「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「眼と吭に佛有りと云ふ事」
[やぶちゃん注:本論考は大正五(一九一六)年二月発行の『人類學雜誌』三十一巻第二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。なお、老婆心乍ら、「吭」は「のど」と読む。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いたが、平凡社「選集」も参考にし、また前記初出を「j-stage」のこちらでダウン・ロード出来たので(PDF。これ)、それも参考にした。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
眼と吭に佛有りと云ふ事
禪僧問答の笑話今日の落語家が蒟蒻問答と云ふ者の本邦と瑞西國の例を去年七月一日の「日本及日本人」に出し、其原話は印度邊に生じただらうと述た所、八月一日の同誌に鈴木眞靜君より斯る譚が印度のカリダーサ傳に附屬する由明答を得て、迺ち鈴木君の全文を十一月十三日のノーツ、エンド、キーリスに譯載した。其結果、十年前「英領中央亞非利加」を著して人種學者民俗學者を益した、アリス、ワーナー女史等よりザンジバール等にも斯る話行はるると知され其梗槪を譯して寄せ置いたから、多分二月中に「日本及日本人」へ出るだらう。其内に載せなんだが鈴木君の文と俱に英國で出し置た通り、此話の異態を先年紀州西牟婁郡へ京都から來た說敎僧より傳聞せるは次の如し。云く、本山より末寺へ客僧を遣し無言で問答して、住持が滿足に應對し得ずば寺を追はるゝ定めで、其時節が迫り近づき住持大弱りの所へ出入りの餅屋來り、住持の身代りに立つべし迚其法衣を着し威儀を正して鹿爪らしく俟つと、果たして客僧やつて來り、卽座に兩手の拇指と拇指食指と食指とを連ねて圜狀を成し示すと、餠屋扨は斯程大きな餅一つの價を問ふと心得、十文と云ふ代りに十指を展べ示すと、客僧叩頭す。次に客僧三指を出すを見て、餅屋十文は高値なれば三文で賣れと云ふ意味と曉り、一指を眼下に加へベカカウして見せると、客僧九拜して去た。或人客僧に、何故斯迄彼の(僞せ)住持に敬服したかと問ふと、吾れ先づ圜狀を示して大日如來は如何と問ひしに彼十指を展べて十方世界を遍照すと對へ、更に彌陀の三尊は何處に在りやと問ひしに彼れ其眼に指を加へて眼に在りと示したは眞に悟り捷い住持で、吾輩が企て及ぶ所でないと言つたさうだ。按ずるに天文九年頃成た守武獨吟千句に、「吾身ながらも尊くぞある」「目の佛かしらの神を戴きて」貞德の油粕に「今は二尊の中間ぞかし」「鼻の上に黑まなこ程痣出來て」、斯く人の眼中に佛ありと云たは、もと神と髮と同訓なるより正直の頭に神宿る抔言ひ出し、其に對して人の眼瞳に對座する者の顏貌が映るを眼中に佛があると想ふたのだらう。紀州西牟婁郡の俗今も瞳孔を女郞と呼ぶ。是亦右と同樣の想像に起つたらしい。予未見の書 Sir Everard im Thum, ‘Among the lndians of Guiana,’ 1883, p.343 より友人が抄し示されたるを見ると、南米ギアナのマクシ人は、人の瞳中に小さき人像あり、其人死して魂身を離るればこの小像滅して見えずと云ふ由、是は眼曇りて最早や對する人が映らぬを斯く云ふらしく、斯る俗信は日本に限らぬと見える。
[やぶちゃん注:「禪僧問答の笑話今日の落語家が蒟蒻問答」(こんにやくもんだう)「と云ふ者の本邦と瑞西國の例を去年七月一日の「日本及日本人」に出し、其原話は印度邊に生じただらうと述た」「蒟蒻問答」は落語の演目。俄か住職になった蒟蒻屋の主人が旅僧に禅問答を仕掛けられ、口もきけず、耳も聞こえない振りをしていると、旅僧は無言の行(ぎょう)と取り違え、敬服、身振り手振りのジェスチャーが悉く公案の明答と勘違いする仕方噺の代表的なもので。幕末の落語家二代目林屋正蔵の作とされるが、異説もある。この落語の題名から、「とんちんかんな問答・見当外れの応答」の意で広く慣用される。さて、加工データとして使用させて戴いているサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(一九七二年平凡社刊「南方熊楠全集5(雑誌論考Ⅲ)」底本)にあるので、そこから当該論考を引用する(但し、電子化者の配したノンブルは除去し、記号の一部は除去・変更した)。
