「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「山の神に就て」
[やぶちゃん注:本論考は大正六(一九一七)年五月発行の『人類學雜誌』第三十二巻第二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いたが、「j-stage」のこちらで初出画像をダウン・ロードでき(PDF)、その他、初出も誤っている部分は平凡社「選集」も参考にした(それらで冒頭の初出誌の巻数の誤り(誤植か)や、鍵括弧の不全、漢字の誤字等を、複数、修正した。それは特に断っていない)。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。太字は底本では傍点「○」である。]
山の神に就て
人類學雜誌三十二卷三號八八頁に、佐々木繁君がオコゼ魚の話を述た中に、山神海神と互に持ち物の數を誇り語る時、山神自分所有の植物を算えて勿ちにセンダン、ヤマンガと數へ、海神色ひるむを見て得意だつたが、海神突然オクゼと呼たるにより山神負たと有る。是は二九九號一九一頁に予が書いた熊野の安堵峯邊で傳ふる、山祭りの日山神自ら司る山の樹木を算うるに、可成木の多き樣算へん迚每品異名を重ね唱え『赤木にサルタに猿スベリ(姬シヤラの事)、マツコウ、カウノキ、カウサカキ(シキミの事)』抔讀む。此日人山に入れば其内に讀込るとて怕れて往ずと有たと同源から出たらしい。木の内に讀込るれば忽ち死して木となると云事だらう。本邦に昔し草合せの戯有た事古今要覽稿等に見え、吾等幼時熊野の串本邊の小兒も之を爲た。乃ち支那で云ふ鬪草だ。『劉賓客嘉話錄』に『晉謝靈運髭美、臨刑因施爲南海祗洹寺維摩詰像髭、寺人寶惜、初不虧損、中宗朝、安樂公主五日鬪草、欲廣其物色、令馳騎取之、他恐爲他所得、因剪棄其餘、今遂無」と有り。『古今著聞集』に宮中の菖蒲合せ花合せ前栽合せ抔を記せるを併せ攷ふるに、和漢とも草合せの小戯が大層な共進會と成り遂に音樂遊宴を雜ゆるに及んだのだ。佐々木君の所謂ヤマンガは山桑てふ山茱萸科の木、熊野では初夏白花咲き秋實紅熱して食ふべき物で有う。勿ちにセンダンの勿ち、もしくはアフチの誤植か[やぶちゃん注:初出も「選集」もこうなっているが、これでは意味が通らない。後者の「勿ち」は「忽ち」の誤字ではなかろうか?]。果して然らばアフチ、センダン一物異名なれば、山神所有の一木を異稱もて重ね呼ぶ事、安堵峯邊で赤木にサルタ云々と重ね呼ぶてふに同じかるべし。扨予が安堵峯邊の傳說を本誌に寄た後、彼山より遠からぬ日高郡龍神村の人々より聞たは、山祭りの日(陰曆十一月初めの申の日)猴が木を算ふる迚人々怕れて山に入らずと。隨て考ふるに彼邊では本と猴を山神としたので、扨こそ其顏の色と其名にちなんで、赤木にサルタにサルスベリとヒメシヤラの一木を三樣に言ひ重ねると傳えたのだらう。又山神女身で甚だ男子が樹陰に自瀆するを好むと傳ふるも、昔し山中猴多き地には牝猴不淨期至り慾火熾盛なるを見て言出た事か。予壯歲にしてサーカスに從ひたりき。屢ば黑人抔が牝牡の猴に種々猥褻な事をして見せると、或は喜んで注視し或は妬んで騷擾するを見た。類推するに昔し牝猴に自瀆する處を見せ悅ばせた事も山民中に行はれたものか。『神異經』に、𧳜と云ふ大猴善く木に緣り、純牝にして牡なく、要路に群居し男子を執へ之と合して孕む抔有るも類似の話だ。猴の經立は能く人に似て女色を好み里の婦人を盜み去る事多しと佐々木君の話し柳田氏の遠野物語三六頁に見え、猴殊にゴリラ、一たび自瀆を知れば每度之を繰り返し行ひ、遂に衰死するを予幾度も見た。De Chambre, ‘Dictionnaire Encyclopédique des Sciences Médicares,’ 2me série, tom.xiv, p.363, 1866 にも、犬や熊もするが猴類殊に自瀆する例多しと記す。
