フライング単発 甲子夜話續篇卷之三十五 5 河神靈面圖
[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し(カタカナのそれは珍しい静山の振ったルビで、本篇には異様に多い)、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミングして適切と思われる位置に挿入した。下線は底本では二重右傍線である。]
35―5 河神靈面圖
この春【庚寅[やぶちゃん注:文政一三(一八三〇)年。]。】も亦、與淸《ともきよ》の贈《おくる》に、
【火災・水難、祓除《はらひのぞく》。】河神靈面眞圖【武藏國多麻郡高畑不動尊別當金剛寺盛雅開眼《かいげん》。】。
[やぶちゃん注:この彫琢された河神霊面は現存しないようである。]
諾樂(ナラ)ノ西ノ京ノ藥師寺は、天武天皇白鳳九年[やぶちゃん注:私年号(「日本書紀」に現われない元号)で六八〇年。]に創建たまひしより、後奈良院天皇享祿二年[やぶちゃん注:一五二九年。]まで、囘祿(ヒノワザハヒ)に罹(カヽ)れること、三度(ミタビ)なれど、天武の時の東塔(トフタフ)、長屋王(ナガヤノオホキミ)の建立(タテ)られし東金堂(トウコンダウ)【東禪院堂といふ、これ也。】及(マタハ)、佛足石碑は、災(ヒ)に免(マヌカ)れて、往昔(ムカシ)のまゝなるぞ、奇(クス)しく妙(タヘ)なるや。此ノ東金堂の天井(テンジヤウ)の上(ウヘ)に、古き彫物(ヱリモノ)など、多く存(ノコ)れる中、鬼(オニ)神の假面(メン)ありとて、護法院の密道法師がおこせたるをみれぱ、水火の難(ナン)を祓除(ハラヒノゾク)といへる河伯《かはく》の古面(フルキカタ)なりけり。
河伯、又は、河神《かはのかみ》といふ。
「神代記」【上卷。】に、伊弉册尊(イザナミノミコト)川を生(ウミ)たまふとある、これ也。「仁德記」【十一年四月の條。[やぶちゃん注:機械換算で三二三年。]】に、「河伯」とも、「河神」とも書き、「神名帳《じんみやうちやう》」【下卷・「陸奧國」「亘理(ワタリ)《の》郡《こほり》」の部。】に、阿福麻河伯神社(アフクマノカハノカミノヤシロ)、「倭名類聚抄」【寶生院本・「神靈」の部。】〕に、「兼名苑」云ク、『河伯、一名ハ水伯、河ノ神ナリ也【和名「加波乃賀美(かはのかみ)」。】など、みゆ。「蜻蛉日記」【附錄。】には、
はらがら(同腹兄)[やぶちゃん注:「はらがら」に対する静山に左ルビ。以下、同仕儀。]の陸奧守(長能《ながとう》)にてくだる(下向)を、長雨しけるころ(頃)、そのくだる(其下)日、はれ(晴)たりければ、かの(彼)國に「かはく(河伯)」といふ神ありとて、歌に、
〽わがくにの神のまもり(守)やそへ(添)りけんかはくけありし天つ空かな(指テ二陸奥國一云フ)【藤原長能。】
返し、
〽かく(斯)ぞしる(知)かはく(河伯)ときけ(聞)ば君がためあまてる(天照)神の名にこそ有けれ【右大將道綱母。】
とも、よめり。
「壒囊抄《あいなうしやう》【十の卷。】に、毘沙門(ビシヤモン)の鎧前(ヨロヒノマヘ)の鬼面(オノニメン)は河伯(カハク)ノ面にて、大國(タイコク)の鎧ノ具(グ)なり。佛師がカハヌといふも、河伯面(カハメ)を誤(アヤマ)れる歟(カ)。秦皇の裝束にもありて、オビクヒとよぶ。字(モジ)は「帶食」「帶頭」など、書けり。河伯は「抱朴子」・「靑金傳」などに出て、花陰潼鄕《くわいんとうきやう》の馮夷《ひようい》といふ者(モノ)、八月上《じやう》ノ庚《かのえ》の日、河に溺死(オボレシニ)たるを、天帝、署(シル)して、「河伯」とせるよし、論(アゲツラヒ)たり。
「魚龍河圖《ぎよりゆうかと》」【「史記」、「封禪書《ほうぜんしよ》」ノ注ニ所ㇾ引。】・「搜神記」・「西溪叢語」・「下學集」などの說、はた、鄰(チカ)し。
「淮南子《えなんじ》」【「氾論訓《はんろんくん》」。】には、河伯、人を溺レ死(シナ)しむるゆゑ、羿(ゲイ)、その左ノ目を射(イル)といひ、「漢書」【「王尊傳」。】・「穆天子《ぼくてんし》傳」・「易林」・「續博物志」などをはじめて、所見、擧(アグル)に遑(イトマ)なし。
花陰潼鄕ノ隄首《ていしゆ》ノ人にて、姓(ウヂ)ハ「呂」、名ハ「公子」。夫人ノ姓ハ「馮」、名ハ夷とも。又、一人にて、姓ハ「馮」、名ハ「夷」、字ハ「公子」ともいひ、「水仙」と號(ナヅク)とも、いへり。