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禅僧問答の笑話
三十年ほど前、下六番町に大きな邸を構えおった故津田出氏(当時元老院議官)方へ遊びに行き、氏の次男安麿という人から種々珍譚を聞いた内に、このようながあった。いわく、どことかに禅寺あって住持一向愚物だった。ところが寺の制規で何年目とかに一度本山から高僧が来て、いきなり法問を仕掛けるに口舌をもってせず手振りばかりでする。住持よく手振りでこれを解答せば続いてその寺に座し得るが、それができずば直ちに追い出さるるはずだった。ある時高僧が押し懸け来る日取りが迫って来たので、住持到底難問を答え得る見込みなく、逃支度で弱り入りおるところへ出入りの餅屋入り来たり、あまりに顔色が悪いのを見て何を憂いてかく青ざめおるかと問うと、住持裹(つつ)まず右の次第を明かした。すると餅屋いわく、手振りなどは先方の取りようでどうとも解し得るものゆえ、大胆出任せにやりなさい、貴僧自身で做(な)しかぬるなら私が当日御身代りに立ってもよい、と。聞いて住持大いに悦び、ともかくも頼むとのことで、その日になってかの餅屋に剃髪させ、自分の袈裟法衣を著せ、よい加減に作法一通り教えて待ち受けると、果然本山の高僧がやって来てすぐさま手振り問答を始めた。一番に、高僧、一手の指一本をもって天を指す。餅屋、これを見て透かさず一手の指二本で天を指す。二番、高僧、二指をさし揚ぐると、餅屋、後れずたちまち四指をさし揚ぐる。三番に、高僧、三指を突き出すに即応して、餅屋の贋(にせ)住持、掌を開いて五指を示した。これを見届けた高僧、大いに感じ入り、われ諸多の寺院を巡廻せること多きも、この住持ほどの偉人に逢いしことなしとて、礼拝賛歎して去った。住持、餅屋を命の親と厚く礼して、さてかの問答の時の手振りは一体何ごとを演(の)べたのかと尋ぬると、餅屋いわく、高僧まず指一本出したは、僕が営業する餅一箇の価を問うたものと合点して、二指で二文と示した、すると、かれ二指を出して二箇の価を問うたから、もちろん四文の由を四指で答えた、さて三指出して三箇の価を尋ぬるゆえ、二三が六文のところを五文に負けて進じょうとて、五指を出して見せたのだ、と対えたそうじゃ。予にこの話をした安麿氏は、ハーリー、ブラックを始め、種々の落語家、芸人と広く交わった人ゆえ、たぶん件の話は当時寄席などで演ぜられた物と惟う[やぶちゃん注:「おもう」。]。
予、多年この話が何か和漢の書に出でおるだろうと探索したが見当たらず、その類話くらいはありそうなものと一切経を通覧せしも一つもなかった。しかるに頃日[やぶちゃん注:「このごろ」。]不図(ふと)仏人ベロアル・ド・ヴェルヴィルの『上達方(ル・モヤン・ド・バーヴニル)』を閲すると、これと全く同趣向の話が見当たった。この書の著者は一五五八年生まれ一六一二年ごろ死んだ学僧で、命終前二年ほどにこの書始めて世に出たという。ソクラテス、プラトン、ルーテル、カルヴィン以下、古今の賢哲数十人、『昔語質屋庫』[やぶちゃん注:「むかしがたりしちやのくら」。曲亭馬琴の読本。]風に大一座して放談、快話したところを書き留めた物で、スウェーデン女皇クリスチナ、これを侍婢に読ませ聴いて大いに悦んだと言い伝う。
