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2022/06/08

ブログ・アクセス1,750,000アクセス突破記念 梅崎春生 紫陽花

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三〇(一九五五)年七月号『文芸』に連載を開始し、同十月号で完結した。後の作品集「紫陽花」(昭和三十年九月河出書房刊)に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年六月刊)に拠った。文中に注を添えた。

 本篇の前半部は梅崎春生にしては珍しく多くの段落が有意に長めである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日正午過ぎ、1,750,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   紫 陽 花

 

 貴島一策が死んだことを、僕は朝の十時頃知った。下宿に電話がかかってきたのだ。聞き知らぬ声が言っている。野田さんですか。野田三郎さんですね。貴島を御存じですね。貴島一策は死にました。ええ。死んだのは昨夜です。

 電話室は階段脇にあって何時もうすぐらい。そのよごれた壁はいろんな数字や、わけの判らない形の落書きでいっぱいだ。電話というやつは相手の顔が見えないから、話の間はどうしても視線がうろうろする。壁のあちこちを這(は)い廻る。這い廻るだけで、数字や形を読んだり確かめたりするわけではないが。電話の声に僕はあまりショックを受けなかった。声も初めてだったし、口調もたいへん事務的で、面倒くさそうだったから。それに僕の感じでは、まだ貴島一策が死ぬ筈がなかった。まだ当分は、二十年や三十年は(と言っても年月の実感でなく言葉の上だけでだが)、今のままで生きている筈だった。それが電話一本でかんたんに死んでしまうわけがない。だから僕は困感して、受話器を持たない方の手の爪で壁の数字を引っ搔きながら、貴下はどなたかと問い返そうとする前に、電話は突然切れてしまった。問い返す前に、ためらいの沈黙を寸時置いたせいだろう。僕は受話器をかけて電話室を出た。よく磨き上げられた玄関の床板が、光を照り返している。土間の向うに午前十時の日光がピカピカしている。僕はちょっと眩暈(めまい)を感じ、階段のとば口にうずくまった。外がまぶし過ぎたのだ。それから僕はヤッとかけ声をかけて立ち上った。眼が慣れて、もう外はまぶしくなかった。解放感に似たものが、その時ゆるゆると僕の身内にひろがってきた。あの電話の声にウソがないとするならば、いや、伊達(だて)や酔狂でそんないたずらをする奴はないから、やはり貴島一策氏は死んだのだろう。ほんとに死んだんだろう。もっとも歳が歳だからな、と僕は思った。貴島一策氏はたしか僕の親爺と同年生れだから、もう五十四五にはなっているだろう。あのくらいの年頃になると、僕らの予想出来ないような変化を時々おこすものだ。僕の親爺だって六年前、ある日突然たおれて、そのまま一箇月も経たないうちに死んでしまった。しかし、それはそうとしても、貴島一策の場合は少々突然過ぎる気がしないでもない。僕は一週間前に彼に逢っている。その時彼は病気でもなければ、怪我をしてもいなかった。ちゃんとした恰好(かっこう)で、欠けたところと言えば前歯が二本ぶっ欠けたままで、にこにこと籐椅子に腰をおろしていた。欠けた前歯は先月逢った時と全然同じだった。義歯代にこと欠くような身分ではなし、僕はへんに思って訊ねてみた。

「小父さん」僕は彼のことを小父さんと呼んでいる。それより他に呼びようがなかったからだ。「歯、前歯は修繕しないんですか」

「歯か」彼は左の中指で歯列の空洞をまさぐった。「直さないよ。面倒くさいからな」

「面倒くさいって、それじゃ食べるものに不自由するでしょう。たとえばタクアンとか南京豆だとか」と僕は言った。「面倒くさいというのは、僕たち若い者の言い草ですよ」

「なぜ若者の言い草だね?」

「つまり、若い者はですね、前歯が二本や三本欠けても」と僕は答えた。「他の歯が丈夫だから、当分はそれで間に合わせる。タクアソだって奥歯で噛んでしまう。小父さんはそういう具合には行かないでしょう」

「妙な論理だね」

 と彼は言って、余儀ないと言ったようなつくり笑いをした。笑うと欠けた前歯がことさら目立つのだ。それは醜悪というほどではないが、かなり異様な感じを与える。どういう事情で欠けたのか知らないが、彼は欠けたままで少くとも二箇月は放置している。先月、それに先々月会った時も、歯は二本欠けていた。他のところ、つまり頭髪(半白だ)や鬚(ひげ)や爪や、服装、そんなものはきちんと整備しているのに、歯だけを放置している気持が僕にはよく理解出来ない。(理解したいと、強くは思わないが)。しかし、鬚や爪や髪はある意味では消耗品で、歯は備品だ。眼球や舌や膝小僧と同じく備品だ。備品を欠かしたまま放って置くのはおかしい。しかし僕が彼の歯にそんなにこだわることの方が、もっとおかしいのかも知れぬ。僕は月に一度、第一日曜日にきちんと貴島一策宅を訪れる。そして彼から八千円の金を貰い、受領証を書く。そして何となく一日を貴島宅で過し、家事の手伝いをしたり、一策の将棋の相手をしたりする。一策と将棋を指すのは、あまり愉しいことではない。僕と彼とは、将棋においては腕前がほぼ互角だが、いや、僕の方がいくらか強いが、彼には闘志というものがない。つまり僕の王将を取ろうという気持が、彼には全然ない風(ふう)なのだ。闘志のない相手に闘志を燃やすほど困難なことはない。だから僕にも闘志は湧いて来ない。お互いに闘志のないところに勝負ごとは成立しないだろう。それにもかかわらず、彼は時折僕に勝負をいどむ。縁側に将棋盤を持ち出して、そして四回に三回は僕が勝つ。負けると彼は駒を盤に投げ、駒の形をめちゃめちゃにして、退屈そうに欠伸(あくび)をしたりする。よほど大儀なことをやってのけたようなやり方でだ。そしてまた駒を並べ始める。まるで全然時間をつぶすためにやっているような具合なのだ。彼が時間を、自分の時間を、自分だけでつぶすのなら、僕にも異存はない。しかし将棋というやつは相手が要る。彼は僕を踏台にして、僕の時間を道連れすることによって、自分の時間をつぶそうとしている。大層ぜいたくなやり方だと思う。彼が僕の時間を平気で道連れに出来るのは、ひょっとかすると彼が僕を全然バカにしているせいだろう。その貴島一策が昨夜死んだと言う。電話口の事務的な声がだ。

 僕は階段を一足飛びにかけ登り、自分の部屋に戻ってきた。

 貴島一策が死んだのなら、僕は直ぐにも貴島宅を訪ねる必要があるだろう。

 それには学生服が要る。

 学生服を着ないことには、貴島宅訪問は具合が悪いのだ。僕が毎月受領する八千円は学資という名目だし。

 その僕の学生服は、目下のところ質屋の土蔵に入っている。

 一週間前、貴島宅から戻ってきて、その夜入れてしまったのだ。

 金に困って相模屋質店に入れたわけではない。もちろんない。当日貴島から八千円受領したばかりだから。

 何故入れたかというと、今の僕に学生服は必要でなかったからだ。必要でないものが壁にぶら下っていることは面白くない。まるで自分がまだ学生であるような錯覚におちいってしまう。それが面白くない。

 僕は今年の三月限りでもう学生ではなくなっている。

 貴島一策がそれを知っていたかどうかは知らないが、僕はすでに学生じゃない。卒業をなぜ貴島に報告しなかったか。それは彼が僕に訊ねなかったからだ。訊ねたら報告するつもりだったが、彼はこの三箇月、僕にそのことについて何も質問をしなかった。質問もされないのに報告することは、僕にはとても物憂(う)いことだ。僕を物憂くさせるようなものが貴島に確かにあるのだ。貴島の風貌や表情や話しぶりや身のこなしや、その他一切の感じにおいてである。彼はまるでいつも何かを拒否しているみたいだ。その何かは僕にもまだはっきりは判らない。

 だからそんな貴島に、学生服を脱ぎ捨てた自分を、背広かジャンパー姿の自分を見せるのは、僕の本意でないし、また貴島の本意でもなかろう。その故に僕はムリをしても学生服を着て行く。学生服は今の僕にとっては学生服ではなく、訪問着だ。貴島宅専用の訪間着だ。