其から二九九號一九二頁已下に予が全文を出した「山神繪詞」は、一昨春米國のスヰングル氏來訪された砌り、其繪を見て殊の外望まれた。因て畫工に寫させ予其詞を手筆し贈ると、非常に珍重し大枚二十五圓程投じて金泥銀粉で美裝させ持歸つた、と白井博士から文通が有た。此繪には山神を狼とし居り、今も熊野に狼を名いはず山の神と呼ぶ村が有る(例せば西牟婁郡溫川)。獵師に聞たは鹿笛は錢二つ重ねて小兒が吹き弄ぶ笛に似、婦女の笄櫛等を盜みて作り、盜まれた婦女が搜し求むれば求むる程效著し。二三聲シユーシユーと吹て止める、其より多く吹ず。吹き樣種々有て上手に成るは六かし。之を吹て第一に來るは狼で、狼來れば直ちに吹く人の頭上を二三度飛ぶ。爾時他の諸獸悉く、近處に來り有りと知ると。其他種々聞いた事共から推すと紀州の山神に猴と狼と有り、猴神は森林、狼神は狩獵を司ると信じたらしく、オコゼ魚を好むは狼身の山神、自瀆を見るを好むは猴體の山神に限るらしい。
末筆ながら述ぶるは人類學雜誌三十二卷二號五九頁を子細を知らぬ人々が讀むと、本邦吉野の柘の仙女や歌に詠まれた山姬や、女形の山神、山婆山女郞等が希臘古傳のニムフスに相當すとは佐々木君が言出された樣合點する向も有るべきも、右の說は本と同誌二九九號一九二頁に予が明記し置たので決して佐々木君の創見で無い。
(大正六年五月人類第三十二卷)
[やぶちゃん注:「人類學雜誌三十二卷三號八八頁に、佐々木繁君がオコゼ魚の話を述た」初出論考はネット上では読めない。「佐々木繁」は、かの「遠野物語」の原作者佐々木喜善のペン・ネームの一つ。
「センダン」栴檀(せんだん)。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。
「ヤマンガ」後文で「佐々木君の所謂ヤマンガは山桑てふ山茱萸科の木、熊野では初夏白花咲き秋實紅熱して食ふべき物で有」(あら)「う」と熊楠は言っているので、これは、モクレン綱バラ上目バラ目クワ科クワ属ヤマグワ(山桑)Morus australis の異名となる。ウィキの「クワ」によれば、『養蚕に使われるクワに対する、山野に自生するクワという意味でよばれている』。『中国植物名(漢名)は鶏桑(けいそう)という』。『学名の』シノニムの『Morus bombycis は、カイコの学名である Bombyx に由来する』。樹高は十メートル、幹径は六十センチメートルにまで『生長する』。『日本、南千島、樺太、朝鮮半島、中国、ベトナム、ミャンマー、ヒマラヤに分布』し、『樹皮は灰褐色で、縦方向に不規則な筋が入る』。『葉は卵形や広卵形であるが』、『不整な裂片を持つものもあり、形は様々である』。『開花期は』四月で、殆んどが『雌雄異株であるが、ときに雌雄同株』も見られる。『花は小さくて目立たず、花後につく果実は』一センチメートル程の『集合果で「ドドメ」ともよばれており、はじめ赤色であるが』、『夏に熟すと』、『黒紫色になり、食用にされる』。『完熟果実を食べると』、『唇や舌が紫色に染まり、昔は子供たちのおやつによく食べていた』。『養蚕用に栽培されることも多い』が、『日本では一般には養蚕には用いられていない種であるが、栽培桑の生育不良で飼料不足となるときに用いられた』。『霜害に強く、栽培桑が被害を受けたときに備えて』、『養蚕地帯では霜害が割合的に少ない山地に植えて置き、栽培桑の緊急時の予備とした』。『しかし、ヤマグワの葉質は栽培桑よりも硬いため、カイコの成長が遅くなり、飼料として』の『性質は劣る』。『北海道では、栽培種のクワの生育が困難だったため、開拓初期に各地で様々な試行錯誤が行われ、ヤマグワを用いて養蚕が行われた時もあった』とある。私も幼少期、裏山のヤマグワの実が好きで、よく食べた。最後の一樹は三十年程前まで命脈を保っていたが、最早、住宅化され、消えてしまった。甘く美味しかったが、実の間の糸のような毛が舌に刺さるのが、一寸、難儀であったのを懐かしく思い出す。「ヤマンガ」は思うに「山ん桑(ぐわ)」の転訛であろう。
「オクゼ」オコゼに同じ。
「負た」「まけた」。