その第一〇〇章にいと可笑(おか)しき譚あり。ピエル・ルーヴェー(一五六二年ごろ生まれ八十二歳で死す。仏国で有名な法学者また考古家談(かた)る。夫婦、法庭で不和の理由を陳ずるに、詳しく言説せずにもっぱら手真似をもってする者あり。その男が妻の秘処について述ぶるとて、「これほどだったら」と栂指と食指を曲げ合わせ、「またせめて」と言いながら、両手の拇指と栂指、食指と食指を曲げ合わせ、「しかるにこれだから」と言うと同時に、帽子を仰向けて判官に示すと、妻も何条黙止せん、まず自分の腿を指ざし、次にその臂を示し、さて小指を示して不満を訴えたは面白かつたと言うを聞いて、アルシャト(十六世紀の伊人。カルヴィンの法敵たり)語るよう、それに似た珍事がゼネヴァにあった。ゼネヴァへ大学者が来て、言語せずに手真似で学論をやろうと申し込むと、一同恐れ入って応ずる者なし。折からモンタルギスより漂浪し来たつた大工、それは気の毒なり、われ往って論議せんと言う。市人みな大いに悦び僧の冠服を大工に著せ、公衆の観る前でかの学者と立ち合わしめると、学者、拳をもって天を指し一指を露わすを見て、大工、たちまちその二指を示す。次に学者、三指を出すと、大工、握り拳を進む。そこで学者、林檎を取って大工に見せると、大工「隠し」から麪包(パン)の破片を摂り出して彼に対えた。その時大学者大工を敬仰して座を却き、この大工こそ世界一の賢人なれと称讃した。それからゼネヴァは学者の淵藪だと大評判となった。さて、ある人かの大工を招き、私(ひそ)かにかの法論問答の次第、手真似の意義を聞くと、これはしたり、「全体かの学者の野郎は人がよくない。まず一指を示して僕の一眼を抜こうと脅したものだから、しからばおれは汝の眼を双つながら抜いてやろうと二指を示した。よって怒って今度は僕の眼二つと鼻一つと合わせて三つを抜いてやろうとて三指を出して来た。その上はいっそ打ち殺すぞと僕が拳を出して見せた。そこで恐れ入って小児を賺(すか)すように林檎を見せたから、そのような物は入らぬ、一番好い物を持っておるとて、麪包(パン)の破片を示したまでで御座る」と大工が言った、と出ず。
予の考えでは、日本の餅屋の禅問答の話と、右に述べたスイスの大工の学論の話はあまりよく相似ておるので、箇々別々に自然に生じた物でなく、たぶんインド辺にあった一話が東西に別れ伝わりて同軌異体のものとなったらしい。さてインドより日本に入るには、たぷん支那を経ただろうから、支那の多くの書籍や伝説中には必ず原話もしくは類話があることと思えど、自力で今まで見出だし得なんだ。よって本誌紙面を拝借して、このことを広告し、大方の教示を竢つ。
ただし予は多少相似たものは必ず一方より他方へ移って変化したと謂わぬ。現に件の『上達方』の一書の八九章に、ゼネヴァでカーム節会に遊び興じて頭に鉄の壺を冒(かぶ)り踏(おど)り舞える者、鼎深く入って頭を抜き出すこと成らず、一同この上は壺を破る外に救助の道なしと歎くところを、イグナセ上人の頓智で履箆(くつべら)を挿し入れて鼻を扁(ひら)め低くし、何の苦もなく頭を抜き出したとあるなんどは、『徒然草』の鼎を冒つて踊った男の話に似ておるが、それには履箆で救うた一件ないから、まずは二話自然に別境に生まれ出たものと惟う。(六月十六日) (大正四年七月一日『日本及日本人』六五八号)
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ここに出る「上達方」は十七世紀フランスの作家フランシス・ベロアルド・ド・ヴェルヴィル(Francois Beroalde de Verville 一五五六年~一六一二年)の艶笑譚集‘Le moyen de parvenir’(「出世の道」)。一六一〇年刊。「ゼネヴァでカーム節会」「ゼネヴァ」はジュネーヴ(フランス語: Genève)であろうが、「カーム節会」は不詳。
「鈴木眞靜君より斯る譚が印度のカリダーサ傳に附屬する由明答を得て、迺」(すなは)「ち鈴木君の全文を十一月十三日のノーツ、エンド、キーリスに譯載した」「鈴木眞靜」は「すずきましづ/しんせい」と読み、明治六(一八七三)年丹波篠山生まれで、アメリカ・印度に留学し、アジア大陸・南米大陸の探検旅行をした人物である。「カリダーサ」は四世紀後半から五世紀前半にかけて生きた古典サンスクリット文学爛熟期のインドの詩人。グプタ朝の最盛期チャンドラグプタ二世の宮廷詩人であったとされ、優雅な文体で伝説・恋愛・冒険の詩や劇を書いた。代表作「シャクンタラー」は王に恋した天女の娘の運命を物語り、カルカッタ滞在の裁判官ウィリアム=ジョーンズによって十八世紀末英訳され、ゲーテらに影響を与えた。他に郷土に残してきた妻への思いを伝える叙情詩「メーガドゥータ」等が知られる(「旺文社世界史事典」に拠った)。