 その訪問着を僕はまず相模屋から出さねばならん。

 僕は身支度をして下宿の玄関を出た。好い天気で、街中はかっと明るかった。明る過ぎるほどだった。それから気温もかなり高かった。高過ぎるほどだった。つまり季節の割にはむしむしと暑かった。湿度も高いのだろう。日曜の町々はごたごたと混んでいた。日曜の午前というやつは、なにか解放感がある。田舎のお祭りみたいな感じがある。そういう日曜日の午前に貴島一策の訃(ふ)を聞いたのは、なにかピッタリした、これ以外にないといったような気分である。僕は町を歩きながら、先ほどの階段のとば口での解放感、ワラビの成長を高速度撮影機、いやあれは低速度撮影機というのかな、それで撮ったワラビのように内側からむずむずとほぐれてくる感じ、その解放感を思い出した。明るい町を往き来する若い女たちは総体に美しかった。いや、美しいというより、つやつやしていて、植物的でなく動物的だった。ワラビ的ではなくて、むしろ伸び縮みする青虫的だった。トレアドルパンツをはいているのもいた。僕は横丁に曲り込み、相模屋ののれんをくぐった。もしかすると第二日曜というやつは質屋の休日であるかなと懸念していたが、幸いにそうでなかった。僕は元金と利子を質札にそえて出し、学生服を受取った。貴島一策が死んだ以上は、学生服を着用しないでもいいのじゃないか、と僕はその時気が付いたが、でもそのまま服を小脇にかかえ外に出た。僕はそして空腹を感じた。朝飯をまだ食べていなかったし、電話のかかるまで僕はまだ寝床に横になっていたのだ。空腹感は一歩毎に強くなった。腹が減ると旨(うま)いものが食いたくなる。それが空腹の第一段階だ。折角おなかが空いたんだから、外食券食堂のボサボサ飯で腹を充たすのは勿体(もったい)ない。そういう感じが先に立つ。おなかが空いて、もう徹底的にぺこぺこになって、焼芋でも一昨日のコッベパンでもという具合になると、それは空腹の第三か第四段階になるのだろう。その第一段階の状態に僕はあった。僕は一歩毎に自分の空腹をたしかめ、且つそれをたのしんだ。この空腹を充たすべきあれこれの食べ物の形や匂いを空想してたのしんでいた。月一回の貴島家訪問、その昼食時にも僕はいつもその段階にあった。何故かというと、貴島家の昼食はたいへん旨くて、それを予想して僕は常に朝食ヌキで出かける習慣だったから。しかし単にそれだけの、旨いというだけの理由ではない。僕がその飢えの第一段階にあり、そして貴島宅の昼食をガツガツと嬉々としてむさぼり食べること、そのことを貴島の方で僕に要求していたからだ。もちろんはっきりと口に出して要求するわけではない。ある時刻において自分が空腹のどの段階にあるか、あるいは満腹や準満腹の状態にあるかは、僕の勝手であり、他人の指図を受ける筋合いのものではないのだ。だから僕は貴島から、朝飯ヌキでやって来いと要求されていたわけではない。ただ彼の家の昼飯を、さあさあと何杯も何皿も押し勧める方法により、あるいは僕が多量に詰め込む有様を喜色と同感をもって見守るという方法によって、貴島一策は僕にそのことを暗黙裡に要求していたのだ。そういう僕に反して、貴島一策の昼食の量はびっくりするほど少かった。同じく貴島夫人の量も。たったあれだけの量を口に入れるのは、昼食という名の行事に価いしないと思われるほどだ。彼等は手早く自分らの食事を済ませて、茶をすすったり楊枝(ようじ)を使ったりしながら、僕の食べるのをじっと眺めている。沢山食べれば食べるほど、貴島の顔にはしだいに満足の色が深まってくる。そして僕はだんだん判ってくる。その昼食を僕は僕のために食べているのではないことを。僕はもはや貴島のために食べているのだ。貴島を代理して僕はせっせと食べているのだ。貴島は自らの食慾を僕の口腹に仮託し、僕は自らの口腹をもって貴島の欲望の遂行者に化している。その瞬間僕は彼の代理人であると同時に、道具みたいなかたちにもなっているのだ。僕がたらふく食べ終えて箸(はし)を置く時、貴島はたいへん満足そうな、そして充足からくる倦怠の風情(ふぜい)をもって、しずかに言う。やさしく言う。いやらしいほどのやさしさで言う。[やぶちゃん注:「ワラビの成長を高速度撮影機、いやあれは低速度撮影機というのかな、それで撮ったワラビのように内側からむずむずとほぐれてくる感じ」低速度撮影が正しい。「トレアドルパンツ」toreador pants。足にぴったりした、膝より少し下までの長さのズボン。闘牛士が穿くズボンをヒントに作られた。]

「もういいのかね。もうおなか一杯かね」

 その貴島一策が死んだという。昨夜死んでしまったという。

 

 貴島宅専用の黒サージの訪問着なくしては、僕が訪問出来ないというのは、ひとつにはそこに理由があるのだ。いくら僕が従順でおとなしいとは言え、きちんとした背広でカレーライスを幾皿もおかわりをするわけには行かない。調和というものがある。芸当をやるには、背景や装置がきちんとしていなければ、とてもうまくは行かない。黒い制服ならば、黒制服の持つ一種の概念によりかかって、どうにかごまかせるのだ。[やぶちゃん注:「サージ」serge。綾織りの洋服地。羊毛・木綿・絹・ナイロン・混紡製などがある。学生服などに用いる。]

 この前の日曜日、つまり定例の訪問日だ、僕は貴島宅の庭の草むしりをした。貴島一策がそのことを僕に命令したからだ。いや、命令というより依頼というべきだろう。彼は僕に命令をしたことはない。いつも依頼という形式をとる。実質的には命令と同じことなのだが。

「三郎君。今日はうちの草むしりをやって貰えんかねえ。なんだか雑草が茂り過ぎたようだから」

 貴島宅の庭は約五十坪ほどある。ほぼ正方形で、紅葉とかサルスベリとか椿とか、そんなへんてつもない庭樹が七八本生えているだけで、あとは何にもない。花壇もなければ芝生もない。貴島夫婦には、草花趣味や盆栽趣味は全然ないようだ。だからこれは庭というより空地という方が適当だ。その空地にあまたの雑草が所狭しと茂っている。その雑草をむしって呉れというわけなのだ。僕は二つ返事で上衣をとり、ズボンをまくり上げて、庭に降りた。僕は草むしりということをあまりやったことはないけれども、それほど要領や熟練を必要とするものではなかろう。ただ引っこ抜けばいいのだから。甲斐々々(かいがい)しいいでたちになった僕に向って、貴島一策は縁側の籐椅子の上から声をかけた。前歯が抜けているから、声がそこから洩(も)って、ふにゃふにゃと聞き苦しい。[やぶちゃん注:「五十坪」畳で約百畳。]

 「草むしりは上っ面だけじゃダメなんだよ。根っこから引き抜くんだよ。地面が固けりゃ道具を使う。台所に行くと、竹のへらがあるだろう」

 僕は台所に廻り、貴島夫人から糊こね用の古竹べらを貰ってきた。そして庭の広さを目測し、仝体を四区画に分け、その一区画にしゃがんでむしり始めた。

 この日曜日、朝の十時頃からかかって夕方の六時半頃までに、この七間平方の空地の草をすっかりむしり終えたのだが、僕は草むしりという作業についていろんなことを知ることが出来た。草むしりというやつは、思ったより人間を疲労させるということ。それから草むしりというやつは、思ったよりたのしいものであることなどだ。ことに後者は僕にとっては意外だった。貴島一策相手の将棋などよりはるかに面白いし、やり甲斐がある。引き抜かれまいと抵抗するやつをぐっと引き抜く快感。むしり取った領域がだんだん目に見えて拡大して行くその感じ。一種の征服慾の充足、そんなものが基調になっているのではないかと思うが、意外だったのはそれだけでない。ふつうの作業、このような単調な繰返しの作業は、ぶっ通しにやれば倦(あ)きてしまうものだが、草むしりというやつはその反対で、どこか中毒症状的なところがあるのだ。つまり一庭をむしり終えても、一仕事をやってのけたという完了感がない。たかが雑草ごときにといった感じと同時に、意地きたない酒飲みみたいにもっともっとという気持、イライラした気持があとに残る。事実その日の黄昏(たそがれ)、貴島宅を辞し、バスの停留所でひとりバスを待つ間、僕はたいへん疲労をしていたが、またどうにもこうにも落着かない痛痒(いたがゆ)い気分になって、あたりに人気のないのを見澄まし、そっと標識柱の下にしゃがみ込み、そこらに生い茂った雑草をしきりに引っこ抜いて廻ったのだ。バスの来方が遅かったおかげで、そのバス停留所あたりの雑草は、すっかり僕の手でむしり取られて、きれいさっぱりになってしまったほどだ。そしてバスの中でも、僕は手にした雑誌の耳をしきりにむしっていたし、下宿に戻っても僕の指は何かむしるものを求めて、不随意的にびくびくと動いていた。そこで僕もやり切れなくなり、立ち上って相模屋にかけつけ、訪問着を質に入れ、そして屋台店で焼酎を飲んだ。定量以上に飲んだので、その不思議なイライラは消失したが、指や爪の間に染みこんだ青くさい草の色は、まだ二三日は残っていた。[やぶちゃん注:「七間」約十二・七三メートル。]

 一体どういうつもりで貴島一策は、僕に草むしりなんかをさせたのだろう。

 その日一日貴島一策は、縁側の籐椅子にぽんやりと腰をおろして、僕の仕事ぶりを眺めていたのだ。それは別段看視するというようなやり方でなく、ただ僕の仕事ぶりを眺めることによって時間をつぶしている、そんな風(ふう)に僕には感じられた。またしても僕は自分の労力の犠牲において、彼の時間つぶしにおつき合いさせられたわけだろう。そして午後一時頃、昼食にカレーライスが出た。僕はズボンや足がよごれていたので、植木屋みたいに縁側に腰かけて食事をすることにした。貴島夫妻も小さな折畳み小卓を縁側に据(す)え、僕のお相伴をすることになった。例のごとく彼等はすぐに食べ終り、僕が食べるのを眺めている。妙な論理だね、と貴島一策が答えてつくり笑いをしたのはその時のことだ。そこで僕は言った。