「二九九號一九一頁に予が書いた熊野の安堵峯邊で傳ふる、山祭りの日山神自ら司る山の樹木を算うるに、可成」(かなり)「木の多き樣」(やう)「算へん迚」(とて)「每品異名を重ね唱え『赤木にサルタに猿スベリ(姬シヤラの事)、マツコウ、カウノキ、カウサカキ(シキミの事)』抔讀む。……」以上は『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』を指す(PDF縦書版はこちら)。この「赤木にサルタに猿スベリ(姬シヤラのこと)」の三つの名は、熊楠の言うように、「姫沙羅」、ツツジ目ツバキ科ナツツバキ属ヒメシャラ Stewartia monadelpha の異名で、現行でも「赤栴檀」「アカラギ」「サルナメリ」「サルタノキ」の異名がある。「マツコウ、カウノキ、カウサカキ(シキミの事)」同前で、これはマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum の異名である。仏事に於いて抹香・線香として利用されることで知られ、そのためか、別名も多く、「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」などがある。最後の「カウサカキ」は「香榊」で、ウィキの「サカキ」によれば、上代にはサカキ(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica )・ヒサカキ・シキミ・アセビ・ツバキなどの『神仏に捧げる常緑樹の枝葉の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、本種が標準和名のサカキの名を獲得した』とある。サカキは神事に欠かせない供え物であるが、一見すると、シキミに似て見える。名古屋の義父が亡くなった時、葬儀(臨済宗)に参列した連れ合いの従兄が、供えられた葉を見て、「これはシキミでなく、サカキである。」と注意して、葬儀業者に変えさせたのには、感銘した。因みに、シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されていることも言い添えておく。
「讀込る」「よみこまる」。
「怕れて往ずと有た」「おそれてゆかずとあつた」。
「草合せ」「くさあはせ」平安時代の遊戯で、「物合せ」(左右に分かれて物を比べ合わせ、その優劣を競う遊びの総称)の一つ。五月五日の節句に種々の草を集め、その種類や優劣を競った。宮廷でも行われ、負けると衣服を脱いで、勝った者に与える風習があったとされる。鎌倉時代でも子供の遊戯として残ったが、その後、衰えた。本来は「薬狩り」(山野での薬草採集)から起ったもので、「競狩」(きおいがり)・「草くずし」等とも称した。「闘草」とも言うが、これは「荊楚(けいそ)歳時記」(中国南方の荊楚地方(長江中流域)の年中行事を記した「月令」(がつりょう)の一種で、六世紀の南朝梁の宗懍(そうりん)によって書かれ、隋の杜公瞻(とこうせん)によって注釈が加えられた)に、五月五日に行われた「闘草」についての記述が見え、それとの関連が想定されている。次の次の注のリンク先を参照されたい。
「戯」「たはむれ」と訓じておく。
「古今要覽稿」(ここんえうらんかう)は類書。幕臣で国学者であった屋代弘賢編。文政四(一八二一)年に幕命により全一千巻の予定で編纂を開始し、天保一三(一八四二)年までに五百六十巻を調進したが、弘賢没後は編纂が中絶した。後の明治三八(一九〇五)年から翌翌年にかけて全篇が出版された。事項は神祇・姓氏・時令・地理など二十部門別に意義分類して、その起源や沿革などに関して、先ず、総説を述べ、古文献の記述や本題に因む詩歌を引用し、別名などを示しており、引用が豊富で、しかも詳しい。日本初の本格的な百科事典と言える。かなり手間取ったが、国立国会図書館デジタルコレクションの明治四〇(一九〇七)年国書刊行会刊の活字本のこちらで見出した。挿絵もあるので、以下に画像で、そのままトリミングせずに掲げる。
「爲た」「した」。
「鬪草」「くさあはせ」。
