「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「猫を殺すと告て盜品を取戾す事」
[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年三月発行の『人類學雜誌』三十巻第三号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
猫を殺すと告て盜品を取戾す事 (人類三〇卷一號二四頁)
朝鮮に此事行はるとは予には初耳だがトランスカウカシアのオツセテ人も然する。竊盜に遇ふと方士に贈物して俱に心當りの家に赴き、方士一猫を擁へて、「汝此人の物を盜んで返さずば汝の祖先の魂此猫に苦しめらるゝぞ」と詛ふ。すると其家の人果して盜み居らば懼れて盜品を屹度返す。又盜人は誰と心當り無くば、家每に斯く行ひ廻れば、迚も遁れぬ所と盜人進で罪を自白する。オツセテ人は猫犬驢を怪畜とし、他人に困められて不平を訴へんとする者前方の祖先の墓上に猫か犬か驢を一疋殺し、彼の祖先某々の爲に殺すと喚はる。其上前方が何とか方付けずに置けば、名ざゝれた祖先共の魂が殺されたと同種の畜と成る。是れ子孫に取て大不祥なれば、斯くして祖先を詛はれた者急ぎ來たって損害を償ひ和平を求むると云ふ(Haxthausen, ‘Transcaucasia,’ Enng. trans., 1854, pp.398-399)。こんな譯か一五六六年に初て出版の Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ tom.i に、猫は裁判の識標故、イーヴ尊者(狀師の守護尊)の像に猫を伴ふと有る。 (大正四年三月人類第三〇卷)
[やぶちゃん注:「選集」では添え辞は改行下方インデントで二行で、『中島「朝鮮旧慣調査」参照』『(『人類學雜誌』三〇巻一号二四頁)』とある。ここに示された中島某の論考は「j-stage」のこちらで原本が見られる(PDF)。正しくは「朝鮮舊慣調査(五)」で、筆者は『中島生』とする(事績不詳)。その当該ページ、PDFの3コマ目を見られたい。
「トランスカウカシア」「南コーカサス」の英語。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「オセツテ人」オセット人(Осетин/Osetin)。カフカース地方(南コーカサスが含まれる)の山岳地帯に住むイラン系民族で、主な居住地域はカフカース山脈を跨いで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国及びジョージアの南オセチア自治州に分かれている。現在の総人口は凡そ六十万人。「オセチア人」とも呼ばれる。参考にした当該ウィキには、歴史や遺伝学的考察が載るので参照されたい。
「然する」「しかする」。
「竊盜」「せつたう」。「窃盗」に同じ。
「方士」呪術師。シャーマン。
「擁へて」「かかへて」。
「詛ふ」「のろふ」。
「進で」「すすんで」。
「驢」「ろば」。
「困められて」「くるしめられて」。
「前方」「せんぱう」。先方。
「某々」「なにがしかがし」と訓じておく。
「喚はる」「よばはる」。
「方付けず」「かたづけず」。
「取て」「とりて」。
「Haxthausen, ‘Transcaucasia,’ Enng. trans., 1854, pp.398-399」ドイツの農学者・弁護士で作家のアウグスト・フォン・ハクストハウゼン(August Franz Haxthausen 一七九二年~一八六六年)。彼は一八四三年に六ヶ月間に亙ってロシアを旅した。ノヴゴロド・カザン・コーカサス・キーウを経てモスクワに至っている。翌年の春にドイツに戻って、印象を書き留めており、その体験の一部が後にこれとなったもののようである。「Internet archive」のこちらで英訳である当該原本がここから読める。
「初て」「はじめて」。
「一五六六年」「出版の Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ tom.i」作者は、フランスの古典学者・印刷業者アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:ラテン語名ヘンリクス・ステファヌスHenricus Stephanusでも知られ、特に一五七八年に出版した『プラトン全集』は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている)。ここに出るのは彼の著作中、最も知られるもので、正式には‘ Introduction au Traité de la conformité des merveilles anciennes avec les modernes, ou Traité préparatif à l'apologie pour Hérodote ’(「古代及び現代の驚異の一致に関する序論、又は、ヘロドトスの弁護のための詩論」)。
「イーヴ尊者(狀師の守護尊)」「狀師」は他人の訴訟の代理を仕事とする代言人・弁護士のこと。「イーヴ尊者」はブルターニュ出身のフランシスコ会士イーヴ・エロリー・ド・カーマルタンYves Hélory de Kermartin 一二五三年~一三〇三年)で、死後に聖人に列し、ブルターニュ及び弁護士の守護聖人として知られる。フランス語の幾つかのフレーズ組み合わせで画像検索かけたが、猫を伴う彼の聖人像は残念ながら見出せなかった。]
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