「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」
[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年一月発行の『鄕土硏究』第二巻第十一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部の誤記を訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
太字は底本では傍点「○」である。
「法苑珠林」の巻数は「卷九二」とあるが(「選集」も同じ。そのままにしておいた)、これは誤りで、巻第七十五が正しい。「十惡篇第八十四之三」の「邪婬部第六此別三部」の「感應緣【略引十二驗】」の中の「宋時弘農人感得冥婚怪」である。「漢籍リポジトリ」のこちらを用いて本文を校訂した。また、底本の訓点には不全な箇所が有意にあるため、それも独自に補正した。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。然し乍ら、訓点附き漢文が長々とあり、横書では甚だ読み難いため、本篇は特異的に後で縦書PDF版を成形して別に公開することとした。暫くお待ちあれ。]
河 童 の 藥 方
此例夥しく柳田氏の山島民譚集の六頁已下に出居る。甲子夜話六五に、「訓蒙圖彙に、河太郞水中に在る時は小兒の如くにして、長さ金尺八寸より一尺二寸有り。本草網目云、水虎河伯」と。予は本草網目に水虎と河伯と一物として居るか否かを記臆せぬが、兎に角カツパを河伯の訛りとした說が古く有つたらしい。夜話續篇三五に、河伯の假面を圖し、日本紀や神名帳和名類聚鈔蜻蛉日記等を引き、本邦に古く河伯(和名加汲乃賀美)の崇拜あった由述べおる。蜻蛉日記に「はらからの陸奧守にて下るを、長雨しける頃、其下る日晴たりければ、かの國にかはくと云ふ神有りとて歌に云々」と序べて、かはく(河伯)を乾くの意に通はせた歌を出せるを見ると、其名を音讀して呼んだらしい。カツパは川童[やぶちゃん注:読みは「選集」を参考にするなら、「かはわつぱ」。]を縮めて成つた名か、其より早く河伯と云たのを後にカツパと訛たかは一寸分らぬが、カツパの俗說に支那の河伯の譚が多少混じ居る證據らしいのを見出だした故書付くる。法苑珠林卷九二に、搜神記を引て云く、宋ノ時弘農ノ華陰潼鄕陽首里ノ人也。服シテ二八石ヲ一得テ二水道仙ヲ一、爲ル二河伯ト一。幽明錄ニ曰ク、餘杭縣ノ南ニ有リ二上湘一、湘ノ中央ニ作ルㇾ塘ヲ。有リ二一人一、乘リテㇾ馬ニ看ル。戲レニ將ヰテ二三四人ヲ一、至リ二岑村ニ一飮ムㇾ酒ヲ。小シク醉ヒテ暮ニ還ル。時ニ炎熱ス。因テ下テㇾ馬入リ二水中ニ一枕乄ㇾ石ニ眠ル。馬斷ツテ走リ歸ル。從フモノ又悉ク追フㇾ馬ヲ。至リテモㇾ暮ニ不ㇾ反ラ。眠覺ムルニ日已ニ向ハントスㇾ晡ニ。不ㇾ見二人馬ヲ一。見ル二一婦ノ來タルヲ一。年可リ二十六七一、云ク二女郞再拜シテ一、日既ニ向ハントスㇾ暮ニ。此ノ間、大イニ可シㇾ畏ル。君作スト二何ノ計ヲカ一。問ヒテ女郎ノ姓ハ何ゾヤ。那ゾ得ント二忽チ相問スルヲ一。復タ有リ二一ノ年少ノモノ一、年可リ二十三四一、甚ダ了了ト乄乘レリ二新シキ車ニ一。車後ヨリ二十人至ル。呼ビテ上ゲテㇾ車ニ云ク、大人暫ク欲ス二相ヒ見エント一。因リテ迴乄ㇾ車ヲ而去ル。道中ノ路駱驛トシテ、把火アリ、尋ネ二城郭邑ヲ一、車、至ルニ便チ入リㇾ城ニ、進ム二廳事ニ一。上ニ有リ二信幡一。題ヲ云フ二河伯ノ信ト一。見ル二一人ヲ一年三十許リ、顏容如シㇾ畫クガ。侍衞繁多ニシテ、相ヒ對シテ欣然タリ。勅乄行ヒテ二酒炙ヲ一云ク、僕有リ二小女一乃チ聰明タリ。欲ス三以テ給セント二君ガ箕帚ニ一。此ノ人知リテㇾ神ト、敬畏乄不二敢ヘテ詎逆セ一。便チ勅乄備サニ辦乄令メㇾ就カ二郞中ノ婚ニ一。承リテ白ス二已ニ辨ヘタリト一。送ル二絲布ノ單衣及ビ紗ノ袷・絹ノ裙・紗ノ衫・褌・履屐ヲ一。皆精好ナリ。又給ス二十小吏・靑衣數十人ヲ一。婦年可リ二十八九一、姿容婉媚ナリ。便チ成リヌ。三日ノ後チ大イニ會シㇾ客ヲ拜スㇾ閤ヲ。四日ニシテ云ク、禮既ニ有リㇾ限リ。