「劉賓客嘉話錄」「劉賓客」は中唐から晩唐初期の知られた詩人で政治家の劉禹錫(うしゃく 七七二年~八四二年)の官位に基づく別称。彼が晩唐の官僚韋絢(七九六年 ~?)に語った話を記したもの。「維基文庫」のこちらで、全文が示されてある。以下の引用には不審な箇所があり、それで訂した。
「晉謝靈運髭美、……」訓読する。晉謝靈運髭美、臨刑因施爲南海祇洹寺維摩詰像髭、寺人寶惜、初不虧損、中宗朝、宗樂公主五日鬪草、欲廣其物色、令馳騎取之、他恐爲他所得、因剪棄其餘、今遂無」と
*
晉の謝靈運(しやれいうん)は、髭(くちひげ)、美なり。刑に臨み、因りて、施すに、南海祗洹寺(ぎをんじ)の維摩詰(ゆいまきつ)の像の髭と爲せり。寺人(じじん)、寶惜(ほうせき)し、初め、虧損(きそん)せず。中宗の朝(てう)に、安樂公主(あんらくこうしゆ)、五日、鬪草(くさあはせ)し、其の物色(ぶつしよく)を廣めんと欲して、騎を馳(は)せて、之れを取らしむ。他(たにん)の得る所と爲ることを恐れ、因りて其の餘(のこ)りをも剪(き)り棄(す)つ。今、遂に無し。
*
「謝靈運」(三八五年~四三三年)は東晋から南宋にかけての詩人・文学者。魏晋南北朝時代を代表する名詩人で、山水を詠じた詩が名高く、「山水詩の祖」とされる。当該ウィキによれば、『六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は』『前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将であ』った。四〇六年の二十歳の時に当主となったが、四二〇年、『東晋に代わって南』『宋が建てられると、爵位を公から侯に降格された。少帝の時代に政争に巻き込まれ、永嘉郡(現在の浙江省温州市)の太守に左遷させられるも、在職』一『年で辞職、郷里の会稽に帰って幽峻の山を跋渉し、悠々自適で豪勢な生活を送った。この時に他の隠士とも交流し、多くの優れた詩作を残した』。四二四年、『文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ』、「晋書」の『編纂などに従事した。その後、侍中に遷った。しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、病気と称して職を辞し、再び郷里に帰った』。『再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。特赦により臨川郡内史に任ぜられるが、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。その後、武器や兵を募って流刑の道中で脱走を計画したという容疑をかけられ、市において公開処刑の上、死体を晒された。享年』四十八であった、とある。「南海祗洹寺」不詳。「維摩詰」サンスクリット語「ビマラキールティ」の漢音写「毘摩羅詰利帝」の縮約で単に「維摩」とも。「浄名」「無垢称」などと漢訳される。「維摩経」に登場する主人公(恐らく架空)で、古代インドの毘舎離(びしゃり)城に住んだとされる大富豪。学識に富み、在家のまま菩薩の道を行(ぎょう)じ、釈迦の弟子としてその教化を助けたとされる人物。「中宗」は唐の第四代(在位:六八四年一月三日 ~二月二十六日)・第六代皇帝(七〇五年二月二十三日~七一〇年七月三日)。当該ウィキによれば、彼は最初の『即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞(元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。この発言を理由に、即位後わずか』五十五『日で廃位され、均州・房州に流された』。『代わって同母弟の李旦(睿宗)が即位したが』、六九〇『年に廃位され、武則天が自ら即位して武周』朝を建国した。『その末期の』六九九年、彼は『武則天により再び立太子され』、七〇五『年にクーデタで退位を余儀なくされた武則天は』彼に譲位した(唐の復興)という経緯がある。「安樂公主」(六八四年~七一〇年)は唐の中宗の娘。彼女は後、母韋后と共謀し、中宗の殺害と唐朝の簒奪を企て、七一〇年七月三日、中宗が両者により毒殺されるのだが、臨淄王(りんしおう)李隆基(後の玄宗)が直ちに兵を挙げて韋后を殺害(七月三日)、さらに逃亡した安楽公主も七月二十一日に殺害されている。懲りない連中だな。従って以上は中宗第六代在位中の十一年弱の閉区間の出来事となる。