「庭の手入れするくらいなら、歯の手入れした方がいいんじゃないですか。庭はあまり人は見ないけれども、顔はしょっちゅう他人に見せるものだから」

「他人にしか見えないから、これでいいんだよ」と彼は言った。「歯を直しても、自分で見えなきゃつまらない」

 それこそ妙な論理だと僕は思う。妙というよりも何が何だか判らない。貴島夫人はうつむいてお茶をすすっていた。夫人は無口で、ほとんど会話の仲間入りをしないのだ。

「お庭だって草むしりするだけでなく」二皿目のおかわりをしながら僕は言った。「もう少し工夫をこらしたらどうですか。これじゃあまり殺風景ですよ」

「工夫って何だね?」

「草花を植えるとか」と僕は答えた。「農大に友達がいるから、種子や苗なら持ってきて上げますよ」

「草花か」彼はわらった。せせらわらった。「草花じゃ仕方がない」

「草花がダメなら、木はどうです?」と僕は食い下った。無駄に草むしりさせられてはたまらないという気持もあったのだ。「実のなる木。たとえばイチジクとか――」

「イチジクを植えると、家内から病人が出ると言いますね」無口な夫人が突然口を利(き)いた。「自然と生えてくるのなら、差支えないそうだけれど」

「じゃ、ビワはどうですか」

「ビワは、家内から死人が出ないと、ならないそうですね」と夫人が前と同じ口調で淡々と言った。「死人が出ないとね」

「死人が出ないとね」

 貴島一策が夫人の真似をしてそう繰返し、大口をあけてわらった。前歯がないから折角の笑いも、障子の破れを吹き抜ける風みたいに張りがない。そしてその笑いと共に、その話は終ってしまった。[やぶちゃん注:「イチジクを植えると、家内から病人が出る」私も知っている。私は実(実際には雌株の花嚢が肥大化した果嚢で花の集合体である)の色が爆ぜた人体の血や肉のように見えるからだと思っている。しかし「いちじく屋 佐藤勘六商店」の「いちじくは縁起が悪い!?中に虫がいる!?いちじくに関する俗説を調べてみた」によれば、漢字表記の「無花果」のイメージから「子宝に恵まれず、子孫が途絶える」という意味で縁起の悪い果物とする説があるとしつつ(これは個人的には大いに腑に落ちる)、『一つの木に多くの実をつけること』から、『いちじくの花言葉は「多産」「子宝に恵まれる」「実りある恋」』であるとあって、それも肯ずる気になった。さらに、『よく聞く迷信として「庭にいちじくの木を植えると病人が出る、害を招く」といったもの』を考察されて、『いちじくは実をもぐと白い樹液が出ます。この樹液をイボに塗布して治すという民間療法もありますが、この樹液に触れると』、『肌の弱い方は痒くなったりかぶれることがあります。また、いちじくは整腸作用があるため、食べ過ぎるとお腹がゆるくなることがあります』とまず指摘され、『野生動物や鳥』が好み、『いちじくの樹木の内部を食べてスカスカにしてしまう天敵カミキリムシも来る』他、昆虫類が集まり易いことが挙げられ、また、『いちじくの木は剪定しないとどんどん伸び、実を付けます。大人の手より大きな葉が広がるので』、『伸び放題にしておくと』、『日当たりや風通しは悪くなる』とされ、『以上のようなマイナス面から、庭木として向かない→病人が出たり害を招くといった方向に俗説ができていったと考えられます』とあった。イチジクのプロの話であるから、納得した。亡き私の母は大好物だったのを思い出す。「ビワは、家内から死人が出ないと、ならない」これも私は聴いたことがある。私はビワの果肉が死体の変色した色に似ているからであると思っていたが、「柴垣グリーンテック」のブログ「【庭に実のなる植木を植えてはいけない?】言い伝えを調べて検証してみた。~ビワ編」によれば、ビワの葉は薬効があるため、病人が採りに来る結果、病人の病気が感染するという説が載っていた。他にブログ主は「ビワの木は裂けやすい」ため、「登って落ちて怪我する」という説や、「ビワの葉っぱを売って儲けていた人が皆が育てると儲からないから流したデマ」という説を有力とされていた。]

 その貴島一策が、それから一週間後、夫子(ふうし)自らが死人になってしまったのだ。

 黒い学生服に着換えて、僕はふたたび町に出た。[やぶちゃん注:「夫子」ここは「その当人」の意。]

 路地から通りに出、通りをさらににぎやかな方にゆっくりと歩く。街は残酷なほどあかるくて、合いの詰襟服では少々暑過ぎるほどだった。飯を。まず飯を。僕は呪文(じゅもん)のようにつぶやきながら食べ物の店を物色(ぶっしょく)する。ふだんより僕はいくらか気取った歩き方をしているらしい。気取るには気取るだけの気持があるのだ。第一に僕は学生服を着ている。もう学生でないのに学生服を着ている。それが僕の気持をむずむずさせるのだ。贋(にせ)学生。学生姿に身をやつしているという感じ。そのことがうしろめたくもあると同時に、途方もなくいい気分でもある。ことに街なかはあかるい。あかるさの中でそんなことをやっているという自覚が、僕の内部のどこかにある核のようなものを、じわじわと無限に拡大させ、その結果が僕の足どりを気取った恰好にしているのだろう。飯を。まず飯を。僕はふわふわと、歩調に抑揚をつける。貴島が死んだ。貴島一策が死んだ。学生服を着ていても、空腹を辛抱することはない。空腹を示すべき相手は死んでしまったのだ。

 三町ばかり歩いて、街角のレストランに飛び込んだ。僕には初めての店だった。行きつけの飯屋は、服装の関係上具合が悪い。あまり顔馴染(なじみ)のない、広い店に限るのだ。そのレストランの二階は広かった。階段を登り切ったところに陳列棚があり、料理の見本がずらずらと並んでいる。僕はその前に立ち止り、皿をひとつずつ眺め、やがてそこを離れる。僕が腰をおろしたのは窓のそばの小卓だ。椅子の半数ぐらいは客で詰っていた。大きな窓ガラスから陽光はさし入り、僕の卓のツルツルした表面や胡椒(こしょう)や辛子(からし)入れの金具をピカピカさせた。僕は詰襟のホックを外し、煙草を吸いつけながら、窓から街筋を見おろした。頭でっかちの人々が歩道を往来する。頭でっかちの犬なども。ウエイトレスが水入りコップを持って、すぐに注文を取りに来た。僕は隣りの卓をちらと見た。隣りの卓の五十がらみの一見教師風(ふ)の紳士が、こめかみに青筋を立てて怒り始めている。よほど長い間押えていたと見え、手がぶるぶると慄(ふる)えているのだ。紳士はフォークをさか手に持ち、柄を卓上に押しつけてそこらをひっかき廻すようにした。眼がほとんど三角になっている。こもった声で、

「まだ出来ないのか。マカロニグラタン」

 フォークの柄で卓をかちんと叩く。

「一体いつまで待たせる気なんだ?」

「もう少しお待ち下さいませ」

 ウエイトレスはやさしくそう答えて、僕の前にコップを置いた。

「御注文は?」

 僕はおもむろにあたりを見廻した。客の大多数はナイフとフォークをあやつりながら、料理を口にせっせと運んでいる。飲物を飲んでいるのもいる。天井には扇風機の翼があるが、取りつけられているだけでまだ動いていない。紳士は三角の眼をほとんど白眼にして、その動かない翼をにらみ上げでいる。もちろん翼が動かないのに腹を立てているのではなかろう。きっとこの男も朝飯をぬいたのだろう。そしてこのレストランの階段をいそいそとのぼって来たのだろう。マカロニグラタンなんてものはテンピをつかう関係上、どうしても他の料理よりも遅くなる傾向があるのだ。紳士は草色の服を着け、同じ色のネクタイをしめ、こういう好い天気なのに、どういうつもりか絹張りの洋傘を持っている。その洋傘を膝の間に立て、両掌をその柄の上に組合わせている。慄えているのはその手であ  り、組合わさったその指なのだ。よほど腹を立てているらしい。空腹時に怒るのは僕にも経験があるが、と僕は思う。いくらか同情的に思う。あれは衛生的に良くないないなあ。胃液の分泌の調子が全然狂ってしまって、折角の空腹なのに、食べものの味もなくなってしまうんだ。紳士は天井から眼を僕のウエイトレスに戻して、ふたたび憤然とナイフをとり、柄で卓をたたいた。さっきよりはぐんと強目にだ。

「僕よりあとの者が、もう食べているじゃないか!」紳士が突然カマキリの顔になったので、僕はぎょっとした。

「客にえこひいきをするな。マカロニグラタン!」

「判っております。只今直ぐ持って参ります」ウエイトレスは紳士に顔を向けずに、そしていらだたしげに僕をうながした。「御注文は?」

「まさか今さらマカロニの買出しに行ったんじゃあるまいな」

 腹が減っていらいらしているくせに、草色紳士は余裕を示そうとして、こんなにまずい月並なあてこすりを言った。そして口に出してみて、あまりにも月並な冗談だったことが自分にも判ったのだろう。彼はたまりかねたようにいきり立ち、突然甲(かん)高い声を張り上げた。

「早く持ってこい。マカロニグラタン。何をぐずぐずしてるんだ」

 皆の視線が草色紳士にあつまった。紳士は怒鳴りつづける。

 「俺だけあとまわしとは何だ。支配人を呼べ!」

 「マカロニグラタン」と僕はウエイトレスに注文した。

「なるべく早いとこね」

 紳士は眼を吊り上げて、じろりと僕をにらみつけた。まるで悪事の現場を見付けたかのように。だって僕は仕方がない。にらみつけられるいわれはない。僕だってマカロニグラタンを食べる権利がある。『マカロニグラタン』ウエイトレスは伝票に書きつけて僕の卓に置いた。そのウエイトレスの後姿に紳士は憎々しげに口を開いた。