當ニべシ二發遣シ去ル一。婦以テ二金甌ト麝香ノ囊ヲ一與ヘテㇾ婿ニ別泣洟乄而分ル。又與ヘテ二錢十萬・藥方三卷ヲ一云ク、可シト二以テ施シㇾ功ヲ布ク一ㇾ德ヲ。復タ云ク、十年ニ乄當ニベシト二相ヒ迎フ一。此ノ人歸リテㇾ家ニ、遂ニ不二肯ヘテ別ニ婚セ一、辭シテㇾ親ヲ出家乄作ル二道人ト一。所ノㇾ得ル三卷方者、一卷ハ脈經、一卷ハ湯方、一卷ハ丸方ナリ。周ク行ヒテ救療スルニ皆致ス二神驗ヲ一。後ニ母老邁シテ兄喪ス。因リテ還リテ婚シテ宦ス。龍樹大士が大乘經典を龍に獲、孫思邈が千金方の要素を涇陽の水府に得た樣な譚だ。右の文に據ると、司馬晋の頃は特殊の人が死して河伯となり得ると信じたらしく、此點は日本のカツパと違ふが、河伯の女が人と婚し得ると信じたのは、カツパが人間の婦女を犯す事有りと言うに近く、又藥方を傳ふる一件は河伯、カツパ相同じ。最も搜神記の河伯と異なり、日本のカツパは口や作例で傳へたのみで、書物を授けた事を聞ぬが、以前はカツパにも隨分小六かしい奴も有つたと見え、鞍馬の僧正坊の向ふを張つて兵法を人に傳へたのが有る。關八州古戰錄十四に、飯篠山城守家直入道長意は下總國香取郡の鄕士也、鹿伏刑部少輔より刺擊の法を傳授す、刑部少輔が先師は天眞正とて海中に住する河童といふ獸也、然れども、流義に於てはその名實を顯はさず、香取大明神の應身より傳授せりと詢へ來ると云へり云々。序に云ふ、四十年ばかり前迄は和歌山市で河童をドンガスと言ふ、カツパと云へば分らぬ人多かつた。亡母言く、大阪から下る人は此物を河太郞、江戶より移つて來た士族はカツパと呼ぶと。ドンガスは泥龜を訛つたのか。
(大正四年一月鄕硏第二卷第十一號)
[やぶちゃん注:「此例夥しく柳田氏の山島民譚集の六頁已下に出居る」正確には原本本文の「五頁」以降と言うべきと思う。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」では、
『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(2) 「非類靈藥ヲ知ル」』に始まり、
まで続く。
『甲子夜話六五に、「訓蒙圖彙に、河太郞水中に在る時は小兒の如くにして、長さ金尺八寸より一尺二寸有り。本草網目云、水虎河伯」と』事前にここで電子化注しておいたので、そちらを読まれたい。
「予は本草網目に水虎と河伯と一物として居るか否かを記臆せぬ」そちらで指摘した通り、「本草綱目」には「水虎」は立項されてあるが、「河伯」はなく、「水虎」を「河伯」とする記載自体もない。
「話續篇三五に、河伯の假面を圖し、日本紀や神名帳和名類聚鈔蜻蛉日記等を引き、本邦に古く河伯(和名加汲乃賀美』(かはのかみ)『)の崇拜あった由述べおる。蜻蛉日記に「はらからの陸奧守にて下るを、長雨しける頃、其下る日晴たりければ、かの國にかはくと云ふ神有りとて歌に云々」と序べて、かはく(河伯)を乾くの意に通はせた歌を出せるを見ると、其名を音讀して呼んだらしい」これも事前にここで電子化注しておいたので、そちらを読まれたい。
「法苑珠林卷九二」(冒頭注で述べた通り「卷七五」の誤り)「に、搜神記を引て云く、……」訓読する。
*
宋の時、弘農(こうのう)[やぶちゃん注:現在の河南省西部に位置する三門峡市・南陽市西部及び陝西省商洛市附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の馮夷(ふうい)は、華陰の潼鄕(とうきやう)陽首里(やうしゆり)の人なり。八石(はつこく)を服(ぶく)し、水道仙(すいだうせん)を得て、河伯となる。」と。[やぶちゃん注:八十斗もの丹薬を服用して、水界で仙人となる術を会得し、遂に水神河伯となった。]
「幽明錄」に曰はく、
『餘杭(よかう)縣[やぶちゃん注:浙江省余杭区。]の南に上湘(じやうしやう)あり、中央に塘(つつみ)を作る。