「『古今著聞集』に宮中の菖蒲合せ花合せ前栽合せ抔を記せる」「古今著聞集」(伊賀守橘成季編。(建長六(一二五四)年頃に原型成立)の巻第十九の「草木 第二十九」の中の複数の条。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年有朋堂書店刊の同書で、熊楠の言った順に示すと(標題は所持する「新潮日本古典集成」のそれを使用し、検索の便とした)、「菖蒲合せ」は、正確には「菖蒲(あやめ)の根合(ねあは)せ」で根っこの長さを競うもので(私はちょっと失笑した)、「永承六年五月、内裏にして菖蒲根合せの事」(ここの左ページ八行目以降)、「花合せ」は「序」の後にある巻頭の「延喜十三(一九一三)年十月、新菊花合せの事」に始まり、「天暦七(九五三)年十月、殿上残菊合せの事」、及び、「長治二(一一〇五)年後(のちの)二月(閏二月)、殿上花合せの事」や、「順徳院の時(一二一〇年~一二二一年)、内裏花合せに非蔵人孝道大きなる桜の枝を奉る事」(右ページ五行目の「同御時内裏にて花合せありけり」以下。「孝道」はそこに出る孝時の実父)などがあり、「前栽」(せんざい)「合せ」(「前栽」は草木を植え込んだ庭で、寝殿造では正殿の前庭を指し、「前栽合せ」はその実際の樹や花、或いは、それらを読み込んだ和歌の優劣を競うもの)は、「天禄三(九七二)年八月、規子内親王野宮に前栽をゑて管弦の事」(個人的には、この話、ヴィジュアルに楽しく好きである)の他、「嘉保二(一〇九五)年八月、白河上皇鳥羽殿にして前栽合せの事」(これはしかし、洲浜である)などがある。
「小戯」「こあそび」と訓じておく。
「共進會」(きようしんくわい)近代語。産業の振興を図るために産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会。明治初年代より各地で盛んに開催された。「競進會」とも書く。
「雜ゆる」「まぢゆる」。
「寄た後」「よせたあと」。
「彼山」「かのやま」。
「日高郡龍神村」ここ。
「猴」「さる」。
「迚」「とて」。
「本と」「もと」。
「自瀆」初出及び「選集」では総て「手淫」となっている。
「牝猴」「めすざる」。
「不淨期」生理期間。但し、猿の♀の発情期は思う以上に短く、メンスでなくても♂を近づけず、強力に歯向かう時期さえある。
「言出た」「いひだした」。
「壯歲」壮年に同じ。
「サーカスに從ひたりき」アメリカ放浪時代の一八九一(明治二四)年の五月以降一年半に亙って、彼は、フロリダ州ジャクソンヴィルから、九月にはキューバのハヴァナへ渡り、翌年一月には、再びジャクソンヴィル市に移っている(ジャクソンヴィルでは中国人江聖聡が経営する八百屋に住み込みで雇われ厄介になっている)。多様な生物調査の中で新発見の緑藻や地衣類を発見する一方、事実、ハヴァナではサーカスの書記係で糊口を凌いでいたらしい。
「神異經」中国の古代神話に基づく「山海經」(せんがいきょう)に構成を倣った幻想地誌。著者は漢の武帝の側近東方朔とする説があるが、現在は後世の仮託とされている。
「𧳜」(しう)「と云ふ大猴」(おほざる)私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「玃(やまこ)」の本文にも出る。私の注も参照されたい。なお、ユニコード以前の電子化であったので、「𧳜」他が表示出来なかったことから、ここでは正規表現に直す。
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やまこ 玃父 猳玃(かくわく)