「ノーツ、エンド、キーリス」Notes and Queries。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(「報告と質問」)は一八四九年にイギリスで創刊された読者投稿の応答に拠ってのみで構成された学術雑誌。熊楠の投稿記事は「Internet archive」のここ(右の387ページの左の下方の“In consequence of my public inquiry into a probable source of these stories, Mr. Shinsei Suzuki wrote as follows in the Japan and the Japanese, Tokyo, 1 Aug., 1915, p. 143 :—”(「これらの物語の出所と思われるものへの私の一般への問い合わせの結果、鈴木真静氏が『日本及日本人』で次のように記した。」)以下がそれ)で読める。
『十年前「英領中央亞非利加」を著して人種學者民俗學者を益した、アリス、ワーナー女史』アリス・ワーナー(Alice Werner 一八五九年~一九三五年)はドイツ生まれでイギリスに定住したバントゥー語(アフリカの広い範囲で話される言語群。言語系統的にはニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群に含められる)の作家・詩人で、同書は一九〇六年刊の ‘Native Races of British Central Africa’ (「イギリス領中央アフリカの現地人種」)であろう。イギリス中央アフリカ保護領は一八九一年から一九〇七年まで現在のマラウイ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に存在した。
「ザンジバール」アフリカ東海岸のインド洋上にあるザンジバル諸島の地域名。現在はタンザニア連合共和国に属する。
『其梗槪を譯して寄せ置いたから、多分二月中に「日本及日本人」へ出るだらう』調べて見たが、掲載された事実は見出せなかった。「南方熊楠全集」には所収しないようであるが(収録されていれば、「選集」に割注が入るはずであるが、ない)、殆んどが訳文だとすれば、載らないだろうとは思う。
「高値」「かうぢき」と訓じておく。
「曉り」「さとり」。
「ベカカウ」現代仮名遣は「べかこう」で、現行では概ね「べかっこう」「べっかっこう」と発声することが多い。「めかこう」(「目赤う」の変化した語ともされるが、語源は未詳。但し、私は腑に落ちる)の変化した語で、指で下瞼を引き下げて裏の赤い部分を見せること。からかいや、拒否の気持を表わす時などにする仕草。また、その仕草をする時に同時に言う台詞。加えて同時に舌を出すこともある。所謂「あっかんべー」である。
「去た」「さつた」。
「彼の」「かの」。
「(僞せ)住持」贋物とは言えないところを熊楠が補助したもの。
「捷い」「すばやい」。
「天文九年」一五三九年。
「守武獨吟千句」「守武千句」。戦国時代の伊勢内宮神官で連歌・俳諧作家であった荒木田守武(文明五(一四七三)年~天文一八(一五四九)年)の俳諧連句集。天文五(一五三六)年正月に独吟の俳諧千句を立願(りゅうがん)したが、史上初の試みでもあり、一時、挫折、四年後、再挑戦し、大神宮法楽(ほうらく)の俳諧として遂に完成させた。江戸初期の慶安五(一六五二)年になって板行され、広く知られるようになった。彼は山崎宗鑑と並んで「俳諧の祖」と呼ばれる。しかし、不審なことに、「日文研」の「俳諧データベース」の「守武千句」(一ページに異同句も含む)には、この「吾身ながらも尊くぞある」と「目の佛かしらの神を戴きて」の句は見当たらない。似通った句さえないのである。他の俳諧集の誤りか。発見次第、追記する。
「貞德の油粕」(あぶらかす)は江戸前期の京の俳人・歌人で歌学者でもあった松永貞徳(元亀二(一五七一)年~ 承応二(一六五四)年)の俳諧集だが、当該本を確認出来ないので、以下の二句の確認も不能。