「あと三十秒だけ待ってやる。三十秒以内に持って来なきゃ、絶対に食ってやらないぞ。帰っちまうぞ。いいな!」

「はい」

 ウエイトレスはそばかすのある顔をそちらに向けようとせず、そう簡単に返事しただけで、腰を揺りながらそっけなく向うへ行ってしまった。紳士は腕を斜にかまえて、手首の時計をにらみつけた。十秒。二十秒。そして概略三十秒経った。紳士はぐっと鎌首をもたげ、調理場の方向、そして室内をぐるりと見廻した。皆の視線が彼にあつまっている。フォークやナイフの手を休め、見るような見ないようなやり方で、皆が彼の動向に注意をはらっているのだ。草色紳士はふと脅えたように頸(くび)をすくめ、僕を見た。動物園のどの檻(おり)の中だったかな、これと同じ眼付を僕は見たことがある。紳士は皆から見られているものだから、引込みがつかなくなったらしい。エイと癇癖(かんぺき)の強そうなかけ声をかけて、腰を浮かした。皆黙然として眺めている。ウエイトレスの連中もだ。紳士は腰を浮かしたまま、何を思ったか紙ナフキンを卓上からつまみ上げて、チンと鼻をかみ、それを団子のようにくるくる丸めて、力いっぱい床にたたきつけた。そして洋傘を大刀のように腰にたばさみ、胸を張ってとっとっと階段口へ出て行った。

(ああ。あれはつらいだろうな)と僕は思った。(ああいう気持の状態でここを退場し、そしてそのまま断食するわけには行かないから、別の食堂かレストランに入るだろう。そこで料理を注文しても、ここでの気分があとを引いているから、食べたって旨(うま)くはなかろう。食べること自体が自己嫌悪を誘発するだろう。彼は決してマカロニグラタンは注文しないだろうな。カツ丼かカレーライスを注文するだろう。そして別の品を注文したことにおいて、彼は更に自分を嫌悪するだろう。すくなくとも今日一日は、彼は自分の気持のやり場に困るだろう)

 階段口に紳士の姿が消えてしまったので、室内はかすかなざわめきを取戻した。よっぽど立ち上って紳士のあとをつけ、爾後(じご)の彼の行動を見たい、そういう気持が僕をそそのかしたが、やっとのことで我慢をした。ざわめきの中に、ナイフやフォークの音が混り始めた。ウエイトレスが紙ナフキンに包んだフォークを僕の卓に持ってきた。

 注文したマカロニグラタンは僕をほとんど待たせなかった。せいぜい二分か三分ぐらいなものだ。注文を受けてそんなに早く出来上る筈がない。言うまでもなくこれはさっきの紳士の注文したものだろう。そう思った時、ちょっとイヤな感じがしないでもなかった。しかし、誰が注文しようと、マカロニはマカロニだし、それ以外の味がするものではない。僕はフォークを取上げて、盛り上ったマカロニに突き刺した。このグラタンを待ち切れずにあの草色紳士は憤然と退場し、そのあとを僕が引受けることになった。ただそれだけの話だ。テンピに長く置き過ぎたらしく、焦げ色が濃いようだ。こういうことなら早いとこ取出して、あの紳士に供すればよかったのに。僕はフォークを口に運んだ。焦げ過ぎていてもそれは旨かった。なにしろ僕の空腹は、第一段階を通り越そうとしていたのだから。

 室内はすっかり元のざわめきに戻り、もう草色紳士のことなんかすっかり忘れ果てられていた。ベパーや辛子のひと撫での後味すら、室内には残さなかったように見える。僕もその例外でなく、ひたすらマカロニグラタンに没頭し始めていた。一皿の半分も食べかけた時、僕はふと僕をじっと眺めている巨大な眼のようなものを感じ、しずかに顔を上げた。眼? 紙ナフキンで口をぬぐいながらあたりを見廻した。もちろんその時僕は、僕を眺めているものが、現実の眼でないことは知っていた。あたりを見廻したのは、その幻の眼からのがれるためだった。それは貴島一策の、死んだ貴島一策の眼だったのだ。ここは貴島の家ではない。日曜日の正午近くのレストランだというのに、その幻の眼が僕を眺めているというのも、この黒い訪問着のせいなのか。僕はそれをふりはらうように頭を振り、ふたたびフォークを動かし始めた。しかしその遠くからの眼はもう僕につきまとって離れない。僕はもはや僕自身のためでなく、僕以外のある男のために、さも旨そうに舌つづみを打ちながら、舌つづみを打つことをわざとしながら、フォークをあやつっている。忌々(いまいま)しさが僕の全身をつつんだ。

(一週間前の日曜、おれはまるまる一日、あいつからたっぷり眺められたんだからな)

 あの日貴島一策は、便所行きと食事時間をのぞいて、終始縁側の籐椅子に腰をおろしていた。腰をおろして僕の草むしりをぼんやりと眺めていた。よくあんなにぼんやりと腰をおろしておれるものだ。そして三十分に一本、ふところから煙草を引き抜いて吸いつける。煙草は外国煙草で、名前は忘れたが、キングサイズの女用のやつだ。それを欠けた前歯の間にはさんで火を点(つ)ける。半分も吸わないうちに、火のついたままのそれをポイと庭先に投げ捨てる。視線はぼんやりと僕に向けたままだ。あの意志も感情も持たないような眼から、僕は朝から夕方までたっぷり眺められたのだ。ひとつの眼から絶えず眺められていることは、ラクなことでない。すくなからずつらいことだ。これがたとえば、看守と囚人なら、囚人の方が数が多いにきまっているから、看守の眼も分散される。しょっちゅう眺められているということはない。ところがその日の僕の場合は、一対一だったのだ。あの男はそんな風(ふう)に僕を眺めることによって、好天気の日曜をまるまるつぶしてしまったのだ。

(何ということだろう)

 そして貴島夫人は、貴島トミコは亭主の籐椅子のそばにきちんと坐って、きちんと身じろぎもせず坐って、その日の朝から夕方までせっせと縫物に没頭していた。似たもの夫婦という他はない。よくもまああんなに長時間、ひとつことに熱中出来るものだ。一策は一策で飽きもせず僕を眺めているし、トミコ夫人はトミコ夫人でせっせと縫物をしていた。もっとも僕だってその日は、日一日草むしりに没頭していたのだから、そんな彼等をわらったり非難したりは出来ないのだが。トミコ夫人が縫っていたのは、手拭い型の長方形の木綿布(もめんぎれ)を、その端と端とを縫い合わせてつくる一種の布の輪だ。草むしりをしながら僕がちらちら眺めたところによると、トミコ夫人はその布輪を二十余りもつくったようだ。あんなのをそんなに数多くつくって、一体何に使うつもりだろう。つくって積み重ねられた布に、貴島家の二匹の飼い猫、クロとミケがしきりにじゃれかかっていた。この二匹の猫は昼食のカレーライスの時も縁側にいて、ちょこんと坐って僕らの食事を眺めていた。僕は猫という動物を好きでない。爪を軟かな足肉の中にかくしていて、いざと言う時に引っかく点などが嫌いだ。それにあの毛が嫌いだ。あの毛はよく抜ける。抜けて飛び散って、人の口などに入る。口に入った毛は胃の中で丸くかたまってしまうという話だ。だから僕はなるべくカレーライスの皿を、猫の方から離すようにして食べていた。すると貴島一策が猿臂(えんぴ)を伸ばして、ミケの方の首筋をぐいとつまみ上げた。ミケは口をぽかんとあけ、後肢(あとあし)をだらりと垂らした。一策はそして夫人をかえりみた。

「こいつ、いつまで経っても鼠をとらないようだね。僕たちにすっかりよりかかり、甘えかかってるようだな」

 夫人は黙っていた。すると貴島は、猫をぶら下げたまま、左手で自分の皿の匙(さじ)をとり、食い残しのカレー肉をしゃくい上げた。そのままミケのあいた口にいきなり流し込んだ。

 ミケはぐっというような声を立てて、前肢でそれを払いのけようとした。

 貴島は頸(くび)筋から手を離した。

 ミケはやっとのことで肉ははき出したものの、カレーの汁が口腔内にべたっとくっついたものだから、奇妙な声であえぎながら後肢で立ち、前肢をかわるがわる口辺に持って行って、猫踊りのような恰好をした。よほど辛(から)かったのだろう。貴島は前歯の欠け目をむき出して笑いながら、クロの方にも手を伸ばそうとした。クロはその手を引っかいてパッと庭の方へ飛び出して行った。

 トミコ夫人がけたたましい声を立てて短くわらった。

 

 バスの停留所を降りた時は、もう正午を過ぎていた。

 僕につづいて若い女が一人降りた。

 バスは腰を振るようにしながら発車した。こういう発車の仕方をするバスを、僕は時々街頭に見かけることがある。後尾のタイヤ、車軸、それらと車体(ボディ)との連絡やつながり具合で、またウエイトのかかり具合で、ついそういう恰好になってしまうのらしい。それはへんになまめかしいのだ。

 僕は標識柱につかまって、ちょっとそのバスの背中を見送り、そして足下の地面を見おろした。一週間前の黄昏(たそがれ)にむしり取った雑草のあとを見たかったのだ。そして僕はすこしおどろいた。あの日すっかりむしり取ったつもりだったのに、地面のあちこちに雑草が青々と茂っている。僕がむしったあとかたなんか全然残っていないのだ。