玃【音、却(きやく)。】
【和名、夜麻古。】
キヤ
「本綱」に、『玃は老猴なり。猴に似て、大きく、色、蒼黑。能く人行(じんかう)して、善く人・物を攫持(かくじ)し、又、善く顧盼(こへん/こはん)す。純牡(じゆんぼ)にして牝(めす)無し。善く人の婦女を攝し、偶を爲して、子を生む。』と。
𧳜(しう)は、「神異經」に云はく、『西方、獸有り。𧳜と名づく。大いさ、驢(ろば)のごとく、狀(かた)ち、猴のごとし。善く木に縁(よ)る。純牝(じゆんひん)にして、牡(をす)無し。要路に群居し、男子を執り、之れと合(がふ)して孕む。此れも亦、玃の類にして、牝牡(ひんぽ)相反する者なり。』と。
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「猴の經立」(ふつたち)「は能く人に似て女色を好み里の婦人を盜み去る事多しと佐々木君の話し柳田氏の遠野物語三六頁に見え」私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 四四~四九 猿の怪』を参照。但し、「遠野物語」では、それよりも前の「三六~四二 狼」に出てきている。後者の当該ウィキの引用を読まれたいが、「経立」(ふったち)は青森県(そちらでは「へぇさん」とも呼ぶ)・岩手県に伝承される妖怪或いは魔物で、生物学的な常識の範囲を遙かに越えて生き、甲を経た狼・猿・鶏・鱈といった動物が変じたものとされる変化(へんげ)を指す語である。
「De Chambre, ‘Dictionnaire Encyclopédique des Sciences Médicares,’ 2me série, tom.xiv, p.363, 1866」医師アメデェ・ドシュンブル(Amédée Dechambre 一八一二年~一八八六年)。
『二九九號一九二頁已下に予が全文を出した「山神繪詞」』初出はこの(「J-stage」のPDF)4コマ目。ブログ版では終りの、「山ざくらは、わがすむあたりの詠(ながめ)なれば、」以下。PDF一括版では20コマ目以降。読み易さから、最後のものをお勧めする。
「スヰングル氏」アメリカ合衆国の農学者・植物学者ウォルター・テニソン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)。『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照。
「白井博士」植物学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。
「有た」「あつた」。
「西牟婁郡溫川」(ぬるみがは)。現在の和歌山県田辺市中辺路町(なかへちちょう)温川(ぬるみがは)。
「弄ぶ」「もてあそぶ」。
「笄櫛」「かうがい・くし」。
「吹て」「ふきて」。
「吹ず」「ふかず」。
「吹き樣」「ふきざま」。
「成るは六かし」「なるはむつかし」。
「爾時」「このとき」。
「猴體」「さるてい」。
「人類學雜誌三十二卷二號五九頁」論考及び筆者不詳。佐々木の冒頭の前号だし、以下の熊楠のブイブイから、彼の論考らしい。私は佐々木喜善が好きだ。柳田國男に「遠野物語」を体よく剽窃され、今、又、熊楠から「俺の説の又出しじゃ!」と罵られる彼を考えると、私には、激しくやりきれない気がするのである。
「吉野の柘」(つみ)「の仙女」「柘」、則ち、「山桑」(「柘」を「やまぐは」とも読む)の変じた仙女柘枝仙媛(つみのえのやまひめ)。「國學院大學デジタル・ミュージアム」の「万葉神事語辞典」にある辰巳正明氏の「やまひめ」の解説がネット上で最もよく纏まっている。詳しくはそちらを読まれたいが、それによれば、以下に示す「万葉集」の三首、及び、「懐風藻」に載る『吉野の詩に「美稲逢槎洲」(紀男人)、「尋問美稲津」(丹墀広成)、「美稲逢仙月」(同)のように詠まれていて、吉野の美稲(味稲)が仙人に逢ったという伝説があった』のだが、残念ながら、第一次資料としての同伝説を記したものは現在に伝わっていない(「万葉集」の第一首の後書には「柘枝傳」とあるが、中西進氏の後段社版脚注に、これは『浦島伝などと同じく奈良末期に行われた漢文伝』だが、『現存せず』とある)。以下、「万葉集」の巻第三にある仙柘枝(やまひとねのえ)の歌三首を前記中西版のものを恣意的に漢字を正字化して示す(三八五~三八七番)。
