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2022/06/11

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問答三條【乞素壓狀、地口、八分、輪池問、馬琴答。】~(3)八分 / 問答三條~了

 

[やぶちゃん注:本来の底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここからだが、これも「曲亭雜記」巻第四・下のここから所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本とし、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。下線は底本では右二十傍線である。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。]

 

ハチブサレタとはいかなる義ぞ【輪池堂問。】

答、この俗語、ふるくは聞えず、寬政のはじめより、やうやくに耳にふれしを、今は鄙俗の常談(じやうだん)となれり。按ずるに、寬政二年、はじめて江戶に義倉(ぎさう)を建(たて)させられて、これを籾藏町會所(もみくらまちくわいしよ)といふ。江戶の町々、每月町入用の雜費のうち、無用のものを省きて、七分は籾藏へ納め奉り、一分はその町々なる居付地主等(ゐつきぢぬしら)、預りおきて、町内臨時、見つもり外なる費用に充(あつ)べしとなり。これを諸町内積金(しよちようないつみきん[やぶちゃん注:「ちよう」はママ。])八分といふ。【今は七分とのみいへど、その實は八分なり。】これ、みな、町入用中、無用の雜費を省き退(の)けたるものなれば、凡、一(ひと)むれのうちにて、はぶき除(のぞか)るゝことを、八分されるといふ。八分されるとは、八分にされるなり。すベて、さとび言(こと)は、急(きう)にして、語(ご)、つまれり。故に、にもじ[やぶちゃん注:「に」の文字。]を略せし歟。さらでも忌(いむ)よしなきにあらねば、わざと、にもじを略せしかもしらず。これより轉じて、人に物を乞ふことあるに、その人、拒(こば)みて遠ざくることをも、八分されたといひ、下郞の賤妓(せんき)にふらるゝをも、八分さるゝといふ。いづれも拒み退(しりぞく)るの義にて、彼雜費中の八分を省(はぶ)き退(の)けしより、出たることなるべし。寬政中、小人の小うたに、八分されてもつき出されても云云とうたへり。これ、八分といふことの、はやり出せしはじめなり。解云。

 再按ずるに、源氏物語に、はちふくといふこと、見えたり。卽、蜂吹(はちふく)にて、今、俗のあたまの蜂をはらふ、などいふにひとしき、むかしの俗語なるべし。しかれば、はちぶさるゝといへるには、その義たがへるに似たり。猶、考ふべし。

再考、源氏物語に、はちふくといふことあり、これならんかと思へども、古意を、今のはやり歌に、とり用ふべくもあらず、なほ考べし。[やぶちゃん注:この段は底本にないので、「新燕石十種」で補った。]

俳諧師嵐雪が歲旦の發句に、面々の蜂を拂ふや花の春、これもはちふくの意也。今、俗のはちぶさるゝといふも、蜂ふくより轉ぜしならんか。初按の八分云云は、なかなかに鑿說(けんせつ)なりき。宜しく蜂吹くの義を用ふべし。

[やぶちゃん注:驚いたのは、馬琴が「村八分」に全く言及していないことである。それは、江戸時代、確かに厳然として運命共同体として村社会に存在した制裁であったのに、である。それを馬琴が実際や知識として知らなかったというのは、私にはちょっと考え難い。「ブリタニカ国際大百科事典」の「村八分」引いておく(コンマは読点に代えた)。『村社会の秩序を維持するため、制裁として最も顕著な慣行であった絶交処分のこと。村全体として戸主ないしその家に対して行なったもので、村や組の共同決定事項に違反するとか、共有地の使用慣行や農事作業の共同労働に違反した場合に行われる。「八分」ははじく、はちるの意とも、また村での交際である冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の』十『種のうち、火事、葬を除く』八『種に関する交際を絶つからともいわれ、その家に対して扶助を行わないことを決めたり、村の共有財産の使用や村寄合への出席を停止したりする。八分を受けると、共同生活体としての村での生活は不自由になるため、元どおり交際してもらう挨拶が行われるが、これを「わびを入れる」という。農業経営の近代化に伴い、各戸が一応』、『独立的に生計が立てられるようになってからは、あまり行われなくなった』。私は何か心理的なトラウマか、何らかの個人的な理由から、馬琴は敢えて「村八分」の言及を避けたとしか私には思われない。不審である。