さて、此ノ古面、千百餘年の神靈の物なれば、八月ノ初(ハジメ)の庚日(カノエノヒ)、酒漿《しゆしやう》を捧(サヽゲ)て祭る人、必(カナラズ)、水火(ヒミヅ[やぶちゃん注:ママ。])の災難(ワザハヒ)を免(マヌカ)るゝこと、「易林」・「續博物志」の說にて、疑(ウタガヒ)なし。文政十二年[やぶちゃん注:一八二九年。]八月上庚九日、江戸松屋主人小山田與淸識。
■やぶちゃんの呟き
「與淸」「江戸松屋主人小山田與淸」国学者・故実家であった小山田与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)。号は松屋(まつのや)。江戸の高田氏の養子となり、漕運業を営み、後に隠居して小山田の本姓に復し、学問に専念した。村田春海門下であるが、漢籍にも造詣が深く、博覧を以って知られ、特に考証に力を尽した。蔵書五万巻に及び、「群書捜索目録」の編纂に心血を注いだ。平田篤胤・伴信友とともに春海・加藤千蔭以後の大家と称される。「考証随筆松屋筆記」(文化末年(一八一八)頃から弘化二年(一八四五)頃までの約三〇年間に和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在知られているものは八十四巻)は著名(概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「武藏國多麻郡高畑不動尊別當金剛寺」東京都日野市高高幡にある真言宗智山派別格本山明王院金剛寺(グーグル・マップ・データ)。「高幡不動尊」の通称で知られる。本尊は大日如来。大学生の時に訪ねた。平安時代後期の木造不動明王及び二童子像(向かって右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)。左に制吒迦童子(せいたかどうじ)が脇侍)が重要文化財。不動堂のそれは当時の私が見惚れるほど素晴らしかった。但し、実物は奥殿にある。不動堂のものはレプリカなので注意。公式サイトの不動三尊の画像のあるページをリンクさせておく。
「盛雅」恐らくは当時の、同寺の第二十七貫主。
「天武の時の東塔(トフタフ)」事実、薬師寺東塔は創建当初から回禄などを受けず、唯一現存するもので、平城京最古の建造物とされて今にある。参照した公式サイトのページをリンクさせておく。
「長屋王(ナガヤノオホキミ)の建立(タテ)られし東金堂(トウコンダウ)【東禪院堂といふ、これ也。】現行では「東院堂」と呼ばれている。養老年間(七一七年~七二四年)に長屋王正妃であった吉備内親王が、母の元明天皇の冥福を祈って建立したもの。但し、後の弘安八(一二八五)年に正面七間・側面四間の入母屋造本瓦葺で南向きに再建され、また、建造物全体を享保一八(一七三三)年に西向きに変えている。鎌倉後期の和様仏堂の好例とされる。参照した公式サイトのページをリンクさせておく。
「佛足石碑」「仏足石」は側面の銘文により、天平勝宝五(七五三)年に作られたことが判明している。古代の仏足跡は例が少なく、この薬師寺仏足石は現存する最古の仏足跡とされる。「仏足跡歌碑」は『奈良時代に彫られた歌碑で、仏足跡への賛歌や仏教道歌』二十一『首刻まれてい』る。無論、仏足跡歌は「五七五七七七」の一首三十八文字から成る「仏足跡歌」体で詠まれているが、『この歌体は』この『仏足跡歌碑のほか』には「古事記」・「万葉集」などに『数点のこるだけで、極めて貴重で』、二十一『首はすべて万葉仮名で書かれ、奈良時代の人びとの信仰と文化の高さを今に伝えてい』るとある。孰れも国宝。参照した公式サイトのページをリンクさせておく(仏足石及び歌碑の写真もある)。
「護法院の密道法師」不詳。現在の薬師寺の塔頭にはこの名はない。
「神名帳」神社名・神名を記した名簿。「しんめいちやう」と読んでもよい。公的には特に延喜式」の巻九・巻十に載せる「神名式」の上・下を「延喜式神名帳」と呼ぶ。律令制下の官社を国・郡毎に挙げて、社格(大社・小社)・祭儀の種類を記す。二千八百六十一社・三千百三十二座に及び、記載される神社は「延喜式内社」(式内社)と呼ばれる。早く中世には写本が作られ、研究が始まっていた。