 はて、停留所を間違えたのかな。そう思ったくらいだ。

 しかし停留所に間違いはなかった。

 僕は不審な気持でも一度あたりを見廻し、そして歩を踏み出した。そうそう雑草にかかり合ってはいられない。早いとこ貴島宅に着いて様子を聞かねばならん。

 なにしろ八千円の問題だからな、と僕はバスの中で考え続けていたことを、も一度ことあたらしく呟(つぶや)いてみた。

 貴島一策が死んだとなると、月々僕が貰っていた八千円は一体どうなるのか。その疑問が僕に来たのは、レストランでマカロニグラタンと更にメンチカツを食べ終り、ほっと一息をついた瞬間だった。その疑問は僕をどきりとさせた。

 電話口に出てからその瞬間まで、そのことに思い到らなかったこと、それも僕をどきりとさせる一因子になっていた。僕の貴島とのつながりは、月々の八千円以外には何もなかったのだから。本当なら貴島の死を聞いた瞬間に、八千円ということ仁考えを及ぼすべきであったのだ。それをそうしなかったのは、僕にそうさせなかったのは、空腹や好天気や、そんな外部の条件だったのだろう。気持がマカロニやメンチカツに一筋につながっていて、大切なところに空白が出来ていたのだろう。

 あの時僕はマカロニグラタンを食べ終り、まだ充たされないままあたりを見廻して、メソチカツを注文した。充たされないのは僕の口腹だったのか、それともあの幻の貴島一策の眼だったのか。運ばれてきたメンチカツを僕はさも旨そうに、舌つづみを打ちながら、つけ合わせのキャベツやパセリのたぐいまで全部平らげてしまった。そして煙草をふかしながら伝票をのぞいた時、八千円という金額がいきなり僕の頭にやってきたのだ。

(そうだ。この昼飯代は俺が俺の財布で支払わねばならないんだ)

 そう思った時、そう思ったためかどうかは知らないが、あぶらくさい曖気(おくび)が僕の咽喉(んど)にかすかにこみ上げてきた。すこし余計に詰め込み過ぎたのだ。[やぶちゃん注:「曖気(おくび)」げっぷ。]

 僕と同じバスを降りた若い女が、僕の前二十米ぐらいを、向うへとっとっと歩いて行く。

 その女は二十歳前後で、白っぽい洋装、何という布地か知らないが、目の荒いゴワゴワした感じのスーツをつけていた。バスでは僕の斜め前に掛けていたのだ。

 バスに果っている間、バスに乗っている時は何時もそうだが、僕の視線は、三つ乃至五つのものに、順々に移動する癖がある。移動してはまた元に戻り、移動してはまた元に戻るのだ。几帳面(きちょうめん)な巡礼みたいに、それは一から二へ、二から三へ、三から一ヘという具合に、何時の間にかそういう具合に自分の眼が動いていることに僕は気付くのだ。気付いてもその几帳面な巡礼は止まらない。

 そのバスでもそうだった。

 この若い女が、若い女の脚が、僕の視線のとまり場所のひとつになっていた。

 運転台のフロントグラスにぶら下った黒ん坊の人形、出入口の真鍮(しんちゅう)の手すり、それからこの女の脚。その三点を僕の視線はオートマティックに経(へ)めぐっていた。時々外の景色がその中に入る。

 女が掛けているところは、後尾の車輪が座席の下までふくれていて、つまり床がぐっとマンジュウ型に盛り上っていて、坐りにくい場所なのだ。どうしても膝が高くなり、したがって脚がスカートからむき出しになってしまう。

 しかしこの女は割に上手にその座席のあり方をこなしていて、ポーズとしてはそう悪い形ではなかった。しかし膝から下はすっかり眺められる状態になっていた。

 ソックスだけのその脚は、女には珍らしいほど毛が深かった。

 全体的に見ると、その女は女子学生か、なり立ての女事務員か、そんな感じに見える。ういういしい感じがどこかにあるのだ。

 そんなういういしい感じと、毛の深い脚の感じが、ちぐはぐなものとしてあった。

 僕が気がついた時から、女は膝の上に本をひろげて、ずっと読みふけっていた。停車毎にちらりと窓外に視線を走らせるだけで、あとは本に没頭している。すっかり没頭している証拠には、もっと坐りやすい席が空いたにもかかわらず、そちらに移動しようともしなかったほどだ。

(八千円。八千円)と僕は思っていた。脚と人形と手すりに視線を順々に回転させながら。(貴島一策が死んだとすると、八千円はどうなるのか。今度は夫人から支給されることになるのか。それともまさか打切りに――)

 僕は現在すでに学生でなく、ある職業についている。職業についていても、貴島からの八千円がないと困るのだ。打切られるとなると、僕の生活は大きく変ってしまうだろう。貧しい方に、悪い方にと変ってしまうだろう。

(しかし貴島一策が死んだとて、支給が打切られるのは不当だ)

 父親が死んで以来、僕は貴島からずっと学資の支給を受けている。どういうことでそうなっているのか、実のところ僕もよく知らないのだ。面倒くさくもあったし、またハッキリと知りたくない気分も僕に暗々裡(あんあんり)に動いていた。判っていないにもかかわらず、僕は彼から有難く支給を受けているのではなく、受取る権利があるという気持があったのだ。恵まれているのではなく、取り分があるといった気持。それがずっとあったし、今でもはっきりとある。学校を卒業しても、まだ引続き八千円を貰っているというのも、そういう気持からなのだ。その気持のよって来たる具体的な事実、それはない。具体的なものは何もない。あればもっと僕は強い気持になれるのだが、それがないばかりに、形式としては恵まれるという形になり、したがって僕は支給日毎に彼の将棋相手となったり、庭の草むしりをすることになってしまうのだ。なにか忌々しい感じがそこから生起してくる。僕もハッキリと知りたくないし、向うもハッキリと説明したくない(らしい)。そういうもやもやしたものがある。そういうもやもやを膜の中に閉じ込めて、月々八千円をやったり貰ったりするだけの関係、ただそれだけの関係を僕も望んだし、向うも望んでいるらしくふるまっていたのだが、その貴島一策が死んだ。突如としで死んでしまったのだ。

 若い女はカラタチ垣根の曲り角から、横丁に折れ込んだ。僕もそれにつづいて曲った。女をつけているのではなく、貴島宅がその方向にあったからだ。日は空にあって、日射しは強かった。空気は乾いていた。風もすこしあった。僕はしだいに足どりが重くなってくるのを感じた。

 

 貴島の家は満天星(どうだん)の垣根に囲まれ、へんてつもない木の門がちょんとついている。満天星の垣根というのはたいヘん高価なものだそうで、僕はそのことを貴島から教わった。ドウダンという名前もその時教えられたのだ。それまで僕はこの垣根を、なんと見栄(みば)えのしないつまらない垣根か、と思っていた。[やぶちゃん注:「満天星(どうだん)」ツツジ目ツツジ科 ドウダンツツジ亜科ドウダンツツジ属ドウダンツツジ Enkianthus perulatus 。元は「燈台躑躅」(とうだいつつじ)で、枝の分枝する形が、昔の「結び灯台」(昔の灯明台の一つ。三本の棒支柱を組み合わせて真ん中からやや上で結び、上下を開いて安定させ、その開いた頭部に油火の皿を載せるもの)に似ていることからで、「とうだい」の音が転じて「どうだん」になったとされる。私の好きな花である。]

「これまでになるには、二十年や三十年経っているんだよ」貴島は笑いながら言った。歯が欠ける前か後か、それは憶い出せない。「ばらして一本一本に売ったって、相当の値段になるんだよ」

 その満天星の切れ目につくられた木の門を、さっきの若い女が至極あたり前のように、ふっと入って行ったので、僕はちょっとまごついた。彼女も貴島宅の訪間者とは、その時まで考えてもいなかったからだ。

 僕もつづいて門に入ろうとして、門柱のところに立ち止った。

「え。おなくなりになったって?」

 その女のおどろきの声がした。門から直ぐの玄関の扉が半開きになっていて、女の姿は見えない。玄関の中に入っているのだ。それに答えるぼそぼそした男の声が聞えてきた。

「自殺?」

 その言葉が割にはっきりと僕の耳に飛び込んできた。前後の言葉は判じ取れず、それだけがはっきりと耳に入った。

「自殺?」

 僕はどきりとした。それは自殺という言葉に脅えたためで、貴島一策と自殺とが直ぐに結びついたわけではない。

(自殺なんだって? あれが?)僕は門柱によりかかったまま忙しく頭を働かせた。(一週間前の様子じゃ、そんな気配はなかったようじゃないか。あの貴島一策が自殺するなんて、一体どういうことだろう。あんな年寄りが、まるで無分別な若者のように死んでしまうなんて、おかしな話じゃないか。一体どういう具合にして自殺したんだろう?)