一人有り、馬に乘りて、看る。戲れに三、四人を將(ひき)ゐて岑村(しんそん)[やぶちゃん注:ここに現存する。この北にある堤が貫通する湖が上湘湖っぽい。]に至り、酒を飮む。少しく醉(ゑ)ひて、暮れに還らんとす。時に炎熱す。因りて馬より下(お)り、水中に入りて、石に枕して、眠る。馬、斷(なはた)ちて[やぶちゃん注:手綱を切って。]、走り歸る。從ふもの、又、悉(ことごと)く馬を追ふ。暮れに至りても、反(かへ)らず。眠覺(めざ)むるに、日、既に晡(ひぐれ)に向はんとす。人馬を見ず。
一婦の來たるを見る。年十六、七許(ばか)りにして、女郞(ぢやらう)、再拜して云はく、
「日、既に暮れに向かはんとす、この間(あたり)、大いに畏るべし。君、何の計(けい)をか作(な)す。」
と。
問ひて、
「女郞の姓は何ぞや。那(なん)ぞ、忽ち、相聞(さうもん)するを得ん。」
と。[やぶちゃん注:婦人が男子にぶしつけに声を掛けたことを咎めたものであろう。]
復(ま)た、一(ひとり)の年少のものあり、年十三、四計り、甚だ了々として[やぶちゃん注:見るからに明晰な感じのする人物で、]、新しき車に乘れり。
車の後(あと)より、二十人、至る。
呼びて、車に上(あ)げて云はく、
「大人(だいじん)、暫く、相ひ見(まみ)えんと欲す。」
と。
因りて、車を迴(めぐ)らして去る。
道中の路(みち)、駱驛(らくえき)として[やぶちゃん注:人馬の往来などが絶え間なく続くさま。繁華な感じで。]、把火(たいまつ)あり[やぶちゃん注:つぎつぎと松明が点灯するのであろう。異界へのエントランスである。]。
城郭・邑(むら)を尋ね、至るに、便(すなは)ち、城に入り、廳事(ちやうじ)[やぶちゃん注:役所。]に進む。
上に信幡(しんぱん)[やぶちゃん注:官職名を印した旗。]有り。題して「河伯」と云ふ。
一人を見る、年三十許り、顏容、畫(ゑが)くがごとし。
侍衞、繁多にして、相ひ對して、欣然たり。
勅して酒炙(しゆしや)を行ひて[やぶちゃん注:酒肴を勧めて。]、云はく、
「僕、少女、有り。乃(すなは)ち聰明たり。以つて、君が箕箒(きしう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「きしゅう」。妻となって仕えることを言う。元は塵取りと箒で妻の謙称。]に給(きふ)せんと欲す。」
と。
此の人、
『神なり。』
と知りて敬畏して、敢へて詎逆(きよぎやく)[やぶちゃん注:逆らって反問すること。]せず。
便ち、勅して、備(つぶ)さに辨(したく)して、郞中の婚に就かしめ[やぶちゃん注:この男の婚礼の仕度を部下に命じると。]、承りて、
「已に辨(ととの)へたり。」
と白(まを)す。
絲布(しふ)[やぶちゃん注:絹。]の單衣(ひとへ)、及び、紗(しや)の袷(あはせ)、絹の裙(くん)[やぶちゃん注:ズボン。]、紗の衫(さん)[やぶちゃん注:上半身の下着。]、褌(こん)[やぶちゃん注:下半身の下着。]、履屐(りげき)[やぶちゃん注:履き物。]を送る。皆、精好なり。
又、十の小吏[やぶちゃん注:家来。]、靑衣[やぶちゃん注:侍女。]數十人を給す。
婦(つま)は年十八、九可(ばか)り、姿容、婉媚なり。
便ち、成りぬ。
三日の後(のち)、大いに、客を會(くわい)し、閤(こう)を拜す[やぶちゃん注:婿入りの披露がされた。]。
四日にして曰はく、
「禮、既に限り有り。當に發-遣(おく)り去るべし。」
と。
婦、金甌(きんおう)[やぶちゃん注:黄金の盆。]と麝香(じやかう)の囊(ふくろ)を以つて婿に與へ、涕泣して分(わ)かる。
又、錢十萬、藥方(やくはう)三卷を與へて云はく、
「以つて、功を施し、德を布(し)くべし。」
と。復た、云はく、
「十年にして當に相ひ迎ふべし。」
と。
此の人、家に歸りて、遂に肯(あ)へて別に婚せず、親を辭し、出家して、道人(だうじん)となる。
得る所の三卷の方は、一卷は「脈經(みやくけい)」、一卷は「湯方(たうはう)」[やぶちゃん注:煎じ薬の処方。]、一卷は「丸方(ぐわんはう)」なり。
周(あまね)く行ひて救療するに、皆、神驗を致す。
後に、母、老邁