『「陸奧國」「亘理(ワタリ)《の》郡《こほり》」の部。】に、阿福麻河伯神社(アフクマノカハノカミノヤシロ)」国立国会図書館デジタルコレクションの昭和四(一九二九)年大岡山書店刊の皇典講究所・全国神職会校訂「延喜式」上巻(全二巻)の「卷十 神祇十 神名下」のここに、『安福河伯神社』とある。安福河伯神社として、宮城県亘理郡亘理町(わたりちょう)逢隈田沢(おおくまたざわ)字(あざ)堰下(せきした)に現存する。ここ。当該ウィキによれば、主祭神は速秋津比売神(はやあきつひめのかみ:水神)とし、景行天皇四一(機械換算一一一)年八月六日、『日本武尊により勧請されたと伝わる。清和天皇の御世の貞観』四(八六二)年六月二十五日に『官社に列し、正五位上を授けられた。往古は旧田沢村一円が神領地に指定されていたが、天正時代に戦乱が相次いだ影響で神領地は廃絶した』。『境内の由緒書によれば、安福河伯神社は阿武隈川の治水用水・大和朝廷の北辺守護のために創建されたという。創建当初は、現在の鎮座地から東の逢隈田沢字宮原の阿武隈川のそば(常磐線の線路の西』二百メートルの『堤防下)に鎮座していた。その後、現在の鎮座地である水上山の上へ遷座されたという』。『代々の領主からも篤く崇敬され』、『寄進が行われた』とある。
『「倭名類聚抄」【寶生院本・「神靈」の部。】〕に、「兼名苑」云ク、『河伯、一名ハ水伯、河ノ神ナリ也【和名「加波乃賀美(かはのかみ)」。】』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の版本で起こす。二十巻本の巻二の「鬼神第五」「神靈類第十六」の以下である。
*
河伯(カハノカミ) 「兼名苑」に云はく、『河伯、一(いつ)に「水伯」と云ひ、河の神なり【和名「加波乃加美(かはのかみ)」。】』と。
*
『「蜻蛉日記」【附錄。】』これは右大将藤原道綱の母の「蜻蛉日記」本文とは全く別のもので、彼女の没後十年前後の寛弘年間(一〇〇四年~一〇一二年)に作者に所縁のある人物によって日記以外の歌を伴う断片が集められたもので、成立後に、誰かの手によって(例えば藤原定家辺りか)「日記」本文に附録されたものである。
「はらがら」親族の同胞(はらから)。
「陸奧守(長能《ながとう》)藤原長能」不審。小山田与清の附したものであろうが、所持する岩波「日本古典文学大系」版(一九五七年刊)の鈴木知太郎氏の頭注によれば、実は本当に長兄長能かどうかは実は判っていない。今一人の次兄理能(まさとう)の孰れかであるが、二人の任官は孰れも陸奥守ではなかったからである。
『かの(彼)國に「かはく(河伯)」といふ神あり』先の安福河伯神社を指す。
「指テ二陸奥國一云フ」「陸奥(みちのく)の國を指して云ふ」。
「〽わがくにの神のまもり(守)やそへ(添)りけんかはくけありし天つ空かな」「かはく」は「河伯」に晴れ渡った門出を言祝ぐ「乾く」を掛けたもの。
「〽かく(斯)ぞしる(知)かはく(河伯)ときけ(聞)ば君がためあまてる(天照)神の名にこそ有けれ」鈴木氏の頭注に、『阿武隈の河伯の神は、君にとって天照る御神にもあたるあらたかな神の名だ。』と通釈がある。
「壒囊抄」「塵添壒囊鈔」(じんてんあいのうしょう)。単にかくも呼ぶ。十五世紀室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書。同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻十の「十七」条「毘沙門ノ鎧のノ前ニ。鬼面アリ。其名如何」である。そこでは痘瘡の流行にニラとネギとを食すことで効果があった旨の記載がある。小山田は後半に考証を認めずに記していないが、最後に、『或書ニ云。河伯面是ヲ海若(アマノシヤク)ト云』とあって、河伯と天邪鬼の連関性を言う説が既にあったことが判り、興味深い。
「抱朴子」晋の道士で道教研究家の葛洪(かつこう 二八三年~三四三年)の書いた神仙思想と煉丹術に関する彼の著になる理論書。
「靑金傳」不詳。
「花陰潼鄕」「隄首」「花陰」縣は現在の陝西省内だが、以下の地名は不詳。
「馮夷」中国の神話にみえる水神。冰夷とも記す。「山海経」の「海内北経」に『馮夷は人面にして兩龍に乘る』と見え、人面魚身の河伯が黄河の神であるのに対し、馮夷は竜形の神である。司馬相如の「大人賦」(たいじんのふ)、曹植の「洛神賦」に女媧(じょか)と並称され、また郭璞(かくはく)の「江賦」に、江妃と男女神とされることもあり、南方の水神である。女媧と並称されるのは、伏羲(ふっき)から分化した水神であろう。「荘子」の「大宗師篇」には、道を得て大川に遊ぶもの、とされている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「八月上ノ庚の日」旧暦八月の最初に「庚」となる日。