 玄関での会話がふっと途切れたようだった。僕は門柱から掌を引き剝がし、飛び石を踏んで玄関の前に立った。その足音で先客の女がふり返った。ふり返ったついでに下に落ちた本を拾い上げた。その本は彼女が先刻びっくりしたとたんに取落したものらしい。彼女が腰をかがめたので、玄関に立っている黒い服を着た男に、僕は短い間直接顔を合わせることになった。

「野田三郎ですが――」

 僕は名乗った。

 

 玄関からとっつきの応接間に僕らは通された。応接間に入る時、若い女は壁にへばりつくようにして、僕を先にした。僕が先に入り、女があとにつづいた。応接間はきちんとかたづいていた。しらじらしくかたづいていた。よく見廻すと、応接間の中は調度類だけになっていて、装飾品のたぐい、たとえば壁懸けやガラスケースの人形、そんなものがすっかり姿を消していた。白けたような感じはそこらから来ているらしい。

 黒服の男は窓を背にしたソファーに腰をおろした。それに向いあって、僕らはそれぞれの椅子に腰をおろした。腰をおろしてから気がつくと、絨毯(じゅうたん)も床から引き剝がされていて、角板を組み合わせた床がむき出しになっていた。黒服の男は左の掌を膝の上にひろげ、右手を拳固(げんこ)にしてそれをかるく叩(たた)きながら言った。

「貴島一策は昨夜死にました。トミコ夫人もいっしょです」

 黒服は手を打ち合わせながら、かわるがわる僕らの顔を見た。黒服男は四十がらみで、顔は青白く神経質らしく、こめかみに静脈を浮き出させている。声はシロホンをたたくような早口だ。[やぶちゃん注:「シロホン」xylophone。シロフォン。木琴と同義であるが、本邦の場合は一般的にはコンサート用シロフォンを指す。音板の材質にはローズウッド・紫檀・カリンのような堅い木材が用いられる。また、音板の下に共鳴管が取り付けられている。]

「自殺、ですか?」僕は訊ねた。「二人とも?」

「そうです」黒服はうなずいた。「覚悟の自殺です」

「どんな方法で?」

「青酸カリ」黒服は手を打ち合わせるのを止め、自分が腰をおろしているソファーを指差した。「場所はここです。ここに二人並んで、マスクをかけて、きちんと腰かけたまま」

「マスクをかけて、どうして青酸カリが呑めますの?」女が口を出した。女の手は膝の上で、さっきから白い手巾を四つ折りにしたり斜めに折ったり、そんなことばかりをし

ていた。女の口のききかたは何かなじるように響いた。

「マスクで、口をおおっているというのに!」

 黒服はじろりと女を見た。

「死んだ時の状況を、わたしは偽らずに話しているだけです。貴島氏も夫人も、ちゃんとマスクをかけていた。マスクはその前日夫人がこさえたものです」

 応接間の壁の向う側から、話し声がかすかに聞えてくる。庭に面した縁側あたりに、何人かの男女が集まっているらしい。

「それで――」何か言わなくてはいけないような気分に僕はなった。「マスクのことは判ったけれども、それは当人たちが自分でかけたのですか。つまり死んだあとで、誰か他の人がかけてやったのではないですか」

 黒服はだまって僕の口を見ている。また手を打ち合わせ始めた。

「それに、マスクだけじゃなく、その青酸カリも他の誰かから――」

「当人たちです」黒服はきんきんした声で言った。「遺書があった。その遺書の中に、自分たちの予定した死に方が、くわしく書かれてあった。マスクのこともだ」

「何故マスクをかけたんですの?」

「それは知らない。書いてなかった。見苦しいところを見せたくなかったんだろう」黒服の口のききかたは、すこしずつぞんざいに、また横柄になってきた。「トミコ夫人は十日ぐらい前から、通夜のお客のために、新しく枕カバーをたくさんつくったのだ。マスクはそのカバーの余り布だ。布地をしらべて見てそれが判った」

「ああ、それは」と僕は言った。「僕も見た」

 黒服はじろりと僕を見た。

「見たって、マスクを?」

「枕おおいの方です」

「どこで?」

「縁側で」僕はその方角を指した。「この前の日曜日、おうかがいした時、布の輪を夫人はたくさんつくっておられました。今考えると、それが枕カバーでしょう」

「日曜?」里一服は僕に眼を据(す)えた。「ああ、第一日曜か」

「そして今日が第二日曜ですわ」と女が口をはさんだ。

 黒服はそれに答えず、腕を組んだ。沈黙が来た。この黒服男は何者だろう、と僕は考えた。自己紹介もしないし、それにしだいに横柄になってくる。ちょっとそう考えただけで、それっきりだ。今朝の電話の声を僕は思い出そうとしていた。今朝僕に電話をかけてきたのはこの男か、また別の声か。早口なところは似ているが、声の質は違うようだ。もっとも電話というやつは、声の性質を狂わせることがあるからなあ。黒服は腕を解いて立ち上った。

「ここでちょっと待っていて下さい」黒服は扉の方に歩きながら言った。「お二人とも」

 黒服は応接間を出て行った。からっぽのソファーがあとに残った。残されたソファーには表情があった。昨夜このソファーで、黒服の言によれば、貴島夫妻は服毒したという。それもずっと前から計画したやり方で。弔問客のために枕カバーをたくさんつくるような、そんな莫迦(ばか)げた綿密さでだ。そして僕は突然、忌々しくなって来た。あの日一日草むしりをさせられたことを思い出したのだ。一体僕は何のために誰のために草むしりをしたのか。これも弔問客のためなのか。怒りはすぐに消えた。立腹したって仕方がないではないか。そのかわりに、けだるい倦怠が僕にやってきた。応接間の窓は閉めきってある。風が通らないので、室内の空気はどんよりと淀んでいる。気持だけでなく、身体もだるい。私は立ち上って窓のひとつをあけ、また元の椅子に戻った。乾いた風が入ってきた。

「ねえ」僕は傍の若い女に話しかけた。黙り合っているのは不自然だったから。「ローラーコースターってのを知ってる?」

「知ってるわ」女は僕に顔を向けて素直に答えた。「でも、まだ乗ったことはない。眺めただけ。あなたは?」

「僕は広告で見ただけです。どこの広告だったかな。駅のだったかしら」

「坂道にさしかかると、皆キャアキャアと騒いでたわ」女は足を組みかえた。生毛が濃すぎる。「乗ろうかと思ったけれど、行列して並んでいるのよ。学生が多かったわ。あなた、学生?」

「爺さん婆さんは乗らないだろうねえ。あんなの、生きている余りで乗るんだものね。爺さんや婆さんには余りがないんだ」

 女の質問をはぐらかすために、僕は我ながら妙なことを言った。何が余りなのか自分にもよく判らない。

「貴島の小父さんたちは何で死んだんだろう?」

「青酸カリでよ」

「そりゃ判ってるさ。何で、というのは、どういう理由で、という意味だ」

「余りがなくなったんでしょう」女は逆手を取るように強い口調で言った。「余りがなくなって、横にはみ出たんでしょう」

「シュークリームみたいだね」と僕は言った。僕たちは笑わなかった。「今日はバスで一緒でしたね。あの揺れるバス。君はタイヤのふくらみの席に腰をおろしていた」

 女は僕の顔をまじまじと見た。しかし思い出せなかったらしい。この女は人を見詰めると、かるい眇目(すがめ)になる。鼻翼にうっすらと汗をかいている。

「その時、君はまだ、貴島の小父さんが死んだことを知らなかったんだね」

「そうよ。あなたは知ってたの」

「知っていた。電話がかかってきたから」

「誰から?」

「誰からか判らない。そして僕はやって来たんだ。君は――」

「あたしは毎月、第二日曜に、ここにやってくることになってんの」

「金を貰いに?」と僕は訊ねた。そしてすぐに言い直した。「金を受取りに?」

 女は僕から視線を外らして、窓の方を見た。少し経って口を開いた。

「それはあなたと関係のないことでしょう」

「関係はない」と僕は答えた。「僕は毎月、第一日曜にここに来て、金を受取ることになっているんだ。だからさ、だから第二日曜と聞いて、そんなことを考えたんだよ」

 女は窓を向いたまま返事をしなかった。何か考え込む顔付になった。僕もそれ以上言葉を重ねることはせず、同じく窓の方に眼を向けた。窓にサルスベリの枝がのぞいている。つるつるした樹肌の、上側の方だけ、うっすらと砂ぼこりがかぶさっている。ぼんやりと時間が過ぎた。僕は椅子に深く背を落しながら、一週間前の樹木問答のことを思い出していた。イチジクとかビワを植えたらどうだというあの問答だ。それと同時に、貴島一策の笑いも。(ははあ)と僕は考えた。(死ぬつもりだったから、前歯を欠けたまま放置したんだな)その思いは、貴島一策の死をめぐって、もっともなまなましく僕の胸をついた。悲嘆とか哀傷というのではなく、その反対のもの、忌わしい頽廃として僕の胸をゆすぶってきた。

「許しては置けない。そんなことは許しては置けない」と僕は口の中でつぶやいていた。「それは許しては置けない。死ぬからといって二箇月にわたって欠け歯を治療しないなんて。たとえ死ぬにしても、その前に一応歯を直すべきだ。それじゃあまるで、ずり上ろうとするかわりに、ずり下ろうと努力するようなものだ。そういう形のずり下りは、これは許して置けない」

 扉が開かれ、大型ノートを小脇にかかえた黒服の男が、せかせかと入ってきた。ソファーにふたたび腰をおろして、ノートの頁をめくりながら言った。「これが貴島一策の遺言状です」

 僕らは思わず首を伸ばして、それをのぞき込む形になった。縦罫(けい)のノートに、インクの細字でぎっしり書き込まれ、ところどころ消したりまた書き足したりしてある。総頁の半分ぐらいがその細字で詰まっているらしい。二日や三日で書き上げたものではなかろう。口の中に溜まってきた唾を、はき出す場所もないから、僕は忌々しくごくりと呑みこんだ。僕らがのぞいているのに気付くと、黒服はノートを立てて、僕らから頁をかくした。