「痣」「あざ」。
「正直の頭」(かうべ)「に神宿る」「正直者には必ず神さまのお助けがある」という諺。
「眼瞳」「がんどう」或いは二字で「ひとみ」と読んでいよう。
「Sir Everard im Thum, ‘Among the lndians of Guiana,’ 1883, p.343」エヴァラード・フェルデイナンド・イム・サーン(Everard Ferdinand im Thurn 一八五二年~一九三二年)はロンドン生まれの作家・探検家・植物学者・写真家にして英国植民地管理書記官。一九〇四年から一九一〇年 にはフィジーの知事ともなっている。原本当該部は「Internet archive」のここで読める。
「マクシ人」原本では‘Macsis’とある。いかなる民族かはよく判らないが、調べた限りでは、南米の旧イギリス領ガイアナの南西部に暮らす先住民族で、毒矢を製することが判った。検索過程でたまたま見たサイト「Medical Tribune」の「男性の浮気防ぐなら女性少ない環境が重要? 米研究」の調査対象が彼らであった。
は、人の瞳中に小さき人像あり、其人死して魂身を離るればこの小像滅して見えずと云ふ由、是は眼曇りて最早や對する人が映らぬを斯く云ふらしく、斯る俗信は日本に限らぬと見える。]
序に言ふ。源平盛衰記四五に平重衡斬らるゝ時、土肥實平が鎌倉で善き便宜の候ひしになどて御自害は候はざりけるやらんと問ひしに重衡答へて、人の胸には三身の如來とて佛おはします。怖れ悲しと思ひて身より血をあへさん事は佛を害するに似たり、されば自害はせざりきと言たと見ゆ。今も此邊で人の吭に佛有りと云ひ、火葬跡を搜りて佛を拾へりとて親族が持ち歸り佛壇に納むるを見るに、行燈のカキタテ狀の小骨片で、見樣次第で佛の座像の如く見えぬでも無い。實は第二頸椎骨、解剖學者がアキシス(樞軸)と呼ぶ者だ。扨過る明治四十二年、英國のジー・エチ・リーセムなる人より來書に、其前旅順攻擊に從軍したアシユメツド・バートレツトの近著「旅順攻圍」に二百三高地を日軍が占領した時の記事中次の言有り。云く、「日軍の戰死者一々點檢され、姓名判りし分は早速山より運び下されて火葬を竢つ。この際軍醫戰死者每に其結吭(アダムス、アツプル)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]を截取り置く。是れ故鄕の遺族に送るが爲なり」と。斯る事實際行はれしやと問はれ、熊楠其場に在なんだから何とも答ふる術を知らず。然し、斯る忩劇中に無數の結吭軟骨を截取て保存する抔は有得可らざる事と惟ひ、多分バートレツトは實際親ら覩ぬ事を覩た樣に書たので、全く戰死の屍體を火葬して其第二頸椎骨等を拾うて鄕里へ送る由傳聞したが、言語十分通ぜずして骨片を結吭と誤解し、骨拾ひを截取りと訛傳したのだらうと答へ置いたが、西人が東洋の事を十分呑込まずに種々異樣の事を書立るは每度乍ら不快極まる。其と同時に、從軍記者抔に對しては今少しく言語の能く通ずる邦人をして接待せしめられたい事だ。扨て四年經つて大正二年リーセムより書信有て、誠に熊楠の言の如く、バートレツトは躬ら覩ぬ事を覩たように吹たので有らう。但しバの法螺も多少の所憑は有る。其後種々調べて印度ベンガルのサンタル人は死人の結吭を截取てダムダてふ聖河へ持行き抛入ると知た。バは此サンタル人の事を、等しく喉に關する事とて、日本戰死者に附會したのだらうと述べられた。
(大正五年二月人類三十一卷)
[やぶちゃん注:「選集」では本文の末尾に『(一月十九日夜)』という日付が記されてある。
「源平盛衰記四五に平重衡斬らるゝ時、土肥實平が鎌倉で善き便宜の候ひしに……」国立国会図書館デジタルコレクションの明治四五(一九一二)年有朋堂刊の石川核校訂「源平盛衰記 下」のここ。右ページ後ろから五行目以降で、後ろから六行目以降。「虜(いけどりの)人々流罪 附(つけたり)伊勢(いせの)勅使改元有否(あらんやいなやの)事」の一節。
「あへさん」上記原文で判る通り、「あえさん」が正しい。「あえす」は「落す・零す」で、ここは血を「したたらす」の意。「零(あや)す」の変化した語か。
「此邊」田辺近辺。というより、本邦一般で今も言う。