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仙柘枝(やまひとつみのえ)の歌三首
あられふる吉志美(きしみ)が岳(たけ)を險(さが)しみと草とりはなち妹(いも)が手を取る
右の一首は、或は云はく。「吉野の人、
味稻(うましね)の柘枝仙媛(つみのえ
のやまひめ)に與へし歌なり」といへり。
但し、「柘枝傳(つみのえでん)」を見る
に、この歌あることなし。
この夕(ゆふべ)柘のさ枝の流れ來(こ)ば梁(やな)は打たずて取らずかもあらむ
右の一首は、[やぶちゃん注:以下作者名は脱落。中西氏は『あるいは山部赤人か』とする。ともかくもこの三首は全く異なった作者のものであり、この時点で組歌ではないことが判然とする。
古(いにしへ)に梁打つ人の無かりせば此處にもあらまし柘の枝はも
右の一首は、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)の作。
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先のリンク先で辰巳氏は、この伝説の内容を略述され、『昔、吉野に味稲という漁師があり、川に梁を仕掛けて夕方に漁をしていると、柘(桑)の枝が流れて来て、突如、桑の枝が女性に変成し、味稲はその女性(仙媛)を手に入れたということらしい。その味稲という漁師が詠んだ歌が』第一『首目で』、この『「あられふる」の歌は』「逸文肥前国風土記」の「杵島(きしま)」の杵島山(きしまやま)の『条に、春秋に歌垣があり』、『その歌に「あられふる杵島が岳を峻しみと草採りかねて妹が手を取る」と見え、これは杵島曲』(きしまぶり)『だという。歌の内容はほぼ類同する』。(中略)『九州の杵島曲という歌曲が、歌垣の基本曲として広く流伝していたことが知られ』、漢詩集「懐風藻」(天平勝宝三(七五一)年成立)には『吉野の詩に「美稲逢槎洲」(紀男人)、「尋問美稲津」(丹墀広成)、「美稲逢仙月」(同)のように詠まれていて、吉野の美稲(味稲)が仙人に逢ったという伝説があったことが知られる』とあり、また、辰巳氏は、かなり古くに中国の仙女譚が流入して形成されたものと述べておられれる。
「歌に詠まれた山姬」例えば、「古今和歌集」(成立は延喜五(九〇五)年以降)の「巻第十七 雑歌上」の伊勢の一首(九二六番)、
裁ち縫はぬ衣着(きぬき)し人もなきものをなに山姬の布(ぬの)さらすらむ
曾根好忠(生没年未詳。延長(九二三~九三一)初年頃の出生か)の「曾丹集」(そたんしゅう)(七九番)の、
山姬の染めてはさほす衣かと見るまでにほふいはつつじかな
「後撰和歌集」(天暦九(九五五)年から天徳二(九五八)年の間に成立)の「巻第七 秋下」のよみ人知らずの(四一九番)、
わたつみの神にたむくる山姬の幣(ぬさ)をぞ人は紅葉(もみぢ)といひける
「千載和歌集」(文治四(一一八八)年、後白河院上覧)の「巻第五 秋歌下」の左京大夫顕輔の一首、
歌合し侍りける時、紅葉の歌とてよめる
山姬に千重(ちへ)のにしきをたむけてもちるもみぢ葉をいかでとゞめん
など。「新編国歌大観」では「山姫」は二百十首、「やまひめ」の表記では三十七首を数える。
「女形」「ぢよけい」。
「山婆」「やまんば」。
「本と」「もと」。
「同誌二九九號一九二頁」は『山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』初出の当該ページ(PDF・4コマ目)を指す。]
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