 「わたくしはあなた方が、貴島一策とどういう関係にあるのか、深くは知らない」黒服は低い声で言った。「ただ、あなた方に関して、遺言に記されていることだけをお知らせする」

 僕は貴島一策を、一策の気の抜けたような笑いを、じっと見詰めている視線を、ぼんやりと瞼の裡(うち)に感じていた。何日間かかったか知らないが、こんな長文の遺言を書き残す情熱とは、一体何だろう。何か忌わしいものがある。

 

「あなたが野田三郎君ですね」ノートを膝に立てたまま、黒服が僕をまっすぐに見た。僕はうなずいた。「あなたに月々渡っていた金、月額八千円でしたね、あれは貴島夫妻の死とともに打切られます」

「遺書にそう記してあるんですか」と僕は訊ねた。

 打切られたことにそれほどのショックはなかった。なかったけれども僕の反問は自ら詰問の響きを持った。

「そうです」黒服は探るような眼で、僕の顔や服装をじろじろと見た。「あなたはすでに学校を卒業しておられる。そうこれには書いてある。だから金を渡す必要はもうなくなっている、とまあこう書いてあるんですがね」

 僕は黙っていた。

「それに、私がつけ加えると、貴島氏の引受けていた仕事が、朝鮮の休戦でおもわく外(はず)れとなり、現在ではかなりの借財が残っているということです。これはあなたには関係のないことかも知れませんが」[やぶちゃん注:ここで初めて本篇内の時制が示される。朝鮮戦争は一九五三年七月二十七日、板門店で、北朝鮮・中国軍両軍と、国連軍の間で休戦協定が結ばれ、三年間続いた戦争は一時的終結をした。現在も停戦中である。本篇の発表は昭和三〇(一九五五)年七月であるから、その閉区間ということになる。]

「金の打切り、僕に関してはそれだけですか」僕はいらいらとしてさえぎった。「それだけですね」

「いや」黒服は頁に目を落した。「貴島氏の死が確認されたら、あなたに五千円を渡せとのことです。ただしこれは、葬儀やその他こまごましたことの手伝い、それをあなたがやるという条件においてです。なにか手助けする気持がありますか?」

 僕はまた黙っていた。貴島の風貌を思い浮べていた。貴島一策は今まで一度も僕になにかを命令したことはない。いつも依頼という形式をとるのだ。あの日の草むしりの時だってそうだった。草をむしっては貰えないかという持ちかけ方を彼はしたのだ。実質的には命令とそう変らないものだったけれども。

 黒服は女の方に向き返った。

「あなたが庄司ミドリさんですね」

 女はうなずいた。庄司ミドリの手はさっきから手巾を折ったり拡げたり、ほとんどオートマティックに動いている。条件とは何だ。死んでからも条件つきで僕を働かせるのか。いや、働かせるというより、おつき合いさせようというのか。

「あなたに月々渡っていた金」黒服は執行者の権威をこめて発言した。「あれも貴島夫妻の死によって、来月から打切られます」

 庄司ミドリの手巾(ハンカチ)を折る手がぴたりと止った。不快な感じが僕に来た。自分と同じ状況に他がいるということ、同じ状況を二人であわせ持っているということ、それが妙な嫌悪に僕を誘ったのだ。僕は不機嫌にせきばらいをして、わざと窓の方に眼を向けていた。サルスベリの枝を蟻が列をつくって、ぞろぞろ歩いている。僕は生れつき目がいいのだ。二・〇ぐらいは見える。

「ですから今月分の金は、今日お渡しします。例のもの。例のものは貴島の死によって不必要になったから、お持ち帰り下さい」そして黒服は顔を上げ、やや人間らしい口調で問いかけた。「例のもの。例のものって何ですか。例のものとだけしか記してないが」

「そうとしか書いてなければ、それでいいのです」庄司ミドリはぴしゃりと言った。金の打切りに対するしっぺ返しとも見られた。「それだけですか」

「手伝いの条件で五千円支給。これも野田君と同じです」

黒服はちょっと鼻白み、おとなしい口調になった。「やって呉れますか」

「手伝いって、どんなことをやるんです?」

「さあ、それはハッキリ決っていない。細々した仕事はあるでしょう」黒服はノートをぱたりと閉じて、小さな欠伸(あくび)を三つ四つつづけざまにした。「ああ、わたしは疲れた。昨夜からほとんど寝ていないんですよ。貴島から電報で呼び出されて、それからこのノート、あれやこれやでくたくただ。実際自殺というやつは人困らせですねえ。黙って自殺したら、それはそれで困るし、こんなに指図がましい遣言書――」

 黒服はノートをぱらぱらとめくった。「何から何まで指図してあるんだ。ほんとに何から何まで」黒服はうんざりしたように僕を見た。「たとえばあなたに、午前十時に電話かけろということまで、ちゃんと指定してあるんだ。死んでしまうというのに、何故そんなことまで指図する権利があるのか。アニの気持が判らない」

 アニと言うからには、これは貴島一策のオトウトかな、と僕が思った時玄関の扉ががたがたと鳴って、へり下った声が応接間に入ってきた。

「へえ。ごめんください。花屋でございます」

 黒服はソファーからぴょんとはね上るようにして、せかせかと玄関に出て行った。庄司ミドリは顔も動かさず、じっと腰をおろしたままでいた。僕は立ち上り、何となく黒服のあとにつづいた。こまごました手伝いを引受ける気持に、もう僕はなっていたのだろう。玄関には大きな花束をかかえたハッピ姿の老人が佇(た)っていた。

「へえ」と老人は頭をちょっと下げた。老人の口に歯はほとんどなかった。「花をお届けに上りました」

 花は紫陽花だった。紫陽花ばかりの大きな束だった。

「花?」黒服は両掌で自分の頭を揉み上げる仕草をした。

「謳が頼んだんだね?」

「へえ。こちらの奥様が昨日おいでになって」花屋は黒服と僕の顔をこもごも見くらべた。「明日の午後、これを束にして届けるようにと……」

 水を打って持ってきたらしく、復雑な色合いの花々から、雫(しづく)が土間にぽたりぽたりと落ちた。

 

 玄関に棒立ちになったまま、黒服の男はまじまじと花屋の顔を、そして花束を見守っていた。雫は点々と土間を濡らした。僕らがあまり黙っているので、花屋の老人はなにか不吉なものを見るような顔付になった。

「へえ。花まで自分で注文したのか。自分でね」

 黒服はうんざりした声を出した。よほどうんざりした証拠には、彼は右手を肩のうしろに廻し、そこらの筋肉をぐりぐりと揉みほぐすようにした。

「自分でねえ。それで代金は?」

「へえ。いただきましたよ」

 雫が僕の靴を濡らしている。僕は黒服のそばをすり抜けて、手を伸ばして花束を受取った。もう手伝う気持になっていたからだ。紫陽花は水を含んで、ぼったりと重かった。花弁の色はまだいくらか白っぽい。雫が廊下にしたたるので、僕は黒服の顔を見ながら少しうろうろした。

「合所!」

 黒服が僕に言った。もう命令するような口調になっている。

「へえ、ごめんなさい」

 老人は脅えたようにかるく頭を下げて、そそくさと玄関を出て行った。僕は花束を身体につけないようにしながら、台所の方に歩いた。台所もきちんと片付いていた。片付いていたというより、すっかり整理されていた。器具や道具類は百貨店の陳列棚のように、一列に配置されていた。死ぬからきれいに整頓したというわけだろう。僕は紫陽花の束を、どこに置きようもないので、そのままそっと流しの上に横たえた。いつの間に応接間から出てきたのか、庄司ミドリが僕の背から声をかけた。

「きれいな紫陽花ね」

「きれいじゃないさ」と僕は答えた。「もっと熟して、紫か淡紅色にならなきゃね。これじゃ紫陽花らしくない」

「花瓶に入れとくと、だんだん色も変るでしょ」そしてミドリは台所をぐるぐると見廻した。「花瓶、どこにあるのかしら。よく片付いているわね」

「君も手伝いする気になったのか」

 ミドリは流しに近づき、ぼったりした花に指を触れながら、ちらと僕の顔を見た。返事はしなかった。黒服が応接間から出てきた。れいの大型ノートを右手に持ち、左掌でその表紙をいらだたしげに叩(たた)いている。ミドリが黒服に訊ねた。

「花瓶は?」

「花瓶。さあ、どこだろう」黒服は花束に眼をおとした。疲れていると見えて、眼のまわりがうすぐろく隈取られている。「探してみよう。どこかにしまってあるんだろう。花束を買い込んだからには、花瓶が用意してない筈はないんだ」

「それに書いてはないんですか?」僕は大型ノートを指した。

「書いてない。書いてなかったようだ」

 黒服は手を伸ばして紫陽花にかるく触れた。庄司ミドリと同じやり方でだ。

「ああ、イヤな色だ。これは何て言う花だね?」

「紫陽花」

「自分の葬儀にかざるというのに、どうしてこんな気味のわるい花を選んだんだろう。アネの気持が判らない」

 黒服はそう言い捨てると、そのまま台所をすっと出て行った。花瓶を探しに行ったのだろう。僕ら二人は台所に残された。僕は水道の栓をひねり、蛇口の下に自分の口を持って行った。水はなまぬるく、カルキくさかった。僕は一口含んではき出した。