(らうまい)となり、兄、喪(さう)す。因りて、還りて婚して宦(くわん)せり。』と。[やぶちゃん注:最後は母が年老いた上、家を継ぐべき兄が亡くなったので、実家に帰り、妻を貰い、役人にもなった、という中国の小説の御約束の文末である。十年後に河伯の後継ぎとして迎えるという話はどうなったかと訝る無かれ。異界の時間は人間界とは異なり、遙かに長い。ずっと後に主人公の男は仙化して、懐かしい河伯の娘の所へ還って行くのである。]
*
この「幽明錄」は「世説新語」の撰者として知られる劉義慶(四〇三年~四四四年:南朝宋の皇族で臨川康王。武帝劉裕は彼の伯父)の志怪小説集。散逸したが、後代のかなりの諸本の採録によって残った。なお、引用元の「搜神記」は六朝時代、四世紀の晋の干宝(?~三三六年)の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る。「幽明録」と比較したが、殆んど忠実に引いてある。なお、頭の短い話は、確かに「搜神記」の以上の話の直前に置かれてあるのと似た話なのであるが(但し、そこでは馮夷は八月上庚の日に黄河を渡ろうとして溺れ死に、それを見た天帝は彼を河伯に任命した云々という話になっている)、「宋」というのは六朝時代の南朝の最初の王朝である宋(四二〇年~四七八年)だが、これは著者干宝の百年近く後の時代であるから、後人によって混入されたものであり、史料的価値ががっくり下がることに注意されたい。
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「龍樹大士」龍樹は二世紀に生まれたインド仏教の僧。サンスクリットの「ナーガールジュナ」の漢訳名。当該ウィキによれば、『天性の才能に恵まれていた龍樹は』、『その学識をもって有名となった。龍樹は才能豊かな』三『人の友人を持っていたが、ある日』、『互いに相談し』、『学問の誉れは既に得たから』、『これからは快楽に尽くそうと決めた。彼らは術師から隠身の秘術を得、それを用い』、『後宮にしばしば入り込んだ』。百『日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた。この事態に驚愕した王臣たちは対策を練り』、『砂を門に撒き、その足跡を頼りに彼らを追った衛士により』三『人の友人は切り殺されてしまった。しかし、王の影に身を潜めた龍樹だけは惨殺を免れ、その時、愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、もし宮廷から逃走することができたならば』、『出家しようと決心した』。『事実、逃走に成功した龍樹は山上の塔を訪ね受戒出家した。小乗の仏典をわずか』九十『日で読破した龍樹は、更なる経典を求め』、『ヒマラヤ山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた。これを学んだ後、彼はインド中を遍歴し、仏教・非仏教の者達と対論し』、『これを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないところがあるから』、『仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えた』。『しかしマハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の龍宮に連れて行って』、『諸々の大乗仏典を授けた。龍樹は』九十『日かけて』、『これを読破し、深い意味を悟った』とある。
「獲」「え」。
「孫思邈」(そんしばく 五八一年或いは六〇一年~六八二年)は隋から唐にかけての医家。孫真人(そんしんじん)とも称される。七歳の時から学問を始め、二十歳頃には、老子・荘子や百家の説を論じ、合せて仏典も好んだ。陰陽・推歩(天文・暦算)・医薬に精通していた。太白山に隠居し、隋の文帝や唐の太宗・高宗が高位を約して招いたが、受けなかった。著書「備急千金要方」(ここに出る「千金方」に同じ)の自序に、「幼時に風冷にあい、たびたび医者にかかり、家産を使い果たした。ゆえに学生のときから老年に至るまで医書を尊び親しんでいる。診察・薬方などを有識者に学び、身辺の人や自身の疾病を治すようになった。