「人の吭」(のど)「に佛有り」現在でも火葬後の遺族への御骨の解説で、極めて高い確率で「咽喉仏(のどぼとけ)の骨」として紹介される。但し、近年は実際には喉頭隆起(甲状軟骨の張り出し)は軟骨で残らず、熊楠の言うように、脊椎骨の上から二番目の「軸椎」(頭蓋骨の直下にある)骨であるとする科学的な補足をするケースも多い。その形状はサイト「トレンドの樹」の「anatomy of Axis(Epistropheus)軸椎(第2頸椎)の解剖(用語、名称、写真)」が非常に判り易く、医学的説明も完備している。それを見ると、恰も手を合わせた仏の像にシミュラクラすると言ってよい。キリスト教では、この「咽喉仏」を後で熊楠が言うように「アダムのリンゴ」(Adam's apple)と呼ぶ。言わずもがなであるが、禁断の木の実を齧っているところを神に見られたアダムが慌てて飲み込もうとして咽喉に詰まらせたのが、その元だと言われる。
「行燈」(あんどん)「のカキタテ」行灯の内部には油皿を置き、そこに菜種油などの植物性油を注ぎ、灯心を入れて点火するが、この油皿の中の灯心を押さえ、また、灯心を掻き立てるために「掻立(かきたて)」というものが用いられる。金属製や陶製などで、いろいろあるが、その形がちょっと軸椎に似ているというのである。
「アキシス(樞軸)」Axis。アックシス。
「扨過る」「さて、すぐる」。
「明治四十二年」一九〇九年。
「ジー・エチ・リーセム」不詳。
「旅順攻擊」「日露戦争」中の、ロシア帝国の旅順要塞を日本軍が攻略・陥落させた「旅順攻囲戦」は一九〇四(明治三七)年八月十九日から一九〇五(明治三八)年一月一日にかけて戦われた。
『アシユメツド・バートレツトの近著「旅順攻圍」』イギリスの従軍記者エリス・アッシュミード・バートレット(Ellis Ashmead-Bartlett 一八八一年~一九三一年)の ‘Port Arthur the siege and capitulation’ (「旅順の包囲と降伏」:一九〇六年刊)。彼は後の第一次世界大戦で活躍した。
「竢つ」「まつ」。「俟」の異体字。
「結吭(アダムス、アツプル)」「結吭」「けつこう」と音読みしておく。
「在なんだから」「あらなんだから」。
「術」「すべ」。
「忩劇」(そうげき)は「怱劇」とも書く。非常に忙しく慌(あわただ)しいこと。
「截取て」「きりとつて」。
「有得可らざる」「ありうべからざる」。
「惟ひ」「おもひ」。
「親ら」「みづから」。
「覩ぬ」「みぬ」。
「訛傳」「くわでん」。誤って伝えること。
「大正二年」一九一三年。
「躬ら」「みづから」。
「吹た」「ふいた」。
「バ」アシユメツド・バートレツト。
「所憑」「よりどころ」。
「印度ベンガルのサンタル人」インドのビハール州南部を中心に、オリッサや西ベンガルにかけて居住する原住民部族。人口三百万以上を数え(一九六一年現在)、山地の焼畑耕作部族と、平地のヒンドゥー農民との中間地域を、ほぼ居住空間としている。時に南蒙古人種の要素も指摘されるが、基本的には原オーストラロイド人種(オーストラリア大陸・ニューギニア・メラネシアを中心としたオセアニア州及びスンダ列島・スリランカと、ムンバイを中心としたインド西南部から南部などの南アジアにかけての地域に分布する人種)型を示す。固有の言語はサンターリー語であり、ムンダ族やオリッサ州山地部族民の言語とともにアウストロアジア語族に属する。サンタル族は基本的には同じくチョタ・ナーグプル高原に住むオラオン族やムンダ族などと、ほぼ同水準同内容の文化を持つ部族民であるが、取り分け、その部族主義的傾向で知られている(概ね平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「ダムダてふ聖河」ダモダル川インド東部の西ベンガル州を流れる川。この西ベンガル内に「ダーモーダル川」とあるのがそれであろう。
「持行き」「もちゆき」。
「抛入ると知た」「なげいれるとしつた」。]
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