味で、祝ふのださうな。

[やぶちゃん注:「新庄」(しんじやう)「村大字鳥巢」(とりのす)南方熊楠が守った無人島神島(かしま)のある、現在の田辺市新庄町の鳥巢半島一帯の旧村名。「ひなたGPS」のこちらで、半島に「鳥巣」という村名が確認出来る。

「刀豆」「なたまめ」。マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiata 。現行では福神漬に用いられることで知られる。但し、当該ウィキによれば、食用品種でないものには『サポニン・青酸配糖体・有毒性アミノ酸のコンカナバリンAやカナバリンなどの毒素が含まれている』ので食べることは出来ない、とあるので、注意が必要。

「旅行出立」「選集」では四字に対して『たびだち』と振る。

「本より末へ向て」「もとより、すゑへ向つて」。

「復び」「ふたたび」。

「下る」「くだる」。

「本え還る」「もとへかへる」。]

 〇田邊で黑き猫を腹に載れば、癪を治すと云ふ。明和頃出板?壺堇と云ふ小說に、鬱症の者が黑猫を畜ふと癒ると有た。予曾て獨逸產れの猶太人に聞しは、鬱症に黑猫最も有害だと。又猫畜ふ時年期を約して養ふと、其期限盡れば何處かえ去る。又猫長じて一貫目の重量に及べば祝ふ、何れも田邊の舊習也。(大正二年五月鄕硏第一卷三號)

[やぶちゃん注:「載れば」「のすれば」。

「癪」(しやく(しゃく))は多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部或いは腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。

「明和」一七六四年から一七七二年まで。第十代征夷大将軍徳川家治の治世。

「壺堇と云ふ小說」同題の寛政七(一七九五)年刊の源温故(あつもと)なる人物の書いた怪奇談集があり、苦労をしたが、「新日本古典籍総合データベース」の同書の画像で発見した。「巻之三」の「梅の下風」の中で、43コマ目左丁の二行目(「氣のむすぼほれ」)から五行目(「黑き猫こそよけれ」)が、板行は二十三年ほど後だが、それである。或いは、同書には先行する明和版があるのかも知れない。

「鬱症」「選集」では『きやみ』と振る。

「畜ふ」「かふ」。

「有た」「あつた」。

「猶太人」「ユダヤじん」。

「聞しは」「ききしは」。

「又猫畜ふ時年期を約して養ふ」「また、ねこ、かふとき、ねんきを、やくして、かふ」。

「盡れば」「つきれば」。

「何處」「どこ」。

「一貫目」三・七五キログラム。]

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