『「魚龍河圖」「ぎよゆうかと」【「史記」、「封禪書」ノ注ニ所ㇾ引。】』原本は失われているようである。「封禪」は中国古代に帝王が行なった報天の祭儀で、最重要の秘儀とされた。「封」は天を祀る儀式で、泰山の上に土壇を設えて行い、「禪」は地神を祀るもので、麓の地で成された。秦の始皇帝が紀元前二一九年に泰山に於いて始皇帝が執行したのが始まりとされ、漢の武帝、後漢の光武帝、魏の明帝、唐の玄宗、宋の真宗ら多くの帝王によって盛大に営まれている。封禅の意義は、当初は山神・地神に不老長寿や国運の長久を祈願するところにあったが、莫大な国費を投じて行われる国家的祭儀であったため、後には、次第に帝王の威武を誇示する政治的な祭儀へと形を変えていった(主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「搜神記」四世紀の東晋の干宝が著した志怪小説集。
「西溪叢語」南宋の姚寛の随筆。
「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的は、その語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「淮南子」本邦の学者間では「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。
「羿(ゲイ)」中国古代神話の伝説中の弓の名人。「春秋左氏伝」によると、夏王から支配権を奪って有窮国(現在の山東省地方)に君臨した羿は、狩猟に耽溺して悪政を敷いたため、家臣に殺されたとする。しかし「淮南子」では、堯帝の時、十個の太陽が同時に出たため、地上が炎熱の世界となったので、堯の命を受けた羿は、そのうちの九個を射落としたとする。また、「山海経」によれば、羿は天帝の命令によって怪物を退治するなど、民衆の苦しみを救ったとある。元来、東方民族の英雄神であったものが、後の中原(ちゅうげん)の神話の中で、巧みな弓を奢って狩猟に溺れた悪徳君主として姿を変えたものであろう。他に仙女西王母から与えられた不死の薬を、妻の恒娥に盗まれたという別伝承もあり、羿神話の体系化は困難である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「王尊傳」王尊(生没年不詳)は前漢の官僚。当該ウィキを読まれたいが、そこに紀元前二十七年頃、東郡太守であった時、『黄河で大水があり、東郡でも害を成していた。王尊は河の神を祀り、自分の身をもって洪水を鎮めようとした。民や役人が王尊を止めても』、『王尊は去ろうとせず、堤防が決壊しそうになっても微動だにしなかったが、水は次第に引いていった。この功績で王尊には中二千石の秩と黄金が与えられた』とあるのが、その記事であろう。
「穆天子傳」当該ウィキによれば、周の穆王の伝記を中心とした全六巻から成る歴史書。「周王遊行」とも呼ばれる。穆王在位五十五年間の南征北戦(外征)について詳しい。その記録は崑崙山への九万里の西征で西王母と会い、帰還後は盛姫という美人に対する情愛についての記録で終わっている。「春秋左氏伝」の歴史記述様式と異なり、穆王を中心とした描写風の随筆になっている、とある。
「易林」「焦氏易林」か。前漢の宣帝(紀元前八十年)の頃に易学者の孟喜(もうき)が「周易」に暦を配置し、弟子の焦延壽(しょうえんじゅ)が「周易」の六十四卦を累乗発展させて「四千九十六卦」とした。一卦ごとに四言絶句の詩を当てて、約七万四千字なったものがそれである(サイト「綾小路 蘭堂先生」のこちらに拠った)。
「續博物志」宋の李石が、晋の張華が著した幻想的博物書「博物志」に倣って、諸種の異聞を集め、天象・地理等の順に分類配列した書。
「八月上庚九日、江戸松屋主人小山田與淸識」与清、お洒落だねぇ!
« フライング単発 甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖 | トップページ | 「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」 »