薬方や本草を学ぶのはよいが、薬方書は非常に多く、緊急時に間に合わない。そこで、多くの経方書から集めて簡易につくったものがこの三十巻である。人命は貴く、千金の価値がある」と書いている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。さて、サイト「道院 日本総院」の彼の記載によれば、『ある日、牧童に傷つけられ』、『血を流す小蛇を見つけ』、孫『真人は衣を脱ぎ、小蛇を救った。その後、十日ほど外出した時のこと、白衣の一少年が下馬し』、『孫真人に拝謝し、「我が弟を道者(孫真人)が蒙し(傷を覆い)、救われました。家に招待いたします。我が馬を使い、皆で早く行きましょう」と述べる。そして城郭につくと、王の住まいの如くであった。絳(深紅)衣を着た人が出迎え、謝して曰く「あなたの手当てに深く感謝します。故に息子を迎えに行かせました」と。一人の青衣の子供を指して曰く「あなたが救った子です。牧にて傷を作り、それにより衣を脱ぐことで、贖い救われ、不死を得るのです」と述べ、青い衣の子に拝謝をさせた。真人は初めて今回のことを悟った。周りを窺うと、涇陽の水府(水神や龍神の宮殿)にいることを知り、三日』、『居した。絳衣』(こうい:深紅の衣服)『の王が軽綃(絹)、金珠を真人に送るが』、『受け取ることはなかった。乃ち』、『その子に命じ、龍宮の奇方(奇なる漢方)三十首を送り、「是を以て、道者(孫真人)は世と人を救うことができる」と。真人は帰り、たびたびこれを試すと』、『皆』、『効があった。のちに著作「千金方」』にその処方が記されてある旨の記載がある。
「司馬晋」この場合は、先の「幽明録」の作者の生没年から、東晋(三一七年~四二〇年)を指しているようである。東晋は司馬炎が建国した西晋王朝(二六五年~三一六年)が劉淵の漢(後の前趙)より滅ぼされた後、西晋の皇族であった司馬睿(えい)によって江南に建てられた。
「藥方を傳ふる一件は河伯、カツパ相同じ」私は河伯≠河童説に立つが、う~ん、こういわれると、確かにその辺りは似てはいるなぁ。……
「鞍馬の僧正坊」牛若丸に剣術を教えたという伝説で知られる鞍馬山の奥の僧正ヶ谷に住むと伝えられる大天狗。
「關八州古戰錄」江戸時代の軍記物。享保一一(一七二六)年成立。全二十巻。著者は槙島昭武。参照した当該ウィキによれば、『戦国時代の関東地方における合戦や外交情勢について記されており』、天文一五(一五四六)年の「河越夜戦」から天正十八年の『後北条氏滅亡までの関東における大小の合戦を詳細に扱っている』とある。
「飯篠山城守家直入道長意」「いひざきやましろのかみいへなほにふだうながおき」。下総国香取郡飯笹村(現在の千葉県香取郡多古町(たこまち)飯笹(いいざさ))から起こった千葉氏の族で、室町中期に起こった香取神刀流始祖。
後に名乗りを「伊賀守」に改めており、入道名は飯篠長威斎(ちょういさい)。「長意」は本名で、法号はその音に漢字を当てて作ったものであろう。
「下總國香取郡」旧域は当該ウィキの地図を参照されたい。
「鹿伏刑部少輔」「かぶとぎやうぶせういう(かぶとぎょうぶしょういう)」。実際に前記の飯篠の師とする説がある。
「刺擊」「しげき」。「突き」を主体とした武術。香取神刀流は剣術・居合・柔術・棒術・槍術・薙刀術・手裏剣術等に加え、築城・風水・忍術等も伝承されている総合武術で、甲冑着用を想定した形が多く見られ、斬り突きでは、甲冑の弱点である首・脇・小手の裏などを狙う、と当該ウィキにある。
「天眞正」「選集」の表記を参考にすると、読みは「てんしんしやう」である。
「應身」「わうじん」。本来は仏語。仏が衆生を教化するために現れる身体。仏・菩薩などの人の目に見ることの可能な仏身を指す。
「詢へ」「となへ」。
「ドンガス」「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに「ドンガス」(河童絡みらしく、薬方との関係もある)がある。大阪市中央区での採取。]
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