「あの人、紫陽花の名も知らないのね」ミドリが首をすくめてわらった。「あの人、きっと奥さんの弟ね。額の形が似ているもの」

「例のもの、って何だろう?」僕はぼんやりと訊ねた。

「君は答えたくないんだろうね。答えなきゃ、答えなくてもいいけれど」

「例のもの?」

「そら、ノートの書置きにあったでしょう。今月分の金は渡すから、例のものは持ち帰っていいってさ」

「ああ、あれ」ミドリはためらわず口を開いた。「日記よ。あたしの日記なのよ」

「日記?」

「そう。詳しい日記をつけて、毎月貴島に見せるのが、あたしの義務になっているのよ。しかし、もう今日から、あたしは日記をつけなくて済むわ」

「日記とは面白いね。小学生の夏休み日記みたいだ。あれは自分のために書くんじゃなくて、先生に見せるためだものね」

「そうよ。だからあたしも小学生みたいに、一週間分ぐらいをまとめて書くこともあったわ。どうせいい加減なものよ」

「いい加減の方を貴島の小父さんはよろこんだんじゃないか」思いついたままを僕は言葉にした。「ほんとのことじゃなくて、ウソッパチをさ」

「そうね」ミドリはちょっと暗い表情になってうなずいた。「あちらに行って見ましょうか。花瓶が見付かったかも知れないし。ここにいたって仕様がないでしょう」

 庭に面した広縁に五六人の男女がいたが、応接間と壁をへだてたこの六畳の部屋には、和服を着た四十女がひとり、まるで仲間はずれにされたみたいに、ぽつんと坐っている。この四十女が、僕を何と思ったのか知らないが、しきりになれなれしく話しかけてくる。あたりをはばかって、低い押し殺した声だ。この女が何者か、貴島とどんな関係にあるのかは、もちろん僕も知らない。

「なにしろ朝の六時でしょ、貴島さんが死んだと言うんで、大急ぎで身支度をしたんですよ。貴島さんと言うだけで、まさか夫婦そろってとは思わないし、また自殺だとは夢にも思わなかったしねえ。脳溢血か心臓麻痺か、まあ貴島さんの体質からして、心臓麻痺じゃないかと思いましてねえ……」

 女は膝の上に両掌を組み、黒い数珠(じゅず)をザラザラと鳴らしている。一々相槌(あいづち)を打つのも面倒くさいので、僕は黙って聞いている。聞きながら庭を眺めている。一週間前草むしりした庭は、もう不精鬚(ひげ)みたいに、あちこち緑の芽を立てているのだ。今が一番雑草の生長しやすい時季なのだろう。アカザ。あれは割にむしりやすかった。貴島の庭に生えている雑草で、僕が名を知っているのは、アカザというやつだけだった。名を知らないいろんな草があった。一番むしりにくかったのは、あれは何という草か、茎が四方に、地面と平行に伸びて行くやつだ。この草は、根は頑丈でしぶとい割に、茎は極度にもろくて、地表に出た部分が直ぐにポツリと切れてしまうのだ。しかしまあ、これは何という妙な草だろう。まだ人から踏まれもしないのに、もう踏まれでもしたかのように、地面にべったりと貼りついて伸びるのだ。初めから踏まれることを予期して、そんな形に伸びるのだ。何というあさましい、いやらしい草だろう。その草がもう寒のあちこちに、ちょびちょびと芽を這(は)わせかけている。僕は何かやり切れない、うんざりした気分になって、庭から視線を引き剝がした。女はまだしゃべりつづけている。しゃがれた、秘密めかした声音で。[やぶちゃん注:「茎が四方に、地面と平行に伸びて行くやつ」恐らくキントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ亜科ニシキソウ属コニシキソウ Chamaesyce maculata 或いはその近縁種である。地面にべったりと広がり、根を幾つも張るため、引き抜きにくい。]

「あたしが着いた時、まだ二人はソファーに坐っておられましたのよ。あたしゃその時もまだ貴島さんだけだと思ってさ、奥さんはそのショックで貧血でも起しておられるかと思ったんでね、奥さんの前を通る時、ちょっとごめんなすって、とそう声をかけたんですよ。マスクはかけているし、きちんと坐ってはおられるしねえ、間違えるのもあたりまえですよねえ。でも、奥さんは黙っているし、動かないし、なんだか様子が変なんで、ひょっと爪を見たら、もうすっかり紫色になってるんですよ。ええ、貴島さんの爪も、奥さんの爪もさ、紫色。すっかり紫色。いやになるじゃありませんか、あたしゃ死人(しびと)を生きているものとばかりカン違いしてさ」[やぶちゃん注:「紫色」不審。青酸を服用すると、細胞の呼吸機能が停止し、血液中の酸素が使われないままに循環するため、逆に血色が良くなって、唇や爪の色がピンク色になるのが特徴である。時間が経過すると、それが紫色に変ずるのだろうか。或いは、梅崎は不正確な事実(心臓病などに於いてチアノーゼを起こした場合、爪は青紫色を呈する)を青酸から誤認して紫陽花に合わせて使ってしまったものかも知れない。]

 女は興に乗ったのか、数珠を胸まで振り上げて、僕を打(ぶ)つ真似をした。そしてあわてて周囲を見廻して、数珠を膝の上に戻した。貴島夫妻の自殺よりも、死人を生者と間違えたことの方が、この女には重要らしい。しかしそれはこの女だけでない、と僕はぼんやりと考えた。僕だって庄司ミドリだって、同じような趣きがある。もちろんこれは僕らだけのせいでなく、貴島一策自身にもそうさせる要因みたいなものがあるのだ。欠け歯を欠け歯のまま放って置くことだって、仝然闘志のない将棋を指すことだって、ムダな草むしりをさせて眺めていることだって、すべて人間のつながりを物憂くさせるようなものが、たしかに貴島一策の中にあるのだ。たとえば動物で言えば、猫のような冷情と無関心。

「ああ」と僕は口に出した。「猫はどうしたんだろう。姿が見えないが」

「猫は二匹とも貴島さんがお殺しになったんですってさ」女は右手の小指でそっと庭の方を指した。「殺してあそこに埋めたんだって。やはり可愛がってたものを、人手にわたすのは、いやだったんでしょうねえ」

 僕は急に耐え難い気がした。今まぐ気がつかなかったが、庭のすみのサルスベリの樹の根元が、掘り返されたらしく新土になっていて、そこだけすこしべっとりと盛り上っている。僕はあの日の、カレーライスを口に押し込められた猫の形やその動作、それをありありと思い出した。猫は舌がヒリヒリと辛(から)いものだから、踊るような恰好(かっこう)で悶え、そして電光型に走って行ったのだ。

「どういう方法で殺したんだろう」

 あの時猫は貴島一策の手に爪を立てた。あの傷はまだ貴島一策の手に、屍体の手に残っているかしら。そんなことを考えながら、僕はそう口に出してみた。しかし、どういう方法で殺したかは、それほど興味のある問題ではなかった。屍体の手に引っ掻き傷があるかどうかの方に、その時の僕の関心は傾いていたのだ。あの掻(か)き傷を貴島は手当てしたかどうか。

「さあ、知りませんねえ」女は答えた。「やはり青酸カリかしら。オトウトさんに伺ってみなくちゃ」

 女は数珠をまさぐった。僕は落着きなく、うろうろと視線を動かしていた。空は晴れ、庭いっぱいに日光がさんさんとおちている。広縁の人々はこそこそ話を止めて、なにかこちらをじろじろと見ているようだ。女がまたしゃべり始めた。

「家の中をすっかり整理して、手紙や書類も全部焼き捨て、風呂の灰まできれいにさらってあったんだそうですよ。死ぬ前に着換えた自分たちの下着は、さっぱりと洗濯され、風呂場に乾してあった。あたし、先刻それに触ってみたら、まだすっかり乾いてませんでしたよ。イカの生乾しみたいにしとっていましたよ」

 貴島夫妻と猫がいない部屋のたたずまい、片付けられた家具や道具類、庭樹の葉の色、あかるい日の光、そこらのどこからかじっと見詰めている巨大な幻の眼を、その時僕はふたたびうすうすと感じ始めていた。その幻の視線は、しだいしだいに強くなってくる。僕はすこし息苦しくなってきた。僕は指を詰襟のカラーの中に差し込んだ。(貴島一策は死んだ。何故死んだか?)幻の眼を避けるために、僕はいそがしく頭を働かせた。(何故死んだか、その原因を、誰も話さないし、誰も質問しない。死ぬに際してのやり方や有様ばかりを話題にして、誰もその原因に触れようとしない。それはどういうわけか――)

「野田君。野田君」

 背後から黒服が僕を呼ぶ。黒服は花瓶をかかえている。かなり重そうな、濃紺色の花瓶だ。そばには庄司ミドリが立っている。僕はしぶしぶと立ち上る。

「花を持って来て呉れ。納戸(なんど)に」

 僕は台所にとって返し、流しから再び花束をかかえ上げる。納戸に貴島夫妻の屍体が置かれているのだろう。つまりその枕もとに花瓶を据え、紫陽花をかざろうというのだろう。花束を身体にくっつけないように支えながら、僕は黒服のあとにつづいた。皆の視線が僕に、僕というより花束に、一斉にそそがれる。これから何かが始まりそうなのだが、僕にはよく判らない。判らないまま侍従のように胸を張り、紫陽花をささげ持って、黒服と庄司ミドリのあとにつづいて歩む。

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