「寬政のはじめ」寛政は十三年まで(一七八九年~一八〇一年)。

「義倉(ぎさう)」中国で凶作の際、農民に食料と種子を支給するための貯蔵倉。社倉とも呼ばれた。隋の五八五年に二十五戸よりなる社に設けられ、社司(村役人)の管理のもとに、貧富の程度によって粟麦(ぞくばく)を納めさせたのが始まりらしい。隋末には衰え、唐はこれに倣ったが、地方官吏が財政不足に流用、「安史の乱」に至って廃れた。憲宗の時には復活が試みられている。宋は両税法により、税額一石につき一斗を課し、凶作のとき、種や食を給し、次いで貸付も行った。しかし、商業化の発展に伴い、都市及び近傍の人民への貸付が多くなり、北宋では置廃を繰り返した。遼や元も配置したが名のみで、金は置かず、明は社倉のみ配した。清は初期から置き、公選の有力者や商人に運営させ、民間の寄付その他によったが、「太平天国の乱」で廃れ、復活が試みられたものの、実効は上がらなかった。本邦では律令制下の各戸を貧富の差によって九等に分け、その等級に応じて一定額の粟(稲・麦・豆も可)を納めさせ、保管運用する制度が古くにあった。本来は、凶作に備えて食糧を貯蓄し、必要に応じて困窮者に給付するものであったが、実際には毎年賦課される付加税に変質した。奈良時代の農村で納税者の中核となるべき富裕者はごく少数で、大多数は救貧の対象となる貧窮者によって成り立っており、たとえば、現存する天平勝宝二(七五〇)年の安房国義倉帳によると、公規定の九等の基準にすら該当しない等外戸が全体の約八十%を占めているという有様で、そのため、義倉の収支は常に大幅な赤字とならざるを得ず、平安時代になると、ついに廃絶した。この制度は、江戸時代になって、再び、幕府や諸藩の備荒貯蓄として採用され、社倉・常平倉とともに三倉の一つとして復活していた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「籾藏町會所」「寛政の改革」の際、老中松平定信により完成四(一七九二)年に「江戸町会所」が設けられた。これは常設の窮民救済・備荒貯蓄・金融機関であり、具体的には「囲籾(かこいもみ)」・七分積金及び米・銭の給付や、土地家屋抵当の低利貸付などを行う事務所を「町会所」と称した。建物は浅草向柳原(むこうやなぎわら)に設けた籾蔵(もみぐら)の構内につくられた(これが「籾蔵町会所」という別称となった)。職員としては座人(ざにん・地主五人)・座人手付(ざにんてつき:家主六人。「座人」の下で働く)・用達(ようたし:十人。勘定所用達商人で金銭の出納を担当)・用達手代・肝煎(きもいり)名主(六人。積金の受理や町々への通達を担当)で、勘定奉行所と町奉行所の両町会所掛が監督した。囲籾は、始終。新米と古米とを詰め替え、町方推定人口五十万の三十日分を目標に貯蔵したことから、籾蔵は深川大橋向、神田筋違橋(すじかいばし)内、小菅(こすげ)村にも増設している。窮民への米・銭の交付は、名主の承認を得て、家主が申請して窮民に与えられた。大きな火災や水害などの折りは、「御救小屋(おすくいごや)」が建てられ罹災民を収容した。同所は明治五(一八七二)年に廃止されたが、それまで積み立てられていた多額の資金は、養育院の設立を始めとする社会救済事業や、道路・橋梁の営繕事業などに幅広く活用された(同前に拠った)。

「源氏物語に、はちふくといふこと、見えたり」馬琴に言う通り、「蜂吹」(はちふく/はちぶく)で、動詞。「ふくれ面をする・口をとがらせて抗弁する・不平をいう」の意である。「源氏物語」の「松風」の帖に、

   *

髭(ひげ)がちに、つなしにくき顏を、鼻など、うち赤めつつ、はちぶき言へば、

   *

と出る。前後は「源氏物語の世界 再編集版」のこちらの、ガイド・ナンバー「1.2.8」を参照されたい。同前の「若菜 下」の柏木と女三の宮の密通の章にも出る。こちらの「7.2.17」である。「蜂吹く」の語源は探し得なかったが、蜂が飛ぶ音を口を尖らして吹くブーという音にアナマトペイアしたものか、或いは、蜂が近くに飛んで来たのを嫌って「フーッツ!」と息を吹き出して追い払う仕草があったものか。識者の御教授を乞うものである。しかし、馬琴の「八分される」の語源を「蜂吹く」とするのは、これはちと、博覧強記の店開き、牽強付会の謗りを免れない気がする。

「嵐雪が歲旦の發句に、面々の蜂を拂ふや花の春」「面々の蜂を払ふ」は故事成句で、「他人のことをあれこれという前に、まず自分の欠点を反省しなければいけない。他人のことをかまうより自分を省みよ」という戒めである。松尾芭蕉の高弟服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:芭蕉はその才能を高く評価し、元禄五(一六九二)年三月三日の桃の節句に「草庵に桃櫻あり、門人に其角嵐雪あり」と讃えたが、「奥の細道」の際に嵐雪は送別吟を贈っておらず、晩年は関係が疎遠となっていた)の元禄一二(一六九九)年の「皮籠摺(かはこずれ)」(岩田涼莵編・其角序)の春の部で、冒頭に「蓬萊にきかばや伊勢の初便」という芭蕉の句の次に、

   *

 面々の蜂をはらふや花の春

   *

とある。

「初按の八分云云」籾蔵会所の町内積立金八分説を指す。]

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